『武将ジャパン』大河コラム、第48回関連記述への疑問点その1です。尚紹介部分はあらすじと感想1で採り上げた部分に該当します。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー最終回「報いの時」 - BUSHOO!JAPAN
(武将ジャパン)
1.長澤まさみさんは、いわば天命の声。
歴史を俯瞰する意識というのが心地よい一年でしたが、思い返せば2021年大河『青天を衝け』の結末がどうしても解せなかったのは、その点です。
渋沢栄一が亡くなった後、昭和という時代に日本はアジア太平洋戦争へ突入し、史上最大の損耗を迎えた。そういう絶望的な未来が眼前に迫ってきているのに、どこか明るいスタンスで、どうにも歯がゆかった。
今年はそれを克服しました。
『鎌倉殿の13人』の最終回コラムのはずなのに、のっけから『青天を衝け』叩きですか。武者さんも懲りませんね。
あれは孫が血洗島に行って、祖父の若い頃と出会ったという設定、しかもその祖父は今の自分の年齢よりも若く、その後志士ともなり、一橋慶喜に武士として仕え、さらに欧州へ行ってその当時の最新知識を目の当たりにするという意味で、まだまだ希望にあふれる青年の姿ですから、明るいスタンスなのは当然です。
それより前に、アメリカに行って日本人移民の排斥について訴えたり、演説をしたりする方がかなりシリアスな展開なのですが、そういうのをちゃんと観たのでしょうか。
2.細かい点ですが、家康が割とラフにお茶を飲んでいましたよね。
そもそも武士が気軽にしっかりと本を読んでいた。
『麒麟がくる』の光秀も『吾妻鏡』に目を通していましたが、鎌倉と比べてそれだけ文明が進歩した。お茶も教養も身近になった。
武士は文武両道の存在となったのです。
あれお茶でしょうか。白湯か水ではないかと思います。その当時のお茶と言えば、所謂茶の湯で、茶室で点てるものではないでしょうか。そしてまた「文明」などとありますが、この場合は主に精神的な部分に関わっているのだから、文化と呼ぶべきではないでしょうか。
3.今は盛り上がっていても、いざ上皇様が出てきたら戦えるかどうか、疑わしいと踏んでいます。
これも重要な伏線でしょう。
三浦義村のセリフですが、伏線というか、この場合はやんごとなき人に対して弓を引けるかという意味かと思われます。
4.このドラマで序盤から出てきている相模の武士たちは箱根を背負って戦う誇りがあった。
幕末でも、切れ者の小栗忠順はその地の利を計算に入れて防衛戦を考えていたわけです。
実際は、及び腰の徳川慶喜が却下して終わってしまうのですが、『鎌倉殿の13人』は俯瞰で見せてくるため、時折、意識が幕末まで飛んでしまいますね。
武者さんがそう思っているだけではないでしょうか。普通箱根という地名だけ聞いて、小栗忠順を思い出す人は限られるかと思います。常に『青天を衝け』が嫌いなものとして潜在意識下にあるため、連想しなくてもいいのに連想してしまっているのでしょう。
5.確かに彼女の限界も浮かんできますね。
武士の妻ならば、我が子がこの大戦で兄を上回る戦功を立てるべきだ!と考え、叱咤激励せねばならない場面なのですが、要は彼女には覚悟が足りていないのです。
その一方で、なぜ、ああもふてぶてしく髪を梳かしているのか?
