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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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西郷どんの歴史的背景39-西郷星と牛鍋と上野の西郷さん

さて第47回。西郷が城山で落命した後、地球に近づいていた火星が「西郷星」として、人々の崇敬の対象となりました。この火星の接近は比較的よく起こる現象です。今年の7月にも、15年ぶりの大接近をしていますが、この時は砂嵐が巻き起こり、火星探査ローバー「オポチュニティ」に影響が出ました。しかしその火星大接近の年の大河で、この西郷星が登場したのですね。さてこの西郷星、つまり火星だけでなく、土星も実はこの頃接近していたようです。その土星の方は桐野利秋の名を取って、桐野星と呼ばれたと伝わっています。

そして西郷星を拝む人々の側に牛鍋屋があり、その2階に勝海舟がいて、西郷どん星になっちまったとつぶやくシーンがあります。この当時の牛鍋は、今のすき焼きの元祖ではありますが、調理方法はかなり異なっており、味噌仕立てで、しかも牛肉も薄切りでなく煮えにくかったといわれています。その後割下が登場し、現在のすき焼きに近くなって行きます。また白滝や豆腐などを入れるようにもなりました。尤も関西では割下を使わず、脂を敷いた鍋に肉を入れ、砂糖と醤油を振りかけるのが一般的です。

ところで糸の「うちの人はこげな人じゃなか」というセリフですが、この伏線回収には2通りあると思われます。ひとつは、こんな浴衣姿で犬を散歩させる人じゃないという意味であり、もうひとつは、逆賊ではないという意味に取れるかと思います。本来偉人と呼ばれる人であれば、銅像は正装であることが条件として挙げられるでしょう。しかし上野の西郷さんの浴衣姿に関しては、まだ政府内に反発の声があったといわれています。
こちらはその点に言及された西日本新聞のコラムです。

「西郷どん」上野の像、なぜ軽装? 背景に政府の思惑
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/syunzyu/article/474096/

しかしこのコラムにあるように、一方で、この西郷さんが親しまれるようになったのもまた事実かもしれません。

飲み物-ブラウンエール
[ 2018/12/23 00:30 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第47回「敬天愛人」その3

第47回その3です。ついに総攻撃が始まり、隆盛はじめ多くの士族がその中で散ります。糸はその後家族に、隆盛の言葉を伝えます。そしてその翌年、大久保利通は、不平士族によって絶命します。

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政府軍の総攻撃が始まり、西郷軍も反撃に出るべく私物を火にくべてしまう。ここで村田新八の腹が鳴ってしまう。隆盛は言う。
「甲突川に鰻でん取りに行きたかどん、もう時がなか。残念じゃ」
一同は笑い、その後隆盛はおはんらが侍の最後を務めるんじゃと言って号令をかけた。
「チェスト~!気張れー!」
しかし政府軍の最新式兵器の前に兵は倒れ、桂久武も弓で政府軍の軍人を仕留めたものの、銃弾を浴びて戦死する。そして桐野利秋は、政府軍に加わっていた川路利良に頭を撃たれて落命し、村田新八も自決した。

その砲声を隆盛の家族たちも、島津久光と海江田孝次も聞いていた。従道は、東京へ帰ることにした。辺見も銃弾を受けて死亡、隆盛は右脚を撃たれるも、鬼神の如き表情で政府軍に立ち向かう。その時、彼の腹部を弾がかすめた。
そして糸は、屋敷内の祠に一礼し、おやっとさあでございもしたと声をかける。その時犬の鳴き声がした。ツンとゴジャが戻って来たのである。糸はことの次第を悟ったようだった。そして家に戻った大久保利通は、戦が終わったと満寿に伝えた。満寿は吉之助さあはと問いかけ、利通は帽子と鞄を取り落として泣き叫ぶ。
「吉之助さぁ~!!」
再び明治37(1904)年、菊次郎は「父は天を敬い、人を愛しました」と話していた。さらに己の身を捨ててでも人を愛したからこそ、これほどまでに人から愛されたのだと思いますと話した。

隆盛の死は方々に知れ渡った。徳川慶喜の邸では、ふきがそのことを伝えていた。皆を放っておけなかった、立派なお侍というふきに、慶喜はこう言った。
「俺みたいに逃げればよかったんだ、牛男」
そして巷では、錦絵により西郷星が評判になり、その星に手を合わせるといいことが起こると信じられていた。牛鍋屋の2階では、勝海舟がこうつぶやいていた。
「とうとう星になっちまったかい西郷どん、龍馬とよろしくやっててくんな」
この西郷星の正体は火星だった。奄美では愛加那が別れの唄を歌っていた。そして東京では、自分の屋敷を建てた従道が、鰻を食べながら涙していた。この屋敷は、兄たちを迎えるために建てたものだったのである。

西郷家は元の平穏を取り戻していた。そして菊次郎は熊吉の肩を借りて戻って来た。菊次郎の失われた右脚には義足がつけられていた。
「兄さぁ、もう杖はいらんとな」
寅太郎が声をかける。菊次郎は「見ちょけよ」と言い。義足の感触を確かめるように、ゆっくり歩いて見せた。その後糸は、隆盛が使っていた毛皮の敷物の上に「敬天愛人」の揮毫を広げ、家族に隆盛の言葉を言って聞かせる。自分の死で言いたいことも言えなくなってはならないこと、これからの国作りは家族たちに託されていること、逆賊の子であることを恥じることはないと話す糸。寅太郎は、父上は西郷星となって皆に拝まれているというが、糸は夫はそのようなことを喜ぶ人物ではなく、弱い物に寄り添って奔走し、心の熱い「ふっとか」お人であったと伝える。

