fc2ブログ

ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
ベイカー寮221B/Baker House 221B TOP  >  青天を衝け

第8回『光る君へ』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週もたけたけさんのnote記事からいくつかご紹介します。いつも通り、武者さんのコラムからの引用部分はダークブルーです。


大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第8回~

姫君たちは公任推しか、道長推しか、斉信推しか、それぞれ盛り上がっています。
なんでも公任はおとなしかったとか。
これが彼らしいところで、当人たちは公任の策によって勝ったと振り返っています。
派手さのない知将タイプのようです。

ここではまず第7回で斉信、公任が女性の品定めをして、まひろがそれを耳にするシーンは、元アメリカ大統領トランプ氏の、ロッカールームの男子の様な女性軽視の性的発言は許されないと下劣呼ばわりしているのに、女性たちの男性の品定めについては、盛り上がっているだけで済ませるのかと書かれています。

さらに、これが嫌いな大河であれば、
「『うるさい』『陽キャの祭り』『辛い』と叩き、『ジェンダーが~!ルッキズムが~!』『中国ではこう!海外では許されない!アップデートができていない』とポリコレ論争を繰り広げるのではないですか」
ともありますが、同感です。昨年散々それをやって来ていますし。

で、姫君たちが男性の話題で盛り上がってる最中で赤染衛門が、「道長の弟」直秀がいいと言い出します。人妻なのにと倫子から言われるも
「人妻であろうとも心の中は己だけのものにございますもの。そういう自在さがあればこそ人は生き生きと生きられるのです」
のセリフを吐くのですね。

彼女たちにも処世術はあります。
直秀のような身分の低い男と結ばれても先はないし、そんな男とどこか遠くへ逃げるような度胸もないから、あえて見落とすようにしたのかもしれませんよ。

ここのところですが、そもそも直秀は当時最下層とも言える散楽一座の一員で、打毬の欠員を補うべく入っただけであり、しかも赤染衛門も姫君たちもその事実は知らず、道長の弟であると思っているでしょうといったことが書かれています。また、仮に直秀が下級貴族であったとしても、左大臣家に出入りする身分の姫なら、身分の合わない相手との駆け落ちなどは、どのようなことになるかわかっているともあり、だからこそ赤染衛門の「心の中は己だけのもの」が意味を持つともあります。

これに関しては、似たようなことを私も関連投稿で書いています。しかし武者さんは
「直秀のような身分の低い男と結ばれても意味はない」
と、赤染衛門や姫君が彼の正体を知り、しかも彼と結ばれたいと思っているかのような書き方をしています。無論そんなはずはなく、「あえて」見落とすというのも裏付けがありません。
さらにこの駆け落ちについては、

「余談ですが、『伊勢物語』では在原業平卿と藤原高子(ふじわらのたかいこ)さまの恋が題材にされています。
在原業平卿の祖父は平城天皇、父は阿保親王という血筋でした。
業平卿は美男の誉れが高く女性遍歴も派手な方でした。
しかし、父が政争に敗れ左遷。業平卿も出世コースから外れてしまいます」
と、『伊勢物語』について紹介され、さらに業平が高子のもとに通ってその結果駆け落ちをし、その後高子は入内、業平は東国へ旅に出たことが説明されています。
在原業平といえば『応天の門』を思い出します。いい加減これについても投稿しないと。

人妻であろうとも、心の中は己だけのもの、そういう自在さがあればこそ、生き生きとしていられる。
そう言い切りました!
いいですね。
まるで推し活を語る令和にもビシビシと響く言葉です。
しかし、まひろは聞いてしまった……
男どものゲスなロッカールームトークを。

ここでもたけたけさんは
「女性に対しては『品定め』も推し活、男性に対してはゲスなロッカールームトーク。
ジェンダーやポリコレ価値観をすぐ出してくる割に男女で扱いが違うのはなぜでしょうか」
と書いています。
女性が男性の品定めをするのはいいが、その逆は許せないということでしょうか。また嫌いな大河なら、その女性による男性の品定めに対しても、散々叩いていたと思います。

そして、赤染衛門は文章博士・大江匡衡と結婚していて、おしどり夫婦として知られ、『紫式部日記』によれば、その仲睦まじさから『匡衡衛門』と呼ばれたともあります。

晴れた日には彼の国の陸地が見えると続ける直秀。
彼の国とは「唐」(から・中国大陸)と「高麗」(こま・朝鮮半島)のこと。
おそらく対馬でも見たのでしょう。

たけたけさんによれば、まず「彼の国」には敬意を表する意味もある、そのため西方浄土は彼岸であり、その他『阿弥陀経』にも「彼の仏」、「彼の国」という言葉も出て来るとの由。「遠くの国」という意味もあるようなので、暗に「あの世」を指しているとおかしくありません。

あと余談として、鴻臚館について書かれています。元々は大宰府、難波そして京に置かれていましたが、京の鴻臚館が渤海使節の接待用であり、10世紀中ごろに渤海が滅亡したため廃絶されます。また難波の鴻臚館は、西海道から入京する外国使節専用でしたが、9世紀以降来日が少なくなると、摂津国府に代用されるようになります。そして大宰府。蕃客、つまり来朝している外国人や遣唐使らの宿舎として作られたものの、遣唐使廃止後は、大陸から来た商人の接待をするためのものとなり、検問や貿易などを担当し、11世紀末まで続きます。そして以前このブログでも書いていますが、この鴻臚館の遺構が、1987年に福岡城内にあった平和台野球場から見つかっています。

それから
「晴れた日には彼の国の陸地が見える」という直秀のセリフについて、武者さんが「おそらく対馬でも見たのでしょう」と言っている件です。対馬海峡や玄界灘を隔てた「高麗」の中でも、比較的近い巨済島(コジェ)でさえ、直秀が住んでいたという筑紫から陸地を見るのは無理があり、貿易商人などから、対馬から見た半島の様子を聞いたのを伝聞しているのではないでしょうかともあります。

これについては、私も筑紫というか、今の福岡から肉眼で対馬を望むのは考えられないと書いています。何らかの形で交易船の船乗りとの交流があり、上記のように彼らから聞いた話を伝えているか、あるいは、交易品を見て多少想像を膨らませているのかとも考えられます。

こういう役割の人物を「オリキャラ」だのなんだの貶す意見もありますが、正史に対する庶民目線の稗史(はいし)も重要なはず。

このオリキャラ云々に関しても、たけたけさんはこう書いています。『どうする家康』レビューで、オリキャラである阿月が、お市に代わって浅井長政の裏切りを伝えるために、小谷城から金ケ崎まで走ったことに対し、
「脇役を目立たせたことで松本潤さんが怒った」
と、週刊文春しか報道していなかった、あまり信憑性があるとも言えない記事を鵜吞みにし、勝手に妄想し、中傷していたと。直秀のような一般庶民目線という意味なら、阿月という、1人の侍女の目線もまた大事とありますし、私もこの阿月について、このオリキャラ関連で採り上げています。オリキャラが活躍するのは、武者さんが好きな大河のみではありません。

「女子わかるわかる成分」という語句も理解しがたい。
現在、映像作品の好みを振り分けるアルゴリズムでは、性差を外すことも増えているとされます。
「女の子ならかっこいい男にキュンキュンする!」こういう決めつけは、有害なこともあるでしょう。

武者さんが引用している記事からですが、これについては
「第7回で藤原公任卿の
『藤原公任の脱ぐ姿が映った時、これぞ女性向け大河だと言わんばかりの反応』
『脱ぐ公任を見て、まだときめいていられるかどうか。』
と他人が共感して推し俳優さんを応援し評価することを、
『ジェンダーが~!ルッキズムを許すな!』『役者を脱がすな!』『教育への悪影響が!』『中国ではこう!海外では許されない!アップデートができていない!』
と叩き続けるのに、自分については楽しげに俳優評を語る」とありますね。本人はお気に召さないのでしょうが、ダブスタと言われても反論できないと思います。

そして武者さんの町田啓太さん評についても、
「中国圏のファンの反応にかこつけて実は自分が『かっこいい男にキュンキュンしたい』のではないですか」
とあり、これも同感です。

そしてこういう点についても。

彼(私注・直秀)は、まひろがロッカールームから走り去る後ろ姿を見ていました。

これに対しても
「平安時代なのだから『ロッカールーム』ではなく『控え』など時代に即した表現できませんか」
と言われていますね。

当時、都の人にとって、そこから離れることは絶望的とされました。
確かに出世レースから脱落してしまう。
それでも、案外、気分転換になったのかもしれません。
日本中世史を考える上でも重要に思えます。

この「日本中世史」と言っていますが、時代区分としては平安時代は中世ではなく古代であると言われていますね。武者さんが平安時代を中世と書くのはこれで2度目です。

そして筑紫に行かされる件ですが、本来の大宰帥の仕事はなかなか大変でもありました。都で失脚した貴族が筑紫に行く(左遷ポスト)のは、大宰員外帥と呼ばれていましたが、阿保親王左遷の際に、本人に直接かかわりない事件が発端であったこと、太上天皇の皇子であることから権帥の称号が与えられ、やがて員外帥も権帥も一緒になって行きます。右大臣家の家司、平惟仲も後に大宰権帥となっています。

中国の人とこんなことを話していまして。

「正直言って『マックの女子高生』『ハイキング中のドイツ人』『ボストンの12歳の少年』論法に近く、信憑性に欠けるのですが」と、たけたけさんは反論しています。要は、実在しない会話をでっちあげる時の用法で、この他にも
「関係者がこう言っていた」
「過日こういうことを耳にした」
などというのも、これに類するようです。
そして漢詩の解釈。

 不辞宛転長随手(宛転(えんてん)して 長く手に随(したが)うを辞せず)

ここで武者さんが「リフティングするみたいに」と訳しているが、『宛轉(てん 』とは、ゆるやかに弧を描いて転がる様を言い、打毬もポロも、毬杖(マレット)で毬を掬い取る様に打ち、毬門(ゴール)に入れるというルールであるとたけたけさんの文章にはあります。

転がる毬のことが、なぜリフティングになったのでしょうね。またマレットとは元々槌という意味もあり、マレットゴルフというスポーツもあります。またそれとは違いますが、アイルランドで盛んなハーリングでは、杖の先が広くなっており、その上にボールを載せて運ぶことができます。

あと『独眼竜政宗』関連。

「そうそう『独眼竜政宗』といえば、側室と風呂に入ってムフフ……」
『独眼竜政宗』での政宗公の側室では猫御前が出てきます。
(側室「新造の方」と「飯坂の局」をモチーフとして合わせた女性とも)

この猫午前に関しては、狂言妊娠騒ぎで試し行為をした事はあるものの、ここでも『側室=エロ行為』のイメージしかないのでしょうかとあります。
何と言うか
「側室と風呂に入ってムフフ」
なぜ発想がこちらの方にばかり行くのでしょうね。

あと少し長くなるので割愛していますが、武者さんが叩いた『青天を衝け』の『『天譴論(てんけいろん)』についても反論がなされています(と言うか、嫌いな大河だから誤用だと決めつける前に、ドラマ本編をよく観ていただきたい)。

飲み物-ワインと暖炉
スポンサーサイト



[ 2024/03/02 02:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第8回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第8回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


そんな中、赤染衛門はちょっと違う。道長の弟が、猛々しく美しいとコメントしている。
姫君たちが「人妻なのにいいのか」とざわついています。

彼女たちにも処世術はあります。直秀のような身分の低い男と結ばれても先はないし、そんな男とどこか遠くへ逃げるような度胸もないから、あえて見落とすようにしたのかもしれませんよ。

まず
「人妻なのにいいのか」
こう言っているのは倫子だけであり、姫君たちではありません。
(正確には『衛門ったら、人妻なのにそんなことを言って』)

そして
「彼女たちにも処世術はあります」云々、何だか唐突ですね。
そもそもこの時点で、道長の弟即ち直秀と彼女たちが知るはずがありません。そして、処世術だ何だをほのめかすような描写もないのに、なぜこういうのをいきなり入れて来たのでしょうか。

赤染衛門は、むしろ人妻だからこそ純粋に男の魅力を見つめた。人妻であろうとも、心の中は己だけのもの、そういう自在さがあればこそ、生き生きとしていられる。そう言い切りました!

