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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『麒麟がくる』第40回に関しての武将ジャパンの記事について

第40回、松永久秀退場回です。第39回の主人公の病気に描写について以前触れたため、もう1度この大河の、別の回に関するこのコラムを見てみようと思った次第です。

と言いつつ、のっけから余談になりますが、『どうする家康』第22回「設楽原の戦い」関連です。これの1つ前の分の投稿で、このコラムがなりふり構わなくなっている印象があると書いたことがあります。実際エスカレートしている感は否定できませんし、また鳥居強右衛門を演じた岡崎体育さんについて、武者さんはこのように書いています。まず彼は役者でなく、シンガーソングライターである、そのため歌まで入れたと書き、その後

「演じる側にとってはNHKの看板番組で露出があって、美味い話なのかもしれません。作品自体がいかなる内容であろうと、NHKが提灯を持ってくれるなら芸能人にとって損はない。(中略)本業が役者でない人をゲスト扱いで出すことでテコ入れしようとするんですね。大河は腐っても鯛。出たら自慢になる。そういう記念と自己アピールによるキャストが増えるわけです。当然ながら、ドラマの出来は落ちます」

などと書いています。
いくら何でも岡崎体育さん、そして『どうする家康』スタッフに失礼でしょう。それに岡崎さんはNHKの他の番組にも出演しており、朝ドラ『まんぷく』にも俳優として出演しています。武者さんはこの朝ドラはお気に召さないようでしたが。

そして中略部分ですが、
「同様のことは『花燃ゆ』でもありましたが、本業が役者でない人をゲスト扱いで出すことでテコ入れしようとするんですね」
とあります。『花燃ゆ』にミュージシャンが出演していたかなと思ったのですが、どうやら乃木坂46のメンバーが、奥女中として出演したのを指しているようです。しかし彼女たちはミュージシャンよりアイドルではないかと思いますし、登場シーンも尺も、今回の強右衛門とはかなり違っていたのですが。

では本編です。前回もそうでしたが、大河そのものへの姿勢に関して、『どうする家康』との比較を入れていることをお断りしておきます。

なんでも亡き妻の爪を小さな入れ物に収めて、大事に持ち歩いているのだとか。耳のところで振ると爪が可愛らしい音を立てるのです。
妻が生きていた証を、優しい音に求める光秀でした。

光秀が亡き煕子の爪を持ち歩いているシーンです。無論これはこれで、彼の思いが伝わって来ます。

しかし仮に今年の大河で同じようなシーンがあった場合、何と書いたのだろうかと思います。少なくともここまで肯定的には捉えないように思われます。

糟糠の妻は堂より下さず――。
若い頃から連れ添った妻とは、自分の考えをまとめてくれる。若さ、美貌、妊娠できるかどうか。そこだけ見ているとろくなことにならないという戒めです。
この言葉を頭の隅にでも入れておきたい。大事な要素ですね。

この時代「妊娠できるかどうか」は重要な要素であるかと思います。「ろくなことにならない」とも言えないでしょう。当時子供を著名な大名の家に輿入れさせるとか、他家の娘を息子と縁組させ、姻戚関係となるのはかなり意味を持ったでしょうし、それもあって光秀も、娘たちを荒木村重や細川忠興と縁組させたわけですが、

それにこんなことを書くと、木村文乃さんが演じた煕子が若くもなく、美貌でもないように思われてしまうのではないでしょうか。

そしてこれは『どうする家康』でも同じでしょう。瀬名は若いころから連れ添った妻であり、家康を一番理解している人物です。そしてこちらの妻は、危険ではあるものの武田の間者を呼び寄せ、堂々と駆け引きまでやっているにも関わらず、武者さんは、おじさんが好きな昭和平成ギャル呼ばわりまでしていますね。

なんでもたまは、駒から薬のことを習っているとか。
たまが駒から薬のことを学びたいと言い出した時は疑っていた光秀。けれども、たまは覚えが早いと駒は言います。十兵衛様の腹痛の薬くらいなら調合できるそうです。
光秀は笑い、ならたまを医者として長生きすると言い出すのでした。

これも『麒麟がくる』ではこう書いているのですが、『どうする家康』では、瀬名が夫のために薬を煎じているところを評価したことがあるのでしょうか。

スマートフォンやスマートウォッチには呼吸アプリがありますね。あれはそういう効能から実装されています。

東洋医学から『鬼滅の刃』の全集中の呼吸、そしてこのような記述となっているのですが、所謂マインドフルネスのことと思われます。ただこれは元々は、上座部仏教の影響の方が大きいのではと思います。あと治療としてのマインドフルネスを実践したのは、確かアメリカが最初ですね。

実澄は光秀が変わりないかと挨拶。光秀は戦に追われ歌を詠むこともできず、お恥ずかしい限りだと言います。
この言葉は、もしかしたら再来年も有効かもしれません。『鎌倉殿の13人』の源氏ともなれば、
「歌なんて詠んでも何の役にも立たねえのによーッ!」
という価値観でした。現に鎌倉武士の書いた文章は誤字脱字が多いのだそうです。教養レベルの違いですね。鎌倉武士と比較すると、戦国武士は洗練されています。

これは「鎌倉殿」を見ればおわかりのように、そもそもそういう価値観がなかったし、字を知らなくてもそれなりに生きて行くことができたからで、必ずしも戦国時代的視点でとらえるべきではないかと思います。それと
「歌なんて詠んでも役に立たない」
は「源氏」より、寧ろ「坂東武者」ではないかと思いますが。

それと何度も書くようですが、鎌倉殿の最終回で吾妻鏡を読む家康を、戦国時代は本を読むようにとほめていた武者さん、いざ始まってみたら散々な叩きようです。しかも『吾妻鏡』を読んでいて、肩を揉んでいるお葉のことを
「読書中に肩揉みだの、お色気サービスだの」
などと書いていますね。肩揉みはともかく、お色気サービスなどあのシーンにありませんでしたが。

光秀がその小屋に入っていくところを、怪しげな男が見ています。この出番だけなのに、圧倒的な存在感。こういうキャストまで本作は素晴らしいものがある。

こういう役はどの大河にもたいてい見受けられるかと思いますが、武者さんがここまで言うのは、やはり好きな大河であるのも関係しているのでしょうか。

なんでも久秀と実澄は長い付き合いだとか。死んだ女房が何かと世話になったそうです。京にくるたび、昔話をする関係のようです。
久秀は洗練された審美眼の男だとわかりますし、愛妻家でもある。
何かと久秀はフィクション由来でどぎつい扱いをされますが、愛妻を挟んだ思い出を大切にする、心も綺麗な人なんだとわかりますね。