翌明治11(1878)年5月14日、利通は内務省から赤坂の皇居へ向かおうとしていた。相変わらず減らず口を叩く岩倉具視は、新富座で団十郎が西郷を演じて大当たりらしい、見に行かないかと誘う。大久保はいずれと言い残し、馬車を走らながら、いつか懐中にしまっていたCangoxinaの紙を見つける。しかしその直後、不平士族らに馬車を止められてしまう。彼らは斬奸状を見せ、利通を引きずり出してめった突きにした。利通は抵抗するすべもなく、全身に傷を負っていたが、
「おいはまだ死ねんど、やらねばばらんこっがある…」
こう言って、例の紙に手を伸ばしたが、既に立ち上がるだけの力はなくその場に倒れた。その時、吉之助の声が聞こえたような気がした。
「大久保正助を忘れて来た」
それは、かつて共に肥後へ向かった時の吉之助の声だった。

再び城山総攻撃の日。腹部に銃弾を受けた隆盛は、渾身の力を振り絞って起き上がろうとしたが、最早立つことはかなわなかった。地面に倒れたまま青空を仰いだ隆盛は、消え入るような声でこう叫んだ。
「もう…ここいらでよか…」
それが隆盛のいまわの言葉となった。

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まず「晋どん、ここいらでよか」がなかったのに驚いた人も多いかと思います。私も当初はそう考えていましたが、皆が武器を取って立ち上がった時に、その可能性は薄いなと感じました。そして隆盛が腹部を撃たれた時、これは今までとは違う方法で行くなと思いました。あのシーンを楽しみにしていた方には残念だったでしょうし、ああいう形での出撃があるのかとも思われますが、あれはあれでまた一つの描き方ではあるでしょうし、むしろ意図的にそれを描かなかったといえるでしょう。

そしてツンとゴジャが戻って来ることで、糸は何かを感じ取ったようです。それが彼女が家族に、隆盛のいわば遺言を伝える動機になったともいえます。そして大久保利通、満寿にどのようにして隆盛の死を伝えるかと思っていましたが、ああいう方法で来ましたか。無論自分が提案した降伏を受け入れなかったことから、多少の覚悟はしていたでしょうが、ある意味自分が隆盛を殺したようなものですから、かなりの責苦に苛まれていたかとは思われます。しかも自分は鹿児島に行かず、勧業博覧会に力を入れると言った、その同じ場所で隆盛の死を悲しむことになったわけです。

それから市川團十郎、この時は九代目の時代ですね。以前團菊爺・菊吉爺というのをご紹介したことがあります。要するに「昔はよかった、それに引き換え今のは」ということなのですが、この團菊の團がこの人物です。新富座に多く出ていたのは、正に岩倉が言った通りです。この人は歌舞伎の改革にも力を注ぎ、歌舞伎俳優の社会的地位を上げたことでも有名です。前の市川團十郎、今の海老蔵さんの亡くなられたお父様の三代前に当たります。

西郷星の後、ヒー様こと徳川慶喜(この時点では雰囲気こそ違えど、ヒー様に戻っている感があります)と勝海舟が登場します。しばらく登場していなかっただけに、やや唐突感がなくもなかったのですが、そこは関連人物故入れないわけには行かないでしょう。面白いのは、この2人が牛つながり(無論隆盛も「牛男」ですが)だということです。ヒー様は絵、勝海舟は牛鍋屋です。ちなみに松田翔太さんは1985年生まれ、遠藤憲一さんは1961年生まれでそれぞれ丑年ですが、これは何か関係があるのでしょうか。あと隆盛が鰻を取りに行きたいが時間がないと言うところ、従道が鰻を食べているところ、いずれも降伏を促す手紙が関係していそうです。

大久保利通を演じた瑛太さんの、公式サイト内「週刊西郷どん」のコメントにもありましたが、この人は本当に幸せだったのでしょうか。隆盛がある意味周囲から担がれたとはいえ、仲間と共に散って行ったのに比べると、思い残すこともあったでしょう。しかもかなり孤独な人物として描かれており、実際そうだったのかもしれません。だからこそ最後の方で、吉之助と呼ばれていた頃の隆盛が、出迎えに来るという設定になったと思われます。この大河では、死に方も共通したところがありますし、それで敢えて隆盛に自決させなかったとも取れます。ところでこのような事件の再発を防ぐため、その後要人には近衛兵が付くようになったそうです。今でいうSPです。

[ 2018/12/21 01:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第47回「敬天愛人」その2

では第47回その2です。城山は包囲され、大久保利通は西郷の助命と引き換えに降伏を迫ります。しかし隆盛は降伏せず、利通は落ち着かない気持ちでスピーチを始めますが…。

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政府軍が包囲を始めて9日が経ち、軍の陣営では総攻撃を望む声が強くなっていた。しかし山県は言った。
「今ここにおる者(もん)で、西郷さんの厚意にあずからんかった者がおるか」
「西郷さんが賊になり下がったと、心から思うておる者がおるか」
事はそう易しくないと、山県は厳しい表情を浮かべる。川路利良は、隆盛以下隊長たちの自裁を条件に降伏を呼びかけようとする。砲撃で死なせるのではなく、名誉の死をという山県の考えだった。その時、東京から大久保利通の電信が来た。それは、大久保利通からのものだった。従道はそれに目をやり、城山に連絡させる。

利通が伝えたのは、明日午前4時に総攻撃を仕掛けること、しかし午後5時までに降伏すれば、西郷は助けるということだった。その手紙を見た隆盛は、利通の手紙に甘いと漏らし、自分に情けをかければ、自分の首を絞めることになる。こげな情は受けられんと言う。西郷先生だけでも助かって、また新たに動きを起こしてくれという桐野達に隆盛は、自分が死ななければならない、そうすれば不平士族たちも別の行き先を見つけると言う。

