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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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義信事件と父子の確執

さて『風林火山』では、武田信虎が嫡子晴信の廃嫡を考えますが、『おんな城主 直虎』ではその晴信(信玄)が嫡子義信を謀反のかどで幽閉します。その2年後、義信は廃嫡されて自害します。これにより、諏訪勝頼が嫡子と決まるわけですが、二代続けての父子の相克は、なかなかすさまじいものがあります。源氏にはこの手の骨肉の争いが多いともいわれますが、当事者同士の争いに加え、恐らくは家臣団の思惑もあってのことでしょう。

一方で徳川家康も、最初の妻である築山殿(瀬名)と、嫡子信康を死に至らしめることになります。これは武田内通説や父子の確執説がありますが、家康譜代の家臣団である三河武士団が、今川の家臣の娘である、築山殿を煙たがったのも一因とされています。実際先日の放送関連でも書きましたが、酒井忠次はその三河武士の典型のような、今川憎しの姿勢を貫きます。これに比べると、石川数正は冷静であるといえます。そして、相変わらず家康は煮え切らない態度を取っています。

実際この時家康は、既に兵を動かしており、かつての主今川とも渡り合ってもいますが、井伊はまだ独立していません。無論自前で兵を動かすだけの余力はありません。そこで今後の展開なのですが、結局「戦わずして勝つ」のか、遅まきながら多少は資金を作って武装するのか。これだけ今川と武田の仲が悪化して、しかも政次が、高瀬は間者かもしれないと言っているにも関わらず、それに対する明確なビジョンが見えて来ませんね…井戸に向かって叫ぶ前にやるべきことではないかと(苦笑)。

父子の確執だけのみならず、母子の確執も無論あります。土田御前と織田信長、お東の方(義姫)と伊達政宗などはその典型ともいえますが、特に後者は誇張されているともされています。いずれにしても戦国時代は、正室は実家を背負う存在でもありましたから、それによる夫との対立、ひいては自分の推す子に家督を継がせたいという気持ちもあったでしょうし、それで家臣団が二分されたりすると、とかく厄介なことになりがちです。しかも伊達政宗に至っては、母が可愛がっていた弟を殺したという説まで残されています。

義信事件に戻りますが、この時は義信の傅役であった飯富虎昌も絡んでいました。このため弟の源四郎が山県と苗字を変えることになります。この山県昌景の赤備えが、侵攻した先の井伊、そして真田信繁にも影響することになります。また武田の駿河侵攻に当たっては、穴山信君(梅雪)が結構大きな役割を果たしています。信君は義信事件では、信玄の方に与していたと考えられていますが、その彼も後に、武田を裏切り織田につくことになります。

飲み物-アイスコーヒーブラック

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[ 2017/05/24 00:15 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

天文13年とはどんな年か 続き

先日「天文13年とはどんな年か」という記事をアップしました。これに関して、『風林火山』の、該当する年代のエピソードを観たところ、その3年前に武田晴信(信玄)の父である信虎が、追放される辺りでした。この信虎は、今川義元の正室である娘に会いに行くところを封鎖され、強制隠居させられて晴信が家督を継ぎます。

この父子の仲違いは結構有名ですが、一説には信虎が晴信よりも、弟の信繁(*)を寵愛したからとも、また別の説では、晴信が今川義元と謀ったともされています。実際、あまり家中ではよく思われていなかったとも言われてはいます。しかし後年晴信は、今度は自分の嫡男である義信を廃嫡し、幽閉することになります。また同じ頃、真田氏は海野平の戦いで武田の連合軍に敗れ、上野に亡命しています。

この天文年間は24年間続き、その間様々な出来事がありました。真田家の場合は、武田氏、そして織田氏滅亡後の生き残り作戦を考えなければなりませんでしたが、井伊家はそれより前、群雄割拠状態が続いていて、天下が統一される前の時代でしたから、もっと生き残りに必死だったともいえます。それにしてもなぜ当主でない直満が、北条に文を持って行かせたのかは謎です。どうも婚約話が伏線のようにも感じられますし、また井伊家統一のために、直盛が一芝居打ったと考えられなくもありません。