これですが、久秀退場回であるのなら、もう少し色々な史料と突き合わせて実像を探ることはやってほしいと思います。この大河コラムでは、関連記事を色々リンクしてそちらにアクセスさせる方法を採っていますが、コラムの中で完結させてほしいですね。その分時間がかかりますが、別に月曜の夜や火曜日のアップでもいいかと思います。今年の大河(好き嫌いはともかくとして)も、もっと史料と照らし合わせれば、いろいろ発見があるはずなのですが。

理由はどうあれ、戦の最中に人を抜け出す者は死罪と決まっている。

細かいことですが、人でなくて「陣」でしょうね。

光秀は叫ぶしかない。
げせぬ! げせぬ! げせぬ!
久秀は酒を飲めと言い、茶釜を太夫に預けておくと言います。
久秀が負ければ光秀のもの。久秀が勝てば、その手に戻る。いいな、わかったな。そう念押しする。
「平蜘蛛など欲しくない! 戦などしたくない!」
そう叫ぶ光秀には……道三のもとで戦っていた若侍時代のような、若い嘆きがある。
(中略)麒麟がくる世を信じていたのに、そんなことはなく親しい誰かの屍が積み上がってゆくばかり。
光秀の精神が壊れてゆきます。

この「解せぬ」を3回叫ぶところ、戦などしたくない、平蜘蛛など欲しくないと言うところ、これは確かになかなか世が平らかにならない、そのための厭戦気分ももちろん関係していたかも知れません。しかしそれと同時に、昔からの知己であった久秀を敵に回さざるをを得なくなる、そういったいわば私情もあったのではないでしょうか。

「げに何ごとも一炊の夢……」
短刀の鞘を投げ、死装束に着替えることもなく、叫びながら腹を切る久秀。

いくらなんでも、あの状況で死に装束に着替える暇は恐らくなかったかと思います。

NHKのVFXもこなれてきました。
安土城の場面は、そのひとつの極みだと思えます。遠景、そして大広間。壮麗な広さと豪奢さがあって眼福そのもの。かつては、あまりにお粗末で立派な建物に見えない、せいぜい旅館に見えてしまうセットやVFXの使い方にさんざん文句を書きましたが、そういう過ちは克服したようです。

私もこの回はリアタイで観ておらず、従って公式サイトやSNSでの詳しい説明も多分見ておらず、詳しいことはわかりませんが、あれは京都の寺院か、何かの建造物でロケをやっているのではないかと思うのですが。

ただ……「話は以上じゃ!」と打ち切って、光秀に有無を言わせない、そういう信長の性格が残念でなりません。
なぜにこれほど不器用なのか。

この時は信長の不器用さ、あるいは誤解されやすい性格について書かれています。

しかしそれを言うのなら、今年の信長も似たようなところはあるわけですが、今年の場合、そういう点があまりきちんと書かれていないようですね。

以前も記しましたように、2010年代最大のヒットドラマとされる『ゲーム・オブ・スローンズ』もこのパターンの結末でした。
『鬼滅の刃』も心理描写が細かい。そして自分のことばかり重視して、最愛の仲間たちを思いやれない者は、鬼だけではなく鬼滅隊士だろうがろくな目に合わないというルールがあります。

個人的にはゲースロと『鬼滅の刃』を持って来られるよりは、やはり史料と登場人物、特にこの回で退場した松永久秀の人物像の変化などを、このスペースを使って書いてほしかったです。

ちなみに常山紀談などでは彼が梟雄とされているようですが、この書物は江戸時代にできたものであり、戦国時代と江戸時代とでは見方が、相当変わっていることについて触れてもいいでしょう。

前回のことで訂正します。家康が「薬酒」を飲んでいるとしましたが、状況や色からして「薬湯」の方が妥当で可能性が高いです。失礼しました。
そうなのです。苦い薬湯を敢えて飲むところが、家康と光秀にはある。
最終回間近になって、その後への導線が見えてきます。

瀬名は恐らく薬酒は作っていないと思いますね。光秀も坂本城に戻り、たまが煎じた苦い薬湯を飲んでいます。

しかし再度書きますが、この時はこう書いているにもかかわらず、今年は瀬名が夫のために薬湯を煎じて飲ませていても、そのことをどのくらい肯定的に捉えていたでしょうか。

あ、そうそう、これは願望ですが。松永久秀が生まれ変わって、徳川幕府を仕切る大和ゆかりの男・柳生宗矩に生まれ変わったという設定が私の中には成立しつつあります。
『柳生一族の陰謀』のみならず、『魔界転生』も吉田さんの宗矩でやってくれないかなぁ。柳生十兵衛は溝端淳平さん続投でお願いします。

その溝端さん、この前も書きましたが『どうする家康』に今川氏真役で出ていますね。氏真公は後編も登場予定ですね。ちなみに溝端さんは6月14日がお誕生日だったとのことで、おめでとうございます。

久秀は、信長ですら世の中を変える気構えがない、昔からの血筋だのなんだのにこだわると悔しがる。
もう人間としての生存本能を超えて、世の中を変えてやるという執念に飲み込まれてしまっていた。
これはすごい描き方だと思った。

「すごい描き方」といった表現が多いような気がするのですが…以前からそうですが、プロとして文章を書いているのなら、もう少し書き方を工夫して貰えないでしょうか。

飲み物-グラスのアイスティー

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[ 2023/06/15 00:45 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』第39回に関しての武将ジャパンの記事について-2

今回は光秀と煕子の夫婦の描写(+信長、秀吉VS光秀)関連です。

夫が病気で帰館し、煕子は神仏の加護を求めますが、無理して倒れてしまいます。そんな彼女を駒が助けるのですが、彼女は駒に、質入れを教えてくれたことを感謝し、生活のために、女として必要な鏡や紅、さらには髪までも売ったと言います。

彼女が売ったという着物、紅、鏡、そして髪の毛は、全て女性の美しさの象徴です。
外見よりも、内面で深く思いあう夫妻。これみよがしに名場面として処理するのではなく、ここにきて煕子の逸話として無理なく印象的に入れてきました。

それを言うのであれば、夫のために自ら武田の歩き巫女の相手をし、信長に対して、臣従するのは家臣との話し合いもあるし、今しばらく待ってくれとも言う『どうする家康』の瀬名に対して、なぜあそこまで攻撃的になるのかわかりません。武者さんの場合、人物描写より好き嫌いが先に来るのでそうなってしまうわけですが、そういう「レビュー(もどき)」を書かせる方もどうかと思う所以です。