利通は内国勧業博覧会に出席していて、海外の来賓に各県の出品を説明していた。しかしある県だけ出品がなかった。それは鹿児島だった。戦の件を切り出された利通は、
「大丈夫、もうすぐ戦は終わります。いや、日本から戦そのものがなくなります」
こう断言した。そして時計に目をやったところ、約束の5時まで30分ほどだった。しばらくして鹿児島からは、隆盛が降伏しなかった旨の電信が届く。その直後利通は演説を行わねばならず、最初の方こそうまく取り繕ったが、「侍が作った日本を…」と言いかけて言葉に詰まり、ついに気になっていた鹿児島県の札を外してしまう。鹿児島でも山県、従道が懐中時計を見ていて、5時になったのを見定めた。

城山で隆盛は、自分は死ぬ用意ができていることを伝え、またこれ以上の戦を防ぐためにも自分は死ぬべきだと話す。村田も、隆盛だけが生き残ることはないと信じていた。その夜最後の酒宴で、若いもんにはもう少し別の死に場所を見つけたかったと言うが、桐野はじめ一同は、桜島を観ながら死ねるのだから、これほど最適の死に場所はないと叫ぶ。また村田新八のフロックコートがあまりにも臭いと言う西郷だが、これは大事な物であると新八は言う。その裏には女性の写真が縫い込まれていた。その夜隆盛は例の脇差を前に、ようやく殿の言われた時代が来もすなと一人話しかける。そして翌朝、政府軍の攻撃が始まった。

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この降伏に関しては、実際は山県有朋の手紙によるものといわれていますが、今回は大久保利通が電信で伝え、それを書状にした物を渡しています。ただし話を切り出したのは、やはり山県となっています。山県も一旦は不祥事で役職から外されたものの、その後徴兵令の制定などで、隆盛はこの人物を呼び戻しています。そして、村上新悟さんのあの独特の声が、この軍議のシーンで生かされました。

しかし自分に情をかけてはいかんと、その要求を受け入れなかったことが、逆に利通に十字架を背負わせる原因となってしまいます。折あしく、内国勧業博覧会で演説を始める直前のことで、案の定途中で言葉につまり、しかも自分の視界に入って来る「鹿児島縣」の表示が目障りで仕方なかったようです。この書状の左の方に、「兄と甲突川で鰻を取り」といった文句が見えます。これは従道関連でしょうか。ところで再来年つながりになりますが、このシーン、『国盗り物語』の小説の方で、本能寺攻撃を前にした明智光秀が放心状態で、直前の連歌の会で粽を出された際、笹をむかずに口に入れていたという描写を思わせます。

ところで利通の手袋、ドレスグローブと呼ばれる物ですが、どうやらセーム革のようです。その一方でかなり汚れまくった村田新八のフロックコート、実は内側に、フランス人女性と思しき人物の写真が縫い付けられていました。何だか服の色にふさわしからぬ赤い糸で、しかも縫い目が粗いところを見ると、自分で縫い付けたのでしょう。それから先日書いていた『ラ・マルセイエーズ』を演奏するシーン、あの辺見十郎太が歌い出すシーンの作詞は、公式ツイッターによれば田上晃吉さんだそうです。

[ 2018/12/19 23:45 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

お詫びと関連話題

まずお詫びです。『西郷どん』第47回後編のアップは明日になります。というか、前・中・後に分けるかも知れませんので、悪しからずご了承ください。それから、今日書こうと思っていた感想をここで2つ書いておきます。

西郷従道が西郷家を去った直後に糸が現れます。この時従道は、脱帽のままで敬礼をしています(西郷どん公式サイトより)。

西郷どん47西郷家を去る従道

通常挙手の敬礼は帽子をかぶったままなので、不思議に思った方もいるかもしれません。しかし明治6年の陸軍敬礼式によると、将校は顎紐なしの帽子をかぶっている時は、帽子を取ると規定されています。

この場合挙手敬礼なのか普通のお辞儀なのかは不明ですが、その前の部分で、顎紐付きの帽子の場合は右手を挙げて帽子に及ぼす(この場合、届かせるといった意味か)とあるので、顎紐なしの場合も、帽子を脱いだうえで同様にするということでしょうか。その意味であれば、これは正しいといえます。

尤も延岡で山県有朋に会った時は、帽子を脱いで普通にお辞儀をしています。あるいは相手が兄嫁の糸だからということで、例外的にこういうポーズをしたともいえそうです。ちなみに陸軍軍人がすべて帽子に挙手で敬礼を行うのは、明治20年に陸軍敬礼式が改正されてからです。

なおこの明治6年の陸軍敬礼式は、国会図書館のデジタルコレクション「布告類編. 明治6年」の第4巻、78ページから始まっていて、帽子と敬礼の関係については第6条となります。ネットで閲覧可能です。かの徴兵令についても記されています。

それから村田新八が城山で最初に弾いていた曲は、ヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』に登場する『我らの山へ(Ai nosti monti)』です。あの山へ帰ろうと、ジプシーの老婆アズチェーナと放浪の騎士マンリーコ(実は伯爵の弟)が歌う設定です。考えてみればこの城山も、西郷軍にしてみれば「我らの山」というべきなのかもしれませんし、イメージは違えど、何となく「ロビン・フッドと仲間たち」という印象もなきにしもあらずです。

飲み物-コーヒー
[ 2018/12/19 01:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第47回「敬天愛人」その1

