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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『光る君へ』第15回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

第15回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。尚今回、このコラム関連投稿は4回に分けて行います。


寺にたどり着くと、誦経をするまひろとさわ。さわはすぐに飽きてしまい、まひろに嗜められています。

武者さん以前もそうでしたが、「窘める」を「嗜める」と変換する傾向があるようです。どうにかならないでしょうか。

まひろが幼いころからあんなドロドロ日記を愛読していたのか。当時はまだそんなに選べる作品がありませんから、ともかく文字であれば読んでしまう少女だったのでしょう。

ここでも「ドロドロ」ですか。この『蜻蛉日記』に書かれているのは、何も恋愛関係だけではなく、筆者道綱母(ここでは寧子)の旅先での出来事であるとか、道綱の成長などもあり、そういうのもまた彼女に取って、いわば学びとなったのではないでしょうか。

それにしても兼家は、なぜあの日記が広まることを喜んだのでしょう。
こんな女にモテる俺ってすごい!
といった自慢の類でしょうか。

この日記には「嘆きつつ一人寝る世の明くる間は」のみならず和歌がいくつか紹介されているのも、その理由の1つではないでしょうか。そしてその中には、兼家につれなくしている歌(『語らはむ 人なき里に ほととぎす かひなるべき 声な古しそ』)などもあり、必ずしも
「こんな女にモテる俺ってすごい!」
ではなさそうです。(この辺武者さんらしい見方だなとは思いますが)

そして石山寺で月を見た紫式部が、『源氏物語』を思いついたという伝承はあるが、それはあくまでも伝承である。ドラマではそれを無視するパターンもあり、たとえば「弁慶の立ち往生」説は、『鎌倉殿の13人』ではなかったとあって、次に『麒麟がくる』が登場します。こちらでは

伝説があると踏まえた上で、少しずらして出すパターンは『麒麟がくる』にありました。
織田信長の「敦盛」です。
織田信長が燃え盛る本能寺で舞うシーンは定番ですが、ドラマでの信長は戦うだけで舞ってはいません。
しかし、桶狭間の戦いへ向かう前に舞う場面がある。
そう前倒しにすることで、桶狭間の戦いがいかに信長にとって危ういものであったかがわかる作りともいえました。

まず信長が『敦盛』を舞うシーンですが、『信長公記』には桶狭間の前に舞ったとあります。実は私も、『敦盛』は桶狭間の前に舞ったものであると覚えました。
本能寺の変で舞ったという説もあるようですが、少なくとも『麒麟がくる』の場合、『信長公記』を踏まえて、桶狭間の前に舞う設定にしたのではないでしょうか。前倒しではないかと思われます。

そして本当に好きな大河しか引き合いに出しませんね。
たとえば『軍師官兵衛』の「お前の左手は何をしていた」はそのまま持って来ていますし、『どうする家康』の三方ヶ原での家康は、団子屋の老婆が面白おかしく作ったという設定になっています。こういうのを引き合いに出してもいいのでは。

まひろが石山寺で月を見て執筆するとは考えにくい。もっと最新研究を反映させて執筆に向かわせると思われます。

その「最新研究」というのはどのようなものですか?
こう書く以上、武者さんが彼女に関する最新研究の文献、あるいは論文などに目を通しているとこちらは思ってしまいます。もしそうでないのなら、別に最新研究などと言わなくても、これが『源氏物語』の執筆に、どのように反映されるか楽しみだくらいでいいのでは。

しかも藤原寧子(藤原道綱母)を出すことで、『源氏物語』に『蜻蛉日記』が影響を与えたこともしっかりとカバーしてくる。
なんとも秀逸な作りではありませんか。

こういう描写は他の大河でも見られるもので、武者さんが好きな大河に限らないのではないかと思います。結局好きな大河だから秀逸だ、匠の技だと言いたいのだろうなとしか思えません。
それを言うのであれば、『どうする家康』の伊賀越えで、一旦三河から追放された本多正信が交渉して家康一行を助け、再び家中に戻るシーンなども観ていて面白いなと思いましたし。

石山寺では『源氏物語』の嫌なシチュエーションを彷彿とさせるシーンもありました。
藤原道綱がそっと忍んできた場面です。
彼が寝所へやってくると、さわは受け入れる体制となりました。家から抜け出したい彼女は、いっそのこと道綱と……という思いは感じます。

まずこの少し前、2人が道綱と対面するシーンですが、まひろが「日記に出て来た道綱に会えて嬉しい」と思っているのに対し、さわは男性として道綱を見ているように思われます。そして寝言でも「道綱様」と言っている以上、その道綱が忍んで来たのは、彼女としては嬉しかったのではないでしょうか。これが「家にいづらい」気持ちとどうかかわっているかは定かではありませんが。

で、『源氏物語』と明石の君の出会いのことが書かれており、さらにその次の部分で、

「あれ? すまぬ、間違っておった、すまぬ」
そう言いだす道綱。まひろと間違ったようです。
さわがそう問い詰めると、苦しい言い訳をします。妻もいて、妾もいるので、そなたを抱くのはよくないと気づいたとか。
「偽りを!」
怒るさわ。弁解しようとして「まひろ」と口にする道綱。謝りながら出ていくしかありません。

ここですが、さわは怒ると言うより悲しんでいるように見えます。そして「まひろ」と口にしたことより、自分の名前を「さと」と間違われたことの方が、彼女に取っては辛かったのではないでしょうか。それが鬱憤がたまる一因ともなったようです。
あと道綱は
「これ以上悲しむ女子を作ることはできぬ」
とも言っていますが、これも自分の母親のことをいくらか踏まえているようにも見えます。あるいは妾の1人に自身も辛い思いをさせたのでしょうか。そして謝りながらと言うより、許せと一言言って出て行っていますね。

でその後、また『源氏物語』関連で、空蝉と契ろうとして相手が軒端荻であると知りつつ関係を持ち、後朝の文も送らず弄んだだけだった、道綱はそうしないだけマシだ、あるいは大河ではそれは不可能だからかといったことが書かれており、

まぁ、それでも道綱は最低だと思えますが、上地雄輔さんのこぼれんばかりの愛嬌がカバーしています。

別に道綱は最低だとは思いませんが、性格の良さもあるのか、こういうことに対していささか不器用であるかとは思われます。そしてこれも『功名が辻』で、金ヶ崎から京に戻った際、忍びの女小りんと関係を持ってしまったことを、千代に正直に打ち明ける一豊を思わせます。

そしてその翌日のさわの言葉。

「私には才気もなく、殿御を惹きつけるほどの魅力もなく、家とて居場所がなく……もう死んでしまいたい!」
野村麻純さんの愛くるしさもあって、道綱にあらためて呆れてしまいます。
母の姿を見て、男の不実に苦しむ姿に胸を痛めていたというシーンがありましたが、あれはなんだったのか。日記では悲しんでいるのに。

「道綱にあらためて呆れてしまいます」
武者さん、何だか道綱をかなり悪者扱いしているようですが、別にさわは、道綱の妾でも何でもありません。ですから、母が苦しむ姿に胸を痛めていたのと、必ずしも比較はできないかと思われます。

寧ろ道綱の人のよさが、かえってさわを傷つけてしまった感もありますし(『功名が辻』でも、一豊に打ち明けられた後千代が家出してましたし)。さわもまた家で居場所がなく、殿御と巡り合いたいという願望を掛けに行った石山寺で、道綱と出会ってちょっと心を躍らせたかに見えたものの、まひろと間違えられたことも加わって、少しもうまく行かない、もういやだという、いくらか衝動的な気持ちにかられたかとは思います。

しかし、そんな嘆きすら吹き飛ばす変異が生じています。
目の前の川には死体が……都では疫病が流行し始めていたのでした。

「嘆きすら吹き飛ば」したかどうかはわかりません。
恐らくさわは、川に飛び込もうとでも思っていたのでしょう。しかし意外な光景を目の当たりにして、さわのみならず皆呆然としてしまったのですね。

飲み物-ワインと樽2
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[ 2024/04/19 01:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第15回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第15回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。
まず本文へ行く前に。

以前から思っていたのですが、本来の更新日とコメントの日付が異なっていることがたまにあります。実は私は、今回このコラムには16日に初めてアクセスしました。すると、4月16日の更新となっています。
通常このコラムは月曜日にアップされるわけで、コメントも15日付になっています。ということは、15日に一旦アップされたうえで、修正または加筆が行われたのでしょうか。


では本題に行きます。

さらには一条天皇の母である藤原詮子を、職御曹司(しきみぞうし)へと出します。

職御曹司について何も書かれていませんが、中務(なかつかさ)省に属する、中宮職(しき)の建物のことで、元々はすべての后妃に関する事務を取り仕切っていましたが、その後皇太后、皇后、中宮の並立により、それぞれ専門職が置かれるようになりました。

定子も一時期、ここを仮の御所としています。『枕草子』第87段に「職の御曹司におはします頃、西の廂にて」とありますね。

藤原道兼が家にやってきて居座っているとか。三日前に腹を空かせて現れ、何か食わせて欲しいと言ってきたとのこと。公任が以前「尽くす」と言っていた言質を取られたようです。
夕餉と酒を出したら酔い潰れ、家から出て行かなくなかったようで、まるで野良犬です。

まず、公任によれば道兼が来たのは「五日前」ですね。
そして「まるで野良犬」という表現はちょっとないかと。自暴自棄になって、傍目にはかなりみじめな有り様となっているのは確かですが。

繁子が道兼の屋敷から出て行ったように思えましたが、道兼が追い出されていたのでしょうか。だとすれば婿取り婚の恐ろしさを痛感させられます。

まず前回、この当時は婿を取れば新婚夫婦の屋敷になり、親たちは別に住む習慣があったことについて書いています。そして、たけたけさんのnote記事にも、道兼が粟田殿を作っていたことが書かれています。

第一、繁子と尊子に出て行かれた後もあの屋敷に道兼はいて、その近くにネズミがいたわけですから、しばらくはあのままあそこにいたと考えるべきでは。

この道兼が実に面白い。服装がだらけきっているのです。
当時の衣装を分解した状態で見られるというのは貴重な機会でもあります。構造を知っていると映像にも反映できて、「光る君絵」を描く方たちも助かるはず。

「当時の衣装を分解した状態で見られる」
ちょっとよく意味が分からないのですが…衣装を分解するというと、すべてほどいて布にするような印象を受けますが。
そして「光る君絵」て何ですか?

この場面は、脚本家の大石静さんが、玉置玲央さんの魅力を全部出し切るという気合を込めて書き、それに演じる側も演じさせる側も全力で応じた感があります。
これほどまでに切なく侘しく、意地悪な堕落があるものでしょうか。

「応じた感があります」ですか。こういうのは、脚本サイドや演じる側のコメントがあって成り立つものだと思います。個人の感想を述べたいのなら、個人のブログなりサイトなりでやってほしいのですが。
ちなみに『功名が辻』でも、一国一城の主になりそこねた一豊が、出仕を拒んで引きこもっていたため、母の法秀尼が訪ねて来て一豊を叱り、死になさいと言うシーンがありますね。あれにちょっと似ているような気がします。

「心配じゃ、心配じゃ、心配じゃ、心配じゃ……」
四回も繰り返しているのは「天譴論」(てんけんろん)を踏まえてもいるのでしょう。
中国由来の思想で、為政者が堕落すると、それを罰するために天意が禍を起こすという考え方です。

ここで『天譴論』なのかと思っていたら、どうやらその次で『青天を衝け』叩きをやりたいからのようで、関連ページのリンクが貼られていました。
あと「施政者が堕落する」と言うより「王道にそむく」という考えでしょうね。

すると、涙で前が見えないと感動しながら、“いと”が酒を取りに向かいます。酒などあったのかと為時が驚いていると、この時のために作っていたようです。余った穀物を醸していたのですね。
酒というのは案外簡単に作れます。現代人がそう思えないのは酒造が法律で規制されているからでしょう。

ここで酒造りの話ですか。
そして「余った穀物を醸していたのですね」とありますが、ドラマではそういうシーンは出て来ないのですけど。

このとき、まひろは心でこう考えていました。
不出来だった弟が、この家の望みの綱となった。男であったらなんて、考えても虚しいだけ――。
その思いが琵琶に乗ってしまったのでしょうか。
(中略)
この憂いは、決して過去のものではありません。
◆「このままでは東大は地盤沈下する!」副学長が語る、男だらけの東大を変えるために必要なこと 男性8割、私立中高一貫校出身多数の均質空間で、多様な研究は望めない(→link)
なぜ、男ばかりが高等教育を受けられるの?
今もまひろのように悩む人はいることでしょう。
(中略)
今もまひろのように嘆く人がいる――そう突きつけてくる今年の大河ドラマは、かなり画期的なことに挑んでいます。

平安時代の大学寮と、今の大学を単純比較して語るべきものでしょうか。
あの当時は男性は官職についてしかるべき女性に婿入りし、女性は家屋敷や財産を親から受け継ぐシステムになっていました。大学寮が男性のための官吏養成機関になるのも、当然のことと言えるでしょう。あと「男であったら」云々は、惟規の「姉上が男だったら」を踏まえているでしょうね。
そして今の大学の件、武者さんは男女比率にこだわっているようですが、それを合わせるのが本当に平等になるのか、その点にも突っ込んでほしいものです。

成長した帝が笛を吹いています。
笛を吹く美男はアジア時代劇の華。
長い指の塩野瑛久さんは、アジア時代劇日本代表枠に入れると思える麗しさがあります。
日本の時代劇は、もっと笛を吹く場面を積極的に入れるべきでは?

貴方また「アジア時代劇」「日本代表枠」ですか。
雅びやかで心和む風景だとでも書いてほしいものですが。
そして
「日本の時代劇は、もっと笛を吹く場面を積極的に入れるべきでは?」
昨年、於愛が笛を吹いていましたがそれは無視ですか?

