昨日「
手塚治虫とコナン・ドイル」を『陽だまりの樹』の番外編としてアップしていますが、今日はその続きです。この記事の中で、手塚作品によく登場するロック・ホームというキャラクターに関して触れていますが、実はとある手塚作品ファンの方のブログを発見しました。リンクフリーということなので、一応当該記事のリンクを貼らせていただきます。
http://xia-xia.jugem.jp/?eid=203
かなり多くの作品を読み込んでおられるようで、正直私はちんぷんかんぷんなところもあるのですが、このロックというキャラには、子供の部分と大人の部分が同居していて、その時々で子供キャラになったり大人キャラになったりすること、ズボンの長い短いにそれが象徴されるが、必ずしも長いズボンをはいているからといって、当のロックが大人であるとは限らないことなどが記されています。
また登場作品によって、大人であったり子供であったり、かなりややこしいキャラのようでもありますが、ただ手塚作品の主要キャラの一人であり、いわゆるスターシステムを象徴する存在であること。似たような存在であるケン一(敷島健一)と比較して成長する余地そして必要があったため、ケン一とは違う道を歩かざるを得なかったということになるようです。ということで、多少なりとも理解を深めるため、一応このキャラに関する本を読んでみることにします。
しかしこの記事を拝見して漠然とながら気づくのは、シャーロック・ホームズの複雑さを、このキャラは持ち合わせているなあということです。手塚氏がロック・ホームと名付けたのは、かなり深い意味があったのかもしれません。大人のホームズの場合でも、どこか大人の部分と子供の部分が入り混じっている印象は多分にありますが、このキャラが大人になろうとするには、自分からの働きかけだけではなく、その時々の他の大人たちからの認知も必要であり、大人としての印である長ズボンも、認知がなければ半ズボンの子供に戻ってしまう、そういった不安定さを絶えず抱えているわけです。ピノキオがいい子にせず、嘘をつくと鼻が伸びてしまうのと多少似ています。第二夜の記事に記されている「拙くも真面目な背伸び行為」という表現には、やはりパペットホームズを連想します。
そして、ホームズが原作であろうがその他の映像作品であろうが、推理を行う時とスランプ状態にある時とがまるで別人であるように、またパペットの少年ホームズであっても、集中する時と感情を爆発させてしまう時のギャップがあるように、ホームズ自身が正に不安定で、多分に子供にぶれやすい存在であるといえます。そしてそういうあやふやな存在には、それなりの受け皿が必要であること、そして、それがワトソンであるともいえるでしょう。しかしこのロックには、その時々でのユートピア的な物は存在しても、ワトソン的な人物はいるのでしょうか。
ところでこの記事の一つ後に、手塚良庵に触れた記事が登場します。しかし、三谷氏がこの作品をお好きとは…何となくわかる気もします。三谷氏関連でいえば、『新・三銃士』も登場します。記事は2本あるのですが、イラストの多い方を紹介させていただきます。
http://xia-xia.jugem.jp/?eid=194#sequel
パペットホームズに関しては、特にブログ主さんは言及はされていないようです。しかし、ダルタニアンの鼻が仲間につままれるところ、アドラー先生から鼻をぴんと弾かれて、何ともいえない表情を見せるホームズがやはりだぶります。
自分ではホームズが全般的に好きだと思っていますが、特に少年の形を取るホームズ、あるいはホームズ的存在、それも彼の若かりし頃の思い出ではなく、少年でありながら探偵であるという「異形の」ホームズというのに何か興味を惹かれつつあるようです。パペット効果もありますが、ホームズ特有のエキセントリックさが、子供から大人へと変化して行く時の、反抗期、あるいは思春期的な特性として描きやすいというのもあるでしょう。このロック、後の間久部緑郎もまた興味深い存在です。