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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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北の関ヶ原 6(福島合戦その1) 

いよいよ福島合戦に入ります。この戦は、年をまたいで行われました。まず慶長5年10月、上杉軍が山形から撤退し、同じ月の5日に伊達政宗が白石城に入って、桑折筋(現在の伊達郡桑折町)攻撃の指揮を執る予定だったのですが、そこへ片倉景綱からの急報が入ります。この急報は、上杉方の簗川城の内応者が行動に出る予定であるため、まず簗川城を攻めるべきという内容のものでした。

しかしこの時(10月6日未明)、伊達の先鋒隊は既に桑折へ向けて出発しているため、まず桑折経由で福島へ向かい、阿武隈川の西にいた上杉軍を福島城に追いやり、抑えの部隊をそこに駐留させた後、簗川城を攻める予定であると、政宗の書状にあります。しかも簗川城の内応者には、望むだけの知行を与えるので、本丸を占拠するように指示を出してもいます。

そして翌日の政宗の書状には、予定通りに上杉軍を討って敗残兵を福島城に追いやっています。また金山城(現在の宮城県伊具郡丸森町)主の中島宗勝への書状で、中島が福島西部の村を征圧し、会津への道を塞いだことに満足したとも伝えています。これで翌日は、福島城の反撃に備えて、改めて軍勢を送る予定となっていたようです。

恐らく計画がうまく行っていたのでしょう。福島城に送る軍勢が到着するまで、くれぐれも軽率な真似をしないようにということも、この書状には書かれています。しかしながらその翌日、政宗は肝心の簗川城攻めを行わずに撤退しています。

これは、簗川城の調略がうまく行かなかったというのが原因とされていますが、福島城の上杉軍と、その北東部にある簗川城の上杉軍とにより、伊達が挟み撃ち状態になったためという説もあります。しかしこの説は、実は正しいとはいえないのですが、その理由に関してははまた次回書く予定です。

ところで『真田丸』、改易されて会津120万石から、米沢30万石となった上杉景勝のやるせない表情があまりにも印象的でした。それについては、次にアップ予定のあらすじにて。

(資料:直江兼続と関ヶ原)

飲み物-アイスコーヒー
[ 2016/09/26 01:00 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 5

9月18日放送の『真田丸』では、やはりというか慶長出羽合戦関連のシーンは登場しませんでした。わずかに、昌幸のセリフのごく一部が、上杉絡みではありましたが…しかしこの期に及んでなお、上杉と同盟して江戸を攻めることを考えていたのでしょうか。

そのセリフについては、また「あれこれ」で詳しく触れるとして。当時の上杉は、石田方有利と見て、最上に圧力をかけたものの、最上の攻撃に遭って退散せざるを得なくなり、しかも兼続がこの撤退でしんがりを務めたこと、情報元の石田方が壊滅状態になったことなどから、上杉方の現状把握や対応は、後手に回ることになります。この時の撤退はかなりすばやく、またかなりの激戦でもありました。

前回でも触れましたが、伊達政宗は徳川優勢と見ており、そのうち長谷堂に攻め込んだ兼続の軍が引き上げるであろうこと、自分も上杉領に攻め込む予定であること、そして、無論そのことは内密にしておくように、最上へ派遣した留守政景に伝えています。なぜ上杉領(伊達郡、信夫郡)を攻撃しようとしたのか、それは上杉の背後を襲うことで撤退を促し、上杉を追い払ったという実績を作るためだったと考えられています。

しかし政宗は、10月1日に予定していた伊達・信夫両郡への攻撃を、9月27日になって延期します。これはその数日前に、伊達(留守政景)の軍が、上杉方の兵を討ったということから、景勝自ら山形に出馬する可能性も出て来たためで、成り行きを見て判断するというものでした。政宗自身は、上杉攻撃を自重するように家康から言われており、景勝が攻め込んだため、やむなく兵を動かしたという方法を採ることにしたと思われます。

