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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『光る君へ』第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

季節外れの暖かさが続きますね。では、第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


藤原忯子の亡骸に抱きつき、その死を悼む花山天皇。
あまりに儚い愛でした。

ナレーションに
「死は汚れと考えられていたこの時代、天皇はじめ貴族たちが遺体に近づくことは許されなかった」
とありますし、ドラマ本編でも、花山天皇が忯子のもとへ行こうとして止められているのですが、どうやって
「亡骸に抱きつく」
ことができたのでしょうか。

愛がなければ女の人生は意味がないのか?
そんなことはない、書くこと、創造がある!
そう突きつけてくるようなドラマです。
忯子は愛を得たけれど、それだけだったとも言える。生きて書くことのできるまひろとは違います。

それぞれの立場が違いすぎます。
忯子の場合は、入内して帝の寵愛を得、皇子を産むことが人生と言えました。
(後で兄の斉信が、そのことを後悔していましたが)
まひろの場合は入内できるような身分ではなく、この時代のことだから選択肢は限られているにせよ、まだ忯子よりも自由はあったでしょう。

金目のものや食糧ではなく、なぜ衣服なのか?と思われるかもしれません。
当時の盗賊はそれが定番。服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録も残されています。
屋内ならばまだしも、屋外で脱がされると季節によっては凍死の危険性すらあった。小判を盗む鼠小僧より、ずっと原始的な時代なのです。

まずこの当時、鼠小僧の江戸時代とは違って貨幣経済がまだ未熟な段階です。
(だからこそ花山天皇が貨幣を使わせようとしたとも言えます)
一般の人々に取っては、まず現物、それも着るものや食べ物こそが大事でした。

そして
「服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録」
具体的にどういう記録でしょうか。
それと「服」より「衣」とか「着物」の方がいいかと。今までもそうですが、武者さん身に着ける物は何でも「服」ですね。

この殺傷に対する精神的葛藤があればこそ、道長もいろいろ悩んでいます。心が繊細に描かれたドラマです。

別にこれに限らず、武者さんが嫌いな大河(『どうする家康』『青天を衝け』他)でも登場人物の思いは細かく描かれていましたが、嫌いな作品だとやはり無視するようですね。家康が悩んでいても、絶対こうは書きませんでしたから。

同じ日本でも、かつての蝦夷地こと北海道のみ【トリカブト毒文化圏】に含まれます。
アイヌのトリカブト毒矢は興味深く、もしもご興味のある方は映画『ゴールデンカムイ』をご覧ください。

毒矢はともかく、トリカブトは今昔物語にも登場しているはずですし、狂言の『附子』にも採り入れられていることを思うと、何らかの形でその毒性は伝わっていたと思われます。

「長い言い訳じゃのう」
怯えを隠す兼家に対し、いずれお分かりになると、不穏な表情の晴明。私を侮れば右大臣一族とて危ういとまで言い切りました。
安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです。

まずこの時の兼家ですが、さほどに怯えているようにも見えません。ただ、こいつとは話をしたくないなといった表情ではあります。そして
「安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです」
ではなく、政を行う人物の命運も自分次第だと、脅しをかけているように見えます。

何もかも見通すような晴明に、兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です。
そこへ藤原道長が帰ってきました。兼家はホッとしたようにいたわり、盗賊と渡り合ったことを褒めます。
「されど人を殺めるなよ」
道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家。

「兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です」
ちょっと意味がわからないのですが…。
「もったいぶりつつも戸惑う兼家です」
とでも書きたかったのでしょうか。

「道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家」
これもちょっとわかりづらいのですが。
「『人の命を操り奪うのは、卑しき者の仕業である』
晴明に当てつけるかのように、道長に念を押す兼家」
とでも書いた方がわかりやすいかと。

この晴明はおもしろい。
妖怪と戦うというよりも、心理戦の達人、揺さぶりの名人です。
晴明からすれば、妊婦が亡くなるくらい想定内といえるかもしれない。どんな呪詛をしたのかわかるのは晴明だけですから。
けれども兼家は怯えている。その怯えに漬け込み、裏の裏をかき、操ることは確かに楽しい。
相手は祟りが怖いから手出しもできない。そりゃあ楽しいでしょうね。

先ほども書いていますが、兼家はそこまで怯えているようにも見えず、しかも晴明がそこまで揺さぶりをかけているようには見えません。ただ、貴方がたのことも私次第だと詰めよっているようには見えますが。

そしてこの後の晴明の
「お父上とのこういうやり取りが楽しくてならない」
プレッシャーをプラスに転じて楽しむという意味に取った場合、昨年の真田昌幸の
「乱世を泳ぐは愉快なものよ」
を思わせます。

寧子は大丈夫と言いながら、合間に息子である藤原道綱のことを挟みます。
怖い夢と道綱に何の関係があるのか?と兼家がキョトンとしていると、飄々と答える。
「よいではございませぬか、殿のお子ですよ、道綱も」
はい、何の関係もありませんねー。うろたえている相手につけ込み、我が子を頼み込んでいるだけです。

この場合の道綱ですが、後の寛和の変(兼家の一族が花山天皇を出家させ、懐仁親王を即位させた政変)で、かなり重要な役割を果たしています。あるいは、それの伏線的な意味もあるのでしょうか。

狐が人間に化ける説話は中国にもあり、それが日本に伝わったと考えられます。あまりに不可思議な存在ゆえに、そんな伝説が生まれたのでしょう。
ちなみに「化け狸」伝説は日本特有です。
ややこしいことに「狸」は中国では猫の古い呼び方で、タヌキは「狢」と書きます。

中国大陸と言えば、九尾の狐なども有名ですね。また妖狐(化け狐)の話などもありますので、それが伝わって後に文学となったと考えられます。御伽草子の『木幡狐』なども、それに区分されるでしょう。

ところで以前、『麒麟がくる』第3回の感想で私はこう書いています。


先日『麒麟がくる』第3回のあらすじ関連で、人間の男とキツネの娘が結婚する話が登場しています。所謂異類婚姻譚ですが、『今昔物語集』にも似たような話があり、また『御伽草子』にも「木幡狐」という、キツネの姫が人間と結婚する物語があります。この話の舞台が美濃であるのなら、恐らくは『日本霊異記』に出て来る物と考えられます。ここで人間の男がキツネの娘に「来つ寝」と言ったことが、キツネの語源になったともいわれています。

武者さんが好きな『麒麟がくる』です。これについて触れてほしかったですね。そして今回も狐絡みで月岡芳年の絵が登場です。

あとこれは変換ミスでしょうが、

義懐は、仕事はできても、人身掌握が苦手なようです。そういう意味では為時もそうでしょう。

そうした状況と比較すると、義懐はどうしても人身掌握が拙い。

「人身」でなく「人心」と思われます。
これは報酬付きのコラムなのですから、誰か校正する人はいないのでしょうか。

ロバート秋山さん演じる藤原実資が登場します。
先週、見かけなかっただけで実資ロスに陥ったので、うれしい限り。

武者さんいつも「ロバート秋山さん」と書いていますが、クレジット通り「秋山竜次」さんと書いた方がいいのでは?

あと実資ロスだそうで。以前『鎌倉殿の13人』で、権三ロスになったと武者さんは書いていました。この権三とは亀御前の夫のことで、密会中の頼朝に盾突いたことから殺されてしまうのですが、この人物は1回きりの登場で、しかもせいぜい数分間、「ロス」になるほど多く出て来てはいなかったのですが。

しかしこの桐子、中島亜梨沙さんが演じる美人妻なれど、そこまで癒されないのは受け止めないからではないでしょうか。

癒しキャラではないと思います。しかし武者さんは、こういうタイプが好きなのではと思っていただけに意外でした。

今年の大河ドラマはオンオフの切り替えを意識しているとか。くつろいでいる時はそのリラックス感を出したいそうです。
道隆の井浦新さんのリラックス感は常に最高です。少し崩れた感が艶かしいほど。

今年に限らず、登場人物のオンオフは描かれていると思います。ただその人物がどういう立ち位置で、どのような時代を生きたかも、関係してくるとは思われますが。

「玉山(ぎょくざん)崩る」という言葉があります。
『世説新語』由来で、イケメンで有名だった嵆康(けいこう)が酔ってグラグラしていると、まるで貴石の山が崩れてくるような美しさがあったという言葉です。

「貴石」ではなくて珠玉ではないでしょうか。貴石というのは一般にダイヤモンド、ルビー、サファイアそしてエメラルドのことを指すようです。

しかし好きな大河のイケメンキャラは褒め、嫌いな大河のイケメンキャラは
「イケメンを出せばいいというものではない」
と叩くのが武者さんなのですね。

F4たちが投壺(とうこ)をしています。
壺に矢を投げる中国由来のゲームで、韓国でも人気があり「トゥホ」ゲームセットが輸入販売されているほど。

「韓国でも人気」云々の前に、日本にいつ伝わったかをまず書いてください。
正倉院に収められているほどですから、奈良時代には入って来ていたでしょう。そして江戸時代にも盛んになってはいます、これは先日あらすじと感想で書いていますが。尚投扇興はこれがモデルとのこと、こちらの方が日本的かなとは思いますが。

もちろん当時の朝鮮半島にもありましたし、発祥国である中華帝国では、『春秋左氏伝』にもその記録があります。

しけた話ばかりしていても妹が浮かばれぬから、気晴らしに打鞠(だきゅう)でもやるか!と斉信が言い出すのでした。

打鞠とありますが、打毬のことでしょうか。
ちなみに後の方では打毬となっています。

そしてこの打毬関連ですが、あまり詳しい説明がなされていません。公式サイトとか、

をしへて! 佐多芳彦さん ~平安貴族が楽しんだ打毬ってどんな競技?
(『光る君へ』公式サイト)

こういう記事にはちゃんと書かれているのだから、参考にしてほしいものです。

藤原道長ら上級貴族が楽しんだ平安のスポーツ。現代に「プロ打毬チーム」がないのはなぜなのか?【光る君へ 満喫リポート】道長打毬編
(serai,jp)

飲み物-マグに注がれたビール
[ 2024/02/21 02:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。結局今年のこのコラムも、最終ページは嫌いな大河叩きの比重が大きくなりましたね。


この文が直秀経由で届けられ、まだ呑気な乙丸に対し、いとは苛立っています。下人からの手紙だと聞くと、いとは聞かなかったことにします。

「まだ呑気な乙丸に対し、いとは苛立っています」の意味がよくわからないのですが。

この時乙丸は手紙をいとに渡して、まひろに届けて貰うという方法を採りませんでした。いとがまひろの乳母でなく、惟規の乳母だと思ったから、自分で直接渡したと言ったわけで、そのためにいとが怒っているのですね。そこをさりげなく「下人からのものからだったので」と取り繕い、いともでは聞かなかったことにすると言ってその場が丸く収まるわけです。で、まひろはいとに気づかれることなく、道長の手紙を読むことができました。

満月の夜、道長が馬で移動していると、その背中に直秀が乗ります。為時の屋敷にまひろはいない。六条に迎えと告げるのでした。

あれは満月の夜ではなく、日が落ちかけた頃でしょう。しかもただ馬の背に乗ったのではなく、まず築地の塀を踏み台のようにして馬の背に飛び乗り、道長を脅すようにして、六条に向かうように言っています。

それと「迎え」は「向かえ」でしょうか。

命を削ってでも成し遂げ、この国の未来は我らが担うとふてぶてしく宣言する兼家です。
この兼家は、正親町天皇に対する織田信長以上に態度が傲慢に思えてきます。一体なんなのか?
それにしても、光の使い方が抜群にうまいドラマですね。

武者さん、嫌いな大河を引き合いに出さないので代わりに書いておきます。
『麒麟がくる』の正親町天皇に対する信長のみならず、

『どうする家康』の足利義昭に対する信長
『平清盛』の後白河法皇に対する清盛

にもいくらか共通したものがあるかと。権威に対する権力者のイメージですね。

そして光の使い方、別にこの大河だけではありません。
武者さんは嫌でしょうが
『どうする家康』のこのシーン、家康が信長を討つことを家臣に打ち明けるわけですが、灯明皿で全体的に暗い雰囲気で、如何にもものものしさを感じさせました。

どうする家康第26回家康の決意
『どうする家康』第26回

花山天皇の寵愛する藤原忯子のことであり、やつれた彼女に呪詛は効きそうだ。
実際に呪ったかどうかはさておき、兼家の悪意がますます際立つ。円融天皇に毒を盛ったことに次ぐ、悪意の増幅があります。
忯子も気の毒としか言いようがありません。
帝に愛されることは、当時の女性にとって最高の幸せであったはず。
それがこうも肉体を痛めつけられ、呪われるとは……。

弘徽殿の女御のことですが、この当時一族をさらなる高みに押し上げるには、このくらいのことはしたでしょう。忯子が帝の寵愛を受けるということは、兼家に警戒心を抱かせることに他ならなかったわけです。もし皇子を産むようなことがあれば、懐仁親王は東宮でなくなる可能性が高く、その意味では是非とも、彼女の出産を阻止しなければなりませんでした。
これを単なる悪意と言えるかどうか。寧ろ怨念のようなものを感じます。

そして道長がまひろの話を聞き、帰宅して兄道兼につかみかかるシーンです。

咄嗟に兄につかみかかり、几帳ごと倒す。烏帽子まで脱げるほどの暴力ですが、殴られた道兼には不可解な思いがありました。
「父に告げたのは道長ではないのか?」
またミステリが増えます。密告したと思っていた道長は違った。道兼の従者は殺された。では目撃者は誰なのか。
兼家はそれに答えず、我が家の不始末を始末せねばならなかったと言います。
道兼はそのうえで、道長が原因だという。器量の小ささを揶揄されて苛立ったから殺したのだ。

「父上に言ったのはお前ではないのか?」ですね。
で道兼ですが、あの時当時の三郎が父に密告したのかと思っていたわけです。でもそうではなかった。そして従者の件ですが、この時の道兼のセリフには出て来ませんね。確かにあの従者も事件を目撃していたため始末されたのですが。

そして「器量の小ささを揶揄されて苛立ったから殺した」では、まるで揶揄した相手(この場合は三郎)を殺したようです。そうではなくて、むしゃくしゃして馬に乗り、しかもまひろが目の前に急に現れたため、バランスを崩して落馬し、さらに従者が余計なことを言ったため、頭に血がのぼり、この際、何の過失もないはずのちやはを殺めたのですね。

「道長にこのような熱い心があると思っていなかった!」
個性豊かな我が子をとことん利用し尽くす、邪悪な父の笑いです。
道綱への言葉でもわかりますが、使えない奴ははなから期待しない。道長に利用価値があえるとみなしたからこそ、笑ったのでしょう。
悪の黒幕はこの男です。

「個性豊かな我が子をとことん利用し尽くす、邪悪な父の笑いです」
何度も書いていますが、兼家もまたこの世界で生き残るための策を弄していると言えます。そしてお前にこういうところがあるのなら、お前も使えそうだなと言っているわけですね。このような家に生まれたからには、その覚悟をしておけというところでしょう。

そして漢籍なのですが(西晋の左思の『詠史八首』のうちの其六です)

貴き者は自ら貴(たっと)ぶと雖(いえ)ども
之(これ)を 視(み)ること埃塵の若(ごと)し
賤しき者は自ら賤しむと 雖(いえ)ども
之(これ)を重んずること千鈞の若(ごと)し
貴族は自分を尊いと思うが、
彼からすれば塵芥としか思えない。
賤しいものは自らを賤しいものとするものの、
彼はそんな人々のことを千鈞の重みを持つものとして大事にした。

富んで身分が高い者は、自分自身を尊いと思ってはいるが、
荊軻にしてみればそのような者は、塵や芥のようなものだ。
また身分の低い者は、自身を卑しいと思っているが、
荊軻にしてみれば、彼らにはとてつもない価値があるため重んじた。

「彼」は荊軻(秦王を暗殺しようとした刺客)のことなのですけどね。

直秀は、荊軻になりたくてなれない、そんな世の中の外にいる壮士の気風も感じさせます。
まひろが彼に「身分なんてどうでもいいと思わないのか?」と問いかけたのは、そんな何かを感じ取ったからかもしれません。
変えたい気持ちがあるけど、そうはできない。そんな世にある空気をまひろが掬いとり、刃ではなく筆で切り付けるとすれば、それは革新的なことに思えます。

この直秀はアウトロー的ではありますが、暗殺者になりたいのかと言えば、それもまた違うような気がします。何度も書くようですが、同じ毎熊さんが昨年演じた大岡弥四郎の方が、寧ろ反骨心という意味ではそれに近い気もします。まあ、こちらは武田に通じてしまっていたわけですが。

