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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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いだてん第6回「お江戸日本橋」

羽田で行われた予選の後、嘉納治五郎は2人の選手をオリンピックに派遣することになります。しかしそうすんなりとは決まらないようです。

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羽田で行われた予選の結果、大日本体育協会は選手をオリンピックに派遣することになった。その一方で四三は、播磨屋に謝ろうとするがなかなか決心がつかなかった。その時清さんがやって来て、四三を中に連れ込む。実は播磨屋は、新しく足袋を改良して四三に渡そうとしていた。その足袋ははき心地も上々で、これなら破れることもないと思い、四三は大喜びで店を出て、その足袋を履いてから学校の周辺を走り始めた。

しかしオリンピックの出場を認められたもの、体協は誰を選ぶかを決めあぐねていた。協会内には送り出す予算も乏しく、文部省にも掛け合ってみたが、特に最有力候補の一人三島弥彦は帝大生であり、国費で学ばせている学生をひと月も外に出すことには反対していた。弥彦は自費で行かせることにしたが、最大派遣できるのは2人までだった。可児は自分が経費で優勝カップを作ったことを詫びるが、嘉納治五郎は意に介していなかった。そして校長室に四三が呼び出される。

四三はオリンピック出場を伝えられるが、行きたくないと答える。四三はマラソンの世界記録のタイムも知らず、自分の努力の成果を確かめようと思って、羽田の予選に参加したのだった。学校の周辺を走っていたのも、新しい足袋の感触を試すためであり、そもそもオリンピックの何たるかさえ知らなかった。優勝カップのOLYMPICの文字も、この時になって初めて意味が分かるという始末だった。これは嘉納を少なからず落胆させた。またオリンピックのポスターに描かれた日の丸を見せられるものの、そのポスターの裸像に驚き、さらに負けたら切腹ですかとも言って嘉納を驚かせる。

その後嘉納は弥彦に交渉するが、弥彦も卒業年であること、文部省から釘を刺されたことを理由に断ってしまう。こうなれば2位、3位の者を行かせざるを得ないのかというところまで体協は追い詰められる。さらにその時辛亥革命により、清国の留学生が国からの仕送りを期待できず、帰国しようという騒ぎになった。嘉納は今帰っても何にもならないと引き止め、彼らの滞在費や学費を負担することになるが、途方もない大金を借りることになり、生涯それを返済できなかった。

四三は校長室を訪れ、カップを返そうと考えていた。しかし嘉納は皆が君が行くことを期待していると言い、オリンピックの説明をして頭を下げる。さらにかつて日米通商修好条約の際の使節が、侍の姿という、アメリカ人に取っては異様な風体であったことを告げ、先駆者は何であってもつらいものだと言う。四三はかなり迷っていたが、頭を下げられてオリンピック行きを承諾した。嘉納は大いに喜び、また費用は文部省が支弁することにしていたが、自分の金で行った方がむしろいい、切腹もせずに済むとも言う。嘉納がこう言い出したのは、体協の苦しい台所事情によるものだった。

四三は羽田を訪れていた。あの後学校で地図を見せられて、ストックホルムがどこにあるかを初めて知り、しかも旅費はどう切り詰めても1800円だと可児に言われる。四三は迷った挙句、これを実家に手紙で送ることにした。それでもポストに入れることをためらっていたが、播磨屋の子が尻に抱きつき、その勢いで投函してしまう。昭和35年の子供たちの、オリンピックのすばらしさを学校で学ぶ声が四三にオーバーラップする。

その昭和35年、オリンピック組織委員会の事務総長である田畑政治は、車の中から足袋姿で走る男を目にしていた。ラジオからは志ん生の落語が流れていた。志ん生は若い頃、客の円喬を乗せて日本橋と浅草を回っていた頃、から落語は耳でなく足で覚えるものだと教わっていた。弟子の五りんにもそれと同じことを聞かせるが、五りんは古典落語より東京オリンピックの噺の方がいいと言う。この噺では日本橋と浅草を走っていたのが、いつの間にか浅草と芝になっていた。

再び明治末期、四三はオリンピックのコースと似た上野、浅草から芝までを走っていた。同じ頃、同じ東京を車を引きながら走っていた孝蔵、若き日の志ん生とすれ違う。その頃、四三の手紙は実家に届いていた。

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金栗四三は、あれが予選だとは気が付かなかったようです。さらにオリンピックの何たるかも知らず、嘉納治五郎に取っては誤算続きでした。しかもやっと四三がストックホルム行きを決めたものの、予算が足りないためうまく誤魔化してしまいましたね。四三は結局金の無心をする手紙を出すことになりますが、そんな大金をぽんと出してくれるものでしょうか。それと後の方で、田畑政治が初めて登場しますが、やけに既視感があるシーンです。というか、第1回の志ん生の車が渋滞するのと同じパターンですね。ただ田畑の場合は、ラジオから志ん生の声が流れるという設定になってはいましたが。

