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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『若い人』その5

『若い人』に関して5回目の投稿です。10月に入って、5年生の修学旅行の季節を迎えます。日程は8日間で、向かう先は主に東京、名古屋、大阪をはじめ鎌倉、京都、奈良、伊勢といったところで、それに加えて日光や松島、横浜や横須賀といった場所が入ったりもします。しかしこの当時は新幹線などはもちろんありません。それどころか、東京までは一昼夜半船と列車となっています。この後の日程の割り振りはどのようになっていたのでしょう。それはともかく、女学校ということもあり、あれを持って行っていいか、これはダメかなど事前の説明の時点で既ににぎやかです。

出発当日、間崎は江波母子に貰った靴を履いて行きます。そしてこの旅行で、江波は間崎の巾着になることを公認します。つまりその人物に常に付き添っているという意味で、腰巾着と似たような意味ですが、それはともかく。青森発上野行きの列車の中で眠っていた間崎は、田代ユキ子から起こされます。江波が泣いていると言うのです。母親がいないからというのがその理由ですが、これは当たり前の話であり、普通この年齢であればわきまえているはずなのに、子供っぽい感情をむき出しにしてしまうのが江波らしいと言えます。

間崎は江波を叱り、その後話をして落ち着かせます。その後列車は上野に到着し、一部の生徒たちを迎えに来た親戚に引き取らせますが、ここでまたひと悶着起きます。しかもその場にやって来た黒のソフト帽の男が、橋本の叔父で共産主義に傾倒している人物とわかり、橋本との関係を聞かれます。それやこれやで東京の第一夜は更け、翌日宮城(皇居)へ向かいます。この時の生徒たちの会話の場面が、後に物議を醸すのですが、それはまた改めて書くことにします。しかもこの後、やはり引率の山形先生の話に付き合ったり、自由行動の生徒たちを見て回ったり、橋本に手紙を書いたりとあわただしく時間が過ぎて行きます。

この日の夕方から雨が降り出し、生徒たちは雨の中を東京駅へ向かいます。やはりこの時代は、そこそこ強行日程のようです。親戚の家に行っていた生徒たちも戻り、これから西へ向けて移動することになるのですが、この時の江波の存在は、そこまで気になるものでもありませんでした。記録班の日報によれば、鎌倉→琵琶湖と比叡山→京都→大阪→奈良→鳥羽と伊勢神宮といった具合に、かなり駆け足であちこちを回った跡が窺えますが、この日報の後半部分は江波が書いており、間崎をうならせた文才があちこちに見て取れます。

ともかくスケジュールをこなした生徒と引率の先生たちは東京へ戻ります。そこには校長のミス・ケートが出迎えていて、洋食をご馳走してくれるのですが、無論中にはそれが苦手な生徒もいて、宿の夕食でご飯のお代わりをする者もいたなどとある辺り、時代を感じさせます。ともあれこれが東京最後の夜であり、生徒たちは買い物の時間を与えられます。一方間崎は橋本からの手紙を受け取りますが、これはいささか愛想のない、社交辞令のように間崎には映ったようです。

ところでこの修学旅行に行く前に、生徒がノートに先生たちの渾名をいたずら書きして叱られる場面があります。その中に「ニャアちゃん」というのがあり、これが間崎のニックネームです。間崎自身は意識していなかったにせよ、かつて「何々せニャアならんと思います」という表現を多用したのが原因なのですが、どう見ても猫を連想せざるをえません。実際生徒たちも同じことを考えたようで、しかも箸が転んでもおかしい年齢でもあり、その後、キャットという言葉が出て来ても、生徒たちは笑い出すようになってしまいます。

飲み物-ホットカフェオレ
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[ 2020/09/28 00:30 ] | TB(-) | CM(0)

『河童』に関して思うこと-6

硝子会社社長ゲエルについての続きです。このゲエルもとある倶楽部の会員で、超人倶楽部よりも居心地はいいとあるので、一部のインテリが小難しい話を延々と繰り広げるような空間ではなかったのでしょう。調度も贅沢で、セセッション風と書かれていますが、これはウィーン分離派のことで、グスタフ・クリムトを中心とした、所謂アール・ヌーヴォーを意味しています。インテリアも如何にもお金がかかった感じで、ゲエルはそこでコーヒーを金のスプーンで混ぜながら、政治の話をします。