そして変えたい気持ち云々ですが、何だか革命幻想といった感じですね。一応『源氏物語』は『伊勢物語』からヒントを得たとは言われています。

そして「誠意ある創作を求める」とあり、

大河ドラマを主に見ている自分としては、ドラマ制作における誠意の問題のように思えます。
(中略)
大河ドラマは過去の歴史を描きます。
ではそんな問題提起を排除していいのかというと、そういうことではないでしょう。

とあります。「そんな問題提起」というのは、その前に武者さんが現代ドラマを引き合いに出し、「ドラマ化することで問題提起し、楽しめるだけでなく、社会を良い方向にできれば素晴らしいことです」と主張していることに端を発しているのですが、とどのつまり、好きな大河をほめて嫌いな大河をけなすことに終始しているようにしか見えません。

特にひどいのがやはりと言うか、昨年あらすじすらろくに書かなかった『どうする家康』。ここを見る限り、昨年のこのコラムと何ら変わるところはありません。例によって某週刊誌の記事のみを基にしたバッシングが延々と続きます。しかも同じような表現が何度も出て来る。

番組制作の裏側が放映され、主演が脚本に意見を述べるシーンが流されるほどで、文春砲を否定するどころか、その内容を補強してしまうような状況もあった。

『もうひとつのどうする家康』ですか?今後の展開についての古沢さんと松本さんの打ち合わせですね。

脚本家も「歴史はフィクション」だと言い切ってしまう。自分の創作センスが大事で、史実はむしろ邪魔だと言いたげなことを語っておりました。

『歴史は勝者の記録』とは言っていましたけどね。あと史実で言うのなら、『光る君へ』でまひろと道長が出会うのも、もちろん史実ではありません。時代考証の倉本氏のコメントです。

「あまりにも史実に反しているストーリーはやめてほしいと考証会議で言っているのですが、受け入れてもらえない場合のほうが多いので、一応言うだけ言ってはおくという立場を取っています。史実がどうだったか分からない部分を創作するのは自由ですが、史実が分かっているにもかかわらず、それに反した描き方をするというのは良くないですからね」
(東大新聞オンライン)

「ドラマとは違い、史実ではふたりの出会いははっきりしません。道長と紫式部の父為時が親しかった可能性はあります。為時からうちの娘は賢いと聞いていたかもしれませんが、あくまで臆測です」

(serai.jp)

そしてこれも置いておきます。

もっと真面目にドラマ作りと向き合うことをして欲しい。
ドラマを作る人を守るためにもそうあって欲しい。切実にそう願っています。

その、真面目にドラマ作りをやっていたであろう人を、ゴシップネタを基に散々けなし、守られるべき製作スタッフやキャストを攻撃するようなことを書いていた武者さんに、このようなことを言われても全く腑に落ちません。
貴方がするべきことは、2021年と2023年に自分が書いたことをもう一度省みることでしょう。

はっきり言って、この家康叩きが書かれている5ページ目の大半は必要なのかとさえ思います。

ちなみに私は今年も『家康』の録画を観ています、あと放送から10年ということで『軍師官兵衛』も。やはり武士や戦も観たくなりますから。

飲み物-2種類のカクテル
[ 2024/02/08 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


あの程度の身分で舞姫を務めたのが生意気だのなんだのチクリと嫌味を言い、姫たちがクスクスしていると、倫子は自分の差金だとしてきっちりと、それでいて優しく止めます。
彼女はこの時点で、只者ではない大物の風格が出ていますね。かわいらしいだけの姫君ではない。

「自分の差金」とは言っていませんね。
「まひろさんを五節の舞姫に出したのは、我が家であり我が父ですよ」と言っています。

そして
「大物の風格」
と言うより、倫子の場合まひろと気が合うようで、話していて楽しいと思っているところもあり、だからこそ他の姫たちが、身分のことをとやかく言うのを止めたとも考えられます。

彼女の治療にやってきたのは、僧侶と巫女でした。
余計に具合が悪くなりそうな祈祷が始まります。
巫女の格好をしている人物は「よりまし(寄坐・憑子・尸童)」です。

「よりまし」は注連縄をつけた岩や木のことをも指します。この場合はあるいは巫(かんなぎ)と呼ぶべきでしょうか。
そしてなぜ僧侶と巫女なのか、その説明が一応後の方で↓なされていますが、ちょっと具体性に欠けます。

すっかりぐずぐずしてしまう弟ですが、なんとかいとが水を浴びせようとします。嫌だ!とごねる惟規と争ううちに、水桶をひっくり返してずぶ濡れになってしまうのでした。
この場面はおもしろおかしく、よくできています。
日本の宗教は「儒・仏・神」とされます。異なる宗教でも混ざる。寺と神社が一体化したような場所もあります。
本作のこのシーンでも僧侶(仏教)とよりまし(神道)がコンビでやってきていた。
さらにややこしいことに、この頃は中国の道教までうっすら混ざります。日本の仏教は中国経由なので、そうした融合が避けられなかった。

「儒・仏・神」とありますが、「神・儒・仏」ではないかと思うのですが…。
そしてその説明なのですが、物足りないところとして。
「異なる宗教でも混ざる」
「寺と神社が一体化したような場所」
「道教までうっすら混ざります」
これらの具体例が何ひとつありません。こういうのはちゃんと書いてくださいね。まず最初のは神仏習合かと思われますし、2番目は神宮寺がその代表格です。日光東照宮もそのひとつです。そして道教がどのような感じで「うっすらと」混ざっているのか不明ですが、仏教説話に仙人(道教由来)が登場したりするのはその一例でしょう。

尚修験道は、道教と仏教と山岳信仰が混ざったものとされています。

鎌倉時代以降の僧侶たちは「それではいかんでしょ」とブラッシュアップに努めますが、そうして洗練される前のカオス状態が実に面白い。
考証だって相当大変でしょう。『鎌倉殿の13人』に続き、大変頑張って作り上げてきております。

仏教なら昨年の一向一揆でも登場していますが、それは無視ですか。
そしてこの「ブラッシュアップ」とは、具体的にどのようなものですか。浄土信仰のことですか。それなら、平安時代に既にありますが。そう言えば武者さん、『鎌倉殿』の頼朝の臨終出家で、このようなことをするから、鎌倉時代に浄土教が広まったのだといったことを書いていましたが、それより前に空也や源信などが浄土教を広めています。

医療にしてもお粗末で、こんな調子では平安時代の人はすぐ死んでしまうのでは?と思えます。なんせ平均寿命は40あったかないかと言われるほど。
にしても、病気になっても祈るだけか……。と、『三国志』ファンの方なら華佗の手術を思い浮かべるかもしれません。華佗の場合は後世の脚色もあるので比較は難しいですが、そうした技術伝播のほどもなかなか興味深いものがあります。
病気で寝込んだらオカルト儀式をされるなんて、この時代に生まれなくて本当によかった。映像化されると想像以上に厳しいものがありますね。

「医療にしてもお粗末」
「病気で寝込んだらオカルト儀式をされるなんて、この時代に生まれなくて本当によかった。映像化されると想像以上に厳しいものがありますね」
貴方この大河好きなのですか?それとも嫌いなのですか?
こういうのもちゃんと考証があって、それに基づいているのですが。ちなみに北里大学の漢方鍼灸治療センター長の星野卓之氏が、医事考証担当です。

あと平均寿命ですが、乳幼児の死亡率が高かったせいもあるかと思われます。『枕草子』の「すさまじきもの」に「ちご亡くなりたる産屋」とありますし。それとなぜここで『三国志』なのですか。

しかし武者さん、本当にカルトもオカルトも好きですね。

ただし、この場面の実資は正しいのかどうか。
荘園なり、銅銭の流通に関して、この頃からあった問題が、やがて立て直しができなくなるのでは?
すでに制度疲労を起こして亀裂が生じていたならば、何か対策をせねばならなかったのでしょう。

ここでもそうですが、
「荘園なり、銅銭の流通に関して、この頃からあった問題」
とはどういうことですか?
まず荘園ですが、正しくは永観の荘園整理令です。この当時帝の代替わりの度にこれが発令されたと言われています。

そして銅銭の流通、これは破銭法ですね。和銅開珎以後、輸入したお金ではなく、日本でもお金を作り始めるのですが、原料となる銅の不足、そして私鋳銭(贋金)の横行などで貨幣の価値が下がって行き、さらに新しい貨幣が出るごとにデノミネーションが行われたことも、貨幣の問題に拍車をかけました。

このデノミネーションで前の貨幣の価値が10分の1となるため、庶民は前の貨幣を溶かして新しいお金を作る破銭(われぜに)を作るようになり、当時の政府は旧貨を回収できなくなります。しかも貨幣鋳造にかかる費用と実際の収益の差額が財源となるのに、それもできない。ついに惟成により提案されたこの法律が公布されますが、結局その後貨幣は使われなくなり、物々交換に戻り、さらにその後は中華帝国からの宋銭などが使われました。

皇朝十二銭 本朝十二銭
(刀剣ワールド)

この当時、経済の専門家がいなかったことも、またダメージとなったようです。ちなみにその後、国内でお金が作られるのは江戸時代になってから(慶長通宝または寛永通宝)です。

ところでこの記述、そしてこの後でも「荘園」についてはいくつか見られますが、

それでも斉信は、公任の父である関白・藤原頼忠の世は過ぎたと言い出します。新しい政治をしていると期待を込めて語る。贅沢を禁じ、銅銭を鋳造し、荘園を没収するそうです。

荘園は貴族の収入源です。そんなところに手を入れられたら、反発は必至でしょう。

この場合ただの荘園でなく、この後の斉信の言葉
「(帝は)正しい手続きを経ておらぬ荘園を、没収されようとお考えだ」
にあるように、ちゃんとした手続きをしていない荘園を没収し、公領化しようという考えでした。

日本の時代劇といえば、武士主役の作品が多い。そんな中、文官といえる平安貴族の姿は珍しいだけでなく、その優雅さはアジア宮廷ものの雰囲気がある。
雅な宮廷美男日本代表として、彼は注目を集めているようです。日本代表としてがんばってください!

「文官といえる平安貴族の姿は珍しいだけでなく、その優雅さはアジア宮廷ものの雰囲気がある」
その平安貴族の時代は、武者さんが嫌いな世襲と摂関政治の時代でもあったわけですが…。

そして町田啓太さんに関して、
「雅な宮廷美男日本代表として、彼は注目を集めているようです。日本代表としてがんばってください」
日本代表日本代表などと言っていますが、貴方本当は中国の方が好きなのではありませんか。
それから町田さんは、貴方が嫌いな『西郷どん』で小松帯刀、『青天を衝け』で土方歳三を演じていますが、まさか、お忘れではありませんよね?

しかし武者さんて
男と対等にわたりあえる女性が好き
イケメンが好き
おじさんが嫌い
わかりやすいと言いますか。

しかし、道長は姿勢が悪いし、筆の持ち方がイマイチ。これは演技や指導が悪いのではなく、意図してのものでしょう。
道長は字が下手なのです。
筆を寝かせるわ。墨がかすれるわ。そういう下手な字を書く人物として演じるとなると、残念な姿勢でなければいけない。
そのくせ、筆は特注品の最高級のものを使っているのが、実にたちが悪い。なんでも道長の字が上手だと、演出からダメ出しが入るそうです。

「筆の持ち方がイマイチ」
既にこのブログでも、またたけたけさんのnote記事でも指摘されていますが、単鉤法と呼ばれる持ち方のようです。

そして
「筆を寝かせるわ。墨がかすれるわ。そういう下手な字を書く人物として演じるとなると、残念な姿勢でなければいけない」
この道長は「残念な姿勢」でしょうか。筆を寝かせているでしょうか。署名の時も筆を立てていますが。

光る君へ第5回道長と筆  光る君へ第5回道長と筆2
『光る君へ』第5回

あと道長の字はかすれていましたか?

「筆は特注品の最高級のものを使っているのが、実にたちが悪い」
最高級品とはどのような品ですか。そして
「なんでも道長の字が上手だと、演出からダメ出しが入るそうです」
柄本さんが道長のフォント、字体を自分で編み出していて、それに則って書こうとしているからではありませんか?

しかし今回も、道長の字は下手だ下手だと言っていますね。
こういう字です。何度も言いますが、特徴のある字ではあります。柄本さんも、これに似せようとしているのでしょう。

Michinaga_diary.jpg
『御堂関白記』(Wikimedia)

すると兼家は喜び、こうきた。
「我が一族は、帝を支える者たちの筆頭に立たねばならぬ」
(中略)
「お前もそのことを覚えておけ」
脂ぎった口調で言う兼家には、何の政治的ビジョンもありません。花山天皇とその側近の方がよほど真っ当だ。
それにしても段田安則さんの醸し出す、権力にギラついた姿が素晴らしいですね。俳優ならば、一度はこういう役を演じたくなるのではないでしょうか。

この当時は、一族が帝を支える者たちのトップに立つことがいわばビジョンであり、そのためには様々な策を弄する必要があったのではないでしょうか。武者さんが言う政治的ビジョンとは、どのようなものなのでしょうか。
権力にギラついたと言うよりは、この当時は、こういう権力闘争は比較的当たり前であったのではないかと。

愛のために家父長制に逆らうヒロインが、今後もきっと出てくる。実に痛快ではありませんか。

この間も家父長制などと書いていましたが、この当時はまだ家父長制が成立しておらず、財産は母から娘に譲られるシステムになっていました。

左大臣・源雅信はそこまで権力にこだわっていないようで、見過ごせぬと巻き込まれています。
(中略)
笑い合うこの人たちはなんなのでしょうか。政治に対して全く理想がなく、あるのは自分の利益だけですか。
そりゃ、こんなのを見ていたら荘園も没収したくなりますね。

「政治に対して全く理想がなく」
上の方でも書いていますが、この当時の政治とはこのようなものでしょう。
そして「荘園を没収する」のではなく、「正式な手続きを経ていない荘園を没収する」のです。ちゃんと観てますか?
無論正式な手続きを済ませていない荘園も、彼らの所領には多かったかも知れませんが。

確かにこの時代は馴染みもないし、合戦もありません。だからこそ、新鮮な驚きがあっていい。こういうのが見たかったんじゃないか?という思いが心の奥から湧いてきます。
知っているようで知らなかった世界が目の前にあります。

恐らくこの大河が嫌いであれば、やはり馴染みのない時代は面白くないとなるのでしょうか。
そして「知っているようで知らなかった」
武者さんは「歴史系」ライターのはずですよね。今までこの時代の日記とか歌集とか、目を通して来なかったのですか?もし目を通していたら、その時代に何があり、どういう人物が登場したかの知識位あるでしょうし、ならば「知らなかった」世界にはならないと思います。
せめて
「史料で知っていた世界が三次元化され、理解に幅が出た」
とでも書いて貰いたいものです。

『蜻蛉日記』の作者で、紫式部にとっても遠い親戚……と言っても、突き詰めれば藤原はみんな大体親戚同士となります。
中国や韓国の場合、ルーツが同じ者同士の結婚は避けてきたものですが、このころの日本はそうではないのです。

儒教圏は同じ「氏」だと結婚できなかったわけですが、この頃に限らず日本の場合はそうではありません。だから近親婚的なものもありました。

それはそうだと認めつつ、世の中変わりもしないと呟く直秀。
彼はどこか達観したようで変わっていますね。世の中の外にいるからこそ、仕組みがわかって、天の声すらわかってしまうような不思議さがあります。
歴史劇のこうした「オリキャラ」は、そんな役目があり、毎熊克哉さんが見事に体現されています。

先日も触れていますが、武者さんが絶対に好意的に書かない『どうする家康』で、毎熊さんが演じた大岡(大賀)弥四郎も、どこか曲者ぽくて達観した印象があります。このままでは無間地獄だなどと言っていますし。もう一度貼っておきますね。

どうする家康第20回大岡弥四郎

『どうする家康』第20回

それからかなり「オリキャラ」にこだわっているようです、武者さん。
恐らくこう書くことで、『麒麟がくる』の駒だってオリキャラの役割があるのだと言いたいのでしょう。ただ、直秀は自由に動ける立場であり、そのため情報を集めてはまひろに届けるという設定に無理はありません。

しかし駒は、薬屋という設定を貫くのならともかく、義昭の側女になり、あれこれ口出しするのはやはりちょっと無理がないでしょうか。寧ろあの大河では駒より伊呂波大夫の方に、この直秀と似たものを感じました。直秀も実は、やんごとなき人物と親しいなどということはあるのでしょうか。


飲み物-ポーターとクルミ
[ 2024/02/07 03:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第3回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

寒さが続きますね、どうぞ皆様お気をつけください。では第3回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。