今回は最終回で拡大版なので、前半と後半とに分けます。市長室の菊次郎が再び登場します。父が揮毫した「敬天愛人」の額を掛けさせた後、西南戦争敗走の顛末について話し始めます。

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明治37年京都。西郷菊次郎は「敬天愛人」の額を市長室の壁に掛けさせ、話を切り出した。新しい時代が大きな波となって押し寄せた時、その波に乗り切れない者が出て来ると言い、さらに、父西郷隆盛は御一新から取り残された侍たちを抱きしめ、飲み込み、連れ去りましたと続けた。
明治10(1877)年8月17日、西郷隆盛一行は延岡を発って、糸や菊次郎、熊吉を残して終焉の地鹿児島に向かった。菊次郎の言葉がかぶる。
「1日西郷に接すれば1日の愛が生じ、3日接すれば3日の愛が生じる。親愛の情は日々募り、最早去ることができない。ただただ生死をともにしたい」
隆盛に従ったある人物の言葉だった。その後陸軍卿山県有朋が、糸や菊次郎がいる病院を訪ね、どこへ行ったのかと尋ねるが、彼らは何も答えなかった。そこへ、やっと許可を得て駆けつけた陸軍卿代理の西郷従道が駆け付けた。

従道は菊次郎の脚が片方ないのに気づき、義姉の糸に頭を下げるが、糸は、政府の偉いお方がそのようなことをするものではないと諫める。すると山県へ連絡が入り、西郷一行は可愛岳(えのだけ)を経て小林、さらに南へ向かったという情報が入る。その南は鹿児島だった。西郷一行は城山へ登って桜島を眺める。隆盛は子供の頃、この場所でCangoxinaと書いた石を見つけて懐かしむ。鹿児島を政府軍から取り戻そうと、政府軍を相手に西郷軍は戦闘を開始した。最初は功を奏したが、やがて政府軍の兵器の前に手も足も出なくなり、城山の山中に退却するしか方法はなくなった。

大久保利通は、内国勧業博覧会の準備に勤しんでいた。その頃鹿児島の家が焼けたという連絡が入り、お前たちを呼んでいてよかったと言う。満寿は、鹿児島のお仲間の許へ行かなくていいのかと夫に尋ねるが、利通は妻を諭した。
「口が過ぎる」
その頃糸と菊次郎、熊吉も西郷家へ戻っていた。しかし宗介は隆盛と一緒であることを知った琴は、いますぐこの戦をやめろ、兄さぁを殺す気かと従道に詰め寄る。その琴を、菊次郎たちが無事に帰れたのは信吾のおかげじゃと川口雪篷がたしなめる。そして寅太郎は叔父に命乞いをするが、西郷家の恥じゃと糸は厳しく叱る。そして去って行く従道は、出て来た糸に、兄は城山にいると言うが、糸は既に覚悟を決めており、あなたも覚悟のうえで政府軍に留まることを選んだのだから、役目を果たせと伝えてこう言った。
「きっと旦那さぁもそう仰せらるに違いなか」

城山では村田新八が手風琴で『我らの山へ』を弾いていた。しかし調べが悲しいため、隆盛はもっと賑やかなやつを聞きたいと言い、村田は帽子に投げ銭をと言って、『ラ・マルセイエーズ』を弾き始めた。一同はそれに合わせて踊り、隆盛までもが踊りの輪に加わる。村田の帽子には、軍票(西郷札)が次々と投げ込まれた。その頃利通は引き出しのペーパーナイフを取り出そうとして、ある袋を見つけた。それはかつて隆盛から貰った、Cangoxinaの紙が折りたたまれて入っていう袋だった。子供時代の思い出が利通の脳裏に蘇り、隆盛のこの言葉が響いた。
「世界に負けん日本国をつくってくいやい」

その頃鹿児島の政府軍陣営では、城山総攻撃について議論されていた。

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西郷軍は延岡から山越えをして、ようやく鹿児島までたどり着きます。小林市まで来ると霧島連山が見えてくるので、隆盛たちは故郷に戻った気分になったでしょう。ところでこの回では、糸の存在感もかなり大きいです。

まず延岡の病院で、従道は菊次郎が右脚を切断したことを知り、西郷家の人々に頭を下げます。それを止めるのが糸です。さらに西郷家へ戻り、父の命乞いをする我が子寅太郎を糸が止めます。糸は隆盛の立場も、従道の立場も理解していました。一方で琴は宗介が隆盛に同行したことを知り、弟の従道に戦をやめろと感情をむき出しにして、雪篷に止められます。雪篷は琴に、従道の立場も理解しろと言いたかったのでしょう。

利通の妻満寿が登場します。満寿は鹿児島に行って加勢しなくていいのかと夫に尋ねます、この点前回の従道とちょっと似ています。しかし利通は口が過ぎると満寿を叱ります。利通は如何に内国勧業博覧会を成功させるが、そちらの方に腐心していました。しかし机の引き出しから見つけたあの袋と紙に、いくらか心が揺れるものはあったでしょう。結局あの2つは最後まで登場しましたね。

そして村田新八の『ラ・マルセイエーズ』、ちょっと興味深いです。無論当時は日本では知られていなかったでしょうし、皆勝手に歌詞をつけて踊るわけですが、元々この局は革命歌です。それが反乱軍とされた自分たちにふさわしいと思ったのかも知れないし、また、この曲のちょっと残酷な歌詞(汚れた血で俺たちの畑の畝ををうるおせ)というのも、あるいはこのような場であることを意識してのことでしょうか。六四天安門の時にも歌われたらしい。しかし新八さん、すっかりヨーロッパの大道芸人風ではあります。