政党は政治家のもの、その政治家を支配しているものは新聞社と言うゲエルですが、彼自身はその新聞社の社長を支配しています。尚政党、新聞社とも奇妙な間投詞の名前がついています。主人公はここで、労働者の味方である新聞記者たちが、社長の支配、ひいてはゲエルの支配を受けていることに同情するわけですが、そのゲエルを支配しているのがその妻であると、ゲエルは得々と語ります。突き詰めて言えば、政治を支配しているのはゲエル夫人となり、しかもゲエルは、主人公が河童でないからこそ、あなたの前で妻が自分を支配していると口にします。

実際かつて、ある雌の河童のために戦争が始まったことがあるとゲエルは言います。河童の仮想敵は獺(かわうそ)であり、しかも勲章を持った獺がある河童の夫婦を訪問した際、妻が誤って夫に飲ませるはずの、青化加里(青酸カリ)を入れたココアを獺に飲ませてしまい、両国の間で戦争が勃発したというのです。この時ゲエルは石炭殻を食糧として戦地へ送っています。河童は空腹なら何でも食べるためです、主人公はそれは醜聞だと言いますが、ゲエルは自分が言う以上そうはならないと澄ましたものです。しかも多くの河童が戦死します。

そこへ給仕が入って来ます。こともあろうに、ゲエルの家の隣が火事だというのです。幸い火は消し止められましたが、うろたえるゲエルは最早資産家でも何でもない、ただの河童となっていました。主人公は花瓶の冬バラを抜き、ゲエルの妻に持って帰るように言います。しかしここで終わらないのがゲエルの強かさで、隣の家のオーナーであった彼は、火災保険の保険金だけは撮れるとほくそえみます。主人公は複雑な気持ちです。

金持ちのゲエルにふさわしい倶楽部と自慢話が続くものの、最後の部分で隣家が火事と聞いてうろたえる辺りは常人ならぬ常河童です。しかしこれで保険金が取れると言うところに、やはりこのゲエルのゲエルたるところでしょう。ところで文中に
(何しろ河童の強敵に獺のゐるなどと云ふことは「水虎考略」の著者は勿論、「山島民譚集」の著者柳田国男さんさへ知らずにゐたらしい新事実ですから。)
とありますが、それは芥川龍之介の脳内妄想かと…と言うか一部の民話では、河童は獺が変化したものだと言われてもいますので、この発想にはうなずけます。それにしても新聞社の社長を支配云々というのは、株主であるということなのでしょうか。

しかしこの当時、新聞を支配することは間違いなく権力であったと言えるでしょう。石炭殻という単語共々時代を感じさせます。

飲み物-カフェラテ2
[ 2020/09/16 23:00 ] | TB(-) | CM(0)

『若い人』その4

『若い人』に関しての投稿第4弾目。視学官から授業を褒められ、一方で多少批判された間崎ですが、その日は上機嫌で帰宅し、下宿の小母さんに女性のお客が来ることを伝えます。そのお客は実は橋本なのですが、江波とその母親が先にやって来て、日頃世話を焼かせるお礼として、間崎に靴をプレゼントします。その後母親は帰り、江波だけが残って、友人の田代ユキ子について長々と喋り、間崎を辟易させます。そうしているうちに、本当の女性のお客である橋本が現れ、江波は押し入れの中に隠れます。

この橋本との話も、なかなか込み入ったものであると同時に、橋本が社会主義に傾倒しているのを多分に窺わせるものでもあるのですが、ともあれその最中に、押し入れの中で物音がします。間崎は江波がこのまま出て来るのではないかと、気になって仕方ないのですが、橋本はねずみであると思い込み、幸い江波も出て来る気配はありませんでした。また玄関には、江波がまだ帰宅していないこともあり、如何にも若い娘の物といった下駄が並んでいるわけですが、橋本はそれにもさほど気を留めていない様子です。

間崎は橋本を送りついでに、喫茶店でコーヒーを飲むことを提案します。その店には2人がよく知っている、1年生の増井アヤ子が警察署長の父親と一緒にいて、父親にこの2人の教師を紹介します。この辺りは、後の部分の伏線となっています。そして間崎は帰途につきますが、不在の間に下宿では、小母さんが押し入れから寝息がするのを聞き、開けてみると江波が中で眠っていて、しかも寝ぼけているようです。結局江波はそのまま帰ってしまい、間崎はことの次第を説明する破目になります。