いいですね。まるで推し活を語る令和にもビシビシと響く言葉です。しかし、まひろは聞いてしまった……男どものゲスなロッカールームトークを。

赤染衛門のセリフはともかく、なぜそれが推し活と関係があるのかよくわかりません。とどのつまり、武者さんが嫌いな推し活に、無理やり絡めているようにしか思えないのですが。

それと「ロッカールームトーク」
武者さんはかつて、嫌いな大河の妓楼をキャバクラ呼ばわりしたことがありましたが、好きな大河のワンシーンにまで、どこか違和感のあるカタカナ語を使う必要もないでしょう。
先日投稿したたけたけさんのnote記事に、雨夜の品定めのオマージュではないかともありましたし、実際そう感じられる部分はあります。そして、あの中での源氏に相当するであろう、道長が主に聞き役であるところも。

もしも男どもがそのことを知ったら、藤原斉信は取り繕うとするけれども、公任は開き直りそうな気もします。それでも公任は間違ってはいないと思います。

愛だの恋だの言ってみたところで、身分の低い女を相手にしようとすれば、周囲がゴタゴタ言います。なまじ情けをかけて苦しめるより、最初から選ばないことも慈悲なのでは?

そんな公任の見解に間違いはないとも思えます。理できっちり割り切っていますから。その代わり、一度情をかけたら捨てずに面倒は見るかもしれない。

光源氏はなかなかサイテーな男ではありますが、彼もいったん情をかけた相手は捨てませんからね。そういうタイプかもしれませんよ。

公任みたいなタイプって、情を軽視しすぎていますからね。ものごとをスムーズに進めるうえで、歯車に引っかかる砂粒程度にしか思っていない。

ちょっと長いけど引用しています。ここのページ、あらすじを書いていると思うのですが、そこでなぜドラマ本編と直接関係ない人物評が出て来るのでしょうか。
ひとつ前の姫たちの男性観もそうですが、男たちの女性観を書きたいのですか。それともあらすじを書きたいのですか。

この前も書いていますが、武者さんはこういう男女関係、色恋沙汰を書きたいのだろうとは思います。ならばここでなく、他のコラムでやってください。

直秀がこれみよがしに「兄上〜」と甘えながら、身分の低い母親の子なのでこのようなお屋敷は初めてとか言っている。続けざまに中を拝見したいと言い出すと、案内してもらえと周囲は無邪気に盛り上がっています。

公任は直秀がやっと笑ったことに喜んでいます。しかし、道長にはどうしても気になることがあるようでして。

道長と二人きりになっても、直秀は「兄上」と呼びかけます。もう二人きりだと困惑しながらも、なぜ案内して欲しいのかと訝しがっています。

まず直秀が
「これみよがしに『兄上~』と」
甘えているでしょうか。このシーン、まず斉信が、行成の腹痛のおかげで道長の弟に会えたと言い、行成は自分の代役を務めたことに礼を述べます。直秀はそれを受け、しかる後に自分は母親の身分が低いので、このようなお屋敷は初めてだから、中を拝見したいと言っているわけです。

「案内してもらえと周囲は無邪気に盛り上がっています」
周囲は道長の弟(異母弟)だから当然そうだと思っているでしょう。逆にこの場合、直秀が「道長の弟でない」ことを証明するものが何もありませんし。

あと
「なぜ案内してほしいのか」
ではなく、直秀が西門以外に通用門はあるのかと訊いたため、それを訝しがっているのですね。

小枝が刺さったと誤魔化しながら、東宮様の御座所はどこかと言い出す直秀がふてぶてしい。

「東宮の御座所」ではなく、「東宮の御母君のご在所」です。

「藤原を嘲笑いながら興味を持つ直秀とは何なのか」と問いかける道長に対し、「よく知ればより嘲笑える」とそれっぽく開き直る直秀。

疑いつつ探る道長もなかなかのものですが、敢えて敵の中に飛び込む直秀も大したものです。緊張感が高まります。

「敢えて敵の中に飛び込む」と言うより、この場合は道長自身が、急場しのぎとは言え自分を仲間入りさせてくれたこともあり、この機会を利用しようとしたのではないでしょうか。

「海の向こうには彼の国がある」晴れた日には彼の国の陸地が見えると続ける直秀。彼の国とは「唐」(から・中国大陸)と「高麗」(こま・朝鮮半島)のこと。おそらく対馬でも見たのでしょう。

「どこ」から、対馬を見たのでしょうか。筑紫からですか?
福岡住まいとしては、まずそのようなことは考えられないし、聞いたこともありません。何せ、博多から対馬まで150キロ近くあります。

当時望遠鏡があるわけではなく、またどちらかに富士山レベルの山でもあれば、そこから一方を見下ろすこともあるいは可能だったでしょうが、生憎そういう山もありません。寧ろ対馬から朝鮮半島を見る、あるいは朝鮮半島から対馬を見ることはできたかと思います。

これは恐らく直秀のはったりではないでしょうか、交易船とか交易品は見たかと思いますが。
それと
丹後
播磨
筑紫
私はあらすじと感想で「細川、黒田、黒田」などと書いていますが(苦笑)、いずれも小倉百人一首に出て来る地名ですね。特に丹後の天の橋立は、まひろ、後の紫式部の娘の小式部内侍が歌に詠んでいますし、播磨も「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に」でおなじみですし、筑紫関連では「筑紫歌壇」の歌人の歌が選ばれています。

6.万葉筑紫歌壇
(太宰府市文化財情報)

当時、都の人にとって、そこから離れることは絶望的とされました。確かに出世レースから脱落してしまう。それでも、案外、気分転換になったのかもしれません。

ここでは都を離れるのは直秀と散楽一座ですよね?ならば出世レースも何もないのでは。
あと大宰帥などで筑紫に赴いた人も、当時の旅の困難さを考えれば、なかなか大変であっただろうと思います。以前書きましたが、大伴旅人などは着任後すぐ奥さんを亡くしていますし。

ただその人たちを受け入れた地では、都に触れる機会でもあり、その地に文化が根付いたと言えるでしょう。

日本中世史を考える上でも重要に思えます。

『源氏物語』で描かれるような世界は、ほんの一握りのもの。それ以外では、名もなき大勢の庶民が、生きては死に、歴史の中に消えてゆきました。

そんな消えた姿を想像させてくれる、直秀のような人物は重要でしょう。

まず、この時代は中世ではなくて古代です。平安時代は古代に区分されます。
そして
「『源氏物語』で描かれるような世界は、ほんの一握りのもの」
この物語をベースにした描写が、ドラマの中で既に何度か見られるのですが、その『源氏物語』を無視しているようにも取れてしまいますね。
あと大勢の庶民が表に出てくるのは室町時代の頃で、その当時、庶民はまだ表に出て来る存在ではありませんでした。

こういう役割の人物を「オリキャラ」だのなんだの貶す意見もありますが、正史に対する庶民目線の稗史(はいし)も重要なはず。

オリキャラが悪いのではなく、そのオリキャラの設定に賛否両論があるだけだと思います。現に私は、今のところ直秀の描かれ方に、特に無理があるようには見えません。
恐らく武者さんは、『麒麟がくる』の駒を念頭に置いているのでしょうが、私も駒に関してはちょっと無理があるような気がしました。これも以前書きましたが、あのまま市井の人物として薬屋で生涯を全うしていたら、そうは思わなかったでしょう。

そして庶民目線の稗史と言うのであれば、昨年の阿月なども足が速いことが父の気に入らず、両足を縛られてしまい、その後その父に売られ、お市の侍女となった後、伝令の役目を買って出て命を落としています。好きな大河なら、恐らく褒めそうなキャラでしょう。しかし武者さんは、都合よく死んでくれる「冷蔵庫の女」と彼女を形容しました。
なのに今年のちやは、あるいは忯子はそう言わないのですね。

本作は近代が舞台ではないけれど、歴史総合目線もある。
日本はずっと隣国と交易し、影響を互いに与え合ってこそ、成立してきました。

先日、驚いたことがあります。昆布とはアイヌ語ルーツだと初めて知った人が、激怒して日本伝統だと主張していたのです。昆布は蝦夷との交易品であり、そのことをむしろ昔の人は自慢していました。

隣国と交易もし、戦いもしています。また交易だけでなく、たとえば遣唐使のような文化交流もありました。
そもそもこの「歴史総合目線」とは、具体的にどのようなことを意味するのですか。
あと
「昆布とはアイヌ語ルーツだと初めて知った人が、激怒して日本伝統だと主張していたのです」
その裏付けをお願いします。

逆に近代が舞台なら、西洋列強が押し寄せており、この時代のような交易や交流は難しかったでしょう。

なぜなら交易するには権力が必要だったから。古来からアイヌルーツのものを取り入れていることは実際にありますし、それで純粋性が落ちることなどありえません。

海の中にある日本という国――その歴史を考える意義が、このドラマにはちゃんとあります。とても勉強になる作品です。

「古来からアイヌルーツのものを取り入れていることは実際にあります」
ここまで書くのであれば、その例をちゃんと示してください。ルイベとか鮭とばなども確かアイヌ起源ですね。

あと
「海の中にある日本という国――その歴史を考える意義が、このドラマにはちゃんとあります」
直秀が都の外のことを話しただけで、「海の中にある日本という国の歴史」を考える意義があると言うのは、少々飛躍しすぎだと思いますが。
ならば『北条時宗』とか『毛利元就』(嫡男隆元が、プレッシャーに耐えかねて他国へ行きたいと言い出すシーンがある)などもそれと同じではないかと。

前にも書きましたが、本作は中国語圏でも注目を集めています。漢詩の引用が多いことに注目されていますし、宮廷劇らしい要素もふんだんにある。

今年の大河は日本国内向けのみならず、世界を狙えるアジア代表枠として認識できると思います。

武者さん、前回前々回と書いていた
「町田啓太さんの検索数が中華圏で多い、だから人気がある」
はどこへ消えたのですか。やはりあれは『チェリまほ』の結果だったのでしょうか。

「漢詩の引用が多いことに注目されています」
これもその裏付けをお願いします。注目されていると断言するわりに、具体例がなさすぎですね。

「世界を狙えるアジア代表枠」
この「代表」とは「何の」代表なのかまるで書かれていません。
ワールドカップの代表か何かですかと言いたくなります。

道長の官位が、従五位下程度の右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)であり、婿にするには低すぎる。

ちなみにこれは「佐殿」であり、唐名(とうみょう)は「武衛」ですから、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の源頼朝でお馴染みですね。

これ順序が逆なんですよ。まず右兵衛権佐だから佐殿、『鎌倉殿の13人』の頼朝である、その唐名は武衛だったと持って来た方がいいかと。私も第3回のあらすじの感想で、これについて書いていますが、こちらでは上総広常が
「武衛武衛」
と呼んでいたことについて書いています。武衛と言えばやはりあの人を思い出しますね。

義懐が力を持てばどうなるかわからないし、右大臣家は嫌いなのだとか。関白家の藤原公任ならば良いって……。

確かに兼家はなぁ。道綱母の藤原寧子が、兼家のつれなさを詠んだ歌がバッチリ出回っていますからね。娘があんな歌を詠むかもしれないと思うと、そりゃ嫌ですよ。

右大臣家ではありますが、倫子が結婚するのは兼家ではなく、その息子の道長です。これだと、まるで倫子が兼家を婿に取るようです。
そして穆子が
「そういう遊びの過ぎる殿御は、倫子がさみしい思いをしそうで」
と言っています。この「遊びの過ぎる殿御」、これは公任のことなのですが、これも武者さんの文章だと兼家のことのように取れてしまいますね。

ここ、ちゃんと観ていましたか?