それから足袋の件。何だかんだと言って、結局四三は自分の非を認めたようです。この播磨屋の如何にも職人肌的な主人は、今度は足袋を改良してくれていました。加えて清さんにコースのアドバイスをしてもらうなど、どう見ても協会より市井の人々の方が協力的なようです。結局芝まで走るというのが、志ん生の噺の芝につながって行くのでしょう。一方弟子入りする前の志ん生、つまり美濃部孝蔵も橘家円喬の人力車を引いて走らされますが、これは落語の中の距離感を覚えさせる意味があったようです。

さらに今回気づいた点ですが

  • 嘉納治五郎が何かアクションをするたびにポスターが歪むのが、『直虎』の天目茶碗のシーンを思わせます。
  • 四三は既に上京して2年ほど経っていますが、まだ方言丸出しで話しているようです。このまましばらくは熊本弁で通すことになるのでしょうか。
  • 安仁子のドレスがまだバッスルスタイルのようですが、この当時既にもう少しラインが細身になり、ホブルスカートと呼ばれる、膝の部分を縛ったスタイルの服装も登場しています。無論欧米の流行が日本にもたらされるには、いくらか年月がかかったかとは思われますが。
  • 清の政治制度として、皇帝制なる言葉が登場します。あまり耳慣れない言葉です。「帝政」の方が、恐らくはふさわしいでしょう。
  • 日米修好条約を結びに渡米という嘉納治五郎の言葉がありますが、厳密にいえば批准書の交換ですね。そして勝海舟に言及していますが、嘉納の父親が勝のパトロン的存在だったことに由来しているようです。ここで遠藤憲一さんが出て来たら笑いますが…。

なお、この稿を以て『いだてん』エピソード&感想は中止しています。その理由については下記の投稿をご覧ください。

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いだてん第5回「雨ニモ負ケズ」

古今亭志ん生は酔っぱらったまま高座に上がり、『芝浜』をやるはずがオリンピック予選の話をしてしまいます。一方四三の方は、オリンピック予選を勝ち抜いて時の人となるものの、走る時に履く足袋で悩むことになります。

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古今亭志ん生は年末でもないのに、『芝浜』をやるつもりでいた。しかし案の定酒のせいで、高座で眠ってしまう。娘の美津子は案じるが、寝かせておけという声が客席から届いた。志ん生の頭の中では、羽田から東神奈川まで走る選手たちの姿が渦巻いていた。

強豪選手が揃う中、いよいよ予選が始まった。三島弥彦は運営側に回っていたが、飛び入りのような形で100、400そして800メートルの予選に出てメダルをもらう。弥彦はどうも最初からその予定だったらしく、スパイクを履いて運営委員をやっていたのである。四三たちは遅れて到着し、そしていよいよマラソンの予選となった。佐々木や井出などの有名選手が出場する中、四三たちは最初は飛ばさず後につけていた。しかしこの明治44(1911)年11月19日は雨で、選手たちに容赦なく降りかかっていた。

選手たちは次々に倒れ、落伍者の数が逐一報告された。しかも運営委員は羽田の本部にいるため、レースの様子を見ることも出来ず、そのままで暇潰しをしなければならなかった。参加者の中には、「早せ田」のゼッケンをつけた車夫の清さんもいた。しかしその彼も落伍し、四三たちを含むわずかな選手がゴールを目指していた。沿道の人々が一緒に走り出したり、四三の後輩野口が蒸しパンを盗んだり、前の選手に睨みつけられたりといったハプニングの中、四三はひたすらゴールを目指した。

この予選のために買った足袋も、途中で破れて用をなさなくなっていた。羽田に戻って来た四三は足袋を脱ぎ捨て、流れ出た帽子の染料で顔を染めながら走った。羽田の嘉納治五郎は四三を見てまた伝令かと思うが、それはまごうかたなき出場選手、51番の金栗四三だった。治五郎はゴールインした四三を抱きしめる。幼い頃の「治五郎先生に抱っこしてもらう」夢が今実現した。タイムは2時間32分45秒で世界新記録だった。タイムやコースに問題があったのではないかという懸念もあったが、そのいずれも間違いはなさそうだった。水を飲ませようとする運営委員に四三はいいと断る。