それから鈴木亮平さんのブログの情報ですが、糸が菊次郎の看病に行く話、地元の証言があるようです。無論桂久武と一緒であったとか、その後隆盛と差しで話したかどうかはわかりませんが、延岡までは行ったらしいです。詳しくは鈴木さんのブログ『Neutral』の「敗走(西郷どんこぼれ話46 vol.2)」に記載されていますので、そちらをご覧ください。

[ 2018/12/18 01:30 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

『西郷どん』最終回直前スペシャル

では最終回直前スペシャルについて。鈴木亮平さんの役者魂と先日書きましたが、この人の役へのなりきり方は、やはりすさまじいというか驚異的なものです。肉体改造してしまうのも、その一環といえそうです。クランクアップの時に「生ききった」というコメントがありましたが、収録期間中は正に西郷その人としての人生を送っていたのでしょう。

特に大河で、しかも西郷隆盛の人生のような「濃厚な人生をフィクションとはいえ自分が演じ、それを持ち帰る」(本人談)とコメントする辺り、最初から最後までかなり熱意を持っていたと感じ取ることができます。また奄美大島や沖永良部島での、時系列に沿わない撮影には、役作りで戸惑いを覚えることもあったようです。そういったせいもあるのでしょうが、自分の実年齢を超えた役は難しいとも言っています。

またこれは、4月のスペシャルでも放送されていたかと思いますが、渡辺謙さんに対しては、大先輩ということで接しているようです。なおかつ大久保利通役の瑛太さんとも、いうなればバディ感覚なのでしょう、互いに目を合わせるだけで、意思疎通がちゃんと出来るということなども語られていて、撮影裏話というか、主役本人が「如何に西郷になりきっているか」を強調した作りになっていました。

その一方で鹿児島行きとか、楽屋での雑談などは「この人ちょっと可愛いな」という印象もまたありました。しかし、やはり薩摩弁には苦労したようですね。その一方でもう一人の重要人物(この大河ではダブル主役ではないにせよ、準主役ではあるでしょう)、大久保利通を演じる瑛太さんもまた、大久保本人と一体化していたような感があります。

瑛太さんは実際撮影中に白髪が増えて、本当に胃痛も覚えたとのこと。特にニッコームックでの『西郷どん 続・完全読本』では、かつて『翔ぶが如く』で大久保役を演じた鹿賀丈史さん、今回は島津斉興を演じていましたが、クランクアップ時に「がんばってな」と声をかけたとのことで、確かに大久保役はかなりしんどいものがありそうです。友を裏切るに等しい部分もありますし。

楽屋やロケの雑然とした風景と、それぞれの出演者(西田敏行さん、小栗旬さんを含む)のインタビューの構成は結構面白く、45分枠でしたが楽しめました。しかし瑛太さんのクランクアップ時、鈴木さんが馬車に花束抱えて乗っていて、おやっとさあと下りて来たの、とんだサプライズでしたね。着物にシルクハットというミスマッチな格好だし、一瞬誰かと思いました全く。

飲み物-レッドビール
[ 2018/12/17 01:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どんの歴史的背景-最終回前番外

最終回直前スペシャルを観ました。その感想はまた書きますが、何というか鈴木亮平という俳優の役者魂を感じさせます。ところで今回はこちらもスペシャルで、番外編とさせて頂きますので、大河とは関係のない話も出て来る可能性もあります。

前にご紹介した帽子から行きます。桐野利秋の黒のソフト帽ですが、これが『怪傑ゾロ』のように見えると書いています。ただしゾロがかぶっているのはソフト帽ではなく、コルドバ帽(Cordovan hat)と呼ばれる上が平らな帽子です。(尚インディ・ジョーンズの帽子はソフト帽の一種です)このゾロを扱った映像作品は、実はアントニオ・バンデラス主演のしか知らなかったのですが、かのアラン・ドロンも演じているのですね。ゾロとはスペイン語で狐のことですが、Zが濁音にならないから正しくはソロでしょう。

それから西南戦争で、敗色が濃くなった西郷軍は宮崎へ移動します。元々宮崎の一部は薩摩藩の領土でしたが、一度宮崎県となった後、明治9(1876)年に鹿児島県に組み込まれてしまいます。この時は宮崎県そのものが鹿児島県に併合されていました。そのため彼らに取って、宮崎はいわば地元だったわけです。それを思えば、農家の人々が握り飯を差し入れるのも納得が行きます。西南戦争終結後に宮崎県は再度県となりますが、これは戦後の復興が、宮崎は後回しにされたせいだともいわれています。

ところで鈴木亮平さんだけでなく、役作りのために太ったり痩せたりする俳優さんはいるもので、『新選組!』の撮影時に、香取慎吾さんが20キロ近く痩せ、また最終回が近くなってからは、逆に太るようにしたという話があります。それから『マスター・アンド・コマンダー』の中で、ラッセル・クロウ演じるオーブリー艦長もかなり太っていますが、これも役作りでチーズバーガーばかり食べたとの由。この艦長は作品中でもチーズトースト大好きですからね。

そして村田新八の楽器、公式サイトやSNSではアコーディオンとあります。しかしアコーディオンは左右非対称なのが特徴なので、恐らくバンドネオンだろうと思っていました。元々は「手風琴」で、これにはアコーディオンとバンドネオンの両方の意味があります。しかしバンドネオンでも結構大きいので、コンサーティーナという楽器の可能性もありそうです。これはバンドネオンよりも小型で、民族音楽に使われることも多い楽器です。また小説によっては、村田のこの楽器をコンサーティーナとしている物もあります。

