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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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北九州と福岡と その14(それぞれの都市の風景-2)

さて、今回は都市の風景その第2弾です。夕焼け時の、人々の足となる交通手段がテーマで、北九州は若戸渡船です。キャプションにあるように「ポンポン船」の愛称でも親しまれています。

かつて若戸大橋が開通していなかった頃は、この船が若松と戸畑を結ぶ唯一の交通手段でした。開通後貨物船は廃止されましたが、旅客船は地元の要望により、今も運営されています。

通勤や通学に利用する人もいて、また若戸大橋の歩道が廃止されたことから、車を利用しない場合は、若松在住で戸畑に渡る一つの手段となっています(他にバスもあり)。乗船時は乗船券、回数券、定期券いずれかを購入します。

運営ですが、北九州市交通局ではなく、北九州市産業経済局渡船事業所により管理が行われています(これは福岡も同じで、福岡市交通局ではなく、福岡市港湾空港局総務部客船事務所が市営渡船を管理しています)。自転車を載せることができますが、原付の場合は船に載せることはできないので、その原付で若戸大橋を渡ることになります。

渡場は若松と戸畑それぞれに1つずつで、現在はくき丸、そして第十八わかと丸が運航されています。この画像の船は、第十八わかと丸でしょうか。

若戸航路 船舶について
(北九州市公式サイト)


そして福岡。
こちらは船ではありません。この時間帯の市営渡船のインスタ画像が、意外に見つからないこともあり、こちらは「飛行機」です。

福岡市の場合、市街地から空港までの距離が短いので有名です。キャプションにあるように、地下鉄だと空港線で博多駅から5分で到着します。博多駅が混雑する一因とも考えられますが、それはともかく、このような理由から市街地のすぐ上を飛ぶことが多いです。

福岡市地下鉄時刻表 各駅間所要時間
(福岡市地下鉄公式サイト)

この画像ですが、向こうにポートタワーが見えています。そしてその上にかなり丸い夕日が見えています。前出の若戸渡船の画像でもそうでしたが、これが如何にも日没時といった印象を与えていますね。

一方で空港線を延伸して、JR福北ゆたか線(黒崎駅から飯塚経由で博多駅までをつなぐ路線)と接続させる動きがあるようです。レールの幅の問題、採算性などからどうなるかとは思いますが。この場合、ベススタがある東平尾公園辺りに駅ができると思われますが、現在福岡空港駅で下車し、東平尾公園方向へ、飛行機を見ながら歩くのも季節によってはいいものです。

ところで福岡市のターミナルステーションは博多駅、港は博多港ですが、空港は福岡空港です。ただし福岡空港は、実は博多区にあります。

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[ 2024/04/22 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『風花帖』-64

千代太は驚いたように吉乃を見たものの、素直に部屋を出て行き、吉乃は改めて新六の前に座った。2人の距離は、手を伸ばせば触れることが可能なほど近く、新六は何となく身じろぎし、距離を置こうとした。しかしそうする前に、吉乃の口から言葉が発せられた。

「新六殿、私は貴方にお話しせねばならないことが、あるように思います」
「さて、どのようなことでございましょうか」

新六は助けを求めるかのように周囲を見回した。しかし女中も下僕も、近くにはいないようだった。
「お話ししなければならないのは、私の心の内でございます」
そう言って、吉乃はまっすぐ新六を見つめた。新六は「はあ」と間の抜けた返事をしながら、目を泳がせた。

「私は両親に言われて菅の家に嫁ぎ、源太郎様に妻として仕えて参りました、女人の生き方とはそのようなものだと思っており、疑ったことはありませんでした。しかしひとつだけ気になることがありました。それは祝言の夜、新六殿が江戸から戻って来られるのが遅すぎたと、悲しく思われたことです」

「戻るのが遅すぎた」
新六は首をかしげ、吉乃を見つめた。

「はい、私にはなぜか新六殿が、毎年軒先にやって来て巣をかける燕に似ている、そのように思えました。燕の姿を見ないと寂しいという思いがしたのです。私は伊勢勘十郎に無体な真似をされたところを、新六殿に救われました。思い出すのはいつも、軒先を飛ぶ燕のような、新六殿の懐かしいお姿でした」
吉乃の言葉には、過去を懐かしく思う気持ちが込められていた。