ここまで読む限り、江波のターンが続いているように見えます。もう一人の女性キャラである橋本は教師という立場もあり、江波ほどには目立つわけでもなく、さらに言えばこれ見よがしな行動を取るわけでもないのですが、橋本は橋本なりに、間崎と向かい合って自らの意見を述べるわけで、間崎もただ黙っているわけではないのですが、2人の異なるタイプの女性に、いささかたじたじになっている感は否定できません。そしてこの次はいよいよ修学旅行となります。

しかし『河童』もそうですが、昭和のこの時期の文章は読むのに多少の煩わしさが伴います。その時代ならではの味と言いますか。無論小説そのものの在り方が、この時代と今とでは大きく異なるせいもありますが。

飲み物-アイスコーヒー5
[ 2020/09/09 00:00 ] | TB(-) | CM(0)

『河童』に関して思うこと-5

久々に『河童』関連です。(最近思うのですが、小説の解説関連投稿が増えている感あり)いよいよ硝子会社社長のゲエルの登場です。ガラス工業もまた、近代に入って躍進した産業であったわけですが、この人物、もとい河童はかなりの実力者です。ただし奥さんが荔枝のようで、子供たちが他ならぬ河童の鉱物である、胡瓜のようだという形容には笑ってしまいます。さて、このゲエルの友人たち絡みの工場を主人公は見学し、書籍製造工場の生産体制に驚きます。

この書籍製造工場は、機会に紙とインクと灰色の粉末を入れるだけで、年間七百万冊もの本が作られるわけですが、その灰色の粉末というのは、驢馬の脳髄を粉末化したものでした。こういう表現を見ると、かのエルキュール・ポワロの「灰色の脳細胞」を思い出すのですが、それはさておき。この他にも絵画関係や音楽関係でも同じような生産体制が採られており、また1か月に700から800もの機械が新案され、大量生産されていると主人公は説明を受けます。しかしそれはそれで、特許を付与するだけでも大変だと思うのですが…。

そして大量生産に伴い、多くの職工が解雇されます。実際には解雇されるなどという生易しいものではなく、彼らはすべて屠殺されて食用肉となってしまうのです。この世界には職工屠殺法なる法律があり、彼らはそのまま黙って殺されてしまうわけで、実際ゲエルが主人公に勧めたサンドイッチも、その職工の肉が挟まれていたのです。流石に主人公はそれを断り、反吐を吐きながら家へ向かうのでした。

この職工の食肉化、さらにそれを「あなたの国」、つまり日本の貧しい娘たちが売春婦となることになぞらえるのは、芥川一流のブラックジョークではあるでしょう-無論有無を言わせず食肉とするのと、売春婦とはまた意味合いが異なるには異なりますが。ブラックジョークと言えば、この1つ前のクラバックの演奏会で出て来る
「何、どの国の検閲よりも却つて進歩してゐる位ですよ。たとへば日本を御覧なさい。現につひ一月ばかり前にも、……」
と言う表現、さらにはこの章の日本の「あなたの国の」貧しい娘が売春婦になるというチャックの言葉は、この時点で比較対象が既にはっきりしているだけに、風刺というグレーゾーンの世界に立脚する表現方法とは、どこか違うのではないかとも考えられます。

実際これを書いた時、彼はかなり睡眠薬に頼るようになっており、その睡眠薬の麻薬的作用が、このような記述を可能にしたともいえます。しかしいつも思うのですが、河童独特の世界はこの職工の肉といい、驢馬の脳髄の粉末化といい、これでもかといった具合に相当グロテスクです。日本の文化を模倣したような河童の世界の、特にインテリ階級による文化とは、大いに異なるものが感じられます。

さてこの次の章では、政治や外交、戦争が登場します。

飲み物-アイスコーヒーブラック
[ 2020/08/26 00:30 ] | TB(-) | CM(0)

『若い人』その3

ここのところやや不調というのもありますが、このブログの投稿で、後からいくらか修正をしていることがありますので、その点、悪しからずご了承ください。では『若い人』その3です。