そして信長と秀吉が光秀を訪ねるところですが、

この信長は、ともかく光秀が大好きなのだそうです。
だったらもっと気遣えと思いたくもなりますが、信長は絶望的にそういう気遣いが不器用。秀吉は調子よく「明智殿が思いの他元気そうで何よりでございます!」とサラッと言えるのですが。

「光秀が大好きなのだそうです」
どう観ても、この第39回の中にそういうセリフは出て来ません。この後で『土曜スタジオパーク』(現・土スタ)に染谷さんが出演したことが書かれているから、恐らくそちらの方で口にしたのでしょうが、ならばそれはそれとはっきり書いてほしいものです。

なぜ天王寺砦でそれ(注・本願寺攻めに九鬼水軍を使う)を冷静に思いつけなかったのか? 敵の物資面での優位を光秀たちは進言していた。気合いが足りない、なんてしょうもない根性論に飛びついて、数字の分析も無視してしまった。

この場合信長は、原田の家臣たちが一向宗徒で、わざと玉を込めなかった、これで本気と言えるか、大事なのは気合じゃと言っているわけです。無論これは、彼我の兵器の数を考慮に入れていない信長の、一方的な思い込みではありますが、一般的な意味合いの「気合が足りない」が、しょうもないと果たして言えるかどうか。この「しょうもない」も武者さん好きですね。

またこのシーン、本願寺攻めで、信長は劣勢にあるにも関わらず、手勢を率いて本願寺勢力を切り崩し、その際敵方の銃弾で軽傷を負ったという説を踏まえていると思われます。

人は、恋をしている相手はとてつもなく美しく見えるものではないですか。
染谷さんも『スタジオパーク』で語っていました。信長はずっと十兵衛ラブ。
(中略)
信長としては大好きな十兵衛、そのそっくりな愛娘の縁談を用意して、親密度を上げたい! 張り切ってますね。
いかにも東洋的な家父長制度って、娘を身代わりにして大好きな男性に接近することがチラホラあるわけでして。また光秀が病になってしまわないかと不安です。

これなのですが、今年の信長の「白兎愛」と相通じるものがあるかと。要は信長とその時々の主人公の距離の近さ、連携の強さをこういう形で描いているわけでしょう。
それで行くと亀姫の奥平への輿入れも、その親密度を上げるためのものかとなりますが、それは今後の展開を待つとして。

それと
「いかにも東洋的な家父長制度って、娘を身代わりにして大好きな男性に接近することがチラホラあるわけでして」
だったら、その具体例を挙げて貰えないでしょうか。

そして『MAGI』をここでも出して来ていますが、

決して『MAGI』が素晴らしく、『麒麟がくる』がせせこましいということではありません。
『麒麟がくる』は、人の心、その機敏を、細工もののように扱う繊細な美しさがあります。これはこれで最新鋭の歴史の捉え方でしょう。

好きな大河だとこういう書き方ですね。嫌いな大河だと、この『MAGI』を叩き棒にするのでしょう。

このあと、秀吉はシレッと信長に明智様とお話がしたいと言います。
しかも、話題は愚痴でした。殿が最近暴走気味だというのです。
愚痴だのゴシップは、人間関係をつなぐものともなります。よい話や噂以上に盛り上がる定番のネタと申しましょうか。

武者さんも『青天を衝け』や『どうする家康』関連では、愚痴やゴシップがかなり目につきますね。これも人間関係をつないでいるのでしょうか。そして今年は、この時の信長同様に暴走気味だと思います(これについては後日)。

【長篠の戦い】はセリフで流されました。
これを「スルー」とするのはどうでしょうか。
どうにも「ナレ+イベント」とか「スルー」という言葉が定着しましたが、見る側に変な偏見を刷り込みそうな気がしています。
予算や尺の問題もあるのでしょうが、戦いを描くことで物語の焦点がずれてくることはあります。
歴史ファンは自分が好きなイベントや人物を入れて欲しいと願うもの。それが悪いとは言いませんが、そのことばかりに目配せして、制作陣が振り回されると物語の芯や根幹が揺らぎかねません。

これも好きな大河だとこうなのですね。嫌いな大河なら、主人公とそう関わりがなくても叩いたでしょう。
そもそも「戦いを描くことで物語の焦点がずれてくる」とは、どういうことですか。それを如何にストーリーに嵌め込むかも、制作陣の腕の見せどころではないかと思うのですが。

恐らくは
織田・徳川VS武田
の構図であり、明智がメインではないから外した可能性はあると思います。このセリフを発したのは築山殿でしたし。ただやはりこれは、実際にその戦を経験した家康に言わせてもよかったかかもしれません。

あと
「目配せして」
ではなく、
「目配りして」
ではないかと思います。

京では、光秀と入れ替わるように煕子が胸の病で床にいました。
幼い嫡男の十五郎が母の傍にいます。
そこで賑やかに、鬼に扮したものが庭にやってきます。伝吾が弓で射るふりをします。
今、何かと話題の鬼。その鬼とは何なのか、想像するのもおもしろい。
(中略)
左馬助が駒様から習ったと不器用な舞を見せ、岸が「手はこうでございます」と指摘。
あの叔父上の子なのだと思えて、それでいて爽やか、清涼感があります。
この作品の明智家臣団は、出番がそこまで目立たないようで、味があって欠かせない、大事な人たちです。
「うおーっ、病魔退散!」
そう言い、楽しむ明智家。

この大河のこういうシーンであれば、ここまで肯定的に書いているのに(それが悪いとは言いませんが)、なぜ『どうする家康』の「えびすくい」を、自分は嫌いだというそれだけの理由で、武者さんは否定しまくるのでしょうね。
あれは三河出身の徳川家臣団に取って、このうえない感情表現であり、めでたさを表す手段であると思うのですが。

そしてその後

このご時世ともなると、いろいろ考えさせる場面です。
煕子の神社での祈り。そしてこの病魔退散。こんなことをしたところで、病気は治療できません。
東庵や駒、そして家康が得意とするの東洋医学とちがい、理論の裏付けはない。迷信であり、気休めにすぎないもの。
だからといって否定できるのか?
新型コロナウイルスの影響で初詣がない。神仏に祈ることすら制限される中、重大な問題提起にも思えます。

この場合、こういう書き方でなく
「煕子の祈願、明智家臣団の病魔退散。それらは系統だった医学とは異なり、あくまでも呪術的で迷信と取られがちでもある。目に見えず恐れおののくべき対象、魔物のような存在ではあるが、それを何とか追い払いたいという彼らの大きな思いが込められており、あながち今の感覚のみで否定する気にはなれない」
とでも書いてほしいなと思います。