「嬉しいことにございます。私に取って、吉乃様のお屋敷は燕の巣にございました。戻ればいつも温かく私を迎えてくれ、その思いが、これまで私が生きて来られた証でもありました」
新六は微笑んでこう答えた。

「本当は私は、新六殿に救われたことを考え、なぜ助けてくれたのか、なぜ新六殿に、いつも優しい心を抱けたのだろうかと、自分自身に問い合わせなければならなかったのです。そうすれば、私は自分の内なる新六殿への思いに気づいていたはずで、今はそれを後悔しています」

新六は慌てて手を振り、目を伏せた吉乃を制した。
「滅相もないことです。吉乃様は伊勢屋敷を出られ、心が動揺しておられるのです。だから左様な思い過ごしをされているわけです。吉乃様はお人柄にふさわしい道のりを歩いて来られ。悔いられることなどあるはずがありません」

力を込めて言う新六に、吉乃はこう返した。
「いいえ、私は今ほど自分の心が見えたことはありません。人妻として言ってはならないことですが、自分を偽りたくありません。私は昔から新六殿をお慕いしておりました」

新六ははっとし、そして俯いた。目から流れた涙が膝に落ちた。新六は手をつかえ、頭を下げて言った。
「お優しい言葉をいただき、ありがとうございます。出国しなければならない私への、餞別として言っていただいたことはわかっております。今のお言葉だけで、私の生涯は幸せであった、そう顧みることができます」

吉乃は新六ににじり寄り、畳につかえた右手にそっと手を重ねた。
「私のために命を賭してくださった新六殿の、その思いに私も応えるため、命を賭ける覚悟ができました」


吉乃が話したのは、自らの心の内でした。しかし当初新六は、咄嗟のことでよく事情が呑み込めず、多少間が抜けた返事をしてしまいます。そして吉乃は話し始めます。順調に、当時の武家の女性の生きる道を歩んでいたかのように見える吉乃ですが、祝言の夜、新六が来ているのを見て、江戸から戻るのが遅すぎたと吉乃は思います。それは彼女に取って悲しいことでした。吉乃に取っては新六が、毎年やって来ては巣をかける燕のように身近な存在であったはずでした。また彼の身軽さも、燕と表現するにふさわしいものでした。

新六は吉乃のその言葉を受け入れます。燕というのは、前の方にも登場しています。新六は毎年やって来て巣をかける燕なのに、ある時から巣をかけることができなくなっていたとあり、それを踏まえているようです。さらに吉乃は言います。なぜ新六が自分を助けてくれ、自分は新六に対して優しい心でいられたのか、もう少しその気持ちに向き合っていれば、自分の本心に気づいたはずでした。新六は吉乃がまだ気持ちが揺れているからだと言いますが、ここで吉乃ははっきり言います。自分は新六を慕っていたのだと。

新六は吉乃のこの言葉に涙を流します。そして出国する自分への、はなむけとして言ってくれたのであろうことを感じ取り、これだけで自分は十分満足だと思ったのでしょう。この会話は、確かに愛する者同士が別れる時に交わされるが如きものであり、また新六がこのように言う以上、この2人はもう生きて会うことはないのではないか、そのようにも受け止められます。そして彼女自身もまた、新六の思いに応えるためにも、命を賭する覚悟ができたと言います。ついにお互いの本心が見えた時でした。


飲み物-アイスラテとエスプレッソキューブ
[ 2024/04/20 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

北九州と福岡と その13(それぞれの都市の風景-1)

