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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『河童』に関して思うこと-2

先日「『河童』に関して思うこと」という投稿をしています。この中で河童が白樺の幹に手を回していたと思われる表現を、なぜか枝を集めていると書いていました。訂正しています。

ところでこの小説が風刺小説という点に関して、どこか違うように思うとも書いています。無論これが書かれた時代の観点からすれば、そのように考えられたとしても不思議ではないでしょう。ただ個人的には、無論書かれた時代も違えば、小説と漫画という点でも異なりはしますが、たとえば『ブラック・ジャック』などの方がかなり風刺的な印象を受けます。それとは別に、『若きウェルテルの悩み』をパロディ化し、冷戦下の東ドイツの青年が、思い切りこの作品をディスる『若きウェルテルの新たな悩み』という小説がありますが、それをもちょっと思い起こさせます。

そこで考えたのですが、この小説の中に登場する、昭和2年当時の様々なことを、解読してみると面白いかもしれないと思い、今後はそのような形でこの作品に関して投稿して行くことにします。登山に関しては既に前の投稿でご紹介していますので、その後の箇所に登場する、これはと思った点を次々挙げて行くことになりそうです。
尚私の場合引用元はネット上の青空文庫ですので、解説が付けられていません。そのため、この解読はすべて私の独断によるものであることをお断りしておきます。また他ジャンルの作品との絡み、比較もしています。

たとえば、冒頭で主人公(精神病患者第二十三号)が、S精神病院に入っていて、院長はS博士だとあります。イニシャルに加えて、東京市外とあることも併せて考えると、恐らく東京府巣鴨病院(現・都立松沢病院)であり、院長は榊俶(さかき はじめ)ではないかとも思われます。(巣鴨はこの作品発表時は東京府下ではあるが市内ではない)ただしこの作品が書かれた当時は松沢病院となっており、院長は呉秀三でした。

そして主人公がなぜ河童を捕まえようとしたかはともかく、追い回しているうちに何か穴のような物に落ちてしまいます。そこで気を失っていたのを助けられ、医者のチャックの家に連れて行かれるのですが、こういう異次元世界への瞬間移動というのが、かの『JIN-仁-』をちょっと思い出させます。尤もあれはタイムスリップではありますが、それはともかく。担架で主人公が運ばれたというのは、この当時救急車が存在しなかったのも一因でしょうし、何よりも主人公に河童の世界の街を見せるという目的があったかと思います。
それからチャックが透明な水薬を飲ませたとありますが、主人公が身動きもできないほど節々が痛んでいたということから察すると、消炎もしくは鎮痛効果があるものなのでしょうか。河童の薬というのもありますが、これはどうも膏薬のイメージが強いです。ちなみに石田散薬は河童が教えたと言われているようです。
この水薬が具体的に何であるのかはわかりませんが、実際、今でも水薬(液剤)で、鎮痛効果がある物は存在します。痛み止めを液剤にして、小型のボトルやプラスチックのアンプル様の物に入れた物で、透明な液剤としては、ロキソプロフェンナトリウム内服液(ジェネリック)などが挙げられます。もちろんこの当時はこの薬は存在しませんが。

後『水虎考略』というのも出て来ますが、これは江戸時代末期に編纂された河童の研究書です。ちなみにこの10年ほど後に、かのアマビエが瓦版に登場しています。

その後の、河童の体つきやサイズに関する記述ですが、長さはメートル法、体重はヤード・ポンド法で表記されていますので、いささかわかりづらくはあります。身長は1メートル前後、体重は10ポンドから20ポンドとありますが、20ポンドは大体10キロ弱です。さらに気温の表示が華氏で、ここで出て来る平均気温華氏50度は摂氏10度です。なのに着物を着ることをしないのは、河童が皮下脂肪が分厚いからだろうと書かれています。逆に主人公が服を着ている、特に恥部を隠しているのを河童に笑われる始末です。

この少し後に、主人公が万年筆を河童に盗まれてしまいます。万年筆といえば、余談ながら思い出すのが、今回の『半沢直樹』です。第1シリーズのネジを思わせますが、ああいうクラシックな形の万年筆を出してくるというのは、どのような意図があるのでしょうか。