すると穆子は、夫が赤染衛門と話したという点にチクリ。ただ話しただけだと雅信は慌てています。穆子はかわいい嫉妬ができる女性ですね。

『鎌倉殿の13人』の政子は、金剛力士像顔になって頼朝に怒っておりました。ああいうのは怖い。

政子は元々公家でもないし、夫の頼朝が、都風に大勢の女性と接することにも慣れておらず、亀の前の家を壊させたのは無理もないかと。

黒木華さんが愛くるしいのは言うまでもない。

それにしても、この恋する顔の美しさはどうしたことか! 花の蕾がふくらんでほころんでゆくようで、甘ったるくてかわいらしくて素晴らしい!

こんな顔をさせた時点で道長は有罪なので、さっさと婿になりましょう。

好きな大河の女性キャラに対してはこう言うのですね。
無論黒木さんは、この倫子をうまく演じているとは思います。しかしこれが嫌いな作品なら
「かわいこちゃんキャラでけしからん」
などと言うのではないのでしょうか。
大河ではありませんが、『まんぷく』の福子にもそういう言い方をしていました。

まひろと結ばれて欲しい気持ちもないわけではありませんが、この倫子を見てしまうと難しい。まひろは書く楽しみもあるし、ここはもう、倫子でよいのではありません?

ついでにいうと、雅信も穆子もかわいいですね。小麻呂も言うまでもない。ドロドロした右大臣家が嫌だというのは理解できますとも。あちらは全員可愛げがありませんから。雅信の予感は当たるのかもしれない。今はまだ純朴な道長も、いずれは……。

「まひろは書く楽しみもあるし」
この回で書くシーンは出て来ないのですが…。それに散楽一座ももう都を離れると、コント?作成もできなくなるでしょう。

「右大臣家は全員可愛げがない」
よく見るとそれぞれのキャラの違い、そして自分たちが結束して何をするべきか、それが窺えるかと思うのですが。それと雅信は源氏であり、藤原氏の兼家ほどの権力欲はないと思われます。以前そういうことを言っていましたし。

好きな大河の中でも人物の好き嫌いをはっきりさせて、『鎌倉殿』の時政のような感じで、兼家ファミリーを叩くのも武者さんは好きなのでしょうね。

藤原義懐は帝からのお達しだとして、陣定(じんのさだめ)を当分の間開かぬことにすると告げます。
これまで出てきた帝の前での会議ですね。

陣定は帝の御前でやるものではありません。寧ろ帝の臨席が減ったことにより、主流となった一種の閣議です。出席者の発言が奏文としてまとめられ、帝と摂政や関白の決裁を受けるシステムでした。

慣例を破り、帝だけで決めることは天意に叛く、世が乱れる。それを帝が理解していないのならばお諌めしろと訴えています。
世を治める為政者とは、天から選ばれている。それに背けば帝に禍が及ぶかもしれない。そんな東洋の考え方です。

「そんな東洋の考え方」とありますが、もっと具体性がほしいですね。それはどのような史料や文献にあるのでしょうか。そして、日本にそれが伝わったのはいつですか。

彗星や白虹貫日(日暈)がその証とされ、こうした考えを【天譴論】と呼びますが、日本では関東大震災時の渋沢栄一による誤用が広まってしまいました。
大河ドラマの主役に選ばれた人物であろうと、過ちは犯すのでそうそう信じてはならないという悪例です。ご注意ください。

そしてここで『青天を衝け』叩き。大河をきちんと説明するのではなく、どうにかして自分の思う方向へ引っ張って行こうとしていませんか。こんなことするのではなく、天譴論をちゃんと説明すればそれで済むことなのですけど。

「大河ドラマの主役に選ばれた人物であろうと、過ちは犯すのでそうそう信じてはならないという悪例です」
では、武者さんが好きな大河の主役でも、そのように考えていいということですね。

あと「白虹貫日」、武者さんが昨年南に虹が出る、このドラマはおかしいと書いていたのをちょっと思い出しました。

しかし詮子には策がありましたね。自分にも東宮にも源雅信がついている! 大臣家に道長婿入りを勧めてもいる。そのうえで、道隆も源と手を組む覚悟を決めろと言い出します。

それ、その前に兼家も同じことを言っていましたね。似た者父娘なのだと思いました。

安倍晴明が「遅い!」と言われながら、兼家の眠る部屋へ出向き、「瘴気が強すぎる」と兄弟たちに言い放つと、兼家と二人きりになります。

「眠る」だと死んでいるようだから「伏せている」辺りがいいのではないかと。
あと「瘴気」、字幕では「障気」となっていましたが、ざっと調べたところどちらも使われるようです。「病を産み出す毒気」とでも言うべきでしょうか。


飲み物-暖炉の前のウイスキー
[ 2024/02/28 02:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

季節外れの暖かさが続きますね。では、第7回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


藤原忯子の亡骸に抱きつき、その死を悼む花山天皇。
あまりに儚い愛でした。

ナレーションに
「死は汚れと考えられていたこの時代、天皇はじめ貴族たちが遺体に近づくことは許されなかった」
とありますし、ドラマ本編でも、花山天皇が忯子のもとへ行こうとして止められているのですが、どうやって
「亡骸に抱きつく」
ことができたのでしょうか。

愛がなければ女の人生は意味がないのか?
そんなことはない、書くこと、創造がある!
そう突きつけてくるようなドラマです。
忯子は愛を得たけれど、それだけだったとも言える。生きて書くことのできるまひろとは違います。

それぞれの立場が違いすぎます。
忯子の場合は、入内して帝の寵愛を得、皇子を産むことが人生と言えました。
(後で兄の斉信が、そのことを後悔していましたが)
まひろの場合は入内できるような身分ではなく、この時代のことだから選択肢は限られているにせよ、まだ忯子よりも自由はあったでしょう。

金目のものや食糧ではなく、なぜ衣服なのか?と思われるかもしれません。
当時の盗賊はそれが定番。服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録も残されています。
屋内ならばまだしも、屋外で脱がされると季節によっては凍死の危険性すらあった。小判を盗む鼠小僧より、ずっと原始的な時代なのです。

まずこの当時、鼠小僧の江戸時代とは違って貨幣経済がまだ未熟な段階です。
(だからこそ花山天皇が貨幣を使わせようとしたとも言えます)
一般の人々に取っては、まず現物、それも着るものや食べ物こそが大事でした。

そして
「服を盗まれて全裸で怯えていた女房の記録」
具体的にどういう記録でしょうか。
それと「服」より「衣」とか「着物」の方がいいかと。今までもそうですが、武者さん身に着ける物は何でも「服」ですね。

この殺傷に対する精神的葛藤があればこそ、道長もいろいろ悩んでいます。心が繊細に描かれたドラマです。

別にこれに限らず、武者さんが嫌いな大河(『どうする家康』『青天を衝け』他)でも登場人物の思いは細かく描かれていましたが、嫌いな作品だとやはり無視するようですね。家康が悩んでいても、絶対こうは書きませんでしたから。

同じ日本でも、かつての蝦夷地こと北海道のみ【トリカブト毒文化圏】に含まれます。
アイヌのトリカブト毒矢は興味深く、もしもご興味のある方は映画『ゴールデンカムイ』をご覧ください。

毒矢はともかく、トリカブトは今昔物語にも登場しているはずですし、狂言の『附子』にも採り入れられていることを思うと、何らかの形でその毒性は伝わっていたと思われます。

「長い言い訳じゃのう」
怯えを隠す兼家に対し、いずれお分かりになると、不穏な表情の晴明。私を侮れば右大臣一族とて危ういとまで言い切りました。
安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです。

まずこの時の兼家ですが、さほどに怯えているようにも見えません。ただ、こいつとは話をしたくないなといった表情ではあります。そして
「安倍晴明には彼なりの政治を為すという意識があるのです」
ではなく、政を行う人物の命運も自分次第だと、脅しをかけているように見えます。

何もかも見通すような晴明に、兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です。
そこへ藤原道長が帰ってきました。兼家はホッとしたようにいたわり、盗賊と渡り合ったことを褒めます。
「されど人を殺めるなよ」
道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家。

「兼家がもったいぶっていると戸惑う兼家です」
ちょっと意味がわからないのですが…。
「もったいぶりつつも戸惑う兼家です」
とでも書きたかったのでしょうか。

「道長に念押ししながら晴明に聞かせるように、人の命をあやつり奪うのは卑き者の仕業であると圧力をかける兼家」
これもちょっとわかりづらいのですが。
「『人の命を操り奪うのは、卑しき者の仕業である』
晴明に当てつけるかのように、道長に念を押す兼家」
とでも書いた方がわかりやすいかと。

この晴明はおもしろい。
妖怪と戦うというよりも、心理戦の達人、揺さぶりの名人です。
晴明からすれば、妊婦が亡くなるくらい想定内といえるかもしれない。どんな呪詛をしたのかわかるのは晴明だけですから。
けれども兼家は怯えている。その怯えに漬け込み、裏の裏をかき、操ることは確かに楽しい。
相手は祟りが怖いから手出しもできない。そりゃあ楽しいでしょうね。

先ほども書いていますが、兼家はそこまで怯えているようにも見えず、しかも晴明がそこまで揺さぶりをかけているようには見えません。ただ、貴方がたのことも私次第だと詰めよっているようには見えますが。

そしてこの後の晴明の
「お父上とのこういうやり取りが楽しくてならない」
プレッシャーをプラスに転じて楽しむという意味に取った場合、昨年の真田昌幸の
「乱世を泳ぐは愉快なものよ」
を思わせます。

寧子は大丈夫と言いながら、合間に息子である藤原道綱のことを挟みます。
怖い夢と道綱に何の関係があるのか?と兼家がキョトンとしていると、飄々と答える。
「よいではございませぬか、殿のお子ですよ、道綱も」
はい、何の関係もありませんねー。うろたえている相手につけ込み、我が子を頼み込んでいるだけです。

この場合の道綱ですが、後の寛和の変(兼家の一族が花山天皇を出家させ、懐仁親王を即位させた政変)で、かなり重要な役割を果たしています。あるいは、それの伏線的な意味もあるのでしょうか。

狐が人間に化ける説話は中国にもあり、それが日本に伝わったと考えられます。あまりに不可思議な存在ゆえに、そんな伝説が生まれたのでしょう。
ちなみに「化け狸」伝説は日本特有です。
ややこしいことに「狸」は中国では猫の古い呼び方で、タヌキは「狢」と書きます。

中国大陸と言えば、九尾の狐なども有名ですね。また妖狐(化け狐)の話などもありますので、それが伝わって後に文学となったと考えられます。御伽草子の『木幡狐』なども、それに区分されるでしょう。

ところで以前、『麒麟がくる』第3回の感想で私はこう書いています。


先日『麒麟がくる』第3回のあらすじ関連で、人間の男とキツネの娘が結婚する話が登場しています。所謂異類婚姻譚ですが、『今昔物語集』にも似たような話があり、また『御伽草子』にも「木幡狐」という、キツネの姫が人間と結婚する物語があります。この話の舞台が美濃であるのなら、恐らくは『日本霊異記』に出て来る物と考えられます。ここで人間の男がキツネの娘に「来つ寝」と言ったことが、キツネの語源になったともいわれています。

武者さんが好きな『麒麟がくる』です。これについて触れてほしかったですね。そして今回も狐絡みで月岡芳年の絵が登場です。

あとこれは変換ミスでしょうが、

義懐は、仕事はできても、人身掌握が苦手なようです。そういう意味では為時もそうでしょう。

そうした状況と比較すると、義懐はどうしても人身掌握が拙い。

「人身」でなく「人心」と思われます。
これは報酬付きのコラムなのですから、誰か校正する人はいないのでしょうか。

ロバート秋山さん演じる藤原実資が登場します。
先週、見かけなかっただけで実資ロスに陥ったので、うれしい限り。

武者さんいつも「ロバート秋山さん」と書いていますが、クレジット通り「秋山竜次」さんと書いた方がいいのでは?