北九州と福岡、レトロを再開しようかと思ったのですが、今回は都市の風景というテーマで行きたいと思います。このテーマで、今後不定期にいくつか投稿することにします。 

まず北九州です。北九州都市高速、九州工大前駅付近とあります。JR鹿児島本線、戸畑と西小倉の間の駅で、かつての筑前の地域で一番東の駅になります。

以前はこの駅は新中原(しんなかばる)駅と呼ばれていました。そしてこの九州工大は戸畑区にある公立の大学で、夜宮公園の北側に位置しています。

この道路はどうやら高速2号線のようですね。小倉北から若戸までをつないでおり、将来的に今の5号線(若戸JCTから大谷JCTまで)とつながる予定になっています。

しかし若戸大橋、実際北九州市広報室アカウントでは一番人気のようで、かなりの頻度で登場しています。夜景に赤く浮かび上がる姿が、如何にも美しく、また北九州のシンボル的存在でもあるからと言えそうです。

(北九州市広報室アカウントより)

そして福岡です。 ポートタワーがあの位置に見えるということは、向こうが博多港、そして手前が那の津でしょう。

こちらは海の上を渡って、博多区から中央区に、あるいはその反対に中央区から博多区に向かうため、夜の海に映り込む街の灯りが印象的です。博多津とも呼ばれたこの那の津、今も地名にその名をとどめています。

この道路は福岡高速環状線で、千鳥橋JCTから月隈(つきぐま)JCT、そして福重(ふくしげ)JCTを経由してまた千鳥橋JCTへと戻ります。南下した後西へ向かい、また東に戻るルートです。月隈で太宰府線、福重で西九州自動車道と接続しており、福岡大学下のトンネルを通るのが特徴です。 

ところで以前、このポートタワーと前出若戸大橋を一緒にご紹介したことがありました。どちらも海辺にあり、それぞれの赤いシンボルなのですがが、このポートタワーは今回はブルーになっています。 

キャプションにもありますが、この時は世界自閉症啓発デーということもあり、シンボルカラーのブルーに染まっています。無論これ以外にもその時々に合わせて表情を変えることがあるので、それはまた別の機会にご紹介します。

(福岡市アカウントより)
[ 2024/04/18 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

福岡城あれこれ その40(藤園そして藤巴)

福岡城の藤が見頃を迎えています。

藤と言えば、黒田家の家紋藤巴にも用いられています。
こちらは「幻の天守閣」の骨組みの部分ですが、藤巴の紋が見えます。

202404福岡城さくらまつり幻の天守閣黒田藤巴2


さて藤園の藤ですが、今週中に見に行けたらと思います。週末が藤まつりなのですが、生憎雨が降りそうなのですね(特に土曜日)。
尚画像は4月15日のものです。
 

ところで福岡城の藤園と言えば、以前もご紹介したかと思いますが、花のつきが悪くなり、様々な形で改善策が取られました。冬場の棚の上での作業や病虫害対策はもとより、国指定史跡であるため、土を深く掘ると文化財保護法違反になることから、エアスコップを使って土を掘り返したり、色々苦労もあったようです。またこの藤は、明治初期に東公園に植えられたものを移しています。

舞鶴公園藤園再生物語
(舞鶴公園公式サイト)

東公園といえば、大濠公園の浮見堂も、元々は東公園の施設です。
[ 2024/04/17 23:30 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『風花帖』-63

新六は伊勢新九郎を斬った後、吉乃を菅屋敷に送り届けていた。母が戻ったのを見て千代太は喚声を上げた。新六に助けられたことを吉乃から聞かされた千代太は、改まった表情になり、大人びた口調で
「印南様、ありがとうございます」
と礼を述べた。

新六は戸惑った顔になり、
「いや、さほどのことではありませんから」
と答えたものの、千代太から尊敬のまなざしを向けられて嬉しかった。
新六はそのまま屋敷に留まり、追っ手を警戒したものの、時が経っても門前には誰一人現れなかった。

如何なることでしょうかと吉乃。新六は考えをめぐらしつつこう答えた。
「さて、わかりませぬが。今家中は、ふたつに割れた騒動の最中で、私のことなど構っている暇はないのでしょう」
「されど伊勢様を殺めたからには、このままにはすみますまい」