飲み物-アイスコーヒーブラック
[ 2020/07/30 01:00 ] | TB(-) | CM(0)

『河童』に関して思うこと

先日芥川龍之介の『河童』について書きました。この作品に目を通したのは、実は小学校の時以来です。風刺という評価もありますが、個人的にはいくらか違う印象も受けます。これは改めて書きますが、その当時、この作品が掲載された『改造』の読者が好みそうな固有名詞、ストリンドベリ、ニーチェ、トルストイ、国木田独歩、ワグナー(ヴァグナー)が次々と登場します。ちなみに国木田独は芥川から高評価を得ていました。

そしてネタバレになりますが、ストリンドベリの友人で
「子供の大勢ある細君の代りに十三四のタイテイの女を娶つた商売人上りの仏蘭西の画家です」
とあります。この画家はポール・ゴーギャンですね。タイテイといいうのはタヒチのフランス語式発音です。

ゴーギャンといえば、かのサマセット・モームが『月と六ペンス』で、この人物をモデルにしたのでも有名ですが(但しこちらはイギリス人という設定で、いくらかゴーギャンと異なる点もあり)、モームといえば『雨』の舞台であるサモアを思い出します-ただしアメリカンサモアであり、ラグビーが行われている方のサモアではありません。

ところで今回書きたいのは、その当時の登山についてです。この頃は恐らくは、登山は時間もお金もかかるものであり、従ってある程度の収入と時間がある人のものだったと考えられます。主人公が後に事業で失敗とあるのも、作中には登場しないものの、元々自分で会社か何かをやっていたとも取れます。そもそも登山自体はかつて日本に存在したものの、レジャーとして持ち込まれたのは西洋からで、この主人公が持参した食料が、コンビーフ(作品ではコオンド・ビイフ)にパンであるのは、ひとつはそのせいなのでしょう。

登山食なら、今ならレトルトもインスタント食品もあるし、立ったまま食べるための、所謂行動食と呼ばれる食品もコンビニで入手できます。無論栄養補助のゼリーもありますが、この当時は恐らくそういう物は皆無でしょう。そういった点を考えると、当時の登山はお金と時間に加えて、体力も今以上に求められたかと思います。ただし今でも人気があるチョコレートやナッツなどは、かなり以前から登山者に愛好されていたようです。

それともう一つ興味深い点があります。登山服や背負った毛布などが霧に濡れて重いという描写があり、この霧のせいで歩くのをあきらめて、休止したところで河童に出会うという展開になっています。確かにこの当時、今のような防水加工の登山服などもなかったでしょうし、登山用の服であったとしても、吸湿性の点などでもかなり劣ったと思われます。

無論、この頃はアウトドア用のコンロもありません。こういった前提のもと、主人公は当時としては当たり前ながら、枯れ枝を折るなどして手間暇かけて昼食の準備をし、その食事を楽しんでいる時に、白樺の幹につかまってこちらを見ていた河童と遭遇しています。こういうのは作品の主旨とは別に、ある意味この時代らしいおおらかさを感じさせなくもありません。

無論今仮にこういうことになったら、主人公がスマホで河童の画像を撮ってメディアに送る、またはツイートするという方法を採ったかとは思います。そしてこの河童の正体について、あれこれ意見や憶測が飛び交うことになるのでしょう。

飲み物-ランプと水とウイスキー
[ 2020/07/26 00:00 ] | TB(-) | CM(0)

大河関連本と大河のあり方

以前、『花燃ゆ』放送時に少し触れたような気がしますが、『大河ドラマ読本』という本が洋泉社から出ていたことがあります。実はそれを読んだことがあるのですが、あまり面白くなかったのを覚えています。時期的に冒頭が『真田丸』で、表紙が『龍馬伝』、『篤姫』、『天地人』のそれぞれの主人公で、この3作品をはじめ、『新選組!』や『義経』が大々的に取り上げられています。しかしなぜか『風林火山』がその中にありません(その次の章では取り上げられていますが)。恐らくその辺りも、面白味を感じなかった一因であるかと思います。『花燃ゆ』が批判されていたのはまだわかるのですが。