その夜、光秀は眠らずにいる煕子を見ます。
「寝ていなくてよいのか?」
「あまりに楽しかったものですから、まだ余韻に浸っていとうございます」
そっと上着を掛けつつ、部屋を片付けていたら出てきた温石を見せる光秀。結婚する前に、煕子が渡したものでした。

「上着」でなく「羽織」ですね。何度も言いますが、武者さん歴史系ライターの割にこういう服飾用語に無頓着ですね。

光秀は麒麟を呼んだのか?
麒麟がくる道に、この夫妻は花びらを撒いたようにも思えます。その花びらを踏みしめて、麒麟はくるのでしょう。
人は何もかも手に入れられるわけではありません。
麒麟を呼ぶ者となった家康は、美しい花びらを撒く天女のような存在は知らない。出会うことはない。そういう美しく、あたたかい存在とは無縁のまま生きることになる。
麒麟を呼び、天下人となる、そんな【守成】の英雄の宿命であり、天からそうさだめられたのであれば、仕方ないのかもしれないけれど。
最終章に突入し、人の繊細で美しい心の機微が展開されてゆきます。

その病魔退散で花をまき散らし、煕子がそれを拾っているわけです。
それはいいのですが、どうもその後の「麒麟が…」がちょっとくどく、またわかりづらく感じられます。
要は光秀は、例えて言えば花嫁の先を行くフラワーガール的に花をまいたものの、その花嫁に象徴される主役は彼ではなく、天下人となった秀吉あるいは家康だった、こういうことでしょうか。

特にここ。
「麒麟を呼び、天下人となる、そんな【守成】の英雄の宿命であり」
守成というのは、創業者の後を継いで地盤を固めることですが、それをやった「天下人」はこの場合秀吉ではないでしょうか。

圧倒的に美しく、儚い煕子。
主人公の妻にしては目立たないようで、地味で、保守的な理想像のようではあった煕子。
一周回ってこれが正解だとは思えます。
もう、わざとらしく木の枝に登ったり、暴れ馬を止めるヒロインはいらない。そう思える女性像でした。
とはいえ、無個性ではない。

再度。それを言うなら、瀬名も似たようなものだと思います。
彼女は木に登ったり(『木の枝に登る』のは難易度が高いかと思います)、暴れ馬を止めたりするわけではないけど、夫が今川を捨てたことで苦労もし、三河の小領主の夫を支え、そして自ら「女子の政」をも実践しています。しかし武者さんに取っては、「昭和のオヤジが好きな、昭和平成のギャル」にしか映らないようで、あのドラマ本編をちゃんと観ていないか、あるいは観ているけど、敢えてネガティブに書いているかでしょう。

それから、最近投稿の分のタイプミス、わかりづらい個所などを修正しています。

飲み物-2つの赤いカクテル
[ 2023/06/08 01:45 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』第39回に関しての武将ジャパンの記事について-1

ところでこの『麒麟がくる』第39回のコラムに関して、これはおかしい、あるいはわかりづらいと思われる部分をピックアップしておきます。ちょっと変則的ですが、光秀を主に描いた部分と、そうでない部分とに分けています。まず後者の方です。

1ページ目
朝廷は岐阜まで三条西実澄を遣わし、どういうことかと問い詰めます。
京には京の理(ことわり)がある――それを伝えにわざわざ来たのです。

この三条西実澄関連で。この人の祖父は三条西実隆です。
以前武者さんは、『どうする家康』の金ヶ崎の回絡みで、当時越前ガニはあったのかと言ったツイートをしていたようで、これに対して歴史考証の平山優氏が、史料を読んでいないのかという内容のツイをしています。この史料に出てくる人物、もっと言えば、自らの日記に「越前蟹」と記載した人物は恐らくこの実隆です。

信長は悲しい。
母に魚を釣り続けても、喜んでもらえない。
父に箱詰めの松平広忠の首をあげても、喜んでもらえない。

この松平広忠の首、「箱詰め」とありますが正確には首桶です。そして喜ばないその理由について武者さんは、遺体損壊(注・武者さん用語、遺体から首を取ること)が悪いのではなく、それをクールだと演出して喜んでいることが悪辣なのだなどと書いています。

しかし実際の映像は違っており、父信秀は広忠の首を取ったことで、松平が人質の竹千代を取り戻しに来る、そうなれば織田が危なくなると息子を叱っていたわけです。武者さん、一体何を見ていたのでしょうか。尚これについては、下記の投稿に書いているので、一読くだされば幸いです。


本作は無駄がないので、三者のセリフで状況が見えてきます。
松永久秀:物量差を指摘。本願寺側の物量を遮断できないからには、攻め手が不利になるばかりだとわかる
明智光秀:天王寺砦は狭い。狭いということは、物量の確保が難しく、攻め手の装備関連に不備があるとわかる
佐久間盛信:この口調からは、信長のパワーハラスメント気質が伺える

無駄がどうこう言うより、その放送回の尺の問題もあるかと思うのですが。
そして彼らのセリフではこんな感じです。

久秀:敵の方が人数も鉄砲も多い。
光秀:この(天王寺)砦だけでは手勢が少ない、他の砦と共に動くべき
信盛:主君信長がこちらに向かっている。それまでに打つ手を考えなければならない
久秀:攻め込むなら一気に攻めた方がいい、使いを出そう

でその後信長が来て、原田直政の家来を一向宗徒と決めつけ、乱暴を働くわけですが、信盛のセリフはその前のものであり、別にこれだけではパワハラ気質など窺えませんし、主君が来るまでに策を練っておこうと家臣が考えてもおかしくはないでしょう。

3ページ目
コロナが猛威を振るう中、アジアは欧米と比較してやや軽いとはされます。
方方『武漢日記』には、コロナによって東洋医学が息を吹き返したと語る人物について記述があります。
軽んじられがちな東洋医学ですが、実は何かあるのかもしれない。そこも考えつつ、医事考証をしている本作を見ていきたいところです。

東洋医学との関連はともかく、最初の株はアジアよりも欧米人の方が感染しやすかった、また欧米人はマスクをしたがらないのでそれも影響したとも言われています。実際アジア人に比べると、マスク即ち病人という印象があるのかかなり嫌がるようですね。

家康と築山殿は、仲が冷え切っているとわかる秀逸な場面でした。
理由は理解し合えないこと。

そのイメージを今年のにも当てはめているフシがありますね。麒麟は麒麟、家康は家康なのですけどね。そして風間俊介さんをやけにほめています。その一方で今年はジャニーズ忖度などと書いているようですが、風間さんもジャニーズなのですが。