まず本題の前に、先日分の投稿の引用部分で「藤和兼家」とありました。もちろん、「藤原兼家」のことでしょうが、こういうのも気を付けてほしいものですね。

姫君の衣装が美しい。襲(かさね)の色合いがどうしてこんなに可愛らしいのかと見惚れてしまいます。
平安時代って、知れば知るほどこの時代に生きていなくてよかったなぁと思えるほど、実は過酷な時代。
それでも憧れを持ってしまうのは、まさにこうした繊細な美しさにあるのでしょう。

「繊細な美しさ」などと書くのであれば、襲の例くらいあげてほしいと思います。

色彩と文様
(日本服飾史)

尚私が『どうする家康』の千姫を例に挙げて、菊重ねについて書いていますが、これは紫と白もあるとのこと。 

それにしても同じ人が、昨年は登場人物の衣装の色を、スイカバーだ焼き芋だと言っていたのですね。

「すごーい! まひろさんは漢字がお得意なのね」
「一枚も取れなかった」
そう上品に笑う姫君たちを前にして、やりすぎた己に気づくまひろ。どこまで面倒くさいのか。

だから何が「面倒くさい」のでしょうか。
空気を読めないことが面倒臭いのですか。何とかのひとつおぼえのようにも見えてしまいます。

ここで檜扇を操りつつ、ふわふわと笑う倫子の愛くるしさは何なのでしょう。空を飛ぶ蝶々か、花びらのような軽やかさがあります。
何かと重いまひろとは正反対のようにも思えます。

倫子とまひろは正反対と言うより、何か一脈通じるものがあるのではないでしょうか。逆に倫子がそれを見抜いているからこそ、楽しそうにしているようにも見えるのですが。

平安貴族の貴公子たちは、関白・藤原頼忠の屋敷で休日でも漢籍の勉強をしています。
今日は『孟子』「公孫丑上」。
公任がスラスラと読んでいます。

で、ここまではまあいいのですが、その次にこの「公孫丑上」の読み下し文と現代語訳があります。これだけで30行ほどになります。
こういうのは読み下し文、現代語訳どちらかでいいのではないでしょうか。一応ここでは現代語の方だけを置いておきます。

孟子が言った。
「人には皆、他人の不幸を見過ごせない気持ちがあるものだ。
古代の聖王は、人の不幸を見過ごせない気持ちをみな持っていたのである。
だからこそ、人の不幸を見過ごせない政治ができたのだ。
人の不幸を見過さぬ気持ちを持ち、人の不幸を見過ごせぬ政治を行えば、天下を治めることは、手のひらに玉を載せて転がすように簡単にできる。
人には誰でも、他人の不幸を見過ごせない気持ちがある。それはどこからくるのか。
もし目の前で、幼児が今にも井戸に落ちそうになっているのを見たとする。これはいかん、大変だと誰だって助けようとするだろう。
それは幼児の親に恩を売ろうと思ってするわけではない。
近隣のものや友人に褒められたいから、そうするのでもない。
幼児を見殺しにしたと悪評が立つと嫌だからそうするのでもない。
遠慮し、人に譲る心を持たぬ者は、人ではない。
善悪正邪を見分ける心がないものは、人ではない。
人の不幸を見過ごせない心というものこそが、仁のもとである。
自身の不善を恥じ、他人の不幸を憎む心こそ、義のもとである。
互いに譲り合う心は、礼のもとである。
善悪正邪を見分ける心は、智のもとである。
人がこの四つの萌芽を持つことは、両手両足があるのと同じことだ。」
性善説です。

このように知識を仕入れることと、実践の間には距離があり、平安時代の政治は民を重んじているかというと、なかなか厳しいものは感じますね。
積極的に戦乱を起こさないと言う意味では、確かに平和ではありますが。

儒学を学んだからと言って、それが民のためになるかどうかはわかりません。実際に民のためになろうとするのであれば、当の民と実際に触れ合う必要があるでしょう。尤も道長の場合は、散楽がひとつの目的ですが。

あと「積極的に戦乱を起こさない」はどうでしょうか。戦国時代も飢えをしのぐために領地を巡ってせめぎ合っていますし、この時代は戦をしようと思わずとも、外国から侵略されてしまうこともあります。さらに言えば、戦乱はなくても政変は起こっていましたね。

大河ドラマ『麒麟がくる』では、こうした儒教の教えを初回で主人公が実践していました。
火災があり、その中に子どもが置き去りにされた。もう前後のことも考えずに飛び込んで助ける光秀。
その姿を見て、かつて己も燃え盛る家から救い出された駒が「麒麟がくる」と語る。
光秀は孟子が説く教えそのものの行動を咄嗟に成し遂げたからこそ、駒は「麒麟」を連想したのです。
あの場面はカッコつけだのハリウッド映画だのなんだの言われましたが、孟子の言うところの性善説を端的にまとめたものでした。

仮に性善説を知らなかったとしても、火事に遭った家の子をそのまま放っておくでしょうか。
もっと言えば、災害に遭った地域の人々を、そのままにしておくでしょうか。
そしてあのシーン、確か光秀ではなく、取り残された女の子ウメの父親も手助けしていますね。そしてこの時駒は、自分も子供の頃火事に遭い、知らない人(武士)が助けてくれたこと、その人物が麒麟を連れてくると言っていたと話しているわけですが、これだとまるで、駒自身が麒麟を連れてくると言っているようです。

あとこの『麒麟がくる』第1回のあらすじと感想で書いていますが、『功名が辻』でも、一豊が千代を火の中から助け出しています。
『青天を衝け』でも栄一が、自らが火の中に飛び込んだわけではないけど、関東大震災で被災した人の救援を提案していました。「ワシのような老人はこんなにいささかなりとも働いてこそ、生きてる申訳が立つようなものだ」と栄一が言っていましたね。

町田啓太さん扮する公任が、澱みなく、スラスラと漢籍を読み上げます。素晴らしいですね。
秀才そして知られる公任。町田さんは台詞に出てこない箇所まで覚えたと嬉しそうに語っていました。
長谷川博己さんも、光秀の行動原理を深く理解するために儒教の関連書籍を読んでいたそうです。
学ぶ姿勢が、演技を磨き上げ、ただでさえ美しい姿を一層深みのあるものにします。公任が美しいのは当然ですね。

その町田さんや長谷川さんのコメントの出どころはどこですか。それをちゃんと書いてください。先日もCPのコメントの記事を貼っていませんでしたね。

しかし好きな大河だと出て来る俳優さんにも優しいですね。そして「演技を磨き上げ」とありますが、それが具体的にどのように磨き上げられているのか、ドラマを書くことでお金を貰っているのなら、そのくらい指摘できないでしょうか。
そしてこれだと、武者さんが嫌いな大河では誰も学んでいないような言い方ですね。松本潤さんは、家康になりきるために体を絞っていたのですけどね。

そして、このドラマの楽しみ方を見出しました。
光源氏探しです。
登場人物の理想的な部分をつなぎ合わせていくことで、光源氏をカスタマイズしながら作り上げていくのです。
教養は公任。
筆跡は行成。
要領の良さは斉信。
気品は道隆。
屈折は道兼。
愛嬌は道長……なかなかおもしろいんじゃないでしょうか。

それですか。
いえ貴方が全く個人の趣味でこれを書いているのならそれもありでしょう。しかし歴史系ライターなのに、この4人の生い立ちや今後についての説明は一切なしですか?
このコラムは、貴方の遊び場ではないと思うのですが、いつ見ても、真剣にドラマの背景や人物をとらえているようには見えないのです。それで報酬貰えているのですね。

そう兼家のように道長に言いたくなるのは、あまりに個性的な悪筆だから。字が下手だと台詞にもありましたが、史実の道長もあまりに癖が強い字を書きます。

字が下手だと言いながら画像すら貼らないのですね。月岡芳年の絵は張っているようですが(苦笑)。
別に下手ではないと思います、特徴のある字ではあり、また表記方法そのものにも特徴がありますね。

Michinaga_diary.jpg
(Wikimediaより、御堂関白記)

一方で藤原行成は日本書道史のレジェンドです。
そんなレジェンド行成から癖が強すぎる道長まで、字を再現する根本知先生は大変だと思います。

せっかく藤原行成が出て来ているのだから、三蹟くらい書きましょう。
そして色々な字を書き分けるのが、大河の書道指導の方の務めだと思います。

今年の大河は書道に気合が入っています。
文房四宝こと筆・墨・硯・紙まで、特殊で高いものを用意していて、この文房四宝の質感だけでも見ていて眩しいほど。美しい場面が続きます。

多くの大河では、登場人物は字をしたためるものであり、それぞれの作品に於いて、それぞれのやり方で書道に力を入れていたと思います。今年に限ったことではないでしょう。

そして「特殊で高い」と書かれていますが、具体的にどのような品のことをさしているのでしょうか。端渓の硯とかですか。

さらにまひろの硯は携帯用でも家要でも、それほどではなかったかと思います。自分で「貧しい」なんて書いてますよね武者さん。寧ろ評価するのであれば、それぞれが身分に応じた物を使っていること、そして代書に紙でなく板を持って来た麻彦のように、紙は高額で、庶民にはなかなか買えなかったという点の考慮などでしょう。

しかし為時が知りたいのはそういうことではない。年頃ゆえに、東宮の妃となってもおかしくない。一体どういうお考えなのか?
すると、まひろの猜疑心が発動します。嗚呼、めんどくさい。
兼家様に頼まれたのか、間者にしろと言われたのか?と父を問いただします。

貴方「めんどくさい」このコラムでもう何回使っていますか?
父にこう訊かれて、自分が土御門邸に行ったのは別の目的だったのかと感じ取る、その辺りの勘の鋭さはあるかと思います。

まひろはここで割り切ります。そういうところがちょっと気持ち悪いんだぞ!
父の言葉に納得もあるんでしょうね。楽しいことはそうだし、メリットはある。

「そういうところがちょっと気持ち悪いんだぞ」
一々面倒臭がる、あるいは気持ち悪がる武者さんの方が、如何なものかと思うのですが。

そして倫子様に気に入られるようにすると、キッパリと言い切るのでした。
とはいえ、内心父への軽蔑が高まったのか。
一人、母の遺品である琵琶の前に立つ時の白い顔は、憤怒がふつふつと滾るようにも見えます。

涙を流しているのを見ると、やりきれなさはあるでしょうね。彼女が、自分で嘘をつくことの罪悪感を初めて乗り切らなければならない、関門のようにも見えます。

このドラマは、まひろと道長の恋愛で焦らしているように思える。
けれども、そうなのでしょうか?
もしかして二人とも「困っている人を助けたいんだ!」という惻隠の情で動いていただけであり、恋をしていないのではありませんか?
この読み違いは前述した『麒麟がくる』でもありました。
光秀が駒を助けたものだから、この二人に恋愛フラグが立ったと誤解した視聴者がそこそこおりました。
光秀は親切心です。確かに駒は淡い恋心を光秀に抱いていたものの、それよりも人助けに生きがいを見出すようになる女性でした。
なんでもかんでも恋愛フラグ扱いにするのはどうなのか。

互いに氏素性が知れないまま出会い、別れて会えなくなった同士が再会して、さて今後どうなるのかと言ったところでしょう。
そしてまた『麒麟がくる』ですか。
「なんでもかんでも恋愛フラグ扱いにするのはどうなのか」
などと好きな大河では書いておきながら、嫌いな大河だとエロだのミソジニーだの連発しまくりですね。しかもドラマそのものを分析的に観ているようでもないし。また恋愛フラグを立てる立てないは、人それぞれだと思います。

やはり、まひろは何かおかしい。
三郎がいなくなって大丈夫かと気にしている。けれども直秀から無事を聞かされても、喜ぶどころか猜疑心全開にして太郎を使って調べようとする。
その太郎に、妖怪かどうか確認したいと言う。

「太郎を使って」まひろは父親から外出を止められ、乙丸が監視しているわけですが…これ書くの何度目でしょう。
「猜疑心全開」無事だと知ったから、あの人にまた会えるだろうかと思った。
「妖怪かどうか確認したい」太郎が、姉上の三郎は幻じゃないの?鬼とか悪霊とか怨霊とかさと言ったから、そうであるかどうか確かめたいと言ったのではないでしょうか。実際会ったり会えなかったりしていますし。

これが恋をする若い女性の言動なんだろうか……。なんなんだ、本当になんなんだよ!
だいたい「謎の男」というタイトルも妙です。逢いたい相手を謎呼ばわりってどこか変ですよ。
(中略)
なんかこう、私はこういうの好きじゃないというオーラがじわっと滲んでいるというか、理解できていないというか、“かわいい若い娘”という仮面をかぶっているというか。
まひろって、実はガチガチの理詰めで、恋するままに動けない性格なのではありませんか?
周囲から学び、空気を読んでふるまおうとしているけれども、実は何かがずれているのかもしれない。

別にかわいい娘のふりをしているわけでもなく、ありのままの自分を出していて、でもそれでいいのだろうかと戸惑っているように見えます。大人への第一歩でもあるし、それこそ貴方が好きな漢籍も読んでいるから、ちょっと違ったものの考え方をするようになるのでは。

まひろのこういう性格って、イギリスの女性作家であるジェーン・オースティンも思い出します。
恋愛小説の名手として知られ、英語圏の教科書には掲載常連、国民的作家です。
けれども本人は恋愛をした情熱的なタイプでもなく、皮肉屋で理知的です。
恋愛小説にせよ、流行しているものを自分流にアレンジして皮肉って書いてやるような動機があります。
オースティンのヒロインはなかなかひねった設定です。書簡集を読むとものすごく嫌味なことを書いているとも思える。
そういう皮肉屋だからこそ、見えてくるものがあるのかなと。

ここでジェーン・オースティンですか。
ではその作品を一つ挙げて、どう皮肉屋でどう理知的なのか、そしてどういった作風にそういう彼女の特徴を感じるのか、きちんと書いてくれませんか。映像作品でもいいです。
私は、『高慢と偏見』の、コリン・ファースが出演したBBCのを観たことがあります。イギリスの階級社会は、ああいうものかと思いましたね。イギリス海軍好きな方の一押しでした。

ひねくれたヒロインって実にいいですね。もう本当に変なヒロインです。

逆に失礼な気もするのですけどね。「変な子」という先入観ありきでまひろを見ていませんか。

さて、以下は余計なことながら。
視聴率が低いこともあり、早速叩き記事が出ています。
◆『光る君へ』第2話で視聴率ダウン! まひろ(吉高由里子)の恋愛描写メインで高齢視聴者が大量離脱(→link)
◆NHK負のスパイラル…『紅白歌合戦』『光る君へ』“低視聴率”続きで予算削減へ(→link)

武者さん、昨年は自分が同じことをやっていましたよね。
「ワースト2位の大駄作」だの「ワースト2という不名誉に関する弁解があってもいいだろうに」だの。

で“事情通”なる人物が、シニア層が混乱する、役者に魅力がない、そして源氏物語の世界観を大河でやるのは難しいと言ったことを話しているようですが、それに対して。

「事情通」とは、誰でも自称できるし、資格もなにもないところがポイント。
ライター本人が書いているという可能性もあります。

あれだけ「文春砲」を何かのように引用して来た武者さんに、情報の胡散臭さを言われても正直どうかなと思います。

ましてや下地となる『源氏物語』が男と女のまぐわいが中心の恋物語。
まぐわいって……『源氏物語』はそういうものでしょうか。
国民的古典を学ぼうという好奇心や知識欲はないのでしょうか?
「恋愛描写が多いからつまらん」というのも、納得できかねますし、藤原の多さに困惑しているという指摘も甘えではないでしょうか。

少々きわどい言葉ですが、確かに「まぐわい」の要素はあるでしょう。
そしてその人は、別の古典に関心があるかも知れないのです。恋愛描写、おなじ一族で同じ氏が出てくるのも、人によっては受け入れられないこともあるかも知れません。
問題は、なぜこのような例をわざわざ挙げて、私が言うことは正しいと主張せんばかりのことを書くのかです。
こういう見方もあります程度に書いておけばいいのでは?
武者さんがすべて正しいわけではないし。

同じことを女性が言おうものなら「このバカ女」となりそうなのに、なぜ中高年男性は当然の如く、こんな威張った調子で言うのか。世間はそれを許すのでしょうか?