また同じ会社から、同じ頃に『大河ドラマと日本人』なる本も出ています。こちらも確か立ち読みか何かでページをめくった記憶があるのですが、やはりさほど面白味を感じませんでした。『読本』の方は、松村邦洋さんが登場していましたが、こちらは星亮一氏と一坂太郎氏という、歴史に携わっている人々の対談になっています。しかし内容がどうも主観的というか、それぞれの好き嫌いで判断されているふしがあること、さらにDVDがあるにも関わらず、観ておられない作品があるということで、これでは大河全体の分析がきちんとできているのか、疑問に感じられます。実際ネット上で、この内容への違和感を目にしたこともありますし、アマゾンの書評でも批判的なものが見られました。

大河関連の本というと、今までの作品集大成をはじめ、色々な作品に言及するタイプの本が多いのですが、本当の話、もう少し突っ込んだ内容の物がないかと思っています。ただしディープに突っ込むにしては、1年というスパンで区切られていて、シリーズ物でないことから、ドラマそのものの変化や成長を見極めるのが難しいと思われます。昨今の大河の多くが面白くないというのは、スタッフやキャストもさることながら、主人公が出尽くした感があること、費用を掛けていないこと、SNSに頼り過ぎなこと(これは実際フォローしていてそう思います)、とかく過去の作品と比較されがちなことなど様々ですが、この、1年間で完結するという点にも問題はありそうです。むしろ今必要なのは大河を続けるべきか否か、続けるならこれらの諸問題を如何に解決するのか、それを論じた書籍ではないかと思うのですが…。

飲み物-アイスコーヒー
[ 2018/04/03 00:45 ] | TB(-) | CM(0)

『若草物語』と『ダウントン・アビー』

11月29日のグーグルトップは、ルイーザ・メイ・オルコットの生誕184年記念ということで、『若草物語』のイラストでした。私としては、『赤毛のアン』の方が好きなのですが、この『若草物語』の巡礼遊びで『天路歴程』を、ピックウィッククラブでディケンズを知ったので、その意味では思い出深い本ではあります。無論『赤毛のアン』でも結構シェークスピアだの、レイヤーケーキだの、ブナ屋敷だの様々なことを知ったのですが。
『天路歴程』に関しては今までにも何度か書きましたが、ジョン・バニヤンの著書で、主人公クリスチャンが、破滅の町から天の都まで巡礼する様を描いたものです。清教徒(ピューリタン)に大きな影響を与えた書物で、『若草物語』も清教徒的なところがあります。尤もオルコット自身はユニテリアンという、かなり現実主義的なプロテスタント諸派の信者だったようです。
ところで一般にいわれる『若草物語』には続編があり、姉妹が結婚して家庭を持つところが描かれています。『赤毛のアン』もこれは同じなので、海外ではシリーズで読んでいる人も多いようです。

ところで『ダウントン・アビー』という海外ドラマがあります。12月4日からシーズン5がNHKで放送予定ですが、これのシーズン1のエピソードで、若草物語が登場するシーンがあります。伯爵夫人のコーラが、アメリカ出身なので登場したのだろうと思ったのですが、実はこれは、その後のシーンの伏線でした。
伯爵家のパットモア料理長が白内障に罹り、視界が定まらなくなって、お客用の料理であるローストチキンを床に落としてしまい、猫がくわえて行こうとして、下僕やメイドたちが慌てて取り戻します。かてて加えて、デザートに砂糖をかけるのですが、実はこれは塩だったわけで、これと似たシーンが『若草物語』の中にも登場します。
マーチ夫人が仮病を使って、娘たちに家事をやらせるところで、ジョーが料理を作ってお客をもてなすのですが、みんなどれもあまり食べようとしない。ならばとデザートの苺クリームで挽回しようとするものの、実はこれも、砂糖と間違えて塩を大量にふりかけてしまっていました。しかもクリームは腐って酸っぱくなっていたというわけです。