そして『おんな城主 直虎』でも、亀之丞が笛を吹いていましたね。

中宮の務めは皇子を産むこと。とはいえ、帝しか目に入らないようではいけない。後宮の長として全ての心を惹きつけ、中宮として輝き、それにより摂政の政治をも輝かせねばならない。

貴子の定子への言葉ですが、「中宮として輝き」とは言っていません。この場合寧ろ「後宮の長」として輝き、ここに集う女房たちをまとめ上げるように言っているかと思われます。
貴子も女房達の噂を、あるいは薄々感づいているのでしょう。

ききょうは祖父・清原深養父(きよはら の ふかやぶ)も、父・清原元輔も、天才肌の歌人として有名です。
代理の女房として働くことはききょう様の志だとまひろが祝うと、ききょうも「そうなの!」と素直に喜ぶ。

ここ「代理の」とあるから、誰かの代役としての女房務めなのかと一瞬思ったのですが、どうも「内裏」のようですね。報酬が発生しているコラムである以上、誰か校正できないのかと思います。個人ブログではないのですから。

人生が停滞しているまひろです。
こういう大河ドラマ主人公はいないわけでもありません。
『麒麟がくる』の明智光秀も、不惑すぎて花開いた遅咲きの人生で、前半生は不明点が多いものでした。
そこをどう盛り立てていくのか。まさしく創作の味わいでしょう。

これもまひろと光秀とでは、時代背景から何からまるで違います。

まひろ、つまり紫式部は藤原為時の娘で、夫宣孝と死に別れた後宮仕えをするようになったことが知られています。ですから前半生はかなり創作が入っています。
しかし光秀は斎藤道三が討ち死にして牢人となり、朝倉義景に仕える何年かの間、何をしていたかが知られていないというわけでしょう。一説によれば、その間鍼灸医として働いていたと言われています。同じ創作を入れるにしても、この両者はかなり異なっていると思いますが。

そして大河の場合、どんな人物でも創作は入っています。その生涯がよく知られている人物しかりです。前半生あるいはその一部が不明な人物のみ、創作を入れているわけではありません。

飲み物-マグに注がれたビール
[ 2024/04/17 03:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第11回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

第11回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。よせばいいのにと言いますか、また文春砲で『どうする家康』叩きをやっていますね。そして、先日投稿分の入力がおかしい箇所を訂正しています。


まひろが読んでいたのは『史記』「秦始皇本紀」と『長恨歌』です。

と言うか『長恨歌』の写しを作っていましたよね?家事の合間に。

そんな家の周辺を道長がうろつき、まひろを垣間見ています。
水仕事をする白い脛が輝くように見える。汗を拭う様もかわいらしい。
このドラマは恐ろしいことになってきました。
時代によって、どこにエロスを感じるのか変わってきます。
(中略)
答えはこのドラマの強調するところ。まひろと道長の回想シーンには、黒髪を撫でる手の動きが印象的に描かれます。女の黒髪は男の心を縛る情欲の象徴です。
そして白い脛。脛を見せることははしたないこととされます。さりげなく仕事をする女の白い脛はたまらなくセクシーで、これを見た神や仙人が落ちてくると言われたりします。

「道長がうろつき」
道長はストーカーではないと思いますが…まひろの家まで来て、入るタイミングを窺っていたのではないでしょうか。そして道長は、主にまひろが汗を拭うところに視線を送っていたと思います。そしてこの当時は、女性の髪が長いのが美女の条件とされたこともあり、男性が手を振れるのに手ごろな長さでもあったからでしょう。

髪と言えば、宣耀殿の女御(藤原芳子)の髪の長さは有名ですね。以前『枕草子』の古今集の暗記関連で、この女御について書いたことがあります。また『大鏡』にも、彼女に関する記述があります。武者さん、高御座関連で『大鏡』を読んでいたのなら、こちらにも触れてほしかったです。

大鏡「宣耀殿の女御」原文と現代語訳・解説・問題
(四季の美)

それと「久米の仙人」くらい書きましょう。

つまり道長がまひろの白い脛を覗き見るということは、彼はもう情欲の虜であることが見えてきて……ったく、けしからんドラマですね。

武者さんは勝手にけしからんと言いつつ、その実こんな大河が放送されて嬉しいと喜んでいるように見えます。好きな作品の性的な描写に関しては特にその傾向が感じられます。
ところでこの家の外のシーン、カメラアングルが道長の視線だとすれば、道長はまひろの脛など覗き見ていない、少なくとも、そちらのみに視線を集中させてはいないのですが、武者さん何を見ていたのですか。

今週、どこか暗い顔を見せていた公任。道長の後塵を拝することになる運命を察知したかのようでした。そんな公任の打算の高さが道長に移ったようにも思えます。

「どこか暗い顔を見せていた公任」
どのシーンですか?彼が登場するのは四条宮のシーンですが、あの日の明け方、花山天皇を出家させた後、公任の父である頼忠にそのことを伝えに来て、いつになく厳しい顔をしていたと話していたわけです。一体何事なのか、道長の家族は何を考えているのかという思いはあったでしょうが、「暗い顔」だったでしょうか。

そして「そんな公任の打算の高さ」とありますが、「計算高さ」のことかと。

相手の黒髪を思う。相手の白い脛を見て辛抱たまらない風情になる。相手に出会ったら即座に唇を重ねる。妾にするからわかってくれと懇願する。
道長の恋心とは、結局のところ情欲ではないかと思えてきます。
生々しい若者の思いといえばそうですが、理屈は成立します。

「辛抱たまらない」て関西で使われる表現と思われますが、武者さんは関西にお住まいなのでしょうか。
それはともかく。別に道長は髪や脛を見てまひろに心惹かれたわけでもないし、逢瀬というのはそれなりに相手へのコンタクトもあります。そして道長は「まひろの望む世を目指すから、そばにいてくれ」と言ってもいます。
情欲ではなく、相手の望むことをきちんと考えたうえで結婚しようと言ったものの、しかし正式な妻にはできないと言ったわけですね。

まひろは『史記』「秦始皇本紀」を読んでいた。奸計で権力を得た醜さがわかる箇所です。
そして『長恨歌』です。聡明な皇帝であった唐玄宗が、楊貴妃を熱愛し、政治が乱れる様を詠んでいます。
直秀のような者を減らすための善政を実現するのであれば、楊貴妃のような美女はむしろ為政者から遠ざけねばなりません。

「楊貴妃のような美女はむしろ為政者から遠ざけねばなりません」
この時の施政者の側にいる美女とは誰ですか?
と言うか、武者さんの文章より、こちらの記事の方がわかりやすいのでリンクを貼っておきます。

【光る君へ】第11話「まどう心」回想 「史記」と「長恨歌」 激しい恋心の傍ら、政治にも向き合うまひろの信念
(美術展ナビ)

ちなみにこういう記述もあります。

幼い日のまひろが三郎(道長)に語って見せたあの「馬鹿」のエピソードもこのすぐ後(注・『秦始皇本紀第六』の後)に出てきます。趙高が宮中に鹿を連れてきて、「馬です」というと、彼を恐れる廷臣は「馬です」とおもねり、「これは鹿です」と気概を見せたものは処罰されました。あの印象的な第1話の場面が、重い意味を持っていたことが改めて分かります。

蛟竜(こうりゅう)雲雨を得る。『三国志』「呉志」周瑜伝
水の中に潜む龍が雲や雨を得て、いきなり大きく空を舞う様。それまで埋もれていた英傑が急激に伸びること。

「それまで埋もれていた英傑が急激に伸びること」
と言うより、
「それまで能力を発揮することができなかった英雄が、機会を得て能力を発揮することのたとえ」
です。「急激に伸びること」だと、まるで胴体が伸びてしまったかのようにも取れます。

まひろとの恋は無駄どころか、とてつもない巨龍を目覚めさせたのです。
これが武士ならば、『麒麟がくる』の光秀や、『鎌倉殿の13人』の義時のように、初めて血を流すことが覚醒となるのに、道長は性の目覚めでした。
冗談でもなんでもなく、出世手段の違いです。
武士は武功で出世する。この時代の貴族は子を為し、入内させることで出世する。性は避けて通れません。

まひろの恋が無関係とは言いませんが、陰謀に加担したことも大きいでしょう。
そして初めて戦に参加するのが武士に取っての覚醒であるのはともかく、性の目覚めが覚醒というのは何でしょうか。寧ろこの場合、直秀のような人物が出ないための、政に集中することが彼に取っての覚醒であったかと思うのですが。

第一「子を為し、入内させることで出世する」にしても、道隆や道兼ならともかく、道長にはまだこの時妻子がいません。それもあってか、まひろに北の方ではないが妾になってくれと言ったとも取れますが、あからさまに「性」を出して来ますね武者さん。
そして自分の好きな作品しか引き合いに出しませんね。

どうやら今年の大河ドラマは、多くの人の目を開かせてしまったようです。
平安時代にハマる人が増えていることを感じます。このドラマそのものが、小さな竜に降り注ぐ雨かもしれません。覚醒とはなんと興味深いことか。

「平安時代にハマる人が増えていることを感じます」
感じますでなくて、具体的な裏付けはないのですか。貴方『青天を衝け』では渋沢栄一の関連本が書店になかった、だから皆関心がないのだとかなり乱暴なことを書いていましたが、好きな大河の場合でも相変わらず大雑把だなと思います。

彼もまた、龍なのでしょう。辰年にふさわしいドラマではないですか。

ドラマの中で、彼が龍であるという描写はまだないのですが。
それよりも昨年の卯年に放送された『どうする家康』で、家康すなわち白兎という設定に対しては、きちんと評価するどころか、木彫りの兎をカルトのお守りのように言っていましたね。

道長がサイテーだ!
そんな嘆きが満ちてきそうではあるものの、それは誠意あってのことです。

最低と取る人もいるし、そうでない人もいるでしょう。人さまざまです。何も、武者さんがすべて正しいとは限りません。逆に嫌いな大河なら、道長のことをぼろくそに言っているでしょう。

女性の立場を考えた大河ドラマに、2013年『八重の桜』があります。
あの放映時「兄つぁまを鴨川に放り込め」という声があふれました。会津に糟糠の妻を残し、京都で若い女性を妻にしてしまったからそう言われたのです。

でこの時覚馬は目を悪くしていたから、助けとなる存在が必要だったと続きます。それはまあいいでしょう。しかしその後は、例によって嫌いな大河叩きです。

2015年『花燃ゆ』では、京都で女を作る長州藩士は当然すぎて、もう感覚が麻痺するようなところはあります。
あれは「イケメンならゲスでもいいでしょ!」と押し付けてくるような作品でした。
そして2021年『青天を衝け』は、高度なイケメンロンダリング技術が発揮されたドラマでしたね。

ます主人公の夫、久坂玄瑞ですね。それで文がその相手の所まで乗り込んで行ったと思いますが、武者さん、本当はこういう、女を作った夫を懲らしめるようなキャラは好きなのではないのですか。前にも書きましたが、『花燃ゆ』が長州大河でなければ、この大河にもう少し肯定的だったのではないかと思ってしまいます。

あと桂小五郎と幾松ですが、桂小五郎の場合は最初の妻と離縁していたと言われています。

2023年『どうする家康』は、女性関係ではあまり甘くならないはずのところを甘ったるくして見ていられなかった。
しかも文春砲がまたも炸裂し、主演の意向で「阿茶局に井上真央さんをキャスティングするつもりだった」なんて暴露まであります。
◆《どうする松潤》「独立計画」を最強ブレーンに直撃した【全文公開】(→link)
仕事と恋の公私混同は、時代を超えて悪をもたらします。

そしてまた文春砲。
貴方これ忘れたい忘れたいと昨年末書いていましたよね。それどころか全く忘れる気配がないし、ことあるごとに文春ネタを持ち出しては、自身の『どうする家康』観を、さらに拗らせているようにしか見えないのですけど。

『花燃ゆ』『青天を衝け』『どうする家康』のような作品は何がよろしくないか。
クズ男をシュガーコーティングして「こういうクズ男も甘いよ」と言い張るところであり、今年のようにハバネロ激辛クズ男をつきつけてきた方がよほど誠実です。
女性向けだのイケメンだのいうけれど、誠意のない男なんていらんでしょう。そういう偽装じみたことを続けてきたあと、道長のクズっぷりがきた。
私はこの道長のサイテーぶりに、むしろ拍手喝采したくなりました。
なぜなら道長に怒りと怨嗟をぶつけることで見えてくる道があるからです。

まず『花燃ゆ』の主人公は杉文、後の久坂美和子で男性ではありません。この場合のクズ男とは久坂ですか、それとも他の長州藩士も含まれるのですか、その点もはっきりした説明がありません。
そして『青天を衝け』、この時の栄一もどこが「クズ男」で、どこが「誠意がない」のか全く書かれていません。それは『どうする家康』もしかりです。まだ若く未熟で戦が嫌で、紆余曲折しながらも、世の中を平らかにしようと考えた主人公が「クズ」なのでしょうか。

あの道長からは、何か新しいものが始まる光が見えました。
毒に砂糖をまぶして突きつけられる虚しさはもういらない。
どんなに残酷でも、真実がひとかけらでも混ざっていたらそれは輝きといえる。
そう、このドラマは燦々と輝いています。誠実です。

その「何か新しいもの」とは何ですか。毒に砂糖をまぶすだの、真実がひとかけらだの混ざっていたら輝きだの、嫌いな大河のクズ男はダメ、好きな大河のクズ男には輝くものがあるという、いつもの武者さんの偏見と自己満足にしか見えません。

思えば昨年は、旧ジャニーズタレントにどれだけ忖度できるか試されているようでした。
主演を褒めちぎれば恩恵に浴することができたのかもしれませんが、私にはできなかった。
自分の要領の悪さを嘆くばかりです。

そしてまたジャニーズ叩き。
それと変なのが
「自分の要領の悪さを嘆くばかりです」

武者さんのような場合は、要領が悪いとは言いません。たとえば今回の道長に対するまひろとか、あるいは『舞いあがれ!』で仕事がなかなかうまく行かない時の舞などは、やり方がうまくなくても、ひたむきに自分を主張しようとか仕事に打ち込もうという姿勢は感じられます。実際舞も要領が悪いと言われていました。
しかし昨年のコラムの武者さんの文章は、そういうひたむきさは感じられず、ただ最初からあれこれ難癖、場合によっては誹謗中傷が作品やスタッフ、そしてキャストにまで叩きつけられているといった印象しかなかったのですが。