閑話休題。天文13年、1544年の前年には鉄砲が種子島に伝来し、その5年後はフランシスコ・ザビエルが日本を訪れています。同じ1549年には織田信長が濃姫と結婚、その1年前には長尾景虎が家督を継いで春日山城に入っています。前回は後に名を残す人々について触れていますが、無論この年生まれた著名な人々もいます、竹中半兵衛、そして伊達政宗の父の輝宗です。この2人は同い年なのですね。

その前年の1543年には、家康の正室の1人である、朝日姫が生まれたとされています。それで思い出したのですが、今川義元のセリフが殆どなく、家臣が代弁するという設定に、昨年の朝日姫を連想します。それから徳川家康の年齢が違っていましたので、修正しています。正しくは天文11年(西暦では1543年)なので、天文13年は数えの3歳です。

(*)真田信繁の諱は、この信繁にあやかったという説があります。

飲み物-キャンドルとワイングラス
[ 2017/01/14 23:26 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

天文13年とはどんな年か

『おんな城主 直虎』の第一回に登場する1544(天文13)年という年は、どのような年であったかというと、正に戦国時代の真只中でした。『武田信玄』や『風林火山』に描かれている時代で、この年武田信玄数えの24歳、上杉謙信15歳で、真田昌幸の父幸隆は32歳です。昌幸はまだ生まれてもおらず、出生はその3年後です。それを考えると、結構昌幸は後の時代の人物であったと考えることができます。織田信長は11歳、後の豊臣秀吉である木下藤吉郎は8歳で、徳川家康は3歳です。

とわ、後の直虎は生年不明といわれていますが、年格好からして、信長とほぼ同じか少し下といったところでしょう。亀之丞(直親)、鶴丸(小野政次)もまたしかりです。そもそもまだ今川にあれだけの勢力があり、日々圧迫を受けているわけですから、井伊直満が北条に寝返ろうとしたのもうなずけます。ちなみに北条家の当主であった氏康は30歳、その子氏政は7歳でした。例の「汁かけ飯」の氏政ですが、秀吉とあまり変わらない年齢であったわけです。

16年後には桶狭間の戦いが起こって今川義元は討死し、織田の躍進、徳川の離反が起こり、さらに今川と同盟していたはずの武田氏が裏切って、駿河侵攻を行います。ちょうどこの頃寿桂尼も亡くなり、武田が調略をしかけるようになって、今川は揺らぎかけていました。その後氏真は京に逃れ、その子孫は吉良家と縁続きとなり、さらに義央(上野介)の子が米沢藩主である上杉家の養子となったことで、上杉家とも関係を持つようになります。

飲み物-シナモン珈琲
[ 2017/01/11 23:15 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

関ヶ原と大坂の陣

今更という感もありますが、なぜどちらも徳川の方が勝ったのか。というか、なぜ豊臣(関ヶ原では正確には石田三成軍)が負けたのか。どうも豊臣家そのものが、やはり内部分裂しやすかったからといえそうです。そもそも譜代の臣もいない。いるのは織田家から仕えていた人物か、あるいは秀吉子飼いの小姓たち。
その秀吉も日の出の勢いの時はよかったのですが、関白となって天下を手中に納めてからは保身に回る。子供が生まれるとさらに保身に回り、一方で唐入りという無謀な計画を立てるまでになる。『真田丸』で三成が、秀吉の死後、太閤殿下の鶴の一声で決まっていたのが、合議制になったことで変わったと信繁に言うシーンがありますが、正に秀吉がワンマンで動かしていたのが豊臣家だったわけです。