飲み物-コーヒーとキャンドル
[ 2016/12/01 01:00 ] | TB(-) | CM(0)

『太平記』第九章 鎌倉幕府滅亡ノ事

いよいよ鎌倉幕府滅亡です。しかし『太平記』はこれからがいよいよ正念場なのですが…幕臣である足利高氏が後醍醐天皇側につくことになり、鎌倉攻めの新田義貞は、剣を稲村崎で海に投じます。

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名越高家が討死し、南北の六波羅は風雲急を告げる事態となっており、兵をかき集めることに腐心する。そして北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は北の六波羅の館に入る。一方で、高氏の長男で人質に取られていた千寿王は、潜んでいた大蔵谷を何者かによって連れ出された。

5月7日未明、足利高氏は2万5千余りの兵を率いて丹波を出たが、今日に到着する頃にはその倍になっており、これに赤松の軍、そして後醍醐天皇の側近である、千種忠顕の軍が合流した。迎え撃つ六波羅勢は6万騎であったが、足利連合軍はこれを破り、六波羅の南北それぞれの探題は、帝と上皇を連れ落ちのびて行った。

しかし南探題の北条時益は途中で落命、光厳天皇は負傷、そして多くの敵軍を前に、北探題の北条仲時をはじめ400人以上の武士が自害して果てた。光厳天皇と二人の上皇は京へ送還された。そして上野では、新田義貞が挙兵していた。

幕府は京に軍を送る予定だったが、まず新田勢を討ち取ることにした。武蔵国小手指原で両軍は相まみえる。その最中、六波羅陥落の知らせが伝わり、退却する幕府軍を追って、新田軍もまた鎌倉へと馬を進めた。5月21日、稲村崎沖に敵の船を見た義貞は、海が開かれんことをと、剣を海に投げ入れる。

その後潮が引いたのを見た義貞は、馬を進めて鎌倉に入る。酒宴を張っていた北条高時は、嶋津四郎を当てにしていたが、あっさり降伏してしまう。さらにその後、新たに探題職を任じた金沢貞時、そして大仏貞直も戦死、高時たちは東勝寺へと逃げる。そしてその場で高時、長崎円喜と弟の高重、駿河時顕らも自刃して、鎌倉幕府は滅亡した。元弘3年(1333)5月22日だった。

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鎌倉幕府が終焉の時を迎えます。大河ドラマでは、確か金沢貞時も東勝寺で自刃する設定でした。また新田義貞勢は稲村崎を渡った後、極楽寺口から鎌倉入りします。この後時代は建武の新政となるわけですが、そこで今度は新たな問題が表面化します。

それからここのところお休みしていた『応天の門』、また来月辺りから再開しようと考えています。年末に始めるのも何ですが、年明けはまた新しい大河もスタートするので、その前からぼつぼつ始めておいた方がいいかと思っています。

[ 2016/11/23 01:15 ] | TB(-) | CM(0)

『太平記』第八章 義貞・高氏、謀反ノ事

畿内で幕府方が圧倒的に不利になり、隠岐の後醍醐天皇のもとにもその知らせが届きます。そしてついに新田義貞と足利高氏も、後醍醐天皇側に付き、幕府に対して反旗を翻すようになります。

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隠岐島に配流となっていた後醍醐天皇のもとへ、畿内の情報が届けられ、後醍醐天皇は臣下の千種忠顕に綸旨を認めさせて、各地に届けさせる。一方で鎌倉では、先帝こそ悪の根源であるとし、討手を差し向けため、後醍醐天皇と側近は密かに隠岐島を抜け出し、伯耆の名和長年のもとに身を寄せた。

名和長年は兵を率いて、船上山で討手を迎え撃つ。この時名和軍は150騎ほどであったものの、近隣諸国の部族の旗を偽造し、味方が押し寄せたように見せかけて、敵を欺く。また実態を悟られないよう、木陰から敵に向けて矢を射かけ、寄せ手の大将であった佐々木弾正左衛門は、それがもとで戦死する。

