大牢に入れられた仁は、牢名主への賄賂=蔓を持っていなかったため、着物を取り上げられ、その後も冷遇される日々が続いていたが、ある日そこへ100両もの大金が届けられる。気をよくした牢名主は、仁を自分の側近にしようと言い出すが、仁はそれを断り、牢名主や側近の囚人たちの畳を、この牢屋敷すべてに敷き詰めたいと申し出る。
牢名主はこれに怒り、次の瞬間心臓発作で倒れる。しかし仁の治療により無事生還した。これにより、すべての畳が敷き詰められることになった。ちなみに当時は、牢名主が一番多くの畳を敷いてそこに座っており、側近の者たちも、それぞれ何枚ずつかの畳を敷いていて、それ以外の囚人たちは床の上に座る暮らしだった。
牢の待遇は改善されたものの、仁の取り調べは拷問が相次ぎ、苛烈を極めた。安道名津からヒ素が検出されたためであった。仁友館の福田玄孝は、多紀安琢に仁の無実を訴えるが聞き入れられない。そんな折、松本良順は佐分利にあることを伝えていた。それは、和宮が気分が悪くなる前に、茶に口を付けていたということであった。あるいは、安道名津のヒ素は、茶碗の茶がかかったせいではないのか。茶碗を調べればすぐにわかることなのだが、その茶碗の行方は定かではなかった。
一方で勝海舟は、仁の釈放のため、橘恭太郎に京に上るようにいった。かつて西郷の虫垂炎を手術したことを、京にいる一橋慶喜の耳に入れることで、力添えを願うことにしたのである。龍馬は、慶喜の警備役である新門辰五郎を通じて、嘆願書を無事手に入れる。
ある日仁は、唐丸籠に乗せられて南町奉行所に向かう。そこに恭太郎が現れて、嘆願書を差し出そうとするも、役人は偽物であると相手にしない。しかしその後仁は釈放され、晴れて自由の身となった。既に釈放された咲も外で待っていた。その後仁は、やはり茶碗からヒ素が検出されたことを良順から聞かされる。その犯人は、あの三隅俊斉だった。
ヒ素を直接盛ったのは一人の奥女中だったが、取り調べ前に服毒自殺をしていた。また、茶碗を調べるようにいったのは意外にも多紀安琢だった。その後安琢は、福田に医学館に戻って来てはどうかと勧める。しかしそこに仁が現れ、お礼だと言って、ペニシリンの製造方法を教える。
再び元に戻った仁友堂に、ある日西洋人の男女が騎馬で訪れる。よく見ると男は間違いなく西洋人だが、女は洋装の野風だった。野風はあの後、横浜でフランス人のルロンに身請けをしてもらい、その金を蔓として渡したのだった。ルロンは野風が長屋に住んでいた頃、簪を贈っていた。
野風は咲に、仁と幸せになるよう言い残して去って行く。その後仁は咲に結婚を申し込むが、咲は、自分の幸せは先生との結婚ではなく、仁友堂を遺すことだと告げた。