そして山本淳子氏のコラムに関して。

「光る君へ」#10 花山天皇退位! 寛和の変の直前に、道長とまひろが交わした和歌・漢詩の深い意味とは? 
(ステラnet)

山本先生の解説からは、まひろが道長によりよい政治を投げかける優しさがあります。まひろが、陶淵明から白居易のような、優しい為政者への道へと道長を導くという流れです。
でも振り返ってみて私は、まひろが己と陶淵明を重ねたと解釈し、突っぱねたとしている。
解釈に性格のきつさがあからさまに滲んでいるんですね。
うーん、怖い。もう今更だし、昨年の方がよほど性格の悪さが滲んでいたけれども、これが文学解釈の味だと思います。

この
「昨年の方がよほど性格の悪さが滲んでいた」
というのは、昨年のコラムを反省しているという意味でしょうか。その割にまた文春など持ち出していますが。
そしてこの場合、文学解釈よりもドラマ解釈でしょう。

あと正解は一つではなく、意見が入り混じる感覚が愛おしいとあり、

別の年の大河では、この先生の意見だけが正しくて他はクズだという誘導がありました。
それは明らかに不健全でしょう。
今年は解釈や議論の幅があり、とても素敵だと思えます。

まず別の年の大河とは何でしょうか。
そして解釈や議論の幅があるのは素敵だなどと書きつつも、当の武者さんが作品に対しての意見の多様性、特に自分が好きな作品に対する批判や嫌いな作品への評価を認めているでしょうか。どころか、常に自分の言うことこそ正しいと言いたげに見えるのですけど。

あと先ほどと同じ『美術展ナビ』の記事、柄本佑さんのインタビューに関して。

【光る君へ】藤原道長役の柄本佑さんインタビュー 「大石先生に、ゴッドファーザーのアル・パチーノのようにと言われプレッシャー」「まひろには本音をぶつけられる道長」

この中で「直秀の存在、「民を重んじる」道長像に」という小見出しで、
「これから彼が権力の階段を登っていくにあたって、民衆のことを深く思う場面が出てきます。その根っこにあの直秀をめぐる出来事があります」という柄本さんのコメントがあります。武者さんは嫌でしょうが、これに昨年の家康を思い出しました。
昨年は第9回「守るべきもの」の中で、三河一向一揆の後で「わしが守るべきものは、民と家臣たちであったと言うのに」というセリフがあったのですが、あれがちょっと重なりましたね。

飲み物-2種類のカクテル
[ 2024/03/22 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第10回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

第10回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。結局今回も、3回投稿することになりました。まず先日分に登場する記述でありながら、採り上げていなかった分から。

全ては策の通りだと確認するかのような安倍晴明。

これ、須麻流が屋敷の前を牛車が通り過ぎたと言っていますが、それが書かれていませんね。これを聞いて、晴明は策がうまく行ったと確認したのではないでしょうか。

まひろは牛車が通ってゆく音を聞いています。

単に聞いていたわけではなく、寝ていたまひろが牛車の音を聞いて目を覚まし、起き上がったのですね。


ではその後の部分です。

そのころ藤原義懐は遊女と遊んでいました。そこへ帝の出家という一大事が告げられ、笑顔が引き攣ります。

遊女でしょうか。自分の屋敷の女房達と酒宴を張って遊んでいたように見えますが。

朝が来て、藤原実資や藤原為時が出仕。
そこへ藤原兼家がやってきて、突然の花山天皇譲位と、一条天皇の即位を告げます。
新天皇の摂政は兼家。
蔵人頭は道兼。

兼家は自分が摂政であると告げ、さらにその後、先の帝の蔵人は全て習いにより、その任を解くと言い、そのうえで新蔵人頭が道兼だと言っているわけです。しかしこれが抜け落ちているため、なぜ実資でなく道兼が蔵人頭となのか、そのいきさつが不明です。

そして他の蔵人が発表されようとすると、実資が「そのようなことはおかしい!」と立ち上がります。
「筋が通らない!」

これも道兼が新しい蔵人頭となり、次いで他の蔵人の名を発表しようとしたのですね。しかし実資は立ち上がり、
「昨夜何があったのかをお聞かせいただかねば、筋が通らぬ」
と言っているのです。こういうのもセリフをある程度書くか、文章できちんと説明するかしてほしいものです。

大河ドラマはじめ時代劇を見ていて、私が面白いと感じる点に「思想」があります。
本作スタッフは韓国や中国の時代劇を意識しているとか。
その要素として、為政者としての資質や思想があります。
韓国の場合、高貴な人々は世の中をより良くするために生まれてきているのだから、それができているのか自問自答することがお約束。

「本作スタッフは韓国や中国の時代劇を意識しているとか」
こういうことを書く割に、その裏付けとなる記事なりコラムなりが全く示されないのですが。あと律令の時代は、その後の武家政権の時代よりも、隣国と似通った部分はあると思われます。

そして
「私が面白いと感じる点に『思想』があります」
思想と言うより、武者さんが好きな儒教的概念とか、漢籍の一部が登場していればそれで満足なのではないか、そういうふうに取れてしまいます。

本作の花山天皇の描写は、白居易『長恨歌』が根底にあるようで、圧倒的な純愛があるのです。
ロマンチックだからよいかというとそうではなく、政治的混乱をもたらしているから悪いと。

花山天皇の出家に至るまでのいきさつは、『長恨歌』を持ち出さずとも『栄花物語』や『大鏡』に登場しています。逆に、この両者の記述がどのように違うのか、そういうのを書けばそれはそれで面白いと思うのですが、なぜか武者さんはそれをやりませんね。で、中華帝国的なものに絡めてしまっているように見えます。
先日の武者さんの言葉を借りれば
「勉強はつまらないというのは、ただの思い込みです。
艶やかな古典文学なんていくらでも見つかるのだから、気合を入れて探し、読んで楽しめばよいのです」
となるでしょうか。

それに『長恨歌』と違って、反乱が起きて帝が追い出されることもないし、楊貴妃の一族に対してそうしたように、身内を高位につけることもありませんでした。これに関しては、斉信が体調を崩している忯子に、口を利いてくれと頼んでいましたね。

為政者としての志を問いかけて突き放しつつ、一生忘れられない相手になるという高度な戦略をまひろは駆使しました。
こんな面倒くさいヒロインがいていいのでしょうか?

また「高度な戦略」
高度とか程度が低いとか言う以前に、武者さんのお気に入りの展開だから、これは高度だと言いたいのでしょう。そしてまた
「面倒くさいヒロイン」
私は何度も書いていますが、まひろが面倒くさいとは思いません。彼女の性格や考えからしたら、こうなるだろうなとは思いますが。そしてこれも書きましたが、「面倒くさい」を連発することで、今までのヒロインとは違うと強調したいのかも知れません。

比較対象として『青天を衝け』の千代を考えてみたい。
実際の千代は儒教倫理が大変強い女性でした。
この夫妻は深い愛情に溺れて大志を忘れてはいけないと考えていたのか、千代は敢えてそっけなくしていたとか。
それをドラマでは「ともかくラブコメにすれば数字が取れる」とでも言わんばかりに甘ったるくしてしまい、侮辱ではないかとすら思えました。

そしてまたここで『青天を衝け』叩き。
「実際の千代は儒教倫理が大変強い女性」
その裏付けとなる史料をお願いしたいものです。
さらに
「ドラマでは『ともかくラブコメにすれば数字が取れる』とでも言わんばかりに甘ったるくしてしまい」
『青天を衝け』のどこかどうラブコメなのか、これではわかりません。と言うか、武者さんが、『青天を衝け』をちゃんと観ていないのはわかります。

そして『どうする家康』の瀬名にも注目です。
カルトじみたお粗末な慈愛の国構想のせいで、彼女自身だけでなく嫡男が死に、家康も大変な目に遭い、悪女を払拭するはずが、愚かさまで加えられたかのような設定でした。
それでもやたらと甘ったるくロマンチックな描写をして、これで悪名を晴らしたと製作者が語っていたのだからどうしようもない。
おまけにキーアイテムはニコライ・バーグマン風の花です。

そしてまた『どうする家康』叩き。
「カルトじみたお粗末な慈愛の国構想」
武者さんカルトも好きですね。あれは今川義元の影響もあったのではないでしょうか。家康も、戦うのは貧しいからだと言っているわけですし、ならば互いに持てる物を分かち合うという発想でした。
「それでもやたらと甘ったるくロマンチックな描写」
その根拠はどこですか。彼女は自決する前、貴方が守るべきは自分ではなく国だときちんと言っていますけどね。

それと
「キーアイテムはニコライ・バーグマン風の花」
武者さん、瀬名があれを持っていたと勘違いしていませんか。
あれを持っていたのは石川数正で、築山の花を押し花として箱に入れ、正信念仏偈を上に置いていました。それと木彫りの仏像を、数正はわざと忘れるかのように置いて行ったのですが、恐らくは自分の本意を家康に知らせたかったのでしょう。

しかし『光る君へ』も結局叩き棒にされていますね。

そして今度は『鎌倉殿の13人』の北条政子。

彼女は改めて凄まじい女性です。
坂東に生まれ、おそらく文字すらまともに読み書きがおぼつかなかったはずなのに、ついには『貞観政要』を読みこなしたとされるほどのジャンプアップを遂げた。
そして民衆を慈しむことを求め出す。よりよい政治をめざした。

「おそらく文字すらまともに読み書きがおぼつかなかったはずなのに」
その裏付けは何ですか。
後妻打ちの後、亀から書物を読んだかと言われていますし、その前にりくから『和泉式部日記』を勧められているはずですが。あと彼女の場合、義時が汚い役目を引き受けてくれたからこそ、民を慈しむ方向に専念できたかと思います・
そして赤染衛門の子孫の大江広元がどうのこうの。

『麒麟がくる』の駒にも注目したい。
彼女が語る「麒麟」とは儒教思想のことを指します。
「麒麟がくる」とは、「朱子学を広めて日本人の倫理観をあげよう」と解釈できます。

『麒麟がくる』は戦国時代ですが、そういう江戸時代的な発想があったでしょうか。乱世を鎮めようという志はあったかも知れません。

戦災孤児である駒は、自分のような境遇の人を減らす政治を求めていました。
(中略)
恋をすればよいのではなく、自分さえ楽ならばよいのではなく、世の中をもっとよくして欲しい――そう求めるヒロインは実に面倒なのです。

この
「恋をすればよい」
「自分さえ楽ならばよい」
と考えているヒロインとは誰ですか。お千代であれ瀬名であれ、こんな安易な考えはしていませんよ。そして、何度も書くようですが、私に取ってまひろは特に「面倒くさい」とは思いません。

まひろは全身に毒を含んだ花のようです。花に触れたら甘い香りがするけれど、毒が染み込んでくる。
道長がこのあと権力を手にした時、その毒が身を蝕む。
まひろの目が「直秀に合わせる顔があるのか?」とじっと見てくる。まひろは縁を捨ててでも、道長という権力を見つめる道を選びました。
自分は男でないから。女であることを生かし、そうするしかない。
そう身を委ねるまひろは、なんという存在なのか。圧巻です。

別にこれ、ジェンダー論ではないと思いますけど。
このままどこかへ逃げようと言いたげな道長に対し、貴方は高貴な家に生まれたのだから、世の中を変える責があるということを言っているわけですよね。無論自分より遥かに高い身分で、それゆえにこの人を婿に取ることは無理だと思ってもいたでしょうが。
そして、まひろのどの部分が「毒」なのですか?
武者さん、直秀を革命家のように思っていましたが、今度はまひろを道長を苦しめる魔女のように捉えていませんか。

あと
「そう身を委ねるまひろは、なんという存在なのか。圧巻です」
こういうのを見ていつも思うのですが、もう少し書き方に工夫ができないものでしょうか。言っては何ですが、なんだか幼稚ですね。

今回は月が大変印象的でした。
月岡芳年『月百姿』を彷彿とさせます。
(中略)
太田記念美術館で4月3日から5月26日まで展示されますので、ぜひご覧ください。

また月岡芳年、このコラムはこの人の絵を入れないといけないのでしょうか。
しかも展示のお知らせ、何か、PRを頼まれているのかと思ってしまう所以です。太田記念美術館はいいのですけどね。

『光る君へ』を見た中国の方から「打毱」について聞かれました。
日本ではまだあるのか?と問われたので、保存していると答えると、ものすごく感激されました。中国にはないそうです。
これぞ大河ドラマの意義かもしれない――文化の交流ができて、それを誇りに思えることこそが意義なのだなと。

「『光る君へ』を見た中国の方」
以前たけたけさんのnote記事にもありましたが、「マックの女子高生」を思わせます。
あるいは「ハイキング中のドイツ人」「ボストンの12歳の少年」もしかり。

そして注目されているのが朱仁聡と周明です。
周明は、直秀のようなことにならないか?と不安な方もおられるかもしれません。
しかし、彼の場合は殺害すると外交問題になりかねませんので、そこは安心して良さそうです。

これも前の回関連で書いていますが、周明を演じるのは松下洸平さんです。これだけでも嫌いな作品なら
「宋人の役にネイティブを使わない、けしからん!」
と言いそうですね。あと朱仁聡を演じる浩歌(ハオゴー)さんも元々は大阪出身の日本人で、中国で活躍している俳優さんだそうです。

東洋の時代劇における医者は大変便利な存在です。
貴人のそば近くに行ける。技術を尊重される。天下の行末を見据える目があるとされる。慈愛の心を持つとされる。
『麒麟がくる』の東庵と駒が「ありえない」と叩かれましたが、彼らの職業特性をふまえればそうおかしくもない。
周明はそんな便利な医者枠ですので、期待しましょう!