これによって佐々木弾正左衛門の軍は退き、またもう一つの敵である隠岐判官も、雷雨に足がすくみ、そこへ名和軍が猛攻をかけて勝利を納める。この知らせに、各地から援軍が押し掛けて来た。また今日では六波羅軍と赤松軍が戦闘を続けており、その他の関東勢はなかなか陥落しない千早城に手こずっていた。

しかも関東勢は、楠正成に味方する野武士たちに補給路を断たれ、兵糧が尽きかける有様で、退却を始めた兵たちはその野武士たちに命を狙われたり、命は助かっても、鎧や衣類を剥ぎ取られる者もいた。その関東勢の寄せ手の一員であった新田義貞は、鎌倉幕府の滅亡を確信し、後醍醐天皇に味方することを決める。

それには勅命が必要であった。義貞は家臣の船田義昌から、近隣の山中に大塔宮が潜んでいることを知り、令旨を受けて来るように命じる。やがて義昌は綸旨を持ち帰り、意を決した義貞は、そのまま領国へ引き上げてしまった。また他の関東勢も様々な理由をつけ、千早城を離れて行った。

無論鎌倉でもこれらの情報を受け取っており、さらに名越高家と足利高氏を将として、大軍を伯耆へ派遣することを決める。しかし高氏は、源氏である自分が北条氏に命じられることを快く思わず、弟の直義と相談し、一応は京に上るものの、その後伯耆へ密使を立てる。

高氏は後醍醐天皇から朝敵征伐の命を受ける。その一方で名越らと軍議を重ね、高氏は山陰道、高家は山陽道を経由して伯耆に入ることになるが、その途中で赤松円心の軍が名越を迎え撃つ。赤松は総崩れになったかに見えたが、名越を討ち取り、片や高氏はそのまま領地のある丹波に入り、そこに置いた本陣には、諸国からの武士が馳せ参じた。

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後醍醐天皇の隠岐脱出に加えて、いよいよ新田義貞、足利高氏の登場です。これは鎌倉幕府の消滅が近いことを意味し、新田義貞が剣を稲村ケ崎近辺で海に投じることになります。しかし幕府が滅んだら滅んだで、今度はまた新たな困難が待ち受けることになります。

大河ドラマの『太平記』では、千早城にましらの石がいて、楠軍の一員として加わっていました。そして高氏の方はといえば、妻子を鎌倉に留め置いたまま、京へ向けて進軍することになります。大河ドラマの方も、そろそろまたアップを考えています。

[ 2016/10/27 01:00 ] | TB(-) | CM(0)

『太平記』第七章 千早城ノ合戦ノ事

大塔宮が吉野を根拠地とし、いよいよ反幕府ののろしが上がり始めたため、北条高時も軍勢を送り込むようになります。しかしそこへ登場したのは、やはり「あの男」でした。

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大塔宮が発した令旨により、各地の大名が反幕府に転じ始めた。一方で北条高時もおびただしい軍勢を差し向け、京の六波羅軍と合流してまず赤坂城を攻める。赤坂城主平野将監はよく粘ったが、水を止められて投降、しかし武装を解かれた上に首を刎ねられ、その後吉野山や金剛山の兵で、投降する者はいなくなった。

また吉野へは、二階堂道薀の軍が押し寄せ、大塔宮は自害を覚悟する。しかしそれを諌めた人物がいた。それは村上義光だった。義光は宮を逃がしてその鎧をまとい、我こそは護良親王(大塔宮)と名乗って自害を果たし、本物の大塔宮は高野山へと脱出した。

しかし自害したのが、本物の宮ではないと知った二階堂軍は、楠正成が立てこもる千早城を攻めるが、楠方の策に嵌り、なかなかうまく行かない。赤坂城が落ちたのは水を止めたことに倣い、幕府軍は麓の水を止めようとするが、正成は別の場所から水を手に入れ、しかも城内の数百もの水槽に水を湛えておいた。