この美しさを愛でるのは自分だけ。だからうっとりと鏡を覗き込む。そんな風に行動しているのだとしたら、とことん寂しい人に思えます。
のえのことですが、その後の義時との会話にあるように、自分に対して黙っていたことに対する怒り、それによる夫への不信感や、戦への興味の薄さなどなどが、こういった投げやりな態度として表に出て来ているのでは。
6.思えば三善康信の誤認識で始まった源頼朝の戦い。その結果、鎌倉に武士の政権ができ、朝廷と対峙するにまで成長しました。
運命の鍵を握っているのは、この老人かもしれません。
この間も三善康信の誤認識を取り上げていましたが、あれは頼政軍の残党狩りを、頼朝への攻撃と勘違いしたためでした。ならば内裏の火災という承久の乱の発端を引き起こした源頼茂、この人は頼政の孫に当たりますが、その関連性もまた指摘してしかるべきかと思います。
7.「執権の妻がこんな大事なことを人から聞くってどういうこと?」
のえに責められる義時――「夫が妻に何も伝えていない」というのは、執権がどうとか、そんなことに関係なく大変なことでしょう。
執権と言う鎌倉では最高権力者であり、そのためすべてに於いて責任を持つはずの人物が、かような大事なことを黙っていたとは何事かとのえは言いたいわけですね。
8.ここでの義村は、彼の限界が浮かんでしまってますね。
「人の心がどう動くか?」という見立てがどうにも甘い。北条政子の演説や北条泰時の人柄を過小評価してしまっている。理と利に聡いと、こうなってしまうのかもしれません。
では義村が頼ろうとしている後鳥羽院は?
人の心がどう動くかと言うより、義村はこの場合面従腹背なところもあり、その時々の様子を見て誰に付くかを決めているわけです。自分に不利になったらなったでしれっとこのまま北条に付くわけで、実際そうなりましたね。
9.敵の兵数は、ある程度、計算はできるものです。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』では、序盤で斎藤道三が、我が子の斎藤高政と、明智光秀に数珠の数を数えさせていました。
高政がうまくできないと、それでは戦に勝てないと失望していたものです。
では実際、どうすれば兵数を把握できるか?
例えば、進軍速度、かまどからあがる煙など、判断材料は色々とあります。
そういう根拠が無く、願望だけで戦況を語っているから官軍はまずいのです。合戦への想定が全く足りていません。
ある程度計算はできるも何も、鎌倉軍は途中で自然発生的に増えて来た部分もあるし、京方は御家人が到着していないなどの理由もあったため、駒が足りないまま戦わざるを得なくなったわけでしょう。その「かまどから上がる煙」とは、あるいは仁徳天皇の逸話ですか?色々な方向から引っ張って来ていますね。
10.戦国時代のゲームを見ていると、甲冑はじめ衣装は美麗なのに、一目で中国産だとわかる場合があります。
それは高い城壁を備えていることです。
『進撃の巨人』のように、都市が城壁でぐるりと囲まれていることが、中国やヨーロッパでは当たり前でしたが、日本の都市にはそれがない。
ゆえに「川」が非常に重要な防衛線となりました。
武者さんはこのコラムの、第41回の「義盛、お前に罪はない」に関する記述でこう書いています。
日本には中国大陸由来のものがたくさんあるわけですが、攻城兵器はそうでもありません。
お隣・中国では、『三国志』ファンならピンとくる「衝車(しょうしゃ)」や投石車がありましたが、城壁がそこまで堅牢ではない日本では発達してきませんでした。
「城」というと、現代人は天守閣を思い浮かべることでしょう。
これに対して私は
元々日本は城郭都市がありません。そこが中国ともヨーロッパとも違う点であり、それによっていつでも城下への出入りが可能で、人や物の流れを容易にして来たとも言えます。
と書いています(原文ママ)。
あの時は「城壁がそこまで堅牢ではない日本」とあるのに、今回は「都市が城壁でぐるりと囲まれていることが、中国やヨーロッパでは当たり前でしたが、日本の都市にはそれがない」と断言していますね。
11.ドラマをご覧になられていて「承久の乱って最終回だけで大丈夫なの?」と疑問に思われた方も多いでしょうが、宇治川の防衛戦に注力すれば表現としてはなんとかなります。
ゆえに本作でもかなり盛られていて、本来は参戦してなかったはずの北条時房、北条朝時、三浦義村も戦場にいました。
(中略)
思えばこのドラマでも、川は序盤から大事でした。
