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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『河童』に関して思うこと-2

先日「『河童』に関して思うこと」という投稿をしています。この中で河童が白樺の幹に手を回していたと思われる表現を、なぜか枝を集めていると書いていました。訂正しています。

ところでこの小説が風刺小説という点に関して、どこか違うように思うとも書いています。無論これが書かれた時代の観点からすれば、そのように考えられたとしても不思議ではないでしょう。ただ個人的には、無論書かれた時代も違えば、小説と漫画という点でも異なりはしますが、たとえば『ブラック・ジャック』などの方がかなり風刺的な印象を受けます。それとは別に、『若きウェルテルの悩み』をパロディ化し、冷戦下の東ドイツの青年が、思い切りこの作品をディスる『若きウェルテルの新たな悩み』という小説がありますが、それをもちょっと思い起こさせます。

そこで考えたのですが、この小説の中に登場する、昭和2年当時の様々なことを、解読してみると面白いかもしれないと思い、今後はそのような形でこの作品に関して投稿して行くことにします。登山に関しては既に前の投稿でご紹介していますので、その後の箇所に登場する、これはと思った点を次々挙げて行くことになりそうです。
尚私の場合引用元はネット上の青空文庫ですので、解説が付けられていません。そのため、この解読はすべて私の独断によるものであることをお断りしておきます。また他ジャンルの作品との絡み、比較もしています。

たとえば、冒頭で主人公(精神病患者第二十三号)が、S精神病院に入っていて、院長はS博士だとあります。イニシャルに加えて、東京市外とあることも併せて考えると、恐らく東京府巣鴨病院(現・都立松沢病院)であり、院長は榊俶(さかき はじめ)ではないかとも思われます。(巣鴨はこの作品発表時は東京府下ではあるが市内ではない)ただしこの作品が書かれた当時は松沢病院となっており、院長は呉秀三でした。

そして主人公がなぜ河童を捕まえようとしたかはともかく、追い回しているうちに何か穴のような物に落ちてしまいます。そこで気を失っていたのを助けられ、医者のチャックの家に連れて行かれるのですが、こういう異次元世界への瞬間移動というのが、かの『JIN-仁-』をちょっと思い出させます。尤もあれはタイムスリップではありますが、それはともかく。担架で主人公が運ばれたというのは、この当時救急車が存在しなかったのも一因でしょうし、何よりも主人公に河童の世界の街を見せるという目的があったかと思います。
それからチャックが透明な水薬を飲ませたとありますが、主人公が身動きもできないほど節々が痛んでいたということから察すると、消炎もしくは鎮痛効果があるものなのでしょうか。河童の薬というのもありますが、これはどうも膏薬のイメージが強いです。ちなみに石田散薬は河童が教えたと言われているようです。
この水薬が具体的に何であるのかはわかりませんが、実際、今でも水薬(液剤)で、鎮痛効果がある物は存在します。痛み止めを液剤にして、小型のボトルやプラスチックのアンプル様の物に入れた物で、透明な液剤としては、ロキソプロフェンナトリウム内服液(ジェネリック)などが挙げられます。もちろんこの当時はこの薬は存在しませんが。

後『水虎考略』というのも出て来ますが、これは江戸時代末期に編纂された河童の研究書です。ちなみにこの10年ほど後に、かのアマビエが瓦版に登場しています。

その後の、河童の体つきやサイズに関する記述ですが、長さはメートル法、体重はヤード・ポンド法で表記されていますので、いささかわかりづらくはあります。身長は1メートル前後、体重は10ポンドから20ポンドとありますが、20ポンドは大体10キロ弱です。さらに気温の表示が華氏で、ここで出て来る平均気温華氏50度は摂氏10度です。なのに着物を着ることをしないのは、河童が皮下脂肪が分厚いからだろうと書かれています。逆に主人公が服を着ている、特に恥部を隠しているのを河童に笑われる始末です。