「つまり、世界記録が夢になってしまってはいけないというわけだ」
客席は笑いに包まれた。その後志ん生は弟子たちや美津子から、この話についてあれこれ突っ込まれる。

志ん生、かつての孝蔵は、清さんが予選に出るため一日だけ車引きをしていた。その時橘屋円喬を浅草から人形町まで乗せ、その間円喬が『鰍沢』を稽古していたのがきっかけで、孝蔵は弟子入りを決める。円喬は偏屈で気まぐれだと小梅は言うが、孝蔵はその後円喬のお抱え車夫となった。一方四三は寄宿舎で祝宴を開いてもらい、可児は大喜びでカップで酒を飲んだりしていたが、永井に注意される。そして美川がひそかに祝宴会場に姿を現したが、中には入らなかった。

一方嘉納や天狗倶楽部も羽田で松明を持ち、どんちゃん騒ぎをしていた。四三はその夜眠れず、今回のよかった点と今後の反省点を書き出してみる。一番の難点は足袋だった。ついに一睡もできなった四三は、兄の幻を見る。その翌日から四三は時の人となり、播磨屋の表にも予選突破を祝う張り紙があった。しかし四三が店に来たのは別の目的だった。足袋が走るのに不向きであることを正直に述べた四三は、主人の辛作の怒りを買ってしまう。しかし実際、このせいで四三の足には血豆ができていた。

三島家では、弥彦の優勝には弥太郎も和歌子も無頓着だった。シマはそんな2人を快く思わなかった。弥彦はシマにスポーツは好きかと訊き、やがて女子のスポーツも盛んになると言う。さらに熊本の春野家では、優勝杯と写真に納まった四三の様子が新聞に載っていた。スヤはそれを切り取ろうとするが、嫁に行く娘がそのようなことをするなと父にたしなめられる。スヤはうなずいて、そのまま新聞をたたんだ。

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遅れて到着したことが幸いし、予選を通過した、念願の?嘉納先生とのハグも果たした四三ですが、やはりあの足袋で長距離を走るのは無理があったようです。しかしいきなり播磨屋の主人に、のっけからよくなかった点ばかり言いますかね。あとお兄さんが出て来るのがちょっと唐突、四三がうたた寝してその夢の中でもよかったかと思います。しかし美川が連れていたあの寄宿舎の猫、時々姿を現しますが、賄いのおばさんが飼っているのでしょうか。ちなみに『芝浜』ですが、あれは実際大晦日の演目であることが多いようです。クライマックスが大晦日のせいでしょうか。

それから、マラソン予選のシーンで実況ぽい設定になっていますが、あれはちょっと如何なものかと。それと昭和35年の志ん生が、『芝浜』をするつもりなのに段々オリンピック予選の方向へ話が逸れていますが、実際には彼はこれを見ていないはずですね、臨時で車引きをやっていましたし。誰かから教えてもらったのでしょうか-というかこの大河、志ん生の出番がやけに多いように思うのですが…。

それにしても三島家の人々の冷淡さは如何なものでしょうか。無論四三も兄からかけっこに夢中になるなといわれているわけですが、あそこまでではないでしょう。その反対に春野家では、金栗家の息子が新聞に載ったというので、スヤが嬉しそうにしています。それと女子スポーツに関するセリフが出て来ますが、実際これより少し前の1900年、パリ五輪で初めて女性の選手が参加しています。

いだてん第4回「小便小僧」

東京高等師範学校に入った四三は、ひょんなことからマラソンレースのポスターを目にして、参加することになります。第3位に入賞した四三は、本科生になって徒歩部(陸上部)に入る決意をします。

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昭和35(1960)年、志ん生は高等師範学校のレースの話を始める。明治44(1911)年、嘉納治五郎が三島弥彦を呼び、オリンピックに向けて体育協会を立ち上げていた頃に、その6里(24キロ)を走るマラソンレースは行われた。四三は参加したものの、出発前に小用をこらえきれなくなり、木に向かって用を足していたところを、永井道明に見つかってどなられる。選手たちは学校を出て大塚へ出るが、道がわからず迷いながらコースを走って行った。その頃車夫の清さんは足袋屋に顔をのぞかせ、オリンピックの話を振る。治五郎は校長室で、どこかに韋駄天がいると希望を持っていた。

四三は第3位に入り、銅メダルをもらった。しかも嘉納治五郎から直々に声をかけられ、予科生で入賞したのは初めてだといわれる。早速四三はこのことを熊本に知らせるが、兄実次の代筆で来た母の返事には失望した。師範学校にお前をやったのは、かけっこに夢中にさせるためではないと言うのである。しかも6里の道は無理だから、せめて歩くようにしろとも書かれていた。四三は頭から冷水をかぶりつつ、もう手紙は出さないことに決める。さらになぜ負けたのかをノートに書き出すが、美川はそんな四三に、自分は今ストレイシープ(迷える羊)の状態だと話す。