「東洋の時代劇における医者は大変便利な存在です。
貴人のそば近くに行ける。技術を尊重される。天下の行末を見据える目があるとされる。慈愛の心を持つとされる」
これも裏付けがありませんね。
そして
「『麒麟がくる』の東庵と駒が「ありえない」と叩かれましたが、彼らの職業特性をふまえればそうおかしくもない」なのだそうですが、彼らは称号、たとえば法印とか法眼などと呼ばれる医者なのですか。
それでも東庵は、まだ正親町天皇と面識がありますが、駒の場合は薬屋のイメージが強いし、あそこまで将軍の公職に口を挟むのは不自然(越権的)です。

そして駒をどうこう言うのは、その人の自由です。それを許せないというのであれば、武者さんもお千代や瀬名について、あれこれ言うのをやめるべきだと思いますが。

さて、まひろと道長の二人が、道長の思い通りになったらどうなっていたか?
あくまで道長の理想ではありますが、世俗から隔絶され、大自然に抱かれて、二人で楽器でも奏でていくことでしょう。
「琴瑟(きんしつ)相和す」と言います。
あまりに現実が辛い!もういっそ隠棲して楽器演奏してゆったり暮らそう!
こういう隠遁を究極の勝利とする思想は、中国史ではおなじみです。

「琴瑟(きんしつ)相和す」は現実が辛くてどうこうと言うより、夫婦仲が非常にいいことの例えです。「琴瑟」は琴と瑟(おおごと、ツィターに近縁)のことですね。

しかしまひろが、魚を獲ったり木を切ったり、畑を耕したりする道長は想像できないと言っているのを、もうお忘れですか。楽器を奏でて行くだけで生活できますか。それを商売にできるのならばまた別ですが。

陶淵明を敢えて出してきたし、誘導されていくだろうと。
それを拒んででも世を糾せと突きつけてくるまひろは、なんと素晴らしい女性なのかと思われるかもしれない。
文化とは水のようなもので、国で区切ろうとしても流れ出しでゆく。
そういう水の如き魅力が、このドラマにはあると思います。

「陶淵明を敢えて出してきたし、誘導されていくだろうと。
それを拒んででも世を糾せと突きつけてくるまひろは(後略)」
この場合、陶淵明を出して来たのはまひろです。しかしこれだとまず道長が陶淵明を持ち出し、まひろがそれに誘導されるのを拒んだうえで、道長に世の中を正すように言っているように取れます。

「文化とは水のようなもので、国で区切ろうとしても流れ出しでゆく」
「国で区切る」というのがちょっと変なのですが…。互いに共有できるということでしょうか。しかしこの時代は所謂国風文化が登場した時代でもあり、同じ文化であっても、民族や土壌によって形を変えて行くのではないでしょうか。
餛飩が「うどん」になったり、また先日書きましたが、「ういろう」が元々薬であったにもかかわらず、口直しのための菓子を指すようになったり、そういう例は多いものでしょう。

しかし、武者さんがもしこの大河を叩いたとすればどうなるのでしょうか。恐らく今回の道長にしても、モテファンタジーとかエロ目線とか、散々に書くのでしょうね。

飲み物-パブのアンバーエール2
[ 2024/03/15 02:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第9回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

第9回に関しての『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。


まず直秀たちが殺された件について。

土を掘り進めながら、道長は呟きます。
「すまない。皆を殺したのは……俺なんだ。余計なことをした! すまない……すまない、すまない、すまなかった! すまなかった!」
叫ぶ道長。正確な理由は不明なれど、彼が賄賂を渡したせいで、直秀たちは殺されてしまったのでしょう。ただのケチな盗人ならば、放免で済んだかもしれない。
彼に抱きつくまひろ。
二人は泣いて、手を合わせ、埋め、弔いました。

まず
「正確な理由は不明なれど、彼が賄賂を渡したせいで、直秀たちは殺されてしまったのでしょう。ただのケチな盗人ならば、放免で済んだかもしれない」
「ただのケチな盗人なら」というのは、彼らが散楽一座であったことも関係しているのでしょうか。それが書かれていないのですが。つまるところ、彼らの今までの行動を調べていて、単なる盗人だけではないことがわかり、鞭打ちだけで済ますことができないという結論に達したということになるのでしょう。

そして何よりも、昨年末に平安時代の穢れという概念を持ち出していたはずの武者さんが、ここに来て、まひろと道長が使者を埋葬するという「穢れ」について何も書かないというのも不思議です。
これに関しても、公式サイトに詳しいのでのリンクを貼っておきます。

をしへて! 佐多芳彦さん ~平安貴族が恐れた穢れ
(『光る君へ』公式サイト)

――第9回ではまひろ(吉高由里子)と藤原道長(柄本佑)が、亡くなった直秀(毎熊克哉)ら散楽の一座を埋葬していましたが、これは穢れることをわかったうえでの行動でしょうか。
そのとおりだと思います。直秀をはじめとした散楽の一座の面々を丁重に弔ってあげたいと考え、自分たちが穢れることは承知のうえで、彼らを埋葬してあげたのでしょう。「穢れ」に触れるとわかっていても、大切な人を偲(しの)び、その感情を優先して行動するようなことは、おそらく当時もあっただろうと思います。

――まひろ(吉高由里子)と藤原道長(柄本佑)は、帰宅する前に「穢れ」を払ったのでしょうか。
ドラマではそこまで描かれていませんし、屋敷へ帰る前に陰陽師に依頼して解除してもらったかどうかまではわかりませんが、穢れに触れたことが家族にバレるといろいろと問題になりますから、二人ともそしらぬ顔をしてほかの人には黙っていたと思います。

そしてこの当時の宗教観なのですが。

ちょっと真顔でそう突っ込みたくなりました。いや、話がおかしいとか、考証ミスとかではなく、当時の思想というか宗教のごった煮感がすごい。
怨霊云々は、シャーマニズムも強い【神道】でしょう。
で、成仏させるというのは【仏教】。
これを主張しているのは【陰陽道】をおさめた陰陽師。
何が何やらわからない、本当にわけがわからない。
そもそも、同時に複数を信じてはいけないという考え方が、東洋にはないといえばそうなります。

ごった煮などとありますが、神仏習合という言葉をご存知ないのでしょうか。
そしてこれも、先ほどの公式サイトのコラムに書かれているので、本文の一部を貼っておきますね。

「穢れ」は神道、「陰陽師」は陰陽道、そして「喪に服す」のは仏教の考え方になりますから、平安時代はさまざまな概念が混じった状態だったと思います。

それから為時が惟規に贈った言葉。

一念通天(いちねんつうてん)
『周易参同契』より
ひたむきに一つのことを思いつつければ、天に通じるということ。
率先垂範(そっせんすいはん)
『史記』、『宋書』より
人の先頭に立ち、模範を示すこと。
温故知新(おんこちしん)
『論語』より
過去に学んだことをもう一度復習して、新たな意味を見出すこと。
独学孤陋(どくがくころう)
『礼記』より
人と接することなく学んでいると、意見が偏ってしまう。現代ならばエコーチェンバーか。

まず一念通天、これは強い信念を持ってものごとに取り組めば、その思いが天に届いて成就するということです。そして率先垂範は、人がいやがる仕事などを進んでやるという意味もあります。そして温故知新、これは知っていると言う方も多いでしょうが、過去のことをよく学び、そこから新しい知識を得るという意味です。
武者さんの見方、完全に間違っているわけではないけど何だか微妙ですね。

そして独学孤陋ですが、師匠や友もなく一人で学ぶと見識が狭くなり、他人の意見を聞かなくなるからよくないということです。なおエコーチェンバーですが、これは周囲が自分と同じような意見の人たちばかりになり、その結果考えが先鋭化されることですか、周囲に人がいることも含め、意味としては違うのでは。

彼は身分制の矛盾を突きつけた回が、問題提起としてあった。

直秀のことですが、前にも書いたように、身分制より摂関政治の歪みに疑問を呈した、それを盗みや散楽という形で表現したのではないかと思います。

日本ではフィクションでも【正史】が強くなり、【稗史】が弱いということは指摘されています。
大河ドラマにせよ、かつて架空主人公の作品もありましたが、いつしか消え、稗史目線のために出した人物は「オリキャラ」「邪魔だ」と罵倒されてしまうこともある。
『麒麟がくる』の駒、東庵、伊呂波太夫が罵倒されているファンダムを見て、私はそういう稗史軽視に危惧を覚えていました。
あの作品はなんとなく気に触る要素があるけれども、そこを指摘できないモヤモヤ感が、稗史目線人物にぶつけられていたとは推察できるのですが。

武者さん、この間も同じようなことを書いていました(よほど書きたくてたまらないのでしょう)。
私はそれに対して、『どうする家康』の阿月の登場も、同じような「稗史」であると書いています。しかし武者さんは、彼女のことを話題作りのために都合よく死ぬ、「冷蔵庫の女」としか評価していません。そしてあの大河には、家康のことを悪く言う団子屋の老婆という存在もいましたが、こちらもきちんと評価しているようには見えませんでした。あと寺内町の一向宗徒もいましたね。

結局のところ、この人の場合は「自分が好きな大河」限定なのですね。先日のBL、あるいは同性愛的描写も嫌いな大河ならNG、自分が好きな大河なら美しい、萌えたいから描いてほしい、随分都合がいいなと思います。

そしてまた『麒麟がくる』。別に私は駒や東庵が批判されても、それはその人の見方であると思いますし、実際駒の描かれ方は疑問に思えたところがあります(伊呂波大夫はオリキャラとしては一番よかったです)。

何度も書きますが、あのまま薬屋として生きていたらそうも思わなかったでしょう。毎度同じようなことを書いていると思いますが、武者さんが何かについて同じことを書くので、これもやむなしかと。

まあ武者さんがいくら「危惧」を覚えようが、ネット上での批判を封じることはできないわけだし、スルーしたほうが精神衛生の面でもいいのではないでしょうか。

一方でまひろは、直秀から鴻鵠の志を受け取ってしまったように思えます。
世を変える――そう思ったからこそ、女であるという壁に激突します。大学に行けないじゃないか……と。
隣に並んで座っているけれど、見ている方向は違う。そんな状況がますます決定的になったように思えます。

武者さん、何だかやけに「世を変える」にこだわっているようですね。直秀は、貴族たちが帝と縁を結ぶことに腐心する中で、貧しい人々に盗品を与え、散楽で彼ら貴族を風刺することをやってはいましたが、世を変えると言うよりは、こんな面倒臭いことのない地に、山を越えて行きたいという思いの方が強かったかと思いますが。

そしてまひろですが、彼女自身は自分が男だったらこれこれこうしたいとは言うものの、その当時は女性は大学に行けず、従って惟規のように決まったコースを歩むわけではありません。だからこそ、自分が何をすべきかで思い悩んでいるのでしょう。道長と結ばれることもなさそうですし。

『麒麟がくる』の明智光秀と織田信長も、志が違って本能寺という結末に向かってしまった。
『鎌倉殿の13人』だって、あんなに仲が良かった北条義時と北条政子が、最終回でむごい決裂を迎えてしまう。
今年はこうした関係性をさらに突き詰めてきます。
まひろの「世を正す」思いはどこを見ればわかるのか?
まひろと道長は、どう決裂し、対峙するのか?
盛り上がってきました。
戦があるかないか、それはどうでもよいのです。人が人として生きる上での心の動き。これをきちんと描けば盛り上がります。

貴方は本当に好きな大河しか引き合いに出しませんね。
そして本当に「世を正す」ことにこだわりますね。

『青天を衝け』で名を成したものの、それゆえにトラブルも引き受けることになる主人公、『どうする家康』で悩みながらも身を立てて天下を取ったものの、最終的には秀頼と茶々を死に追いやらざるを得なくなった主人公、それぞれの思いはどうなったのでしょうか。そして家康と茶々の別れもまた、決裂ではあるのですけどね。

「人が人として生きる上での心の動き。これをきちんと描けば盛り上がります」
『青天を衝け』や『どうする家康』に、それがなかったと考えているのですか?武者さんは。

ただし、いつまで直秀ロスでいられるかどうか――それが本作の恐ろしいところです。

貴方「○○ロス」て嫌いではなかったのでしょうか?

藤原為時がたどたどしい中国語を話す一方、越前には中国語の発音がバッチリできる朱仁聡と周明が漂着。
朱仁聡を演じる浩歌さんは中国語がペラペラです。
そして周明は、松下洸平さんです。

ここですが、嫌いな大河なら
「宋人にネイティブの俳優さんをキャスティングしないなんて許せない!」
となるのでしょう。『鎌倉殿の13人』の陳和卿を演じたのは中国人の俳優さんでしたが、やはりこうでなければと言っていたのですけどね。

昨年、穴山信君が「変装」した明国人滅敬の衣装がおかしいと散々言った武者さんです。変装なのだから、多少おかしくても周囲の目を欺ければいいはずなのですが、そこのところにやけにこだわっていました。

無論私は、ネイティブの人であろうが日本人であろうが、その登場人物の立ち位置にふさわしい演技をしてくれたら、別にいいのですが。

そして最後にお礼です。
私も漢籍関係で間違ったことを書き、ご指摘を受け修正しました。
全くもって情けないと思うとともに、独学孤陋とはこのことかと痛感しています。

「漢籍関係で間違ったことを書き、ご指摘を受け修正しました」
「どの」漢籍関係で、「誰から」指摘を受けたのかまるで書かれていないのですが。指摘されたのはSNS投稿か何かだったのでしょうか。お礼だと言うのなら、まずそれをはっきりさせてもいいのではないでしょうか。

マウントを取ったり勝ち誇るのではなく、様々な意見を聞いて学ばねばならない。
今年の大河ドラマはそう感じさせるので、秀逸だと思います。
実資のようにクワッと目を見開いて主張したいのですが、学びがない大河ドラマはやはり間違っていると思います。

ここでの「学びがない大河ドラマ」の出し方が如何にも唐突ですね。
そもそもこの文章、「学びがない」が「学んでいない」のか、それとも「自分が学ぶところがない」のかがあいまいです。今年の大河の場合は「自分が学ぶところがある」、学びがない大河は、「大河自身が学んでない」という意味に取れてしまいますし。

何がどのように学びがないのか、自分のケースとどう結びつくのか、学びがないという点では、その大河も自分も同じレベルであるのか、そういった点をちゃんと書いてください。
そして
「今年の大河ドラマはそう感じさせるので、秀逸だと思います」
これも唐突。どういう点がどのようにそう感じさせるのか、ちゃんと書いてくださいね。