頼朝の挙兵直後、北条と合流しようとした三浦軍の前に、増水した川が立ちはだかり、父の三浦義澄は苦渋の決断で断念する一方、子の義村はあっさり北条を見捨てていましたね。
冷たいと言えばそうかもしれませんが、増水で川を渡れないという言い分なら相手も納得するしかありません。
承久の乱を描くと言うのは戦後処理、その後の新しい体制も含まれるわけです。また宇治川の攻防では、先陣を切ったのは佐々木信綱とされていますし、無論名の通った御家人の犠牲者も出ています。またあらすじと感想で書いたように、戦より義村の裏切りの描写の方が目につきましたし。戦そのものと戦後処理、さらに義時の最期でせめて2回分は使わないと難しいと思ったのですが、やはりその後の新体制についてはかなり端折られましたね。
それとこの増水した川の件ですが、この回放送の内容について武者さんは、「宋襄(そうじょう)の仁」を例に出しています。ここで出すと長くなるので、改めて書こうと思いますが、私はこの時の義澄の態度(去就宣言のために、和田義盛にひと暴れするように命じたこと)がは、宋襄の仁本来の意味である無用の情になるのか、また本来の宋襄の仁は、敵軍が川を渡っている時に攻撃すれば有利なのに、相手を困らせずにと無用の情をかけたため、自軍に取って不利になったということなのに、武者さんの記述には川についての言及がないことを書いています。
12.日本では、船の進歩も原始的でした。
司馬懿が主役の華流時代劇『軍師連盟』あたりをご覧になられると一目瞭然でしょう。
同作品では、帆をつけた船団が水上戦をします。中国では、黄河と長江という二大河川が国内を横断しており、戦闘用の船が古来より発達していました。
それが日本では、鎌倉時代になっても、小舟の基本的な構造は弥生時代とさほど変わりません。
当時は竪穴式住居も現役で稼働していたほどであり、そういう時代の合戦映像は貴重なのでじっくり見ておきましょう。
まず日本の場合は、中国のような大河がないのも大きく関係しているでしょう。一方で日本は島国であり、所謂水軍が昔から存在していました。これも実は少し前に書いていますが、その水軍はかなりの力を持っており、宋との交易船レベルの船を持っていてもおかしくなかったでしょう。
13.そして此度の大勝利を祝います。なんでも「自分を担ぎ上げた奸賊どもをよう滅ぼした!」という構図にしたいらしい。自ら義時追討の院宣を出しておいて白々しいにも程がある表裏っぷりですが、これも実は東洋の伝統的な構図で、明代の靖難の変、李氏朝鮮の癸酉靖難が典型例です。
上皇の院宣が、義時追討のものであることはこの前の回で触れられています。つまり戦を起こすものではなく、だからこそ義時は自ら上洛することにした、少なくともそのように見せかけたわけです。それを考えれば、上皇の言葉がいくらか自己保身的であるとは言え、このようになるのも分からなくはありません。
14.日本史上最大の怨霊とされる崇徳院って、実は流刑先で穏やかに過ごしていたそうなのですね。
一方で後鳥羽院は全力怨霊アピールをした。
後世の人は「ああ、後鳥羽院でもこうなら、崇徳院もきっとそうなんだな」と、その呪詛ぶりを遡って適用したのです。
この後鳥羽上皇怨霊説は、実は皇位継承も絡んでいると言われています。特にこの当時は、怨霊という存在への畏れは相当なものだったでしょうし、これを流布させることで、上皇が望んでいた仲恭天皇への継承が、有利となったからとも言われています。
15.別の神に負けた神は、矮小化された小悪魔や妖怪に変えられてしまうことがしばしばあります。
そういう愛嬌のある妖怪のような姿になっちゃって。
恐ろしいのではなく、なんだかかわいい。
しかもその転落の理由が、後鳥羽院の卑劣さ、臆病さ、無責任さという、人間的欠陥であること。
結局のところこの“神”は、切れば真っ赤な血が出る存在であったのです。なかなか画期的な描写ではないでしょうか。
何が「画期的」なのでしょうか。そして後鳥羽上皇のみが卑劣で臆病で無責任と言えるのでしょうか。義時も腹黒さでは相当なもの(この腹黒さの描写についてはまた改めて)だし、上皇が化かし合いと言ったのもその意味では納得できます。
それと愛嬌のある妖怪とか、神が矮小化された小悪魔とか書かれていますが、上皇は剃髪し、しかも文覚に頭を噛まれるという実に好ましからざることをされたに過ぎません。そもそも創作ではありますし、多分にこの大河らしくコント的にはなっていますが、神が小悪魔や妖怪に変えられるという点では、日本の妖怪譚やケルトの妖精話の方がふさわしいのではないでしょうか。