この作品のアウトラインを述べて行きます。江波は作文のみならず、絵画にもかなり天才的な物があります。そういった部分に驚きつつも、橋本の知的な雰囲気にも惹かれて行く間崎でした。また女学校ということで、様々な女性の先生も多く、それぞれの人物像が細かく描かれています。そのような中、間崎は靴の中に走り書きの手紙を見つけます。

それは江波の手紙で、寮を出て通学する旨が簡単に書かれています。かつて江波は、間崎に挨拶しないという宣戦布告のような手紙をよこしていたのですが、今度は自分の作文を橋本先生がどのように評価したか、それを教えてくれれば挨拶をするとまで書いています。しかもその時、当の江波の体操服姿を間崎は目にします。彼女はバスケットボールをしていたのです。しかもそのボールがこちらに転がって来て、間崎はそれを蹴返そうとしてひっくり返ってしまい、橋本先生に肩を借りるはめになります。どうも間崎は江波の前ではあまりいい格好ができないようで、他の生徒たちはくすくす笑っていますが、江波は自分は笑わないと明言します。

その年の9月、文部省派遣の視学官が学校を訪れることになります。これはかつて、授業視察や教員の監督を目的に置かれた制度で、私立の学校ももちろん対象となっていました。(今も同じ名前の文部科学省の職務がありますが、内容は全然違います)ともあれ、国語科の授業の視察ということで、間崎の授業も視察されることになります。この時の授業内容は乃木大将の殉死に関するもので、授業中江波が突っ込んだ質問をします。最終的に間崎の授業は高評価ではあるものの一部批判もあり、その批判がやはり江波絡みであったことから、間崎はどこかやり場のない思いを抱きます。

上巻前半のこの辺りから、江波の存在が、間崎にかなりの影響を及ぼすようになって行きます。江波との直接的または間接的なやり取りは、橋本との間で成立する理論的な会話とはかなり違ったものでした。しかもそれに対して対処しているつもりが、どこかうまく対処出来ていないところもあり、その点を視学官からも指摘されています。この場合授業がどうこうと言うより、江波との絡みの不十分さを指摘されたことにより、間崎は落ち着かない気持ちにさせられたと考えるべきでしょう。

それにしても、この当時の女子スポーツにはバスケもあったのですね。ちなみに今はWNBAもありますが、かつてアメリカの女子バスケ選手がプレイで生活できるのは、日本とイタリアだけだったらしい。それはともかく。この間崎が転がって来たボールを蹴り上げようとして転んでしまいますが、サッカーのスライディングのようなものでしょうか。普通に手で拾って渡してもよかったのでは…。

ところで先日の投稿の、この間崎が女子生徒に人気があるという部分ですが、かの高嶋政伸さんも、この役を演じていたようです。個人的にはちょっと微妙ではあります-高島さんといえば、最近では『DOCTORS〜最強の名医〜』とか、『真田丸』の汁かけ飯が大好きな北条氏政公のイメージがあるせいでしょうか。この頃谷原章介さんが俳優としてデビューしていますが、谷原さんだとこの役はうってつけだったかも知れません。

ところで女子生徒のみならず、女性に人気があるという点で思い出すのが、『ガリレオ』の草薙俊平が所轄署から警視庁に栄転になる時、同じ署の女性警官が我先にと花束を渡すシーンです。この時草薙は内海薫にだけ話しかけるのですが、それは湯川に懐疑的な内海に対し、俺なら湯川と捜査を続けるというものでした。内海の方はといえば、日頃付き合いのある女性警官たちの態度に驚き気味です。尤も湯川の授業に女子学生が多いのも、この場合似たようなものです。

飲み物―アイスコーヒー5
[ 2020/08/19 00:30 ] | TB(-) | CM(0)

『若い人』その2

先日書いた『若い人』について、今少し。そもそもの出だしは例の江波恵子の作文で、これを見た国語の教諭の間崎が、その奔放さに心打たれるところから始まります。

間崎はこの学校に赴任した時、この江波のこと、その態度がかなりマイペースであることを聞き、さらに本人がどのような少女であるかを知ってからも、さほど関心は持っていませんでした。しかし、作文を読んでから少し経った夏のある日、時間が空いたので裏山へ行った間崎は、そこで頭痛がするという理由で(多分仮病)一人のんびりしている江波と出会い、江波はかなり哲学的な話題を持ち出します。間崎はこういう場所での、如何にも素直でいい雰囲気の江波が、なぜ時々妙にとっぴな行動に出るのかを尋ねます。江波はこう答えます。

