『風林火山』、中盤に入ると、板垣と甘利の2人の家臣が相次いで戦死します。その一方で山本勘助が、鉄砲の買い付けのため、駿河の港を使わせてほしいと今川氏に直談判するところがあります。さらに、届いた鉄砲を試射もしています。
花燃ゆ番外編53-群馬の役割と鉄砲についてでも触れていますが、勘助が試射をしているこのシーンは、『八重の桜』で、八重が試射をしているのと何かだぶってしまいます。時代を問わず、より性能のいい兵器を試したいという一念のようなものが、そこには感じられます。
この時の勘助は、今後は鉄砲を採り入れて行くと意気揚々としており、軍制改革を着々と進めていたといえます。この鉄砲は、当時としては最新式の兵器でしたが、天文年間、1540年代の鉄砲ですから、先込め式の火縄銃です。連発式でもないし、天気が悪い時はもちろん使えませんでした。無論幕末の新式のゲベールやミニエーに比べると、かなり性能において差がありました。そういえば勘助を演じる内野さんは、『JIN -仁-』では、鉄砲を昆布に紛れ込ませて長州に送る龍馬の役でしたね。仁でなく八重がスペンサー銃を持って戦国にタイムスリップしていれば、川中島でも長篠でも、武田軍は圧勝だったかもしれません。
また鉄砲はありましたが、この時代には大砲はありませんでした。大砲が日本の合戦に登場するのは、1570年代が最初で、その後1590年代から生産が盛んになり、関ヶ原の戦いの頃には大砲を用いるようになっています。実際、なかなか寝返らない小早川秀秋の陣地に、徳川家康が大砲をぶち込んだという話もあります。その後大坂夏の陣、そして島原の乱でも大砲が使われました。
ところで『八重の桜』では、覚馬が行方不明になってしまい、八重の弟の三郎も戦死してしまいますが、かつての鉄砲役の家柄の人物では、その後日本海軍の技官となった人もいます。日露戦争で使用された下瀬火薬の発明者、下瀬雅允(まさちか)がそうで、この人は広島藩の鉄砲薬の家に生まれ、その後火薬の研究を続けて、この爆薬を作るのに成功しました。
それから1つ前で七面鳥について書いていますが、アメリカでは誰でもできる簡単な射撃という意味で、ターキー・シュートという言葉があります。家禽の七面鳥を撃つことは、誰にでもできる簡単な射撃という意味です。