譜代の臣のみならず、バックアップ要員も乏しい。弟の秀長が早く死んだことは、秀吉に取って大きな痛手でしたが、秀長一人がいなくなったことで、豊臣政権がおかしくなり始めたというのもちょっと困った話です。しかも数少ない後継者はどんどんいなくなって行く。秀次に至っては、自分が手に掛けてしまう。これでは、関東の大大名にまでなった家康の台頭を招いたのも無理からぬことでした。
そもそも家康も、信長亡き後の天下取りを狙っていたわけですし、そのため要注意人物ではあったのですが、一方でそういう人物に五大老(老衆)をまかせざるをえなかった、そこに豊臣の悲しさがあるように思えます。本来は仮想敵とすべき相手なのに、逆に上杉の方をよほど信頼しているのに、後継者がいないことで、そういうシステムにせざるをえない。秀吉に子ができなかったこと、譜代の臣がいなかったことは、かなり大きな重圧になったようです。

また小姓たちが石田VS加藤、福島になって行った時点で、将来亀裂が入ると考えるべきだったのでしょう。無論考えていたのかもしれません。しかしどこかコントロール不足というべき点があったのも事実です。家康の裏切りについては、『真田丸』においても、約束を破った家康憎しで石田が攻めに出る展開になりましたが、豊臣方にも非があったというのをもっと打ち出してもよかったかとは思います。真田信繁が主人公で、敢えてそれをやってみせるという方法もあったかと。
また豊臣家のコントロール不足、あるいは危機管理にどこか手落ちがあるというのは、大坂の陣においても露呈しました。それでなくても譜代の臣はいないのに、片桐且元まで追われてしまい、しかも牢人を金で雇ったのはいいが、彼らが遠からず暴発するという発想はなかったのでしょうか。確かに豊臣家に金銀はうなるほどあったでしょう。しかしやはりお金で買えないものもあり、それがどちらの戦いでも、豊臣家に大きなダメージになったのは確かなようです。

飲み物-パブのビール3杯
[ 2016/12/11 01:15 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

徳川の立場

まず、先日の「真田丸-45」で、赤備えの軍を目にする信繁、井伊の軍であると言う内記といった記述になっていましたが、実際は逆でした。失礼いたしました。

それから、ご存知の方も多いでしょうが、直江兼続を演じる村上新悟さんの「直江状」朗読バージョンが公式サイトにアップされています。

直江状完全朗読版(原文)
直江状完全朗読版(現代語訳)

(現代語の方がやや長めです)

さて、あれこれに入る前に、徳川家康の立ち位置について。大河でも映画でも、徳川家康をよく描く作品は少数派です。大河では、1983年放送の『徳川家康』が、徳川家康を善人として描いたといわれています。
なぜ徳川家康のイメージはそのようになっているのか。いくつか説があるようですが、前の時代の施政者は、あまりよく描かれないということもあります。日本も明治以後、何度か変動を得て現在に至っていますが、江戸時代は今なお一つ前の時代といえるので、それが一因としてあるのかもしれません。また、秀吉死後の豊臣家を家康が乗っ取った、あるいは正室を置かず、側室をやたらに置いたなどというのもあるでしょうし、これらは連動しているともいえます。

その豊臣を家臣である家康が乗っ取ったことで、関ヶ原の戦いのきっかけを作り、そして家康は勝ちます。さらに江戸幕府を開き、豊臣を追い詰めたというのが、何か尊大で許せないという人もいるかもしれません。しかしそもそも家康は、豊臣の家臣だったのでしょうか。
まず家康は、織田信長と同盟関係にありました。つまり織田の家臣ではなかったわけです。信長の横死後は、羽柴秀吉が一番乗りで明智光秀を倒し、清須会議を開催して、自分に有利なようにことを運びます。これに憤った柴田勝家は、その後賤ヶ岳の戦いで果て、秀吉は大坂城を建てて関白となり、ついには上洛するように命じます。しかし家康にしてみれば、同盟関係にあった信長の臣下、しかも元は足軽である秀吉に、いい思いは抱かなかったでしょう。

