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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『鎌倉殿の13人』に関しての武将ジャパンの記事について思うこと 69その2

『武将ジャパン』大河コラムへの疑問点、後半部分です。

鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第32回「災いの種」 - BUSHOO!JAPAN
(武将ジャパン)
https://bushoojapan.com/taiga/kamakura13/2022/08/22/170435

1.「なんで頼家様は俺と仁田を呼んだのかなぁ?」
忠常と話ができなかったからか。義盛は三浦義村と畠山重忠に相談しています。
「わかる気がする。戦に強く、忠義者で、ばか……」
「ばか?」
「……場数を踏んでいる」
とっさに言い逃れる義村。言うことを聞いてくれると思ったんじゃないか、ってよ。
言いたいことはわかった。馬鹿だと思っているんだな。
でも、義村の場合、自分以外みんなバカに思えているんじゃないかな。そしてそれは「バカ」というより正直さでもある。

義盛の場合、恐らくはいつもの仲間に善後策を相談したかったのでしょう。
そして「正直さ」と言うよりはむしろ「愚直さ」ではないかと。またこのシーンは一部の映像が下からの撮影となっており、そこの部分に密談といった雰囲気が窺えます。

2.「頼家様もかわいそうな方だ。今さら息を吹き返しても、何一つよいことはないのに……」
重忠の変貌っぷりにショックです。
持ち前の正義感はもうない。義盛、義村とは従兄弟の関係であり、一方で北条の娘婿として保身に入りつつあるのでしょう。

「重忠の変貌っぷりにショックです」
そうですか、この場合至極当然なことと思いますが。
北条家の婿であることもさることながら、あそこまで比企に取り込まれてしまい、御家人から見放されつつある将軍に最早未練はないでしょう。

3.結局、義盛と重忠は時政に知らせます。
いくら頼家の命令でも時政は討てない――。
そんな風に断った一件を時政の耳に入れると、「ならばなぜ仁田忠常は来ないのか?」と不思議そうにしていたかと思えば、「まさか攻めてくるのか!」と心配している。
重忠は板挟みになって悩んでいるのだろうと同情しています。
にしても、この人たちには忠義がありませんね。
保身だけ。
自分たちの損得を抜きにしてでも、頼家に忠義を尽くそうと誰も言い出さない。生前の頼朝が「これからは忠義を重視する」と言っていた意味もわかります。

既にこの時点で、彼らは時政>頼家となっていることが窺えます。北条はやはり裏切れませんから。
それと
「『ならばなぜ仁田忠常は来ないのか?』と不思議そうにしていたかと思えば、『まさか攻めてくるのか!』と心配している」
これは正しくは
「しかし…仁田はなぜ何も言うてこん。まさか攻めてくるつもりではなかろうな」
であり、このセリフの構成から見る以上、時政に取って忠常は最早疑わしい存在となっていたとしても、おかしくはありません。

あと
「にしても、この人たちには忠義がありませんね。
保身だけ。
自分たちの損得を抜きにしてでも、頼家に忠義を尽くそうと誰も言い出さない。生前の頼朝が「これからは忠義を重視する」と言っていた意味もわかります」
とありますが、前述のように御家人たちの心は頼家から離れている、つまりそこに信頼関係はないと言ってもいい状態にあり、当然ながら忠義も最早なきに等しいでしょう。頼朝もまさか、このような事態になるとは思っていなかったでしょうし。ところでこの「忠義」ですが、

4.幕末ならば、主に殉じる忠義こそが武士の華。
近藤勇にせよ、土方歳三にせよ、あの薄情な徳川慶喜のために命を賭して戦った。
戦国時代だって一応そうです。
真田幸村は九度山で生きていく道を捨てて、我が子を巻き込んでまで、大坂城で忠義を燃やす人生を選びました。
そういう忠義のある武士を描いてきて、ついに「んなもん関係ねえ!」という時代まで、三谷幸喜さんは遡ってきました。

まず幕末。新選組だけをここで挙げていますが、西国諸藩の、あるいは奥羽の藩士たちも藩のために戦ったことが抜け落ちています。嫌いでも書くべきものは書かないと、プロのライターではありませんね。それと「薄情な徳川慶喜」などと、ここでわざわざ言うこともないでしょう。
そして戦国時代は、武士が主君を変えることは珍しくありませんでした。有名なのは藤堂高虎ですが、それ以外にも主君を変えた、あるいはその時々の形勢により主君が変わった人物は多く、1人の主君に忠義を尽くす武士は、寧ろ江戸時代以降の概念ともいえます。

5.頼朝と政子の間に生まれた待望の男児が、まさかこんなことになるとは……。
でも時政は、その孫に呪いをかけるよう、りくと共に阿野全成をけしかけたわけで。
本作の時政は自ら悪い方向に向かわず、流されているだけです。その方がより邪悪だと思える。

時系列を遡るとわかりますが、なぜ時政とりくが全成に呪詛をかけるように頼んだかは、頼家自身の暴走、そしてその背後にいる比企能員の暴走にも原因がありました。その部分を追及せず、時政のみの問題にすり替えるのも納得が行きません。

6.なんと一幡は生きているとか。父の言いつけを破り、ある場所に匿っているとか。
初は「(義時が)泰時の性分はよくわかっているはずだ」と言いながら、一幡の命を奪うことのできなかった夫を庇っています。
泰時は、頼家が健康を取り戻したため、一幡が生きていたことは不幸中の幸いだと訴えます。
それを聞いているのかいないのか。ただ「鎌倉にいるのか?」と確かめるだけの義時。

「聞いているのかいないのか」もないもので、義時自身はこれは困ったことになったと思い、なおかつ今後をどうするべきかを探っているわけで、その結果まず居所を確かめようとなり、「鎌倉におられるのか」と問いかけたわけでしょう。

7.義時は平気で嘘をつき、誓いを破る人間になりつつある。八重が亡くなった時は、罰があたったと恐れる気配はあった。それが今もあるのかどうか……。

武者さんは義時に何を求めているのでしょう。既に政権の中枢にいて、汚い仕事、大人の事情を一身に背負っている人物に、清廉潔白のみを求めようとしているのではないでしょうね。この大河には疑問もありますが、義時がこのように悩みつつも変貌し、成熟して行くところは面白いです。

8.なんでも鞦韆(ブランコ)は善児が作ったとか。義時はさりげなく一幡を殺せといいます。

ドラマ本編に「鞦韆」という言葉は出て来ません。確かに中国ではそう言いますが、ここは普通にぶらんこ(ブランコ)でいいでしょう。

9.「千鶴丸様と何がちがう?」
「わしを好いてくれる」
「似合わないことを申すな」
八重の亡き子の名を出し、そうつきつける義時。
千鶴丸もなついていなかったとは言い切れないでしょう。変わったとすれば、善児の心です。
トウを育てる過程で愛を知ったのか。加齢ゆえか。あるいは仏の教えでも学んだとか?
義時に強く言われ、殺しに向かう善児ですが……どうしてもできない。苛立ったように、義時が刀に手をかけます。
「一幡様、トウと水遊びをいたしましょう」
トウが師匠の代わりをこなします。善児は苦しげにブランコの縄を切る……そんな姿に、酷い破滅が迫っている未来が浮かんでくる。

ここで「千鶴丸」を出して来たのは、恐らくはこの後に一幡が辿るであろう運命、その伏線ではないでしょうか。無論善児の弟子であるトウが、範頼暗殺の際にいた少女であるとすれば、彼女を育てて行く中でいくらか変化があり、それが一幡への同情となって現れたとも言えます。さらに一幡は千鶴丸と異なり、この時点で既に孤児(父の頼家は存命ですが)というのもあり、その意味で情が移ったとも考えられなくもありません。

10.義時が自邸に戻ると、泰時が何か焦っています。
そこには、頸動脈を切り、息絶えた仁田忠常がいました。
なんでも不意に御所に現れ、命を捨てるといい、止める間もなく自害をしたと。

この忠常の死ですが、史実では自害ではなく、謀反の疑いをかけられて殺された、あるいは義時と一戦交えて討たれたとなっています。いずれにしても、忠義を貫いた自害と言うのは江戸時代的でもありますし、実際のところ誰かが彼をそそのかして、自害させていたとしても、それはそれで不思議ではなさそうです。

11.政子も修善寺ならばたまに会うこともできると納得しますが……ちょっと待ったぁ!
修善寺は当時から名刹で、源氏の御曹司でもよいほどの場所。鎌倉にも近く、北条の目も光らせやすい。
しかし、その条件だからこそ、範頼も幽閉後に殺されているのでは?

