先日分の続きですが、まず当該記事に一部誤りというか思い違いがあったので、訂正しています。
この作品は本来の推理小説とは違い、謎解きではなく、犯罪の隠蔽という点に重きを置いています。そのため、ミステリ関係者の間でも物議を醸したといわれますが、作者の東野氏は、読者個人の判断にゆだねるというスタンスのようです。
隣室で起こった殺人に石神が気付いたこと、そして、花岡靖子に好意を持っていたが、この殺人隠蔽の発端ともいえます。かつての夫の富樫は大がかりな借金をこしらえ、しかも復縁を迫り、血のつながりのない娘に手を出そうとするような男で、ある意味正当防衛ともいえる殺人でしたが、しかし犯罪は犯罪です。警察の手からどうやって彼女たちを守るか、石神はまずアリバイ工作から始め、犯行日を1日ずらすことにします。
そして花岡家で殺人があった翌日、母子を映画に行かせ、自分は替え玉の死体を準備して、というかある男を自分で殺して、しかも身元がわからないようにし、警察にそれが被害者の富樫であると思い込ませます。それに加えて、警察の事情聴取の際の対応の仕方までを指示します。一見さえない中年男といった感じの富樫ですが、この指示をする時には何ともいえぬ凄味が感じられ、靖子も従ってしまいます。
しかも石神の周到さは、これにとどまりません。自転車を一台盗み、それに富樫の指紋をつけて、現場の近くに放置します。これで警察は、富樫がこの現場の近くまで自転車に乗って来て、何者かに殺害され、身元がわからないようにされたと考えます。しかもわざわざ新品の自転車を盗み、持ち主が必ず盗難届を出すように仕向けたわけです。これで現場の死体にみんな目を向けざるをえなくなります。
元々石神は、湯川が天才と呼ぶほどの男で、しかも久々に会った夜、ある理論の証明が正しいか否かの判定を依頼し、それを6時間ほどで解いてしまいます。こういう、筋の通った隠蔽方法を考えることなど、彼にとってはそう難しいことではなかったでしょう。しかも、盗聴の恐れがないように、わざわざ公衆電話から靖子の携帯にかけて指示を与えているのも、かなり確信犯的といえます。
また、替え玉を準備する時は、近所のホームレスの1人に声をかけ、仕事を紹介するといって連れ出しています。しかも富樫が持っていた簡易宿泊所の鍵を渡し、富樫のいた部屋に入れて、その男の毛髪と指紋を残させるようにします。この鍵は富樫が勝手に持って出たため、警察に届が出されていました。当然この部屋にも調査が入るとにらんだ石神は、被害者がその部屋から自転車で現場に行く、という一連の流れの裏付けを完全なものにしたのです。他にも、自転車といい簡易宿泊所といい、「届」を出させるように仕向ける方法もまた、高度なテクニックです。届が出されると、必ずそこに注目が集まるというのを見越してのことでしょう。
それから、ストーカー行為にしても、いくらかは靖子への想いもあったのかもしれませんが、これも警察の目を欺くためのトリックでした。わざわざレンタカーを借りて、かつて靖子が錦糸町でホステスをしていた頃の馴染みであり、靖子に恋心を抱いている工藤の車を追いかけ、ホテルでの2人を撮影して、それを工藤と靖子の家の郵便受けに入れるわけです。さらに靖子の部屋の郵便受けには、この先どのように振舞うべきかの指示も一緒に入れられていました。
この中では登山歴のある石神が、湯川と雪山登山をする場面もあります。ここには殺人隠蔽とは全く別の、2人の人間、友人としての繋がりが垣間見えます。しかし途中山小屋に一泊した時、湯川は石神にこういいます。
「君は思い込みの盲点を突く」
それ以外にも色々示唆的な描写が出てくるのですが、これはまた後ほど。しかし、この中で石神が学生時代に解いていた四色定理、これはグラフ理論と関連がありますが、グラフというものが繋がりを求めるものである以上、富樫慎一殺人事件の隠蔽もまた、繋がりを持たせる必要があったわけで、それに石神は最適の人物だったといえます。ただ惜しむらくは、理論上完璧なものが、実際の人間関係では必ずしも完璧ではなかったことでしょう。