東洋の時代劇となると、髭と結髪が課題だと思います。
現代風に前髪を落とすとか、髭を断固無視するとか。そういう『天地人』あたりの模索はもういらない。むしろ時代遅れで、それを続けると韓流と華流に食い尽くされて無惨なことになる。

この人は前髪にやけにこだわりますね。私も『天地人』はあまりなじみのある大河とは言い難かったのですが、兼続の最初の頃はまだ年齢も若く、前髪を残していてもそう不自然ではなかったでしょう。さすがに直江家に婿入りしてからあの前髪はどうかと思いましたが。あと子供の教育施設については、『天地人』の方がよく描けているところもありました。

髭を断固無視するというのは、どの大河のことでしょうか。幕末はあまり髭のない人もいます。明治になって、髭が復活しましたが。

しかしこれを言うのなら、今回の奥平信昌を演じる白洲迅さん、もみあげまでそっくりにしていますけどね。

4ページ目
時代劇のレベルもあがり、かつ育てたい若手も見えてきました。門脇麦さん、中川大志さん、大島優子さん、溝端淳平さんがそうではありませんか? 期待が高まるばかりです。

その溝端さんは、武者さんが嫌いな『どうする家康』に今川氏真役で出ていますね。しかもこれが大河初出演です。さらにガイドブック前編で、松本さん主演の作品に出られて嬉しいと語っていますが、これについての武者さんの意見を伺いたいです。

話を『麒麟がくる』にしますと、鉄板人気をイージーに掴みにいくのであれば、こういう日本人多数の脳裏にある、かっこいい理想の信長像をイケメンに演じさせればそれでよかったとは思うのです。
そういう像を捨て、童顔で愛嬌があり、それでいて怒りっぽくどこま挙動不審な信長にした。このことそのものが『麒麟がくる』の先進性であり優れた点だと思います。

要はそういう人物を、この作品が求めていたからでしょう。
それを言うなら、『西郷どん』の鈴木亮平さんにしろ、『どうする家康』の松本潤さんにしろ、それまでとは違ったイメージのキャスティングなのですけどね。尚この染谷さんの信長には、やはり私はどこか馴染めませんでした。
それと「かっこいいイケメン」に演じさせて、中身をそれまでとは変えてくるという方法もあります。これは以前にも書いたことがあります。そして、今年の信長はそれに近いでしょう。

大河の歴史は、今年ではっきりと変わったのです。
リアルタイムで見られて幸運でした。
社会がなんとなく求める最適解よりも、作り手がハッキリとこれだと言い切れる答えがよい。そんな力強さを感じるのです。

最近の大河はどれも似たようなものではないでしょうか。「作り手がハッキリとこれだと言い切れる」大河は、武者さんが好きな大河だけに当てはまるわけではありません。ならば私は、武者さんが散々こきおろしている今年のも、作り手の意志が感じられるかと思います。

2000年代あたりからは、大河主演でむしろ評価が下がる、低迷責任を背負わされる。嫌な流れができているようではあった。
そろそろ、大河には原点回帰して欲しかった。
主演が文句なしに輝いている、そういうものが見たかった。

「大河主演でむしろ評価が下がる、低迷責任を背負わされる」
具体的にどのような俳優さんなのか書いて貰えないでしょうか。そういうのを無視するから、単に武者さんの妄想にしか見えないのです。
そしてこの「原点復帰」、これも具体的にどういうことなのか書いて貰えませんか。
主演が文句なしに輝いているというのは、武者さんが嫌いな大河でも同じだと思いますが。

この大河は、2020年代の扉を開き、大河の危機を乗り切る一歩となったと思います。
思えば一年前、十年後に大河ドラマはなくなっているのではないかと危惧していたものです。
そんな危惧を吹き飛ばすどころか、希望を残してゆく。本作は紛れもなく偉大でした。大河という枠に、麒麟を呼んだ。そういう作品になると思えるのです。

以前にも書いたことがありますが、十年後(この時から数えてですから、今から八年後でしょうか)に大河がなくなっていればそれでもいいです。何かがその穴埋めをしている可能性はあります。

あと個人的に、途中でリアルタイム視聴を止めたせいもあり、希望を残していくとか偉大という印象は、私の場合あまりありませんでした。そもそもこの「麒麟を呼んだ」ですが、麒麟とは本来仁政を行う王の元に現れる存在で、この場合戦国の世を平らかにすることであり、それを大河枠に呼んだというのは、大河枠そのものが混乱していたように取れてしまいます。

ただ2010年代の大河で、武者さんが好きな作品は『八重の桜』をはじめ、結構あったのではないでしょうか。本人には嫌いな作品しか見えておらず、それが大河枠を混乱させていると思ったのでしょうか。何はともあれ、武者さんはとにかくこの大河をほめたいのだなとは思いますが。

視聴率のことは、オンデマンドやBSもあるので、回復はそもそもが難しいと思います。
今年は前年の低迷や、岩盤視聴者層の流出の影響もあったでしょう。

好きな大河だと優しいですね。昨年はこれ以外にも、NHKプラスの再生数が多いのだろうとまで書いていましたね。その一方で、一昨年とか今年とか、嫌いな大河の場合は世帯視聴率のみで語ろうとしているのですね。

飲み物ーアイスカフェオレ
[ 2023/06/07 01:15 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』が終わって-3

すみません、先日の投稿分に「この項続く」を入れ忘れておりました。一応今回が最後となります。

この大河の時代背景や登場人物は、『国盗り物語』のそれと共通するものがあり、いくつかのシーンを比較したこともありますが、やはり違うなと思いました。無論作られた時代も違えば、スタッフもキャストも違うのですから当然ですし、向こうは斎藤道三と織田信長が主役であるのに対して、こちらは明智光秀が主役です。
ですから必ずしも同じ設定である必要はないのですが、どう見ても主人公が、誰かの使い走りといった印象が少なからずありました。光秀が主役であるのなら、彼自身をもっと押し出してほしかったです。あとやはり演出が奇を衒い過ぎで、観ていて不自然さを感じることが多々ありました。

また個人的な感想として、信長や秀吉のイメージも今一つな感がありました。特に信長は過去の信長像と違い過ぎでした。染谷さんは演技はうまいと思いますが、第一印象があまりにも他の大河の信長と異なるのは、デメリットと言えるでしょう。斬新さを出すのであれば、過去のイメージを踏まえつつ、それまでとは違った印象で持って来てもよかったのではないでしょうか-たとえば、『真田丸』の家康のように。