それを聞いて吉乃はため息をついた。
「それゆえ私は小宮様の一行を追って出国します。今後伊勢勘十郎のことで、吉乃様にお咎めがあった場合は、私が、吉乃様を無理矢理、伊勢屋敷から連れ出したと仰ってください」

「それではあまりに申し訳がございません。私は、新六殿に助けられたことをはっきり言おうと存じます」
新六はゆっくり頭を振り、こう言った。
「吉乃様のお気持ちは嬉しいのですが、それだとお助けしたことが却って仇になり、私は辛うございます。どうか、私が申し上げたようになさってください」

「それでも、私は新六殿にまた家中に戻っていただきたいと思います」
吉乃は思いを込め、新六を見つめた。

もちろん源太郎の妻である以上、新六への思いにこたえることはできないのだが、せめて身近なところから、新六の人生を見届けたいと吉乃は思っていた。
「さて、そうはなりますまい。小宮様たちは肥後の細川家を頼られるおつもりかと存じます。私も共に肥後へ向かい、その後は一介の浪人の身となるつもりです」

「では、本当にお家を離れられるおつもりですか」
「武士暮らしは窮屈で、自分の思うようにはとても生きられません。藩を離れたら新しい生き方もできるかも知れませんから」
新六は微笑んで言った。

「新六殿の新しい生き方…」
吉乃は思った、それが新六のためには最もよいのかもしれない。藩内の混乱はどこで収まるのかもわからず、あるいはこの先何年も、家中は憎悪に満ち、復讐や裏切りが繰り返されるかもしれない。

夢想願流の秀でた腕前を持つ新六が、そのような家中に留まった場合、必ずどちらかの派閥から利用され、予想もつかぬ修羅の道を行くことになるだろう。そんな生き方は、新六にはふさわしくなかった。

それを考えれば、新六が他国へ行き、浪人となることは寧ろ喜ぶべきことなのだ。吉乃はそのように考えつつも、最早新六と会うことはできなくなるのかと思うと、ひどく寂しく感じた。寂しさと言うよりは、いつも近くで自分をひそかに思い、守ってくれた人がいなくなるという、耐えがたいような切なさを感じたのである。

このまま新六と別れたら、二度と会うことはないだろう。吉乃は、自分は何か言わなければならないことがあるのではないかと思い、胸中に何かが湧き上がるのを感じた。そして千代太に、しばらく自分の部屋に行っているようにと促した。


新六は勘十郎を斬った後、吉乃を無事菅屋敷まで送り届け、その新六に千代太は大人びた口調で礼を言います。新六は千代太から尊敬の目を向けられ、満更でもなさそうです。その後追手が来るのを警戒して、しばらく屋敷に留まりますが、誰も現れることはなく、吉乃はそれを不審に思います。この混乱の中で、誰も自分のことなど構っていないが、勘十郎を斬っだ以上ただでは済まない、だから自分は小宮四郎左衛門たちを追って国を出ると新六は言い、そして吉乃には、勘十郎絡みで何か咎められたら、新六に無理矢理連れ出されたと言うように伝えます。

新六はこれまでもそうでしたが、自分が罪をかぶるつもりでいました。しかし吉乃は、その場合は新六に助けられたと打ち明けるつもりでおり、仮に出国してもまた戻って来てほしいと言います。常に自分を思い、守ってくれた新六がいないのは、吉乃に取って耐えきれませんでした。しかし小倉藩の前藩主でもあった細川家を四郎左衛門たちは頼ろうとしており、自分も肥後へ行き、浪人になると新六は言います。新六のためにはそれがいいかもしれないと思いつつ、やはり小倉にいてほしい吉乃の気持ちは複雑でした。

もう会えないかも知れないと思う、その気持ちが吉乃にあることを告白させようとします。そして玄関先にいた千代太を部屋に行かせます。千代太も、こういう時はきちんと礼を述べるほど大人になっていましたが、吉乃がこれから話したい内容は、まだ千代太の年齢では理解できないもののようです。しかし「新六にもう会えないかも知れない」という吉乃の思いは、今後新六が小倉を離れ、肥後へ行くことを前提としているものでした。ところが現実には四郎左衛門の一行は、福岡藩領黒崎で足止めを食らっている状態だったのです。