それから薩摩大河、一度大久保利通メインの物を観てみたいなと思います。薩摩というとやはり西郷隆盛ではあるのでしょうが、そこを敢えて大久保を主人公とするという方法もまた、あっていいかと思います。

そしてかの武者氏についてですが、大河コラムで「こんなのを観るとIQが下がる」(BBC『シャーロック』の「ベイカー街のIQが落ちる」というセリフにちなんだもの)とか、OPのテーマがアホみたいだといった表現が出て来ます。こういう表現方法は「レビュー」を書くうえで如何なものかと思うのですが…『武将ジャパン』を読むとIQが下がるとか、武者氏の好きな『直虎』のテーマはアホみたいだという文章が仮にあった場合、ご本人はどういう反応をするでしょうか。

飲み物-缶ビール
[ 2018/12/16 01:00 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第46回感想続き

まず先週になりますが、『西郷どん』から『いだてん~東京オリムピック噺~』へのバトンタッチセレモニーです。

「西郷どん」鈴木亮平から「いだてん」中村勘九郎&阿部サダヲにバトンタッチ
(映画ナタリー)

今度の主人公の一人は陸上選手だから、正にバトンタッチといえそうですが、バトンでなくてたすきでしたか。しかし足袋というと、どうしてもあの『陸王』を思い出してしまうのですが。

そして田原坂の戦いです。この中で薩摩出身者同士による戦いといったナレがあり、また「薩摩士族だけでなく」とも言ってはいるのですが、字幕を出さないとちょっとわかりにくいので、ここで補足させて頂きます。抜刀隊に西郷軍の兵が斬られたシーンの2人は、庄内出身の伴兼之と、その兄鱸成信と思われます。伴が斬られたため榊原正治が駆け付けようとします。結局榊原も斬られるのですが(実際はその後の人吉城の戦いで負傷後に死亡)、この伴を斬った抜刀隊の人物が、鱸成信と設定されていますので、
「薩摩士族だけではなく、庄内出身の伴と榊原も戦死し、しかも伴の兄鱸成信は抜刀隊に加わっていた」
でよかったかもしれません。

再び牢獄関連です。かつての仲間じゃないかと言う大山ですが、大久保利通は至って冷静というより冷酷な印象を与えます。そしてこの2人の間には、かつての仲間同士とも思えないほどの溝が広がっていました。何よりも今や賊軍、朝敵となった西郷軍を公金で補助した大山は、隆盛同様に罪人だったわけです。権力を握ると冷たくなるというよりは、冷たくならざるをえないのかも知れません。政治も外交も駆け引きが求められ、しかも清濁併せ飲む必要があるのです。実は今日ツイッターで知った記事に、こういうのがあったので、興味のある方は検索してみてください。
「首相とか大統領とか、権力の座に就いたものにしか(私注・権力の)味は分からない。蜜の味と期待する人がいるかもしれないが、残念ながらそんな味はしない。苦い味で、苦さはレベルを上げていく」
利通もまた、連日苦い薬を放り込まれているような思いだったのかもしれません。

そして糸です。軍人を毅然と追い返しますが、実際は政府軍が鹿児島に入って来てため、避難していたといわれています。ただし避難した時期がいつかははっきりしません。また糸が隆盛の許へ会いに来るわけですが、あるいはその時他の家族をどこかへやり、自分は負傷した菊次郎や熊吉と共に帰る予定だったのかとも考えられます(ただかなり危険を伴いそうです)。次回この答えが出るでしょうか。

そして勅使柳原前光(さきみつ)が鹿児島に入ります。この人物が妾に産ませた娘が、柳原燁子、後の白蓮です。この人に関しては、数日前に『花子とアン』絡みで触れました。また妹の愛子は明治天皇の側室で、大正天皇の生母です。つまり前光は、大正天皇の伯父ということになります。

その勅使を迎えた国父様、島津久光ですが、西郷を止めるようにとの命令に、大胆にも(この人は前からそうですが)「シサツ」の2つの意味はどちらであったのかと問い、さらに改心すべきは政府の方だとまで言います。明治後も髷を切らず、和服を通すのと同様、自分の意志を貫くことにはこの人物は長けていました。この人物の扱いには政府も腐心したようです。しかし海江田武次も、未だに和服と髷ですね。

飲み物-ホットカフェオレ
[ 2018/12/12 00:30 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第46回「西南戦争」

動き出した隆盛に対し、先手を打って逆賊討伐の詔を得る大久保利通。それを憂える木戸孝允と、この状況に悩む従道。そして糸は家に来た政府軍将校を敵であると追い返し、一度鹿児島に戻った桂久武と共に西郷陣へと向かうことになります。

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隆盛が直訴のため、私学校の関係者や学生と共に東京へ向かったことは政府にも届いた。これに関して木戸孝允は、西郷は担がれたのではないかと大久保利通に言い、従道は、立ったのは事実だが理由はわからないと述べる。しかし利通は冷ややかに、三条実美と岩倉具視に、西郷討伐の詔を天子様より得たいと依頼する。一方隆盛の一行は熊本の南の川尻に到着した。その時熊本城と城下から、火の手が上がっているのを皆は目にする。自分たちを通さないつもりであることを悟り、鎮台を襲撃しようとするが、村田新八は目的は直訴であり、こちらから手を出すなと止める。しかしその2日後、一行は夜襲を掛けられた。

夜襲を仕掛けたのは鎮台の兵だった。西郷が逆賊であることは既に知れ渡っており、戦わずして熊本を北上することは困難になった。隆盛はそこでほぞを固める。桐野利秋は一同に、何としてでも東京へ行くと檄を飛ばした。しかし政府軍の援軍は8000となり、しかも田原坂と吉次峠、二手に分かれて交戦すると見た桐野は、自分たちにまかせてくれと篠原国幹とその場を離れる。隆盛は言った。
「おいの体はおはんらに預けたで」
初陣の菊次郎は叔父小兵衛、従兄の市来宗介と共に戦場で敵を撃ち倒した。その間にも不平士族が続々と集結し、私学校の学生1万3000人であったところへ、さらに3000人が加わった。