緊張が緩んだ敵の隙をついて、楠軍は幕府軍の名越勢を襲い、その旗を奪って城に掲げた。名越軍は城へ向かうが、やはり城に入ろうとするところを妨害され、包囲戦に持ち込むが、今度は暇を持て余していた。そんな折、楠軍が城から出たとの知らせに、弓を射かける敵方に襲い掛かる名越軍だったが、相手は弓を射ながら退却しており、彼らが斬りかかったのは藁人形であった。しかもまた楠軍の妨害に遭い、千早城は落ちなかった。

そして播磨でも、守りが手薄になった京に攻め込むべく、赤松円心が挙兵していた。赤松はまず兵庫で六波羅軍を破り、京へと向かう。元弘3年(1333)3月12日のことだった。

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いよいよ元弘3年、鎌倉幕府滅亡の年です。この時足利高氏も、当初は渋りますが、軍を率い、京へ赴くことになります。そしてその時には、あちこちで反幕府の火の手が上がるようになっていました。

[ 2016/10/06 01:30 ] | TB(-) | CM(0)

コミック シートン動物記

そういえば、子供の頃読んだことがあるという人も、多いかと思います。これは姫川明さんによる、小学館の学習まんがシリーズ発行の物で、収録されているのは

  • ロボ カランポーの王
  • サンドヒルのオジカの足跡
  • スプリングフィールドのキツネ
  • 白いトナカイの足跡

ちなみに「ロボ カランポーの王」は、所謂「オオカミ王ロボ」ですね。

以前姫川さんのブログで紹介されていた、「サンドヒルのオジカの足跡」を読みたくて購入したもので、シートン自身と考えられる主人公のヤンがシカを追い回す姿、先住民のチャスカとの出会い、そして最終的に、オジカを仕留めずそのまま別れる場面などが、活き活きと描かれています。無論他の3編、オオカミが人間をどのように感じているかやキツネの親子の情愛、トナカイの疾走する姿なども丁寧に描かれており、少年向けのため内容はコンパクトになっていますが、大人にもお勧めの一冊です。
巻頭に姫川さんによる動物のイラストの他に画像もあり、その他にも各編ごとに、その動物に関するクイズ、そして巻末ではシートンの年譜、人となりなども紹介されています。

余談ながら、『新・三銃士』も同じ小学館のシリーズでコミック化されています。

(画像はアマゾンより)
シートン動物記
[ 2016/09/25 01:45 ] | TB(-) | CM(0)

『太平記』第六章 大塔宮ト正成再挙ノ事

では、『太平記』コミック版第五章に行きます。後醍醐天皇の隠岐配流の一方で、大塔宮護良親王、そして楠正成が動き始めます。

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後醍醐天皇が隠岐に流された後、大塔宮は山伏に変装して諸国を巡り、討幕運動を進めていた。しかし幕府の追及の手は厳しく、ついに逃れらなくなったところへ、紀伊の野長瀬六郎が現れる。その他にも、大和の辺りには大塔宮に味方する土豪たちが増えて行った。そして大塔宮は、吉野を根拠地とし、諸国の武士に討幕の令旨を送付する。

その頃、赤坂城の落城から行方が知れなくなっていた楠正成が、忽然と姿を現した。元弘二年(1332)四月三日のことである。その頃赤坂城の主は湯浅孫六となっていた。孫六は突如現れた楠軍にあわてふためき、使いを六波羅に送る一方で、合戦に備えて兵糧を運び込ませた。しかし、夜間兵糧を密かに運ぶ人夫たちは楠方に待ち伏せされ、兵糧を奪い取られてしまう。

彼らは命を助けられたものの、楠方に加勢することになった。すなわち、兵糧を運ぶ兵たちが楠の軍勢に追われているようにして、赤坂城に近づき、孫六の隙をついて、赤坂城を戦わずして手に入れた。こうして楠正成は、和泉、河内の兵を従えて、五月十七日には住吉、天王寺付近に現れ、六波羅の幕府兵と対峙した。六波羅勢は五月二十日に京を発ち、二十一日に決戦の時を迎えた。

