『武将ジャパン』大河コラム、第47回関連記述その2です。それから先日、この『鎌倉殿の13人』の史実関連の投稿で、安達盛長と書いていましたが正しくは景盛です、失礼いたしました。それと文章がおかしいと思われる部分や誤変換をいくつか直しています。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第47回「ある朝敵、ある演説」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
https://bushoojapan.com/taiga/kamakura13/2022/12/12/172451
1.三善康信のいびきでした。政子は寝かしておいてやれと言います。
「幸せそうな寝顔……」
そう見守る政子。確かにそうではありますが、私はちょっと恐ろしいと思いました。
思い起こせば源頼朝が無茶苦茶な経緯で挙兵したのは、当時、京都にいて誤情報を送ってきた康信の早とちりが原因でした。あのとき頼朝は、このままでは西からくる平家にやられてしまう、そんなことになるなら立ち上がる! として挙兵したのです。
奇しくも西から危機が迫る中、前回、歴史の逆転を運命づけたこの男は居眠りをしている。時の流れは皮肉といいますか、一体どういうことなのでしょう。
「一体どうこうことなのでしょう」も何も、三善さんも年老いて、縁側で昼寝をしてしまうようになったのかなと思っています。あの時は、平家軍が頼朝を攻めに来るということで頼朝が色めき立ったのですが、実際は頼政軍の残党狩りだったのですね。その点を書いてほしいです。
しかも康信はたまたまうっかりしていただけで、意図的にそうしたわけでもなく、その後もこの人は、悪く言えばちょっと間が抜けた、よく言えば人の好さが感じられるキャラであり、最早好々爺然としていてもおかしくないでしょう。
2.このところは火事も多い。痛手を受けている御家人も百姓も多い。都を助けるのは鎌倉の立て直しが済んでからと言い切る。
政子は画期的な目線を取り入れています。民の声を聞いて見ているんですね。これができているのは政子とその後継者である泰時の特徴です。
義時も、後鳥羽院も、民を思う視点は感じられません。
政子の目線が画期的なのかはともかく、前回も書いたようにこの人は民に寄り添う側で、その裏で手を汚すのが義時の役目です。義時が政子のような視点を持ちえないとしても、それは当然でしょう。また考えこそ違うものの、義時も都に構うなと言ってはいるのですが。
あと後鳥羽上皇ですが、この当時帝が政で駆け引きをする場合、一々民の声を聞くでしょうか。それぞれ立場が違う3人を、同じ基準で見ていませんか?
3.「あの親子は、ぶつかればぶつかるほど心が開く。薄気味悪い親子で、もう悠長にはしていられません」
運命に背中を急かされるようなのえですが、これは妙な理屈でもあります。
もしも義時がすぐに亡くなるような状態ならばまだしも、あまりにも先を急いでいるようだ。いくら息子の北条政村が16とはいえ、前のめり過ぎやしませんか。
のえは泰時でなくて政村を後継者にしたいから、こう言っているのではないでしょうか。義時も隠居する可能性もないとは言えません。しかしここの部分、政範を次の執権にと期待を込めていたりくを思わせるものがあります。
4.義時が泰時の母・八重を持ち出し、比較した。そのときからのえは知ってしまったのかもしれない。
八重と、八重を母とする泰時に注がれる愛が、自分と政村に対するものとは違うことを。
のえは相手の思うことを先んじて察知して、それに従うことが人間関係のコツだと思っている。
例えば彼女は、きのこなんて好きじゃないのに、義時が贈ってきたら喜んでみせた。嘘をついてでも相手が喜ぶならそれでいい、それが賢い立ち回りだと信じています。
そもそものえは義時の3番目の妻であり、若い時に知り合った八重とも、また比企の娘である比奈とも違っています。勢い妻としての義時への接し方も違ってくるし、相手の考えを察知するというのも、彼女ならではの対人関係の知恵ではあるでしょう。しかも京の人物である二階堂行政の血を引いているうえに、執権である義時の妻という存在にプライドを持っていそうだし、これが単に夫婦と言うより、夫との間に何らかの駆け引きが存在しているように見える一因でしょう。
そして
「泰時と初の関係と比べてみると鮮明です。