上洛を引っ張った末、やっと秀吉に刃向う意志のないことを示した家康は、その後は秀吉に協力的になり、小田原征伐にも馳せ参じます。しかしこの時も、家臣であったかどうかは微妙ですし、その後の天下人の座を狙っていたとしても不思議ではありません。秀吉に子供がいなかったことも、次期天下人としての家康の存在感を大きくしたといえます。秀吉が最も家康を恐れた理由もそこにあります。
しかも秀吉の家臣は、死後内部争いを始め、加藤清正や福島正則は、石田三成憎しで自分の側に転がり込んで来ました。かてて加えて、家康の最大のライバルともいえる上杉景勝ですが、上杉家は先代の謙信が他国の領地を奪わなかったこと、そして子供がいなかったこともネックとなりました。
恐らく謙信が東海道に至るまでの領地を手に入れ、景勝に3人か4人の子供がいたら、だいぶ状況は変わったでしょう。どうも上杉主従は、子供に関しては恵まれていたとはいえなかったようです。景勝は50近くになってやっと嫡男ができ、直江兼続は子供たちに先立たれたため、のちに直江家は断絶となっています。

家康にしてみれば、豊臣子飼いの武将は自分の側につく、秀吉の遺児秀頼はまだ子供とあれば、その秀頼を錦の御旗にして、色々工作をすることに異存はなかったはずです。実際秀吉も似たようなことをやってはいます。そして家康の最大のメリット、つまり多くの子供たちと豊臣恩顧の武将たちを縁組みさせることにより、強固なバックアップ体制を築けたわけです。
それを考えると大坂の陣の豊臣方は、家臣や謀略の不足を、牢人たちに資金を提供することで解消しようとしたのもうなずけます。一度はこれも実を結びかけたものの、結局は滅亡への道をたどることになります。正に超高速で天下人になった人物の家は、没落するまでにもそう長期間を要しませんでした。仮に秀頼が国替えになったとしても、幕末まで持ったかどうかは不明です。
また『葵 徳川三代』などを観ると、無論こちらは徳川が主人公ということもあり、豊臣方や牢人たちも、結構あこぎなところがあります。両方の主張をチェックする場合には、『真田丸』とこれとを合わせて観ると、それぞれに対して、より客観的な見方ができそうです。

飲み物-コーヒー

[ 2016/11/15 02:00 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

牢人衆とジャコバイト

正しくは、「大坂の陣をはじめとする牢人衆の蜂起とジャコバイト」とでもするべきかもしれません。関ヶ原後の改易ラッシュにより牢人が増え、さらに大坂の陣後の改易でまた増え、治安に影響するようになったことは、「幕府VS牢(浪)人-慶安の変と承応の変」にも書いています。これが収まった時には、既に関ヶ原から半世紀近い月日が経とうとしていました。

ジャコバイトとは、名誉革命への反乱勢力です。17世紀のイングランドでは、名誉革命によってジェームズ2世が王位を追われ、娘であるメアリー女王と、夫のウィリアム3世が王位につきます。そして権利の章典が発布され、議会政治が始まります。しかし、なぜジェームズ2世を退位させたのに、その娘を迎えたのか。それは、メアリーがプロテスタントだったためです。ジェームズ2世はカトリックでした。その後今に至るまで、イギリス国王とその配偶者は、カトリックでないことが条件となっています。

無論、ジェームズ2世の男系男子の即位を求める人々はこれに反対し、自らをジャコバイト(ジェームズ党、ジェームズのラテン名がジャコブス=ヤコブスであることに由来)と呼び、スチュアート王朝のそもそもの本拠地であるスコットランド、特にハイランド地方をはじめ、カトリック圏であるフランスやアイルランドにも拠点を置くようになります。イングランドにも、ジェームズ2世を支持する声はあったようです。
この辺りは、江戸幕府を開いた徳川家と、豊臣家の確執に多少似たものがあります。ただし大坂の陣は、確かに豊臣家が資金援助をし、豊臣家のために牢人たちに戦わせた側面はありますが、その後の慶安の変に至るまでは、改易によって巷にあふれた牢人たちの、幕府への政策に対する異議申し立てと化して行きます。