しかし兼続の方は、9月の下旬になっても、上方(石田方)の方はどうということはないという書状を、上杉家臣である岩井信能や清野長範に送っており、清野宛ての文には、上杉につきながら最上に寝返った農民の籠る城に、放火予定であるということも書かれています。10月1日になって兼続は、山形攻めのため菅沢山に敷いていた陣を撤収します。これは、関ヶ原における石田方の敗戦を聞いたためといわれていますが、その時点ではまだ、関ヶ原の結果を知らなかったという説もあります。

一方で政宗は、宇都宮の結城秀勝に書状を送って、南北から上杉を挟み撃ちにするよう依頼し、また本来石田方であった佐竹氏も、伊達にすり寄る姿勢を見せるようになりました。しかし肝心の上杉に情報が届くのは遅かったとなれば、確たる情報もないまま、上杉方は伊達や最上、ひいては庄内に攻め込んだ村上、堀といった敵をも相手にしなければならなかったわけです。関ヶ原のあまりにも早い終結は、北日本における戦いをも左右しました。

しかもこの慶長出羽合戦は翌年にまで持ち越され、上杉主従が伏見で家康に目通りするのは、それが終結した後のことです。次は、その後の福島での合戦について書く予定です。

(資料:直江兼続と関ヶ原)

飲み物-パブのビール3杯
[ 2016/09/19 01:30 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 4

いよいよ関ヶ原本戦間近の慶長5年8月から9月にかけて、上杉景勝は最上と伊達への対策に追われていました。8月25日、景勝は豊臣方の三奉行(前田、長束、増田)と二大老(毛利、宇喜多)に対して、関東に出兵したいが、とにかく最上と伊達を抑えなければならないといった意味の書状を送っています。またこの書状に、佐竹と相談するという記述があることから、佐竹義宣とかなり連絡を取っていることがわかります。

この時期、上杉側は佐竹のみならず、秋田や由利、仙北衆、南部、越後の村上や溝口に内応工作をしていました。しかも村上や溝口、そしてやはり越後の堀相手には一揆をしかけることまでやっています。そしてその一方で、最上や伊達には降伏勧告もしています。しかし、なかなか関東出兵までには至りませんでした。また毛利輝元や豊臣三奉行、そして石田三成から真田昌幸宛てに送られた書状には、景勝との協力体制が指示されていますが、三成から景勝宛ての書状は見つかっていません。

もちろん一揆といっても闇雲に行うのではなく、関東出兵に合わせて行うように示し合わされています。前回の『真田丸』ではありませんが、上杉主従も戦が長丁場になることを見込んで、こういう伏線を張っていたようです。そして出兵の時期は、最上と伊達に完全ににらみを利かせることができた、正にその時になるはずでした。しかも出兵には伊達政宗、あるいはその家臣を参戦させる予定だったようです。

かなり高圧的ともいえますが、景勝が会津の領主として、いわば東北地方全般の動きに目を光らさざるを得ない様子も窺えます。しかも伊達政宗は、豊臣恩顧の大名の中でもきっての問題児です。尤も真田昌幸宛て三奉行の書状によれば、政宗や最上義光の場合、妻子が上方に人質として滞在しており、しかも家老までいるのですから、後のことはどうにかなると考えたのでしょう。両者との和睦を考える一方で、いざという時にはそれぞれの所領へ出陣、それも圧力をかけて降伏させることも視野に入れていました。

そして関ヶ原本戦の当日、上杉軍は長谷堂へと攻め込みますが、既にその前に、上杉方の江口五兵衛によって畑谷城が攻撃され、撫切が行われていました。しかしその15日、義光は伊達に援軍を求め、政宗は叔父の留守政景を派遣します。この頃から、伊達の動きが怪しくなって来ていたのには、16日に徳川方から、岐阜城攻めの書状が届いていたことによります。これで政宗は徳川方に勝機ありと見たわけです。しかし兼続の方は甘糟景継への書状の中で、石田軍の優勢さについて触れており、これがいわば誤算となりました。ちなみに『独眼竜政宗』では、政宗が長谷堂に赴いたことになっていますが、これは誤りといっていいでしょう。またこのドラマでは、上杉景勝は登場しません。