あと
「マウントを取ったり勝ち誇るのではなく、様々な意見を聞いて学ばねばならない」
正にこの言葉、武者さんが肝に銘じておくべきものだと思います。

それからこちらのスクショなのですが


武将ジャパン第9回コラムスクショ


上の方に「こちらは3ページ目になります」とあります。
しかしよく見ると、最初の小見出しが「花山天皇の心を掴んだ道兼」となっています。この小見出しは、4ページ目の最初の小見出しで、つまり本当は4ページ目なのに3ページ目と書いているわけです。

今まで入力や変換のミス、あるいは文章がちょっとおかしいと思われることはありましたが、ページを間違えているのは、私が知る限りこれが初めてです。それと同時に、やはり校正を入れた方がいいのではと、またしても思った次第です。


飲み物-グラスに注がれたエール
[ 2024/03/08 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第9回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第9回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。今回はというか、今回も3回に分けて書きます。尚最近の投稿での入力ミスと、表現がおかしな部分を直しています。

と言いつつ、のっけからこのコラムの入力ミスに関して。順番が前後しますが、一応これだけ置いておきます。

右大臣に仕える身でヘコヘコいている。悔しくねえのかと問いかけるのです。
まひろが、信用のできない男たちを右大臣家は雇っているのか?と問いかけると、道長はうんざりりしたように言います。
「三郎でよい」
「長様としか呼べない。三郎君ならよいかも」

「ヘコヘコしている」
「うんざりしたように」
「道長様としか」
なのでしょう、しかしこれ報酬が発生しているわけですよね。前回も書きましたが、ちゃんと校正してしかるべきかと思います。個人ブログで、ミスを見つけ次第修正するのとはわけが違うと思いますが。

往年の少女漫画のような雰囲気もあるというこの作品。
直秀は、池田理代子先生の『ベルサイユのばら』および『栄光のナポレオン エロイカ』に登場するアラン・ド・ソワソンを彷彿とさせます。
ひねくれてやんちゃなようで、胸の奥には身分制度に対する怒りが激っています。
まひろならば「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」(『史記』より/小鳥には雄大な鳥の気概はわからない・小人物には英雄の大志は理解できないという意味)と理解しようとしたかもしれません。

身分制度と言うより、摂関政治の矛盾に対して彼らは憤っていると思われます。だからこそ貴族の家で盗みを働き、それを貧しい人々に施そうとしたのでしょう。
あと「燕雀…」を言うのであれば、
「猫は虎の心を知らず」
「鷽鳩大鵬を笑う」
を入れてもよかったかも。

呑気な彼女らは、道長が盗賊を捕らえたとはしゃいでいます。

彼女たちは「呑気」でしょうか。最近打毬で株を上げた道長が、今度は盗賊退治とあって素晴らしいですねと言っているのでしょう。第一彼女たちは、道長と直秀の確執なんて知らないわけですし。

源倫子もうっとりしながら、その一味は土御門(左大臣邸)に入った者と同じか?と尋ねています。
さすがにそこまでは不明であり、倫子が恋する乙女らしく色々と発想が飛んでいるのでしょう。
私の家に入り込んだ連中を捕まえたってコト? 仇討ち? キャー! と、なってもおかしくないかなと。

ここのところですが、倫子は道長を婿に取らないかと両親から言われていたこともあり、茅子やしをりがこのような話をするのを、いくらか複雑な思いで聞いていたと思われます。だから盗賊の方に話題を切り替えたのでしょうが、その盗賊の話になると、今度はまひろが気が気ではなくなるのですね。

するとそこへ検非違使の連中がドカドカと入ってきて、まひろも盗賊の仲間と判断して連れ去ろうとします。
慌てる乙丸と「散楽が何をしたのか!」と抗議するまひろに対し、検非違使も「黙れ、この盗賊めが!」という剣幕で返してきます。

検非違使ではなく、その手下の放免ではないかと思いますが。
あと細かいことですが、「散楽が」ではなく「散楽の人たちが」でしょう。

時代がくだり、源義経が朝廷から検非違使に任じられています。武士にそういう大盤振る舞いをするから、墓穴をほったのでは?と思えてくる話ですね。

この場合、墓穴を掘ったのは義経ではないかと思います。
後白河法皇は、頼朝と対立させんがためにああしたとも取れるわけですし、それに検非違使では「大判振舞い」となるのかどうか。しかも義経は検非違使のうちの少尉(判官)で、もちろん頼朝よりは官位も下でした。どうも武者さん、この頃の朝廷をかなりネガティブに見ていますね。嫌いなのだろうなとは思いますが。

今年の大河ドラマは合戦や戦闘に馴染みのない時代と言われますが、実のところ平安末期の源平合戦から鎌倉幕府初期へ繋がる要素もあり、非常に興味深いものがあります。
『鎌倉殿の13人』と比較しながら見ると、より楽しめるでしょう。

これに関して、既に東国では平将門の乱があり、その半世紀後に前九年の役が起こることは、あらすじと感想でも書きました。しかし現時点で、まだ「武士」の活躍は出て来ていません(彼らの祖となった人物はいます)。比較対象とするのであれば、寧ろ『炎立つ』の方ではないかと思います。武者さんが観ているかどうかは不明ですが。

そこで道長はそっと賄賂を渡すと、相手はすぐさま「承知いたしました」と受け取りました。
甘い、法の適用がズブズブやないか! 一体どうなっているのよ!

この当時は、貴族社会では寧ろ賄賂は当たり前だったでしょう、また国司も賄賂を贈っては利便を図っていました。成功(じょうこう)や重任(ちょうにん)などはその典型例です。
あと遙任(自らは行かず代理人を任国に派遣)や受領(任国で重税を課すこともあった)もあり、尾張国解文(げぶみ)などというのもありました。ちょうどこの大河の現時点から数年後の話です。

尾張国解文
(年表マニア)

これまた『鎌倉殿の13人』を思い出すと良いかもしれません。
最終盤では【御成敗式目】を練る北条泰時が輝いて見えたものです。
貴族も法の適用が曖昧で、ましてや坂東武者はまさしく無法。
うまく振る舞えばその立場を享受できるのに、自ら「それではダメだ!」と改革を推し進めた北条泰時は本当に偉い人物だったんですね。

御成敗式目ができた当時は、武家政権の発足時の話であり、朝廷と対峙するためには、自分たちの法律を定めなければなりませんでした。江戸時代に武家諸法度ができたのもそうですが、新しい秩序を定めないと、まとまるものもまとまらなくなってしまう恐れがあったからでしょう。
ただあの大河の泰時をほめたいから、このように書いたのでしょうか。

もう一点、道長もどうにも甘いところがあります。
『鎌倉殿の13人』での坂東武者は互いが背かぬよう証文を書いて飲んでいました。それでも破るとなると吐き出す様が出て来ていました。
倫理崩壊しているような彼らだって証文は怖い。
ましてや京都人にはもっと効くことでしょうから、そういう脅しも必要だったのではないでしょうか。

証文を灰にして飲むのは『風林火山』にもありましたね。
そして土地売買とかの証文はこの当時もありました。しかしこの場合「道長が甘い」とありますが、具体的にどのような証文を作るべきだったのか、その辺りが詳しく書かれていないのですが、何か念書とか誓約書のような形で、証文を取っておけと言いたいのでしょうか。

そして
「倫理崩壊しているような彼らだって証文は怖い。
ましてや京都人にはもっと効くことでしょうから、そういう脅しも必要だったのではないでしょうか」
京都の人に対して、ちょっと失礼なように見えますが。

武者を甘く見ると、どうなってしまう?という苦渋の展開を『鎌倉殿の13人』の慈円などは目の当たりにして嘆いています。道長は、武者が暴力装置であると理解できていいるのでしょう。

ここも「できているのでしょう」でしょうね。
この時代の武者、これもあらすじと感想で書いていますが「公家の番人」的な存在で、主である公家たちが示しをつける必要があるのも事実だったからです。そしてこの時代の武者と、鎌倉時代になってからの武士は立ち位置が別だと思います。
しかし「暴力装置」ですか…。

波が寄せては離れていくような……水鳥の姿も映ります。
もしもこの二人が水鳥ならば、思ったまま身を寄せ合えばよい。
しかし人はそうはできない、甘いようでどこか苦い二人。

ここで直秀たちが流罪になるかもしれないと道長は言っています。流罪になって海の見える国に行けるといいと言うのと、自由に飛び立って行ける水鳥とを掛けているのでしょうか。万葉集の山上憶良の歌にこういうのがありますね。

世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
(世の中が苦しく、身がやせ細るほどつらいと思っても、飛び立って逃れることができない、鳥ではないのだから)

帰り道、道長は大勢の人が座り込んでいるところを見かけます。
百舌彦が調べると、なんでも散楽一座の釈放を願っているとのこと。盗んだ品による施しを受けていた者たちが、無事を祈っていました。

百舌彦が「調べる」というより、聞いてきたところによると、施しを受けていた人々が無事を祈っているわけですね。そしてその人々に取って、彼らは信仰の対象、神とも言える存在だったではないかというのも窺えます。

当時の所作は厳密ではなく、時代がくだると書見台も出てきます。
むろん、意識の高い藤原公任あたりであれば、もっとちゃんとした姿勢で読んでいると推察できます。
勉強嫌いを公言する惟規はこんなものなのでしょう。

この当時机はあったでしょう。また文台と言って、書物や短冊を載せる背の低い机のようなものもありました。そして後世に於いても、必ずしも書見台を使っていたかどうかは不明です。あと惟規の場合、ああした方が明るくて字がよく見えるからというのもありそうです。
ちなみに『軍師官兵衛』では書見台が出て来ます。

軍師官兵衛書見台
『軍師官兵衛』

彼女は使用人というだけでもなく、ちやはの死後、実質的に為時の妻のような役割を果たしていたと推察できます。
ゆえに内心は複雑なのでしょう。

この時いとは、笑みを浮かべています。内心が複雑と言うよりは、寧ろそれを歓迎しているようにも見えます。ちなみに高倉を高倉通と取るのであれば、当時は貴族の館が多く、そういう地域の女性と恋仲になっていたということでしょう。惟規も大学に行き、一家がそれぞれの道を行くようになるとも考えられます。

そして「日本一贅沢な生活をしている花山天皇の姿が窺える」として、

・青磁
北宋から輸入した最高級の青磁です。
このドラマでは右大臣家や皇族周辺にはこれみよがしに北宋の磁器が置かれています。

とありますが、青磁の水差しなどは、戦国時代の大名家のシーンなどでも目にします。無論その当時とは違い、こういう磁器がより一般的になっているからなのですが、平安時代半ばでは相当財力がないと持てなかったと思われます。しかし「これみよがしに」はないかと。恐らくは、博多や敦賀経由で京へ持ち込まれたのでしょうね。

それと

お正月に飲む「お屠蘇」は不老不死の薬と信じられてきました。
ただのハーブドリンクなのに大仰だな!と言いたくなるかもしれませんが、当時の医療を踏まえればそれも納得できます。
当代随一の権力者である藤原兼家の病気治療ですら、あんな祈祷頼りです。
ストレスを発散してくれるハーブドリンクだけでも、当時は最高級品でした。庶民は存在すら知らぬまま亡くなっていたのです。

お屠蘇はストレス発散より邪気を払うものであり、そのため正月に飲まれていたのではないでしょうか。たかがハーブドリンクではないのです。これ、第1回の時にも確か書いていませんでしたか。そして兼家の場合は意識不明(と、道兼以外の皆が信じていた)ため薬を飲ませることができません。

あと薬草を煎じたものは、庶民も飲んでいたでしょうね。と言うか、その当時医者にかかることなど滅多になく、そういう方法で病気を治していたのでしょう。

それとせっかく「薬湯」が登場するのに、武者さんらしいというか、『どうする家康』はガン無視なのでしょうか。

この時代と比較すると『麒麟がくる』の東庵と駒は、かなり真っ当な東洋医学を身につけていることがわかります。
日本史において独自の医学が大きく飛躍するのは、戦国時代も後半になってからのこと。
花山天皇の場合、薬湯の処方をしたのは、唐人医(中国人医者)の技術を知る最高の医者であるとも推察できます。
調合の時点で大変贅沢なのでした。

全うな東洋医学とは具体的にどのようなものですか、それをちゃんと書いてください。また花山天皇の処方ですが、唐人医の技術を知るとはどのような技術のことですか。そしてそれがどのように贅沢なのでしょうか。


飲み物‐黒ビールと木のテーブル
[ 2024/03/06 02:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第8回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第8回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


そんな中、赤染衛門はちょっと違う。道長の弟が、猛々しく美しいとコメントしている。
姫君たちが「人妻なのにいいのか」とざわついています。

彼女たちにも処世術はあります。直秀のような身分の低い男と結ばれても先はないし、そんな男とどこか遠くへ逃げるような度胸もないから、あえて見落とすようにしたのかもしれませんよ。

まず
「人妻なのにいいのか」
こう言っているのは倫子だけであり、姫君たちではありません。
(正確には『衛門ったら、人妻なのにそんなことを言って』)

そして
「彼女たちにも処世術はあります」云々、何だか唐突ですね。
そもそもこの時点で、道長の弟即ち直秀と彼女たちが知るはずがありません。そして、処世術だ何だをほのめかすような描写もないのに、なぜこういうのをいきなり入れて来たのでしょうか。

赤染衛門は、むしろ人妻だからこそ純粋に男の魅力を見つめた。人妻であろうとも、心の中は己だけのもの、そういう自在さがあればこそ、生き生きとしていられる。そう言い切りました!

いいですね。まるで推し活を語る令和にもビシビシと響く言葉です。しかし、まひろは聞いてしまった……男どものゲスなロッカールームトークを。

赤染衛門のセリフはともかく、なぜそれが推し活と関係があるのかよくわかりません。とどのつまり、武者さんが嫌いな推し活に、無理やり絡めているようにしか思えないのですが。

それと「ロッカールームトーク」
武者さんはかつて、嫌いな大河の妓楼をキャバクラ呼ばわりしたことがありましたが、好きな大河のワンシーンにまで、どこか違和感のあるカタカナ語を使う必要もないでしょう。
先日投稿したたけたけさんのnote記事に、雨夜の品定めのオマージュではないかともありましたし、実際そう感じられる部分はあります。そして、あの中での源氏に相当するであろう、道長が主に聞き役であるところも。

もしも男どもがそのことを知ったら、藤原斉信は取り繕うとするけれども、公任は開き直りそうな気もします。それでも公任は間違ってはいないと思います。

愛だの恋だの言ってみたところで、身分の低い女を相手にしようとすれば、周囲がゴタゴタ言います。なまじ情けをかけて苦しめるより、最初から選ばないことも慈悲なのでは?