飲み物-ミルクティ2
[ 2024/04/16 00:30 ] その他 | TB(-) | CM(0)

北九州と福岡と その12(それぞれに丸くあるいはシャープに)

今回はこちらの2つのご紹介になります。 

まず北九州は、北九州市立文学館のステンドグラスです。 ここの文学館は小倉城の近く、勝山公園にある図書文学関連の施設で、水色の屋根が目印です。

文学館のほか中央図書館、子ども図書館が入居しています。北九州ゆかりの作家の資料も所蔵されています。外側内側共に、全体的に曲線を帯びた丸みのある作りが特徴で、公式サイトによれば「蒲鉾のような」外観となっており、和みを感じさせます。

そしてこのステンドグラスもそのコンセプトどおり、丸みを帯びた柔らかな雰囲気となっています。 尚このステンドグラス、ヨーロッパ的な意匠ですが、実は設計者である磯崎新氏が、出身地大分の思想家、三浦梅園の著書の図を参考にしたとの由。

投稿されたのが12月であるせいか、よいクリスマスをという言葉で締めくくられています。とはいえこのステンドグラスは、もちろん教会のそれではなく、あくまでもインテリアの一環としてのものではありますが、やはりどこか神秘的な雰囲気です。
 

それとは対照的に、幾何学形でシャープな印象のこちらは、福岡タワーの内部です。

福岡タワーといえば、福岡のランドマークとも言うべき存在でもあり、福岡市のアカウントにもよく投稿されています。キャプションにあるように、海浜タワーでは日本一の高さとのこと。季節や記念日、その時々のキャンペーンなどによって、様々なイルミネーションを楽しむことができます。

 元々は、1989年のアジア太平洋博覧会(開催地が百道浜)のシンボルとして作られ、今では観光スポットに加えて、地上波デジタルTV移行後は、すべての放送局の送信所となっているほか、複数のFM局の中継局が置かれています。

耐震構造で強風にも耐えることができます。 3階と5階に展望室、4階にスカイラウンジがあり、このスカイラウンジを含めてレストランが2軒入っています。タワー自体は三角柱で、かの母里太兵衛の「日本号」の穂先を、モチーフにしたとも言われています。

この画像は、1階から上を見上げたものですね。こちらはちょっと近未来的な雰囲気が漂います。

[ 2024/04/15 05:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

博多町家寄進高灯篭

中洲の清流公園の博多町家寄進高灯篭(はかたまちやきしんたかとうろう)について書きたいと思います。

実はこの灯篭、元々は、北九州市の白洲灯台と一緒に投稿する予定でした。しかし建設までの経緯、あるいはその目的が異なることから、白洲灯台は、作られた動機や目的に共通点がある住吉橋と一緒にご紹介しています。

ではこの灯篭は、誰が、どんな目的で作ったものなのでしょうか。
これを作ったのは八尋利兵衛という博多商人で、金山堂という漬物店を営んでいました。この人は地域振興のため、中洲から住吉にかけての那珂川沿いを整地して、桜を植えました。

そして現在のキャナルシティ博多がある敷地内に、向島という遊園地(東京の向島に倣ったと言われています)を開園し、その3年後の明治33(1900)年にはこの灯篭が建てられました。これは大阪の住吉神社の高灯篭をまねたとされていますが、実際は、遊園地を開くためにスポンサーとなってくれた店舗の、広告塔としての意味が大きかったようです。灯篭の側面には、お金を出した商店の屋号が隙間なく刻まれています。

一番の出資者は「魚市場」でした。そして岩田屋呉服店(現・岩田屋)や、利兵衛自身が経営していた金山堂の名もあります。しかしその後人家が多く建てられるようになり、昭和29(1954)年に今のこの場所へ移されたそうです。

ところでこの利兵衛は、誓文払いを始めた人でもあります。毎年11月に行われる大安売りのことで、大阪の蛭子市の誓文払いをヒントにし、明治12(1879)年にスタートして、今は「福博せいもん払い」となっています。