これも政子が本気でそう言ったかどうかは疑問です。薄々感づいてはいたと思われますし、自分を納得させるための言葉とも取れます。

12.泰時は愕然とし、父に善児のところへ行ったのかと聞きます。
「父上は、一幡様を! なぜ!」
「武士とはそういうものだ……これでよかったのだ」
「父上はおかしい!」
そう叫ぶ我が子の頬を義時が叩きます。
武士ってなんなんだい?
私もそれは思ってしまいます。こんな異常性がある集団でいいのか?というドス黒い思いが湧いてくる。

個人的には、義時の行動に納得ですね。泰時君、君はまだまだ若いし、これから大人の階段を登ることになるのだよと言いたくもなります。それとこの武者さんが言う忠義とか武士の定義ですが、これらは後世のものですし、しかもあったことをなかったことにして丸く収めるのは、この後の時代にも行われているのですが。

13.程なくして武士が「仁義礼智信」を得ていく。これぞ歴史であり、そのために義時の息子である泰時が奮闘するのだと。

これも江戸時代的ですね。泰時の時代に御成敗式目ができ、その後の武家法の規範となりますが、この御成敗式目は武士道云々より、主に裁判を重視したものでした。

14.無残な問いかけが館に響きます。
頼家は、三浦と和田が北条に滅ぼされる未来を予知しているのです。

確かにこの時頼家は
「比企の次は三浦だぞ!和田だぞ!」
と叫んでいますが、それは彼を抑え込もうとしていたのが、義村と義盛だったからではないでしょうか。実際和田はこの後滅ぼされますが、その後は畠山が滅ぼされます。三浦はもっと後ですね。

15.深紅に身を包んだ実衣が得意の絶頂にいます。

これ、やはり「深紅の袿」と書いてほしいですね。英語だと"in crimson"で「深紅の衣を着た」にはなりますが。そしてこのシーンで実衣は初めてこの姿で現れるわけで、最初の方で比奈を比企の血を引いているとなじる彼女は、まだこの格好はしていません。

それからMVPと総評ですが、その中に何かよほど面白くないことがあったのでしょうか、『麒麟がくる』の駒に関してのこのような記述があります。

『麒麟がくる』の駒のことを「ファンタジー」だと貶すSNSの意見があり、それを取り上げた記事がありました。
歴史もので駒のように非実在の人物を出し、その目線で描くことは定番の技法です。
そんなことにケチをつけたら大河になった吉川英治『宮本武蔵』は成立しません。
大河でも『三姉妹』や『獅子の時代』は実在しない人物が主役です。
駒は歴史に干渉せず、実在人物の生死を左右したことはありません。
今年の善児のほうがトリッキーな動かし方です。
駒みたいな無名の市民がうろうろすることが嫌いなら、「ファンタジーだ!」とけなすのではなく、もっと歴史通らしい言い回しはあります。
「豚に歴史がありますか?」
民百姓に語るべき歴史なんかないのだから、駒みたいな戦災孤児出身者なんて要らんということなら、ハッキリそう言えばいい。
それを自らは安全なポジションに置くような言い回しでは卑怯です。

まずここに出て来る宮本武蔵は実在の人物ですが、これはお通のことを言っているのでしょうか。
また『三姉妹』や『獅子の時代』(10年ルールはどうなっているのでしょう)ですが、『獅子の時代』の場合は、確か最初から架空の人物と制作サイドは言っていたのではないでしょうか。そして架空ではあるものの、その当時にいたとしておかしくない人物となっています。『黄金の日日』でも架空ながら、その当時いたであろうという人物が出て来ます。

また善児ですが、元々彼は主人の命を受けて動く人物であり、その後もその範疇を出ていません。彼が歴史を変えたわけではないし、今回一幡を匿ったことで多少その制約が緩んだ感はありますが、最終的には彼でなくても、トウが一幡を殺めたはずです。その意味で歴史を変えたことにはなりません。

そして駒は、無名の市民ではありません。足利義昭の側女にまでなり、当時の大名の家族にも接したりしていますし、歴史に全く干渉していないとは言い切れないでしょう。駒が終生東庵の弟子であり、薬を売って生計を立てていたのなら、それはオリキャラとして認められるでしょう。またその当時いたであろう人物と設定するにしても、あちこちに出没し過ぎだからこそ批判されているのですが。これなら伊呂波太夫の方が、まだ架空の人物であると納得できます。
で、ここですが

「駒みたいな無名の市民がうろうろすることが嫌いなら、「ファンタジーだ!」とけなすのではなく、もっと歴史通らしい言い回しはあります。
「豚に歴史がありますか?」
民百姓に語るべき歴史なんかないのだから、駒みたいな戦災孤児出身者なんて要らんということなら、ハッキリそう言えばいい。
それを自らは安全なポジションに置くような言い回しでは卑怯です」

お気に入りの駒を批判されるのが嫌なのだろうと思いますが、武者さんがよくやるストローマン話法、つまり相手の主張(例えば駒は越権行為をしている、あるいは出過ぎであるといった)を故意に曲解する、正しく引用しない、あるいは論点をすり替えるなどして反論するやり方でしょうか。

ここで問題になっているのは、駒が本来出るべきでない部分にまで首を突っ込むこと、そもそも出過ぎだということであり、無名の市民だから、戦災孤児出身だから、いくらでも出していいと言うことにはならないでしょう。出すなとは言いませんが、ただ出すのならもっと効率的というか、出番は多くないけど印象に残るやり方があるはずです。

飲み物-琥珀のエール
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[ 2022/08/25 01:15 ] 大河ドラマ 鎌倉殿の13人 | TB(-) | CM(0)

復活祭2022

復活祭ですね。

元々この祝祭日は、春分のすぐ後の満月の、その次の日曜日と決められています。今年は土曜日が満月(ピンクムーン)、そして日曜日が復活祭となりました。実はこの決め方に関しても、東方教会と西方教会では異なるのですが、それはまた機会があれば。

さて復活祭、イースターの語源は春の女神、エイオストレが由来とされています。これはドイツ語も同じです。一方でラテン語やイタリア語ではパスクアといい、多くのヨーロッパ諸語の復活祭も、この言葉から派生したものとなっています。

パスクアの語源はユダヤ教の過越の祭です。しかし日本の場合はヨーロッパのように生活に密着した「春」でもなく、あるいはユダヤ教との関係が深い過越の祭でもなく、「復活」を用いています。受洗したなら、せめてこの日は礼拝に出るようにとも言われており、『黄金の日日』でもキリシタンがこのパスクアを祝うシーンがありました。

キリスト教に於いては、クリスマスと並ぶ、あるいはそれ以上の意味を持つ祝祭日であり、国によってはこの日に食べる料理が決まっていたり、またこの日教会に行く時は、新しい服に身を包むというならわしもあります。この新品の服をまとった人々が行きかうさまは正に「イースター・パレード」です。こういうタイトルの、昔のミュージカル映画がありますね。

この復活祭関連の祝祭日は、その後も主の昇天日、ペンテコステと続きます。

飲み物-華やかなティーカップと紅茶
[ 2022/04/17 23:45 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『おんな太閤記』そして『鎌倉殿』の義時

『おんな太閤記』の第一回を観てみました。橋田寿賀子さん脚本ということもあるのでしょう、全体的には、昭和のホームドラマを時代劇化した印象です。
特に前田犬千代(利家)に着物を縫ってあげたにも関わらず、妻帯していたことを知り、ねねが落ち込むところ、それを秀吉が慰める(そして、ねねに取り入ろうとする)描写、最後の藤吉郎の実家に行くシーンなどは如何にもといった雰囲気でした。
しかし、藤吉郎が桶狭間の前の信長の様子を話したりするのですね。いやそれどころか、ねねと藤吉郎の祝言にいきなり信長がやって来て、反物を贈るなどというのは、サプライズ中のサプライズでしょう。

ところで藤吉郎の西田さんと、『鎌倉殿の13人』の後白河法皇の西田さん、かなり与える印象が違いますね。そしてこれはあらすじと感想でも書きますが、その『鎌倉殿』の義時。信濃へ行くのはまあわかるのですが、野菜だの魚だのを持って、八重のところを訪れるというのはさて如何なものか。
この回では木曽義仲も登場しますし、それなりに骨っぽさが感じられるかなと思ったのですが…。逆に義経は普段からあのイメージなので、里と一夜を過ごして合流しそびれたとしても、一応は納得が行くのですけどね。