そして必ず
「同じことを女性が言おうものなら『このバカ女』」
貴方は常に中高年男性に対して臨戦状態ですね。

そして結局『光る君へ』も結局は、『どうする家康』の叩き棒にするようです。

2023年のように、徳川家康の生涯において、側室オーディションやら、お手つきやらクローズアップすることこそ、余計な恋愛描写(ろくに恋すらしていない、正しくは性欲描写か)だと私は思います。

両方の大河の関係者に失礼だと思いますけどね。
そして『どうする家康』の「性欲描写」て何ですか?具体的に書いてください。
さらに言えば、お万の「お手付き」は実話と言われています。

そして感じたのは、以下の記事にある「カスハラ」です。
◆「よかれ」と思って無自覚カスハラ 気をつけたい「中高年男性」(→link)
「よかれ」と思い、いい事してやったと語っている記事なのだろうなと。

「『よかれ』と思い、いい事してやったと語っている記事」
これもまんま武者さんのような気がして仕方ないのですけど。
貴方の昨年のジャニーズ叩き、しかも関係のない所属俳優やタレントへの姿勢は正にそれでは。

何度でも言いますが、「戦! 戦国! エロい女!」の2023年は「シン・大河」どころか、記録的大失敗、「惨・大河」になりました。従来の読みは通じません。

しつこいですね。
「記録的大失敗」の根拠は何ですか。
「シン・大河」なんて公式は使っていませんよ。
こう書かないと気が済まないのでしょう。結局何も観ていませんね。もう少し丁寧に観ていたのなら、まだ建設的な批判ができたのでしょうが、最初から叩き目的だから本当に同じことの繰り返しですね。

視聴率は低いが、鑑賞者は多い――再放送希望も多いのか、異例の一月での1、2回再放送もありました。
◆録画にネット視聴、実は見られていた「光る君へ」…演歌冷遇・受信料宣伝の「紅白」はそれでも過去最低(→link)
私も以前から思っていたことです。
海外では視聴者数または視聴回数で評価します。そういう過渡期の作品なのでしょう。
今年は「視聴率は低迷する」と覚悟の上で作っていると思います。
しかし現場の士気は高いようです。

これは昨年も、そして一昨年も同じではないでしょうか。
そして一昨年までは
「(世帯)視聴率は古い」
なと言っていただけど、今回は
「過渡期」
ちょっとトーンダウンしているようですね。
あと「現場の士気は高いよう」なら、それを裏付けるものをお願いします。
そして昨年も一昨年も、確か2回分か3回分の再放送をやっていなかったでしょうか。
こういうのも嫌いな作品なら、番宣だと叩くのでしょう。

それから余談ですが。
昨年武者さんは『大奥』と『麒麟がくる』のディレクター、大原拓氏の演出を褒めて眼福だと書いていたことがあります。しかしこの大原氏は、武者さんが好きでない『軍師官兵衛』のディレクターでもありました。その後しばらく経って大原氏のことはコラムから消えました。あるいは「官兵衛」もやっていたことに気づいたのでしょうか。
ちなみに大原氏が演出を担当した回には、宇喜多直家が織田に通じた者を毒殺したり、勝手に戦線離脱をした秀吉が、信長に疑われないように乱痴気騒ぎをしているシーンもありましたね。武者さんが眼福と喜ぶようなシーンでは、恐らくなかったかと。


飲み物-トディ
[ 2024/01/25 00:15 ] その他 | TB(-) | CM(0)

第1回の『光る君へ』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週もというか今年も、たけたけさんのnote記事についてご紹介します。そして今までのように、武者さんのコラムからの引用部分は、ダークブルーにしています。

大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第1回~

紫微垣(しびえん)の星が強い光を放っている。
これは京都に凶事が起きるのではないか?
そう星を見つめながら、大雨の証だと呟く晴明。
星も月も輝いているのになぜ雨なのか?
彼には理解できている様子ですが。

これに関しては、まず「紫微垣(しびえん)の天蓬(てんぽう)の星が、いつになく強い光を放っている」について説明されています。
『紫微垣』は古代中国天文学に於いて天の北極を中心とした天区、あるいは星官(星座)の事
『天蓬星』は北斗七星の第1星にあたるおおぐま座α星の事を言います。(北極星に近いほうから見て1番目)
また『西遊記』の猪八戒が元々天蓬元帥であり、北極紫微大帝に仕える身で、天の川を管理し水軍を指揮していたものの、女癖の悪さで追放されたことについて書かれています。
さらにこのこと絡みで、昨年の『どうする家康』での、家康と三成の会話に登場した「参宿」についてももちろん触れられています。

私も紫微垣と天蓬星について、あらすじと感想で少しばかり触れていますが、武者さんのコラムにはその少しばかりの説明さえないのですね。まして猪八戒に至っては何をかいわんや…です(中国関係は得意なはずですよね、武者さん)。
そしてこれは、このコラム絡みの投稿で書いていますが、武者さんはこの参宿関連の話題については、触れずじまいでした。何よりも『どうする家康』のあのシーンでも、東洋に占星術が存在しような表現をするなといったことを書いていましたが、家康のセリフをきちんと聞いていないなと思ったものです。

平安京では、出世争いが熾烈を極めておりました。
三条殿にいるのが、大納言藤原兼家。
嫡妻である時姫との間には、道隆、道兼、詮子、そして三郎(のちの道長)がいます。

ここの部分ですが、兼家と時子(時姫)夫妻の間に、既に成人している子供たち位牌には
「『ボーっとした』と形容された三男・三郎さま(後の道長卿)」
とあり、さらに道隆とその妻高階貴子の娘定子について書かれています。また高階貴子が儀同三司母のことであり、小倉百人一首に歌が採用されていることにも触れられています。
あの「忘れじの行く末までは難ければ」の歌ですね。
また兼家の妾に右大将道綱母がいるとも書かれています(身分が低いので本妻にはなれていません)。この人も百人一首に歌(第54番、『なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる』、ちなみにこの次の第54番が儀同三司母の歌)が採用されています。

こういうのも、武者さんはちゃんと書かないのですね。現時点でこの大河には満足しているようですから、せめてこういう人物関係くらい、きちんと書いてほしいと思います。なお右大将道綱母の妹が、『更科日記』の菅原孝標女の母と言われており、この場合伯母と姪の関係になります。孝標女と言えば、上記note記事にもありますが、大変な源氏物語「オタク」ですね。
右大将道綱母と言えば、かつて永井路子氏がエッセイで手厳しく書いていたのを思い出します。あと「ボーっとした」という表現は『チコちゃんに叱られる』つながりでしょうか。

字も実に美しい。
筆を寝かせずキリッと一画目に入る緊張感、流麗さが、素人目にも伝わってくる。

「表立って比較はしていないようですが、『どうする家康』への当てつけのようにも見えるのですが」
とありますが、私も同じ意見です。そしてその後にこうあります。

『どうする家康』でもしっかり筆を立てて文字を書いています。
因みに『光る君へ』でも人差し指を筆にかける単鉤法を採用していますが、昨年くどいほどおかしいと叩き続けた貴方は筆の持ち方が同じな事について一切見ないようにしているのでしょうか。

第一この大河では、「筆を寝かせて字を書いている」シーンなどないわけで、ならば昨年何度も言い続けた「筆を寝かせる」、あれをまた持ち出しているのかと思われても、それは当然でしょう。無論たけたけさんの文章にあるように、『どうする家康』で筆を寝かせて文章を書くシーンなどありません。

そんな為時は、まひろに『史記』を読み聞かせています。
弟の太郎と違って彼女は興味津々。
「お前が男子であったらよかったのになあ」
そうぼやきつつ、始皇帝の死後、二世皇帝胡亥を操った悪徳宦官・趙高の逸話を話します。

これに関しては、まひろが興味を示す一方で、弟の太郎が興味を示さないことについて書かれています。そして父為時が、「お前が男子であったらな」と言ったこと、また『紫式部日記』で、嫡男惟規(太郎)に漢籍を教えていたところ、紫式部の方が先に覚えてしまい、為時が
「口惜しう。男子にて、持たらぬこそ、幸ひなかりけれ(口惜しい事だ。お前が男だったらよかったのに)」
と嘆いたことにも触れられています。
また当時「『漢文は男性が学ぶもの』という考え方が一般的だった時代」「当時女性が学ぶものでは無い漢籍知識」とあり、為時が、本当に男女入れ替わっていたらと思ったかも知れない点にも言及されていて、なぜ武者さんがこの点について何も言わないのかと疑問視されています。
(この点に関しては、『麒麟がくる』なら駒へのバッシングへの反論があり、嫌いな大河ならミソジニー発言が出て来るだろうとも書かれています)

私もこの点について同じことを考えました。一方で、男の子たち(三郎、太郎、師貞親王)が学問嫌いという設定になっているのは、このまひろの漢籍好きと対比関係にあるのかと思ったものですが、いずれにしても、これが男ならというセリフに関して反応しそうな武者さんが、なぜ何も言わないのかとは思いますね。

そしてまひろの鳥ですが、

そのころ、まひろは世話をしていた鳥が逃げてしまいました。
鳥を追いかけていくうちに、鴨川のほとりでまひろと三郎は出会います。

ここで三郎とまひろが出会うところ、三郎が、鳥を籠に入れて飼うのが間違いだと言うシーン、そしてまひろが鳥が逃げてしまったのと言うところは
「『源氏物語~若紫』の『雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを』のオマージュでしょうか」
とあります。
源氏物語の場合は、姫君の祖母である尼君が、雀を籠の中に入れたりしてはいけないと叱っています。一方で源氏は、姫君が藤壺に似ているのに驚くのですね。

これがこのドラマ最大の見どころであり、考証的な問題点とも言えますが、物語として成立していて意味があるならばありとして見ていきたい。
エンタメはそういうものと割り切って進みましょう。

『光る君へ』の時代考証である倉本一宏氏は、インタビューでこう語っているとまずあります。

史実がどうだったか分からない部分を創作するのは自由ですが、史実が分かっているにもかかわらず、それに反した描き方をするというのは良くないですからね。平安時代には『大鏡』や『栄花物語』などフィクションを多分に含む作品や『今昔物語集』などの説話集があり、道長もよく登場しますから、これらの作品を基に脚本が作られがちです。見る人がそれを史実だと勘違いしてしまうと困るので、あらすじをどうしても変えられない場合には細部の変更を提案するなど、妥協点を見つけるための交渉が続いています。

「光る君へ」は、紫式部と道長が幼なじみだという設定から出発しているのですが、実はそもそもこの設定自体が史実に反します。NHKが制作発表の段階で発表してしまったため変えられないので妥協することにしましたが、実際には、2人が幼なじみだったということも恋仲だったということもあり得ません。

エンタメとして楽しむのはいいのですが、何をもって
「物語として成立している」
と決めるのかもわかりません。また平安時代の場合は、上記倉本氏のインタビューのように説話集が多く、これを以て脚本を作ると、勘違いが起きやすくなります。戦国物ならさしずめ、講談や軍記物のみで脚本を作るようなものでしょう。そしてこれも関連投稿でちょっと触れてはいますが、昨年一次史料に基づいた部分があったにもかかわらず、史実でないと叩いておきながら、今年はエンタメと割り切って進むと言うのもどうかと思います。

本作は、こういうものが好きで好きで好きで仕方ない、そんな誰かが妥協せずにこういう小道具を作っています。
どうせこんなものまで注目されないよな。
でも自分が凝りたいからそうするんだ! という情熱が伝わってきます。
素晴らしい仕事ぶりです。
衣装にせよ、小道具にせよ、セットにせよ、VFXにせよ。

これに関しても、このようにありますね。
「嫌いな作品では他人がどれだけ工夫をしようとも、『制作サイドからの言い訳、弁明記事がゴッソリ出てきます。』『働き方改革だとか、革新的だとか、見る側にとってそんな話はどうでもいい。』『小賢しい言い訳にも虫唾が走ります』と一切取り合わずこき下ろし、『わたしのかんがえたさいきょうの』しか認めなかったのですが、気にいったものでは絶賛ですね」
さらに、貴方に公平性を求めても無駄でしょうがとまで書かれていますね。

武者さんらしいと言えばらしいです。そして嫌いな大河では、姿勢を反転させるわけですね。
また小道具や衣装というのは、担当者が「好きで好きで仕方ない」から作ると言うより、ドラマそれぞれのシーンに必要なものであるから、求められる物をそれぞれが責任を持って作っていると言うべきかと思います。

いくらなんでもバイオレンス上等すぎる道兼ですが、そこは中世です。命は軽いし、身分が高い連中はやりたい放題が通じる。
『鎌倉殿の13人』の坂東武者よりはマシかもしれませんが、平安京貴族も荒ぶっていました。
そういう世界観を紹介するために、犠牲となった優しい母。
強引に思えるかもしれませんが、話としての見応えはあります。

まず『バイオレンス上等』など、随分と楽しそうだと書かれています。そして昨年では嫌いな作品(『どうする家康』)を穢れ呼ばわりし、挙句の果ては『呪いになる!近づいてくるな!』と罵倒していたともあります。そしてこれはSNS、あるいは出演者が出ていたCM関連でしょうが、
「わざわざ嫌いなものを見てファンや視聴者や関係ない企業にも暴言を吐いて誹謗中傷で他人を傷つける行為を繰り返していましたが」
そして「穢れ」は自分から避けるものであり、わざわざ「全力で追い出さなきゃ!御祈祷だ!」と私怨から言われる、相手の気持ちを考えない物言いは、『穢れ』思想とは大きく乖離するもので大変失礼、嫌ならば離れるしかありませんと、まっとうなことが書かれています。

その「穢れ」呼ばわりされた昨年の大河、一向一揆で民が自分は戦で人を殺したとか、夫以外の男と関係を持ったと告白するシーン、そして何と言っても家康の「厭離穢土 欣求浄土」などの描写が出て来たのですけどね。なお道長自身も、晩年は浄土信仰に傾き、法成寺を建立しています。

ところで後付けのようになりますが、コラムを見ていてこのような記述があるのに気づいたので、ご紹介しておきます。

三郎との待ち合わせを気にして、急いで石段を登っていくまひろ。苔むした石段を上り下りする姿だけでも、時代劇を見ている喜びが胸に湧いてきます。

これも何やら昨年を意識しているようです。ロケがなかったじゃないかと言いたいのかも知れません。但しそれは戦闘関連のロケで、今の時代多くの馬を動かせない、夏場は気温がかなり高くなる、感染症の問題もあるなどの点を考えたうえで最小限にとどめているだけで、こういうシーンはちゃんとロケが行われています。

戦闘シーンではありませんが、2人の武将が馬を走らせている、こんなシーンも「時代劇を見ている喜び」を感じると思うのですが。

どうする家康第26回乗馬1-2

サービス精神が旺盛で、咄嗟に何かできる。こういう瞬発力はモテる男の条件ですよね。そういうところが道兼を苛立たせるのでしょう。

「モテる男」などとありますが、三郎はまだ元服前です。姉詮子からは気に入られていますが、それは自分の思うことを包み隠さず話せる相手ということもあるでしょう。こういう書き方、武者さん好きですね。

あと玉置玲央さんの道兼について、
「時代劇が似合い、演技力が確か」
とありますが、それ以上掘り下げて書けないのかとも思います。
玉置さんがこういう役を演じるのは、大河では初めてと思われますが、『花子とアン』で、ここまで荒ぶる人物ではなかったにせよ、蓮子が伝助に宛てた絶縁状を新聞社にリークする、田中の役だったのを思い出します。


飲み物-ワインと暖炉の火
[ 2024/01/14 01:15 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『武将ジャパン』大河コラム感想レビュー総論関連で少し

さて『武将ジャパン』大河コラム、昨年の最終回関連コラムの後、総集編的なコラムがあったのでざっと見たのですが、はっきり言って今までの焼き直しに等しいものでした。しかも「悪夢の一年間を総括」とのことで、まあ武者さんらしいタイトルだなとは思いましたが、そこまで嫌なら無理に観る必要もなかったし、途中でやめてくれた方が寧ろよかったかと思います。無論それだと報酬は貰えないでしょうが。

あと例によって他作品のPRがやけに多いです。これもここまで大々的にPRするのなら、大河よりそちらの方を観ていた方が、精神衛生上よかったのではないかと思います。それとこれも何度か書きましたが、仮に当該作品の配給会社とか配信会社などからお金を貰ってPRしていた場合、法律に抵触する可能性があります。そのため今では、映像作品とか芸能人関連のサイトなどは、アフィリエイトであることを明記するようになっています。

それとコラム中で、『麒麟がくる』の中で光秀が、亡き妻煕子の爪を持っていたことに触れています。それはいいでしょう。しかし同じことを『どうする家康』でやっていたら、さて武者さんは何と言ったでしょうか。何せ石川数正が持っていた築山の花の押し花を、やけにニコライ・バーグマンだと主張し(バーグマン氏にも失礼)、家康が自分で彫った「弱い心」木彫りの兎をカルト的だと言ってもいる以上、好意を持って受け止めてはいないでしょう。

ところで今後のこの『武将ジャパン』の大河コラムですが、今後もしこのブログで採り上げるとすれば、多少回数を減らそうと思います。他に書きたいことがなかなか書けないので、せめて2回ほどが妥当でしょうか。無論今の段階では、武者さんがどのように書くかはまだわかりませんが、好き嫌いに関わらず、ドラマをきちんと観ていない、人物名やセリフを間違えるという傾向はかなりあるようです。