それと、長谷川さんはやはり武将の雰囲気ではなかったと思います。『八重の桜』の川崎尚之助、『まんぷく』の立花萬平で見せた長谷川さんならではの、ストイックで学者肌的なイメージを活かせる役の方がよかったでしょう。
何よりも多くの人がそう感じていると思いますが、オリキャラが出過ぎで、肝心の実在人物が彼らのせいで割を食ったようにも見えます。池端氏は庶民の目線ということでオリキャラを入れたようですが、それなら光秀が主役でなく、彼らを主人公にしたドラマを土曜時代ドラマで作るという方法もあったでしょう。
あと沢尻エリカさんの降板で、白羽の矢が立った川口春奈さん、一生懸命やっていたとは思います。しかし彼女も、それから駒役の門脇麦さんも、やはり今時の若い女性という印象は拭えませんでした。

それと本能寺後を描かなかったことで、光秀がこの「大事業」を成し遂げたことへの満足感、それに伴うやり場のなさといったものが感じられず、如何にも勿体なく感じられました。あの時の光秀自身、そして大名たちの心情はきちんと描かれてしかるべきでした。

そもそも『炎立つ』以外の源平大河では、義経はすべて平泉で討死しているし、幕末大河でも西郷隆盛は西南戦争で散っています。『炎立つ』では義経は行方をくらませていますが、それでも彼がジンギスカンになったのを仄めかす描写はなく、また幕末大河で西郷がロシアに渡ったなどという設定にももちろんなっていません。
なのにここで「光秀=天海」説とも取れるような展開にしたのは、どうかと思います。敢えて山崎の合戦を描かなかったというよりは、ちょっと最期が投げやりになったような印象を受けます。

そしてもう1つ、衣装や風景の色彩が鮮やかすぎて、時に毒々しく感じられたのは、やはりマイナス要因だったと思います。黒澤和子さんのデザインは、『西郷どん』や『青天を衝け』などではかなりまともなのですが、戦国時代を担当させるとああなってしまうようですね。恐らくクレームもかなり来たのではないでしょうか。

それからこれはちょっと目にしたツイートなのですが、恐らく大河を観ている人なのでしょう。NHKは解体してもドラマ部門は残してほしいといった意味のツイがありました。しかしNHKは公共放送であり、公共放送としてまず残すべきは報道、気象そして災害情報です。その意味でこの意見は、失礼ながら本末転倒です。
恐らくこの人は、報道は偏っているから潰してほしい、でもドラマはいいと言いたかったのかも知れません。確かに私も、NHKは偏っているとは思うし、NHKのみならず多くのマスコミ、さらには海外のマスコミも何かしら偏っていると思います。しかしそれでも、公共放送として残しておくべきは報道関係なのです。どうしても大河のような時代劇が観たいのであれば、それとは別にチャンネルを作り、スポンサー付きで制作するべきでしょう。
(この項終わり)

飲み物-ウイスキーストレート
[ 2021/02/11 00:00 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』が終わって-2

先日の続きです。

まず『麒麟がくる』の最終回、最後の方だけちらりと観たのですが、案の定というか、本能寺の変の後がすべて省略されていました。本来光秀を主人公にするのであれば、本能寺の変の後にもうひとつのドラマがあるわけです。言うまでもなく山崎の戦いです。ただ戦いのみならずそれに至るまでの過程、中国大返しに始まり、細川や筒井順慶の裏切りなどを如何に描くかが脚本家の腕の見せ所でもあるわけですが、その部分が思い切り端折られていましたね。

ならばそのまま終わったかと言うと、さにあらず。これも予想しえたことですが、オリキャラの3人をやはり入れて来ましたか。どうにもこうにもこの大河は、この3人を見せるためのものだったのではないかと、そう邪推したくもなりますし、これが、如何にもファンタジー的に映るわけです。同じ脚本家の『太平記』では、ここまでオリキャラが出て来ることはまずなかったのですが…。『麒麟がくる』が、『太平記』の劣化コピーのようにも感じられる所以です。

あと、これも初めの方から感じてはいたことですが、やはり戦闘場面が取ってつけた感じがあります。これに関しては第2回の『道三の罠』の感想で、こう書いています。

それと思うのですが、殺陣がどうも今一つです。そもそも雑兵の着物はまだしも、甲冑もやけに華々しいイメージがあるのですが、光秀や伝吾、さらにはその雑兵たちがいとも軽々と刀や槍を振り回していたり(そこまで軽いものではないと思いますが)、斬るというよりは刀を当ててみる感じだったり、一斉に矢を放ったところで相手にすべて当たったりと、ちょっとありえないような描かれ方になっています。何やら刀や槍を使ったアトラクション、あるいは懸り太鼓のBGVのようにも見えてしまいます。懸り太鼓や退き鉦などが出て来るのはいいのですが、そういう部分と、この戦闘シーンのいわば軽さとが、どうも噛み合っていない感もあります。ああいうのも、受信料でやっているのですけどね。

この最終回に関しては賞賛の声もありましたが、もちろん批判的な声も見られました。
本能寺後のシーンのカットの是非、内容が薄っぺらい、さらにはプロデューサーと脚本家の自己満足で終わった大河という声もあり、私もこれらの意見に同意です。誰でも今一つ馴染めなかった、好きになれなかった大河の場合は、制作陣の自己満足に終わったという印象を抱きがちですが、この作品はそれに加えて、戦国らしさがあまり感じられませんでした。

尚先日、視聴率についても書いています。
2000年代と比べてみると、戦国大河は5パーセントほど下がっています。余談になりますが、2000年代でもあまり数字を取れていない作品はあり、『風林火山』などはその一例です。私としては、この作品は登場人物のキャラが立っていてかなり面白く、その数字の低さはちょっと意外でしたが、こういう戦国らしさを生々しく感じさせる作品より、多少無難な感じの夫婦大河の方が、やはり数字を取れるのでしょうか。

それとやはり先日ですが、録画がない時代の大河についてこう書いています。

かなり前のは映像そのものが殆どない、またビデオが普及していないなどで、同じ大河をリピートして観ることができず、それも評価に影響しているのではないでしょうか。

要は映像を繰り返し観ていると、素人でもドラマの掘り下げ方がかなり理解できるようになるのですが、録画やVHS、DVDが存在しない時代は、そういう観方は不可能です。その当時を知る人の話によると、その頃は観方ももう少し緩かったようで、史実に関してもそううるさくなかったようです。
無論歴史に詳しい人はその当時もいたと思われますが、恐らく多くの視聴者は、原作となっている小説と照らし合わせていたのでしょう。本来フィクションであるはずの小説、そしてそれをベースにした大河を、ある程度は事実と受け止めていた人もいたのかもしれません。
ちなみに、ガイドブックが登場したのは1970年代後半のようで、その頃から徐々にビデオデッキも普及するようになり、大河を様々な視点から、多角的に捉えるようになったと言えそうです。

