では上田合戦回です。犬伏で父と弟を豊臣(石田)に付かせ、自らは徳川に残った信幸ですが、それでも舅の本多忠勝などを除けば、徳川譜代の家臣の視点は冷ややかなものでした。また、秀忠軍の中に信幸がいると知り、複雑な表情を見せる昌幸を見て、信繫はある策を講じます。
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昌幸と信繁は犬伏を発って上田へ向かう。信幸が一人留まることに家臣たちは驚くが、矢沢三十郎や堀田作兵衛は兵を率いて後に続く。家康は犬伏から5里ほど東の小山に陣を敷いていたが、信幸は、上方のことが徳川に知れた後に会うことを決める。一方岩櫃城主の小山田茂誠と松は、昌幸が徳川から離反したことを知り、茂誠は上田へ向かう。一方上方で、毛利や宇喜多が軍事行動に出たことを知った家康は、陰に石田三成がいるとにらみ、会津征伐を中止して西へと向かう。
7月24日、信幸は家康の陣を訪れる。父と弟の離反、そして、自分は徳川の養女を妻に迎えている以上、徳川に仕えるのが筋と答える信幸。忠勝も信幸を庇うが、本多弥八郎正純は甘いと反論する。お前は忠義者よと信幸の手を握る家康。翌日家康は大名たちを前に軍議を開き、大坂へ向かうことにした。一方沼田近くまで戻って来た昌幸と信繁だが、そこに稲、こうと子供たちが訪ねて来る。徳川の娘である稲は、人質を恐れてこうや子供たち共々沼田に戻ったのだった。
しかし、稲は舅と義弟が石田方に付き、夫が徳川に残ったことを聞かされて「あの方らしい筋の通し方」とつぶやく。その後彼女たちは、昌幸たちを迎えるために支度をしたいと出て行くが、沼田に向かった彼らを待っていたものは、武装した稲とこう、そして矢を構えた兵たちだった。石田方についた者は、たとえ舅と義弟であっても敵という稲に、昌幸は流石は本多忠勝の娘よといい、信繫や家臣たちと共に去って行く。
7月27日、上田に戻った昌幸は、徳川が敵に回ったことを一同に告げる。既にこの城で徳川と対戦している以上、同じ策を使うことはできず、しかも目下の敵である秀忠軍には、信幸もいた。また三成から、信濃の一部を好きなだけ切り取っていいという書状をもらい、ならばと甲斐信濃二国の切り取りを求める。真田が徳川に歯止めをかけている現状から、刑部の意見を入れてそれを許す三成。そして信幸は、上田攻めの先鋒を命じられていた。
会津では、上杉景勝が秀忠を討ちたいものよと言うものの、直江兼続に窘められる。実際会津は徳川よりも、最上や伊達といった目前の敵をどうするかが肝心であった。そして秀忠の陣では、第一次上田合戦を知る本多正信が、先回りをして神川の堰を壊してしまう。昌幸は降伏を申し出、これが初陣の秀忠は戸惑うが、国分寺に昌幸の名代として出向いた信幸は、徳川の家臣となった平野長泰と対面する。しかし降伏条件の内容から見て、どうも昌幸は時間稼ぎをしているように見えた。
秀忠は降伏を受け入れず、上田攻めに転じる。これはすべて昌幸の策だった。そして信繁は佐助を使って信幸に文を送り、父子が戦わずに済むよう戸石城で、一種の戦芝居をやることにする。折から信幸は、第一次合戦で戸石城からの伏兵に敗北を喫した、平岩親吉と共にいて、しかもその伏兵を指揮していたのは自分だった。信幸は自ら戸石城の守りに名乗りを上げ、この戦いの内通者を装った三十郎は、信繫から今後は兄に仕えるように命じられる。
昌幸の次の策は、茂誠を使って敵の兵糧を奪うことにあった。もし相手が刈田(敵方の作物を奪う行為)をしている場合は、作兵衛に阻止を命じた。こうして徳川の布陣を丹念につぶし、その後雨によて神川が増水したため、秀忠は退路を断たれてしまう。いよいよ秀忠の首を獲る時期が訪れたが、秀忠陣はもぬけのからとなっていた。岐阜城の陥落によって西国の緊張が高まり、父家康に合流を迫られたためだった。
昌幸は、首を獲れようが獲れなかろうが、思い切り怖がらせる、初陣で怖い思いをすると生涯戦下手になると内記に話す。西への道を急ぐも、上田城を総攻めできなかったことを悔しがる秀忠。上田城は戦勝気分で酒盛りが行われ、徳川と石田はどこでぶつかるかを皆予想し合っていた。そこへ佐助がやって来て、両軍の関ヶ原での衝突を告げる。しかしどこか屈託ありげな表情を見た信繁は、一同を静かにさせる。佐助は再び口を開き、徳川軍大勝利と告げる。
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きり不在、母上と春も登場せず、出て来た女性陣は稲、こう、そしてわずかに松という、真田家の女性のみ。しかも稲とこうは沼田城の武装姿がメインでした。上田合戦回、そして関ヶ原回にふさわしい男性的な描写の回でしたが、関ヶ原はあっという間でした。尤も真田家目線で行けば関ヶ原も、そして本能寺もこんなものでしょう。無論三成や刑部に関しては、次回で描かれることになるようです。あと金吾中納言も。しかし昌幸が秀忠を「戦下手」にしたかったのは、いずれ自分が対戦する時に備えてだったのでしょうか。
そういう男性的な回ゆえか、父、そして舅の存在が際立った回でもありました。
- 信幸をフォローする忠勝
- 信幸とは対戦したくない昌幸
- 稲の抵抗をほめる昌幸
- 真田は徳川の進軍を阻止しているから、甲斐信濃くらいくれてやれと言う刑部
- 信幸に一応は理解を見せる家康(稲の養父)
それにしても最後のシーン、まず佐助が結果を言うのを聞いてからにしましょう、真田家の皆さん。昌幸は、信幸は貧乏くじを引いたなどと言っていましたが、いや、それはあなたのことでしょと突っ込みたくなってしまったのですが…しかし次回は、父と弟が石田方に加担したことで信幸の奔走が始まり、しかも「幸」の字を捨てざるを得なくなるようです。