それと現時点で、このブログでは大河と日本史、ラグビー、ホームズ(ブログのタイトルは元々これに由来)の、主に3つのテーマで書いているわけですが、そのどれか1つに関する投稿を、別のブログに移そうかと考えてもいます。ここも10年近くやっていて、かなり投稿数も増えていますので、それをどうしようかとも考えています。

しかしこの大河コラムも、本当にわからないのか、あるいは故意にそのように書いているのか不明です。それと漢籍で意味が微妙にずれているケースがよくありますし、史料に目を通しているようにも見えません。というか、平山優氏の「森乱」について、蘭丸だと言い張っていましたが、一次史料には確かに乱または乱法師としか出て来ないようです。あれこれ言う前に、まず史料を当たるのが「歴史系ライター」の責務ではないかと。


飲み物-エスプレッソブラック
[ 2024/01/06 00:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

第48回の『どうする家康』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週もたけたけさんのnote記事からです。実は原文を下書きに入れて保存したつもりだったのに、なぜか公開になってしまったようで、その時点でアクセスされた方は驚かれたと思います。その方たちそしてたけたけさん、失礼いたしました。

また今回も、武者さんのコラムからの引用部分はダークブルーの文字色となっています。それから第48回の最後に登場する現代の東京の街並みのタワー、ぱっと見中央に丸みがあるように見えたので、スカイツリーとしていましたが、よく見ると東京タワーであること、またこのたけたけさんの記事をはじめ、最終回関連記事でも、この東京タワーと指摘されていること、徳川家とゆかりのある増上寺に近いことなどから、東京タワーに改めています。

大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第48回~

こんな視聴率ワースト2位の大駄作に応援されたって、足を引っ張られるだけでしょう。
燃え盛った船が自軍に近づいてくるようなもの。
全力で追い返しましょう!
特に来年は「穢れ」を気にする平安時代の人々ですから、追い返すための祈祷でもするのではないでしょうか。

これに関しては、自分の書いた作品やレビュー記事に対して他人から
『呪いになるので近づかないで!』『全力で追い返しましょう!』『穢れるから祈祷しましょう!』
と言われたらどう思うのでしょうか、仲間内で楽しんでいるところに他人から土足で踏み込まれ、『穢れているから追い出しましょう!』と心無い言葉で扇動されるのが、どれほど辛い事か全く考えた事が無いのでしょうねとありますね。
さらに「だから賛同してくれる人がいなくなるのではないですか」とも書かれています。

実際、いくら嫌いでも穢れ呼ばわりするのはどうかと思いますし、何やら一線を踏み越えかねないようにも感じられます。そして、今年は特にそれが多いです。

そして真田昌幸のセリフ。

・恥を知らないパクリセンス?
本作の特徴に“恥ずかしげもなくネタパクリ”というのがあります。
「愉快な乱世を泳ぎ続けよ」
これは要するに、乱世を渡っていく様を船・真田丸にたとえた“パクリ”ですね。
三谷さんの足元にも及ばないのは明白すぎるのに、よくもこういうことをしますよね。
そうやって狡猾に大河ファンに目配せするのがたまらなく嫌だ。

こちらに関してはまずこうあります。
「貴方の知っている船は大海原を出港・水面を航行するのではなく水中をバタバタと泳ぎ回るのですね」
(私も同じことを考えました、船が『泳ぐ』わけはありません)
また、船に例えられた『真田丸』は『船出』『出港』と表現されており、『どうする家康』での「乱世を泳ぐは愉快なものよ」はこれまでに33回、42回、46回の3回で登場していると指摘されています。そのうち第33回と第42回が昌幸の言葉となっています。そして、謀略を巡らせ、表裏比興と呼ばれた昌幸が上田を守って来たこと、その子信繁が、自らも乱世で泳ぎながら生きて行くしかことができない自分と重ねたともあります。

秀頼の甲冑の質感もおかしい。
こんなペナペナした甲冑はみとうなかった。

これに関しては、『仏胴具足』と指摘されています。仏像の胸のように、継ぎ目が見られない作りであることからこの長あり、かの金陀美具足も仏胴とあります。また仏胴には2種類があり、腹面に1枚、背面に1枚の鉄板だけを用いる『一枚張打出胴』、2つ目は表面に漆などを塗り表面を滑らかにした胴で『塗上仏胴』と、皮や織物で包んで平らにしてある『包仏胴』があると説明されています。

それで思い出したのですが、武者さんは『真田丸』を観ていたはずです。あの中では本多正信が仁王胴と言って、金剛力士像の体を模した具足をつけています(これは『葵 徳川三代』も同じ)。そして今回武者さんは正信を散々叩いていますし、『真田丸』を引き合いに出したがるものの、仁王胴を着けていないことには触れていないのですね。

そういやダリ髭の井伊直政は最終回欠席でしたね。
別に見たいワケではないですが、なぜいなかったのか?という点は気になる。
徳川四天王が不在な方が不自然でしょう。

これですが、まず
「家康さまが今際の際に見た『信康さまと五徳さんの祝言での鯉の思い出話』は永禄10年(1567年)」
とあり、この時の新郎新婦は共に9歳であったこと、井伊直政はこの当時6歳であり、井伊氏に復姓して仕官したのが天正3(1575)年(井伊家伝記)と書かれています。当然彼が大人の家臣としてその場にいるわけもなく、どころかまだ家康との面識もないでしょう。

四天王がと言う前に、まずそれぞれの年齢、仕官しているか否かをなぜ調べないのでしょうね。ちなみにこの3年後家康は曳馬城、後の浜松城に入っています。ドラマではこの時虎松(後の万千代→直政)に出会ったと言うか、暗殺されかけたことなっています。

あれだけ戦いを煽っておいて、結局、自分はメイクを濃くして、ダイナミック拡大自殺宣言をしただけじゃないですか。

この豊臣秀頼についてたけたけさんは
「演じる佐久間さんにはもともと涙袋があり、照明の加減で下瞼に影が差しているように見えるだけだと思います」
「また舞台化粧というものがあり、普段とは違うメイクを時代劇などでは施される事もあります」
と書いています。
(私は、シャドー的に少し色を入れているかと書いています)
そしてこの後の流れとして、千姫を連れ戻すべく初(常高院)が大坂城内に入りますが、千姫は秀頼と茶々とその場に残ろうとし、秀頼に城を出ようと促すも、秀頼は「余は最後まで豊臣秀頼でありたい」と言い、千姫は初にも説得を頼むことになるわけですが、最終的に秀頼は豊臣家当主としての責めを負い、自害したわけです。
それをダイナミック拡大自殺宣言とはと、たけたけさんも呆れたような書き方となっていますね。

あと、牢人たちも次々自害していますが、これは秀頼に殉じるという意味もあったと思われます。実際この当時は、主君の死に伴う殉死はかなり見られました。

家康が千姫を助け起こすセリフも演出も、祖父と孫娘というより、イケメンと美少女なんですよね。
しかも、千姫が助命を頼む理由が「秀頼まじイケメン! 推してる人多いし、ファンがいるから貶さないで!」というような趣旨のようで、彼女の必死さが無駄になっている。
もっと他に言葉はなかったのか……。

こちらではまず
「また『孫のような年齢の女性に話しかけるなんて気持ち悪い!』『ファンクラブ、喜び組要員!』でしょうか」とあります。(武者さんが描きそうなことではありますし)
そして千姫が徳川本陣に連れて来られ、助命嘆願をするわけですが、彼女の言う「多くの者に慕われて夢を与えられる、前途ある若者」が、不穏な牢人を集めて世の中を荒らすような乱を起こしており、徳川幕府としては秀頼と茶々以下の豊臣家を認めるわけには行かないと主張したと思われるとあります。

しかし
「秀頼まじイケメン! 推してる人多いし、ファンがいるから貶さないで!」
は武者さんの勝手な想像でしょう。私も投稿に書いていますが、寺院の建立なども人々に慕われた一因であったかと思われます。団子屋の店先で家康は嫌いだ的な会話をしている、多分大坂人と思われる男性も、秀頼や豊臣家に好感を抱いていたものと思われますし。

まずは、長すぎるから端的にまとめてください。
これだけ炎が燃え盛っている中で延々と喋れないでしょ?
煙で喉をやられる可能性もありそうですし、酸欠にもなりそうだ。

『長すぎるから端的にまとめてください』に対し、
「貴方のレビューも長すぎるうえに蛇足なので端的にまとめてください」と書かれています。その通りだと思います。そして、大坂夏の陣で敗れた後、炎上する大坂城で豊臣一門が滅びゆく様は中盤の見せ場であり、最初からもう勝ち目がないと、自害するためにそこに留まっているのだから、煙を吸って喉が潰れようと酸欠になろうと構っていないのではないかとありますし、また振り返りや独白はドラマでの演出であり、現実とは違うものだとした方がいいと思うと忠告されていますね。

まあこれに関しては、私も茶々は死にゆく身で、煙や酸欠は気にしていないのではといったことを書いています。そしてもちろん第43回の終盤で、石田三成が家康に対して、ああいう長々とした話をしたのかどうかも不明です。それはフィクションと割り切ることでしょうね。

『青天を衝け』でも、オープニングでしばしば家康が、自分の世代以降の政策を自分のもののように語っていました。
劇中では徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。
どこまで徳川幕府が嫌いなのか。

あの「こんばんは。徳川家康です。」から始まる徳川家康公の登場は、日本史の授業の導入のように、ほぼ毎回幕末期の日本や世界の情勢を踏まえ、神君として俯瞰的な立場で簡単な解説をするものとまず書かれています。そして
第1回では「よく明治維新で徳川は倒され近代日本が生まれたなんて言われますが、実はそう単純なものじゃない」
「古くなった時代を閉じ、いまにつながる日本を開いたこの人物こそ、わが徳川の家臣であったと、ご存知だったかな」
と言っていることにも触れられており、
『徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。』
に関しては、どこでどのようにして、慶喜公が家茂公やその他別人の功績を掠め取ったか、歴史の流れからどのような人物であったか、歴史ライターとして公平な視点で説明をお願いしますと言われていますね。

またこの『青天を衝け』関連では、
「天狗党の乱で当時一橋家当主だった慶喜公が、水戸藩士の処分に介入できず、幕閣の田沼公に一任した経緯があるのに、さも天狗党の処分を下したかのように吹聴した事について訂正は無いのですか」
とも書かれています。

実際これはおかしいし、またこれは少し前の『どうする家康』コラムで、桜田門外の変が水戸浪士中心なのに、なぜ薩摩武士の自顕流のような猿叫がしたのかと、武者さんが書いていたこともあります。しかし今年の3月に、他の記事で薩摩武士(有村治左衛門)が桜田門外の変に関わっていたと書いており、当該コラムはその後で書かれているわけですから、治左衛門の存在を武者さんは知っていたはず、なのですが。

小栗旬さんの南光坊天海が出てきました。
無駄使いとはまさにこのこと。

『もう麒麟には近寄らないでください』と見出しにあるのですが、たけたけさん曰く
「もうすでにクランクアップもし、最終回を迎えた作品なのにこの先どうやって麒麟に近づけるというのでしょうか」
「貴方が事あるごとに『どうする家康』を見ない、語らないを貫けば済む話ではないでしょうか」
正にそうだと思います。

そして、『我らは有象無象の声に惑わされることなく、正しく君の偉業を伝えて行かなければなりませぬ』とのナレーション、紫法衣を纏う南光坊天海僧正が主導で、東照社縁起編纂事業の部屋となること、天海は家康の偉業をたたえる公式史料をと考えており、それに沿わないものは却下しているシーンが説明されています。

そこで真田信之の正室、稲が鳥居元忠との別れの盃の話を持ち出し、天海がうなずくところ、秀忠が異を唱えるも、天海はかの源頼朝公だって、周りがしかとたたえて語り継いで来たため、武家の憧れとなっていると口にし、どんな人間にも間違いはあると尚も言う秀忠に、人でなく大権現と強調するところまでが一連の流れとして紹介されています。また稲はこの時まだ存命で江戸にいたともされている点にも触れられています。

そして元和2(1616)年、危篤となった家康は神号や葬儀関連の遺言を天海らに託し、最終的に権現(東照大権現)となり、この編纂事業も神号を権現としたうえで、神格化するための作業であったのでしょう、これが無駄遣いでしょうかとまとめられています。

ちなみに金地院崇伝が推す明神でなく、権現に決まったのは、豊臣秀吉が明神となったものの、豊臣家が短い間に滅びたからという説があるようです。

『どうする家康』の場合、松本潤さんが強引に頼み込んだようなサプライズばかりで、しかも露骨に『鎌倉殿の13人』を意識している。
佐藤浩市さん。
大竹しのぶさん。
小栗旬さん。
こんな調子だから「主演がキャスティングを左右する」という文春砲の信憑性が増してゆくのです。

例によって、武者さんが『同じサプライズにせよ『大奥』の方がはるかに上出来です。』と書いている点について、
「ここでもまた『大奥』との比較でしょうか。貴方は嫌いな作品をいちいち晒して下げないと『大奥』を評価できませんか。双方の作品にかかわった方々に重ね重ね失礼です」
とまず反論されています。
(両方を観ている人にも失礼かも知れません)

また『鎌倉殿の13人』に出演していたからと言って『どうする家康』に出てはいけないなどと言う制約はないこと、、現場の要望と俳優さんの意思によるものが大きいと思われること、勝手にキャスト予想やあらぬ妄想をして『勘弁してくれ』と言い、『「主演がキャスティングを左右する」という文春砲の信憑性が増した』と、武者さん自身がそう思い込みたいだけではないでしょうかとも書かれていますね。

そして真田昌幸役の佐藤浩市さんは、公式ガイドブックや相関図に『家康さまに何度も苦杯をなめさせる乱世の怪物、真田家当主』として写真付きで載せられているため、サプライズではないと思いますとありますし(私も同感です)、佐藤浩市さんは自身出演が決まった時、
『主役を務める松本潤君とは、昔から家族ぐるみで付き合いがあったので、応援したいという気持ちもありました。ですので、微力ながらお手伝いをさせてくださいという思いで、出演を決めました。』と語っている点にも触れられています。
これに関しては『ステラネット』に記載されています。

佐藤浩市「今作の真田昌幸は、いい意味で大河ファンの期待を裏切りたい」
大河ドラマ「どうする家康」で真田昌幸を演じる佐藤浩市。戦国乱世、表と裏を使い分け、生き残りを図る反骨不屈の男・昌幸。

そして大竹しのぶさんですが、自分のラジオ番組(R1「大竹しのぶのスピーカーズコーナー」)に松本さんが出演してくれたこと、主役を演じるに当たって、相当な覚悟でチャレンジしていることがわかって応援したい、自分にできることはあるかなと考えていたこと、そして
「こうしてお声がけいただいて、潤君が一生懸命取り組んでいる作品に出られることを、友人としてとてもうれしく思いました」
と大竹さん自身がコメントしている点にも触れられています。
また大竹さんは、ドラマのDVDを貰って第1回を観たこと、その時松本さんが相当な覚悟を持っていることがわかったとも語っていることなどが、紹介されています。

出典はヤフーニュースですが、今は記事がありませんので、サライの元記事のリンクを置いておきます。

大竹しのぶさんサプライズ登場で、山田太一さん脚本の伝説の大河ドラマ『獅子の時代』の名場面がよみがえる【どうする家康 満喫リポート】秘話発信編

尚小栗さんはこちらになります。
(『どうする家康』公式サイト)

武者さん盛んに『鎌倉殿』を意識していますが、ならば木村昴さんや川島潤哉さんの名前も出してくれと私は書いたことがあります。あと北香那さんも両方に出ていますね。


飲み物-トディ2
[ 2023/12/24 02:30 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)

『どうする家康』第48回に関しての武将ジャパンの記事について-6

第48回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその6です。今回は6ページあって大半は持説展開でした。この最終ページも延々とそれが続くので、所々省きますが、実際1ページ目の2倍は文字量があると思われます。


『麒麟がくる』とは正反対だと思います。
あの作品を書いた池端俊策さんは、光秀は自分自身だと思いながら書くこともあったとか。堅物で、頑固で、融通がきかない。頼られると損なことでも引き受けてしまう。
そういう光秀には生々しさがありました。
(中略)
思想として根底にあった朱子学も、理解度がとても高い。
一本筋が通っている。筆を握り、スッと線を引く。そんな端正で爽快感のある美しさがありました。

『麒麟がくる』とは正反対だ、あれは素晴らしかった云々。
別に武者さんがこれを好きなのは自由ですが、これを好きでなかった人もいるし、人物描写になじめなかった人ももちろんいるでしょう。人それぞれであると思います。私も馴染めない部分もありましたが、室町文化の描写などは面白いと思いました。