それから4月10日の『おんな太閤記』の放送前に、午前5時30分からBSPとBS4Kで『黄金の日日』最終回が再放送されます。この最終回は3月27日にも放送されていますが、2回分続けての放送であったため、改めてもう一度といったところでしょうか。

飲み物-パブのビール2
[ 2022/04/04 01:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』「堺炎上」

慶長5(1600)年10月、助左衛門はリュートを奏でていた。その2日前に処刑された石田三成、小西行長、安国寺恵瓊への供養のつもりだった。処刑の前に現れた僧に、三成はこの世に未練はないと言い、行長はキリシタンであることを理由に拒否し、恵瓊は自分は坊主であるから己の経文で成仏してみせるわいと哄笑し、それぞれ打ち首となった。

堺に取って大事な人物が次々といなくなり、徳川に従わない限り戦は避けられなかった。その代わり堺の自治は取り上げられてしまうことになる、しかも信長包囲の時はまだ味方はいたが、今はそれも望めそうもなく美緒は悩む。その時小太郎が、東の口の大橋に高山右近が来ていることを知らせる。

右近は騎馬姿で、引き合わせたい人物がいるから大坂城へ同行するように言う。その人物は徳川家康だった。家康は助左衛門にリーフデ号のこと、そしてオランダ人の船長とエゲレス人の航海長について話し、南蛮ではイスパニアの無敵艦隊がエゲレスによって撃滅されたことを話す。助左衛門に取っては初耳だった。

家康は交易先をオランダ、エゲレスにすることを考えており、そのための条件として堺の港の閉鎖、納屋衆と会合衆の江戸への移転を持ち出す。堺にはイスパニアとポルトガルの垢が染みつき過ぎていると言う家康。さらに家康はこれに従わなければ、公命で堺は焼き払うとまで言う。助左衛門は堺では談合で決めるため、この件を持ち帰りたいと思うが、家康は助左衛門の影響力が大きいのではないかと疑っていた。

果たして堺では、交易相手を乗り換えることへの反対が相次ぐが、小太郎は、家康は本気で火をかけるかも知れないと恐れる。助左衛門は、堺をまるごと呂宋へ移す決断をくだす。堺とは堺衆、どこへでも行ける船、自由な商いができればそこが堺なのであるとするものの、無論他の選択肢もあるわけで、大阪や江戸へ行きたい者はそうすればいいと言う、これには賛成する者が多かった。そして堺の3万人の人々の運命は、行く先によって二分された。

小太郎は父宗薫と共に江戸へ行くことを決めた。代わりに美緒に呂宋行きをと考えていた。美緒は積み荷の様子を宗薫、小太郎と共に見ながら、小太郎に呂宋行きを勧める。互いに呂宋行きを譲り合う2人だが、美緒はその後助左衛門の家へ行き、別れを告げる。

さらに美緒は、生涯慕い続けることのできる人と出会えたのは幸せであったこと、そして、30年館この言葉を封印して来たことを明かす。そして助左衛門は、今度生まれ変わったら自分の女房になってほしいと言い、美緒もそれを受け入れる。やがて今井の荷駄隊は、江戸へ向けて旅立った。

助左衛門に高山右近が、これは堺の者でなければ乗れぬかと尋ねる。右近は呂宋での町作りを手伝いたいと思っており、船に同乗することを考え、助左衛門もそれに異議はなかった。助左衛門に取っても、右近が来てくれることは心強かった。

徳川が攻めてくる前に、無人となった堺に火をつけるつもりでいた助左衛門だが、子供が泣いているのを見つけて船に乗せる。驚いたことに船は子供たちでいっぱいで、わざと捨てられた子も中にはいた。このため堺を離れる前に、町中を一回りした助左衛門は、あちこちで昔のことを思い出す。

最後にお仙の船を覗きに行った助左衛門だが、お仙は遙名台に灯を入れた後その近くに倒れていた。船に乗ろうと助左衛門は言うが、とてもそれまで寿命は持たないと言う。お前の船が出て行くのを目に焼き付けてから死にたいと言うお仙だが、既にその目は見えていないようだった。そして見送らせてくれと言いつつお仙は息絶える。

助左衛門はその後、堺を捨てるのではなく持ち去るのだと言い、男たちが家々に火をつけて回る。これを見ていた淀殿は家康に、堺の町が自害をしたらしい、内府殿の脅かしも通じなかったと見えると言い、また何と気高い、誇りに満ちた炎よ、果てる時はかくありたいと口にする。その15年後、彼女は正にそのやり方で生涯を閉じる。

1600年秋、納屋助左衛門は日本を去り、そして黄金の華を咲かせた幻の都堺も姿を消した。そして船上では、ひとりの少年が舵取りをしたいとせがんでいた、その子の名は助左といった。船長にあやかったのでしょうと水夫たちが言う中、助左衛門は助左に舵を取らせる。


第51回そして最終回「堺炎上」、これを以て『黄金の日日』終了です。最初はあらすじ感想を書く予定はなかったのですが、そもそもは明智光秀関連で書いたのがきっかけでした。

結局最後は万事うまく終わった感もあります。元々は、史実を基にしたフィクション的なところもあるだけに、こういう終わり方になったともいえるでしょう。尚実際は、大坂夏の陣で大野道犬(治長の弟)に火をつけられています。

『青天を衝け』放送年にアンコール放送が始まり、同じ「商人」同士かと思っていましたが、やはり戦国期の商人と、近代の資本主義のもとでの実業家とはかなり異なっていました。無論渋沢栄一が元は農民であり、また一時士分として取り立てられたことも関係していますが。

家康の交易先変更は、オランダとエゲレスが新教国であることも関係しているでしょう。結局最後に残ったのはオランダでしたが。

あと第1回に出て来た「助左」、ここで再登場です。

そして4月からの『おんな太閤記』ですが、今のところあらすじ感想を書くかどうかは未定です。

飲み物-ラム酒とグラス
[ 2022/03/29 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』「関ヶ原」

まず第50回「関ヶ原」です。とはいえ、関ヶ原そのもののシーンはそう多くありませんが。


家康が会津征伐の目的で東へ軍を進めた。しかしその真の目的は、石田三成に挙兵させることにあった。兄の正澄も奉行所を去り、ここに堺は30年余りの時を経て、再び自治を取り戻したことになる。しかし会合衆の顔ぶれは変わっていた。またそれぞれが出入りしている大名家も異なり、一枚岩となるのは難しそうだった。そんな会合衆に助左衛門は、我々の敵は豊臣でも徳川でもなく堺にあだなす者であり、もし攻められた時は堀もあり、鉄砲もあるのだから戦うと檄を飛ばす。

そして櫓を組む助左衛門たちだが、宗薫は、自分が助左衛門の邪魔だてをしないのを不審に思うかと美緒に尋ねる。小太郎は美緒を実の母と思っており、美緒がこのまま小太郎の母親でいてくれたら大抵のことは許すと言う。宗薫は小太郎を手放したくなかったのである。

大坂城に入った三成は淀君(淀殿)と秀頼に拝謁し、徳川を征伐したいと言うが、秀頼を担ぐことに周囲は反対する。ならば大坂に残る大名の妻子たちを人質にすればいいと淀君。しかしこのことは、陣中の家康にも届いていた。三成は自分に従う豊臣の大名たちに、三成は上杉と共謀し、毛利宇喜多を味方にして、貴殿らの妻子を人質にしていると伝える。

もし妻子が気になれば去ればよい、その後は譜代の陣で相手を防ぐと家康は言うが、大名たちの中には妻子を置いて来たのは秀頼への忠誠心のためであり、三成のためではないとの声も飛び出す。しかも細川忠興は、妻たまに自刃するよう命じていた。家康はその彼らの心を無駄にしたくないと明言する。

その細川の屋敷には、増田長盛の手勢が押し掛けていた。これを聞いたたまは、余計な争いにいならないよう人質になることを望むが、それはできぬとの返事に、自害をせよとのことかと悟る。しかしキリシタンである彼女は自害ができず、侍女の薙刀にかかって果てる方法を選ぶが、侍女はためらっていたため、たまは襖に描かれた鹿を狙うように命じ、襖越しに自らを討たせるつもりでいた。その後刃ににかかり彼女はこと切れ、屋敷に火がかけられた。