あと実資ロスだそうで。以前『鎌倉殿の13人』で、権三ロスになったと武者さんは書いていました。この権三とは亀御前の夫のことで、密会中の頼朝に盾突いたことから殺されてしまうのですが、この人物は1回きりの登場で、しかもせいぜい数分間、「ロス」になるほど多く出て来てはいなかったのですが。

しかしこの桐子、中島亜梨沙さんが演じる美人妻なれど、そこまで癒されないのは受け止めないからではないでしょうか。

癒しキャラではないと思います。しかし武者さんは、こういうタイプが好きなのではと思っていただけに意外でした。

今年の大河ドラマはオンオフの切り替えを意識しているとか。くつろいでいる時はそのリラックス感を出したいそうです。
道隆の井浦新さんのリラックス感は常に最高です。少し崩れた感が艶かしいほど。

今年に限らず、登場人物のオンオフは描かれていると思います。ただその人物がどういう立ち位置で、どのような時代を生きたかも、関係してくるとは思われますが。

「玉山(ぎょくざん)崩る」という言葉があります。
『世説新語』由来で、イケメンで有名だった嵆康(けいこう)が酔ってグラグラしていると、まるで貴石の山が崩れてくるような美しさがあったという言葉です。

「貴石」ではなくて珠玉ではないでしょうか。貴石というのは一般にダイヤモンド、ルビー、サファイアそしてエメラルドのことを指すようです。

しかし好きな大河のイケメンキャラは褒め、嫌いな大河のイケメンキャラは
「イケメンを出せばいいというものではない」
と叩くのが武者さんなのですね。

F4たちが投壺(とうこ)をしています。
壺に矢を投げる中国由来のゲームで、韓国でも人気があり「トゥホ」ゲームセットが輸入販売されているほど。

「韓国でも人気」云々の前に、日本にいつ伝わったかをまず書いてください。
正倉院に収められているほどですから、奈良時代には入って来ていたでしょう。そして江戸時代にも盛んになってはいます、これは先日あらすじと感想で書いていますが。尚投扇興はこれがモデルとのこと、こちらの方が日本的かなとは思いますが。

もちろん当時の朝鮮半島にもありましたし、発祥国である中華帝国では、『春秋左氏伝』にもその記録があります。

しけた話ばかりしていても妹が浮かばれぬから、気晴らしに打鞠(だきゅう)でもやるか!と斉信が言い出すのでした。

打鞠とありますが、打毬のことでしょうか。
ちなみに後の方では打毬となっています。

そしてこの打毬関連ですが、あまり詳しい説明がなされていません。公式サイトとか、

をしへて! 佐多芳彦さん ~平安貴族が楽しんだ打毬ってどんな競技?
(『光る君へ』公式サイト)

こういう記事にはちゃんと書かれているのだから、参考にしてほしいものです。

藤原道長ら上級貴族が楽しんだ平安のスポーツ。現代に「プロ打毬チーム」がないのはなぜなのか?【光る君へ 満喫リポート】道長打毬編
(serai,jp)

飲み物-マグに注がれたビール
[ 2024/02/21 02:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第5回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


あの程度の身分で舞姫を務めたのが生意気だのなんだのチクリと嫌味を言い、姫たちがクスクスしていると、倫子は自分の差金だとしてきっちりと、それでいて優しく止めます。
彼女はこの時点で、只者ではない大物の風格が出ていますね。かわいらしいだけの姫君ではない。

「自分の差金」とは言っていませんね。
「まひろさんを五節の舞姫に出したのは、我が家であり我が父ですよ」と言っています。

そして
「大物の風格」
と言うより、倫子の場合まひろと気が合うようで、話していて楽しいと思っているところもあり、だからこそ他の姫たちが、身分のことをとやかく言うのを止めたとも考えられます。

彼女の治療にやってきたのは、僧侶と巫女でした。
余計に具合が悪くなりそうな祈祷が始まります。
巫女の格好をしている人物は「よりまし(寄坐・憑子・尸童)」です。

「よりまし」は注連縄をつけた岩や木のことをも指します。この場合はあるいは巫(かんなぎ)と呼ぶべきでしょうか。
そしてなぜ僧侶と巫女なのか、その説明が一応後の方で↓なされていますが、ちょっと具体性に欠けます。

すっかりぐずぐずしてしまう弟ですが、なんとかいとが水を浴びせようとします。嫌だ!とごねる惟規と争ううちに、水桶をひっくり返してずぶ濡れになってしまうのでした。
この場面はおもしろおかしく、よくできています。
日本の宗教は「儒・仏・神」とされます。異なる宗教でも混ざる。寺と神社が一体化したような場所もあります。
本作のこのシーンでも僧侶(仏教)とよりまし(神道)がコンビでやってきていた。
さらにややこしいことに、この頃は中国の道教までうっすら混ざります。日本の仏教は中国経由なので、そうした融合が避けられなかった。

「儒・仏・神」とありますが、「神・儒・仏」ではないかと思うのですが…。
そしてその説明なのですが、物足りないところとして。
「異なる宗教でも混ざる」
「寺と神社が一体化したような場所」
「道教までうっすら混ざります」
これらの具体例が何ひとつありません。こういうのはちゃんと書いてくださいね。まず最初のは神仏習合かと思われますし、2番目は神宮寺がその代表格です。日光東照宮もそのひとつです。そして道教がどのような感じで「うっすらと」混ざっているのか不明ですが、仏教説話に仙人(道教由来)が登場したりするのはその一例でしょう。

尚修験道は、道教と仏教と山岳信仰が混ざったものとされています。

鎌倉時代以降の僧侶たちは「それではいかんでしょ」とブラッシュアップに努めますが、そうして洗練される前のカオス状態が実に面白い。
考証だって相当大変でしょう。『鎌倉殿の13人』に続き、大変頑張って作り上げてきております。

仏教なら昨年の一向一揆でも登場していますが、それは無視ですか。
そしてこの「ブラッシュアップ」とは、具体的にどのようなものですか。浄土信仰のことですか。それなら、平安時代に既にありますが。そう言えば武者さん、『鎌倉殿』の頼朝の臨終出家で、このようなことをするから、鎌倉時代に浄土教が広まったのだといったことを書いていましたが、それより前に空也や源信などが浄土教を広めています。

医療にしてもお粗末で、こんな調子では平安時代の人はすぐ死んでしまうのでは?と思えます。なんせ平均寿命は40あったかないかと言われるほど。
にしても、病気になっても祈るだけか……。と、『三国志』ファンの方なら華佗の手術を思い浮かべるかもしれません。華佗の場合は後世の脚色もあるので比較は難しいですが、そうした技術伝播のほどもなかなか興味深いものがあります。
病気で寝込んだらオカルト儀式をされるなんて、この時代に生まれなくて本当によかった。映像化されると想像以上に厳しいものがありますね。

「医療にしてもお粗末」
「病気で寝込んだらオカルト儀式をされるなんて、この時代に生まれなくて本当によかった。映像化されると想像以上に厳しいものがありますね」
貴方この大河好きなのですか?それとも嫌いなのですか?
こういうのもちゃんと考証があって、それに基づいているのですが。ちなみに北里大学の漢方鍼灸治療センター長の星野卓之氏が、医事考証担当です。

あと平均寿命ですが、乳幼児の死亡率が高かったせいもあるかと思われます。『枕草子』の「すさまじきもの」に「ちご亡くなりたる産屋」とありますし。それとなぜここで『三国志』なのですか。

しかし武者さん、本当にカルトもオカルトも好きですね。

ただし、この場面の実資は正しいのかどうか。
荘園なり、銅銭の流通に関して、この頃からあった問題が、やがて立て直しができなくなるのでは?
すでに制度疲労を起こして亀裂が生じていたならば、何か対策をせねばならなかったのでしょう。

ここでもそうですが、
「荘園なり、銅銭の流通に関して、この頃からあった問題」
とはどういうことですか?
まず荘園ですが、正しくは永観の荘園整理令です。この当時帝の代替わりの度にこれが発令されたと言われています。

そして銅銭の流通、これは破銭法ですね。和銅開珎以後、輸入したお金ではなく、日本でもお金を作り始めるのですが、原料となる銅の不足、そして私鋳銭(贋金)の横行などで貨幣の価値が下がって行き、さらに新しい貨幣が出るごとにデノミネーションが行われたことも、貨幣の問題に拍車をかけました。

このデノミネーションで前の貨幣の価値が10分の1となるため、庶民は前の貨幣を溶かして新しいお金を作る破銭(われぜに)を作るようになり、当時の政府は旧貨を回収できなくなります。しかも貨幣鋳造にかかる費用と実際の収益の差額が財源となるのに、それもできない。ついに惟成により提案されたこの法律が公布されますが、結局その後貨幣は使われなくなり、物々交換に戻り、さらにその後は中華帝国からの宋銭などが使われました。

皇朝十二銭 本朝十二銭
(刀剣ワールド)

この当時、経済の専門家がいなかったことも、またダメージとなったようです。ちなみにその後、国内でお金が作られるのは江戸時代になってから(慶長通宝または寛永通宝)です。

ところでこの記述、そしてこの後でも「荘園」についてはいくつか見られますが、

それでも斉信は、公任の父である関白・藤原頼忠の世は過ぎたと言い出します。新しい政治をしていると期待を込めて語る。贅沢を禁じ、銅銭を鋳造し、荘園を没収するそうです。

荘園は貴族の収入源です。そんなところに手を入れられたら、反発は必至でしょう。

この場合ただの荘園でなく、この後の斉信の言葉
「(帝は)正しい手続きを経ておらぬ荘園を、没収されようとお考えだ」
にあるように、ちゃんとした手続きをしていない荘園を没収し、公領化しようという考えでした。

日本の時代劇といえば、武士主役の作品が多い。そんな中、文官といえる平安貴族の姿は珍しいだけでなく、その優雅さはアジア宮廷ものの雰囲気がある。
雅な宮廷美男日本代表として、彼は注目を集めているようです。日本代表としてがんばってください!

「文官といえる平安貴族の姿は珍しいだけでなく、その優雅さはアジア宮廷ものの雰囲気がある」
その平安貴族の時代は、武者さんが嫌いな世襲と摂関政治の時代でもあったわけですが…。

そして町田啓太さんに関して、
「雅な宮廷美男日本代表として、彼は注目を集めているようです。日本代表としてがんばってください」
日本代表日本代表などと言っていますが、貴方本当は中国の方が好きなのではありませんか。
それから町田さんは、貴方が嫌いな『西郷どん』で小松帯刀、『青天を衝け』で土方歳三を演じていますが、まさか、お忘れではありませんよね?