この他にも中洲に「高砂館」という八角形の高層ビルを建てたり、大正6(1917)年には那珂川で花火大会を始めたりもしています。この花火大会はその後、大濠公園の西日本大濠花火大会となり、平成30(2018)年まで行われました。

清流公園の博多町家寄進高灯籠
清流公園に立つ博多町家寄進高灯篭
[ 2024/04/14 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

北九州と福岡と その11(それぞれの軌道交通と伝統工芸品)

以前、それぞれの軌道交通に関して投稿しましたが、今回はその軌道交通+伝統工芸品です。

と言っても何のことやらと思われるかも知れません。ではまず北九州のモノレール小倉線、平和通駅です。 尚今回は、一方がフリー画像であるため、インスタ画像は画像のみです。一応キャプションを貼っておきます。

モノレール平和通駅の駅舎下に広がるカラフルなライン。
小倉織をイメージして描かれ、各色のラインは主な施設への方向を示しています。
視点を変えて見てみると新たな発見がありますね♪


(北九州市広報室アカウントより)

この平和通駅は、私が時々小倉城へ行く時に利用する駅です。ここで降りて、しばらく行くと東西に小文字通りが走っているので、そこを西方向にまっすぐ行くとお城が見えて来ます。しかしこういうのがあるとは、正直知りませんでした。レールの下の部分に、意外な秘密があったりするものですね。

そして小倉織。縦縞の綿織物で、小笠原(小倉)藩藩士の奥さんや娘さんがワタを栽培し、江戸時代になってから広く作られるようになったようです。下記サイトによると、かの徳川家康も、鷹狩りの際の羽織としたとの由(尤もその頃の藩主は細川氏ですが)。

明治後は霜降りの生地も登場し、学生服(小倉服)に用いられるようになっています。その後一時途絶えたものの、現在は復活し、1980年代に復元されています。

一般社団法人小倉織

そして福岡。地下鉄各線の駅名表示のシンボルマークは、以前十日恵比須関連の投稿でお伝えしています。十日恵比須神社の最寄り駅は千代県庁口で、シンボルマークは恵比寿様となっています。そして博多駅のシンボルマークは、ごらんのように博多織です。これは空港線、七隈線共通です。

地下鉄博多駅駅名表示

で、この博多織なのですが、その始まりは13世紀に遡ります。満田彌三右衛門という人物が南宋に渡り、絹織物や箔、素麺などの製法を持ち帰ったと言われています。尚この時は聖一国師も同行していました。聖一国師は駿河の生まれですが、博多に承天寺、そして後に京の東福寺を建立します。博多祇園山笠の生みの親ともされています。

そして室町時代、家伝として織物を受け継いだ、彌三右衛門の子孫である彦三郎は明へ渡り、絹織物のさらなる研究を行って、今の博多織の原点となる絹織物を開発します。そして江戸時代。福岡藩初代藩主黒田長政は、幕府へこの織物を献上し、このため献上博多織と呼ばれるようになります。この時選ばれた織物が独鈷華皿文様であったことから、この柄を献上柄と呼ぶようになりました。

その後、歌舞伎役者の七代目市川團十郎が『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』で博多織をまとったことから、知名度が高まります。明治に入ってから和装の需要は少なくなりましたが、自動織機であるジャカード機が導入されたことによる技術革新、ひいては商品の多様化が進むことになります。

博多織は特に帯が有名ですが、江戸時代に入ると男性の着流しが多くなり、帯に刀を差すようになります。その場合、この帯だと刀を差してもへたれないと評判になったという逸話もあります。

博多織についてー博多織工業組合
(彌三右衛門さんの肖像が江戸時代風ですね)

[ 2024/04/13 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『風花帖』-62

馬廻り役4名は騎馬で城から出発した。既に夜が更けようとしており、黒崎宿に着いた時には、宿場の要る愚痴に篝火が焚かれていた。そして方円斎をはじめ十数人が、槍を手に警戒していた。篝火の灯りに、槍の白い穂先が光っていた。