そんな公任の見解に間違いはないとも思えます。理できっちり割り切っていますから。その代わり、一度情をかけたら捨てずに面倒は見るかもしれない。

光源氏はなかなかサイテーな男ではありますが、彼もいったん情をかけた相手は捨てませんからね。そういうタイプかもしれませんよ。

公任みたいなタイプって、情を軽視しすぎていますからね。ものごとをスムーズに進めるうえで、歯車に引っかかる砂粒程度にしか思っていない。

ちょっと長いけど引用しています。ここのページ、あらすじを書いていると思うのですが、そこでなぜドラマ本編と直接関係ない人物評が出て来るのでしょうか。
ひとつ前の姫たちの男性観もそうですが、男たちの女性観を書きたいのですか。それともあらすじを書きたいのですか。

この前も書いていますが、武者さんはこういう男女関係、色恋沙汰を書きたいのだろうとは思います。ならばここでなく、他のコラムでやってください。

直秀がこれみよがしに「兄上〜」と甘えながら、身分の低い母親の子なのでこのようなお屋敷は初めてとか言っている。続けざまに中を拝見したいと言い出すと、案内してもらえと周囲は無邪気に盛り上がっています。

公任は直秀がやっと笑ったことに喜んでいます。しかし、道長にはどうしても気になることがあるようでして。

道長と二人きりになっても、直秀は「兄上」と呼びかけます。もう二人きりだと困惑しながらも、なぜ案内して欲しいのかと訝しがっています。

まず直秀が
「これみよがしに『兄上~』と」
甘えているでしょうか。このシーン、まず斉信が、行成の腹痛のおかげで道長の弟に会えたと言い、行成は自分の代役を務めたことに礼を述べます。直秀はそれを受け、しかる後に自分は母親の身分が低いので、このようなお屋敷は初めてだから、中を拝見したいと言っているわけです。

「案内してもらえと周囲は無邪気に盛り上がっています」
周囲は道長の弟(異母弟)だから当然そうだと思っているでしょう。逆にこの場合、直秀が「道長の弟でない」ことを証明するものが何もありませんし。

あと
「なぜ案内してほしいのか」
ではなく、直秀が西門以外に通用門はあるのかと訊いたため、それを訝しがっているのですね。

小枝が刺さったと誤魔化しながら、東宮様の御座所はどこかと言い出す直秀がふてぶてしい。

「東宮の御座所」ではなく、「東宮の御母君のご在所」です。

「藤原を嘲笑いながら興味を持つ直秀とは何なのか」と問いかける道長に対し、「よく知ればより嘲笑える」とそれっぽく開き直る直秀。

疑いつつ探る道長もなかなかのものですが、敢えて敵の中に飛び込む直秀も大したものです。緊張感が高まります。

「敢えて敵の中に飛び込む」と言うより、この場合は道長自身が、急場しのぎとは言え自分を仲間入りさせてくれたこともあり、この機会を利用しようとしたのではないでしょうか。

「海の向こうには彼の国がある」晴れた日には彼の国の陸地が見えると続ける直秀。彼の国とは「唐」(から・中国大陸)と「高麗」(こま・朝鮮半島)のこと。おそらく対馬でも見たのでしょう。

「どこ」から、対馬を見たのでしょうか。筑紫からですか?
福岡住まいとしては、まずそのようなことは考えられないし、聞いたこともありません。何せ、博多から対馬まで150キロ近くあります。

当時望遠鏡があるわけではなく、またどちらかに富士山レベルの山でもあれば、そこから一方を見下ろすこともあるいは可能だったでしょうが、生憎そういう山もありません。寧ろ対馬から朝鮮半島を見る、あるいは朝鮮半島から対馬を見ることはできたかと思います。

これは恐らく直秀のはったりではないでしょうか、交易船とか交易品は見たかと思いますが。
それと
丹後
播磨
筑紫
私はあらすじと感想で「細川、黒田、黒田」などと書いていますが(苦笑)、いずれも小倉百人一首に出て来る地名ですね。特に丹後の天の橋立は、まひろ、後の紫式部の娘の小式部内侍が歌に詠んでいますし、播磨も「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に」でおなじみですし、筑紫関連では「筑紫歌壇」の歌人の歌が選ばれています。

6.万葉筑紫歌壇
(太宰府市文化財情報)

当時、都の人にとって、そこから離れることは絶望的とされました。確かに出世レースから脱落してしまう。それでも、案外、気分転換になったのかもしれません。

ここでは都を離れるのは直秀と散楽一座ですよね?ならば出世レースも何もないのでは。
あと大宰帥などで筑紫に赴いた人も、当時の旅の困難さを考えれば、なかなか大変であっただろうと思います。以前書きましたが、大伴旅人などは着任後すぐ奥さんを亡くしていますし。

ただその人たちを受け入れた地では、都に触れる機会でもあり、その地に文化が根付いたと言えるでしょう。

日本中世史を考える上でも重要に思えます。

『源氏物語』で描かれるような世界は、ほんの一握りのもの。それ以外では、名もなき大勢の庶民が、生きては死に、歴史の中に消えてゆきました。

そんな消えた姿を想像させてくれる、直秀のような人物は重要でしょう。

まず、この時代は中世ではなくて古代です。平安時代は古代に区分されます。
そして
「『源氏物語』で描かれるような世界は、ほんの一握りのもの」
この物語をベースにした描写が、ドラマの中で既に何度か見られるのですが、その『源氏物語』を無視しているようにも取れてしまいますね。
あと大勢の庶民が表に出てくるのは室町時代の頃で、その当時、庶民はまだ表に出て来る存在ではありませんでした。

こういう役割の人物を「オリキャラ」だのなんだの貶す意見もありますが、正史に対する庶民目線の稗史(はいし)も重要なはず。

オリキャラが悪いのではなく、そのオリキャラの設定に賛否両論があるだけだと思います。現に私は、今のところ直秀の描かれ方に、特に無理があるようには見えません。
恐らく武者さんは、『麒麟がくる』の駒を念頭に置いているのでしょうが、私も駒に関してはちょっと無理があるような気がしました。これも以前書きましたが、あのまま市井の人物として薬屋で生涯を全うしていたら、そうは思わなかったでしょう。

そして庶民目線の稗史と言うのであれば、昨年の阿月なども足が速いことが父の気に入らず、両足を縛られてしまい、その後その父に売られ、お市の侍女となった後、伝令の役目を買って出て命を落としています。好きな大河なら、恐らく褒めそうなキャラでしょう。しかし武者さんは、都合よく死んでくれる「冷蔵庫の女」と彼女を形容しました。
なのに今年のちやは、あるいは忯子はそう言わないのですね。

本作は近代が舞台ではないけれど、歴史総合目線もある。
日本はずっと隣国と交易し、影響を互いに与え合ってこそ、成立してきました。

先日、驚いたことがあります。昆布とはアイヌ語ルーツだと初めて知った人が、激怒して日本伝統だと主張していたのです。昆布は蝦夷との交易品であり、そのことをむしろ昔の人は自慢していました。

隣国と交易もし、戦いもしています。また交易だけでなく、たとえば遣唐使のような文化交流もありました。
そもそもこの「歴史総合目線」とは、具体的にどのようなことを意味するのですか。
あと
「昆布とはアイヌ語ルーツだと初めて知った人が、激怒して日本伝統だと主張していたのです」
その裏付けをお願いします。

逆に近代が舞台なら、西洋列強が押し寄せており、この時代のような交易や交流は難しかったでしょう。

なぜなら交易するには権力が必要だったから。古来からアイヌルーツのものを取り入れていることは実際にありますし、それで純粋性が落ちることなどありえません。

海の中にある日本という国――その歴史を考える意義が、このドラマにはちゃんとあります。とても勉強になる作品です。

「古来からアイヌルーツのものを取り入れていることは実際にあります」
ここまで書くのであれば、その例をちゃんと示してください。ルイベとか鮭とばなども確かアイヌ起源ですね。

あと
「海の中にある日本という国――その歴史を考える意義が、このドラマにはちゃんとあります」
直秀が都の外のことを話しただけで、「海の中にある日本という国の歴史」を考える意義があると言うのは、少々飛躍しすぎだと思いますが。
ならば『北条時宗』とか『毛利元就』(嫡男隆元が、プレッシャーに耐えかねて他国へ行きたいと言い出すシーンがある)などもそれと同じではないかと。

前にも書きましたが、本作は中国語圏でも注目を集めています。漢詩の引用が多いことに注目されていますし、宮廷劇らしい要素もふんだんにある。

今年の大河は日本国内向けのみならず、世界を狙えるアジア代表枠として認識できると思います。

武者さん、前回前々回と書いていた
「町田啓太さんの検索数が中華圏で多い、だから人気がある」
はどこへ消えたのですか。やはりあれは『チェリまほ』の結果だったのでしょうか。

「漢詩の引用が多いことに注目されています」
これもその裏付けをお願いします。注目されていると断言するわりに、具体例がなさすぎですね。

「世界を狙えるアジア代表枠」
この「代表」とは「何の」代表なのかまるで書かれていません。
ワールドカップの代表か何かですかと言いたくなります。

道長の官位が、従五位下程度の右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)であり、婿にするには低すぎる。

ちなみにこれは「佐殿」であり、唐名(とうみょう)は「武衛」ですから、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の源頼朝でお馴染みですね。

これ順序が逆なんですよ。まず右兵衛権佐だから佐殿、『鎌倉殿の13人』の頼朝である、その唐名は武衛だったと持って来た方がいいかと。私も第3回のあらすじの感想で、これについて書いていますが、こちらでは上総広常が
「武衛武衛」
と呼んでいたことについて書いています。武衛と言えばやはりあの人を思い出しますね。

義懐が力を持てばどうなるかわからないし、右大臣家は嫌いなのだとか。関白家の藤原公任ならば良いって……。

確かに兼家はなぁ。道綱母の藤原寧子が、兼家のつれなさを詠んだ歌がバッチリ出回っていますからね。娘があんな歌を詠むかもしれないと思うと、そりゃ嫌ですよ。

右大臣家ではありますが、倫子が結婚するのは兼家ではなく、その息子の道長です。これだと、まるで倫子が兼家を婿に取るようです。
そして穆子が
「そういう遊びの過ぎる殿御は、倫子がさみしい思いをしそうで」
と言っています。この「遊びの過ぎる殿御」、これは公任のことなのですが、これも武者さんの文章だと兼家のことのように取れてしまいますね。

ここ、ちゃんと観ていましたか?

すると穆子は、夫が赤染衛門と話したという点にチクリ。ただ話しただけだと雅信は慌てています。穆子はかわいい嫉妬ができる女性ですね。

『鎌倉殿の13人』の政子は、金剛力士像顔になって頼朝に怒っておりました。ああいうのは怖い。

政子は元々公家でもないし、夫の頼朝が、都風に大勢の女性と接することにも慣れておらず、亀の前の家を壊させたのは無理もないかと。

黒木華さんが愛くるしいのは言うまでもない。

それにしても、この恋する顔の美しさはどうしたことか! 花の蕾がふくらんでほころんでゆくようで、甘ったるくてかわいらしくて素晴らしい!

こんな顔をさせた時点で道長は有罪なので、さっさと婿になりましょう。

好きな大河の女性キャラに対してはこう言うのですね。
無論黒木さんは、この倫子をうまく演じているとは思います。しかしこれが嫌いな作品なら
「かわいこちゃんキャラでけしからん」
などと言うのではないのでしょうか。
大河ではありませんが、『まんぷく』の福子にもそういう言い方をしていました。

まひろと結ばれて欲しい気持ちもないわけではありませんが、この倫子を見てしまうと難しい。まひろは書く楽しみもあるし、ここはもう、倫子でよいのではありません?

ついでにいうと、雅信も穆子もかわいいですね。小麻呂も言うまでもない。ドロドロした右大臣家が嫌だというのは理解できますとも。あちらは全員可愛げがありませんから。雅信の予感は当たるのかもしれない。今はまだ純朴な道長も、いずれは……。

「まひろは書く楽しみもあるし」
この回で書くシーンは出て来ないのですが…。それに散楽一座ももう都を離れると、コント?作成もできなくなるでしょう。

「右大臣家は全員可愛げがない」
よく見るとそれぞれのキャラの違い、そして自分たちが結束して何をするべきか、それが窺えるかと思うのですが。それと雅信は源氏であり、藤原氏の兼家ほどの権力欲はないと思われます。以前そういうことを言っていましたし。

好きな大河の中でも人物の好き嫌いをはっきりさせて、『鎌倉殿』の時政のような感じで、兼家ファミリーを叩くのも武者さんは好きなのでしょうね。

藤原義懐は帝からのお達しだとして、陣定(じんのさだめ)を当分の間開かぬことにすると告げます。
これまで出てきた帝の前での会議ですね。

陣定は帝の御前でやるものではありません。寧ろ帝の臨席が減ったことにより、主流となった一種の閣議です。出席者の発言が奏文としてまとめられ、帝と摂政や関白の決裁を受けるシステムでした。

慣例を破り、帝だけで決めることは天意に叛く、世が乱れる。それを帝が理解していないのならばお諌めしろと訴えています。
世を治める為政者とは、天から選ばれている。それに背けば帝に禍が及ぶかもしれない。そんな東洋の考え方です。

「そんな東洋の考え方」とありますが、もっと具体性がほしいですね。それはどのような史料や文献にあるのでしょうか。そして、日本にそれが伝わったのはいつですか。

彗星や白虹貫日(日暈)がその証とされ、こうした考えを【天譴論】と呼びますが、日本では関東大震災時の渋沢栄一による誤用が広まってしまいました。
大河ドラマの主役に選ばれた人物であろうと、過ちは犯すのでそうそう信じてはならないという悪例です。ご注意ください。

そしてここで『青天を衝け』叩き。大河をきちんと説明するのではなく、どうにかして自分の思う方向へ引っ張って行こうとしていませんか。こんなことするのではなく、天譴論をちゃんと説明すればそれで済むことなのですけど。