一方三成は、たまに会えることを心待ちにしていたが、この火を見て驚き、さらに彼女が自害したことを知る。そして堺でも助左衛門と小西行長がその火を目にしていた。行長は翌日伏見に向けて出陣する予定だった。行長はこの戦いに空しさを感じていた。勝っても喜びはなく、負けても悔しさがない戦だった。ならば堺のために戦ってくれと助左衛門は言うが、戻るには遅いと行長は言う。

慶長5(1600)年9月15日、美濃国関ヶ原で徳川軍と石田軍が大事する。三成は笹尾山、そして家康は桃配山にそれぞれ陣を敷いた。そして午前8時、石田軍の島左近の一番銃で戦いが始まる。最初は石田の方が有利で、家康はあまりの不甲斐なさに自ら指揮を執る。三成はこれを見て勝利を確信するが、その直後形成は逆転する。小早川秀秋が寝返ったのを皮切りに、石田方には次々と寝返りが続出し、午後2時ごろには総崩れとなった。兵たちは退き始め、島津軍は敵軍中央突破を図った。1600人もの島津軍が、退却を重ねて境についた時には80名あまりに数を減らしていた。

島津軍の開門要請に会合衆は話し合う。助左衛門は中立の信念を曲げるべきではないと言うが、占領するわけではないのなら開門すべきという声も多く、結局門を開けることになる。そして助左衛門は三成や行長、安国寺恵瓊も行方不明であることを知る。しかも今度は井伊直政が来て、島津を引き渡せと叫んでいると小太郎が知らせに来る。井伊と堺衆の間で撃ち合いとなり、堺もこれまでかと助左衛門は覚悟したが、その時お仙が堺の葬式だ、堺が燃える、海へお逃げと言いながら鐘を鳴らす。

そして美緒は戦の様子を見に来ていた、小太郎の働きぶりを見るように、宗薫に言われていたのである。それは彼女に、信長軍が包囲した永禄11年当時の堺を思い起こさせていた。助左衛門も、その時初めて美緒と会話を交わしたことを思い出す。敵はほどなくして引き揚げ、美緒は小太郎に勝鬨を聞かせるように頼み。堺の町中に勝鬨が響き渡る。

関ヶ原の戦後、家康軍は佐和山城を攻め落とし、石田の一族を滅ぼした後大坂城に入った。大野治長は、秀頼と淀君には何の関係もないことと家康を説得し、家康もそれは予想していたようで、逆臣を滅ぼしたことのみを淀君に伝える。さらに淀君は、堺が自治を守るため櫓を組んでいることは許しがたいと言う。家康はそれを受け、島津を匿って徳川に刃向かった堺は、町ぐるみ殲滅すると誓う。そして堺は徳川軍に包囲された。

同じ頃三成は、伊吹山中をさまよっていた。そして同じ伊吹山中には行長もいた。また恵瓊は伊勢山中をさ迷い歩いていた。そして堺も、徳川を相手に最後の時を迎えようとしていた。


関ヶ原前夜と合戦、その後の堺の様子が描かれますが、かなり急ピッチです。上杉攻めなら直江状とまでは言わずとも、その間の確執があってもよかったかとは思うのですが…。そもそも上杉景勝が出てこないから仕方ないともいえますが。ところで直江状が最初に大河に出て来たのは、やはり『天地人』だったでしょうか。しかしあの中の直江状の描き方はいただけませんでした。家康と直江兼続の間の書簡を、あそこまで多くの人が目にするわけもないのですが…。

そして、それにおびき寄せられるように大阪入りした三成ですが、挙兵に対してまだ幼い秀頼はもちろんのこと、淀君も大野治長(修理)もいい顔をしません。そこで淀君が、ならば上杉攻めに参加している大名の妻子を、人質に取ってはどうかと言い出します。この意味で淀君も、実は三成に加勢していた感はありますね。

しかしこれを聞いた家康は、大名たちに意見を求めますが、皆家康に従う覚悟を決めていました。そもそも彼らに三成は人気がありませんでしたが、この期に及んで三成に付くなどということが、かなりリスクの大きいこともまた承知してはいたでしょう。細川忠興は妻たまに、自刃をするように命じたとまで言います。実際この中では、三成がたまに心を寄せるかのような描写もありますが、忠興はこれを知っていたのかいなかったのか。

そのたまの自刃、正確にはキリシタンであるため、他人の手で自らを討たせるのですが、この大河では小笠原少斎ではなく、侍女が手にかけたという描写になっています。しかしどう見てもたまより小柄な侍女が、襖越しに一突きで殺めることができたのでしょうか。あとこれでは「御方様」ではなく「御台様」という呼び方になっていますね。御台様というと『鎌倉殿の13人』の政子を思い出してしまいます。尚この時、黒田長政の母(光)と妻は大坂を脱出しています。

そして関ヶ原ですが、これはかなり短縮されています。尚この時大谷刑部の名前が出て来ますが、人物そのものは出て来ていません。つまり前半は石田有利→三成勝利を確信→後半寝返りが相次ぎ徳川有利→総崩れという流れが説明されている程度で、あと島津軍が堺まで退却したことが描かれています。もちろん寝返りも、今では最初からそうなっていたという説が優勢になっています。

島津軍がやって来たことで、会合衆たちは話し合い、結局彼らを入れることになりますが、この時助左衛門は三成、行長、そして恵瓊が消息不明であることを知ります。この行長、やはり助左衛門は堺衆のために戦ってくれと言っていますが、行長としてはやはり豊臣のために戦うしかないでしょう。そして島津が去った後、井伊直政の軍が攻めて来ます。徳川の先鋒を務める役目の井伊の軍が思わぬ反撃にあい、これが家康によからぬ印象を与えたのも事実のようです。いずれにしてもこの堺の中立は、権力者には好ましからざるものでした。

お仙はまだ生きていたのですね。それと宗薫、小太郎を気にするところは流石に父親ではあります。

それにしても、秀頼と淀君、大野治長と徳川家康の4名が一室にいるというのは何やら運命的で、後の大坂の陣を思わせます。

飲み物-コニャック
[ 2022/03/28 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』「激流」

第49回「激流」です。


助左衛門が日本に戻って来た。堺では納屋衆がこのことを祝って、禁令となっていた鐘をついていた。堺を訪れていた石田三成の兄、正澄は、助左衛門の名は近江佐和山にまで知られていると弟に言う。徳川の伏見、前田の大坂そして三成の堺からは目を離せないと正澄。助左衛門と小太郎はもみくちゃにされながら家に入るが、そこへ今井宗薫が現れ、小太郎を連れ去ろうとする。助左衛門は小太郎を説得して一緒に帰らせる。

助左衛門は三成に会い、堺を元の元気な姿に戻したいと言う。すなわち、堀に水を入れて元通りにしたいということだった。それは三成も堺の外に出ることを意味するが、自分がいなくなると徳川が入って来ると三成は言う。しかし助左衛門は堺の人々と共に中立を守ろうと決意する。そんな助左衛門に三成は、徳川家康が、禁止されている大名間の婚姻の掟を破ったため、詰問することになると話す。

この婚姻、家康の六男忠輝と伊達家の姫の婚姻は、宗薫が仲立ちをしていた。もし家康に異心あらば、宗薫も連座することになると三成。それは会合衆の崩壊をも意味していた。そして宗薫はすべて自分だけでやったこと、また自分は商人ゆえ、武家の法度など知らないと言い、また家康は、これを以て逆心ありとは誰を証人としての断行かと問いただす。家康は、自分を除くということは、秀頼を補佐すべしという秀吉の遺命にも背くと言い、奉行たちはこの家康の言を受け入れるが、三成だけは腑に落ちなかった。

南蛮墓地。助左衛門は宗薫の助命嘆願書を美緒に見せる。美緒は、助左衛門が徳川に鞍替えしたと取られかねないと懸念するが、助左衛門に取っては徳川も豊臣もなく、堀に水を戻すには宗薫の力が必要であることを感じていた。嘆願書に目を通した三成は、天下を狙う者はすべて堺を欲した、そして今家康も堺の富と鉄砲を欲しがっているが、堀を巡らせば徳川の介入を防げるかと尋ねる。助左衛門は堺を犯す者は対抗するが、もし三成が家康と対抗する時は、堺から出て行ってほしい、堺はどちらにも与しないと答える。

三成はこれを認め、宗薫の引き渡しは受け入れられた。助左衛門は戻る途中お仙の船に立ち寄る。お仙はすっかり変わり果てていた。堀に水が戻ってくると言う助左衛門に彼女は、戻って来るのは水でなく血だ、善住坊や五右衛門、桔梗やモニカたち死んで行った者たちの血だと、何かに取りつかれたかのように言い、助左衛門が水だと言っても聞き入れなかった。そして慶長4(1599)年早春、堺に堀が戻って来た。