そんな美川は寄宿舎舎監の永井のことを、上から目線だ、石頭で体罰を振るうと相当に嫌っていた。その時四三は食道で、柔道をやっている徳三宝を目にする。人一倍稽古に励む徳は、食べる量も並大抵ではなかった。自分にはスタミナが足りないことを四三は悟るが、美川は稽古に励む徳を見てて思わず笑いをもらしてしまう。それを聞いた永井は美川を処罰しようとし、徳に止められるが、逆に今度は徳に体罰を加えられてしまう。

一方四三は徒歩部(陸上部)に入り、走った後は橋本や野口といった後輩たちと、豚鍋を食べてスタミナをつけた。また小用を足したくなる癖も解消された。その豚鍋屋で四三は洋装の男と、西洋人の女性に出会う。その男女こそ大森兵蔵と妻の阿仁子だった。大森は師範学校を訪問する予定だった。四三は2つの問題をクリアしたものの、走る時に何をはくかがまだ決まっていなかった。そんな時四三は播磨屋という足袋屋を訪れ、足袋を一足買って、走る際に履いてみることにする。

再び昭和35年。志ん生の弟子、五りんのガールフレンドの知恵が志ん生の家にやって来た。五りんは母親が生前働いていた足袋屋に行っているという。その足袋屋こそ播磨屋だった。

明治44年。オリンピックの予選が行われることになった。車夫の清さんが足袋を買ったところ、高師のやつらが沢山買って行ったと主人の辛作は言う。競争には100メートル、200メートル、400メートルそしてマラソンがあった。マラソンは10里もの道のりを走るため、四三たちは今までのやり方を変えることを余儀なくされる。そこで水抜きと脂抜きの方法を採り、汗を出しやすいよう厚着で走るやり方に変えた。一方大学卒業間近弥彦も、オリンピック出場を兄に咎められるが、ならばグラウンドのために出資してくれと反論する。

そのころ大森は師範学校を訪れていた。そして大森の指導のもと、羽田にグラウンドができようとしていた。清国からの留学生も工事に加わっていた。しかしそこに姿を見せていた弥彦は、自分は参加しないと言い、天狗倶楽部は運営の方に回った。また弥彦は、兄弥太郎からの融資も断られたと言う。これは嘉納にショックを与えた。何とか金は都合できたものの、韋駄天はいないのかもしれないと嘉納は病室でつぶやく。そして四三は節制の挙句倒れ、その結果自然に従えという結論を出した。やがて予選の日がやって来た。

一方志ん生も高座で芝浜をやっていたが、当日には飲むのを止められている酒を飲んだせいもあり、話がどんどん逸れて行った。

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第1回といくらか話が被ります。ただしこの回だと、嘉納治五郎がショックで倒れて入院したような印象を受けるのですが、実際は禁じられていた酒を飲んでいたからですね。ちなみに嘉納が受け入れた、清国の留学生の中にはかの魯迅もいたそうです。さて、せっかく走ることに希望を見出した四三ですが、田舎の母からかけっこに夢中になるなといわれ、いつまでも自分は体の弱い子供のままかとがっかりします。実はお兄さんから夢中になる物を持てといわれたのですけどね。まあ親から見た子供とは、いくつになってもそういうものでしょう。しかしマラソンを走りたいという気持ちから、今では考えられないような無茶をするに至ります。水抜きなんてやったらかなり危ないでしょうに…。

それと四三が、自分が克服すべき点をノートに横書きにしています。少し前に、英単語と並べてカタカナを書く時に、横書きにすると書いたことがありますが、この当時は既に横書きが主流だったのでしょうか。あとバゲットとバケツ、ちょっと苦しいかと。というか、そもそも豚鍋屋でパンを扱っている確率は極めて低いでしょうね。ちなみにバゲットという言葉が使われるようになったのは、1920年頃という説もあります。

それと美川君は、相変わらず体育会系嫌い(にしか見えません)の文学青年気取りではあります。いくら『坊っちゃん』の「人間は、好き嫌いで働くものだ」を引用して反抗してみたところで、他の皆が知らない以上、どうしようもないのですが。

いだてん第3回「冒険世界」

高等師範学校の入試に合格した四三は、美川と東京へ行くことになります。憧れの嘉納治五郎を間近で見る一方で、ここでもいだてん通学を続ける四三は、やがて初めてマラソンと出会います。

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昭和35(1960)年。古今亭志ん生は家族や弟子の今松に黙って、新しく小松という若者を弟子入りさせていた。小松は父の言いつけと言って、毎朝井戸水を浴びる習慣があった。

