前回のおさらいです。
慶長5年10月6日、白石城の伊達政宗に、片倉景綱から上杉方の梁川城を攻めるべしとの急報が入る
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その時政宗は既に桑折に兵を進めており、まず福島城に上杉軍を追いやった後、梁川城を攻めることにする
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しかし福島城に上杉軍を閉じ込めたものの、梁川城を攻めることなく退却している。調略がうまく行かなかったのが原因とされるが、梁川城と福島城の上杉軍から挟み撃ちにされ、政宗が窮地に陥ったとも考えられる
しかし、この挟み撃ち説は正しいといえないというところまで書いています。なぜ正しくないのかといえば、この時既に政宗は帰陣していて、挟み撃ちにされる状況ではないからです。ただし退却する伊達軍と、上杉軍の間には小競り合いも起きています。しかしその一部は、いつ起こったのかを裏付けるものがなく、この慶長5年10月の合戦時に起こったかどうかは不明です。
また、これも前回書いていますが、伊達家臣の中島宗勝らの別動隊が、会津・米沢への道を塞いだこと、更に上杉方の使者を討ち取ったことで、直江兼続に情報が行かず、従って福島への援軍もできなかったと考えられています。10月8日に政宗は、福島攻め勝利を家康に報告し、家康と井伊直政は政宗に、来春上杉攻めを行うので、みだりに軍事行動に走らぬよう注意しています。
しかし一方で、家康と直正は上杉との和睦を考えていたようです。10月16日になって、兼続は梁川城の内通者の引き渡しを命じ、更に方々の城から人質を取るようになっています。恐らくこの時点で、関ヶ原の結果がもたらされたのでしょう。しかし一波乱あるかと思いきや、同じ月の23日には和睦の方向へ向かい、12月22日、本庄繁長がまず上洛します。
ちなみに、この慶長15年10月の合戦は、松川合戦と呼ばれることがありますが、これも正しくないようです。『東国太平記』によると、松川合戦とは、翌慶長6年の4月26日に起きた合戦のことですが、これが『貞山公治家記録』(
伊達治家記録のうち政宗の治家記録)にある、慶長5年10月6日の戦いとそっくりなことから、この2つが混同されてこう呼ばれるようになったとされています。
またこの10月の合戦当時では、現在は信夫山(現福島市)の北を流れている松川が山の南を流れており、そこが戦地だったからとする説もあるようです。しかしそれを裏付ける史料もまた存在せず、もし南側であった場合は、他の史料と矛盾するという問題点があります。
(資料:直江兼続と関ヶ原)