4名の者は馬を下りると、方円斎たちの間を緊張した面持ちで通り抜けて行った。4名の内の1人、高田八兵衛は宝蔵院流の鎗の名手として名を馳せており、警固の者たちの槍に目を向けながら、顔見知りでもある方円斎に声を掛けた。

「さても殺気立っておるな。これで、一晩持つのか」
方円斎はにやりと笑い、そして言った。
「戦陣となれば、気合も入りましょう」

八兵衛はなるほどなと笑い、他の3名に続いた。そして4名が本陣に入ろうとすると、玄関先に与市がいて、こう声をかけた。
「何度話に来られても無駄でござる。小宮様たちにお戻りいただくなら、小笠原出雲の首を差し出されるしかございますまい」

八兵衛がゆっくり与市に近づき、口を開いた。
「儒者風情が荒々しいことを申すな。命のやり取りの場であれば、口舌など役に立たないのを知らぬか」
八兵衛に断言され、与市は青ざめて口を閉ざすと後戻りした。

奥座敷に通された4名は、一刻(約2時間)ほど説得工作を続けたが、四郎左衛門は首を縦に振ろうとはしなかった。
「そなたたちの言うことは尤もなようだが、それは出国までのことだ。一旦こうなったからには、我らも命を賭けておる。いくら説得されようとも、言葉だけではおめおめと戻るわけには行かぬ」

四郎左衛門は、あくまでも出雲の処分を求めて譲らす、深夜になって4名の馬廻り役は引き揚げることにした。
方円斎たちは宿場の入り口で、相変わらず槍を連ねて警戒を続けていた。

彼らに行き会った八兵衛は方円斎を見つけ、またも声を掛けた。
「小宮様たちは、なかなか折れてくださぬ。このまま行けば、我らが討手を引き受けることになるであろう、その折はその方らを、わしの槍の錆にしてくれよう」

八兵衛の言葉に、方円斎は喜びの笑みを洩らして言った。
「望むところでござる。存分におかかりください」

八兵衛はこの言葉に苦笑いし、馬の腹を蹴った。4名は暗闇の中を、馬蹄の音を響かせて去って行った。すると今度は、彼らと入れ替わるようにして徒歩の男が宿場の方へとやって来た。

篝火に照らされたその顔を見て、順太が声を上げた。
「印南、戻って来たのか」
新六は方円斎と順太に近づいて、頭を下げた。

「遅くなり申し訳ございません。印南新六、ただいま追いつきましてございます」
方円斎は一言も発せず、新六の顔を見つめた。空にはいつの間にか月が昇っていた。


別の説得役が、小倉から黒崎へ出発します。尚先日ご紹介した常盤橋ですが、ここから長崎街道を通って次が黒崎宿です。その黒崎宿の入り口では篝火が焚かれ、物々しい雰囲気が漂っていました。その中で、槍を手に警固の番に当たっていた方円斎に、説得役の1人八兵衛が声をかけます。「そこまで殺気立って一晩持つのか」の八兵衛の言葉に、これが戦陣なら気合も入ると方円斎は答えます。方円斎たちは、城から討手が来るのも覚悟のうえでした。

一方で与市は、四郎左衛門たちに戻ってほしいのなら、出雲の首を差し出すようにと言わんばかりで、これは八兵衛を怒らせます。
「儒者風情が荒々しいことを申すな。命のやり取りの場であれば、口舌など役に立たないのを知らぬか」
前回も方円斎と与市の違いが描かれていましたが、いざと言う時は、命を投げ出す覚悟をしなければならない武士と、儒者との違いであると言えるでしょう。

結局今回も説得工作はうまく行かず、八兵衛たちは小倉へ戻ります。このままでは自分たちが討手になるかも知れぬ、その場合はその方らを、わしの槍の錆にと言われた方円斎は笑みを浮かべ、望むところでござると答えます。これもまた武士ならではの言葉といえそうです。そして彼らと入れ替わるように、徒歩の男がやって来ます。篝火に照らされたその顔は新六で、「ただいま追いつきましてございます」と方円斎たちに挨拶をするのでした。