明治42(1909)年、18になった四三は井戸水を浴びていた。軍人に慣れなかった四三は高等師範学校への進学を考えており、兄実次に、本当は自分は嘉納治五郎に抱っこをされていなかったと打ち明ける。実次はとうに気づいていたが、四三は悔いが残ると答える。そして東京高師に合格した四三は、翌年の春美川と上京する。2人ともお上りさんスタイルである赤ゲットを羽織り、物々しいいでたちであった。金栗家の人々は万歳三唱で2人を送り出す。

車中四三は空席に雑誌「冒険世界」を見つける。それには天狗倶楽部の記事が掲載されていた。東京には天狗がいるのかと四三は驚くが、スポーツ同好会、つまり遊び人だと美川は答える。東京へ着いた2人はまだ時間があるため、その足で早速浅草の凌雲閣見物に行くが、市電の中で四三は財布をすられたことに気が付いた。

しかも彼らは小梅に声をかけられ、清さんからも人力車に乗れと誘われる。その後2人は寄宿舎へ行くが、舎監は厳しいことで有名な永井道明だった。永井は美川が持っていた冒険世界を取り上げてしまうが、美川はそれは四三の物だと言う。そのため四三は到着早々、罰として脚を直角にして肋木にぶら下がることになる。

一方天狗倶楽部のエース、三島弥彦の実家である三島家では、母和歌子が女中のシマに『不如帰』を読ませていた。和歌子は薩摩出身で、女西郷といわれた女丈夫だった。その和歌子をモデルにしたのが、『不如帰』の主人公浪子の姑だったのである。戸惑うシマだったが、和歌子は字が読めないため、適当に読んでおけと弥太郎から言われる。一方弥彦の方は、本庄の取材を受けていた。弥彦は負けた者の気持ちになってみたいと言う。

入学式の日、嘉納はさっそくオリンピックの話を持ち出し、四三たち予科生は柔道または剣道のどちらかが義務付けられた。四三は学校生活について手紙を家に送る。朝は必ず水浴びをして、食事はよく噛むため寄宿舎を出るのは一番最後だった。しかし四三はここでもいだてん通学を続けていた。財布をすられたせいもあり、電車には乗りたくなかったのである。そのため寄宿舎を最後に出ながら、学校に着くのはいつも一番だった。

夏休みになり、帰省した四三は春野スヤと再会した。スヤが歌っていた自転車節を四三は歌ってみせるが、どうにも調子が外れてしまう。しかしその後四三は、スヤが女学校卒業後に見合いをすることを知り、愕然とする。畑仕事に勤しむ四三に実次は、偉か人は熱中する才能がある、お前も夢中になるものを見つけろと励ます。四三が東京に戻る日、家族は農作業で忙しかったが、スヤが自転車で見送りに来てくれた。スヤは東京で自転車節を歌ってくれと大声で叫ぶ。

東京へ戻った四三と美川はまた浅草へ行き、『ほととぎす』という映画を見る。この映画は徳富蘆花の『不如帰』を原作にしたもので、姑のモデルになった和歌子とシマも観に来ていた。しかし内容は原作通り、和歌子が意地悪に描かれており、立腹した和歌子は抜き身の仕込み杖を振り回す。一方で四三と一緒だった美川は小梅に声をかけられる。美川は小梅の許へ行こうとし、四三は後を追おうとするが、その時車で乗り付けて来た者がいた。それは、この浅草でのマラソン大会のためにやって来た弥彦だった。

この中には清さんもいた。学生ではないからとつまみ出されてしまうが、それでも戻って来て走り続ける。どこに向かって走っているのかと尋ねる四三に、これはマラソンで、十二階(凌雲閣)とひょうたん池の周りを走っているのだと清さんは答える。これが四三に取ってのマラソンとの出会いだった。その頃美濃部孝蔵もすっかり寄席に入り浸りになり、噺の稽古を自分で始める。その後ろを四三が、自転車節を歌いながら走って通り過ぎて行った。

美川は小梅の店に行き、結局門限を破ったことで永井から罰を受ける。今度は美川が、寄宿舎の食堂にある肋木にぶら下がるように言われたのである。他の学生たちもそれを見ていた、永井がその場を去った後、四三は永井の向こうにある物を見つけた。脚を直角にしている美川に脚を広げさせ、その間から四三は向こうの壁に貼ってあるポスターを見る。それは、校内マラソン大会の物だった。

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まず「だご汁」「いきなり団子」「辛子蓮根」と熊本名物がぞろぞろと出て来ます。そして徳富蘆花の『不如帰』ですが、この蘆花は熊本の出身ですね。しかし美川君、すっかり文学青年を気取っていますが、小梅にいいようにあしらわれている感じです。それと清さんはこの頃から、学生に紛れて走っていたのですね。それと三島家の豪邸ですが、あれは『龍馬伝』の岩崎家のセットと同じ建物でしょうか。