「大河ドラマの主役に選ばれた人物であろうと、過ちは犯すのでそうそう信じてはならないという悪例です」
では、武者さんが好きな大河の主役でも、そのように考えていいということですね。

あと「白虹貫日」、武者さんが昨年南に虹が出る、このドラマはおかしいと書いていたのをちょっと思い出しました。

しかし詮子には策がありましたね。自分にも東宮にも源雅信がついている! 大臣家に道長婿入りを勧めてもいる。そのうえで、道隆も源と手を組む覚悟を決めろと言い出します。

それ、その前に兼家も同じことを言っていましたね。似た者父娘なのだと思いました。

安倍晴明が「遅い!」と言われながら、兼家の眠る部屋へ出向き、「瘴気が強すぎる」と兄弟たちに言い放つと、兼家と二人きりになります。

「眠る」だと死んでいるようだから「伏せている」辺りがいいのではないかと。
あと「瘴気」、字幕では「障気」となっていましたが、ざっと調べたところどちらも使われるようです。「病を産み出す毒気」とでも言うべきでしょうか。


飲み物-暖炉の前のウイスキー
[ 2024/02/28 02:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

先日蛇足ではないかと書いていますが、今回の『武将ジャパン』大河コラムの終わりの方について。


先ほど、海外の反応に触れましたが、今や地上波だけの時代ではりません。
VOD、配信、海外の目線を鏡とすることも重要です。

などと書きながら、今年そして昨年の大河はリアルタイム視聴率をやけに意識しているように見えるのですが、どうも辻褄が会わないような気がします。
そして「海外の目線を鏡とする」のではないでしょう。たまたまある作品が海外で当たり、キャストやスタッフが、注目されるようになると言うのが正しいかと。『チェリまほ』が正にそれではないでしょうか。

しかし結局こう書きたいから、「三鏡の教え」を持って来たのでしょうが、それ以前に、武者さん自身が「鏡」とすべき人や物もあるのですけどね。あと「はりません」は「はありません」でしょうか。

そして『不適切にもほどがある!』批判に絡めて『いだてん』叩き。

クドカンさんのドラマが批判されています。
私はこの流れを見て思いました。既視感があるな、と。
『いだてん』でもジェンダー監修者をつけた方がよいと私は批判しました。
当時のあのドラマは低い視聴率と反比例して、批判がなくなっていきましたが、それは危ういなと感じていました。
批判が目立つようになったのは、ドラマが終了して何年か経過してからのことです。

私は『不適切…』は観ていないから何とも言えません。
そしてこの『いだてん』のジェンダー監修なるもの、これも後の方は観ていないので何とも言えませんが、具体的にどういう理由で、ジェンダー監修が必要だと思ったのでしょうか。第一あれは昔のオリンピック、そしてそれに伴う選手のトレーニングのことが出て来ているはずですが、その当時の強化方法は、今と違って当然でしょう。

そしてジェンダーがどうこうと言う一方で、今回のコラムの中では
「前回の予告で、藤原公任の脱ぐ姿が映った時、これぞ女性向け大河だと言わんばかりの反応がありました。
しかし、そんな脱ぐ公任を見て、まだときめいていられるかどうか。
ゲストークが全力で炸裂ではないですか」
何度も書くようですが、嫌いな大河ならこのシーン、叩きそうです。
こんな男の裸ばかりでしよーもない、意味がわからない、しかも女をコケにしているとか何とか書いて。

そう言えば昨年の
「このドラマの作り手にとって、女はどんな存在なのか?」で、
「自慢できるトロフィー」というのがありました。
女は家柄だなどというセリフは、武者さんの見方からすれば「トロフィーワイフ」ではないのでしょうか。

クドカンさんとその周囲は、若い頃の挑戦的で斬新なイメージが強い。けれどもそのままでいられるわけもない。ファンが人として鏡になることを怠れば、どこかで躓きます。
もし、あのとき、大河ファンが鏡になっていれば、失敗は防げたのではないか。どうしてもそう思ってしまうのです。

そして「ファンが鏡」、要はファンが批判しなかったから、だから作品がダメになるのだと言いたげです。
しかしファンはその作風をも受け入れたうえで、宮藤官九郎氏を支持したわけです。今回の『不適切…』も恐らく楽しんで観ている人はいるわけで、それは違う、やめなさい、もっと批判しなさいと武者さんが言う道理もないかと思います。
結局こういう形で、『いだてん』を支持していた人をも叩きたいのでしょうが、はっきり言って大きなお世話です。
尤も武者さん、この大河の最初の方は絶賛していましたが。

一方で武者さんは、好きな『麒麟がくる』、特に駒を叩かれてかなりむきになっていることがありますが、そういう人が嫌いな大河なら叩けと言うのも矛盾していないでしょうか。
『麒麟がくる』が面白くなかったと言う人だっているのですが。

◆「どうする家康」&静岡・浜松市「ロケーションジャパン大賞」グランプリ!大河13年ぶり快挙 CPも感激(→link)
この大賞は「浜松まつり」が理由とされています。
しかし妄信的かつ組織的な票があることも推察され、昨年の評価は歪んでいるとしか言いようがありません。
歪んだ鏡に映った像を見てはしゃいでいるようでは、立ち直ることなど望めません。

「妄信的かつ組織的な票があることも推察され」
「昨年の評価は歪んでいるとしか言いようがありません」
また武者さんの個人的願望ですか。
こういうのは裏付けをちゃんと取ってから言ってくださいね。
そして「立ち直る」とは、何がどのように「立ち直る」のですか?

要は今回のコラムの「中国でこの大河は人気がある、すごい」と書きつつ、裏付けを出して来ない、それと同じパターンだと思います。

ちなみにこの「ロケーション大賞」、『舞いあがれ!』も「部門賞 地域の変化部門」受賞だそうで、どちらもおめでとうございます。

そしてこのニュースですが。
◆『どうする家康』ロケ大賞グランプリ受賞 松本潤ら参加の「浜松まつり」には約260万人が参加(→link)
記事内容を一部引用させていただきますと、未だに「黒田官兵衛」が登場させられています。
そして、豊臣秀吉、黒田官兵衛、真田昌幸、石田三成と次々と現れる強者(つわもの)たちと対峙し、死ぬか生きるか大ピンチをいくつも乗り越えるさまを映し出した。
いったい黒田官兵衛は『どうする家康』のどこにどう出ていたというのか?
制作サイドから貰ったソースを大手メディアがそのまま垂れ流す。しかも古いデータを活用しているから、こんなことになってしまう。

あの…非常に今更感が強いのですが。
こういうのは、最終回が終わって昨年が終わるまでに2週間くらいありましたよね、ああいう時にやってください。
なぜ今年の大河が始まってもう一月半も経っているのに、記事にあったからと言って、思い出したように出してくるのですか。

そして昨年は井伊直政死去のセリフも、都合で入れられなかったわけですし、当初は入れる予定が入れられなかったと言うこともありえます。それと私、今年も武士や戦が見たいこともあり、この『どうする家康』も観ていることは前にお伝えしています。観ているうちに官兵衛の存在をつかめるようなシーン、またはセリフが登場する可能性もまたあるかとは思います。

これだけでも提灯記事の数々がいかに怪しいものなのか、理解できるはず。
今年の足を引っ張るような真似だけはして欲しくない。そう切に願います。

ここの箇所でこれまたおかしな点があります。
まず
「制作サイドから貰ったソースを大手メディアがそのまま垂れ流す」
のが
「提灯記事」
であると言わんばかりです。しかしこれこれこういうことが描かれていると言うのは、提灯記事になるのでしょうか。ならば今年の記事も、制作サイドからのソースが多いでしょうから、提灯記事ということになりますよ。

要は坊主難けりゃ何とやらで、ごく当たり前な記事であっても、『どうする家康』関連であれば、武者さんはすべて提灯記事という色眼鏡で見てしまうようです。
悪いけど、こういう人がドラマ評を書いて報酬を貰っているのが、どうにも解せません。

「今年の足を引っ張るような真似だけはして欲しくない。そう切に願います」
なぜ『どうする家康』関連記事が、『光る君へ』の足を引っ張ることになるのでしょうね。たとえば明らかに『どうする家康』寄りで、しかも『光る君へ』に難癖をつけているような記事があるのなら、「足を引っ張る」ことになるのでしょうが、この記事を見る限り、そういう印象は全く受けません。

最後になりましたが、少し前の投稿で『春秋左氏伝』と書いたつもりが、なぜか『左氏春秋伝』となっていましたので訂正しています。

飲み物-トディ2
[ 2024/02/23 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

季節外れの暖かさが続きますね。では、第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


藤原忯子の亡骸に抱きつき、その死を悼む花山天皇。
あまりに儚い愛でした。

ナレーションに
「死は汚れと考えられていたこの時代、天皇はじめ貴族たちが遺体に近づくことは許されなかった」
とありますし、ドラマ本編でも、花山天皇が忯子のもとへ行こうとして止められているのですが、どうやって
「亡骸に抱きつく」
ことができたのでしょうか。

愛がなければ女の人生は意味がないのか?
そんなことはない、書くこと、創造がある!
そう突きつけてくるようなドラマです。
忯子は愛を得たけれど、それだけだったとも言える。生きて書くことのできるまひろとは違います。

それぞれの立場が違いすぎます。
忯子の場合は、入内して帝の寵愛を得、皇子を産むことが人生と言えました。
(後で兄の斉信が、そのことを後悔していましたが)
まひろの場合は入内できるような身分ではなく、この時代のことだから選択肢は限られているにせよ、まだ忯子よりも自由はあったでしょう。

金目のものや食糧ではなく、なぜ衣服なのか?と思われるかもしれません。
当時の盗賊はそれが定番。服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録も残されています。
屋内ならばまだしも、屋外で脱がされると季節によっては凍死の危険性すらあった。小判を盗む鼠小僧より、ずっと原始的な時代なのです。

まずこの当時、鼠小僧の江戸時代とは違って貨幣経済がまだ未熟な段階です。
(だからこそ花山天皇が貨幣を使わせようとしたとも言えます)
一般の人々に取っては、まず現物、それも着るものや食べ物こそが大事でした。

そして
「服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録」
具体的にどういう記録でしょうか。
それと「服」より「衣」とか「着物」の方がいいかと。今までもそうですが、武者さん身に着ける物は何でも「服」ですね。

この殺傷に対する精神的葛藤があればこそ、道長もいろいろ悩んでいます。心が繊細に描かれたドラマです。

別にこれに限らず、武者さんが嫌いな大河(『どうする家康』『青天を衝け』他)でも登場人物の思いは細かく描かれていましたが、嫌いな作品だとやはり無視するようですね。家康が悩んでいても、絶対こうは書きませんでしたから。

同じ日本でも、かつての蝦夷地こと北海道のみ【トリカブト毒文化圏】に含まれます。
アイヌのトリカブト毒矢は興味深く、もしもご興味のある方は映画『ゴールデンカムイ』をご覧ください。

毒矢はともかく、トリカブトは今昔物語にも登場しているはずですし、狂言の『附子』にも採り入れられていることを思うと、何らかの形でその毒性は伝わっていたと思われます。

「長い言い訳じゃのう」
怯えを隠す兼家に対し、いずれお分かりになると、不穏な表情の晴明。私を侮れば右大臣一族とて危ういとまで言い切りました。
安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです。

まずこの時の兼家ですが、さほどに怯えているようにも見えません。ただ、こいつとは話をしたくないなといった表情ではあります。そして
「安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです」
ではなく、政を行う人物の命運も自分次第だと、脅しをかけているように見えます。

何もかも見通すような晴明に、兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です。
そこへ藤原道長が帰ってきました。兼家はホッとしたようにいたわり、盗賊と渡り合ったことを褒めます。
「されど人を殺めるなよ」
道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家。

「兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です」
ちょっと意味がわからないのですが…。
「もったいぶりつつも戸惑う兼家です」
とでも書きたかったのでしょうか。

「道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家」
これもちょっとわかりづらいのですが。
「『人の命を操り奪うのは、卑しき者の仕業である』
晴明に当てつけるかのように、道長に念を押す兼家」
とでも書いた方がわかりやすいかと。

この晴明はおもしろい。
妖怪と戦うというよりも、心理戦の達人、揺さぶりの名人です。
晴明からすれば、妊婦が亡くなるくらい想定内といえるかもしれない。どんな呪詛をしたのかわかるのは晴明だけですから。
けれども兼家は怯えている。その怯えに漬け込み、裏の裏をかき、操ることは確かに楽しい。
相手は祟りが怖いから手出しもできない。そりゃあ楽しいでしょうね。

先ほども書いていますが、兼家はそこまで怯えているようにも見えず、しかも晴明がそこまで揺さぶりをかけているようには見えません。ただ、貴方がたのことも私次第だと詰めよっているようには見えますが。

そしてこの後の晴明の
「お父上とのこういうやり取りが楽しくてならない」
プレッシャーをプラスに転じて楽しむという意味に取った場合、昨年の真田昌幸の
「乱世を泳ぐは愉快なものよ」
を思わせます。

寧子は大丈夫と言いながら、合間に息子である藤原道綱のことを挟みます。
怖い夢と道綱に何の関係があるのか?と兼家がキョトンとしていると、飄々と答える。
「よいではございませぬか、殿のお子ですよ、道綱も」
はい、何の関係もありませんねー。うろたえている相手につけ込み、我が子を頼み込んでいるだけです。

この場合の道綱ですが、後の寛和の変(兼家の一族が花山天皇を出家させ、懐仁親王を即位させた政変)で、かなり重要な役割を果たしています。あるいは、それの伏線的な意味もあるのでしょうか。

狐が人間に化ける説話は中国にもあり、それが日本に伝わったと考えられます。あまりに不可思議な存在ゆえに、そんな伝説が生まれたのでしょう。
ちなみに「化け狸」伝説は日本特有です。
ややこしいことに「狸」は中国では猫の古い呼び方で、タヌキは「狢」と書きます。

中国大陸と言えば、九尾の狐なども有名ですね。また妖狐(化け狐)の話などもありますので、それが伝わって後に文学となったと考えられます。御伽草子の『木幡狐』なども、それに区分されるでしょう。

ところで以前、『麒麟がくる』第3回の感想で私はこう書いています。


先日『麒麟がくる』第3回のあらすじ関連で、人間の男とキツネの娘が結婚する話が登場しています。所謂異類婚姻譚ですが、『今昔物語集』にも似たような話があり、また『御伽草子』にも「木幡狐」という、キツネの姫が人間と結婚する物語があります。この話の舞台が美濃であるのなら、恐らくは『日本霊異記』に出て来る物と考えられます。ここで人間の男がキツネの娘に「来つ寝」と言ったことが、キツネの語源になったともいわれています。

武者さんが好きな『麒麟がくる』です。これについて触れてほしかったですね。そして今回も狐絡みで月岡芳年の絵が登場です。

あとこれは変換ミスでしょうが、

義懐は、仕事はできても、人身掌握が苦手なようです。そういう意味では為時もそうでしょう。

そうした状況と比較すると、義懐はどうしても人身掌握が拙い。

「人身」でなく「人心」と思われます。
これは報酬付きのコラムなのですから、誰か校正する人はいないのでしょうか。

ロバート秋山さん演じる藤原実資が登場します。
先週、見かけなかっただけで実資ロスに陥ったので、うれしい限り。

武者さんいつも「ロバート秋山さん」と書いていますが、クレジット通り「秋山竜次」さんと書いた方がいいのでは?