この少し後に、主人公が万年筆を河童に盗まれてしまいます。万年筆といえば、余談ながら思い出すのが、今回の『半沢直樹』です。第1シリーズのネジを思わせますが、ああいうクラシックな形の万年筆を出してくるというのは、どのような意図があるのでしょうか。

飲み物-アイスコーヒーブラック
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[ 2020/07/30 01:00 ] | TB(-) | CM(0)

明智光秀の越前での暮らしと医師説について

既に『麒麟がくる』雑考17戦国大河考 3で、『麒麟がくる』の光秀の「寺子屋」に関して、牢人が子供を教える形式のは江戸時代の物で、この当時子供を教えるのは禅宗の寺院ではないかということを書いています。(越前の称念寺は時宗の寺院)
しかしそれ以前に、光秀がこの地で子供を教えて生計を立てていたのか、その点もよくわかりません。ということで、その辺りの事情に詳しい方に伺ってみたのですが、子供たちを教えたのは地元の伝承で、それを裏付ける史料はないとのことでした。

その方によれば、称念寺の門前に住んでいたのは無論事実で、時宗の寺院関連の史料である『遊行三十一祖京畿御修行記』に、光秀が「濃州土岐一家牢人(浪人)」であり、越前の朝倉義景を頼って、長崎称念寺門前に10か年居住したとある由。これにより、光秀は美濃の土岐家の出身であり、何か理由があって牢人となった後、称念寺門前に10年ほど居住したことは確かでしょう。
ただ、称念寺門前に住んでいた当時、光秀が何をしていたのかについては、同時代に書かれた史料がありません。そのため門前に10年程度暮らしたということしかわかっていないのです。『国盗り物語』に見る明智光秀 4で触れていますが、この『国盗り物語』では兵法や学問を教えるという設定になっています。

それとは別の説として、最近よく言われているのが、光秀が元々は医者であったというものです。『針薬方』という医術書がありますが、この中で光秀は、同時代の武士に医学知識を口伝で伝授しています。さらに京都に駐在していた折には、光秀と京の医者との交流もあるようで、これらのことから、越前時代の光秀は、医療で生計を立てていたという推測がされるようになっています。この医師説に関しては、恐らく大河関連というせいもあるのでしょう、昨年出版された早島大祐氏の著書『明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか』(NHK出版新書、2019年)に記載されています。

以上が伺った話の大筋です。実際若い頃の経歴が今一つ不明な人なので、色々説はあるかと思います。「『麒麟』が三谷大河だったら」という6月末の投稿の一部で、光秀が医師と言う設定にして、三谷氏が脚本を書いたらどうなったろうかとも書いてはいます。
もし史実として信憑性に欠けると言う意見があるのなら、大河でなくBS時代劇辺りで、この医者としての光秀を描いても面白かったかもしれません。大河もドラマなのでフィクションはあるのですが、歴史上の人物を描く以上、ある程度の史実を入れざるを得ず、どういう史実をどのように入れるかが難しいと思われますので。

あるいは、『JIN-仁-』戦国編として、南方仁が若き日の光秀に出会うというところまで発想を飛ばしてみたのですが、流石にカスパル流外科術のない時代、それはやはり厳しいでしょうか。

飲み物-アイスコーヒーブラック
[ 2020/07/08 20:18 ] その他 | TB(-) | CM(0)

NHKのドラマと受信料とに感じること(+加工テレビではNHK契約義務なし)

先日投稿した『風雲児たち~蘭学革命篇』(どうも最近、前回の投稿の続きのようになっています)ですが、NHKはこの他にも『陽だまりの樹』をドラマ化しています。さらにTBSの『JIN-仁-』があるため、この3つがいくらかごっちゃになることもあります。ただ『風雲児たち』は時代的に少し早いため、蘭方と漢方の対立などもあるものの、たとえば種痘を巡っての争いなどはまだ出て来ません。『陽だまりの樹』では、手塚良仙が大坂へ行き、種痘が行われているのを目の当たりにします。漢方の奥医師の力が強い江戸では、なかなか実現の運びに至らなかったのです。