なお三島家といえば、弥太郎・弥彦兄弟の父三島通庸は薩摩藩士で、かの大久保利通から新政府への出仕を勧められています。この人物はいくつかの県の県令を務めた後、警視総監となっています。川路利良が近代警察制度を発足させたこともあり、初期の警視総監は薩摩閥で占められていました。元々精忠組の一員でもあり、かの寺田屋事件に関与して謹慎させられてもいます。この人物の二女峰子は、大久保利通の二男牧野伸顕の妻で、吉田茂の姑、麻生財務大臣の曾祖母に当たります。

ところでここ最近の大河は、前年または翌年のを引きずっている、あるいは予告している感があります。これも歴史の時間のナポレオン、橋の上の女性と川の中の男性の関係にそれを感じます。

いだてん第2回「坊っちゃん」

予選を勝ち抜いた金栗四三は、熊本の出身でした。この人物は幼い頃わずかに嘉納治五郎を目にし、成長して中学へ行った後、治五郎が校長となっていた高等師範学校を受ける決意をします。

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昭和35(1960)年、志ん生は再び高座で金栗四三について語っていた。四三が生まれたのは熊本の玉名で、近くには西南戦争の激戦地田原坂があった。明治24(1891)年、四三誕生。名は出生時の父親の年齢にちなんでいた。父信彦は病弱で、床に臥せりがちな日々を送っていた。その頃熊本の第五高等中学校には、嘉納治五郎が校長として就任していた。明治29年、四三5歳の時にその治五郎の柔道を見るために、信彦は四三を連れて十里の道を熊本へ出かける。しかし元々丈夫でない信彦は途中で何度もばて、着いた時には人々で一杯だった。そこに煙草をくわえて座っていた男が四三を抱え上げてくれ、かろうじて治五郎の後頭部が見えた。

父子は夜遅く家に戻った。父信彦は、自分に似て弱い四三も
「嘉納治五郎先生に抱っこしてもろたけん、もう大丈夫たい」
と大ぼらを吹く。その後尋常小学校に入っても、四三には学校への山道を通うのは難しかった。父代わりの兄実次は、そんな弟を「学校部屋」に閉じ込めてしまう。ところがその実次の妻が、出産する際の息遣いを参考にした四三は、息切れせずに走る方法を思いつく。そして高等小学校に進んだ四三は、山道を難なく走れるようになっていた。

再び志ん生。子供の頃の美濃部孝蔵は、子供のころから遊びに手を染め、父親の金の煙管をこっそり質入れして、父親と警官から同時に追いかけられる。日本男児が走る時は、おまわりに追いかけられている時と、親父に命を狙われている時だけだと話す志ん生を、街頭テレビで、先日家を訪ねて来た男女が見ていた。

しかし父が吐血し、四三は春野医師を呼びに行く。その後家に走って戻る四三を春野の娘スヤが、暗いから提灯を持つようにと追いかけ、転んでしまう。そのスヤをおぶって帰宅した四三だが、父は既に帰らぬ人となっていた。母は父の遺言として、体だけは大事にと言い、祖母は例の加納治五郎の抱っこに言及する。それは嘘だと言いかける四三を実次が制する。

やがて四三は兄たちの支援で中学に入り、寮生活に入った。週末には五里の道を走って帰った。日露戦争で日本が勝利した頃で、四三は海軍兵学校に進学しようとし、教師の五条の勧めもあって冷水浴をし過ぎた挙句、風邪を引いてしまう。しかしそれでも受験勉強に打ち込むが、そんなある日成長したスヤとばったり会う。スヤは快活な女学生となっていた。しかし四三は視力検査で海軍兵学校不合格となり、しょげていた。スヤは四三を励ますために流行歌を教え、さらに軍人になれば戦がないと出世せず、戦になればなったで前線に出なければならない。妻は大変だと、まるで自分がその妻であるかのように話す。自分の体の使い方はそれぞれだと言うスヤ。

そして吉原では孝蔵が遊び回っており、勘定を払おうとしない。勘定を迫られた孝蔵は、外で馴染みの遊女小梅を見つけ、彼女にすべてを擦り付けて逃げるも、付き馬がどこまでも追ってくる。隙を見た孝蔵は寄席へ逃げ込むが、その時高座では橘家円喬が『付き馬』をやっていた。

四三は寮で同じ部屋の学生、美川が東京高等師範学校を受けることを知る。美川が差し出した『教育』という冊子のページをめくった四三は、そこに嘉納治五郎の名前を見つけた。この時既に治五郎は、高等師範学校の校長となっていた。

