『武将ジャパン』大河コラムその2です。武者さんによれば、この大河は同じ回想を何度も入れるということですが、私はそれ以上に、このコラムが同じネタを、くどいほど使い回しているように見えて仕方ありません。第一ちゃんと本編を観ていないのではないでしょうか。
それから先日分、このコラムからの引用分の色をやや濃い目のブルーにし、部分的に加筆しています。
織田信雄を愚かに描きたいことはわかった。
だからといって「ノブカツ!」と呼ぶ家康はどうかしています。むしろ、これだと家康が非常識に思えます。
家康に呼び捨てにされても怒らないほど卑屈な信雄は、どれほど鈍感なのか。こんな息子にしてしまった織田信長まで愚かで酷い親に思えてしまう。
信雄はかつては父信長からも愚物呼ばわりされています。 天正7(1579)年、天正伊賀の乱ので失敗をやらかし、『信長公記』巻之十二「北畠中将御折檻状之事」によれば、覚悟次第では親子の縁を切るとまで言われています。尚この時信長はまだ石山本願寺との戦いが続いており、この2年後に平定のため伊賀へ侵攻します。
また、ルイス・フロイスの『日本史』では、信雄が何ら理由もないのに、安土城に放火したと記されています。実際明智秀満ではなく、信雄が安土城を焼いたという説はあります。この説に従えば、秀満は安土城を焼かずに、そのまま坂本へと退去したことになります。
切れ者であるから見出したはずの明智光秀も愚かでしかなかった。
自称信長の後継者お市も、結局無能。
信長って、周りを腐らせる呪いの持ち主だったのでは?
いや失礼しました。このドラマは信長周辺以外もダメな人物ばかりでした。
信長が主人公ではないため、光秀の切れ者の描写は限られますし、まあ武者さんが望む光秀像が、必ずしも他の大河で描かれるとも言えないのですけどね。と言うより武者さんの場合、自分が好きと認定した大河の人物を理想像と決め込むため、他作品の描写の面白さを理解できていないのではないか、そう思いたくもなります。
そしてお市が無能、どこがどう無能であったのかを説明してください。そして彼女は信長の後継者と言うよりは、対秀吉軍に対しての、北ノ庄側の総大将と言うべきでしょう。
また先週よかった点として、「マザーセナの回想がなかったこと」を挙げつつも、このように書いています。
「結局、お市との恋愛を盛り上げるための配慮だったようで、今週はバッチリ出てきて、しかもクレジット二番手ですよ」
家康とお市て「恋愛関係」にあったのですか?互いに思うことはあったでしょうが。そして瀬名は家康の正室であった以上、クレジット二番手でおかしくないと思います。
◆【どうする家康】どうなる〝2番手キャスト〟 有村架純、岡田准一、北川景子ら「退場」(→link)
BBC版の関ヶ原『ウォリアーズ』では、信康を死なせたことを思い出す家康が展開の説得力になっていました。
関ヶ原に遅参したから腹を切りたいと語る我が子・秀忠を、温情で許す家康。
そういう厳しい時代は終わったと宣言し、それが泰平の世の幕開けにも思えたものです。
BBCがそういう描写をしているのに、NHKはマザーセナの教義による泰平の世にするとは……。
BBCはBBC、大河は大河なのに、BBCの描き方が正しいと思い込む武者さん。しかも
「展開の説得力」
などとありますが、それを言うなら「説得力ある展開」でしょう。日本語もちょっとあやふやですね。
そして何よりも『どうする家康』で、
「関ヶ原に遅参したから腹を切りたいと語る我が子・秀忠を、温情で許す家康」
といった描かれ方をしていたら、それはそれでまた叩くのだろうなと思います。
『麒麟がくる』の光秀は、亡き妻の爪を小さな容器に入れて振り、その音で偲んでいました。それが本作はいちゃつく回想映像を使い回すだけです。
妻への愛惜の示し方だって見せ方の一つなのに、本作にはそうした細部へのアイデアが全くありません。
脚本家にそれだけの力量や適性があるかどうか。事前にわからなかったんですかね。
また脚本家叩き。
煕子の爪が『麒麟がくる』の光秀の原動力であるのなら、瀬名の遺言は家康の原動力であると思われます。
またこの場合、薬湯もそれに該当すると言うべきでしょう。妻を亡くした主人公が何をよりどころにするのか、作品によって異なるはずですが、所詮は自分が好きな作品を基準、しかも滅多に引き合いに出さない煕子を、こういう時だけ出してくるのですね。
井伊直政は幼く、腕も細く、所作も筋力が感じられず、
そりゃ旧武田の兵たちもついてこないよな……
と悲しくなってきます。
そもそも包帯を巻いて「稽古をつけたあとです」という説明は何事で しょうか。
汗もろくにかかず、着物もきれいで、擦りむいたような傷がポツポツとあるだけ。打撃による内出血の跡はなし。これのどこが?