飲み物-ホットティー
[ 2024/04/11 02:30 ] その他 | TB(-) | CM(0)

北九州と福岡と その10(それぞれの篤志家)

今回は2人の篤志家についてです。

まず北九州。市内若松区に白黒の小さな灯台があります。これを作ったのが、現在の小倉北区長浜町(当時の企救郡長浜浦)で生まれた岩松助左衛門でした。

この人は元々庄屋で、1861年(万延2年=文久元年)に海上御用掛難破船支配役を拝命します。小倉が面する響灘は船の事故が多く、特に大きな暗礁である白洲では事故が相次いでいました。そしてある事故をきっかけに、助左衛門は灯台建設を思い立ちます。

しかし藩からの費用はさほど多額ではなく、岩松家の全財産を投じ、それでも足りずに金策に駆け回ることになります。そうして工事が始まったのは1870(明治3)年、事業は明治政府に引き継がれます。

しかし助左衛門は1872(明治5)年に、灯台の完成を見ぬまま亡くなります。灯台が完成したのは、その1年後のことでした。今現在の灯台は、その27年後に作られた2代目のものです。

また助左衛門が計画していた灯台が、小倉城内に、1963年に復元されています。ここでは、毎年顕彰祭が行われています。

小倉城内白洲灯台
小倉城内にある助左衛門計画の白洲灯台
(北九州市小倉北区)

そして福岡の方は、稲光弥平です。この人物は下記サイト(アクロス福岡)では篤農家として紹介されています。

この人は現在の中央区春吉の豪商でした。この春吉の側を流れる那珂川に、住吉神社に通じるための住吉橋が架けられておいました。そして人々の日常にも、この橋は不可欠でしたが、この当時の那珂川は水量が多く、洪水によって橋が流されることも度々でした。

しかし藩の財政状況は厳しく、橋の架け替えが思うように行きません。そこで弥平はあることを考えつきます。そのあることとは、川の真ん中に人工島を作って、水流を弱めるというものでした。この工事は弥平の私費で賄われました。

そして1855(安政2)年、春吉と対岸の住吉からそれぞれ人工島に橋を架けることに成功します。弥平53歳でした。この後橋は流されることもなくなり、弥平はこの功績によって名字帯刀を許されます。

そして1930(昭和5)年、鉄筋コンクリートの橋に架け替えられる際に、人工島から弥平の記念碑が発見されます。この人物は、自分の功績を表に出すのを潔しとしなかったのでしょう。しかし今では、住吉橋のたもとの部分にこの記念碑があります。

住吉橋と稲光弥平記念碑
現在の住吉橋と稲光弥平の記念碑(福岡市中央区)

参考資料

<岩松助左衛門>
福岡クリエーター 人物列伝 岩松助左衛門
(アクロス福岡)
岩松助左衛門-北九州市
(北九州市小倉北区役所)

<稲光弥平>
福岡クリエーター 人物列伝 稲光弥平
(アクロス福岡)

どちらも、アクロス福岡(福岡市中央区の官民複合施設)に記事が掲載されていました。あと白洲灯台関連で、北九州市の公式サイトを、一部参考にしています。こういう人々が私財を投げうって、インフラ整備を行っていたりもしたのですね。

ところで先日のに書いていた那珂川の橋ですが、上記アクロス福岡のサイトには15本とあります。しかし橋梁すべてとなると30本超となります(これは紫川も同じ)。
そして那珂川の場合、途中で中洲を挟んで一部東西に分かれており、東の部分は博多川と呼ばれています。この博多川にも橋が10本以上架かっているので、その両方を合わせるとかなりの数となりそうです。ちなみにこの博多川は、博多座で6月に歌舞伎が上演される前に、船乗り込みが行われる川でもあります。

尚今回も画像はフリーの物を使用しています。
[ 2024/04/10 03:30 ] その他 | TB(-) | CM(0)
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Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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