しかし武者さんて
男と対等にわたりあえる女性が好き
イケメンが好き
おじさんが嫌い
わかりやすいと言いますか。

しかし、道長は姿勢が悪いし、筆の持ち方がイマイチ。これは演技や指導が悪いのではなく、意図してのものでしょう。
道長は字が下手なのです。
筆を寝かせるわ。墨がかすれるわ。そういう下手な字を書く人物として演じるとなると、残念な姿勢でなければいけない。
そのくせ、筆は特注品の最高級のものを使っているのが、実にたちが悪い。なんでも道長の字が上手だと、演出からダメ出しが入るそうです。

「筆の持ち方がイマイチ」
既にこのブログでも、またたけたけさんのnote記事でも指摘されていますが、単鉤法と呼ばれる持ち方のようです。

そして
「筆を寝かせるわ。墨がかすれるわ。そういう下手な字を書く人物として演じるとなると、残念な姿勢でなければいけない」
この道長は「残念な姿勢」でしょうか。筆を寝かせているでしょうか。署名の時も筆を立てていますが。

光る君へ第5回道長と筆  光る君へ第5回道長と筆2
『光る君へ』第5回

あと道長の字はかすれていましたか?

「筆は特注品の最高級のものを使っているのが、実にたちが悪い」
最高級品とはどのような品ですか。そして
「なんでも道長の字が上手だと、演出からダメ出しが入るそうです」
柄本さんが道長のフォント、字体を自分で編み出していて、それに則って書こうとしているからではありませんか?

しかし今回も、道長の字は下手だ下手だと言っていますね。
こういう字です。何度も言いますが、特徴のある字ではあります。柄本さんも、これに似せようとしているのでしょう。

Michinaga_diary.jpg
『御堂関白記』(Wikimedia)

すると兼家は喜び、こうきた。
「我が一族は、帝を支える者たちの筆頭に立たねばならぬ」
(中略)
「お前もそのことを覚えておけ」
脂ぎった口調で言う兼家には、何の政治的ビジョンもありません。花山天皇とその側近の方がよほど真っ当だ。
それにしても段田安則さんの醸し出す、権力にギラついた姿が素晴らしいですね。俳優ならば、一度はこういう役を演じたくなるのではないでしょうか。

この当時は、一族が帝を支える者たちのトップに立つことがいわばビジョンであり、そのためには様々な策を弄する必要があったのではないでしょうか。武者さんが言う政治的ビジョンとは、どのようなものなのでしょうか。
権力にギラついたと言うよりは、この当時は、こういう権力闘争は比較的当たり前であったのではないかと。

愛のために家父長制に逆らうヒロインが、今後もきっと出てくる。実に痛快ではありませんか。

この間も家父長制などと書いていましたが、この当時はまだ家父長制が成立しておらず、財産は母から娘に譲られるシステムになっていました。

左大臣・源雅信はそこまで権力にこだわっていないようで、見過ごせぬと巻き込まれています。
(中略)
笑い合うこの人たちはなんなのでしょうか。政治に対して全く理想がなく、あるのは自分の利益だけですか。
そりゃ、こんなのを見ていたら荘園も没収したくなりますね。

「政治に対して全く理想がなく」
上の方でも書いていますが、この当時の政治とはこのようなものでしょう。
そして「荘園を没収する」のではなく、「正式な手続きを経ていない荘園を没収する」のです。ちゃんと観てますか?
無論正式な手続きを済ませていない荘園も、彼らの所領には多かったかも知れませんが。

確かにこの時代は馴染みもないし、合戦もありません。だからこそ、新鮮な驚きがあっていい。こういうのが見たかったんじゃないか?という思いが心の奥から湧いてきます。
知っているようで知らなかった世界が目の前にあります。

恐らくこの大河が嫌いであれば、やはり馴染みのない時代は面白くないとなるのでしょうか。
そして「知っているようで知らなかった」
武者さんは「歴史系」ライターのはずですよね。今までこの時代の日記とか歌集とか、目を通して来なかったのですか?もし目を通していたら、その時代に何があり、どういう人物が登場したかの知識位あるでしょうし、ならば「知らなかった」世界にはならないと思います。
せめて
「史料で知っていた世界が三次元化され、理解に幅が出た」
とでも書いて貰いたいものです。

『蜻蛉日記』の作者で、紫式部にとっても遠い親戚……と言っても、突き詰めれば藤原はみんな大体親戚同士となります。
中国や韓国の場合、ルーツが同じ者同士の結婚は避けてきたものですが、このころの日本はそうではないのです。

儒教圏は同じ「氏」だと結婚できなかったわけですが、この頃に限らず日本の場合はそうではありません。だから近親婚的なものもありました。

それはそうだと認めつつ、世の中変わりもしないと呟く直秀。
彼はどこか達観したようで変わっていますね。世の中の外にいるからこそ、仕組みがわかって、天の声すらわかってしまうような不思議さがあります。
歴史劇のこうした「オリキャラ」は、そんな役目があり、毎熊克哉さんが見事に体現されています。

先日も触れていますが、武者さんが絶対に好意的に書かない『どうする家康』で、毎熊さんが演じた大岡(大賀)弥四郎も、どこか曲者ぽくて達観した印象があります。このままでは無間地獄だなどと言っていますし。もう一度貼っておきますね。

どうする家康第20回大岡弥四郎

『どうする家康』第20回

それからかなり「オリキャラ」にこだわっているようです、武者さん。
恐らくこう書くことで、『麒麟がくる』の駒だってオリキャラの役割があるのだと言いたいのでしょう。ただ、直秀は自由に動ける立場であり、そのため情報を集めてはまひろに届けるという設定に無理はありません。

しかし駒は、薬屋という設定を貫くのならともかく、義昭の側女になり、あれこれ口出しするのはやはりちょっと無理がないでしょうか。寧ろあの大河では駒より伊呂波大夫の方に、この直秀と似たものを感じました。直秀も実は、やんごとなき人物と親しいなどということはあるのでしょうか。


飲み物-ポーターとクルミ
[ 2024/02/07 03:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第4回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

第4回に関する『武将ジャパン』大河コラムその2です。しかし武者さん、昨年の『どうする家康』で書きまくったこと(一部それ以前を含む)が、今年はかなりの確率で、ブーメランとなっていないでしょうか。

本題に行く前に。貴人と猫について前の分の投稿で書いていますが、『どうする家康』でもこういうシーンがありましたね。

どうする家康45秀頼と千姫
『どうする家康』第46回

千姫は絵が上手ですが、弟の竹千代(家光)も兎の絵を描いていたことを考えると、あれは誰の遺伝なのでしょう。


では本題です。
赤染衛門が『竹取物語』関連で、かぐや姫はなぜ、五人の公達に無理難題を突きつけたのかと姫たちに尋ねます。

「好きではなかったから」といった答えが主流の中で、まひろだけが、ぶっ飛んだことを言い出します。
やんごとない人々に対し、怒りや蔑みがあった。
身分が高いだけで威張るものが嫌だから、帝でさえ翻弄するのだろう。
すると倫子は「おそれ多い」と呟きます。「空気読め」という意味かもしれない。
それでもまひろは、身分が高い相手を突っぱねる姫は颯爽としていると熱く語ります。
すると倫子が、私の父が左大臣で、身分が高いことを忘れていないかとチクリ。

まず「好きではなかったから」といった答えが主流とありますが、こう答えたのはしをりだけです。主流というのは、複数の意見で多数派を占めるものですから、この表現は当てはまらないかと。
そして「身分が高いだけで威張るものが嫌だから」とありますが、「やんごとない人々への怒りや蔑みがあったから」ですね。「威張る」という表現はどこにも出て来ません。

そして花山天皇の早期退位について、兼家や道隆、道兼が知恵を絞るシーンに関して次のように書かれています。

いかがでしょう。まひろや義賊散楽一味がみたら「やっぱりこいつら悪どい、盗んじまえよ!」と言いたくなりそうです。

この場合、まひろは無関係ではないでしょうか。ただ道長が来ないことを気にかけてはいますし、道長もその気になっていますが、酒席に残るように兄道隆から言われ、抜け出そうにも抜け出せません。
あと例の盗賊団ですが、彼らが忍び入ったのは土御門殿であり、兼家の住まいである東三条殿ではありません。

般若というのはこのことかと思うほど、凄絶な美しさを吉田羊さんが体現。
(中略)
「懐仁のことも、もう父上に任せませぬ! 私は懐仁を守ります。そうでなければ懐仁とはいえ、いつ命を狙われるか!」
道隆が宥めようとしますが、詮子は止まりません。
兄上は嫡男のくせにご存じないのかと怒りをますます高め、道兼が医師を呼ぼうとすると、詮子はこう言います。
「薬など、生涯飲まぬ!」
何を入れられるかわかりませんからね。
見事な場面です。女性の怒りをこうも鮮やかに見せてくるとは。

まず「医師」でなくて「薬師」ですね。ドラマの中でもそう言われていますし、この当時はこの呼び方が一般的だったと思われます。それから「薬」という言葉が導かれているのでしょう。
また「毒薬変じて薬となり」とも言われますが、父兼家の考えは毒と言えるものであっても、後々の藤原氏の繁栄のためには薬であるとも言えそうです。

「女性の怒りをこうも鮮やかに見せてくる」
昨年の茶々も、『青天を衝け』のお千代(栄一の妾の存在を知った時)も女性の怒りを見せていましたが、嫌いな大河だと武者さんは引き合いに出して来ないようです。

そしてこうも父に怒る女性は、詮子だけではありません。後にまた別の女性も怒ります。
父に対し、娘がこうも激怒する大河が見られるとは。感慨深いものがあります。

父に対して娘が怒る大河と言えば、『鎌倉殿の13人』の大姫もそうでしたし、先ほど画像で引用していますが、『どうする家康』の千姫も父秀忠と祖父家康に対して、怒りをあらわにしています。
尚この時武者さんはこう書いています。

秀忠の理由にしても、ただカッコつけたいからのようで、千姫は「父上もおじじ様も鬼!」とか言い出す。そして豊臣の天下を盗み取った化け物だとキンキン喚いています。

「詮子は帝に毒を盛っただの、懐仁は任せないだの、キンキン喚いています」
とは書かないのですね、今年は。

どうする家康第48回家康と千姫
『どうする家康』第48回

兼家は、詮子が去ると、ゲスなゴシップ誌かネットニュース、掲示板じみたことを言い出します。

昨年あれだけ「文春砲」やゴシップサイトの記事のリンクを貼っていた武者さんから、このようなことを言われたくありません。

長い間、独り身だからいたましいことだ。これからは楽しい催しなどして、気晴らししてやろう、と。そのうえで飲み直そうときた。
なんてクズ男の解像度が高いドラマなんだ……家族や女性部下が怒っていたら「高めのプリンでもコンビニで買って冷蔵庫に入れて置こうか♪」と言い出す、そんなムカつくおっさんみたいな兼家だな!