「いつかミス・ケート(̪私注・女学校の外国人校長)が倫理のお話の中でお互いに喰い合う二匹の蛇はしまいにはどうなるかってお尋ねになりましたけど、私自分のことを考えると、その無気味な喩え話が思い出されてなりません。人間にすると、それは自分が生きて行くために自分の命を少しずつ食べて行くっていうことになるんでしょう」

2人はその後も会話を交わし、間崎が、江波はどうも女学生に見えないと持ち掛けると、江波は今度は先生たちの人気投票を無記名でやったと話題を変えます。この時江波は、間崎が1位になることはわかっていたから、自分は敢えて橋本の名を書いたこと、先生は橋本先生を好きなんでしょうと言い、そういう噂があるとも口にして間崎は少々たじろぎます。

この結果、1位が間崎、2位が橋本、3位がミス・ケートという結果になるのですが、橋本というのは地理歴史の先生で、寮の舎監をしており(ちなみに江波は寮生)、所謂進歩的な考えを持った人物でもありました。ある日、間崎が宿直の時に、この先生宛に社会主義関係の秘密出版物らしき物が届いていて、しかも雨のせいで中身が見えていたため、新聞紙で厳重にくるんで本人宛に届けさせます。この辺り、終盤の伏線となっている感があります。

出だしはこういう感じで、今後も『河童』同様、折に触れて、ごくざっとした形でご紹介することになりそうです。しかしこの時代の文章にありがちな、修飾表現が多く抒情的とも取れる表現が、今時の散文的表現に慣れた目には、少々疲れるようにも感じられます。戦前というか、昭和に入って間もない頃の、女学校という空間を舞台にしたこの話は、この時期ならではの時代背景と、それに対抗するかのような、しかも後の時代では封印されてしまうであろう自由奔放さを、ヒロインである江波に託した作品と取れなくもありません。実際彼女のキャラがかなり立っていることからも、それが感じ取れます。

なお先日の、間崎先生を演じた俳優さんたちは、実際の映像作品で見たわけではありません。それぞれが出演した同じ頃、あるいはその少し後の作品を観て、これならこの役を振られるのもむべなるかなと思った次第です。と言うより、この小説の映像化作品については、1952年と1962年の映画作品以外は、DVDは出ていないようです。観てみたいのですけどね。

本といえば、有栖川有栖氏の作品をはじめ、ミステリー関係を紹介したいと思ってはいるのですが、これは、休眠中の本関係ブログを活かすことになりそうです。

飲み物-ローズヒップティー
[ 2020/08/16 23:45 ] | TB(-) | CM(0)

『若い人』と石原裕次郎さんと

10日に亡くなられた渡哲也さんが、俗にいう石原軍団(石原プロモーション)のメンバーであったことは、先日書いていますが、ここも先日解散が発表されています。これは石原裕次郎氏の遺志によるものだったようで、ご本人の34回忌を迎えてやっと実現されたとの由。この石原裕次郎氏は、青春スター、さらには刑事ドラマで一世を風靡しながらも、1987年に50代の若さで亡くなっており、その前年に『太陽にほえろ!』で、部下のことと自身の病気を話すシーンが登場しますが、これはアドリブとのことです。

ところでこの方が人気絶頂だった頃、日活が制作した映画『若い人』(1962年)に出演しています。この『若い人』という小説についてはご存知の方も多いと思います。

戦前の北国(北海道と思われる)の女学校の教師である間崎慎太郎が、生徒である江波恵子の情熱的な作文にかなりの印象を受け、またその江波も、独身である間崎にやや屈折した恋心を抱くようになります。これを同僚の女性教師である橋本スミが諫めますが、江波は間崎に対して、気を引くような態度を取るようになり、母親と間崎の下宿にやって来て、靴をプレゼントしたりします。

その後も江波のやや羽目を外したような態度はやまず、修学旅行の列車で大泣きして、間崎に手を取って慰めてもらったり、周囲から妊娠していると疑われ、病院でちょっとした騒ぎになって間崎がそこにやって来たり、間崎の下宿に来てそのまま眠ってしまったりします。挙句の果ては、間崎が彼女の母親の料亭での喧嘩を仲裁しようとしてケガを負い、そのまま江波の家で療養することになり、その時彼女との肉体的関係が出来てしまいます。