同じような医療ドラマになりますが、NHKには『胡蝶の夢』をドラマ化してほしいと何度かリクエストしたことがあります。しかし未だ実現していません。これも司馬遼太郎氏の原作です。司馬氏といえば、『国盗り物語』、あるいは『花神』でもしばしば登場人物の心の声、独り言のようなセリフが登場しますが、これはこの人の原作ならではの「余談」を脚色化した結果、ああなったのではないかと思われます。

無論『胡蝶の夢』の場合、大河化は難しいと思います。10回シリーズ位で済むのではないかと思います。ただ主人公の松本良順が奥医師の地位を投げ打って、長崎に行くまでの心理描写、門人であり、かなりの変人でもある司馬凌海(こちらも主人公と言っていいでしょう)との関係、さらに江戸幕府瓦解後の様子を描くのであれば、10回ではやや足りないかも知れません。大河を半年単位にして、こういうのを持って来ても面白そうなのですが。

しかし大河をやるにしても、作品によっては奇を衒いすぎたような描写があり、その結果観なくなったこともあるわけですし、そういうのをすべて受信料で賄うべきなのかやはり疑問が残るところです。無論どのような作品でも賛否両論はあるでしょうから、ならば観たい人だけ課金する方が、よほどすっきりしているわけです。NHKは公共放送を謳っているわけですが、大河朝ドラにそこまでの公共性は生憎感じられません。観たくないなら観るなも民放ならともかく、受信料システムのNHKである以上、ならば受信料の一部を返してくれともなりかねません。

昨日になりますが、NHK視聴ができないTVの場合、契約義務は生じないという判決が出されました。つまり、NHKの敗訴に終わったわけです。

NHK映らず契約義務なし 加工テレビで東京地裁

NHKは二言目には公共放送を云々しますが、本当に公共性を重視するのなら
ニュース
気象情報
災害情報
これだけで済むはずですし、この3つだと500円ほどで足りるでしょう。しかもこの3つも、今はネットで入手できるのです。何かと言えば公共放送と言うのは、少々話が飛びますが、『ノーサイド・ゲーム』の日本蹴球協会の木戸専務理事が、何かにつけてラグビーはアマチュアであり、神聖なものだと言わんばかりの姿勢を取るのとどこか似ています。そもそも企業にチームを任せている点で、アマチュアもないと思うのですが。

それはともかく、大河もドラマも作るなとまでは言わずとも、原則論ばかりで行くのではなく、視聴者にどのような作品を作るべきか打診してみる、課金制を検討してみる位のことはするべきでしょうし、あと視聴者の質問にはきちんと答えて然るべきでしょう。過去大河の史料で問い合わせたところさっぱり返信が来ず、コールセンターに電話したら「返信が来るまでメールを送れ」と言われたことがありますが、ちょっと乱暴ではないでしょうか。

飲み物-ブラッディサム
[ 2020/06/28 00:45 ] その他 | TB(-) | CM(0)

TVの時代劇が当たり前だった頃-「昭和40年代の2作品と『風雲児たち』」再考

昨年のお正月の頃ですが、昭和40年代の2作品と『風雲児たち』で、「実験的な時代劇」について書いたことがあります。かつてNHKで放送された『天下御免』と『天下堂々』のことで、アーカイブスを観た限りでは、それまでの時代劇の型を破った作品といえます、その投稿では「恐らくコメディ要素と現代劇的な物を盛り込んだのでしょう。タイトルがもじり風なのは、そのせいもあるかと思います」と書いています。

また現代の街を、そのまま登場人物に歩かせる(ウィキ情報)という試みもあったようです。尚昭和52~53(1977~78)年の『鳴門秘帖』でも、出演者が阿波踊りを見物したりしています。その当時はまだ時代劇の放送が多く、多少毛色の変わった時代劇をという狙いもあったのでしょう。時代劇に現代要素を盛り込むというのは、風刺の役割もあったのかもしれません。