六波羅勢は相手の軍備のみすぼらしさを笑い、楽勝と思っていたところへ、左右から敵の挟み撃ちにあう。これを聞いた北条高時は、宇都宮治部大輔(公綱)を京へ派遣した。公綱は七月十九日に天王寺へ向かい、これを聞きつけた楠は、ある策を講じる。公綱軍が攻めて来た時、楠は既にその場におらず、退却したものと思われていた。

しかし夜になり、天王寺周辺の生駒山、秋篠の里から住吉難波の里に至るまで、楠軍の焚く篝火で埋め尽くされた。しかし一向に攻めて来ず、この持久戦に疲れた公綱軍は、ひとまず京へ引き上げることにした。すると、それを狙ったかのように楠軍が天王寺入りし、正成は「天王寺の妖霊星」として戻って来た。そしてその後、金剛山に大拠点を築くことになる。

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楠正成が再登場します。鎌倉方が送り出した宇都宮公綱とは、一戦も交えずして天王寺に舞い戻り、やがて赤坂城に代わる拠点を築きます。ここには支城が十七もあり、その一つが千早城で、ここでの戦いにおいて、またも正成の策が冴えわたることになります。

[ 2016/09/16 01:00 ] | TB(-) | CM(0)

『太平記』第五章 先帝ノ遷幸ト妖兆ノ事

六波羅兵に味方を捉えられた後醍醐天皇は、ごくわずかな供の者と隠岐へ配流となりますが、帝の流罪という暴挙に反感を覚える人々も少なくありませんでした。そして鎌倉では北条高時が政治を顧みず、田楽や闘犬にのめり込みます。

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元弘二年三月七日、後醍醐天皇は今度は隠岐へ配流となった。京から摂津、播磨を行くその最中、備後の豪族児島高徳は、帝にお伝えしたいことがあると待ち伏せを行うが、一行は山陽道ではなく、山陰道から美作に入る予定であった。高徳たちは美作の杉坂に向かうが、既に一行は宿に入った後だった。

そこで高徳は一計を案じ、宿の近くの木の幹を削って、このような文字を書きつけた。

天莫空勾践
時日無范蠡

翌日、一行がその前を通り、一同は誰が書いたのか、その意味は何であるのかを不審がる。勾践は越の王で、その臣范蠡が、敵国呉を滅ぼした故事を引用して、勾践を自分に、呉を北条になぞらえ、そのうち范蠡のような臣が出て来るに違いないという意味だと一同に教える。

その後一行は伯耆を経て、出雲の美保関から船で隠岐へ向かった。その間に持明院統の量仁親王(光厳天皇)が即位をしていた。隠岐の御所は如何にも小さかったが、側につく阿野簾子(三位殿の局)は天皇を励ます。

一方鎌倉では、北条高時が田楽に耽っており、ある夜田楽法師たちと共に乱痴気騒ぎをしていて、「天王寺の、や、ようれぼしを見ばや」という囃子が聞こえてきた。それをある侍女がたまたま覗くと、田楽法師たちはまるで鴉天狗に似た、鳥の化け物のようであった。また獣や鳥のものと思しき足跡がそこかしこに残されていた。

儒学者藤原仲範は、妖霊星は世が乱れる時に災いをなす星で、かつて聖徳太子が『未来記』を納めた天王寺のあたりから、動乱が起こり、国が亡びるということではないかと憂える。しかし当の高時はそういうことにはお構いなしで、田楽の次は闘犬に夢中になっていた。犬たちの死闘を何かのように喜ぶ高時に、眉をひそめる者も無論いた。

隠岐では、この有様では鎌倉幕府が滅ぶのも近いと、三位殿の局は口にする。それを聞いた後醍醐天皇も、自分の復権に野心を燃やすようになって行った。

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大河では最初から闘犬が登場し、高氏がそれに振り回されます。そして鴉天狗も大河のOPの冒頭に登場します。そして「天王寺の妖霊星」ですが、これは楠木正成のことであるといわれており、実際彼はその後、天王寺周辺で六波羅軍を迎え撃ちます(天王寺の戦い)。そして、大坂夏の陣で真田信繁が徳川家康を追い詰めたのも、天王寺口の戦いでした。


[ 2016/08/18 01:15 ] | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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