それから『天地人』の「義のために」徳川を追いかけない云々、前にも触れていますが、ここで徳川を追うなら自分を斬れと景勝が兼続に命じるシーンがあります。しかしこれはむしろ逆で、義のために徳川を討つという景勝を、ならば自分を斬ってからと兼続が諌める、つまり如何に最上と伊達が脅威であるかを、身を持って主君に教えるという方が、ドラマとしては面白い展開ではないかと思えます。
 
(資料:直江兼続と関ヶ原)

飲み物-アイスコーヒーブラック
[ 2016/09/16 02:00 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 3

会津征伐が消滅した後、家康は軍勢を率いて西へ向かうことになります。そして8月、石田、徳川の両軍は、東海地方で一線を交えることになります。この時先鋒であった福島正則の軍は、石田方である織田秀信の岐阜城を攻め落としています。またその他の戦いでも、徳川勢が石田勢に勝利しており、三成の居城である佐和山城がターゲットとなりますが、家康並びに秀忠が到着するまでは、軍事行動はできるだけ控えるように達しが出ており、これは実現しませんでした。

そして会津では、兼続の監督のもと、城の普請が進められていました。この慶長5年8月の時点では、当然ながら関ヶ原で石田と徳川、それぞれの軍勢が激突するとは誰も予想していません。むしろ石田方は、家康が上洛してくるだろうと思っていました。従って上杉としても、関東に一旦退却した徳川をどう討つかが最大の戦略であったわけです。しかも家康側の動向もわからないため、一応は徳川方である伊達や最上を抑えるのが、現実的な目標となっていました。

実際家康が退却したことで、上杉方が攻めの姿勢に転じたのは事実のようです。ここで注目するべきは越後一揆(上杉遺民一揆)です。越後はかつての上杉の旧臣や国衆が多数いたことに加え、上杉の方で寺社勢力にも声をかけて、春日山城の城主となった堀氏に圧力をかけたとされています。この時期、対堀氏工作として、この越後一揆が利用され、実際兼続もこれに絡んでいました。ただしこれも会津防衛策であって、旧領である越後の奪還のものではなかったようです。

しかし兼続の8月5日付の書状で、まだ家康が小山にいると想定しているものが残されていること、しかも内容からして「まだ撤退していない」となっていることから、家康が小山にいるのを知りながら、敢えて追わなかったという見方ができます。この点から見ても、徳川との直接対決は考えられていなかったと取れます。またそれより少し前、この年に7月25日に、伊達政宗が白石城と川俣(河股)城を攻撃した所謂白石城の戦いは、政宗が家康の撤退を知らなかったための攻撃であり、後に川俣は奪還されています。政宗が家康の撤退を知ったのは8月3日のことです。

兼続はこの当時、領内の城を転々としていましたが、その中で佐竹義宣と協力関係を結び、長沼城や福島城にも滞在していました。また、書状送付のために伝馬手形を出していることから、安達より南で長沼より北、しかもしかるべき宿駅がある安子島(現郡山市)の城にいたこともわかっていますし、伊達や最上の動向をにらみつつ、この年の7月から家臣となった結城朝勝を、白河城に入城させてもいます。朝勝も恐らくは、景勝の下でかつての宇都宮家を再考すべく、旧領で一揆を起こし、関東征伐の準備を進めていたようです。

白峰旬氏の『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その2)』(PDF)及び『直江兼続と関ヶ原』を参考にしています。

飲み物-コーヒー
[ 2016/09/11 16:00 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 2