ただこれもその記事の中で書いてはいますが、この方法は無理やり現代の問題点を持ち込んでいるように見えますし、場合によっては単なる権力批判になりかねないというリスクもあります。また当然ながら時代劇であるという旨味も薄れます。加えて実在人物に対する見方も、40年前と今ではかなり違っていることもあります。仮にこれらの時代劇が今残っているとして、それをすべて観ることができたとします。

その場合当時としては斬新であったものの、今となってはどこか無理しているという印象を受ける人も恐らくはいるかと思われます。無論時代劇をこういう風に描いたということ自体、世の中が時代劇に溢れており、それに風刺的視点を持たせるという「贅沢」ができたからではあります。ネットで風刺ができる時代、しかも時代劇の数そのものが少ない今となっては、あまり馴染みのない描写方法となっているともいえます。

無論今は今でポリコレなどもあり、描き方をアレンジせざるを得ないこともあるでしょう。ただ意図的に時代劇の人物を現代に置くとか、その当時の問題と現代の問題を殊更にコラボさせての制作にはいささか疑問を覚えます。『JINー仁ー』などは現代の人物が過去へタイムスリップするストーリーでしたが、これはあくまでもタイムスリップが前提であり、上記作品のコンセプトとはまた別の物と考えられます。

それで思い出すのが、『相棒』が始まった当初、それまでテレ朝水9は人情派路線だったものの、ミステリー路線に変わったと関連本にあることです。ここからは推測ですが、その人情派路線が、時代劇の捕物帳路線を受け継いでいたものであったとすれば(実際似たようなものは感じられます)、この時点で刑事ドラマがその時代劇路線から抜け出し、別な路線を模索し始めたのだと、そのように捉えることも可能でしょう。
(関連本…『みんなが好きな相棒特命研究ファイル 
ドラマ『相棒』が100倍面白くなる本 株式会社カンゼン)

飲み物-カクテル 
[ 2019/04/21 01:30 ] その他 | TB(-) | CM(0)

西郷どん第40回「波乱の新政府」

まず『西郷どん』クランクアップのニュースからです。

鈴木亮平「西郷を生ききった」 「西郷どん」クランクアップ翌日から「現代人に戻った」

瑛太「西郷どん」クランクアップ、大久保利通役「過酷だったが達成感」
(いずれもスポニチアネックスより)

クランクアップはしましたが、ドラマはこれからがクライマックスですので、最終回まで「おやっとさあ」は言わずにおきましょう。

そして公式サイト内に「国父チャンネル」なるものがありますので、リンクを貼っておきます。
(NHK ONLINE)

さて故郷鹿児島に戻り、奄美大島から菊次郎を引き取った隆盛(吉之助)ですが、中央政府は意見がまとまらない有様でした。その中でやるべきことはやると言う大久保利通(一蔵)。そんな中、岩倉具視と利通が勅書を携えて鹿児島を訪れます。

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岩倉が読み上げた勅書には、島津久光を新政府に参加させる旨が認められていた。しかし久光は激しく咳き込み、このような体ではとても役に立たないと断る。一同は久光が病身であることに驚くが、久光の様子はどこかわざとらしさが感じられた。勅書であるぞと岩倉は立腹するが、久光は海江田の肩を借りてその場を去る。なぜ勅書を得てまで久光を担ごうとしたのか、隆盛は不審に思う。岩倉も言葉を濁すが、利通は、日本全国の藩を取り潰すためだと明言する。資金不足を補うべく、藩に代わって政府が税の徴収権を得るのが狙いだった。しかしこれに不平を持つ元藩士たちが、久光を担ぎ出して反乱に出ることも予想され、なまじな覚悟では出来そうにもなかった。