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今回もですが、何となく作り込んだレトロ感といった雰囲気が漂います。セットだから当たり前ではあるのですが、ちょっと違うような…という印象がなきにしもあらずです。四三が生まれてから成長して行く姿などは、結構面白いのですけどね。しかし今後もこの志ん生が登場し、明治と昭和を行ったり来たりすることになるのでしょうか。たけしさん、個人的にはもう少し活舌がよければと思います。東京が舞台の方では、それぞれの時代の、それぞれの弟子入りのきっかけを描いていますね。あとお父さんが危篤の時、春野先生がいつどうやって行ったのか、何度か観返したのですがはっきりしませんでした。

それから冷水浴を勧める中学教師の五条先生、この人物を演じているのは熊本出身の姜尚中氏ですが、これはちょっと驚きでした。

それとこの大河では、過去何年かアップされて来たフォトギャラリーが公式サイトにありません。インスタやツイッターの画像はありますが、ドラマのワンシーンだけでなく、メイキング画像も多いようです。ドラマのシーンをカットした分の画像が10枚ほどあればと思うのですが、今年は特に準備されていないのかもしれません。ちなみにこちらが『西郷どん』あらすじのページのフォトギャラリーです。
(いずれも公式サイトより)

西郷どん第1回フォトギャラリー

そして『いだてん』の方です。画像はギャラリーのページで、ここにまとまった画像はありません。

いだてんフォトギャラリーなし 

この辺りにも予算をかけてほしいです。ちなみにNHKにメールを送ったところ「総合的に判断して」やっていないということでした。この「総合的に云々」、NHKがよく使う表現ですが、具体的に何を言いたいのかがはっきりしないのが残念です。

いだてん第1回「夜明け前」

のっけから『西郷どん』関連で恐縮ですが、公式サイトやSNSは今月31日を以て運営修了=削除となりますので、コンテンツを保存したい方はお早めにどうぞ。

さて新大河『いだてん~東京オリムピック噺~』(以下、いだてん)が始まりました。第1回はニュース映画を多用し、昭和と明治とが行ったり来たりの中、最後の最後で主人公の登場となりましたね。

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昭和34(1959)年、噺家の古今亭志ん生は娘の美津子と寄席へ向かっていた。

しかし高速道路の工事中ということもあり、タクシーは一向に進まなかった。やっと寄席に着いた志ん生は、浅草から芝まで駆けた男を主人公にした『富久』(とみきゅう)を聞かせる。その頃外務省の運動会では、オリンピック招致の最有力候補とされた北沢がアキレス腱を断裂し、平沢和重に白羽の矢が立った。平沢はミュンヘンでの選考会で、小学校の教科書のオリンピックの項を持ち出し、アジアで開催するべきと主張する。これにより、昭和39(1964)年の東京での開催が決定した。

昭和35(1960)年、志ん生はまたも高座でオリンピックの話をしていた。自分もオリンピックをかじったことがあると言う。ここで時代は明治末期へ飛び、青年時代の志ん生、本名美濃部孝蔵は、自堕落した日々を送っていた。その中を1人のフロックコートの男が、車夫の清さんにフランス大使館へ行くように命じる。この男は柔道の父嘉納治五郎であった。フランス大使館についた治五郎は大使のジェラールから、前年のロンドン大会の写真を見せられ、オリンピック参加を勧められる。これはクーベルタン男爵の意向であった。

オリンピックについて色々聞かされた治五郎は、すっかりその気になる。そして治五郎の勤務先東京高等師範学校では、教授の永井道明が、奇しくも次のオリンピックが開かれるストックホルムから帰国していた。しかし永井は、日本人は体が小さいから時期尚早であると言い、スポーツでなく肋木体操を奨励していた。永井は実際にロンドン大会を見ており、「ドランドの悲劇」と呼ばれるマラソンでの出来事を話し、勝負にこだわるのは醜いと言う。しかし嘉納は諦めきれず、文部省に行って、日本体育会会長の加納に掛け合うことにした。

しかし加納は、義和団事変の際の各国の兵士の写真を見せ、日本人が体格面で劣っていること、子供たちに強靭な肉体を授けることこどが使命と強調し、一部エリートが参加するオリンピックに反対する。

その後千駄ヶ谷の三島邸の園遊会で、嘉納はこの計画を大隈重信に打ち明ける。そこには三島家の長男で、横浜正金銀行副頭取の弥太郎もいた。嘉納は融資を申し出るが、既に融資をしているうえに、弥太郎は大のスポーツ嫌いであった。そこへ弥太郎の弟弥彦が、野球ボールを追って庭に飛び込み、ちょっとしたパニックになる。弥彦は学生たちで作る天狗倶楽部のメンバーだった。大隈はオリンピック構想を皆に話すが、嘉納は融資を断られた上に、スポーツを楽しむと言いつつバカ騒ぎをする天狗倶楽部を快く思わず、決意しかけたオリンピック構想を白紙撤回しようとする。