しかし当の宗薫は、三成や助左衛門と手を組むことに乗り気ではなかった。そこで美緒が宗薫を説得し、離縁まで持ち出したため宗薫は重い腰を上げ、美緒を始め女たちは炊き出しをした。この堀の復活は家康も知るところとなっていたが、家康は堺の自治をよく思っていなかった。宗薫は、会合衆の間で徳川との鉄砲の取引の中止が決まり、これが自治の条件になったと言う。堀が戻った暁には、宗薫は三成と刺し違える覚悟だった。そして家康も、三成を亡き者にしようと企んでいた。

この年3月3日、大老前田利家が世を去る。これによって十人衆の力関係が崩れ、家康の力が大きくなって行った。そしてこの年、堺では禁令が出て以来、15年ぶりとなる復活祭のミサが行われ、細川忠興の妻たま(ガラシャ)も出席した。禁教令のもとでミサを催せるとは思わなかった、これでこそ堺だと小西行長も口にする。これで奉行所が去り、堀に水が戻れば信長以前の堺に戻ると感慨深げだったが、たまは行長と助左衛門に、奉行所に夜討ちがかけられることを明かす。

助左衛門は奉行所へ急ぐが、応対したのは正澄だった。正澄は実物の助左衛門に会いたがっており、西の丸の呂宋壺のことなどを聞きたいなどど話すが、三成の不在を知った助左衛門はそれどころではなかった。正澄の言葉通り、堀の工事現場に向かった助左衛門は、たまの言葉を伝える。三成は、武断派は愚か者であると腹を立てていた。朝鮮の役の際に、尾張でなく近江の出の三成が彼らを秀吉から遠ざけたため、彼らの怒りを買っていたのである。

三成は彼らと一戦交えようとするが、それで堺に迷惑がかかるため、佐和山へ退散することにする。それを聞いた助左衛門は、陸路でなく船を使うように勧める。その夜奉行所を襲った武断派の大名たちを迎えたのは正澄で、彼らに対して白を切り通す。その頃三成は助左衛門と共にいた。三成は今後の堺は、お前と会合衆で取り仕切るように言い、今一度、堺を家康に渡さぬと誓ってくれと助左衛門に頼む。

舟に乗り込もうとした三成の前に、いきなりお仙が現れ、舟に油をまき始めて火をつけようとする。
「鬼だけ残してぬしはどこへ消える気だ
ぬしが消えたら鬼が怒る
町の隅々に置き去りにされた鬼どもが堺の赤子を食い散らして回った
赤子を食われた女どもが、今度はぬしの肝を食らいに行くよ」
お仙はこう言い、取るだけ取って逃げるのか、死んだ者たちを返せと三成に食いかかる。そんなお仙に助左衛門は、死者の血が水になって帰って来ると占ったのはぬしだと言い、お仙はすべてを悟って、舟を燃やすのを断念した。

自分の退陣にふさわしいはなむけだと三成は言って舟に乗り込む。三成と助左衛門は互いに別れの言葉を述べる。そしてその後堀に水が戻り、小太郎は父宗薫に礼を述べる。そしてお仙も、美緒も戻って来た水の感触を楽しんでいた。


まず、前回三成と武断派の対立が登場したのに、前田利家の死が描かれていないと書いていましたが、利家の死、そしてそれに続く三成と武断派の対立は今回登場しました。失礼いたしました。要はこの奉行所への襲撃が、両者の対立ということになるのですがを、無論今では、三成が伏見城に立てこもったことになっています。

それから宗薫が根回しをした忠輝と五郎八姫の婚姻ですが、この大河では、三成と家康の対立はそこまで描かれてはいません。ただ三成が納得していなかったのは事実です。そして武断派の襲撃ですが、これもまた、復活祭のミサに現れた、細川夫人たまが教えたことになっています-なぜそこまで知ることができたのでしょうね。それはともかく、小西行長が復活祭を祝うことに感慨深げです。この人も束の間ながら、禁令以降の面従腹背から解放されたのでしょう。

堺に堀が戻ってくることになります。さぞかしお仙は嬉しがるだろうと思った助左衛門は、奉行所からの帰りに、彼女にこのことを教えようとしますが、お仙は水ではなくて血だと、意外なことを口にします。彼女の場合、助左衛門のように日本と呂宋を行き来しているわけでもなく、あの舟で長い間生活をし、しかも善住坊や五右衛門の処刑を目の当たりにしているだけに、彼らの恨みが我がことのように感じられるのでしょう。オリキャラの中では、独自の存在感を持った人物です。

そして三成の兄正澄が登場します。とはいえ、この回では三成の身代わりというか、客人ゆえ、三成のことは何も知らぬと言う役どころではありますが。

ところでこの中で、徳川か豊臣かといったセリフが出て来ます。ただこの時点では、家康も三成も豊臣の家臣であり、ただ家康がを持ち始めており、三成がそれを警戒していたと考えるべきかと思われます。徳川と豊臣が対立するのは、大坂の陣であると言うべきでしょう。

そして次の放送ですが、第50回と最終回が2つ続けて放送される予定です。


飲み物-ブランデー2
[ 2022/03/21 01:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』「暗黒航路」

第48回「暗黒航路」です。呂宋追放となっていた助左衛門ですが、赦免状が届きます。


助左衛門たちは原田喜右衛門の船に近寄って行った。船からツルの仲間たちの歌が聞こえていた。彼らは無防備な原田船の乗組員たちを殺め、さらに牢番をやっつけ、牢を開放して仲間たちを逃がす。身の危険を察した喜右衛門は、姿をくらませていた。やがて喜右衛門が舳先にいるのを見た助左衛門は、人買いを止めたら命を助けると言うが、喜右衛門は、ダンテという南蛮の歌人を知っておるかと訊く。その作品の訳を喜右衛門は手がけていたのである。

仲間の1人がツルに、兄が殺されたことを伝える。助左衛門は尚も降りるように言うが、喜右衛門は意に介せず、文章の一部を読み上げる。
「ここを過ぎて かなしみの都。
ここを過ぎて、涙の都。
さばかりも つれなき海をあとにして
かくてかの 第二の国を歌わまし。
人の霊 そこに清まり
天高く 登るにも ふさわしき者とこそなれ」
ツルはタガログ語で「撃て!」と言い、何丁もの銃が喜右衛門めがけて火を噴いた。銃弾を受けた喜右衛門は、
「さらばじゃ、助左衛門」
と言いながら、海中に身を躍らせる。

同じ慶長5年8月18日、秀吉は薨去し、遺体は奉行衆によって伏見城から京の阿弥陀ヶ峰に移され、大仏殿に安置される。浅野長政は、徳川家康にはこのことを伝えるべきと石田三成に言うが、死を秘するのは秀吉の遺命であり、今なお朝鮮半島に兵がいる以上、ことを公にするわけには行かなかった。そして堺の伴天連墓地では、美緒が高山右近に書状を見せていた。秀吉の死後に三成が発行した、助左衛門之の赦免状だった。右近は呂宋に向かう船に乗り込む修道士に、これを託するように命じる。イスパニアの検閲があっても怪しまれずに済むからである。

一方で三成は、朝鮮帰りの加藤清正、細川忠興らとうまく行っておらず、内輪もめが続いていた。これを煽る人物が現れないか、右近は懸念していた。そして右近は三成が、赦免状を出すことで助左衛門に力になってほしいのではないかと口にする。例として右近が挙げたのは、秀頼の国外への逃亡だった。美緒は不思議に思うが、右近は徳川家康を警戒していた。

そして呂宋のディラオでは、今井の船がやってくるが、合図を送っても何の反応もない。皆腐った水で体調を崩していたのである。そしてツルは船中に入り込み、瀕死の修道士のイルマン作次から赦免状を受け取る。ツルは水にあたった水夫たちの手当てを甲斐甲斐しく行い、小太郎はそのようなツルに好意を抱く。そして助左衛門にツルを嫁にしたいと言い、船長からツルの気持ちを聞いてくれと頼む。2000里も離れていては宗薫や美緒の許可を得られるはずもなく、助左衛門の許可を小太郎はまず得たがっていた。そしてツルは、修道士の作次から預かった書状をそのままにしていた。