隆盛は反乱に対抗する存在として、天子様の御親兵を作ろうと持ちかける。諸藩から精兵を集めて、政府の味方に引き入れようということであり、これについては利通から一任された。一方西郷家では中村半次郎、別府晋介、川路利良や小兵衛らが剣術の稽古をしていたが、小兵衛は侍の世はもうすぐ終わると半次郎に言い、半次郎はそれを不快に思う。その時隆盛と従道が戻って来て、御親兵のことを話して聞かせ、新しか世の侍じゃという隆盛の言葉に、皆は目を輝かせる。御親兵あるいはポリスを目指して、彼らは再び稽古に打ち込むが、同じ頃厨房では利通の妻満寿が、夫から上京を勧められているものの行くつもりはない、他に世話をする者がいると言って糸や琴を驚かせる。また満寿は、夫は薩摩に戻らない覚悟を決めていると薄々感じていた。

久光は病床に臥せており、利通の説得にも耳を貸そうとしなかった。利通がなおも東京行きを促し、悪いようには致しもはんと言った途端、病のはずの久光は跳ね起きてこう叫んだ。
「何様じゃ、お前は。いつからそげな口を利けるようになった、一蔵」
久光はさらにこうも言った。
「わしを東京に押さえつけて、こん薩摩を押さえ込むつもりじゃろ」
しかし利通は冷静だった。自分に向かって上げられた久光の手を押さえ込み、いつまでそのようなことを仰せられますか、自分は最早天子様にお仕えしている身、時世に取り残されますぞと、かつての主君を諫める。さらに新政府に久光の席を設けてあるとも言い、「島津久光様」と言ってその場を去った。久光は自分が見捨てられたように思えた。

隆盛は雪が降りしきる中縁側に出て、雪を珍しそうに眺める菊次郎と話をしていた。今は自分を磨き、何をしたいかと考えろと説く隆盛。明治4(1871)年、隆盛は熊吉を連れて東京へ出た。しばらくいないうちに、東京では人力車や馬車が走るようになっていた。そして大久保邸に招かれるが、そこに集った政府高官たちの間では、新時代の造船所や鉄道、貨幣、法律関係の話でにぎわっていた。利通が築地の料理人に作らせた洋食がテーブルに並べられ、一同は食事を始めるが、その会話にはそれぞれの強い思惑が感じられ、必ずしも政府は一枚岩ではなさそうだった。会食後、利通は妾のおゆうが持って来た薬を飲み、これが政府の実情だと隆盛に言う。

利通は廃藩置県が遅れると、かつての藩士たちの反乱が高まることになるのを懸念していた。隆盛は、それまで仕えていた藩がなくなることへの抵抗があると言うが、それでは近代化は出来ないと利通は反論する。さらに隆盛は時間をかけて皆を説得しろというが、もう時間がないこと、そして隆盛に託された国造りの真っ最中であるから、ここは自分が主導権を握ると言い、隆盛も承知する。そして利通は小皿に盛られた沢庵をかじり、紅茶を飲んだ。この取り合わせがうまいのだと言う。するとそこに利通とおゆうの子、達熊が現れた。洋食が食べたかったという達熊をおゆうがたしなめる。その達熊は、利通にそっくりだった。

御親兵の案が本格化し、鹿児島をはじめ諸藩の藩士たちが上京した。鹿児島から来た半次郎や小兵衛たちはすべて断髪していた。隆盛は自分の住まいである長屋に皆を連れて行き、驚かせる。隆盛は豪勢な屋敷を好まず、熊吉と二人で暮らしており、長屋の住人とも親しげにしていた。住人の一人お房は、政府高官は贅沢ばかりしているとこぼす。その政府では、またも御親兵の費用を巡って意見が対立していたが、隆盛は自分たちの給金を減らして質素倹約に努めるように言い、昼食の弁当も頼まず、持参した握り飯を頬張っていた。三条実美や岩倉は気まずさを感じ、隆盛を説き伏せるよう利通に頼む。その夜利通は隆盛の長屋を訪れ、自分の胃を心配する隆盛をよそに熊吉手製の焼酎を飲む。そうでないとやっていられなかった。