このことは東京へ届けられた。西郷方の斬り込み戦術に政府軍は苦戦しており、川路は警視庁警視隊を編成する。田原坂では雨の中激戦となり、これが十数日に及んだ。しかも投入された警視抜刀隊はかつての薩摩士族が多く、かつての同志が相対する戦いとなった。新政府軍の最新式兵器の威力はすさまじく、結局西郷軍の兵は退却せざるを得ず、篠原国幹も銃弾を浴びて戦死した。その西郷軍の劣勢を、川路が悲し気に見つめていた。従道は自分が九州へ行き、兄を止めようとする。しかしそれでは、兄弟同士で命を奪い合うことになると、妻の清が止める。もし失敗したら、兄と共に戦いたいと言う従道に、清は賊軍になるのはやめてくれと頭を下げて頼む。

そして熊本では、小兵衛が自分の小隊を連れて退却していた。そこで菊次郎が、敵の死体のそばにある銃弾を拾おうとするが、小兵衛は先を急がせる。その時銃剣を持った敵方が現れ、菊次郎は脚を撃たれる。小兵衛は菊次郎を宗介にまかせ、自分は剣を抜いて敵の前に躍り出た。
「西郷隆盛が末弟、西郷小兵衛じゃ」
敵方の銃剣が火を噴き、小兵衛はその場にくずおれた。隆盛は野戦病院を訪れる。そこには右脚を負傷した菊次郎がいて、また小兵衛の遺体も安置されていた。小兵衛の遺体を目にする隆盛に、菊次郎は涙を流す。

その頃鹿児島では勅使柳原前光が島津久光を訪れ、西郷軍を止めるように久光に依頼する。しかし久光は、先に視察団を送り込んだのは政府であったこと、しかもそれは「視察」と「刺殺」のどちらかと問い、返事に窮する柳原に、答えられぬのが答えであるかと言う。また改心すべきは政府であると言い、賊の西郷を庇うのかと問われてこう答える。
「道理の通らんこつだけは、断じて承服するこつはできもはん」
西郷軍は北上を断念して人吉へと逃れた。最早歩くのが難しい菊次郎は、共にいた熊吉に殺してくれと頼み、父隆盛が近づいてきたのを見て、最期は父上の手でと懇願する。しかしその代わりに隆盛は菊次郎を背負って歩き始めた。

その頃木戸孝允は病に臥せており、間もなく息を引き取る。死に際に木戸はこう叫んだ。
「西郷君、いい加減にせんか!」
また大山綱良は県令ながら、隆盛に加担した罪で東京で投獄された。大山は利通との面会を希望し、直訴の件を伝える。しかし利通はにべもなく、西郷は友人の前に大罪人、彼が立てば他の不平士族も立つ、これを日本最後の戦にするために討伐する旨を明かす。大山はならばこれで終わりじゃ、新七と2人であの世で待っとる、おはんだけ極楽に行かせんぞと悪態をつく。そして西郷家に軍人たちがやって来て、従道の命により、家族を軍の元に保護すると言うが、糸は、敵の世話などにはなりもはんと毅然と言い放つ。また雪篷も言った。
「戦に夫を送り出した妻たちの心意気じゃ、お前らにも分かっどが」

すると今度は駕籠を背負った百姓風の男が2人やって来た。それは桂久武と供であった。武器や食料を集めに戻り、小兵衛の戦死と菊次郎の負傷を伝えに西郷家に来たのである。糸は、自分も連れて行ってくれと頼む。そして8月、菊次郎は戦線を離れて延岡の野戦病院にいたが、負傷した右脚は切断されていた。生かしてやってくれと言う隆盛の配慮だった。その後西郷軍は苦戦し、兵の数は3500人にまで減っていた。延岡に近い俵野の陣で、そこでも地元の民の差し入れがあり、皆は久々に元気を取り戻す。しかし隆盛はツンとゴジャを話した。そこへ熊吉が菊次郎を連れてやって来て、隆盛は皆に軍の解散を宣言した。

自分たちの行くところがすべて戦場となり、しかも今日の握り飯の礼もできないと言い聞かたうえで、生きたい者は降伏し、死にたいものは死ねと言った隆盛は、自分に区切りをつけるべく軍服を火にくべる。そこへ桂と糸が現れる。糸は菊次郎が生きていたことを喜ぶ。政府軍がそこまで迫っていたため、隆盛たちはすぐに出発する必要があった。菊次郎は自分もと頼むが、病院にいれば安全であること、そして若い者は投降しろと諫める。その夜糸は隆盛と差しで座り、こういった。
「西郷隆盛じゃなかったらどんなによかったか」
「吉之助さあがただのお人じゃったらどんなによかったか」
隆盛は静かに糸の肩を抱いた。

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最後のシーン、無論これはフィクションなのでしょうが、前回の囲炉裏のシーンの伏線回収のようにも取れます。実際夫が政府のためにも働かず、また私学校も作らず、農作業だけに打ち込めたら平和に暮らせたのに、というのは糸の思いでもあるでしょう。しかもこれだけ大きな犠牲を払うこともありませんでした。ただ時代的に不平士族があちこちで立ち上がっており、その意味で人望があって、なおかつ中央政府にも顔が利くであろう隆盛を、周囲が放っておくはずはありませんでした。仮にこの時立たなくても、何らかの形で似た運命を辿ったのではないかとも思われます。