これは橋本に知られることになります。しかもその橋本は共産党活動にこっそり加わっており、自宅で開いた集会が非合法に当たることから検挙されます。それを知った間崎も悩みますが、最終的に橋本と共に人生を歩むことになります。

私も高校生の頃この本を読み、この作品に登場する学校と同じ系列の、所謂ミッションスクールに通っていたこともあって、作品の背景についてはかなり理解できました。しかしその当時、ここまで恋愛に積極的な女の子がいるのかと思ったものです。無論江波だけではなく、彼女の友人や他の先生も出て来るし、中には如何にも優等生といった感じの子もいます。江波の場合、見かけもよくて勉強もでき、庶子という出生上の理由もあってのことなのか、かなり思索的でもあり(だから間崎も彼女の作文に心を動かされたのですが)、修学旅行中の記録も気の利いたことを書いたりしているのですが、如何せん好きな先生へのアプローチが相当にすさまじいです。

ところでこの作品は過去何本か映画またはTVドラマ化され、もちろん教師の間崎も、色々な俳優さんが演じています。石原裕次郎さんもその一人です。で、ここから先は、ご本人には大変失礼かと思いつつ書いて行きますが、この間崎先生は独身ということもあり、生徒たちに大変人気があります。過去の作品の中で、1972年のドラマの石坂浩二さん、1976年の映画の小野寺昭さん、1986年のドラマの田中健さんや、往年の二枚目俳優で1952年の映画に出演した池辺良さんなどは、確かに女の子たちからは素敵な先生と慕われもするでしょう。こういうキャラにはパターンがあり、たとえば細身であるとか優しそうであるとか、二枚目(イケメンとはまたちょっと違うので)であるとか、そういう雰囲気のあるなしが条件としてつくわけで、裕次郎さんの場合、またちょっと違った雰囲気ではあるのですが…。尚、この時の江波は吉永小百合さんが演じています。

あとこの作品の場合、校長先生が外国人である(これも昔のミッションスクールによくあること)のに加え、修学旅行の際の会話や基地の見学などで、当時の軍部などから問題視された記述があったりで、その意味でも話題作であったともいえます。本の内容の詳細については、機会があればまた書く予定です。というか、書いている内にまた読みたくなって来たので、探して読んでみようかと思っています。尚裕次郎さんがかつてこの映画に出ていたというのは、亡くなられた後の雑誌の特集号で知りました。

飲み物-赤ワイン
[ 2020/08/16 01:00 ] | TB(-) | CM(0)

『河童』に関して思うこと-4

主人公は詩人のトックを紹介して貰います。このトックが詩人らしく髪を伸ばしているという表現がありますが、その当時の詩人と呼ばれる人々の肖像を見ると、確かに普通の男性よりは長めといった感じです。しかし所謂ロン毛と呼ばれるような長さでもなさそうです。でまあ、何だかんだと言いながらもごく普通の生活を羨ましがるわけです。この辺りは当時の人間社会を示唆しているといえます。

しかしその次の章、恋愛に関して雌の河童の方が雄より積極的である部分などは、河童社会特有のグロテスクさを含んでいると考えられます。これは人工中絶(と言えるのかどうか)も似たようなものでしょう。こういう生殖とか、生物の本能に関する記述の場合は、たとえそれが人間社会(の反対)を暗示するものであったにせよ、この作品ではかなり生々しい表現を取っています。小学生の頃確かにこの作品を読んだことはあるのですが、こういう箇所をどのような気持ちで読んでいたのかどうも記憶がはっきりしません。

雌が雄を追いかけるのを何とかできないのかと、主人公は哲学者マッグに迫りますが、マッグは官吏、つまり公務員の中に雌が少ないこと、また仮に官吏に雌が多ければ、それはそれでやはり雌は雄を追いかけ回すだろう(つまり何も変わらない)といったことを口にします。このマッグは、この意味では孤高の存在とも言えるのですが、あなたは雌に追いかけられずに済んで幸せだと言う主人公に対し、自分も時々は追いかけられてみたくなると言う辺り、ごく当たり前の家庭生活を羨ましがるトック同様、どこか屈折したものがあるようです。