しかしフランス大使館でスタジアムの設計図、そして日の丸が描かれたポスターを見た嘉納は、白紙撤回をあっさり退けて承諾し、ジェラールを喜ばせる。そして嘉納は一人で着々とオリンピック参加の準備を進め、日本体育協会を立ち上げる。さらに呼び出した弥彦に、世界記録に挑戦することを勧める。しかし反対派の加納、永井らとは平行線を辿る一方だった。そして再び昭和35(1960)年、志ん生の許をある青年がガールフレンドと訪ねて来る。満州にいた父が残した葉書を手掛かりに、弟子入りを申し出て来たのだった。

再び明治末期。嘉納は反対をものともせず、日本体育協会の上に「大」をつけ、大日本体育協会を立ち上げた。そして天狗倶楽部を訪ね、選手を選び出すための予選会の話を持ち出して同意を得る。さらに羽田にグラウンドを作り、マラソン選手の選考のため、線路沿いに横浜まで走って折り返すルートを選んだ。出場選手の旅費や滞在費は協会持ちで、車夫の清さんも参加することになった。しかし嘉納は、医師に止められている酒を飲んだせいか、入院を余儀なくされるがものの、当日は何としても駆け付けたいと決意する。助教授の可児徳は優勝カップまで準備していた。

韋駄天を募りたいという嘉納は、その夢まで見たと言い、可児は吉兆であると言う。そして天狗倶楽部の協力を得てグラウンドは整備され、清さんは早稲田の学生と偽って参加した。予選が始まったが、途中で参加者たちは落伍して行く。しかし雨の中を、帽子の染料で顔を赤く染めた男が、ゴールに向かって走って来た。その男こそ金栗四三である。しかもタイムは世界記録を更新していた。

志ん生は高座でこう言った。
「正に不可能を可能(嘉納)にした」
客はこの洒落に大笑いする。

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全体的に映画のような印象を受けました。やはり現在(昭和30年代)と、過去が行きつ戻りつしていること、ニュース映画が多用されていることもあるのでしょう。恐らく次回から、大河らしい感じになりそうです。

第1回の感想でこう書くのも何ですが、受け入れられる部分もあり、受け入れにくい部分もあるというのが正直なところです。今後どちらが大きくなるかによって、視聴を続けるか否かが決まりそうです。宮藤官九郎さんらしい癖のある脚本だなと思います。

ところでオリンピックに関してですが、旅費その他は国が持つとしても、この当時は純然たるアマチュアでした。従って、トレーニングの費用、あるいはコーチを雇う費用などは、選手本人が負担せざるを得なかったのです。『炎のランナー』などに、その様子が描かれています。そのためスポーツに打ち込めるだけの余裕がある、そこそこ裕福な家の子弟が多かったともいわれ、この天狗倶楽部の三島弥彦などはその典型のように見えます。ちなみにラグビーも、1990年代までアマチュアリズムを通したため、選手と休業手当の件でもめた例があります。

この天狗倶楽部ですが、そういえば、昨年の第1回でも「天狗」が出て来ましたね。あの、大砲の実験をしていた人物です。そしてここでも相撲が登場です。それと押川春浪、この人は冒険小説の第一人者といわれています。小学校卒業後、あちこちの学校を転々として、最終的に東京専門学校(早稲田大学)に入学しています。弟の押川清は野球選手で、日本のプロ野球の設立に尽力しています。

しかし私としては、志ん生を出すのもさることながら、嘉納治五郎についてもっと描いてもよかったかなとも思います。物事がやけにとんとん拍子に行っている感がありますので。無論今後じっくり描かれるのかも知れませんが。

それからサブタイトルですが、第1回が「夜明け前」、第2回が「坊ちゃん」とくれば、これはもう近代文学作品のタイトルそのままです。今後もこれで行くのかもしれません。本当はサブタイはオリジナルであってほしいのですが、一昨年のようにやたらにもじった感がないのは評価できます。

なお今回は、「史実を基にしたフィクションです」というテロップが予告の後で登場します。無論私は大河自体、史実がベースのフィクションというか、史実をフィクションでつないだものだと思っていますし、クドカン氏もそうコメントしています。しかしこうしないとクレームが来るのでしょう。特に近代を描く以上、こういう「お断り」を出さないと難しいということもありそうです。ただフィクションということは、何でもありと取られてしまいがちなので、それもまた難しいところではあるかと思います。

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『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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