けれども、だからこそか。『麒麟がくる』をどうしても認めたくない、しつこいアンチが一定数います。
「駒に耐えきれなくて切ったんやがおもしろかったんか?」
とかなんとか、いまだにネットで書き込んでは仲間集めをしているかのよう。
そんな脇役が目立つ程度で切る方がどうかしていますし、駒は別段、そこまでストーリーを引っ掻きまわすわけでもありません。

脇役が嫌だから観ない人がいても、それは好き好きであると思います。自分が好きな作品が受け入れられないのがそんなに嫌ですか?ならば、その反対の例(たとえば今年)もあるわけで、他人が好きと言っていても、貴方は、しかもライターとしての仕事の中で、嫌悪感をあらわにしているわけですが。

しかし武者さんがこれを推したいのは、光秀の潔癖さとか朱子学よりも、結局駒の描写なのだろうと思います。

要するにミソジニーだろうと思います。男性が活躍する分野にいる女性を敵視し、やたらと叩く。典型的な心理ですね。
そんなミソジニーの影に「学級委員長タイプのいい子ちゃんw」を嫌う幼稚な心理も伺えます。

駒の見方もまた様々です。ただ武者さんの書き方は、駒に対して否定的な人を断罪し、ミソジニーと断定したがるだけのように見えます。なぜ駒がそのように見られるのか、その原因を一度でも考えたことがあるでしょうか。
先日の投稿で触れていますが、武者さんは『どうする家康』の団子屋の老婆についてこう書いています。

茶店の老婆も鬱陶しいだけ。
その老婆に対して、雑な関西弁で絡み、家康の悪口を喋る連中も見てられない。
このドラマは陰口を叩く場面が本当に多かった。

私はこれに関して、オリキャラゆえのひとつの形であると書いています。つまりオリキャラというのは賛否両論あるものの、どのようにも動かせるものでもあります。少なくとも大河という「ドラマ」について書いているライターであれば、そしてここまで駒への批判に否定的であるのなら、その点を理解するべきではないでしょうか。

私はあの婆さんは、家康の三方ヶ原関連の伝説の語り部でもあり、面白かったと思いますが。柴田理恵さん、好演でした。

そしてこちらの文章ですが、要は上の『麒麟がくる』評と比較してみると、冒頭で賛否両論が混じると書きながら、「賛」の部分だけを否定するかのような書き方はどんなものでしょうか。

どんな傑作だろうと、大河ドラマともなれば賛否両論が混じります。
しかし、ファンがアンチを嘲笑うような、幼稚でいじめっ子じみた口調でやたらと「wwww」を連発しながらおちょくってくる今年は際立って異常です。
・私は松潤が好きな純粋な人間です!
・徳川家康なんて何も知らなかったのに(日本史の授業中は寝ていましたか?)理解できるようになりました!
・それなのに、感想と言いつつ貶す人はひどぉい……くすん、きっと友達がいないからそーするのね♪(世間は広い。ジャニオタ以外に交友関係を広げられる人間も存在することを認識してください)
こういう界隈に忖度することがよいことでしょうか?
ここからの「いいね」欲しさに、無理矢理文章をこねくり回す歴史好きとは何でしょうか?

逆に言えば、なぜこの人たちが『どうする家康』を肯定的に受け止めるのか、それをきちんと考えたことがあるでしょうか。何度も書きますが、自分の好きな作品への否定と、嫌いな作品への肯定はやはり受け入れられないようですね。

これも以前、大河は歴史に興味を持つきっかけと書いたことがありますが、
「徳川家康なんて何も知らなかったのに理解できるようになりました!」
はその一例ですし、少なくともこの意見を私は否定しません。
そして「自分の感情を否定」などと書かれていますが、仕事である以上そこは割り切るべきでしょう。

私は自分の感情を散々否定されてきました。
しかし、そんなことは今更どうでもいい。むしろ、相手はなぜそうするのか、まじまじと観察してしまいます。
悪い癖かもしれません。
人間は往々にして、強い言葉で語るときは何かを隠したいもの。口汚い言葉でこちらを罵る方は、もしかして、ストレスでも隠していませんか。

「人間は往々にして、強い言葉で語るときは何かを隠したいもの。口汚い言葉でこちらを罵る方は、もしかして、ストレスでも隠していませんか」
正直言って、これもブーメランに見えてしまいます。
なぜかと言えば武者さん、自分で大河叩きをする時は、かなり「口ぎたない言葉」(私は伝法な言葉だと書いていますが)を使っています。しかしそれが自分に向けられると
「もしかして、ストレスでも隠していませんか」
となるのですね。

かなり後の方ですが、こういう記述があります。
「ドラマを話の枕として、気取った顔でうんちくを語る大人がいたら、軽蔑が顔に出る。
そのうえで大人が語ったミスを訂正し、根性の悪いクソガキだと嫌われたことでしょう。
『ねえ先生、どうして大人って、あんな嘘くせーバカドラマを褒めんの? 馬なんてどう見たって偽物じゃね?』」
「根性の悪いクソガキ」
「嘘くせーバカドラマ」
どう見ても「きれいな言葉」には見えませんね。

それにNHKに問いたい。
そういう人物に迎合することはリスクでしかありません。
事件が先日ありましたね。ミソジニーにまみれてニヤニヤしている大河ドラマを、看板番組を流しているテレビ局です。こういう恥晒しは起こるべくして起きたのでしょう。
◆取材メモ流出 NHKが協力者に謝罪 「匿名情報公表で放送中止」(→link)
◆NHKがColaboに謝罪 取材メモが批判する人物に流出していた(→link)

「そういう人物に迎合することはリスクでしかない」
何をもってそう言い切れるのでしょうか。日本は法治国家であり、個人の感情だけでリスクか否かを決めるものではないでしょう。
「ミソジニーにまみれてニヤニヤしている大河ドラマ」も、武者さん個人がそう考えているだけだと思います。『青天を衝け』もそうでしたが、否定する時は必ずミソジニー(それが事実であるかどうかはともかく)という表現を使いますね。
そして、これと大河と直接関係はないかと思いますし、のNHKは『麒麟がくる』も『大奥』も制作しているのですが。

『麒麟がくる』みたいな作品を、偽善だと切り捨てたいのであれば、それこそ『首』のような描き方がある。
あの映画ほどの残虐描写を大河ドラマで描くことは厳しいとはいえ、やりようはあるでしょう。
しかし『どうする家康』はせせこましい。
最終回まで、結局悪の尻拭いは秀忠に押し付けたようなもの。
家康はネチネチグチグチと、自分だって辛いんだもんと繰り返すばかり。自主的にできる悪事はせいぜい蒸し風呂で女に手を出すあたりが関の山。
人の痛みに鈍感なのに、自分が辛いことがあるとしつこく愚痴る。嫌なことがあるとすぐ逃避しようとする。

貴方に取って、自分が認める戦国時代が舞台の映像作品は、『麒麟がくる』と『首』しかないのですか?
そして、「悪の尻拭い」て一体何ですか。
秀頼に死を申し付けるというのは、秀忠自身が自分の責任に於いてそうしたのであり、家康から尻拭いを要請されたわけではありませんが。

「自主的にできる悪事はせいぜい蒸し風呂で女に手を出すあたりが関の山」
家康はその気はなかったのに、お万が積極的であったとここで再度書いておきます。そしてこの2人の間の息子は、最初羽柴家、そして結城家の養子となり、越前松平家の祖となっています。

「人の痛みに鈍感なのに、自分が辛いことがあるとしつこく愚痴る」
寧ろその逆でしょう。自分が今までやって来たことは人殺しだと、瀬名と信康に話していましたよね。そして悪いけど、これもブーメランに見えます。

あとまた『パリピ孔明』。

『パリピ孔明』のオーナー小林がそう語っていました。
このドラマは、やたらと絶賛も多い。
SNSのハッシュタグで検索すうと、大仰な絶賛ばかりだとか。
しかし、それは結局のところ玉璽だ。

「すうと」は「すると」でしょうが、そしてあまりこの話を蒸し返すのも何ですが、この番組の平均世帯視聴率は4パーセント台でした。無論これを面白いと観ていた人もいるわけで、視聴率が作品の質を表すものかどうかは何とも言えません。
ただ、『どうする家康』では世帯視聴率ワースト2位だと何かにつけて言いたがる武者さんが、これについては何も言わないのですね。

そして風間俊介さんが、今年をもってジャニーズ事務所を退所し、フリーで活躍する旨が書かれています。他に生田斗真さん、岡田准一さんについても書かれています。それはいいでしょう。
しかし

沈む船から降りた生田斗真さん、岡田准一さん、そして風間俊介さん。
大河でまた見たい俳優がケジメをつけたことは、私にとって朗報です。
これからもどうかご活躍ください。大河にもまた戻ってきてください。

貴方、『どうする家康』で岡田さんが演じた信長のことを何と書いていましたか?

それに比べて本作はどうでしょう……。
あまりに「テレビ業界が考えるベタな信長」ではありませんか?
不良漫画に出てきそうな信長と申しましょうか。
真っ赤っ赤。
いかにも昭和から平成前期にあったヤンキー信長像で、セリフも中二病というスラングそのまんまでした。

本作は、信長が五徳の頬を掴む場面を「めっちゃかっこいい! これぞイマドキ!」と思っているようで、今週も回想シーンを入れて来ました。
全大河ドラマを振り返っても、これほどまで暴力的な場面を宣伝素材にするケースは、そうそうないでしょう。
ニュースにも使われていることから、自信たっぷりに宣伝素材を用意したんですね。

マザーセナのおかげで信長は天下を狙えたのだから、その恩を我々に返さなければならない。
信長という大名が恵みを受けて大きくなれたのは、マザーセナが祝福したから。
マザーセナの祝福を受けた者は 必ず恵みを返さなければならない。恵みを施さなければならない!
信長は“慈愛の国”をどうするつもりなのか? マザーセナを追い詰めたじゃないか! 信長の政治はどうなると思う?
滅びるしかないだろう。光秀に教育を受けにこいと伝えろ。わかったか?

以上のようなことを書いていますが。
そして、これに関して何か釈明されたわけでもないようです。

夫(そ)れ兵の形は水に象(かたど)る。『孫子』
兵士は水のように変化する。
このドラマは教養が嫌いです。

あの
「それ兵の形は水に象(かたど)る」ですが、これはやはりその後の
「水の形は高きを避けて低きにおもむく。兵の形は実を避けて虚を撃つ」まで紹介できませんか?水が高所から低い場所に向かって流れるように、兵は状況に応じて、相手の隙を突くことが大事だと言っているわけですから。
そして「このドラマは教養が嫌いです」などともありますが、武者さんのこの漢籍紹介ももうちょっと充実させてほしいものです。

そして

「このドラマを見れば徳川家康の生涯を学べるんだ! だってえらい先生もそう言ってたもんw」
こう主張できるよう、兵士の心が流れる仕組みが作られてゆきます。

上記の漢籍、兵士の「心」ではなく、隊列とか陣形を変えるという意味ではないのでしょうか?

◆ NHK大河に歴史学者が大満足のワケ…最新研究でわかった家康の生涯と江戸期に作られた家康像の決定的ちがい(→link)
この記事なんてまさしく典型的で、聞き手は歴史好きという演出まで為されています。
◆『どうする家康』ついに最終回…最新の研究成果はどこまで生かされたか 時代考証に聞く<上>(→link)
◆『どうする家康』ついに最終回…最新の研究成果はどこまで生かされたか 時代考証に聞く<下>(→link)

まず最初の記事(プレジデント・ウーマン)ですが、著者の黒田基樹氏は『真田丸』の考証をしていた方だと思います。武者さん、『真田丸』の考証は褒めていなかったでしょうか。
そしてあとの2つの記事、読売新聞の記事ですが、こちらは柴裕之氏の考証とドラマのかかわりについての記事で、読んでいて面白いと思いました。

それにしても、一体どういうことなのかと混乱してきます。
例えば、関ヶ原での小早川秀秋への「問鉄砲」は後世の創作なので却下とあります。
それなのに、それを前倒ししてスライドさせた、姉川でも信長から家康への問鉄砲はよいと。
何が駄目で、何がよいのか?

姉川の戦いの問鉄砲は創作ですね。
家康をその気にさせるためのものでした。しかし小早川秀秋の「問鉄砲」は、長らく史実だと信じられてきていたものが、そうでなくなったから外したと思われます。これも『功名が辻』辺りまでは使われていました。
逆に関ケ原での描写ができなくなったため、姉川の戦いにああやって創作として入れたとも取れます。

そしてまた光秀の描き方がなってないだの、清須城が紫禁城のようだの。
光秀については、またも『麒麟がくる』が出てきます。

一体どれだけ、あの優等生が嫌いなのか。宣教師は光秀を貶しているのだから、こちらの方がむしろ近いという。
それはどうでしょう。このドラマの光秀は、下劣で、愚かで、小狡く、死者への敬意すらない。
(中略)
優等生ぶっていて実は狡猾な光秀像であれば、『首』なら理解できます。
あの西島秀俊さんの光秀は折目正しい人格者でありながら、残虐行為を働く。そんな二面性のある人物でした。
それに宣教師の言うことは、異教徒への悪意や偏見があるから、全て受け止められるかどうか、史料批判も必要に思えます。

そしてまた『麒麟』に『首』。
ここは『どうする家康』について書くコラムのはずですが、他作品を持ち出す回数が多すぎです。
要は『麒麟がくる』の光秀は自分の理想、『どうする家康』は駄作だから光秀も小物、こう言いたいのでしょうか。そしてまた『首』だと褒めるのですね。わかりやすいと言えばそうですが、作品による違いを見ていないなと思います。

そもそも最新の説をつまみ食いしたところで、城が異国情緒たっぷりではどうしようもありません。
映像作品でそこを間違えてどうするのでしょう。このトンデモ城については「威圧感の表現だ!」だのなんだの擁護もありましたが、結局間違いであることが上記の記事にも記されまいた。

「最新の説をつまみ食い」
また「森乱」でしょうか。つまみ食いではありませんけどね。
あと清須城、以前にご紹介しましたし、これはたけたけさんと平原学氏、それぞれのnote記事でも紹介されています。信長が城主だった当時はこのような形ですね(Jyo-saiサイトより)。

清須城守護館キャプチャ

で、当該記事中で柴裕之氏は
「言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、時代考証の仕事は基本的に台本を作り上げるまでで、映像にするところは関与していないんです。『家康は壮大さに驚いた』という台本の文字から、紫禁城のような映像を思い浮かべることはできません。だからこそ、制作陣と意見をぶつけ合って、文字と映像にずれが生じないようにする努力が欠かせません。清須城の件で、それが足りなかったのは反省点です」
とコメントしていますが、私は、あれはあれで面白かったかとは思います。実際入って行くシーンを見ると、それほどに距離はありませんでしたし。

あるインスタント食品の広告が、あまりにくだらなくてむしろ買う気が失せたことがあります。こんな調子でした。
あの和食の達人が褒めた!
あのイタリアンのシェフも絶賛!
伝説の中華の鉄人までもが降参!
何がどう美味しいのかさっぱりわからない。
しかし、広告としてはこれが通じてしまう。肩書きの偉い人が何か言うと、信じたくなる方向へと心理は誘導されます。
軍事心理学の古典である『孫子』は、まさにそうした現象を「兵形水象」と表しました。

「偉い人が言うことになびく」ことがそれでしょうか。
上の方でもこれについて書いていますが、柔軟な思考がないと、戦に勝てないというのが元々の意味ではありませんか?そして武者さんも自分が好きな対象であると、それになびくように思われます。

インターネットの普及は、こうした心理を加速させます。
みんなが好きなものはともかく褒めよう、取り入ろう。否定する奴はめんどくせー。嘲笑ってやる。
そんな、ことなかれの冷笑主義をこじらせた結果、先回りして忖度する。
批判者をクズだと貶める瞬間はとても楽しい。ハッピーなことしかありません。

では、『麒麟がくる』や『鎌倉殿の13人』にも同じことが言えると考えていいのでしょうか。
つまりこの2つを否定する奴は面倒臭い、嘲笑ってやると、この2作品を支持する人たちのすべてが思っていたのでしょうか。

今年、私は、深刻な「武士成分不足」に陥りました。
何を言っているのかわかりませんよね。自分自身、正直驚いています。
何が起きたか。浮世絵のジャンルである武者絵を定期的に見なければ精神的に安定しなくなりました。
あの構図。色。真剣なまなざし。命をかけた戦いぶり。
そういうものがどれだけ好きなのか、武者絵を見て再確認する作業が必須となっていったのです。
大河を見れば、武士は目に入る。それが今年は欠けていたのでしょう。

浮世絵を見るのも武者さんの勝手ですが、今年の大河に「武士」はちゃんといましたし、命をかけて戦ってもいました。ただ武者さんが思い描く
「戦のシーンで馬を走らせる」
「弱い部分を見せない」
といった、いわば定番としての武士とは違っていたわけで、逆に、その違いを見て取る必要があったかと思われます。

そして江戸時代から明治にかけての武者絵というのは、当然ながら戦国期のものではないわけですが、武者さんはつまり後世の想像が入っていてもいいから、自分が納得する武者像を見たいということのようです。何か、目の前の現実とか一次史料より、自分の理想を優先させたいという見方がそこに感じ取れます。

2023年末と言うのは、象徴的な出来事があります。
長いこと権力の座についたものは腐敗する。
悪だとわかっていようが、利益で釣られて加担するものはいる。
半世紀以上の年月を経た大河は、残念ながらそうした薄汚れたコンテンツになりました。
『どうする家康』を曖昧な、キラキラワードで褒めるということは、悪に加担することではないでしょうか?