武田の武士たちがあまりに強くあるいは荒っぽいせいで、稽古をつけた側も負傷していたということですね。
また内出血というのは、皮下で出血がおき、あざやたんこぶができることを言います。脳や臓器で出血が起こることもこう呼びますが、この場合は前者の方ですね。
そして、この画像の直政の頬や腕の赤み、これは内出血ではないのでしょうか。
本多忠勝も「細い!」と思ってしまいました。
『八重の桜』の山本覚馬、『鎌倉殿の13人』八田知家や三浦義村と比較してはいけない……そう思おうとしても、どうしてたって比べてしまいます。
これで本多忠勝と言われても、全く納得できません。槍も重たそうに見えないし、見せ方の工夫が足りません。
しかもこの忠勝には、ノースリーブで日焼けしたようなあとがあります。どういうことでしょうか?
(画像はいずれも『どうする家康』第31回より)
「これで本多忠勝と言われても、全く納得できません」
武者さんが考える忠勝はどのような人物なのですか?
この大河の忠勝はこうですよ。
忠勝をムキムキに描いたら、それはそれであれこれ言うのでしょうね武者さんは。
また槍が重たそうに見えないとはどういうことでしょう。あれで槍をどっこらしょと抱えたら、いざという時役に立たないのではないでしょうか。そしてこの画像を見る限り、ノースリーブで日焼けしたようには見えませんが。照明のせいもあるかと思います。
漢籍を読む場面で、書見台すら使わぬとはどういうことなのか?
今の本と同じ持ち方だし、読み方もおかしいし、授業風景も現在の学園ドラマのようで絶句します。
それを言うなら、以前『天地人』と『麒麟がくる』の授業風景を比較した投稿があるので、興味のある方はこちらの2つをご覧ください。
まず『天地人』、北高全祝が喜平次と小姓たちを教えているシーンですが、これはいいと思います。
一方で光秀の授業風景ですが、ちょっと江戸時代の寺子屋のように見えます。実際越前にいた時は、何をしていたかわからない(だから鍼灸医説がある)から、こういう創作を入れたのだろうとは思いますが。
それとこれ、光秀が子供たちを教えているところと松下村塾を比較していますから、武者さんは嫌がるでしょうね。
論語の「子路、君に事(つか)えんことを問う」ですが、読み方がおかしいとありますが、具体的にどの点がおかしいのでしょうか。寧ろ主君を諫めるべしというその授業内容について、何か思うところはなかったのでしょうか。
このドラマは、最後までまともに漢籍を取り扱わない気のようですね。
ドラマ10『大奥』や朝ドラ『らんまん』と比較して、ひどく劣っている。
真面目にやる気がないのなら、そんなシーンなど省いてしまえばよいのに、言い訳のように入れてくるのが見苦しい。
×最後までまともに漢籍を取り扱わない
〇武者さんがやってほしい形で漢籍が登場しないので、面白くない
そしてまた『大奥』に『らんまん』を叩き棒。
「真面目にやる気がないのなら、そんなシーンなど省いてしまえばよいのに、言い訳のように入れてくるのが見苦しい」
武者さん、
「真面目に書く気がないのなら、そんなコラムなど廃止してしまえばいいのに、毎週アップする」のは如何なものでしょうか。
書状の色もなんだかおかしくありませんか。
そんなことはないと思いたいですし、詳しく調べないとわからないけれども、朱墨でなく、アクリル絵の具やポスターカラーを使っているようなことはありませんよね?
