先日に続き、また日本史関係で。ただし今回は江戸時代後期(文化年間)です。
先日『軍師官兵衛』関連で、福岡城と鴻臚館のサイトについてご紹介しています。今回のテーマはその福岡城がある福岡藩のお隣、小倉藩のお家騒動です。文化8(1811)年、小倉藩主小笠原忠固(ただかた)は、幕政に参加することを思い立ちます。
しかしそのためには、接待や付け届けなどのしかるべき出費が必要になり、それでなくても小倉藩は小倉城の火災があったり、朝鮮通信使の接待をしたりで出費がかさんでいたため、江戸家老の小笠原出雲はこれに反対します。
忠固は一度はそれを受け入れますが、最終的に幕政参加への夢を断ち切れず、幕政参加のための経費はかなり膨らみ、このため藩士の俸禄を一部削らざるをえなくなります。当然反対の声が起こり、出雲は突き上げられてしまいます。
これに関しては、忠固の幕政参加を行うように説得した国許の家老たちが手のひら返しをしたとか、出雲が暗殺されかけたなどとも言われていますが、ともあれ出雲は自分に手のひら返しをした家老たちを罷免します。
すると家老たちは、藩士約360名を連れて脱藩し、黒崎へ向かいます。また反対派の中には、外国船に備えて作られていた狼煙台を勝手に利用したりした者もおり、彼らは藩のためと言うよりは、出雲に対する恨みや嫉妬もあったとされています。
結果的にこの事件は幕府の手にゆだねられ、出雲はお役御免となり、反対派は一部処刑されました。一方忠固は100日の閉門蟄居が言い渡されます。
忠固の罪が軽かったのには、小笠原家が幕府の創設に功績があったこと、また幕政に参加したいが故のことであったからとされています。ただしこの後も財政難は続くことになります。
また反対派の1人で儒学者の上原与(余)市は狼煙台に火をつけたことから、日明(ひあがり)浜の処刑場で火あぶりの刑に処せられています。尚この騒動を白黒騒動と呼んでいますが、これは白(城)と黒(黒崎)とが対立したことによるものです。
ところで変だと思われた方もいるかも知れません。小倉城は現在の北九州市小倉北区、そしてこの黒崎は、現在の北九州市八幡西区にあります。なぜ「脱藩」なのか、それは、かつては黒崎は福岡藩に属していたからです。
ここで現在の北九州市の地図です。ちょっと教材風ですが、この地図をざっと二分してみると、西側に若松区、八幡西区、八幡東区そして戸畑区が見えています。そして東側に小倉北区、小倉南区そして門司区があります。かつてこの西側の地域の大部分は筑前国で福岡藩に属しており、東の地域が豊前国小倉藩に属していました。
このような事情から反対派は、当時は重罪ながら藩主を見限って脱藩し、福岡藩の黒崎へ向かっていわば籠城したのです。
そしてこの黒崎、江戸時代は宿場町でしたが、幕府が開かれた当初は、黒崎城が、井上九郎右衛門之房により築かれました。しかし後に一国一城の令により、この城は廃城となります。
尚この福岡藩でも、江戸時代前期に藩主との摩擦から処刑された人物がいます。その名を空誉上人と言い、大坂の陣で豊臣方についた後藤又兵衛を説得できなかった(諸説あり)として、時の藩主黒田忠之(初代藩主長政の子)から処刑されています。この時も博多湾に面した堅町浜で刑が執行され、そのやり方はかなり残忍であったとも言われています。
一般に処刑は、水辺で行われることが多く、一説には水辺が聖域としての意味を持つからとも言われています。一方で人通りの多い場所での処刑は、見せしめの意味があるとされています。
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