そして音楽会。トックと一緒に行った3度目の音楽界で、トックと同じ超人倶楽部のメンバーであるクラバックなる音楽家が自作のリード、所謂歌曲を演奏し始めます。しかしその途中で警官が入って来て、演奏中止を言い渡したものですから会場は騒然となります。サイダーの空き瓶や石ころや「噛ぢりかけの胡瓜さへ降つて来る」とあり、これは如何にも河童の社会らしくはあるのですが、なぜかこの世界では音楽に検閲が入るものの、絵画や文芸はお咎めなしです。

これについては、音楽会で一緒になったマッグが
「絵や文芸は何を表現しているかはわかるから禁止されない、音楽の場合、風俗を壊乱する曲は耳のない河童にはわからないから取り締まるのだ」
と摩訶不思議なことを言います。主人公はそれは乱暴だと言うものの、マッグが日本の例をごらんなさい、つい1か月前にもと言いかけたところで、空き瓶が頭に当たって気を失ってしまいます。この日本の例が具体的に何であるのかはともかく、検閲は多くの場合何かの前提があって行われるわけですが、この場合の検閲なるものは何やら突発的でもあります。

ところでここの章で
「クラバツクはピアノに向つたまま、傲然と我々をふり返つてゐました。が、いくら傲然としてゐても、いろいろのものの飛んで来るのはよけない訣に行きません。従つてつまり二三秒置きに折角の態度も変つた訣です。しかし兎に角大体としては大音楽家の威厳を保ちながら、細い目を凄まじく赫かがやかせてゐました。」
とありますが、英文出身の芥川龍之介らしくというか、やや不自然な日本語ではあります。折角の態度というのは、折角の演奏と置き換えるべきでしょうか。またクラバックという名前、クラバットに由来している感がなきにしもあらずです。そもそもリードは古典派に端を発し、ロマン派で完成したことを考えれば、その当時の作曲家たちはもちろん、現代のような細いタイでなく、クラバットと呼ばれる布状の物を襟元に巻いていました。

さて、この次は硝子会社の経営者であるゲエルが登場し、ここでも河童の世界特有の、ちょっと信じられないようなことが起こることになります。しかし物語が進むに従い、当然ながら出て来るキャラも増えてくるわけで、それぞれのキャラ設定が新鮮であると同時に、実を言えば、若干煩わしさをも感じるわけで、仮に主人公とあと2名位で話を進めていたら、また違った印象になっていたでしょう。

飲み物-サイダー
[ 2020/08/13 00:00 ] | TB(-) | CM(0)

『河童』に関して思うこと-番外

今日は番外編です。NHKの『ネーミングバラエティ-日本人のおなまえっ!』で河童が紹介されたので、それにちなんで。
https://www4.nhk.or.jp/onamae/ (NHK ONLINE)

まずこの河童、かつては地域によって姿かたちも名称もばらばらでした。土佐のシバテン、これは『竜馬がゆく』を読んだことのある人ならご存知でしょう。「相撲取ろう」と言って人間に近寄ってくるのですね。そして天保7(1836)年の『水虎考略』で、所謂河童のビジュアルが統一されたことが紹介されています。この『水虎考略』に関しては、この河童関連投稿のその2で触れています。

そして昭和初期の芥川の『河童』となるのですが、この時に、Kappaと発音してくれという、例の謎の一文が紹介されます。これに関して研究者の畑中章宏氏は、芥川の生まれ故郷である本所両国が、河童が出るとされた隅田川沿岸であることが、大きく関わっていると説明しています。これに従うと、東京での呼び名であるカッパを全国区化させたかったということになります。尚このカッパという発音に関して、小さい「つ」という促音と、「ぱ」の半濁音を続けることで、話し言葉に近くなる(=親しみやすくなる)という指摘が金田一秀穂氏からなされています。しかし私としては、河童はギリシア文字のKと同じ発音というのが妙に気になります。

その後は河童忌の説明となるわけですが、この部分を含め、芥川作品に関しての進行が、一部初心者を意識した感があるのと、河童橋が登場しなかったのが如何にも残念です。台本にもう少し工夫がほしいところです。それと宮崎美子さんには、もう少し作品関連のことを喋らせてよかったのではないでしょうか。それとはまた別になりますが、せめて小学生か中学生の頃までに、『蜘蛛の糸』『河童』程度は読んでいてほしいなとも思います。