まず、「真田丸あれこれ38」で触れている「豊臣方」と「徳川方」の使い分けについて、NHKにメールで尋ねてみたところ、わかりやすさを重視して、総合的に判断しましたという回答が来ました-この「総合的判断」というのは、NHKのメールによく使われますが、何か明確さを欠いた印象なので、あまり使わない方がいいように思うのですが…。しかしわかりやすいのはともかく、やはり正確さにはは欠けるような気がします。この場合公儀軍は、家康の会津征伐軍のことだからです。従って、豊臣軍(徳川軍)と石田軍、あるいは石田・大谷軍とした方がより正確ではあります。

恐らくNHKとしては、その後の豊臣三奉行(増田、長束、前田)が石田・大谷についたことにより、こちらが豊臣軍となったという形にしたいのでしょう。で、名前をくるくる変えるとわかりにくい、ならば最初から、こっちを豊臣軍にしておこうではないかという理由だと思われます。この三奉行の寝返りは、この慶長5年の7月17日に出された「内府ちかひの条々」、『真田丸』で登場する弾劾状によるものですから、厳密にはその日までは公儀軍は家康軍と見てもいいかと思います。家康がこの弾劾状について知るのは、恐らくは7月23日、会津に向かっている真っ最中のことです。これは同日付の、最上義光宛ての手紙に、会津征伐の中止に言及しているためです。

つまり23日の段階で、家康は石田・大谷の挙兵と三奉行の寝返りの情報を手に入れていました。また細川忠興が7月21日に家臣宛てた文でも、毛利と石田の同盟について触れられています。元々は、7月25日に家康は下野国小山でこれを知り、所謂小山評定の後西進が決定し、兵を退却させたことになっています。しかし、実はこの小山評定にも異論が出ています。慶長5年7月25日に、家康が小山にいたことを決定づける史料が無く、7月28日付の家康の書状で、小山にいることが触れられているだけです。しかも25日後も、家康の家臣榊原康政は、家康と三奉行の関係がまだ良好であるかのような書状を出しています。

恐らく家康は、弾劾状が来ることで、せっかく引き付けた諸大名の信頼を失うのはまずいと考えたわけです。そのため、まず一部の大名を先に西へと送り、残った大名にだけこの弾劾状のことを打ち明けたと思われます。またそれ以前に、会津征伐を目的として大名を関東北部に集結させながら、ごく身近な家臣にだけは、三成が挙兵することを見据えて、対三成作戦のみを練っていたともいわれます。そのため、会津征伐といいながらも、その中止もまたかなりの確率で視野に入っていたことになります。もちろん家康は、上杉周辺の大名たちには、既にかなり手を回していました。

これを踏まえると、第35回で上杉景勝が、徳川軍を「多い」と言ったのも、単なる弱気というよりは、むしろ周囲の大名たちの多くが徳川寄りで、しかも領内の軍事インフラが未整備であったことも一因でしょう。また家康が公儀軍として東下し、上杉は秀頼への謀反人となったわけですから、その前後の直江状や上杉の対応もかなり違った見方になって来ます。何せ家康のことですから、会津征伐というのは壮大な法螺で(直江状の最初の写本を見ればそれもありかと思われます)、それにかこつけて大名たちを集め、三成と対決したという見方もできるかもしれません。何せ「上杉景勝許せん!」もパフォーマンスだったといわれているのですから。