貴方は気に入らない男性だと何でも
「クズ男」
「ムカつくおっさん」
ですね。実際詮子も里下がりして寂しい思いをしていたわけですし、兼家もそれなりに娘に気を使っている(親王を産んでくれたこともあるし)のではないでしょうか。

悪事で結束する右大臣家って……どこのヤクザですか?
道長だけが賛同するようで、呆れ切った顔をしています。

策略ではあるけれど悪事とは必ずしも言い切れないものと思われます。先ほどの「毒薬変じて薬となる」に近いものがあります。
そして

しかし、これは『鎌倉殿の13人』序盤で、義時が上総広常を見て笑っていたようなものかもしれない。
娘がどれほど怒り、絶望しようが、父は権力のために強引な手段を押し通す――後半、きっと私たちはまた絶望するのでしょう。

これに関しては、『真田丸』で信繁が、父真田昌幸の手段を選ばないやり方を見て
「私は父上が恐ろしい」
と言ったのに近いものがあるのではないでしょうか。

バイオリンの音色が、激しい愛を伝えてきますが、このドラマは日曜夜8時台ですから、ドラマ10『大奥』級の過激描写はありません。
ただし、ギリギリのエロスは読み解き方で出てきます。
酔っ払ったと廁へ向かう為時は、使用人の“いと”によろめいたところを支えられます。
「お前にも世話になった」
そう言われ、ドギマギする、いと。このドラマって、こういう距離が近づく二人をうまく描きますよね。まぁ、為時は廁に向かいますけどね。

「バイオリンの音色が激しい愛を伝える」
昨年は
「BGMはくだらないストリングス。家康が手を合わせる……いや、もう、しつこいって!」(第48回)
「BGMはニコライ・バーグマンのフラワーボックスが似合いそうな、ぺろぺろしたお涙頂戴ストリングス」(第47回)
嫌いな大河ならくだらないにお涙頂戴ですか。今年のにはそれは言わないのですね。
そして為時といと。こういうのも、嫌いな大河なら

エロオヤジの為時が、よろけるふりしていとに色目を使う。一言で言うなら「しょーもな」!

などと書くのではないでしょうか。中高年男性嫌いでルッキズム大好きな武者さんですし。
(作品中の為時といと、そしてその中の方、すみません)

あと「いと」、昨年の「糸」(北条氏真の妻)は今までの大河と同じような名前と叩き、今年は何も言わないようです。

内裏では、花山天皇が政治を行なっています。
銅銭の価値変動が激しいのは、関白のせいではないか?と言い出す。
藤原惟成が語るには、なんでも日照りのせいで物の値上がりが続いているんだとか。

「政治を行っています」でなく「政を行っている」とか、「関白頼忠の言葉を聞いている」とか書けませんか?
あと
「日照りのせいで物の値上がりが続いている」
のではなく、
「長雨と日照りで米が不作となり、物価の上昇が激しくなっている」
のですね。

本作の時代考証の倉本一宏先生は、ドラマによって花山天皇の奔放さばかりが広まることを懸念しています。
この花山は、聡明だし有効性のありそうな政策を考えている。
あのぶっとんだ帝が、万民に模範を示すことを考えるようになるとすれば、何に由来するのか?
為時が読み聞かせてきた漢籍、『墨子』ではないのか? とも思えてきます。

この時代考証、昨年は全く持ち出さなかったどころか、一次史料を基にした平山氏のX投稿に噛みついていましたね武者さん。

この花山天皇の政ですが、元々これは側近の義懐と惟成が、荘園整理令とか、貨幣経済の活発化などを政の中心として推し進めており、それが頼忠との確執を招いたとも言われています。
それと『墨子』については先日書きました。この時代の日本で、どこまで影響があったのかは不明です。

こちらに墨子に関する記述があります。今回はURLだけを置いておきます。

万葉雑記 番外編 墨子と古代日本
墨学では血統や姻戚関係は重要視されません。儒学の枠から外れた根を持たない人々には、ある種、救いの学問です。そのため、支配者階級の階級固定化が進む漢代以降では墨学は任侠や家系を持たない下層民層に落ち込んで行ったとします。
 日本ではこのような状況を写し、一般に墨子集団やその集団が著した書籍は秦の弾圧や焚書坑儒の事件から前漢中期までには世から消え、その後に清王朝終末の混乱期(1894)になって孫(そん)詒譲(いじよう)、譚(たん)嗣同(しどう)、梁(りょう)啓超(けいちょう)によって再発見されたと評価します。このような学問上の歴史から、墨子とその墨子集団の思想は古代には消え失せていたために大陸との文化交流が盛んとなる隋・唐時代と重なる飛鳥時代以降の日本には墨子は影響を与えなかったと評価します。

そして記事の後の方ではこうなっています。

墨子は日本の古典には無いことになっていますが、飛鳥・奈良時代、平安時代初期、平安時代末期、江戸時代と知識人階級の世界にはその存在を見せています。

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/e49d7108d53fba7902d41f479c0200ef

かなり長くて私もちゃんと読めていないかも知れませんが、日本では墨子に関しては、古代に於いて知識人階級の間では知られてはいたものの、あまり際立った存在ではなく、ただ近世(江戸時代)には、この人物の関連本が刊行されていたようです。清帝国から輸入された墨子関連本の影響もあったのでしょう。

あと為時が講義していたのは『論語』ではなかったでしょうか。

道長は、筆を雑に扱っていて、そういうことだからあんな筆跡になるのだと苦言を呈したくなってくる。
そういう扱いをすると筆がすぐ駄目になってしまいます、藤原行成を見習いましょう、と思わず言いたくなります。
なんて書に気が利いたドラマなのでしょう。

また「筆」の話。どうも昨年寝かせてもいない筆を寝かせたと主張して以来、筆に対してかなり反応するようになっているのでしょうか。この時の道長は、使い終わった筆を拭うようなしぐさを見せていますが、それがどう
「雑に扱って」
いるのでしょうか。
そしてまた出ました「あんな筆跡」。
特徴のある、あるいは癖の強い筆跡かとは思いますが、特に「あんな」とまで悪筆呼ばわりされるものでしょうかね、三蹟の行成とは違うのですよ。

そして
「なんて書に気が利いたドラマなのでしょう」
ここで褒めるのならそれではなく、この当時の上級貴族の世渡り術が、このシーンのセリフで説明されていることだと思いますが。

シスターフッドを発揮し笑い合う二人。まひろがどこかズレていて変人だから成立する関係かもしれない。
しかし、まひろは「絶ッ対、留まらない!」という謎の自信があるため、なんとかなっております。
いるんですよね、こういうモテにさして価値を見出さない剛の女が。認めたくない人は、認めないんでしょうけど。

ここで『大奥』で出て来たシスターフッド。
元々これは、共通の目的がある女性同士の連帯感の意味です。それを言うなら瀬名と於愛もシスターフッドでしょう。
そしてまひろの謎の自信とありますが、見方を変えれば自分自身を知っていると思えます。彼女に魅力がないのではなく、自分は書物あるいは学問がいわば恋人であり、ゆえに男に口説かれても自分は決して落ちないという、そういう発想でしょうか。ちょっと内省的でもありますが。

「こういうモテにさして価値を見出さない剛の女が。認めたくない人は、認めないんでしょうけど」
「剛の女」かどうかはともかく、そういう性格ではあるでしょうね。
そして「認めたくない人は認めない」とあるのは、SNSか何かで反対意見でも目にしたのでしょうか。感じ取り方は人さまざまだと思いますが、別にそれはそれでスルーしておけばいいでしょう。何だか私怨で書いているように見られますよ。

舞を覚えるのが大変。
何度指導を受けても、不器用なのか逆に回ってしまい、叱られてしまいます。
絵も下手だし、体を動かすことも苦手なのかもしれない。ともかく何かがズレている、ヒロインらしさが常に落第気味で斬新です。

このヒロインらしさとは何ですか?
大河朝ドラを問わず、ドジを踏むヒロイン、あまり器用でない(世渡り下手を含む)ヒロインなども今まで登場していますけどね。この吉高さんが演じた『花子とアン』の花子も、女学校で先生に叱られていましたし。

この国にはこんな歌や踊りがあるのかと見ることも、大きな楽しみのひとつなんですね。『鎌倉殿の13人』の静御前に続く、日本代表の登場です。
日本の場合、衣装の重みもあるのか動きが落ち着いております。
唐の場合、軽やかに長い袖をクルクル回し、かつ様々な文化の影響を受け、激しい動きもあります。比較するとますます楽しい。

舞は別に女性だけのものではありません。男性による舞楽もあります。これもまた
「この国の歌や踊り」のひとつですね。

どうする家康45秀頼の舞楽
『どうする家康』第45回

そしてこの五節は、元々は『春秋左氏伝』の「先王之楽、所以節百時也、故有五節。遅速、本末以相及」がルーツとなってもいるようです。

しかし、そのせいでツッコミも入りました。貧しい家出身の紫式部が選ばれることはありえない、と。
(中略)
しかし、懐に余裕がないのに選ばれると、蓄財機会のある受領に無心して仕立てるようなこともあったとか。
それを身代わりということで、衣装予算の問題はクリアしています。
なぜ身代わりにするのか?
花山天皇から倫子を逃すためならば、設定としてありではないでしょうか。
このドラマは、かなりギリギリの設定を攻めてきて、それがよい。

この当時の舞姫は、元々は公卿や受領、殿上人の娘であったのですが、高位の貴族の女性が人前に姿を見せなくなって行ったこともあり、また天皇と舞姫の性的なまじわりなどもあったわけで、光源氏が舞姫に乳母子を送り込んだのも、こういう背景と関係しているでしょう。で源雅信と穆子も、倫子を出すのを渋った挙句、まひろに白羽の矢が立ったわけです。

そして好きな大河なら
「このドラマは、かなりギリギリの設定を攻めてきて、それがよい」
嫌いな大河なら
「(仮に史実であっても)こんなのはありえない。史実を書け」
なのですね。

そしてこの次の部分、今度は『青天を衝け』叩きですか。

そうそう、東洋の国家だって当然のことながら、過度な好色は軽蔑されます。
『青天を衝け』の際、渋沢栄一後妻である兼子に由来する、こんなことが語られていてうんざりしました。
「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」
「儒教に性的規範はない」
他国由来の思想に、なんて迷惑なイメージを植え付けるのか。そんなことはありえません。
確かに天皇は皇子を残すことが責務であり、多くの妻を持ちます。
そうは言っても、ルール違反をすれば嫌われるでしょうよ。

儒教の性的規範はともかく、貴方は儒教が悪く言われたら何かの如く言う割に、キリスト教、たとえばカトリックなどはディスリ放題ですね。
かつて、鎌倉殿とどうする家康のコラムでこんなことが書かれていました。

殺すことがまずありながら、動機づけをしたい。
そこで神の出番です。
神が殺していいと言ったから……という理屈を通す。
これは別に日本特有でもなく、中世のカトリック教国では「おらが村の聖遺物」だの、その日の守護聖人だの、そういう神頼みを理屈にして色々やらかすことはありました。

視力抜群、レーシックお愛がゆるかわ仏様を持ち込みます。
数正が作ったというもので、その出来栄えが……小道具スタッフもあまり気合が入っていないのでしょうか。
『麒麟がくる』の平蜘蛛や『鎌倉殿の13人』の仏像と落差が惨たらしい。
しかしフィギュア作り……もとい木彫りの像が好きなドラマじゃのう!
他にアイテムを思いつかないんでしょうか。

カトリックもさることながら、石川数正が彫った仏像への見方、これも如何なものでしょうか。
他の国からやって来た宗教ですよね、どちらも。

確かに日本史には、何かの折、目の前に好みの女がいると、手をつける恐怖の権力者は実在しました。
『青天を衝け』に出てきた徳川斉昭です。
あのドラマよりも、ドラマ10『大奥』の徳川斉昭の方が史実に近いので、適宜みなさまご修正ください。