あと実資ロスだそうで。以前『鎌倉殿の13人』で、権三ロスになったと武者さんは書いていました。この権三とは亀御前の夫のことで、密会中の頼朝に盾突いたことから殺されてしまうのですが、この人物は1回きりの登場で、しかもせいぜい数分間、「ロス」になるほど多く出て来てはいなかったのですが。

しかしこの桐子、中島亜梨沙さんが演じる美人妻なれど、そこまで癒されないのは受け止めないからではないでしょうか。

癒しキャラではないと思います。しかし武者さんは、こういうタイプが好きなのではと思っていただけに意外でした。

今年の大河ドラマはオンオフの切り替えを意識しているとか。くつろいでいる時はそのリラックス感を出したいそうです。
道隆の井浦新さんのリラックス感は常に最高です。少し崩れた感が艶かしいほど。

今年に限らず、登場人物のオンオフは描かれていると思います。ただその人物がどういう立ち位置で、どのような時代を生きたかも、関係してくるとは思われますが。

「玉山(ぎょくざん)崩る」という言葉があります。
『世説新語』由来で、イケメンで有名だった嵆康(けいこう)が酔ってグラグラしていると、まるで貴石の山が崩れてくるような美しさがあったという言葉です。

「貴石」ではなくて珠玉ではないでしょうか。貴石というのは一般にダイヤモンド、ルビー、サファイアそしてエメラルドのことを指すようです。

しかし好きな大河のイケメンキャラは褒め、嫌いな大河のイケメンキャラは
「イケメンを出せばいいというものではない」
と叩くのが武者さんなのですね。

F4たちが投壺(とうこ)をしています。
壺に矢を投げる中国由来のゲームで、韓国でも人気があり「トゥホ」ゲームセットが輸入販売されているほど。

「韓国でも人気」云々の前に、日本にいつ伝わったかをまず書いてください。
正倉院に収められているほどですから、奈良時代には入って来ていたでしょう。そして江戸時代にも盛んになってはいます、これは先日あらすじと感想で書いていますが。尚投扇興はこれがモデルとのこと、こちらの方が日本的かなとは思いますが。

もちろん当時の朝鮮半島にもありましたし、発祥国である中華帝国では、『春秋左氏伝』にもその記録があります。

しけた話ばかりしていても妹が浮かばれぬから、気晴らしに打鞠(だきゅう)でもやるか!と斉信が言い出すのでした。

打鞠とありますが、打毬のことでしょうか。
ちなみに後の方では打毬となっています。

そしてこの打毬関連ですが、あまり詳しい説明がなされていません。公式サイトとか、

をしへて! 佐多芳彦さん ~平安貴族が楽しんだ打毬ってどんな競技?
(『光る君へ』公式サイト)

こういう記事にはちゃんと書かれているのだから、参考にしてほしいものです。

藤原道長ら上級貴族が楽しんだ平安のスポーツ。現代に「プロ打毬チーム」がないのはなぜなのか?【光る君へ 満喫リポート】道長打毬編
(serai,jp)

飲み物-マグに注がれたビール
[ 2024/02/21 02:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。結局今年のこのコラムも、最終ページは嫌いな大河叩きの比重が大きくなりましたね。


この文が直秀経由で届けられ、まだ呑気な乙丸に対し、いとは苛立っています。下人からの手紙だと聞くと、いとは聞かなかったことにします。

「まだ呑気な乙丸に対し、いとは苛立っています」の意味がよくわからないのですが。

この時乙丸は手紙をいとに渡して、まひろに届けて貰うという方法を採りませんでした。いとがまひろの乳母でなく、惟規の乳母だと思ったから、自分で直接渡したと言ったわけで、そのためにいとが怒っているのですね。そこをさりげなく「下人からのものからだったので」と取り繕い、いともでは聞かなかったことにすると言ってその場が丸く収まるわけです。で、まひろはいとに気づかれることなく、道長の手紙を読むことができました。

満月の夜、道長が馬で移動していると、その背中に直秀が乗ります。為時の屋敷にまひろはいない。六条に迎えと告げるのでした。

あれは満月の夜ではなく、日が落ちかけた頃でしょう。しかもただ馬の背に乗ったのではなく、まず築地の塀を踏み台のようにして馬の背に飛び乗り、道長を脅すようにして、六条に向かうように言っています。

それと「迎え」は「向かえ」でしょうか。

命を削ってでも成し遂げ、この国の未来は我らが担うとふてぶてしく宣言する兼家です。
この兼家は、正親町天皇に対する織田信長以上に態度が傲慢に思えてきます。一体なんなのか?
それにしても、光の使い方が抜群にうまいドラマですね。

武者さん、嫌いな大河を引き合いに出さないので代わりに書いておきます。
『麒麟がくる』の正親町天皇に対する信長のみならず、

『どうする家康』の足利義昭に対する信長
『平清盛』の後白河法皇に対する清盛

にもいくらか共通したものがあるかと。権威に対する権力者のイメージですね。

そして光の使い方、別にこの大河だけではありません。
武者さんは嫌でしょうが
『どうする家康』のこのシーン、家康が信長を討つことを家臣に打ち明けるわけですが、灯明皿で全体的に暗い雰囲気で、如何にもものものしさを感じさせました。

どうする家康第26回家康の決意
『どうする家康』第26回

花山天皇の寵愛する藤原忯子のことであり、やつれた彼女に呪詛は効きそうだ。
実際に呪ったかどうかはさておき、兼家の悪意がますます際立つ。円融天皇に毒を盛ったことに次ぐ、悪意の増幅があります。
忯子も気の毒としか言いようがありません。
帝に愛されることは、当時の女性にとって最高の幸せであったはず。
それがこうも肉体を痛めつけられ、呪われるとは……。

弘徽殿の女御のことですが、この当時一族をさらなる高みに押し上げるには、このくらいのことはしたでしょう。忯子が帝の寵愛を受けるということは、兼家に警戒心を抱かせることに他ならなかったわけです。もし皇子を産むようなことがあれば、懐仁親王は東宮でなくなる可能性が高く、その意味では是非とも、彼女の出産を阻止しなければなりませんでした。
これを単なる悪意と言えるかどうか。寧ろ怨念のようなものを感じます。

そして道長がまひろの話を聞き、帰宅して兄道兼につかみかかるシーンです。

咄嗟に兄につかみかかり、几帳ごと倒す。烏帽子まで脱げるほどの暴力ですが、殴られた道兼には不可解な思いがありました。
「父に告げたのは道長ではないのか?」
またミステリが増えます。密告したと思っていた道長は違った。道兼の従者は殺された。では目撃者は誰なのか。
兼家はそれに答えず、我が家の不始末を始末せねばならなかったと言います。
道兼はそのうえで、道長が原因だという。器量の小ささを揶揄されて苛立ったから殺したのだ。

「父上に言ったのはお前ではないのか?」ですね。
で道兼ですが、あの時当時の三郎が父に密告したのかと思っていたわけです。でもそうではなかった。そして従者の件ですが、この時の道兼のセリフには出て来ませんね。確かにあの従者も事件を目撃していたため始末されたのですが。

そして「器量の小ささを揶揄されて苛立ったから殺した」では、まるで揶揄した相手(この場合は三郎)を殺したようです。そうではなくて、むしゃくしゃして馬に乗り、しかもまひろが目の前に急に現れたため、バランスを崩して落馬し、さらに従者が余計なことを言ったため、頭に血がのぼり、この際、何の過失もないはずのちやはを殺めたのですね。

「道長にこのような熱い心があると思っていなかった!」
個性豊かな我が子をとことん利用し尽くす、邪悪な父の笑いです。
道綱への言葉でもわかりますが、使えない奴ははなから期待しない。道長に利用価値があえるとみなしたからこそ、笑ったのでしょう。
悪の黒幕はこの男です。

「個性豊かな我が子をとことん利用し尽くす、邪悪な父の笑いです」
何度も書いていますが、兼家もまたこの世界で生き残るための策を弄していると言えます。そしてお前にこういうところがあるのなら、お前も使えそうだなと言っているわけですね。このような家に生まれたからには、その覚悟をしておけというところでしょう。

そして漢籍なのですが(西晋の左思の『詠史八首』のうちの其六です)

貴き者は自ら貴(たっと)ぶと雖(いえ)ども
之(これ)を 視(み)ること埃塵の若(ごと)し
賤しき者は自ら賤しむと 雖(いえ)ども
之(これ)を重んずること千鈞の若(ごと)し
貴族は自分を尊いと思うが、
彼からすれば塵芥としか思えない。
賤しいものは自らを賤しいものとするものの、
彼はそんな人々のことを千鈞の重みを持つものとして大事にした。

富んで身分が高い者は、自分自身を尊いと思ってはいるが、
荊軻にしてみればそのような者は、塵や芥のようなものだ。
また身分の低い者は、自身を卑しいと思っているが、
荊軻にしてみれば、彼らにはとてつもない価値があるため重んじた。

「彼」は荊軻(秦王を暗殺しようとした刺客)のことなのですけどね。

直秀は、荊軻になりたくてなれない、そんな世の中の外にいる壮士の気風も感じさせます。
まひろが彼に「身分なんてどうでもいいと思わないのか?」と問いかけたのは、そんな何かを感じ取ったからかもしれません。
変えたい気持ちがあるけど、そうはできない。そんな世にある空気をまひろが掬いとり、刃ではなく筆で切り付けるとすれば、それは革新的なことに思えます。

この直秀はアウトロー的ではありますが、暗殺者になりたいのかと言えば、それもまた違うような気がします。何度も書くようですが、同じ毎熊さんが昨年演じた大岡弥四郎の方が、寧ろ反骨心という意味ではそれに近い気もします。まあ、こちらは武田に通じてしまっていたわけですが。

そして変えたい気持ち云々ですが、何だか革命幻想といった感じですね。一応『源氏物語』は『伊勢物語』からヒントを得たとは言われています。

そして「誠意ある創作を求める」とあり、

大河ドラマを主に見ている自分としては、ドラマ制作における誠意の問題のように思えます。
(中略)
大河ドラマは過去の歴史を描きます。
ではそんな問題提起を排除していいのかというと、そういうことではないでしょう。

とあります。「そんな問題提起」というのは、その前に武者さんが現代ドラマを引き合いに出し、「ドラマ化することで問題提起し、楽しめるだけでなく、社会を良い方向にできれば素晴らしいことです」と主張していることに端を発しているのですが、とどのつまり、好きな大河をほめて嫌いな大河をけなすことに終始しているようにしか見えません。

特にひどいのがやはりと言うか、昨年あらすじすらろくに書かなかった『どうする家康』。ここを見る限り、昨年のこのコラムと何ら変わるところはありません。例によって某週刊誌の記事のみを基にしたバッシングが延々と続きます。しかも同じような表現が何度も出て来る。

番組制作の裏側が放映され、主演が脚本に意見を述べるシーンが流されるほどで、文春砲を否定するどころか、その内容を補強してしまうような状況もあった。

『もうひとつのどうする家康』ですか?今後の展開についての古沢さんと松本さんの打ち合わせですね。

脚本家も「歴史はフィクション」だと言い切ってしまう。自分の創作センスが大事で、史実はむしろ邪魔だと言いたげなことを語っておりました。

『歴史は勝者の記録』とは言っていましたけどね。あと史実で言うのなら、『光る君へ』でまひろと道長が出会うのも、もちろん史実ではありません。時代考証の倉本氏のコメントです。

「あまりにも史実に反しているストーリーはやめてほしいと考証会議で言っているのですが、受け入れてもらえない場合のほうが多いので、一応言うだけ言ってはおくという立場を取っています。史実がどうだったか分からない部分を創作するのは自由ですが、史実が分かっているにもかかわらず、それに反した描き方をするというのは良くないですからね」
(東大新聞オンライン)

「ドラマとは違い、史実ではふたりの出会いははっきりしません。道長と紫式部の父為時が親しかった可能性はあります。為時からうちの娘は賢いと聞いていたかもしれませんが、あくまで臆測です」

(serai.jp)

そしてこれも置いておきます。

もっと真面目にドラマ作りと向き合うことをして欲しい。
ドラマを作る人を守るためにもそうあって欲しい。切実にそう願っています。

その、真面目にドラマ作りをやっていたであろう人を、ゴシップネタを基に散々けなし、守られるべき製作スタッフやキャストを攻撃するようなことを書いていた武者さんに、このようなことを言われても全く腑に落ちません。
貴方がするべきことは、2021年と2023年に自分が書いたことをもう一度省みることでしょう。

はっきり言って、この家康叩きが書かれている5ページ目の大半は必要なのかとさえ思います。

ちなみに私は今年も『家康』の録画を観ています、あと放送から10年ということで『軍師官兵衛』も。やはり武士や戦も観たくなりますから。

飲み物-2種類のカクテル
[ 2024/02/08 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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