白峰旬氏の『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)』(PDF)を一部参考にしています。

飲み物-アイスコーヒー2

[ 2016/09/07 01:30 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

北の関ヶ原 1

ぼつぼつ「北の関ヶ原」について、書こうと思っていますが、『真田丸』前回にも登場した直江状の、要点をまとめておくと

  • 家康への挑戦状ではなく、西笑承兌からの文に宛てた返書
  • 文章がいささか過激で一貫性が無いが、これは受け取ってすぐに文をしたためたせいもある。また中には結構丁寧な言い回しもある
  • 家康の怒りはパフォーマンスともいわれる。また会津征伐にしても、会津に派遣した使者伊奈昭綱の返事待ちとなっている。ちなみに直江状は伊奈が持参したのではなく、承兌によって、それより前に別便で送られている
  • そもそもの発端は、上洛しないことに加えて、神指城を築城したことから、春日山城主堀氏の讒言により「謀反の意志あり」と上方に伝わったこと。ちなみに家康は当時豊臣家臣であり、この謀反は家康ではなく、秀頼に対しての謀反である
  • 偽書説もあるが、承兌が兼続から書を受け取ったこと、その後の上杉景勝の書でも、上洛の遅れに言及されていることから、承兌と兼続の間に何らかのやり取りがあったのは事実である

こういうところでしょうか。家康宛ての書状でない証拠に、『真田丸』では承兌を登場させた感もあります。

ちなみに当時江戸にいた秀忠も、会津中納言(景勝)に書状を送っていますが、これには景勝の築城は最もな話で、上方も穏やかであるといった内容になっています。かなり実情と違いますが、これはなぜなのでしょうか。ともあれ、秀忠に対して景勝から報告があり、秀忠がそれを容認していたのは確かなようです。

また直江状と時を同じくして、大谷刑部吉継や増田長盛が、景勝に上洛して釈明するように働きかけ、伊奈昭綱以外に、彼らの使者も同行したとされています。結局会津征伐が行われることになりますが、その前に伊達軍が、かつての自領であった上杉領の伊達軍を巡り、軍事衝突が起こっています。

それ以後は兼続が機密条項を記した書状があちこちに送られ、その一方で伊達が上杉方の動向を探るため、忍びを使ってそれを狙うようになり、上杉としては当面の危機をどのように乗り越えるかが重要になって行きます。兼続は、いわばその司令塔的な存在だったわけです。

(資料:『直江兼続と関ヶ原』)
飲み物-本とウイスキー
[ 2016/09/04 01:45 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)

西笑承兌とは

さて、直江状絡みで何度かこのブログでも触れており、また『真田丸』にも登場する西笑承兌(ドラマでは西笑)について、改めて書いておきたいと思います。僧であることはわかりますが、この人はどのような身分かつ立場にあったのでしょうか。家族については不詳ですが、天文17年(1548)の生まれで、かなり若い頃から寺に入って学問を修め、天正12年(1584)に、相国寺の第九十二世住持となっています。

その翌年、相国寺の塔頭である鹿苑院の僧録(寺院関係の人事の統括職)に就任します。これは臨済宗の僧の最高峰です。その後秀吉の外交僧となりますが、これは元々織田信長が没収していた鹿苑院を、秀吉が返還していたのがきっかけです。その後も秀吉の下で政務を続け、文禄の役後に、明の皇帝による日本国王冊封で、金印を持参して秀吉の怒りを買ったのは『真田丸』に出て来た通りです。また明への出兵の際には、名護屋にも出向いています。

秀吉没後は相国寺内に豊光寺を建て、その後家康に仕えるようになりました。上杉景勝や直江兼続とも交流があったことから、家康の命を受けて兼続に書状を出すことになり、返って来たのがかの直江状だったわけです。

その前に送った文は、慶長5年(1600)の三月末から四月の始めにかけて、承兌が大坂、そして伏見に出向いた時に、家康の命を受けて書かれたものと推測されます。文には「卯月朔日 豊光寺 承兌」とあり、恐らくこれが「兼続と直江状2」で書いたように、急ぎの便で送られたのでしょう。また相国寺の『鹿苑日録』によれば、4月21日には、家康と榊原康政が、雨の中豊光寺を訪ねて礼物を届けています。恐らく書状執筆の礼と考えられます。

その後海外貿易の朱印制度にも参画し、占筮(筮竹による占い方法)も考案して、慶長13年(1608)に没しています。享年六十。大坂冬の陣の7年前のことです。

飲み物-緑茶
[ 2016/09/02 00:45 ] 日本史 | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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