助左衛門と食事をするツルは、病人が助かるよう、そして亡くなった者が天国へ行けるように祈ったことを話す。そして助左衛門に日本へ戻らないのかと尋ね、ご赦免にでもならない限り呂宋で暮らすと聞いて嬉しそうにする。ツルという名は日本人である母親が付けたのかと訊き、その後鶴というのは鳥の名であることを助左衛門はツルに教える。鶴という鳥を見てみたいというツルに、助左衛門は日本に行けば見られると言う。

ツルは、助左衛門になぜ女房がいないのか尋ねる。助左衛門は、嫁にしようとしていた女が死んだと答える。さらにツルは美緒のことを尋ねる。ツルは作次から赦免状を受け取った際に、美緒の名を耳にしていたが、なぜ知っているのかと訊かれ、曖昧にごまかす。そしてツルはついに、自分を嫁にしてくれと言う。

大坂城では秀頼が新しい主となり、母の淀君は北政所に挨拶しようとするが、家康は向こうから来るのが礼儀と言う。その北政所は秀吉の座所に向かい合って座り、亡き夫があたかも生きてそこにいるかのように昔の思い出を語りかける。そして、豊臣は一代でいいと言い切った後、京へと向かうのだった。

雪が降る夜、石田三成は小西行長と会っていた。堺の南蛮墓地で会った人物の伝言を持って来たと言う。その人物とは細川忠興夫人、たまだった。明日三成の輿を襲う企てがあるため、大坂城登城を控えるようにとそれだけ言って、彼女は去って行った。彼女は昔助けられた恩を感じていたのである。首謀者は加藤や細川であることに間違いはなかった。そしてもしこれが夫に知れようものなら、彼女は手討ちだった。実は三成もその日は、朝からたまのことを思っていた。雪が、かつて味戸野に出向いたことを思い浮かべさせたのである。そしてたまも、この雪を眺めていた。

再び呂宋。小太郎は思いを打ち明けようとツルの家に行く。しかしツルは小太郎が家に入って来たのに驚き、その場にあるものを手当たり次第に投げつけた、そのうち壺が割れ、中に入れておいた赦免状を見られてしまう。この赦免状を見た助左衛門や弥次郎は日本に帰る決意をするが、ツルは泣いていた。そこで助左衛門は折り鶴をツルに渡し、ツルは美しいだけでなく誇り高い、フィリピン人であるお前はさらなる高みへ飛び立てと諭す。

小太郎は今後どうすべきか迷い、忠告を助左衛門に仰ごうとするが、自分で考えろと言われてしまう。この年ユリウス暦の9月18日、イスパニアとポルトガルの君主フェリーペ2世が崩御し、その5日後の旧暦8月18日に秀吉が薨去した。そして時代は暗黒の鎖国時代を前に、近世日本の黄金時代も終わりが近づいており、その分裂と構想の中へ、助左衛門の船は旅立って行った。


フィリピン人たちに攻め込まれ、追いつめられた原田喜右衛門が自ら命を絶ちます。秀吉に続いて、助左衛門の前に立ちはだかっていた人物が、また去って行きました。ところで喜右衛門が話していたダンテの作品、もちろん『神曲』ですが、どうもこの作品に『天路歴程』がダブってしまいます。無論『天路歴程』はプロテスタント諸派、もっといえばピューリタン的な物ですが。そしてこの後来るべき17世紀は、実はピューリタンの世紀でもあります。

さて今井の船の水夫、そして修道士までもが水にあたっていた件、今井の船は何度も呂宋に向かっていたはずのになぜでしょうね。ともあれこれで、ツルが赦免状を手に入れ、しかも修道士がいまわの際に、どのような書状であるかを話したため、これを渡してはならないと隠し持っていたわけですが、小太郎が家に入り込んで来た時に、このことがばれてしまいます。しかし小太郎、あれはちょっとないかと思うのですが…やり方がど直球過ぎないでしょうか。

そして南蛮墓地の件。こちらは細川忠興の妻たまが、昔の恩もあって小西行長を呼び出し、三成に登城するなと伝えます。しかしどうも、うまく行き過ぎな気もします。恐らく例の、武断派の大名たちによる三成襲撃を踏まえたものでしょうが、これも今は、三成が伏見城に籠って睨み合っていたことになっています。そう言えばこの睨み合いは、前田利家の死後に行われていますが、この大河は前田利家が亡くなるシーンは登場しませんでしたね。

たまと並んで久々に北政所(この大河ではねね)の登場です。秀吉亡き後、豊臣家は一代でいいと言い残し、京へ去って行くこの北政所ですが、どうもこのセリフ、淀君(淀殿)に向けられているように思います。

ところで高山右近が、秀頼を呂宋に逃がすといったことを言っていますが、この時点でそこまで切羽詰まった状況だったのでしょうか。この人も前田家の庇護を受けていたため、あるいは何らかの情報をもたらされていたのでしょうか-ただ、この大河の中でこれに関して詳しい描写はありません。確かに、家康の力が大きくなっていたのは事実ですし、三成と家康も反目し合ってはいましたが。

そして最後の、
「暗黒の鎖国時代」
鎖国に関しても最近はかなり見方が変わって来ていますが、今から44年前のこの大河制作時は、まだこの見方が主流だったのでしょう。


飲み物-黄金色のビール
[ 2022/03/14 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』「助左衛門追放」

第47回「助左衛門追放」です。


助左衛門は奉行所へと連行されるが、そこで石田三成から菓子を振舞われる。その日は嘉祥の日(6月16日)であり、秀吉の側近たちが伏見城に上がって、菓子を拝領していた。秀吉は、助左衛門に食べさせよと手づかみでその菓子を三成に渡したが、助左衛門は過去の秀吉との諍いと極刑の宣告、そして三成により難を逃れたことを思い出し、死んだ者が菓子を食えぬと助左衛門は言う。しかし三成は秀吉に事実を打ち明けており、しかも秀吉は助左衛門に会いたがっていた。

秀吉は助左衛門と和解をしたがっているらしいが、助左衛門は乗り気ではなかった。五右衛門の遺恨かと三成は問うが、助左衛門は、堺の自治と自由な交易のために、多くの堺衆が命を捨てていたため、今後秀吉が堺を自由にしない限り、伏見城行きは無理だった。すると三成は立ち上がって障子を閉め、助左衛門にあることを話す。それは来年の春には朱印船と海賊船禁止令は廃止、堺の堀にも水が戻ってくるから、それまではうかつに動くなと三成。実は秀吉の余命はあといくばくもなかった。

秀吉は家臣の前で涙を流し、子の秀吉が15になるまで生きていたい、諸大名を謁見する姿を見たいと言っていた。三成は言う。
「天が殿下を裁く。余人の手出しは無用だ」
そして秀吉も死期は悟っており、懐かしさから会いたいのであろう、お前も恨みは色々あるだろうが、最早長くはないお人だ、恩讐を越えて暇乞いをする気持ちにはなれぬかと、三成は助左衛門に語りかける。不思議なことに助左衛門は、久々に秀吉に懐かしさを覚えていた。

助左衛門は懐紙を取り出し、菓子をそれにしまうと涙を浮かべ、伏見行きを決めた。城内の寝所の襖が開き、秀吉が半身を起こして座っていた。侍女が布団の間に卓を差し入れ、秀吉は小刻みに震える手で筆を取り、紙に何やらしたためていた。やがて印を押し、助左衛門に渡したその紙には、このようなことが書かれていた。
「追放 命ず 太閤」
三成は驚きの表情を見せる。慶長3(1598)年7月、助左衛門は公儀への不届きな行為により、家財没収のうえ追放されたのである。

助左衛門は奉行船に乗せられた。しかしその後船上に出され、望遠鏡を渡される。彼が見たその先にあったのは、今井の船団だった。三成の計らいで、助左衛門の家財道具を積み荷にして、今井の船に積み込んでいたのである。船には小太郎と弥次郎が乗っていた。美緒は三成に礼を述べ、家財があって配流先が呂宋であれば、路頭に迷うことはないと美緒は言う。三成は、これが両者に取って永遠の別れとなるかも知れぬと口にするが、美緒は、堺を守る志は一つである、堺で生まれ育った男女の結びつきは決して消えぬと自分に言い聞かせて来ていた。