一方ジャコバイトの場合、ジェームズ2世自ら軍を指揮したウィリマイト戦争の後、カトリックは公職から追放され、アイルランドも少数のプロテスタントが実権を握ります。その後国王暗殺未遂が起き、そしてハノーファー朝成立により、抵抗運動は激しくなります。
このハノーファー朝は、アン女王崩御によりスチュアート王朝が断絶したため、イギリス(イングランドとスコットランドは同君連合であったが、1707年に合同法により、連合王国として成立)王室と血縁関係にあった、ハノーファー選帝侯がジョージ1世として即位したことにより始まりました。しかしジェームズ2世の直系を支持するジャコバイトは、これに反対して各地で暴動を起こし、また要人の失脚に関与するようになります。

無論政府もジャコバイト、ひいてはカトリックを弾圧しました。そして1745年、ジェームズ2世の孫、ジェームズ老僭王の子であるチャールズ、所謂ボニー・プリンスを擁したジャコバイトは、最後の戦いに挑むことになります。ハイランドの氏族(クラン)たちは政府軍を相手に戦うものの、翌1746年のカロデンの戦いで敗北し、その後ジャコバイトは勢いを失くして行きます。
その後スコットランドのクランは解体させられ、チャールズもフランスへ逃げます。一方ホイッグ党がトーリー党をジャコバイト呼ばわりし、政敵を失脚させたりもしています。当時は名誉革命体制もさほど盤石ではなかったのですが、イングランドではカトリックの君主を拒否し続けたことが、ジャコバイトの君主がついに王位を奪還できなかった、最大の理由といえそうです。

この17世紀から18世紀にかけてのイングランド→イギリスと、牢人たちが蜂起した17世紀前半の日本に共通するのは、半世紀ほど経って終息したこと、そしてカトリックの追放です。日本の場合、厳密にはカトリックでなくキリスト教全般なので、イングランドやオランダの布教も禁じました。またイングランドでは、正式に聖公会が国教会と定められて、カトリックにとっては不遇の時代が訪れ、ヴィクトリア朝まで続きます。
またそれぞれがキリスト教を禁じた、カトリックを追放したその背景には、新時代の到来があります。日本は江戸時代、イングランドでは議会政治の始まりとなります。そしてイングランドはこの時期大同盟戦争に参戦し、ヨーロッパ大陸諸国を相手に、世界を席巻する足掛かりを作ることになります。日本ではそれに類するものはなく、むしろこのヨーロッパの世界席巻から、国を守ることに専念したといえます。

ところでジャコバイト達がシンボルにした、ジャコバイト・ローズという、白い八重咲きのバラがあります。これは正式にはアルバ・マキシマと呼ばれ、バラ戦争の時には、ヨーク家のシンボルとなっています。

飲み物-ドリップコーヒー
[ 2016/11/11 01:15 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

司馬遼太郎『関ヶ原』

来年映画が公開ということもあって、昔買った分を引っ張り出して読んでいます。元々は石田三成、そして島左近と女忍びの初芽が主人公ですが、タイトルがタイトルだけに、徳川家康と本多正信の主従、上杉景勝と直江兼続の主従、大谷刑部、加藤清正、福島正則に小早川秀秋など、様々な関ヶ原の関係者が群像的に描かれています。実は本多正信という人物を、この本で初めて知りました。
あと織田有楽斎も登場します。『真田丸』では有楽斎は大坂の陣で登場しますが、関ヶ原の時点では、既に徳川との親交があった人物です。折に触れて感想を書いて行こうかと思いますが、50年前の作品であるため、史料がやや古く、現在では新説が出ている部分もあります。

以前『天地人』関連で書いていますが、初芽という名前は、このドラマの女忍び「初音」のもとになったのではないかと思われます。また現在撮影中ということですが、三成、家康、初芽がそれぞれ岡田准一さん、役所広司さん、有村架純さん以外のキャストは公表されていません。恐らく撮影後に順次発表されて行くのでしょうが、何かサプライズでもないかと楽しみです。というか、本多正信と直江兼続は、『真田丸』のキャストでもいいのではないかと思います。お二人とも、実に役に嵌っていましたので。

飲み物-コーヒー
[ 2016/10/31 01:30 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