初はきのこなんていらないと突き返し、泰時は傷ついて落ち込んでしまった。
義時とのえ。
泰時と初。
どちらがよい関係か。
言うまでもなく、素直に感情をぶつけ合っている、泰時と初の方が健全でしょう」
泰時にきのこはいらないと初が突き返した時は、2人ともかなり若く、それゆえに少々残酷ではありながらも本音をぶつけたわけで、今の義時とのえと比較できるものでしょうか。
5.しかし、本音をこめて語り合うよさがのえにはわからない。
これは藤原秀康と後鳥羽院の関係もそうでしょう。
意見をぶつけ合って研ぐことがなく、そんな調子ではどんな名刀だって錆びついてしまいます。
だから、この義時とのえは様々な意味で、最早本音をぶつける年齢でも立場でもないのですが。
あとなぜここで上皇と秀康が出てくるのでしょう。秀康は上皇に仕える武士ですが、上皇が意見をぶつけ合うと言うよりは、上皇の命に従って任務を全うする人物だと思います。
それと
「意見をぶつけ合って研ぐ」
とありますが、忌憚なく話し合うことで最終的に協調に至るという意味でしょうか。
6.父はこのところ御家人に厳しすぎると嘆く泰時。
初はさりげなく、泰時のやけ酒をあおりたい手を止めています。
本当に素敵な女性ですね。デレデレとお酌をするだけでなく、飲み過ぎを止める女も見たい。これぞ賢妻ですね。
別にこの時だけでなく、それ以前も酒に手を伸ばそうとしたところを止めていますね。
初にしてみれば、また飲んだくれて引きこもってしまうのがもう我慢できないのでしょう。また桶の水をぶっかけなかればならなくなりますし。
しかし前にも書きましたが、この時の泰時の妻はもう初ではないし、彼ももうアラフォーではあるのですが、泰時という一個の人格より、義時の息子のイメージが未だ強いですね。実衣がいつまで経っても北条の娘であるように。
7.泰時が困っていると、執権殿が駄目ならあんたが対処しろとまで迫られます。
こうしたやりとりから泰時は痛感していたのでしょう。こういうときこそ「法」があればいい。よし、御成敗式目だ! という流れが見えてきます。
「よし、御成敗式目だ! という流れが見えてきます」
そうですか?長沼宗政たちに言い寄られて、途方に暮れる泰時といった印象であり、法を窺わせるものは感じられなかったのですが。
8.交渉でどうこうなるなら最初から命令してくるわけもなく、上皇の狙いはまさに鎌倉が右往左往している状況。
父上と御家人の間を裂く――その狙いを泰時も理解しました。
このあたりも丁寧だと思います。
人間とは、頭を使うとものすごく疲れるから、他者に判断を委ねたり、規範に頼ったりする。
だからこそ御家人たちは「執権殿に決めてくれよ」と言いだすし、泰時もいっそ上皇様に頼りたくなってしまう。
こんなときこそ冷静に立ち止まって、相手の狙いを考えねば危うくなります。
「このあたりも丁寧だと思います」
「何が」丁寧なのでしょうか、脚本ですか?既に上皇のセリフに、義時と御家人の間を裂くとありますし、ここまで御家人たちにいわば喧嘩腰で来られたら、泰時も察しないわけには行かないでしょう。
それと
「人間とは、頭を使うとものすごく疲れるから、他者に判断を委ねたり、規範に頼ったりする」
御家人である坂東武者たちからすれば、これは上皇と執権の問題であり、だからこそうまく話をつけてくれと押しかけたわけですし、執権は何をやっているんだともなるでしょうし。
それと
「泰時もいっそ上皇様に頼りたくなってしまう」
そういうシーンは出てこないのですが。
泰時が、御家人たちから、こんなことなら上皇様におすがりしたくなってしまうと言われた、そう義時に伝えるシーンならありますが。
余談ながら、脳の疲れは活性酸素が影響して、細胞がいわばさびつくからだと言われています。
9.京都では義時を陥れるための呪詛が盛んに行われています。
噂が広まれば義時から心が離れる――そんな作戦であり、現代ならばさしずめインターネットでの誹謗中傷ですかね。
義時を陥れると言うより調伏するための呪詛ですね。義時は最早悪魔とされているわけです。それが噂として広まり、あの執権はとんでもないやつだとなるのでしょう。この当時の宗教観を考えると、ネットでのバズりや拡散よりも、もっと大きなダメージを与えかねないのではないでしょうか。
10.前回、私は、こんな秀康を頼りにしているからこそ後鳥羽院は負けると指摘しました。
(中略)
ではなぜ私は秀康の必敗を確信したか?