なぜキラキラワードで褒めるのが悪に加担するのでしょうか。
そもそもこのキラキラワードとは、具体的にどのような言葉であり表現なのでしょうか。
そして
「長いこと権力の座についたものは腐敗する」
という表現ですが、
「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」
では?

『どうする家康』は何かの未来を確実に潰したと思います。それが何かは、もう少し様子を見てから言えることなのかもしれません。
先ほど、人間とは偉い肩書きの先生が言うことを信じると書きました。
残念ながら日本では泥舟とわかっていても『どうする家康』を褒める忖度の空気が漂っています。
それはなぜか?
結局はお金ではありませんか。どうしたって戦国時代は金になる定番コンテンツですからね。そこに群がれば甘い汁は吸える。
戦国時代をモチーフにしたキラーコンテンツを作れば、金が回るシステムはあるとみてよいのでしょう。

どの大河でも、イベントなりグッズ販売などでお金が回るとは思いますし、それがその地域の活性化につながっているとは思います。昨年の『鎌倉殿の13人』だってご当地グッズはありました。なぜか武者さんは、それ(特に義時の名がついたアイテム)を貶めるようなことを言ってはいましたが。

そして
「人間とは偉い肩書きの先生が言うことを信じると書きました」
偉い肩書というか、
「立派な肩書を持つ第一人者」
とでも言いたいのでしょうか。別に立派な肩書と言うより、その人がどのような研究をしているかにはよりますし、また大河の場合、考証を担当している人がなぜそうしたのかを知る上では、その人の記事やコメント、SNS投稿は注目するべきではあるでしょう。

私は驚いたことがあります。こんな言葉がネットにあった。
「大河ドラマの記事を書いて金を儲けているくせに、批判するとは何事だ!」
一体なんなのでしょう。批評家の存在意義すら理解できないのか。

武者さんが自分が好きな大河にも批判をきちんとしており、嫌いな大河でも見るべき部分を指摘しているのであれば、それは納得できます。ただ今まで、そのような例が今までどのくらいあったでしょうか。

日本史ではない、歴史研究者のオンライン講義でのことです。
大河ドラマの話題が出ました。その先生は明らかに苦々しい、苛立った口調で話していました。
そして中国で教鞭をとる日本史研究者と、そのフォロワーでのやり取りにこんな内容がありました。
「講義で大河ドラマを教材に使おうかと思っています」
「えー、でも、『どうする家康』を使ったらむしろ学生の知識が落ちますよ」
「むろん、まともな大河ドラマだけを使います!」
忖度がない意見ならば、こうなるわけですね。
海外の日本史ファンは相当冷たい目でこの駄作を眺めています。

ではそのオンライン講義のテーマと、研究者の名前を挙げてください。
それから、海外の日本史ファンの意見も、スクショか何か取れないのでしょうか。それがないと、ただ武者さんがそう言いたいから言っているだけに過ぎません。

それはそうでしょう。当たり前です。国内でコタツ提灯記事をビカビカ光らせたところで、何の意味もない。
私はそんな意味のないことに加担したくありません。今だけではなく、一手先、二手先を見てゆけば、こんなものを褒めれば後悔すると予測できます。

それは貴方の好きな大河でも同じようなものですよ。いくら武者さんが好きでほめそやす大河の関連記事でも、それを提灯だと言っている人もまたいたでしょう。

私はそんなことには加担できない。そんな恥ずかしいことだけは御免です。
こんな大河は忘れましょう……

忘れましょうと言いつつ、

色々とまとめることはあるので、後日、あらためて記事を出させていただきます。

貴方どっちなんですか。忘れるならとっとと忘れてください、このコラムだけでも6ページも使って、結局いつもの繰り言と、ゴシップを並べているに他ならないのではないでしょうか。
そしてこれよりもう少し前で

群れるというのは、そんなに楽しいことなのでしょうか?
どうにもわからない。私はこれまでも、これからも、“ぼっちクソレビュアー”で結構です。

武者さんが「ぼっちクソレビュアー」だろうが、別に私は共感や同情はしません。一方で群れるということを否定していながら、何かにつけて自分の主張を押し通し、同調者を求めるような姿勢が見えるかとは思います。

この大河から学べるものは多かったと思います。しかしこのコラムでは、嫌いな大河への対応としてありがちな、のっけからの叩きまくり、すべてを否定する姿勢が、『青天を衝け』に続いて、また繰り返されましたね。

あと平原学氏のnote記事が久々に更新されています。

【どうする家康】ラストの東京タワーの意味。最終回でも輝いた松潤の演技のスゴみとは。最終回「神の君へ」雑感

第45回の氏真の「本当のおぬしに戻れる日もきっと来る」、現代人への問題提起としての現代の日本の姿、そして「ドラマを楽しんでいた者も『反省会勢』も、両者が反省すべきこととは。『乱世の亡霊』に憑りつかれるな」等々書かれています。



飲み物-ポーターとクルミ
[ 2023/12/24 00:30 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)

『どうする家康』第48回に関しての武将ジャパンの記事について-5

第48回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその5です。


竹千代が出てくるときの照明とBGMが酷い。
松平信康に尋ねられると、当人は後継ぎだそうで、なんでも家康そっくりなんだとか。
それはろくでもない奴ですね。

瀬名が「初めてお会いした頃の誰かさんにそっくり」と言っていますね。
そして、存外神でも狸でもないことを見抜かれているかも知れないとも言っています。大した奴ではないかと思いますね。

そして先日書いた、子役の使い回しができないから駄作呼ばわりに始まり、
「もう、この時点で柳生十兵衛を呼んできて欲しい。竹千代相手に剣術指導をビシバシとして欲しい」
だから、家光より年下で小姓の十兵衛が、どうやって剣術指南をするのですか?この場合指導するのは、貴方が大坂の陣で人を斬ったと書いた、柳生宗矩ですよ。確かこの時が、彼が人を斬った最初で最後の例とされています。

で、「マザーセナ」(しつこい)が褒める臭いセリフ(前出の『存外見抜かれている』)を言うだの、ラストシーンまで所作があやふや(どのシーンの所作ですか?)だの。そして竹千代の絵が「マザーセナ教団名物である白ウサギ」だの。特定の作品をこき下ろして自己満足というのも、寂しいものだなと思いますがそれはともかく。

しかし、死にかけた神のもとに孫も自由に出入りできるんですね。

自由に出入りしていませんよ。御簾の下からそっと差し入れただけでしょう。恐らく、おじじ様は具合が悪いから、静かにしているようにとでも福に言われたのでしょう。

そんなゆるい警備だから『柳生一族の陰謀』ラストで、十兵衛が家光を生首にできるんですよ!
これは夢じゃ、夢でござーーーーーるーーーーーー!
すみません、錯乱してしまいました。ほんとうにこんな大河、夢だったらどれだけよかったか。

貴方実際の十兵衛について書きたいのですか、『柳生一族の陰謀』について書きたいのですか。どっちなの?
「ほんとうにこんな大河、夢だったらどれだけよかったか」
お金を貰っているコラムで、自分の主観だけでものを言わないこと。
あとこれは昭和50年代の作品ですが、そういう時代て武者さん嫌いじゃないのですか?

そして「鯉、心の底からどうでもいい」なる見出しで、

名前も覚えたくないどうでもいい家臣Aと Bが若君御祝言の日だと言い出す。
目覚めたら若返っていたという作りが、転生もの漫画のようでいかにも安っぽい。

家臣A-鳥居元忠、Bー平岩親吉
目覚めたらではありません。これ自体が寧ろ夢なのでしょう。

そしてどうでもいい鯉の話になる。

だったらスルーすればいいのに、やけに詳しく書いていますね。で、ことのいきさつが書かれていて、鯉が消えてしまって

「もう腐った鯉を口に詰めて始末したくなる連中だ! くそたわけが!
まさか、本作の光秀を肯定的に思い出してしまうなんて一生の不覚です」

肯定的に思い出しているのではなく、わざわざ名前を出そうとしていませんか?
そして
「制作者たちは、こんな話が本気で面白いとでも思っているんですかね」
「実際に、鯉を食べた家臣をかばった逸話はあるそうです。それを素直に流せばよいのに、古臭いセンスで長引かせる」

どこが古臭いのがわかりませんが、鯉の話は『岩淵夜話』第十五話に登場し、それは鈴木久三郎が鯉を食べたという設定になっています。

岩淵夜話 -徳川家康説話集ー

というか、武者さん自分で調べてはどうですか?本当に何も調べない人だなと思いますね。

そしてこれを基にしたのは、確か1983年の『徳川家康』にあったのでは。しかし、恐らくそれを素直に流せば、また武者さんがあれこれ言いそうな気がします。

どうにも三谷幸喜さんや宮藤官九郎さんと同世代の男性脚本家には、何か思い違いをしているのではないかと思えることがあります。
(中略)
穴埋めにダラダラと台詞を書かれたところで、誰の胸にも全く響きません。

それを言うのなら、三谷さんや宮藤氏(『いだてん』の後半、かなり批判していたと思いますが)の作品だけ観ていればいい話です。古沢氏のファンもいるわけだし、何度も書きますが、大河は、武者さんだけのために作っているのではありません。何か勘違いしていませんか?それも、武者さんが制作から何からすべて請け負えば別ですが、口だけ出しているに過ぎないのではないでしょうか?

こんなくだらないことを放送するための最終回延長でしょうか?
延長する意義が全くない。
ただ若い松潤フェイスを見せつけて流したいだけに思えます。

三河以来の家臣が総出であったこと、これが何を意味しているのでしょうか。まあ、家臣の名前すら覚えようとせず、AとかBとか書くようであればちょっと理解し難いかも知れませんね。

要するに教祖・家康を讃えたいらしい。
家臣団が蘇ってどんちゃん騒ぎ。
一体このドラマはなんだったのか?
結局、アイドルのプロモビデオだったんですかね。セットもVFXも、衣装も改めてひどいと思う。
テンポも悪い。

「家臣団が蘇って」
それは違うでしょう。あれは家康の恐らく夢で、その中に岡崎時代の自分や家臣たちが登場するわけですから。『おんな城主 直虎』で、最期を迎えたおとわの前に、子供の頃の亀之丞や鶴丸、龍雲丸が出て来るのとちょっと似ています。

「一体このドラマはなんだったのか?」
大河ドラマです。

「結局、アイドルのプロモビデオだったんですかね。セットもVFXも、衣装も改めてひどいと思う」
貴方この間も同じようなこと言っていましたね。そして「改めてひどい」てどうひどいのですか?

長い原作をテキパキとつなげた『大奥』の後に本作を見るのは、ただただ苦行。

これで3度めかな、『どうする家康』には原作がありませんから、それを持ち出しても適切な比較対象にはなりませんよ。

ひどいBGMを背景に、かっこつけた家康が死ぬ。
妙に光があたった状態で死ぬ。
そしてえびすくい。
しつけーーーーー!

まだあの時点で死んだかどうか定かではありませんが、それが間近であるとは言えますね。
そして『えびすくい』、これほどこの大河を象徴する音楽というか踊りも、他にないかと思います。最終回でもう一度出て来るかなと思っていたら、エンディングがこれでしたね。

そういえば、同じ古沢さん脚本の映画「レジェンド&バタフライ」も1月27日から公開される。
木村拓哉“信長”と岡田准一“信長”を見比べてみるのも一興かもしれない。
綾瀬はるか“濃姫”に対して、「どうする家康」の濃姫は誰なのかしらん。
映画もドラマも最低の信長でした。
本作に濃姫は出てこないどころか、自称男勝りの阿茶で似たようなキャラで使い回しされています。

濃姫と阿茶局、全然違うと思いますけどね。
そして最低の信長とは何をもってそう決めつけるのでしょうね。
演じた俳優さんが、どちらもジャニーズ(当時)だったからでしょうか。

『麒麟がくる』の染谷信長のあとは『首』の加瀬信長で上書きされました。
思えば“えびすくい”の時点で、このドラマは終わっていたのです。
「なんてよき光景でしょう」
マザーセナがそう言います。
遠くに何らかのタワーのような塔とビル群が見える。
つくづく最低のお遊びでした。

また『首』ですか、他作品のPRはもういいですよ。PRやめて元の2ページに戻して貰えませんか。
そして
「えびすくい”の時点で、このドラマは終わっていた」
『えびすくい』は今まで10回以上出て来て、それぞれ登場した時期は異なりますが、どの時期を言っているのでしょうか。そして後の江戸、ひいては今の東京が出てくるのが何か悪いですか?家康は江戸を作った人物ですよ。

結局のところ、今年の大河は国王になる夢を抱いたタレントのために、その野心をお膳立てした茶番だったのでしょう。
◆松本潤の大きすぎる夢に山田裕貴も大爆笑。「国王になりたい。通貨は“潤”でしょ!」(→link)

面白いと思いますけどね。というか、松本さんがジョークで言っているのもわからないとは…。

もはや耐えきれず、『首』の予告編を見直しました。
「さっさと死ねよ」
「どうせお前、死ぬけどな」
そう口にする秀吉に同意します。
本作の口直しには北野映画『首』が最適です。駄作はとっとと記憶から焼き消し、次へ向かいましょう。

だから『首』のPRならほかでやってください。はっきり言ってうざいです。そしてもしアフィリエイトなら、ちゃんとその旨を明記してください。
貴方はこれを駄作と思っていて早く記憶から消したいのかも知れませんが、この大河が好きで忘れたくないという人もいるのです。余計なお世話だと言う人だっているでしょう。その割に、来年以降この作品を何かにつけて叩きそうな予感もしていますけどね。

またしつこく『三国志』の話をします。
諸葛亮が頑張っている後半は、くどくて面白くないと思えることが増えてしまいます。
(中略)
しかし、似たようなことを七度やられてもくどいのです。
なぜ、この話をするのか?
というと、結局このドラマは同じ話を使いまわしていると気づきました。
今川氏真。
武田勝頼。
織田信長。
豊臣秀吉。
石田三成。
そして茶々と豊臣秀頼。
全員が、だいたい家康とわかりあっている設定です。

私は武者さんが、同じようなネタ(マザーセナだのレーシックお愛だの筆の持ち方だの)を何度も持ち出してくる方がくどいです。そして主君が同じ人物だった場合、似たような展開になる例は他にもありました。戦国大河の多くはそうでしょう。

しかし、武田勝頼はそれほど家康とわかりあっていましたか?信玄つながりではありましたが、信長や秀吉との関係とはまた違っていたかと思います。

で、家康は悪くないのに、相手が何かやらかして自滅するように滅びる。そういう同じことの繰り返しよ。
なぜそうなるかというと、それしかパターンがないのでしょうね。
信じあって愛し合っているのに、戦になるなんて……それだけです。それしかありません。

家康は悪くないのにではなく、家康が同盟を結んだ、あるいは仕えることになった相手が一代の野心家で、彼らが倒れた時に後継者がおらず、あるいは三法師のように後継者を他人が決めてしまい、そこで何をすべきかを迫られる展開ですね。で、この上でも書いていますが、戦国大河というのはこのパターンが多いわけです。ただ家康の場合、今回のように若く微力な存在としては描かれないことが多く、それが視聴者によって見方が分かれるところでしょう。

それなのに、どうして大河を引き受けたのでしょうか?