ちなみに北上途中の吉次峠の戦いと田原坂の戦い、これはかなりの激戦でした。本編後の紀行で銃弾がいくつも紹介されていましが、当時の兵士が所持していたお金も発見されたらしい。先日、鈴木亮平さんのブログ記事に、時代考証の方が「汽船も使えたはず」と言っていたとあったことをご紹介しましたが、なぜそれをやらなかったのか。むしろ隆盛は、こうなることを予見して陸路を選んだと取れなくもありません。さらに汽船で東京に乗りつけ、クーデターを起こしたら起こしたで、政府そのものが消滅してしまう可能性もありました。隆盛としても、本当はそれをやりたくなかったのではないでしょうか。

そして西郷軍の北上→撤退と並ぶこの回のシーンとして、大山綱良と大久保利通の会話が挙げられます。戦闘シーンが動ならこちらは静です。直訴の書類作成の現場に立ち会った大山は、書類を読んだかと尋ねますが、利通は既に読んだ、西郷が立てば不平士族も立つ、それはいかんと怖ろしく冷ややかに述べます。西郷討伐の詔を賜りたいと言う時同様、人格がすべて変わってしまったかのような口調で、しかもおいが政府じゃと言います。何やら「朕は国家なり」を思わせるセリフですが、その後の彼の暗殺を予感させるセリフです。ならば新七と2人で待っとる、処刑を覚悟した大山は言います、そういえばあの寺田屋事件に立ち会ったのはこの人でしたね。

実際隆盛は自分たちが行くところ、すべて戦場になることを悟っていました。軍を解散すると言ったのもそのためです。しかも民のためを思いつつも、現地の農家から振舞われた握り飯(あれは黒米でしょうか)の礼すらできない自分たちは、もうこれ以上彼らを苦しめることは出来なかったのでしょう。そしてツンとゴジャも解放します。この後宮崎、高千穂を通ってから隆盛たちは鹿児島に入り、城山に立てこもることになります。しかし俵野の人々は、目の前の人物が当の西郷とはわからなかったわけですが、この当時は写真も出回っていないわけですから、さもありなんと思われます。

それから菊次郎。この同行は彼に取って、大きな試練であったことは間違いないようです。戦場に出て人を撃つ経験のみならず、叔父である小兵衛が目の前で戦死し、さらに自分も右脚を負傷して、膝から下を切断してしまいます。しかも大将である父隆盛は、賊軍となっています。まだ若いせいもあり、このまま父に同行して華々しく死にたいと思ってはいたのでしょうが、ここに残るように諭され、さらに他の若い者も残るようにと桐野から一喝されます。『軍師官兵衛』風にいえば「命の使い道」でしょうか。しかし熊吉も桂久武も、そこそこの年齢なのにかなり頑張っています。

そして菊次郎と共に、後々まで生き残る従道は、陸軍卿山県有朋が戦地へ行ったことに伴い、代理として東京に留まっていました。鹿児島まで行って兄を止めるべきかで悩み、最早自分も兄と運命を共にしたいとまで考えますが、それだけはやめてくれと清に止められます。実際この人が生き残ったおかげで、後に焼けた西郷家も再建されています。また後に総理大臣就任を勧められたものの、兄が逆賊の汚名を着せられたため断ったといわれています。

[ 2018/12/11 00:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どんの歴史的背景38-明治初期の新聞とその後マスコミが与えた影響

さて前回では、新聞が西郷隆盛支持に回っていることで、政府関係者がいい顔をしないシーンが登場します。西郷同様に下野した元土佐藩士の板垣退助、後藤象二郎が民撰議院建白書を提出したこともあり、新聞の流れは政府批判へと傾きかけて行ったため、新聞紙条例と讒謗律が施行されます。しかしその点のみで考えると、新聞が西南戦争の後押しをしたと取れなくもありません。実際過去において、新聞が日本の戦争開始に火をつけたとされる例もあります。日露戦争もそうでした。また、12月8日は真珠湾攻撃の日でしたが、太平洋戦争も朝日新聞が軍部を弱腰と批判したことが、開戦の遠因となったという指摘もあります。

今まで政権や政体が変わることで、旧勢力が蜂起した例はいくらでもあります。大坂の陣などもその一例でしょう。しかし明治に入り、新聞が手に入ることで人々は情報を得やすくなり、新聞というメディアが世論をコントロールするようになって行きます。前出の戦争関連のように、マスコミが世論を形成するようになるわけです。明治初期、読売新聞が明治7(1874)年、朝日新聞が明治11(1879)年に創刊されていますが、東京を地盤としていた読売新聞は、関東大震災でかなり痛手を受け、その救世主となったのが正力松太郎氏です。またこの時代には、新聞は大新聞と小新聞に分かれていました。要は高級紙または全国紙と、タブロイド紙のような感じです。

それから『西郷どん』の脚本家、中園ミホさんによる朝ドラ『花子とアン』の中で、蓮子(柳原白蓮)の絶縁状が新聞にスクープされます。これは、愛人の友達の革命思想家がやったという設定になっていますが、マスコミの悪用といえます。そういえば林真理子さんも『白蓮れんれん』という、柳原白蓮が主人公の小説を書いていましたね。それはともかく、新聞というメディアが明治後の社会に与えた影響は、看過できないものがあります。それと読売でしたか、第二次大戦後に漢字を廃止しようという社説を載せたらしいのですが、日本語は同音異義語が多いので、かなやローマ字だけではかえって不便ではあるでしょう。

飲み物-パブのビール2
[ 2018/12/09 00:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)
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aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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