個人的にはもう少し攻めるというか、マニアックに突っ込んでほしかったです。もちろんこの番組は、他にもアマビエや鬼などを含めた妖怪の名前の紹介であり、河童のみを特集したものではないので、仕方がないとは思います。ならばいっそのこと、この『河童』関連でドキュメンタリーでもEテレ関連でもいいので制作してほしいものです。言っちゃなんですが、受信料というのは本来そういうのに使われてしかるべきでしょう。

ところで先日の受信料に言及した投稿で、NHKの公共性にも触れていましたが、私としては『ブラタモリ』の方がドラマよりも遥かに公共性があるように思われます。

飲み物-冷えたビール2杯
[ 2020/08/07 00:45 ] | TB(-) | CM(0)

『河童』に関して思うこと-3

『河童』に関する投稿その3です。人間である主人公(僕)と河童の価値観の違いが描かれますが、その中でも産児制限に絡めて、特に有名な、子供が生まれる前にその子の意志を問う場面が出て来ます。要は親が子供に生まれて来たいかどうかを問い、子供が拒否すれば中絶させてしまうというものです。

生まれる前に自分の意志をはっきり伝えるのですから、子供たちは、生まれてすぐに一人前に喋ったり歩いたりすることができます。しかしどうやって、生まれたくない理由(父親の遺伝子、河童としての存在への嫌悪)を子供が知り得たのかはもちろん不明です。結局生まれ出ることのなかった子供たちは、何か別の存在に転生したりするのでしょうか。

それから義勇隊が登場します。と言っても、健全なる河童と不健全な河童を結婚させて悪遺伝を撲滅しようというわけで、ちょっと不気味でもありますが、これがポスターとして街角にあるということは、一種の国策的な取り組みでもあるのでしょう。これをラップなる大学生が読み上げ、身分違いの恋というか、持てる者と持たざる者の恋などはその一例だといったことを話します。しかしこのラップの言葉はまだ納得ができますが、ポスターに書かれている(と主人公が話している)のを実現するのであれば、両者がプラスとマイナスそれぞれの面でどこか突出した部分があってこそ、初めて互いに補填し合うに至るわけなので、単に健全と不健全なる者同士だけでは、ちょっと弱いような気もするのですが…。

ちなみにこのラップは、人間の義勇隊についても触れています。恐らく軍隊のことでしょう。この作品が発表されたのは昭和2(1927)年ですが、ほどなく世界恐慌が怒り、世界中が不安定な様相を呈し始めます。

ここでちょっと余談ですが、先日三浦春馬さんが亡くなられた際に、主人公の孫の役を演じた出演作『永遠の0』(映画の方です)で、友人から特攻隊員であった祖父をテロリストとなじられるように言われたことに、ブチ切れるシーンをツイートしている人がいました。しかし私としては、その後祖父の戦友であり、どう見ても堅気には見えない景浦介山の所へ行って話を聞くのが、一番面白く感じられたものです。この景浦は、もう一人の主人公と言っていいでしょう。

閑話休題。主人公はこのラップに詩人のトックを紹介して貰っています。このトックは超人倶楽部という、一種の文化人サロンのような組織のメンバーでもあり、所謂芸術家肌で結婚や家庭を嫌いつつ、どこかでそういった存在に羨望の眼差しを向けてもいます。

このトックが作品中で言うことは、恐らく当時のインテリ層、特に社会主義に傾倒している層の考えを代弁していると言えるでしょう。『改造』という、社会主義的な雰囲気のあるメディアに掲載されたからということも無論考えられます。社会主義者だの無政府主義者だのという言葉が出て来ます。個人的には無政府主義(アナーキズム)などというのは、かなり自己矛盾であると思うのですが、それはともかく。この作品ではこういう、人間社会、特に当時の日本の文化人社会をスライドさせたような場面と、河童そのものの世界に根付いた場面とではかなり与える雰囲気が違います。後者の方はかなり生々しく、しかもどこか野蛮ではないかと思われるふしさえあるのですが、これはこの後でまた書くことにします。

ところで主人公の万年筆を盗んで行ったのは、前出ラップのようです。

飲み物-アイスコーヒー5
[ 2020/07/31 00:00 ] | TB(-) | CM(0)
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『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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