字体も、戦国時代にしては新しすぎる気がします。ああいうかっちりした楷書で書くものでしょうか。
書状とありますが、榊原康政に渡した地図の朱色の部分でしょうか。
「詳しく調べないとわからないけれども、朱墨でなく、アクリル絵の具やポスターカラーを使っているようなことはありませんよね?」
だったらご自分で詳しくお調べになって、ここでその成果を発表してください。
ちなみにポスターカラーではないと思います。
あと字体云々、武者さんが好きな『麒麟がくる』第38回「丹波攻略命令」から。
見事な楷書ですね。 無論手書きだろうとは思いますが、何かフォントを使って作ったのかと思えるほどきちんとした楷書です。
『らんまん』のこういう小道具ははちゃんとしているのですが。
◆万太郎が植物標本を包む「新聞紙」にも驚きのこだわりが…朝ドラ『らんまん』の知られざる「演出の世界」(→link)
だからといってデジタルにすれば良いというものでもなく、相変わらず地図は虫がはっているようで不気味です。
この文春の記事ですが、小道具だけをテーマにしているのではないし、当時の新聞の再現なら朝ドラ全般に言えることです。『エール』で、そういう形の再現が行われたと聞いたことがあります。
そしてあの地図が虫が這っているように見えるのなら、貴方が言うレーシック於愛ではありませんが、眼科に行かれた方がいいのではないかと思ってしまいます。
そして
本多正信はやりすぎでしょう。
(中略)
そして、これはあまり兵法に興味がない人がやりがちなミスですが、できる軍師や智将ほど、せいぜい二手先ぐらいしか見通しません。
実際の相手がどう反応するか。そのときの天候はどうなっているか。
予測不能な要素がありすぎて、先の見通しとは非常に難しいものです。
ここはあくまでも信雄を擁して秀吉と戦うべきかどうか、それを決めるシーンであり、実際の戦での動きや状況を予測する段階ではありません。
本多正信だけでなく、家康もわけのわからない先読みをペラペラしゃべっているので、大の大人が揃って何バカなこと言ってんだ?と悲しくなってきます。
そもそも大切な策は漏らさないことが基本中の基本でしょ?
大切な主君にだけ、こっそり語ればいい。
だから家康と家臣の間だけで共有していますよね?
これも武者さん以前書いていましたが、その時も内輪で情報を共有していたはずですが。
そして家康の「わけのわからない先読み」とは何ですか?
『麒麟がくる』では、明智光秀の内政のやり方に感銘を受けた徳川家康が、意見を聞きに行く場面がありました。
民の安定を成し遂げてこそ、乱世が終わる。そういう丁寧な描写です。
トップが妄想ぎみに「俺が乱世終わらせるし!」と勝負を挑んだって、うまくいきませんよ。
向こうでは光秀が主人公、そのため家康は「従」的存在。
そしてこちらでは家康が主人公、だから本人がやりたいことを口に出してもおかしくはないかと。
それと冒頭の家康のセリフは「乱世終わらせる」ではなく、「乱世を鎮め、安寧な世をもたらす」です。
織田信雄の前で、家老が火花をきらめかせながら斬られる場面。
お祭りみたいで、心の底から「酷い!」と叫びたくなった。
制作陣の誰か、止められなかったんですか?
あんな目の前でわかりやすく殺されてたまるか!
火花が飛んでいましたか?
あの様子を見て、お祭りを連想する人がいますか?
そして例によって『鎌倉殿』と『麒麟』との比較ですが、ここでは信雄は脇役です。
従って、彼が家臣をどのように殺すかを考え、練り上げるシーンにあまり尺を取ることはできません。
ああいう形で誅殺し、その後秀吉が向こうから仕掛けて来た、してやったりとほくそ笑み、家康との対決に駒を進めることの方がより大事ではないからでしょうか。
『鎌倉殿』でも藤原頼衡(泰衡の弟)などは、善児があっさり片付けていました。殺される側が、その作品に対してどれだけの重きを置いているか、それが大事なのでは。
どうする「レーシックお愛」
今週もド近眼設定はまるっと無視!
マザーセナの後継者である彼女は、目の術後も良好なようですね。今後はレーシックお愛という名前で呼びましょう。
そのレーシックお愛の肩を揉み、癒しを得る場面は、作り手の趣味でしょうか。
於愛がうたた寝から目を覚ました時、至近距離に家康がいましたよ。
近眼でも十分見えると思いますが。
それから本多正信関連。
香具師や講談師でないときの正信は、武士ではなく現代劇の探偵のよう。
貴方、この前も同じこと書いていましたね。
で、後登場人物の声が聞き取りにくいとかなんとか書かれていますが、あれを聞き取れないのなら、字幕を出した方がいいです。実際
「字幕を出さなければ何を言っているのかわからない時すらある」
ようなので、今後は字幕付きで「きちんと」観てください。
秀吉は月代。
家康はちょび髭。
そういうメイクでごまかしていますが、人間的な変貌が全く無いから、わけがわかりません。
『鎌倉殿の13人』の北条義時はじめとする登場人物たちを思い出し、切なくなる。
『鎌倉殿の13人』では、各人物たちが毒々しくなっていくところも素晴らしかったけれど、それが抜け切るところも見事でした。
あれだけ憎々しかった頼朝なんて、死の直前には、ちょっととぼけて愛嬌のある「佐殿」にまで戻りましたからね。
「人間的な変貌」て何ですか?登場人物が変貌するとか、そのように書いてください。
そして好きな大河ならこれだけ雰囲気が変わった!と喜び、
嫌いな大河ならどれだけ登場人物が与える影響が変わろうとも、
何も変わらないじゃないかと言いたがる武者さんらしい意見ではあります。
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