徳川家康とカルバリン砲と英蘭関係

さて『真田丸』では、大坂方はあれこれもめたりしている一方で、駿府の家康が、秀忠より先に出陣してしまいます。詳しいことはあらすじで書きますが、この時家康はカルバリン砲4門、セイカー砲1門を備えていたといわれています。一方で豊臣方は、ポルトガル製のフランキ砲を使っていたのですが、このフランキ砲よりもカルバリン砲の方が射程が長く、また命中精度も勝っていました。この砲弾が、冬の陣で大坂城の天守閣を狙ったのは有名な話です。またセイカー砲も、長射程を狙うのに適していました。

このカルバリン砲は当時のイングランド王国(スチュアート王朝時代のため、実質スコットランドと同君連合)から買い付けたもののようですが、その他にもオランダからも兵器を買っていたと考えられます。またカルバリン砲は、アルマダの海戦(*)でイングランド艦に備え付けられていたものです。またカルバリン砲には、かつては手持ちサイズのものもあり、その他デミ・カルバリンと呼ばれる、口径を小さくして、より長い射程を狙った砲もあります。

当時、イングランドとオランダ(ネーデルラント)はプロテスタント(**)であり、カトリックのスペインやポルトガルに対抗して、協力関係にありました。少なくとも兵器の購入においては
徳川方-イングランド&オランダ
豊臣方-ポルトガル
という色分けもできそうです。明治維新において、イギリスが薩長、フランスが幕府をそれぞれ後押ししたのを連想させます。現に薩長、幕府もそれぞれから武器の購入を行っています。しかしイングランドとオランダは、1623年のアンボイナ事件を機に協力関係が崩れ、その後英蘭戦争を引き起こすことになります。

(*)実際にアルマダの海戦の雌雄を決したのは、戦術や兵の士気から、軍艦の性能にいたるまで、すべてにおいてイングランドが優っていたこと、そして、最終戦のグレーブラインの海戦で、イングランドが火船を使ったことが主な理由とされています。この火船は、19世紀頃までは結構使われており、『ホーンブロワー』シリーズにも登場します。やり方としては、火をつけた小型艦を相手の艦隊に近づけ、艦を焼き打ちさせるのが目的です。

(**)イングランドは聖公会及びカルヴィニズム(ピューリタン)、オランダはカルヴィニズム(改革派教会)。
飲み物-ドリップコーヒー
[ 2016/10/24 01:15 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 8(福島合戦その3)

慶長6年(1601)、伊達政宗は、この年の春に上杉征伐を行うという家康の言葉に従い、年頭から上杉領に向けて軍事行動を開始します。しかしその一方で、佐竹や相馬といった大名と連絡を取り、どうやら上杉が上洛するらしいという気配をも感じ取っていたようです。もし上杉が和睦に応じるのであれば、無駄な軍事行動は避けたいと思っていた政宗ですが、家康の言に従わないと、どのような処遇を受けるのかという不安もありました。

結局政宗は井伊直政宛ての書状で、上杉が上洛を中止するらしいという嘘の情報を送ります。この書状には、上杉が上洛しないのであれば軍事行動を取ること、そして、上杉を上洛させるためにも、徳川方の加勢がほしいと書いています。これによって政宗は、徳川がどう出るかを見定めるつもりだったようです。一方で軍事鼓動に出た伊達軍は、簗川城(現伊達市)の上杉軍から追討され、退却します。どうも伊達側は、今一つ本気ではなかったようにも見えます。その一方で、最上義光は庄内の上杉軍を掃討しています。

伊達軍が退却した時期、直江兼続は簗川城の城代、須田長義に宛てて、同じような内容の書状を3通送っています。実際伊達の退却には、この簗川城に常駐していた兵の援軍もありました。この城は、関ヶ原の戦いの少し前、家康が上杉攻めを中止して江戸に戻った頃から、対伊達の最前線となっていた城で、若松城からの兵と、農兵によって守られていたようです。長期にわたる籠城と、慶長6年2月の曲輪での火災とで、城内ではかなり緊張が続いていたと察せられます。