大きなお世話だと言いたくなります。
私は『大奥』を見ていませんが、それぞれの主人公や設定に合わせた描き方があるのに、嫌いな作品の描写はこれでもかと叩き、好きな作品の描写のみを正しいと言うのはミスリードではないでしょうか。

断っておきますが、まひろは決して現代人思想に被れたトンデモヒロインではありません。
『麒麟がくる』の駒についても、「現代の平和思想を語る女w」と嘲る意見をよく見かけましたが、彼女たちは中国思想由来の意見を述べております。

まひろが「現代人思想にかぶれた」シーンなど出て来ませんが、武者さんにはやはり一般視聴者に見えないものが見えているのでしょうか。もしそういうシーンがあるならどこでしょうか。
そして駒が叩かれたのは、将軍の側女としてはどこか越権行為があると見えたからではないでしょうか。
いつも思うのですが、武者さんが麒麟と言う時は大部分が駒、それも彼女への批判への反論のみですが、なぜ批判されたかというのを、大河のライターならもう少し考えてはどうでしょうか。

そしてその「中国思想由来の意見」についても、その出典と当該人物が何を語ろうとしているのか、書いて貰えないでしょうか。そして儒教由来の王道と覇道に関しては、昨年も出て来ていますよ。

『麒麟がくる』以来、私はひとつの仮説をたて、証明するデータを自分なりに集めてきました。結論は出つつあります。
その仮説とは、日本史愛好者でも、漢籍読解や東洋思想知識が減衰傾向にあるのではないか?ということ。
実は、明治以来指摘されてきたことで、いまさらではあります。
そこが弱いから「麒麟」の理解が不十分で曲解意見が出てきたのではないかと考えています。
『麒麟がくる』ではなく、『光る君へ』で、この仮説は決着がついてきたと思います。

「日本史愛好者でも、漢籍読解や東洋思想知識が減衰傾向にあるのではないか」
「そこが弱いから『麒麟』の理解が不十分で曲解意見が出てきた」
何だか上から目線ですね、まあこの場合に限りませんが。
ではそのデータとやらを開示して、どういうふうに減少傾向にあるのか、それがどのように『麒麟』の理解の不十分さに結びつくのか、ちゃんと解説してください。

私自身『麒麟がくる』は、ちょっと抽象的あるいは観念的なタイトルだなと思いましたし、この大河への「曲解」意見なるものは、要は批判意見であり、武者さんにはそれが面白くないのではないか、そのようにしか見えないのですが。

たとえば『孟子』を「漢詩」とする感想が出てきたりしますが、これを例えるなら、
「『源氏物語』という俳句を読みました」
という類のものとなります。
もしもアメリカのドラマでそんな風に語られていたら、「気持ちはわかるが、そうじゃないんだ」となりませんか? そう言う類のミスなのです。
漢詩はあくまで「漢詩」であり、『孟子』は思想を説く「四書」に分類されます。
些細なことではあるのですが、重要なことでしょう。

『孟子』を漢詩とする感想て、どこにあるのですか。SNSですか。だったらちゃんとスクショしてください、恐らく勘違いではないかと思われます。
そしてなぜ『源氏物語』=俳句なる表現が、アメリカのドラマに結びつくのですか。実際に向こうの番組でそういうセリフがあったのですか。ならば、その番組に意見を送るべきかと思いますが。

このドラマに関する各メディアの記事で、紫式部が世界的に唯一突出した女性文人という趣旨の記述を時折見かけます。
これについては、むしろ本人が以下のように嫌がりそうです。
「やめてください、優れた女性文人は私の前にだっています。本朝もおりますし、何より唐。卓文君、班昭、蔡琰、謝道韞、魚玄機、薛濤……漢籍を読めば出てくるでしょう。なんで知らないんですか?」
ことさら紫式部を「日本スゴイ!」とか、「アジアでスゴイのは日本だけ!」といった言説に結びつけるのは、彼女が望むことでもないでしょう。
キャッチーだからって大仰なコピーを使うことは非常に危うい。

実際『源氏物語』がこれだけ読まれているのだから、著名な存在であることは間違いないでしょう。
寧ろ、武者さんが羅列している唐の「女性文人」の方を、知らない人の方がはるかに多いのです。何よりも日本人が、紫式部を称賛し、世界的な存在であると考えるのがそんなに悪いことですか?
「キャッチーだからって大仰なコピーを使うことは非常に危うい」
一体何が危ういのでしょうか。
何だか紫式部が世界的に有名であるのが、お気に召さないみたいですね。

そして次の仮説です。
ネットニュース等のドラマ評価は、視聴者の理解度によるのではないか?
(中略)
『ちむどんどん』という朝ドラがありました。
このドラマは「医食同源」が根底にあり、琉球の伝統食文化や、沖縄ならではの事情がプロットに盛り込まれていた。
それが理解できなかったのでしょう、琉球差別としか言いようのないアンチコメントが多く見られたものです。
しかも、それを集めてニュースにすることでPVを稼ぐメディアもあり、ドラマの感想で琉球差別の助長をするなんて何たることか、と頭を抱えたくなりました。

「視聴者の理解度」
これもまた上から目線な感じですね。
要は、自分が好きな作品を悪く言うのが許せないというところでしょうか。しかし他人が好きかも知れない作品(大河、朝ドラ)を武者さんはこれでもかと叩き、『舞いあがれ!』などは実際にないシーンまで自分で作り出していたりもしたのですが、それは無視ですか。

あと『ちむどんどん』に関しては、あまり「医食同源」という印象はありませんでした。沖縄から東京に料理人の修業に出て来た若い女性の物語ですが、何だか反社組織がやたら出て来たり、ヒロインに取ってちょっと都合よすぎと思える設定になっていたのには違和感があったし、しかも当時、沖縄の農産物は法的な意味合いから持ち込めないことになっていたのに、それを持ち込んだりするのはちょっとリサーチ不足にも見えました。

人の性は悪なり――このことはネットが可視化している側面もあります。
PVを稼ぎ、バズるためなら悪口やデマ、差別でも語るようになるのかもしれない。
自戒もこめて、それよりも大事なことはある、ルールは守ろうと思う次第です。

「PVを稼ぎ、バズるためなら悪口やデマ、差別でも語るようになるのかもしれない」
『青天を衝け』や『どうする家康』のコラムで、悪口やデマ、あるいは俳優さんの外見に基づいた誹謗中傷とも取れることを平気で書いて来た武者さんに、こう言われたくありません。この手のことを書くのはこれで2回目ですね。

2021年と2023年に何を書いて来たのか、貴方はまずそのことを反省してください。


飲み物‐黒ビールと木のテーブル
[ 2024/02/02 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第3回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

寒さが続きますね、どうぞ皆様お気をつけください。では第3回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。

まず本題の前に、先日分の投稿の引用部分で「藤和兼家」とありました。もちろん、「藤原兼家」のことでしょうが、こういうのも気を付けてほしいものですね。

姫君の衣装が美しい。襲(かさね)の色合いがどうしてこんなに可愛らしいのかと見惚れてしまいます。
平安時代って、知れば知るほどこの時代に生きていなくてよかったなぁと思えるほど、実は過酷な時代。
それでも憧れを持ってしまうのは、まさにこうした繊細な美しさにあるのでしょう。

「繊細な美しさ」などと書くのであれば、襲の例くらいあげてほしいと思います。

色彩と文様
(日本服飾史)

尚私が『どうする家康』の千姫を例に挙げて、菊重ねについて書いていますが、これは紫と白もあるとのこと。 

それにしても同じ人が、昨年は登場人物の衣装の色を、スイカバーだ焼き芋だと言っていたのですね。

「すごーい! まひろさんは漢字がお得意なのね」
「一枚も取れなかった」
そう上品に笑う姫君たちを前にして、やりすぎた己に気づくまひろ。どこまで面倒くさいのか。

だから何が「面倒くさい」のでしょうか。
空気を読めないことが面倒臭いのですか。何とかのひとつおぼえのようにも見えてしまいます。

ここで檜扇を操りつつ、ふわふわと笑う倫子の愛くるしさは何なのでしょう。空を飛ぶ蝶々か、花びらのような軽やかさがあります。
何かと重いまひろとは正反対のようにも思えます。

倫子とまひろは正反対と言うより、何か一脈通じるものがあるのではないでしょうか。逆に倫子がそれを見抜いているからこそ、楽しそうにしているようにも見えるのですが。

平安貴族の貴公子たちは、関白・藤原頼忠の屋敷で休日でも漢籍の勉強をしています。
今日は『孟子』「公孫丑上」。
公任がスラスラと読んでいます。

で、ここまではまあいいのですが、その次にこの「公孫丑上」の読み下し文と現代語訳があります。これだけで30行ほどになります。
こういうのは読み下し文、現代語訳どちらかでいいのではないでしょうか。一応ここでは現代語の方だけを置いておきます。

孟子が言った。
「人には皆、他人の不幸を見過ごせない気持ちがあるものだ。
古代の聖王は、人の不幸を見過ごせない気持ちをみな持っていたのである。
だからこそ、人の不幸を見過ごせない政治ができたのだ。
人の不幸を見過さぬ気持ちを持ち、人の不幸を見過ごせぬ政治を行えば、天下を治めることは、手のひらに玉を載せて転がすように簡単にできる。
人には誰でも、他人の不幸を見過ごせない気持ちがある。それはどこからくるのか。
もし目の前で、幼児が今にも井戸に落ちそうになっているのを見たとする。これはいかん、大変だと誰だって助けようとするだろう。
それは幼児の親に恩を売ろうと思ってするわけではない。
近隣のものや友人に褒められたいから、そうするのでもない。
幼児を見殺しにしたと悪評が立つと嫌だからそうするのでもない。
遠慮し、人に譲る心を持たぬ者は、人ではない。
善悪正邪を見分ける心がないものは、人ではない。
人の不幸を見過ごせない心というものこそが、仁のもとである。
自身の不善を恥じ、他人の不幸を憎む心こそ、義のもとである。
互いに譲り合う心は、礼のもとである。
善悪正邪を見分ける心は、智のもとである。
人がこの四つの萌芽を持つことは、両手両足があるのと同じことだ。」
性善説です。

このように知識を仕入れることと、実践の間には距離があり、平安時代の政治は民を重んじているかというと、なかなか厳しいものは感じますね。
積極的に戦乱を起こさないと言う意味では、確かに平和ではありますが。

儒学を学んだからと言って、それが民のためになるかどうかはわかりません。実際に民のためになろうとするのであれば、当の民と実際に触れ合う必要があるでしょう。尤も道長の場合は、散楽がひとつの目的ですが。

あと「積極的に戦乱を起こさない」はどうでしょうか。戦国時代も飢えをしのぐために領地を巡ってせめぎ合っていますし、この時代は戦をしようと思わずとも、外国から侵略されてしまうこともあります。さらに言えば、戦乱はなくても政変は起こっていましたね。

大河ドラマ『麒麟がくる』では、こうした儒教の教えを初回で主人公が実践していました。
火災があり、その中に子どもが置き去りにされた。もう前後のことも考えずに飛び込んで助ける光秀。
その姿を見て、かつて己も燃え盛る家から救い出された駒が「麒麟がくる」と語る。
光秀は孟子が説く教えそのものの行動を咄嗟に成し遂げたからこそ、駒は「麒麟」を連想したのです。
あの場面はカッコつけだのハリウッド映画だのなんだの言われましたが、孟子の言うところの性善説を端的にまとめたものでした。