その頃伏見城に於いて、五大老と五奉行の制度が制定される。秀頼の将来を案じてのものであった。そして五大老の1人となった徳川家康は、堺の今井宗薫の許を訪れる。堺の鉄砲と弾薬は、今井がすべて抑えていた。家康は宗薫に、いずれ江戸に移って来ぬかともちかける。当初は潮入りの葦原ばかりの土地であった江戸も、町としての体裁を整えつつあり、田畑も増え、あとは人を増やしたいというのが家康の思いだった。宗薫は家康に、江戸へ人を送るには、大坂を潰してしまうようにと提案する。家康もしばらくは伏見に留まり、堺のことは宗薫に任せ、「急ぐまいぞ」と警告する。

秀吉は病床で涙を浮かべ、鼻水をたらしながら、くどいほどに秀頼の将来を案じ、書状を作っていた。最早それは、五大老五奉行への哀願とでも言うべきものだった。秀吉に死が訪れるのは、その13日後の8月18日だった。その8月18日、呂宋では助左衛門が、かつて日本人町があったマニラ郊外のディラオに滞在し、小太郎に、日本人を呼び戻したいと話していた。助左衛門は、呂宋版の堺を作りたかったのである。そして、美緒と高山右近が仕立てた船で、日本を脱出したキリシタンたちも加え、昔の堺のような活気のある町の建設を夢見ていた。

遥明台を作ってお仙を呼ぼうと助左衛門。小太郎は母美緒も呼びたいと言うが、助左衛門は、美緒は、キリシタンの逃亡船を送り出すために、堺に残るだろうと思っていた。その時原田喜右衛門の船がマニラに入港しているという情報が入る。喜右衛門は、助左衛門の首に銀5貫を懸けており、さらに助左衛門の船に盗賊が襲い掛かってくる。そのうちの1人が船内に入り込み、小太郎が取り押さえるが、その相手は女だった。日本語がわかるようで、自分はフィリピン人だと言う。喜右衛門の手の者ではなく、逆に喜右衛門に奴隷にされた仲間を救いに、鉄砲を盗みに入ったのだった。

助左衛門は、原田がまだ人買いをやっているのに驚く。その女の兄も原田船に売られたのだった。その喜右衛門は、逃亡したあるタガログ人を弄ぶように、銃で狙いを定めていた。そのタガログ人の男は「ツル」と叫ぶ。妹の名だと言うが、その男はどう見てもタガログ人だった。喜右衛門は日本人かタガログ人かと問うが、その男はフィリピン人だと答える。日本人だと答えれば助けてやると喜右衛門は言うが、その男は頑なにフィリピン人を主張する。

業を煮やした喜右衛門はその男を殺し、フィリピン人などという得体のしれない者を生かしておけるかと不敵に笑う。そして助左衛門の船では、ツルという例の女が素性を打ち明けていた。タガログ人の父と日本人の母を持つ彼女は、自分たちはフィリピン人だと名乗っていた。今までのどの国の人間とも異なる、新しい人々だった。助左衛門も、これから原田船を襲い、フィリピン人を救出すると言って立ち上がり、小舟で喜右衛門の船へ向かう。

同じ夜、伏見城では秀吉が喀血し、宿直の者を呼ぼうとするも鈴に手が届かず、布団を血に染めながら立ち上がり、何かを掴もうとするようにしてこときれた。辞世の句は
「つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」
である。


桔梗の思いを抱いて日本に戻って来た助左衛門ですが、帰国した彼に突き付けられたのは追放命令でした。元々は奉行所に連行されたものの、そこで三成から菓子を振舞われ、秀吉に会わないかと言われたのが発端です。助左衛門は目通りを渋りますが、秀吉は最早長くないと三成から聞かされ、助左衛門もわだかまりが解けたようで、伏見城に伺候することになります。しかしそこで目にしたのが、病で弱った秀吉が、何とか筆を握ってひらがなでしたためた「追放命令」でした。これには三成も唖然とします。

秀吉の人たらしは、この期に及んでも変わらなかったようです。ともあれ助左衛門は、家財を没収され、奉行船で配流先の呂宋に向かいます。しかしこれは表向きで、実は三成が密かに手を回し、今井の船団に彼の荷物を積み込んで、呂宋に送る手筈を整えていました。これは美緒の思いも託されていましたが、しかしここまでうまく行くものでしょうか…ともあれこの大河では三成が、助左衛門の協力者でもあるわけですから、それもまた可能というわけですが。

しかし呂宋に着いたら着いたで、助左衛門は思いがけないことに出くわします。原田喜右衛門の船がマニラにいて、しかも銀とタガログ人奴隷を交換していたのです。そのため仲間を救おうと、フィリピン人を名乗る者たちが船に入り込み、鉄砲を盗んで喜右衛門と戦おうとします。元々ここに、かつての堺のような町を作り、日本を脱出したキリシタンたちも呼ぼうと考えていた助左衛門は、フィリピン人という言葉の響きに、今後自分がなすべきことを見出したようです。無論助左衛門も小太郎も、喜右衛門と戦うのにやぶさかではありませんでした。

ところで今回、2つの別れが出て来ます。1つは三成のセリフに登場する、助左衛門と美緒の永遠の別れです。しかし美緒は既に覚悟を決めていたようです。無論小太郎が母を呂宋に呼びたいと言った時も、助左衛門は美緒が呂宋に来ることはあく、堺に残るだろうと思っていたわけですが。そして彼女の夫の宗薫ですが、こちらは江戸行きを勧められています。

もう1つはツルの、兄ともう会えないというセリフです。助左衛門と美緒に比べると、こちらの方はより切羽詰まっています。そして残念ながら、ツルが生きている兄と再び会うことはありませんでした。ところでこのツルを演じている安奈淳さん、この年(1978年)宝塚を退団しています。

そして、2つの町作りが登場します。1つはもちろん助左衛門の、呂宋版堺ですが、もう1つは家康の江戸です。この江戸建設に関しては、来年の『どうする家康』でも描かれることになるのでしょう。ちなみにこちらの大河の脚本は、現在第7話まで準備稿が仕上がっている由。
(2023年 大河ドラマ「どうする家康」)
閑話休題。宗薫は堺の鉄砲をすべて押さえており、しかも自分の信頼が置ける存在であることから、家康も声をかけたと見えます。しかし、久々の家康登場回でした。


飲み物-アイリッシュコーヒー
[ 2022/03/08 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』「五右衛門刑死」

第46回「五右衛門刑死」です。助左衛門の周囲から、次々と親しい人たちが去って行きます。


助左衛門の船は肥前に到着した。そこで彼は五右衛門に、太閤秀吉が再び朝鮮への出兵の総指揮を執るため。九州に下向すること、その御座船を襲う予定であることを伝える。陸上では対抗すべくもないが、海上でなら勝負できると助左衛門は言うが、五右衛門は呆れたように、もう少し利口なやり方はないのかと返す。しかし助左衛門は自分たちは海賊であり、この船団を作るもととなった呂宋壺と千利休のためにも、そして桔梗のためにも戦うと断言する。

慶長2(1597)年6月、船は堺に戻って来た。助左衛門は桔梗の遺髪を、美緒と小太郎に渡す。美緒は桔梗を行かせたことを悔いるが、小太郎は行かせなければ処刑されていた、呂宋で死ねたのはせめてもの幸せと美緒を諭す。美緒も同意し、桔梗になりかわって礼を述べる。

その頃お仙の舟を五右衛門が、土産を持って訪れていた。お仙は夢枕に善住坊が立ったこと、そして堺の乾いた堀に、助左衛門や五右衛門なら水を流して元通りにしてくれる、彼らは堺を見捨てはしないと善住坊に話していた。そんなお仙に五右衛門は、来年の春には水が戻る、そうすれば病も治ると言う。

その年の7月2日、秀吉の御座船が出航し、助左衛門たちは赤間関(関門海峡)の沖で舟を迎え撃つことにした。しかし秀吉は伏見城で病に倒れ、この地に来ることはなかった。しかも増田長盛が、このことを石田三成に伝える。三成は助左衛門に監視をつけることにした。長盛は、朱印船目当ての海賊行為を苦々しく思っており、秀吉も病に伏せてからは気が短くなったため、早い内に手を回そうとしていたのである。

五右衛門が助左衛門のもとを訪れる。かつて日比屋の家だったこの建物は、最早鐘が鳴ることもなく、また五右衛門に取っては、モニカの亡霊を思い出させる因縁深い鐘だった。禁令が出てからは現れなくなったが、その禁令もまもなく解けると助左衛門。監視付きではあったが、彼は秀吉とまだ戦うつもりでいた。無論企みのすべてが漏れているのは明らかだった。