そのため須田長義は、兵たちの労をねぎらう意味で、9000石の新恩給与を願い出ます。そして若松城に赴き、陳情をしようとするも、徳川との和睦がなされない限りOKを出せず、結局は直江兼続によって差し止められます。またこの新恩給与に関する書類も、朱印でなく黒印が捺されており、本当に長義が発給したものかどうかに関しては、何ともいえません。そして慶長6年6月5日、簗川城には休息宣言が出され、やっと緊張状態から解放されます。

その後上杉景勝と直江兼続の主従は、同年の7月に上洛し、米沢30万石への減封を言い渡されます。これによって上杉家には倹約令が敷かれ、治水整備や開墾の奨励、学問や産業の推進などが行われるようになりました。しかし伊達は、なぜ上杉との小競り合いを繰り返したのでしょうか。それは、政宗が多大な恩賞を求めたからと考えられます。徳川方の伊達は、石田方の上杉を攻めることにより、少しでも家康の覚えをめでたくしたいという意図は、確かにあったようです。

この「北の関ヶ原」は今回でひとまず終了ですが、この後も伊達、上杉、最上関連事項があればアップしたいと思います。しかし上杉家の会津転封から上杉対最上の長谷堂城の戦い、ひいては大坂の陣までを詳しく描いた映像作品を観たいものです。

(資料:直江兼続と関ヶ原)

飲み物-アイスコーヒーブラック
[ 2016/10/17 01:00 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 7(福島合戦その2)

前回のおさらいです。

慶長5年10月6日、白石城の伊達政宗に、片倉景綱から上杉方の梁川城を攻めるべしとの急報が入る

その時政宗は既に桑折に兵を進めており、まず福島城に上杉軍を追いやった後、梁川城を攻めることにする

しかし福島城に上杉軍を閉じ込めたものの、梁川城を攻めることなく退却している。調略がうまく行かなかったのが原因とされるが、梁川城と福島城の上杉軍から挟み撃ちにされ、政宗が窮地に陥ったとも考えられる

しかし、この挟み撃ち説は正しいといえないというところまで書いています。なぜ正しくないのかといえば、この時既に政宗は帰陣していて、挟み撃ちにされる状況ではないからです。ただし退却する伊達軍と、上杉軍の間には小競り合いも起きています。しかしその一部は、いつ起こったのかを裏付けるものがなく、この慶長5年10月の合戦時に起こったかどうかは不明です。

また、これも前回書いていますが、伊達家臣の中島宗勝らの別動隊が、会津・米沢への道を塞いだこと、更に上杉方の使者を討ち取ったことで、直江兼続に情報が行かず、従って福島への援軍もできなかったと考えられています。10月8日に政宗は、福島攻め勝利を家康に報告し、家康と井伊直政は政宗に、来春上杉攻めを行うので、みだりに軍事行動に走らぬよう注意しています。

しかし一方で、家康と直正は上杉との和睦を考えていたようです。10月16日になって、兼続は梁川城の内通者の引き渡しを命じ、更に方々の城から人質を取るようになっています。恐らくこの時点で、関ヶ原の結果がもたらされたのでしょう。しかし一波乱あるかと思いきや、同じ月の23日には和睦の方向へ向かい、12月22日、本庄繁長がまず上洛します。

ちなみに、この慶長15年10月の合戦は、松川合戦と呼ばれることがありますが、これも正しくないようです。『東国太平記』によると、松川合戦とは、翌慶長6年の4月26日に起きた合戦のことですが、これが『貞山公治家記録』(伊達治家記録のうち政宗の治家記録)にある、慶長5年10月6日の戦いとそっくりなことから、この2つが混同されてこう呼ばれるようになったとされています。

またこの10月の合戦当時では、現在は信夫山(現福島市)の北を流れている松川が山の南を流れており、そこが戦地だったからとする説もあるようです。しかしそれを裏付ける史料もまた存在せず、もし南側であった場合は、他の史料と矛盾するという問題点があります。

(資料:直江兼続と関ヶ原)
飲み物-アイスコーヒー
[ 2016/10/03 00:45 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)
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aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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