それから『青天を衝け』ですが、
『あさが来た』の五代様
『西郷どん』の小松様
この両名の出演が決まりました。
詳しくは明日アップする予定です。
(この項続く)

飲み物-ホットカフェオレ
[ 2021/02/10 00:00 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』が終わって-1

ここのところ『きのう何食べた?』関連投稿がメインになっていますが、今回は『麒麟がくる』が終わったばかりということで、大河関連です。

まず数字の話になりますが、この『麒麟がくる』、最終回はリアルタイム視聴率が18.4パーセントでしたが、年間平均視聴率は14.35パーセントとなっています。
これまでは『軍師官兵衛』が男性主人公の戦国大河のワーストでしたが、それを1パーセント以上下回り、戦国大河ワースト2位、男性が主人公の戦国大河ではワースト記録となりました。

歴代大河視聴率ワースト10、()内は放送年と関東地方の平均視聴率。
視聴率は小数点以下0切り捨て、2000年以前の作品は小数点一桁まで。

  1. いだてん(2019、8.17)
  2. 花燃ゆ(2015、12.00)
  3. 平清盛(2012、12.01)
  4. 西郷どん(2018、12.72)
  5. おんな城主 直虎(2017、12.8)
  6. 花の乱(1994、14.1)
  7. 麒麟がくる(2020-21、14.35)
  8. 竜馬がゆく(1968、14.5)
  9. 八重の桜(2013、14.58)
  10. 軍師官兵衛(2014、15.84)

放送開始が遅れたこと、コロナ禍で放送が休止の時期があったことも災いしたのでしょうが、それだけとは言えない事情もあります。何よりも、近年とみにリアルタイム視聴率は下がっています。これには以下のような理由がありそうです。

まずBSで先行放送されるようになったため、そちらを先に観て、本放送時には民放を観たり、TV視聴以外のことをしていたりするというケースが挙げられます。
元々BS放送は本放送後だったのですが、『江~姫たちの戦国~』が放送された2011年の4月からBS放送先行となり、2010年代からリアルタイム視聴率が下がった一因となったと思われます。固定ファンがつきそうな、三谷幸喜氏の『真田丸』のみ何とか数字を取れましたが、それでも『江』よりも低かったのです。NHKも視聴率を考えるのであれば、みすみすリアルタイムの数字を下げるような先行放送はやめるべきでしょう。また視聴率がいい時は嬉しそうにする一方で、悪い時は公共放送だからと言ってみたり、これではダブスタもいいところです。

それから、やはり大河を昔から観ている、TVを観ているという人々が減って来ており、それが数字に響いているのは否定できません。
尚内容に関してですが、今の方が一概に悪いとも言えないかと思います。昔も今もいい作品もあれば、そうでない作品もあったと取るべきですが、昔はネットがないため、評価を可視化できる手段が少なく、そのため大河はすべてよかったとされていた感がなきにしもあらずです。
またかなり前のは映像そのものが殆どない、またビデオが普及していないなどで、同じ大河をリピートして観ることができず、それも評価に影響しているのではないでしょうか。

尚制作統括の落合プロデューサーですが、
「全ての回を制作・放送することができて感無量の思いです」
とコメントしています。しかしながら、このコメントには肝心な点が抜け落ちています。今回はコロナ禍により、例外的に休止期間を挟んで、2年間にわたっての放送となりました。
ならば、休止後に再開された後も観続けた視聴者に対して、何か一言あってしかるべきだったのではないでしょうか。くどいようですが、大河はその視聴者の受信料で作られているのです。このコメントは、単に制作サイドとしての意見でしかありません。

あとメディアによっては「『いだてん』から好転」とありますが、いくら何でも男性主人公の戦国大河と『いだてん』を同列に論じるのは噴飯物です。

しかし先日の放送分、最後のところだけ観たのですが、あれではまるでファンタジーです。内容に関してはまた改めて。
(この項続く)

飲み物-エールと暖炉の火
[ 2021/02/09 00:00 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』池端氏への疑問

久々に『麒麟がくる』の公式サイトを見てみたのですが、トップページに「本能寺まであと4年」などとあります。この大河は、当初は「本能寺から逆算しない」とスタッフが言っていたはずなのですが、これは逆算にはならないのでしょうか。それとも休止期間で一部が変更になったのでしょうか。いずれにしても光秀を描く以上、本能寺とは無縁ではいられないはずですし、視聴者もまたそれを求めているとは思います。しかしそれでも、信長と光秀の考えのギャップがじわじわと大きくなる中で、敢えて本能寺という固有名詞を出さずに、いよいよXデー近しと思わせる方法はあったはずで、私としてはそのようにするのかと思ってはいたのですが。

あと長篠の戦いのように、詳しく描かれなかった歴史上の事件や合戦は、別個にコラムを設け、説明してしかるべきでしょう。それから池端氏のインタビューがあまり面白くないというか、オリキャラを出すのは当時の庶民目線だといわんばかりの姿勢には、いささか首をかしげたくもなります。おかしいのはオリキャラを「出す」ことではなく、「出し過ぎる」ことですし、まして官位や身分が物を言うその時代、庶民が帝と碁を打ちながら話すというのも変でしょう。こういうのがどうも強引に見えてしまうのですね。それを言うなら、『太平記』で花夜叉一座の面々が、帝と差しで話すシーンなどあったのでしょうか。

飲み物-ロックグラスカクテル
[ 2021/01/22 00:45 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』は『太平記』の戦国版なのか

大河の制作統括とそのコメントについて、先日から何やらぐだぐだと書いております。特に『麒麟がくる』に関して、新しさが強調された結果、いたずらに今までの戦国大河を否定する方向に走ったと書いていますが、無論それまでにも、新説の登場などでそれまでとは違った描写というのはありました。また時代により戦国大河の描き方も様々で、たとえば私が映像を観たことのある「最古の」大河、『国盗り物語』と今回とでは、似たような時代ながら主人公が異なるせいもあり、かなり違った描写になっています。しかし男性の主人公であれば、もっと本人が前面に出て来てもいいはずです。