利通は、皆がやりにくいと言っていると口にするが、隆盛は、過ぎた暮らしをするわけに東京にいるわけはないと答える。隆盛の持論である、民の手本となるべきという姿勢はきれいごとじゃと利通は言い、贅沢をするのも、一等国に対等に見られるためのものだと言い張る。そして懐中時計を見て、頼んだぞと言い残して去って行った。雨の朝熊吉は、政府の仕事に出かける隆盛に、東京の雨は気が滅入ると言う。その一方で利通は密かに木戸孝允を呼び、土佐や肥前が三条様に近づいて、政府を掌握しようとしていると話し、このままではすべてに遅れが出る、主導権は我々にあるのを示すべきと、木戸を味方に引き入れようとする。木戸は隆盛のことを案じるが、それは心配無用と利通は答える。

ついに廃藩置県の詔書が下るが、肥前の江藤新平らはだまし討ちであると言い、辞職するべくその場を去ろうとする。岩倉は彼らをなだめるが、利通は冷ややかにこう言った。
「足手まといはやめて頂いて結構」
しかし木戸は、そこに隆盛がいないことを咎める。利通が窮地に陥りかけた時、隆盛が現れた。雨の中御親兵の訓練を見ていたと言う。そして出て行こうとする土佐、肥前勢を不思議そうに見る。利通は薩長だけででも政府を仕切るつもりでいたが、隆盛はそれではいかん、政府の信用をなくす、我々の方には戊辰戦争の戦死者の魂が乗っていると言い、彼らを引き止めにかかる。
「そいでも出てしまう膿は、反乱でも何でもおいが引き受けもんそ」
隆盛も実は迷っていたのだった。会議の後、一人残った利通は自分が間違っていたかと問うが、隆盛は自分の思う道を行けと言い、握り飯を利通の手に握らせる。利通はそれを一口食べて言う。
「うんまか」
その後廃藩置県の運びとなり、かつての藩主たちは解任された。

***********************

まず国父様=久光ですが、あれでは見え見えの仮病です。岩倉が腹を立てるのも当然ではありますが、かつて自分が信頼していた大久保一蔵(利通)にああまで言われ、しかも他人行儀に「島津久光様」とまで呼ばれては立つ瀬もないでしょう。この大久保利通の、ある意味人を人とも思わないような冷たさが、敵を作る一因ともなってはいるのですが、逆にそれでなければ、新政府としての職務を断行できない部分もありました。ちょっと石田三成にも似ていますが、木戸を抱き込んだように、利通は策を使うことが出来たのが三成と異なる点といえます。しかし「心配ご無用」とは、『軍師官兵衛』を思い出しますね。

その利通、相変わらず胃弱で胃薬を飲んでいるようです。この人は紅茶以外にもコーヒー、オートミールなどを好み、一等国の西欧諸国に倣うべしと、いわば必死になっていた感もあります。その辺が自然体というか、如何にも庶民的な雰囲気の隆盛と好対照ですが、吉之助不在時の藩政で必死になっていたことを思えば、さもありなんという気もします。その人物が沢庵をかじったり、隆盛の握り飯を分けてもらったりもするわけで、その時だけ本来の自分に戻っているようにも取れます。沢庵といえば、満寿が糸や琴に夫のことを話す時、漬物を漬けている設定というのが面白い。

そして隆盛が住んでいる長屋ですが、何か『JIN-仁-』を思わせます。こういう所に住んで、しかも熊吉の握り飯を持って出かける「政府高官」というのが、人々の共感を呼んだのは事実でしょう。しかも熊吉の「東京の雨は気が滅入る」というのは、なかなか言い得て妙かもしれません。しかしこの人、いくつ位なのでしょうね。隆盛の年齢を考えると、もう還暦過ぎではないかと思うのですが。