このドラマでは、源義経が鎌倉を攻める策をガーッと考えて記録し、それを梶原景時が見て納得する場面がありました。
名将というのは、地の利や人の和を調べ、その上で勝つための策を考えます。
義経はできる。景時も理解できる。それが秀康には何らできていなかった。イケボで弓矢を射ることだけできてもそれでは勝てません。
そもそも秀康が名将なら、武士を集めて流鏑馬をするのではなく、データを集めて分析するはずです。
幕府軍が兵糧を運ぶルートは?
地形を見てどこから攻めるのがよい? あるいは守るのがよい?
裏切りそうな御家人は誰か?
まず秀康がイケボ云々とありますが、関係ないのでここでは端折っています。
そして秀康に策がないといった書かれ方をしていますが、彼はまず伊賀光季を攻め、その後押松に院宣を持たせて鎌倉へ向かわせました。ちなみに押松は元々この人の家来です。
さらにこの当時、流鏑馬で集まる中には有力御家人がかなりいるわけで、彼らの兵力を当てにできたわけです。武者さんは「データを集める」
と書いていますが、では具体的に「どのようにして」敵軍が攻めてくる際の、ルートや地形などのデータを集めるのか訊きたいところです。戦国時代では常識ですが、この当時特に都では戦もなく慣れておらず、彼の戦い方にもまずさはあったのは確かです。
そして院宣を出した時点では、御家人のどのくらいが京方につくか不明でしたーと言うか、武力衝突が始まっても、恩賞をくれる方に付くという御家人もいたほどです。朝廷が自らを過信して後手に回ったのは否定できませんが、幕府軍も当初は一枚岩とも言えなかったようですし。
それと
「このドラマでは、源義経が鎌倉を攻める策をガーッと考えて記録し、それを梶原景時が見て納得する場面がありました」
とあります。これは藤原氏の軍が攻め入った際に、義経が義時に、本当は鎌倉を攻めるつもりでいた、三浦半島から入って北から戻る兵を討つという策を伝え、景時のこの案を渡してほしい、理解してくれるはずと言った時のことでしょう。しかしその場にいたのは義時であり、景時ではありません。
それと義経は鎌倉にいて地の利に詳しかったこともあり、このような策を立てられたのではないでしょうか。
11.ただしこれは、義時が悪いですね。あんなに愛らしかった女性を、ここまで追い詰めてしまった
のえの顔つきが悪くなるシーンですが、彼女自身もまた、自分が思い描いたような生活に固執しており、それがうまく行かないことが、表情を険しくしたとも考えられます。
12.後鳥羽院は、さらに一手を動かします。
のえの兄であり京都守護になった伊賀光季を藤原秀康に討たせ、北条義時討伐の狼煙をあげることにしたのです。
光季がなぜ討たれることになったのかについては、ドラマ本編でもそうでしたが、このコラムでも言及されていませんね。