池端俊策氏脚本のこの大河は、どう見ても『太平記』を戦国大河化したものに見えます。架空の人物の関わり方、公家や大名の関わり方、そして帝が介入してくるところなどはそっくりです。但し『太平記』でも、架空の人物はここまで出て来ることはなかったし、仮に出て来たとしても、花夜叉などは楠木正成の妹という設定だったので、それはそれで納得が行きました。ちなみに今回の信長と光秀の関係は、正成と高氏のそれをいくらか思わせるものがあります。また公家や大名の描かれ方も、私としては『太平記』の方がまだ受け入れられましたし、後醍醐帝の介入は、南北朝時代であれば当然のものでした。

今までも複数の大河の脚本を手掛け、似たような描写が多い人はいました。ジェームス三木氏なども独特の描き方をしており、当然ながらどこか共通点が見られはするものの、1つの大河を、異なる時代に置き換えるようなやり方はしなかったと思います。『太平記』と『麒麟がくる』の関係は、こう例えては何ですが、『篤姫』と『江~姫たちの戦国~』の関係にどこか似ています。同じ脚本家であることに加え、一方が原作付きであり、さらに『江』も『篤姫』の大奥的世界を採り入れた感がありましたが、生憎こちらは『篤姫』ほどにはぱっとしなかったというのも、やはりどこか似ていると言わざるを得ないのです。

飲み物-温かいカフェオレ
[ 2021/01/19 23:30 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』の最終回は本能寺の変

『麒麟がくる』の最終回絡みの記事に、
「最終回は本能寺の変」
という内容のものがありました。しかし一般に知られている限りでは、光秀は本能寺で生涯を閉じたのではなく、その後わずかの間天下人となった後、羽柴秀吉との戦いに負け、落ち延びる途中で小栗栖の辺りで土民に殺されたとも、自刃したとも言われています。最終回が本能寺の変だと、その後の光秀の行動と死は付け足し程度になりそうです。また信長が殺されたという大事件であるだけに、他の戦国武将にも大きな影響を与えているはずなのですが、これだと秀吉の中国大返しも、家康の伊賀越えも描かれないのでしょうか。

無論主人公が織田信長であれば、本能寺の変で最終回というも納得できます。しかし光秀の場合は、やはりその続きがあるのです。私としては、1月31日が本能寺の変、そして2月7日の最終回が山崎の戦いであると予想していただけに、いささか腑に落ちません。信長が主人公であったはずの『国盗り物語』の総集編でさえ、その後秀吉と一戦交える描写が出て来ます。ちなみに制作統括の落合プロデューサーは、このようにコメントしています。

「光秀と信長、二人三脚の大きな国づくりは、成し遂げられることなく、悲劇的な結末を迎えます。その先に光秀が何を見据えたのか、信長は何を思うのか…。『麒麟がくる』版の本能寺の変がどのように描かれるのか楽しみにしていてください」
(スポーツ報知)

無論制作側もそれなりに考えてはいるのかも知れませんが、どことなく曖昧模糊とした言葉です。まず二人三脚の国づくり(と、この大河ではなっています)がうまく行かない、これはいいでしょう。しかし悲劇的な結末を迎えるというのは初めからわかった話ですし、その先に何を見据えたのかなどという表現もまた、ありきたりな感じです。最終回をPRしたいのであれば、
「本能寺の変を楽しむには、この先決して見落としのないように!」
位言ってもいいのではと思いますが(三谷氏ならそう言うでしょう)。無論コロナ禍により、戦闘シーンが思うように描けなかったのも、最終回に本能寺を持って来る一因かも知れません。しかし、それならそうだと明言するべきですね。

先日に続いて、制作統括への疑問をまたもぶつけた形となりました。またこの最終回に関して、主演の長谷川博己さんも
「これも新しい形の『本能寺の変』なんじゃないかなと…」
と語っています。無論主演としては、そう言わざるを得ないでしょう。しかしこの大河、どうも制作側が「大河新時代」と銘打っている割には、「新時代」らしい高揚感があまり感じられず、逆に「新しさ」が強調された結果、いたずらに今までの戦国大河を否定する方向に走ってしまい、その結果、戦国大河としてどことなくずれたイメージをもまた受けてしまうのです。

飲み物-クリームとココア
[ 2021/01/19 00:15 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』終盤に思うこと 続き

『麒麟がくる』がオリキャラのせいで不評の声が多いことは、先日も書いています。しかし、オリキャラのせいばかりとも言えないようです。もっと言えば
「戦国らしくない」
のだと思います。私も『麒麟がくる』を桶狭間の回(コロナウイルス禍で中止になる直前の回)まで一応毎回観て、再開後も2回ほど録画をチェックしています。確かにオリキャラの出番は多く、しかもかなり重要な事柄に関わっていますし、光秀とその家族が越前へ落ちる際にも手助けをしていますし、どういうわけか皆、重要な人物(帝、関白、将軍)と関わりを持っており、その部分が同じ脚本家の『太平記』になかった(花夜叉のみ楠木正成の妹だった)、ある意味不自然さを感じさせるのでしょう。

しかしその前から、あまり戦国らしくない部分、もっと言えば、斉藤道三の甥として武芸に達者で、学問にも秀でているという光秀像が、この大河からはあまり感じられません。これに関しては、「麒麟がくる ここまでの感想」というタイトルで、今年の6月から7月にかけて投稿しています。光秀があちこちに行かされたり、やたらに色々な事件に絡ませようとして、京へ行った際に将軍を拝ませたりするのは、やはりおかしいと言っていいでしょう。『太平記』の足利高氏も事件に巻き込まれますが、彼は足利氏の嫡男で、曲がりなりにも元服の烏帽子親は得宗である高時でした。おまけに剣の達人であるはずの光秀なのに、剣術の稽古をするシーンもない。さらに斉藤道三が、帰蝶の最初の夫である土岐頼純を暗殺するところも、ちょっとわざとらしさが感じられました。

加えて、これは女性大河にも共通しますが、主人公が己の内面を見つめたり、悩んだりするといった描写があまりない。常に誰かのパシリ的存在で行動を起こすシーンも多く、そのためどこか重みがなくて平坦に感じられてしまう上に、お約束のオリキャラがやたらと出て来る。何でも制作サイドに言わせれば、「従来とは全く異なる」大河を作りたかったそうですが、どう考えてもこの「全く異なる」がマイナスの意味にしかなっていません。さらに池端氏、『太平記』で室町幕府を開いた足利尊氏を描いたとガイドブックでコメントしていますが、『太平記』はどちらかと言えば鎌倉時代の終焉とその後の混沌とした時期がメインです。これなら池端氏でなくり前川洋一氏にすべて任せてほしかったです。

飲み物-コーヒーと砂糖とミルク
[ 2020/12/10 00:30 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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