逆に、こういう家康を描くのも新鮮であること、また松本潤さんのキャラを生かすには、こういう形の方がいいと思ってのことではないでしょうか。何も大河は、特定のパターンで描かなければならないという決まりはありません。
私も当初は心配でしたが、今は観てよかったと思っています。

今年の大河ドラマは何かに忖度しているのか?と思うほど、庇う記事が多い。
◆NHK大河「どうする家康」コア層に響いた画期的な演出 戦なき世へ邁進 北川景子と松本潤の最期で完結する「人間ドラマ」(→link)
◆ 茶々の心を闇から光へと戻すには十分な言葉(→link)
◆ 『どうする家康』効果的だった北川景子の一人二役 市と茶々を演じたことで伝わった武将たちの長く濃密な歴史(→link)

まず忖度という言葉ですが、本当は斟酌でしょうけどね。
そして庇う記事と言いますが、メディアにもよるものの、どの大河も概ね肯定的であるものが多いです。これは昨年も、『麒麟がくる』でもそうでした。武者さんにしてみれば、嫌いな大河が肯定的に見られるのが嫌なのだろうと思いますが、そして何度も言いますが、大河は貴方のためだけにあるのではありません。

この記事をあわせて読むと、本作の「心」とは結局、色恋沙汰だけなのだとわかります。
どうやら歴史好き(言外に退屈で堅苦しい隠キャと貶めたい欲求が滲んでいます)は嫌うが、人の心を読み取れる陽キャで、心優しく、センスがあって、イケてるドラマ通は見抜ける。
そういうファンの心をくすぐる記事を生産しているとわかります。

「色恋沙汰だけ」というのも妙なものです。うち2つは茶々の心の動きについて主に触れているし、最初の鈴木氏の記事は、視聴のされ方について述べたものです。どこが色恋なのでしょうか。そして、歴史好きがこの大河を楽しんでいない、記事を読んでいないという根拠はあるのでしょうか。

何よりも、すぐ色恋だと決めつけるところが、ドラマをきちんと観ているように見えない所以なのですが。

知識や教養、時事問題では、何か価値のあることは言えない。
そのくせドラマの見当違いな感想、ゴシップの類、どこぞで仕入れた下劣なネタをしゃべりまくることで、自分は世間ずれしていて賢いと主張したいタイプ。
本作は、そういう層をピンポイントに狙ったということでしょうか?

「そのくせドラマの見当違いな感想、ゴシップの類、どこぞで仕入れた下劣なネタをしゃべりまくることで、自分は世間ずれしていて賢いと主張したいタイプ」
すみません、これも何だかブーメランに見えて仕方ないのですけど。

『大奥』最終回を見ていて『どうする家康』は、なんてくだらないのかと改めて呆れてしまいました。
『大奥』では、激務の果てに夭折した家茂を思い、御台である和宮が嘆きます。
国も徳川もどうでもいい。綺麗な服を着て、カステラを食べて、お茶でも飲んでいたらそれでよかったのにと。
この言葉が胸に響くのは、和宮も、彼女にとって最愛の存在である家茂も、それができないとわかっているから。

私は『大奥』はよく知りませんが、亡き母の思いを受け継いだ茶々も、きれいな服を着て、秀頼の母親として大坂城にいれば、それなりの地位は保てたはずです。しかしお市の思いを受け継いだ茶々は、それだけで収まる人物ではありませんでした。

和宮は嫌だという気持ちを封じてでも、世のために、徳川のために、危険を承知で西郷隆盛を説得する場に乗り込んでゆきます。
人の心に感動するというのは、そんな誠実で、責任感があり、美しいものと出逢った時ではありませんか?

茶々も世のためという言葉を使っていますよ。
ただ彼女の場合は、偽の天下人である家康を滅ぼし、豊臣の世を再興することでした。それが破滅につながって行くわけですが、これもまた己の心に忠実で、夫秀吉と子秀頼のためであり、その行為は見方によっては美しかったでしょう。
それと茶々を演じた北川景子さん、この
「『どうする家康』効果的だった北川景子の一人二役 市と茶々を演じたことで伝わった武将たちの長く濃密な歴史」
にありますが、『西郷どん』では篤姫役でした。そしてその篤姫が西郷隆盛を説得するシーンがありましたね。

それがこの『どうする家康』では、ただひたすら下卑ていて汚らしい感情ばかりが目につく。ニタニタしながら相手を見下し、マウントを取る時ばかりにリアリティがある。

どこが下卑ていて、どこが汚らしいのかまるで具体性がありません。
そして何かにつけて『大奥』がどうのこうの、叩き棒にされる『大奥』も気の毒ですが、時代背景も舞台も異なる『どうする家康』と単純比較して、あれがいいこれがいいと言っても、どうしようもないと思うのですけど。結局貴方のこの大河への評価は、何かを叩き棒にして貶めること、それを確信させられる1年でした。


飲み物-ワインと暖炉の火
[ 2023/12/22 22:00 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)

『どうする家康』第48回に関しての武将ジャパンの記事について-3

第48回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。


まず、相手が甲冑を着ていても刀を使うシーンについて。この場合甲冑で隠れていない部分を狙っています。

第42回の伏見城の戦いの千代。相手の顔から首を刀で狙っています。

どうする家康伏見城の戦い千代

そして第48回の大坂夏の陣の明石全登。向かって左側に刀の柄が見えます。刀を右手で持って相手の脚を狙っています。

どうする家康大坂の陣明石全登


大坂城が燃えています。
一体どういう世界観なのか、炎が都合よく燃え、熱も感じさせないようだ。
豊臣秀頼はカッコつけて自害。
今まで見てきた切腹シーンの中でも、これほど“お芝居”に見えるものはなかった。刀を刺した瞬間の「ぶしゃ!」というサウンドエフェクトがあまりにも安っぽい。

また「カッコつけ」
実際批判と言うのは難しいもので、武者さんの場合は単なる否定か悪口にしかなっていないことが多いのですが、ここも「カッコつけ」と言っておけば、何となく印象がよくないだろう、そのように思っている感もあります。そしてSEですが、切腹とか人を斬った時は皆ああではないでしょうか。

そして炎のシーン。昭和の頃ならいざ知らず、実際にセットを燃やすわけにいは行かないのですが(肝心の俳優さんの演技にも影響しますし)。それを言うなら、『麒麟がくる』のこれ、松永久秀の自刃もそうではないでしょうか。この場合もあまり熱いと、吉田鋼太郎さんの演技に支障が出たでしょう。

麒麟がくる久秀の自刃


ここで近づく茶々も意味がわかりません。
最愛の我が子の介錯を邪魔して、彼女も十分鬼です。血を浴びて変な顔をする様子が、しみじみとくだらない。

「しみじみとくだらない」
これもよく出て来ますね。どうくだらないのかはまるで書かれませんが。

そして
「わが首を持って、生きてくだされ」
と秀頼が言ったからこそ、介錯までに「間」ができたわけですね。治長も主君である以上、どのタイミングで刀を振り下ろすか迷ったかと思います。

そして一斉の切腹タイム!
酷いサウンドエフェクトと斬首三昧。
わけのわからんセリフを吐く大野治長。

「切腹タイム!」
実に楽しそうですね。嫌いな大河の登場人物が死ぬのがそんなに愉快ですか。人が死ぬことを何だと思っているのでしょうね。そしてこれ斬首でなく介錯ではないのですか、相手の首級を取るわけでもないし。
「わけのわからんセリフ」
武者さんがちゃんと観ていないから、
「徳川は汚名を残し、豊臣は人々の心に生き続ける!」
この意味がわからないし、また前に既に出て来たセリフであることもわかっていないのかと。

本作脚本家のモットーは「歴史なんて、どうせ史実かわからない」ですから、自己流アレンジが蔓延する。はっきり言うと、アレンジしない方が秀逸だから、批判が起こるのではないでしょうか。

自己流かどうかはともかく、アレンジはどの脚本家さんもやっていることです。
あと古沢氏は歴史は勝者の記録とは言っていますが、史実かどうかわからないとは言っていません。

茶々はなかなか死にません。
『西郷どん』のラストで、無駄にタイトルロールのヒットポイントが高かった演出を思い出します。

『西郷どん』のラストですが、
西南戦争で隆盛が撃たれる→ツンとゴジャが戻ってくる→糸が子供たちに夫のことを話して聞かせる→西郷星→大久保利通暗殺と来て、若い頃の「オイは大久保正助を忘れた」のセリフ→再び西南戦争での西郷が、「もうここいらでよか」と言い、絶命する
となっていて、隆盛死去のシーンは当然後で加えられたものです。当然ですが、大久保利通暗殺まであのまま生きていたわけではありません。途中に西郷星の話が出て来るから、もうこの人は伝説になったのだなということくらいわかりますよね。

茶々が不貞腐れたように吐く台詞も酷い。
「日ノ本はつまらぬ国になる! 人目ばかりを気にし、陰でのみ妬み嘲る」
とかなんとか、このドラマの何が嫌かって、脚本家が、批判者に対してあてつけるようなセリフを入れることですね。

ふむ。武者さん、やはり心当たりというか引っかかるものがあるということでしょうか。
やましくなかったら、こんなこと書きませんからね。

劇中のセリフに乗せて「なんでこんなにがんばった私を叩くの!」と愚痴るようなことを言う。
まずは、長すぎるから端的にまとめてください。これだけ炎が燃え盛っている中で延々と喋れないでしょ? 煙で喉をやられる可能性もありそうですし、酸欠にもなりそうだ。

頑張った私を叩くのではなく(誰も叩いてませんし)、家康とは違った「戦無き世」のひとつの捉え方と見るべきでしょう。
そしてあのセリフは、あのすべてを言ってこそ茶々の人となりが窺えるものです。煙で咽喉をやられようが、酸欠になろうが、死にゆく身としてはもうよかったのではないでしょうか。

それにしても少し前で「炎が都合よく燃え、熱も感じさせないようだ」などとあるのに、若干書いていることが違って来ていませんか?
あと『端的にまとめる』より『端的に述べる』の方がいいような気も。

BGMはくだらないストリングス。
家康が手を合わせる……いや、もう、しつこいって!

そのストリングスが途切れて鈴の音に替わります。茶々の絶命ですね。
そして家康は先ほどから手を合わせています。何度も何度もやっているわけではありません。
それを言うなら、武者さんの「マザーセナ」の方がよほどしつこいです。

それにしても、無駄に長い茶々の台詞はなんだったのでしょう。
ネットのエコーチェンバー現象と重ね、海禁政策といった家光時代以降の政策まで批判しているように見受けられました。

茶々が家光の解禁政策など知る由もありません。家康の戦無き世を批判していると見るべきでしょう。彼女も秀頼も、乱世の夢を見ることを望んでいましたが、ただその乱世は茶々自身の両親や兄をも殺しており、その意味で皮肉なものでもあったわけです。

NHKスペシャルでは海禁政策強化前、家康はむしろ海外交易を推進していたとする「家康の世界地図」を放送しました。
番宣というよりも、大河で汚染された知識のリカバリ対策に思えます。NHKスペシャル内ドラマの家康描写は真っ当でした。この路線で一年描くだけで十分でしたね。

「大河で汚染された」また武者さんの悪い癖が出てますね、嫌いなものは汚物扱い。
そして大河の中でも、家康は海外との交流を断ち切るなどという描写はないし、ウィリアム・アダムスも出て来ますし、大砲や時計や「ぺんすう」ももちろんありますし、寧ろ大河の家康をより詳しく解説したように見えます。

それに最終回の後だからもう番宣ではないかと。

『青天を衝け』でも、オープニングでしばしば家康が、自分の世代以降の政策を自分のもののように語っていました。劇中では徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。

それはどのようなシーンなのか、具体的に書いて貰えますか。でないと武者さんの勝手な妄想でしかないと思います。

日本史ではありませんが、例えば本年ベストセラーの一冊などいかがでしょう。
小野寺拓也先生と田野大輔先生による『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(→amazon)です。
なぜ、この一冊なのか?
(中略)
大河ドラマで使用されるとNHKの影響力の大きさから社会悪化のリスクがありますので、ぜひとも酔いから醒めて欲しい。

特定の人物の著書を勧めていますが、これが宣伝活動もしくはPRならちゃんとその旨を書いてください。でないと違法行為の可能性があります。

それと酔いから醒める醒めないはその人の自由だと思います。

そしてここであの酷いナレーションが神の君を褒める
「かくして戦なき安寧の世が訪れました」と富士山と江戸の町のようなアニメーションが流れます。

「富士山と江戸の町のようなアニメーション」完結編のOPの最後の方は第44回以外すべてこれですが?
OPもちゃんと観ていないようですね。

肝心のアニメにしても、その安っぽさときたら、無料で入手できる画像素材から引っ張ってきたような色合いで、精巧さのカケラも感じられません。
日本画の技法や効果なども意識されてないのでしょう。歴史や伝統に敬意を払わない様子が伝わってきて嘆かわしいばかりです。

アニメや日本画的手法は、使われない部分と使うべき部分が分かれていると思います。千姫の猫の絵などはちゃんと日本画的手法を用いていました。

タイトルバックが最終形に!
(『どうする家康』公式サイト)

そして畝(うね)る波のような時代の変遷の先に民や町が見えてくる。それら全てをじっと見ている富士の山。その後200年以上も戦のない太平が続くのを歓迎するように桜が舞う。

が、コンセプトのようです。
それに武者さん、この菱川氏は『八重の桜』のタイトルバックも手掛けている方なのですけど。

茶店の老婆も鬱陶しいだけ。
その老婆に対して、雑な関西弁で絡み、家康の悪口を喋る連中も見てられない。
このドラマは陰口を叩く場面が本当に多かった。

蔭口とか悪口はどの大河でも普通に出て来ます。
嫌いな大河の場合、武者さんが意識してそういうのを探しているから、多く感じられるのではありませんか。そして茶店の老婆、またかなり長生きですが、ああいうのもオリキャラゆえのひとつの形でしょうね。

光秀が討たれた後、レーシックお愛がいやらしい顔をして、光秀の容姿を揶揄していました。登場人物の根性が悪く見えて仕方ない。真っ当な人格者っていました?

光秀の容姿ですが、於愛が揶揄するシーンありましたか?秀吉が「今までで一番ええ顔だわ」と、皮肉とも取れる言葉をぶつけてはいましたが。
そして
「真っ当な人格者がいない」
のではなく、武者さんにしてみれば
「皆が嫌な人物に見えて仕方ない」
のでしょうね。

何よりも、「レーシックお愛」などと自分で勝手に登場人物を揶揄するようなことをしておいて、光秀の容姿を揶揄するなと言うのもどうかと思います。

そして「もう麒麟には近寄らないでください」とかで

小栗旬さんの南光坊天海が出てきました。
無駄使いとはまさにこのこと。
それは小栗旬さん自身も感じていたようで、こちらのインタビュー(→link)に滲み出ています。
以下の部分です。
「ただ実を言うと、天海がこの時代にはかなりの高齢だということを、僕がいまいちわかってなくて。
かつらやメークを合わせていくうちに「果たしてこれは、私であるべき役なんだろか?」っていうクエスチョンが浮かんだまま、撮影当日にたどり着きました(笑)」
(笑)で誤魔化していますけど、要は、これ「俺でなきゃダメなの?誰でもよくない?」と思っていた証であり、よくぞ公式サイトに掲載したなぁ、と思います。

武者さんが無駄遣い無駄遣いと強調したいだけなのでしょうか。
それ以外の部分には
「最後の最後でオファーをいただいて出演できるのはうれしい」
「戦国時代に、また全然違うキャラクターで出させてもらったのは感慨深い」
さらに『源氏物語』と『吾妻鏡』について、
「大河と大河の橋渡しと言いますか、何かしらつなげる役割も果たせたのかなと思っている」
とありますが。

南光坊天海
(『どうする家康』公式サイト)

最後の最後で話題作りのためだけに小栗さんを登場させるなんて失礼極まりない話であり、今年の制作陣には真っ当に作品を仕上げる矜持がないのかと問いたくもなる。
そもそも本作は小栗さんを引っ張り出して良かったのですかね。
家康と比較すると加齢演技の差があまりに開きすぎで……。

その「話題作り」の裏付けはありますか?
なぜ今年の制作陣には、真っ当に作品を仕上げる矜持がないのかと問いたくもなるのですか?
加齢演技の差にどういう開きがあるのか、ちゃんと書いてください、でないとこれも武者さんの勝手な妄想でしかありません。

そもそも大河レビューをちゃんと書こうという矜持が貴方にあるのですか?
そういう人から矜持矜持と言ってほしくないのですけど。

そして
「長谷川博己さんが泥舟に乗らずに済んだだけでよしとすべきかもしれません」
そう言えば長谷川さんは再放送中の、それも武者さんが嫌いな『まんぷく』に出演していますね。

あと「もう麒麟には近寄らないでください」などと言っても、それは武者さんが特別視しているだけの話です。これとて大河の一作品であり、他の作品同様好きでない人もいるでしょうし、出演者が他の大河に出ることもあるし、他の戦国大河と様々な形で比較されることもまたあります。

しかし特別視する一方で叩き棒に使ったりしているのですね。
本当に好きな人がやることではないなと思いますが。


飲み物-エールと暖炉の火
[ 2023/12/21 21:30 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)
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『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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