さらに利通とおゆうの子、達熊が登場します。その子が利通そっくりだと隆盛は思うのですが、どこかで自分と菊次郎の関係を重ね合わせている部分もあります。その菊次郎と縁先で話をしている時、雪が舞っていますが、鹿児島は南国のイメージがあるにもかかわらず、意外と雪が降るようです。

何とか持ち直したかに見えた政府も、この後状況が逼迫します。岩倉視察団と留守政府とのギャップが、後の隆盛と利通のぎくしゃくした関係を生み出すわけですが、恐らく利通が視察団に加わらなくても、この二人は最終的に違う道を歩んだでしょう。隆盛は御親兵のことで、肥前や土佐の出身者を引き止め、政府が一丸となれないのなら責任を取ると主張します。この時江藤新平と目を合わせますが、この江藤こそ後に佐賀の乱で不平士族を率い、隆盛に助けを求めに来る人物でもありました。

[ 2018/10/30 01:30 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どんの歴史的背景7-家定と斉彬それぞれの最期

徳川家定と蘭方医でも書いていますが、家定の病気は脚気、正確には脚気衝心でした。この脚気衝心というのは心臓機能の低下のことで、このため当時は脚気が死病化することもありました。元々脚気が広まったのは、江戸時代に、白米を常食する習慣が広まったのと関係するともいわれています。特に江戸を中心とした地域で広まり、江戸わずらいとも呼ばれたことがあります。

地方ではまだ玄米を食べる所もあり、そのため江戸のような流行は見られませんでした。要は玄米に含まれるビタミンB1が精製の段階で除去されるため起こる、いわばビタミン不足の1種です。このため『JIN-仁-』では「安藤奈津」が作られていました。特にその当時は副食物が少なく、白米の摂取量が多かったせいもありました。無論今でも食事内容によっては脚気を患う可能性もあります。

実際大河で戦国時代が舞台だと、食事は薄茶色の玄米飯が主流ですが、江戸時代半ばになると白いご飯となります。吉之助の家では芋を食べていましたが、あるいは白米よりも体によかったのかもしれません。そしてこの脚気は、日露戦争中にも起こっていました。その前に海軍では、軍医高木兼寛がパンや麦飯を導入し、脚気の発症率を抑えることに成功しました。

ただし当時の医学では伝染病説、あるいは中毒説が主流で、しかも陸軍は日本食中心であったため対策が遅れ、脚気の患者が多く出たといわれています。その後は陸軍でも麦飯が採用されるようになりました。しかし大正時代に入っても脚気による死亡者は多く、数万人に達したこともあり、第二次大戦後にビタミンB1剤が出回るようになって沈静化します。

一方島津斉彬の方ですが、この人は病死説と毒殺説があります。病死というのは、軍事教練がひどく暑い日で多量の水を飲んだ後発熱し、腹痛と下痢に見舞われて亡くなったということで、病状からしてコレラではなかったかともいわれています。

ただしこの当時、薩摩ではコレラは流行していなかったことを考えると、別の病気であるか、あるいはやはり毒を盛られたという可能性も否定できません。かなり影響力のある人物だっただけに、そういう説がまことしやかに囁かれるのも尤もです。尚コレラは安政5(1858)年に長崎で大流行し、それが上方でも流行して、一大騒ぎとなっています。

飲み物-エールビール
[ 2018/04/27 01:00 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『青天を衝け』の感想も書いています。またBSで再放送中の『黄金の日日』の再放送も観ています。そしてパペットホームズの続編ですが、これは是非とも来年の大河が始まる前に、三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、『相棒』をはじめとする刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2021年には北半球最強であるブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとの試合も組まれています。このチームにいい試合をし、今後さらに上を目指してほしいものです。国内のラグビーも、2022年からはいよいよ新リーグがスタートです。

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