しかし五右衛門の手下は堺を出て、元の山賊に戻りたがっていた。秀吉との戦をやめればみんな残るという五右衛門に、助左衛門は唖然とする。お前に付き合うのも限度があると五右衛門は言う。

別れの杯をと五右衛門は言うが、助左衛門はその気になれなかった。さらにその後助左衛門は、フロイスが死んだことを美緒から聞かされる。フロイスは天川(マカオ)に渡ったがその後日本に戻り、長崎で密かに布教をしていた。助左衛門はかつてフロイスから、何も恐れるなといわれたことを思い出す。そして7月末。マニラから、サン・フェリーペ号の特派使節が、積み荷の返還と、処刑された修道士たちの遺体の引き渡しを求めて、堺にやって来た。彼らは秀吉に拝謁するため伏見城へ入る。その頃やはり伏見城を狙っている男たちがいた。五右衛門とその手下だった。

彼らは伏見城へ忍び込み、寝所で秀吉を殺すのは1人でいいとした。五右衛門は言った。
「百足、竜門、梅鬼、蛇千代。地獄で会おうぜ」
手下たちが次々と斬られ、ある者は自爆する中、五右衛門は秀吉の寝所に近づくが、その時天井から降って来た網にかかり、取り押さえられる。手を伸ばせば届きそうな虎の絵の襖が、彼に取っては果てしなく遠かった。秀吉もこの音で目を覚ますが、長盛はねずみでございますと答え、秀吉もそれ以上は追求せず、再び眠りについた。

助左衛門は水夫の弥次郎からこのことを知らされる。忍び込んだ4人は討ち取られ、五右衛門だけが生け捕りにされていた。弥次郎は助左衛門に、堺から逃げるように促す。五右衛門と親交があったと知れたら、大変なことになりかねなかった。しかし助左衛門は堺にとどまることにする。

一方捕らえられた五右衛門は今までの経歴を話すが、堺も船も関係ない、自分は泳ぎができないからと述べ、助左衛門を庇った。その助左衛門は旅姿のお仙に会う。七城河原での釜煎りの刑を見届けてくるのだった。助左衛門は自分は行けぬ、代わりに見届けて来て、できたらこれを飲ませてくれと、南蛮酒の入った竹筒を渡す。

三成は部下から、助左衛門に関する報告を受けていたが、五右衛門は助左衛門の配下であるとの内通があり、捕縛すべきと忠告される。しかし三成は、あの男はどこへも逃げぬと語気を強める。刑場で五右衛門は落馬し、刑吏が起こそうとするところへお仙が現れ、末期の水だと言って南蛮酒を飲ませる。堀の水はあいつが戻すと言う五右衛門だが、刑吏たちに引っ立てられ、はよろめきながら釜の方へと進む。その頃助左衛門も南蛮酒を飲みほし、そのグラスを投げつける。

投げつけた先の扉は鐘つき堂へ通じていたが、今には丸太が十字に打ちつけられていた。助左衛門は、それを力を込めて取り外し、思い切り鐘をつく。美緒も三成もその音を聞いていた。ご禁制であるという部下に、構うなと三成。三成は、助左衛門が身の危険を承知で鐘を、恐らくは五右衛門に聞かせようとして鳴らしているのを知っていた。五右衛門はなおもよろめきつつ釜へ入ろうとするが、その時鐘らしきものを耳にし、モニカが迎えに来てくれたとつぶやいた後、釜に身を投じる。


実質五右衛門が主人公というべき回でした。しかし最初の、秀吉の御座船を襲うというのはいささか無謀な気もします。助左衛門にしてみれば、これで桔梗の仇を討つことができたら、それでよかったのかも知れませんが、堺の美緒や小太郎はさらに落胆したのではないでしょうか。尚赤間関、関門海峡の沖合といえば、映画『海賊と呼ばれた男』で、毎日のように門司から海峡を渡るシーンを思い出します。あれもまた違った意味で「海賊」でした。

五右衛門が助左衛門を訪れるところ、ここでの「別れの杯」というのは、五右衛門が伏見城へ忍び込むのを覚悟していたということなのですが、助左衛門はなぜかそれがわからず、堺を出て行くものだと思い込んでいたようです。最後のシーンで鐘をついたのは、その気持ちを察することができなかった罪滅ぼしでもあるのでしょうか。また三成は監視をつけたこともあり、助左衛門が、仮に五右衛門と親しかったことで嫌疑をかけられようとも、逃げないことはわかっていたようです。

そしてお仙。善住坊の時もそうでしたが、またしても助左衛門の仲間の刑死に立ち会うことになります。そして『鎌倉殿の13人』のみならず、ここでも夢枕です。堺の堀に水を戻すというのも何やら暗示的ですが、これも秀吉を殺めることを示唆していたと取れます。それにしても彼女は病気だったはずですが、京へ行けるほど元気になっていたのは、五右衛門のこの言葉のおかげもあったのでしょうか。

その五右衛門、「盗跖長範に勝り」という言葉ですが、盗跖も長範も大泥棒として有名な人物です。その2人をはるかに超えたということでしょう。またその前に「勢田の橋に出でて水を飲み」とありますが、この勢田の(唐)橋は交通の要所で、伝説も多く、またこの地での戦もまた多く伝えられています。しかし根津さんといえば、『太平記』の新田義貞も懐かしいです。

しかしこの大河の特に後半、助左衛門と秀吉が対峙することが多くなっていますが、私としては同じ秀吉に憎しみ、あるいは不満を持つにしても、こういう内に秘めた描き方の方が好きですね。無論今まで様々な形で対立し、仲間も失ってしまった、それ故のやるせなさがこういう形で描写されているとは思いますが。

飲み物-アイリッシュコーヒー2
[ 2022/03/01 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『黄金の日日』の創作と疑問点8

まず、俳優の西郷輝彦さんが亡くなられました。ご冥福をお祈りします。大河ドラマや時代劇にも出演していた方ですが、私としては、『ノーサイド・ゲーム』のトキワ自動車の社長の印象が強いです。

そして『黄金の日日』について、今少し。
大河史上、商人または農民を主人公にした大河は、恐らくこの『黄金の日日』と『青天を衝け』のみでしょう。しかし『青天を衝け』の場合は、一時的にとはいえ主人公は慶喜の家臣となり、終生その恩を忘れないという、武士としての側面があります。また明治維新後は武家政権もなくなり、官僚から実業家に転身することになります。

その点、この助左衛門はあくまでも商人であり、武士になって秀吉や家康に仕えたわけではありません。この部分に両者の違いがあります。武士が支配する時代は、当然政に参加するのは武士になります。しかしこの大河の場合、主人公が武士でないため、政治がどのように動いているのか、その情報を手に入れることができません。当然ですがネットもTVもない時代です。当然誰かから情報を仕入れることになります。

特に堺衆出身で武士となった小西行長とか石田三成、美緒、あるいは五右衛門などからもたらされるわけです。これは他の大河でも似たようなものではありますが、助左衛門の都合に合わせて情報がもたらされるようなシーンもあり、しかも主人公は施政者側でないわけで、ちょっと都合がよくないかとも思われます。

結局それやこれやで助左衛門が、秀吉の決断(それが如何なるものであれ)に口を挟むことになります。
とどのつまり、
助左衛門とその仲間(美緒や桔梗を含む)VS権力者秀吉
という構図になってしまい。大河の後半部分は特に、助左衛門の側が正義で、秀吉が邪悪という描き方になりやすいわけですが、秀吉の立場ももう少し描かれていいかと思います。

特に秀吉が常軌を逸したようになるのは、近年の戦国大河でもしばしば描かれているように、淀殿との間に子供が生まれたことも関係していると思われますが、そういう描写があまり出て来ません。確かにブラックな秀吉を描いたところは評価できます。尤も黒さでは、『軍師官兵衛』の秀吉の方が際立っていたかも知れません。また朝鮮まで行って工作をするのは、あらすじ関連でも書きましたが、やりすぎな気がします。

この大河の後は、商人を主人公とした大河は登場していません。やはり創作オリキャラが多くなり、難しいのでしょう。『青天を衝け』も前出のように、主人公は人生のある時期を武士として過ごしています。この大河は、当時の市川染五郎さん、今の松本白鷗さんの存在感と演技力もあって魅力的ですが、やはり武士が主人公の方が収まりはよさそうです。あと助左衛門が、何かある度に呂宋に行くのも、それなりに理由はあるのですが、何度も続くとちょっと飽きて来ます。

飲み物-暖炉の前のウイスキー
[ 2022/02/22 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
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『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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