仮に性善説を知らなかったとしても、火事に遭った家の子をそのまま放っておくでしょうか。
もっと言えば、災害に遭った地域の人々を、そのままにしておくでしょうか。
そしてあのシーン、確か光秀ではなく、取り残された女の子ウメの父親も手助けしていますね。そしてこの時駒は、自分も子供の頃火事に遭い、知らない人(武士)が助けてくれたこと、その人物が麒麟を連れてくると言っていたと話しているわけですが、これだとまるで、駒自身が麒麟を連れてくると言っているようです。

あとこの『麒麟がくる』第1回のあらすじと感想で書いていますが、『功名が辻』でも、一豊が千代を火の中から助け出しています。
『青天を衝け』でも栄一が、自らが火の中に飛び込んだわけではないけど、関東大震災で被災した人の救援を提案していました。「ワシのような老人はこんなにいささかなりとも働いてこそ、生きてる申訳が立つようなものだ」と栄一が言っていましたね。

町田啓太さん扮する公任が、澱みなく、スラスラと漢籍を読み上げます。素晴らしいですね。
秀才そして知られる公任。町田さんは台詞に出てこない箇所まで覚えたと嬉しそうに語っていました。
長谷川博己さんも、光秀の行動原理を深く理解するために儒教の関連書籍を読んでいたそうです。
学ぶ姿勢が、演技を磨き上げ、ただでさえ美しい姿を一層深みのあるものにします。公任が美しいのは当然ですね。

その町田さんや長谷川さんのコメントの出どころはどこですか。それをちゃんと書いてください。先日もCPのコメントの記事を貼っていませんでしたね。

しかし好きな大河だと出て来る俳優さんにも優しいですね。そして「演技を磨き上げ」とありますが、それが具体的にどのように磨き上げられているのか、ドラマを書くことでお金を貰っているのなら、そのくらい指摘できないでしょうか。
そしてこれだと、武者さんが嫌いな大河では誰も学んでいないような言い方ですね。松本潤さんは、家康になりきるために体を絞っていたのですけどね。

そして、このドラマの楽しみ方を見出しました。
光源氏探しです。
登場人物の理想的な部分をつなぎ合わせていくことで、光源氏をカスタマイズしながら作り上げていくのです。
教養は公任。
筆跡は行成。
要領の良さは斉信。
気品は道隆。
屈折は道兼。
愛嬌は道長……なかなかおもしろいんじゃないでしょうか。

それですか。
いえ貴方が全く個人の趣味でこれを書いているのならそれもありでしょう。しかし歴史系ライターなのに、この4人の生い立ちや今後についての説明は一切なしですか?
このコラムは、貴方の遊び場ではないと思うのですが、いつ見ても、真剣にドラマの背景や人物をとらえているようには見えないのです。それで報酬貰えているのですね。

そう兼家のように道長に言いたくなるのは、あまりに個性的な悪筆だから。字が下手だと台詞にもありましたが、史実の道長もあまりに癖が強い字を書きます。

字が下手だと言いながら画像すら貼らないのですね。月岡芳年の絵は張っているようですが(苦笑)。
別に下手ではないと思います、特徴のある字ではあり、また表記方法そのものにも特徴がありますね。

Michinaga_diary.jpg
(Wikimediaより、御堂関白記)

一方で藤原行成は日本書道史のレジェンドです。
そんなレジェンド行成から癖が強すぎる道長まで、字を再現する根本知先生は大変だと思います。

せっかく藤原行成が出て来ているのだから、三蹟くらい書きましょう。
そして色々な字を書き分けるのが、大河の書道指導の方の務めだと思います。

今年の大河は書道に気合が入っています。
文房四宝こと筆・墨・硯・紙まで、特殊で高いものを用意していて、この文房四宝の質感だけでも見ていて眩しいほど。美しい場面が続きます。

多くの大河では、登場人物は字をしたためるものであり、それぞれの作品に於いて、それぞれのやり方で書道に力を入れていたと思います。今年に限ったことではないでしょう。

そして「特殊で高い」と書かれていますが、具体的にどのような品のことをさしているのでしょうか。端渓の硯とかですか。

さらにまひろの硯は携帯用でも家要でも、それほどではなかったかと思います。自分で「貧しい」なんて書いてますよね武者さん。寧ろ評価するのであれば、それぞれが身分に応じた物を使っていること、そして代書に紙でなく板を持って来た麻彦のように、紙は高額で、庶民にはなかなか買えなかったという点の考慮などでしょう。

しかし為時が知りたいのはそういうことではない。年頃ゆえに、東宮の妃となってもおかしくない。一体どういうお考えなのか?
すると、まひろの猜疑心が発動します。嗚呼、めんどくさい。
兼家様に頼まれたのか、間者にしろと言われたのか?と父を問いただします。

貴方「めんどくさい」このコラムでもう何回使っていますか?
父にこう訊かれて、自分が土御門邸に行ったのは別の目的だったのかと感じ取る、その辺りの勘の鋭さはあるかと思います。

まひろはここで割り切ります。そういうところがちょっと気持ち悪いんだぞ!
父の言葉に納得もあるんでしょうね。楽しいことはそうだし、メリットはある。

「そういうところがちょっと気持ち悪いんだぞ」
一々面倒臭がる、あるいは気持ち悪がる武者さんの方が、如何なものかと思うのですが。

そして倫子様に気に入られるようにすると、キッパリと言い切るのでした。
とはいえ、内心父への軽蔑が高まったのか。
一人、母の遺品である琵琶の前に立つ時の白い顔は、憤怒がふつふつと滾るようにも見えます。

涙を流しているのを見ると、やりきれなさはあるでしょうね。彼女が、自分で嘘をつくことの罪悪感を初めて乗り切らなければならない、関門のようにも見えます。

このドラマは、まひろと道長の恋愛で焦らしているように思える。
けれども、そうなのでしょうか?
もしかして二人とも「困っている人を助けたいんだ!」という惻隠の情で動いていただけであり、恋をしていないのではありませんか?
この読み違いは前述した『麒麟がくる』でもありました。
光秀が駒を助けたものだから、この二人に恋愛フラグが立ったと誤解した視聴者がそこそこおりました。
光秀は親切心です。確かに駒は淡い恋心を光秀に抱いていたものの、それよりも人助けに生きがいを見出すようになる女性でした。
なんでもかんでも恋愛フラグ扱いにするのはどうなのか。

互いに氏素性が知れないまま出会い、別れて会えなくなった同士が再会して、さて今後どうなるのかと言ったところでしょう。
そしてまた『麒麟がくる』ですか。
「なんでもかんでも恋愛フラグ扱いにするのはどうなのか」
などと好きな大河では書いておきながら、嫌いな大河だとエロだのミソジニーだの連発しまくりですね。しかもドラマそのものを分析的に観ているようでもないし。また恋愛フラグを立てる立てないは、人それぞれだと思います。

やはり、まひろは何かおかしい。
三郎がいなくなって大丈夫かと気にしている。けれども直秀から無事を聞かされても、喜ぶどころか猜疑心全開にして太郎を使って調べようとする。
その太郎に、妖怪かどうか確認したいと言う。

「太郎を使って」まひろは父親から外出を止められ、乙丸が監視しているわけですが…これ書くの何度目でしょう。
「猜疑心全開」無事だと知ったから、あの人にまた会えるだろうかと思った。
「妖怪かどうか確認したい」太郎が、姉上の三郎は幻じゃないの?鬼とか悪霊とか怨霊とかさと言ったから、そうであるかどうか確かめたいと言ったのではないでしょうか。実際会ったり会えなかったりしていますし。

これが恋をする若い女性の言動なんだろうか……。なんなんだ、本当になんなんだよ!
だいたい「謎の男」というタイトルも妙です。逢いたい相手を謎呼ばわりってどこか変ですよ。
(中略)
なんかこう、私はこういうの好きじゃないというオーラがじわっと滲んでいるというか、理解できていないというか、“かわいい若い娘”という仮面をかぶっているというか。
まひろって、実はガチガチの理詰めで、恋するままに動けない性格なのではありませんか?
周囲から学び、空気を読んでふるまおうとしているけれども、実は何かがずれているのかもしれない。

別にかわいい娘のふりをしているわけでもなく、ありのままの自分を出していて、でもそれでいいのだろうかと戸惑っているように見えます。大人への第一歩でもあるし、それこそ貴方が好きな漢籍も読んでいるから、ちょっと違ったものの考え方をするようになるのでは。

まひろのこういう性格って、イギリスの女性作家であるジェーン・オースティンも思い出します。
恋愛小説の名手として知られ、英語圏の教科書には掲載常連、国民的作家です。
けれども本人は恋愛をした情熱的なタイプでもなく、皮肉屋で理知的です。
恋愛小説にせよ、流行しているものを自分流にアレンジして皮肉って書いてやるような動機があります。
オースティンのヒロインはなかなかひねった設定です。書簡集を読むとものすごく嫌味なことを書いているとも思える。
そういう皮肉屋だからこそ、見えてくるものがあるのかなと。

ここでジェーン・オースティンですか。
ではその作品を一つ挙げて、どう皮肉屋でどう理知的なのか、そしてどういった作風にそういう彼女の特徴を感じるのか、きちんと書いてくれませんか。映像作品でもいいです。
私は、『高慢と偏見』の、コリン・ファースが出演したBBCのを観たことがあります。イギリスの階級社会は、ああいうものかと思いましたね。イギリス海軍好きな方の一押しでした。

ひねくれたヒロインって実にいいですね。もう本当に変なヒロインです。

逆に失礼な気もするのですけどね。「変な子」という先入観ありきでまひろを見ていませんか。

さて、以下は余計なことながら。
視聴率が低いこともあり、早速叩き記事が出ています。
◆『光る君へ』第2話で視聴率ダウン! まひろ(吉高由里子)の恋愛描写メインで高齢視聴者が大量離脱(→link)
◆NHK負のスパイラル…『紅白歌合戦』『光る君へ』“低視聴率”続きで予算削減へ(→link)

武者さん、昨年は自分が同じことをやっていましたよね。
「ワースト2位の大駄作」だの「ワースト2という不名誉に関する弁解があってもいいだろうに」だの。

で“事情通”なる人物が、シニア層が混乱する、役者に魅力がない、そして源氏物語の世界観を大河でやるのは難しいと言ったことを話しているようですが、それに対して。

「事情通」とは、誰でも自称できるし、資格もなにもないところがポイント。
ライター本人が書いているという可能性もあります。

あれだけ「文春砲」を何かのように引用して来た武者さんに、情報の胡散臭さを言われても正直どうかなと思います。

ましてや下地となる『源氏物語』が男と女のまぐわいが中心の恋物語。
まぐわいって……『源氏物語』はそういうものでしょうか。
国民的古典を学ぼうという好奇心や知識欲はないのでしょうか?
「恋愛描写が多いからつまらん」というのも、納得できかねますし、藤原の多さに困惑しているという指摘も甘えではないでしょうか。

少々きわどい言葉ですが、確かに「まぐわい」の要素はあるでしょう。
そしてその人は、別の古典に関心があるかも知れないのです。恋愛描写、おなじ一族で同じ氏が出てくるのも、人によっては受け入れられないこともあるかも知れません。
問題は、なぜこのような例をわざわざ挙げて、私が言うことは正しいと主張せんばかりのことを書くのかです。
こういう見方もあります程度に書いておけばいいのでは?
武者さんがすべて正しいわけではないし。

同じことを女性が言おうものなら「このバカ女」となりそうなのに、なぜ中高年男性は当然の如く、こんな威張った調子で言うのか。世間はそれを許すのでしょうか?

そして必ず
「同じことを女性が言おうものなら『このバカ女』」
貴方は常に中高年男性に対して臨戦状態ですね。

そして結局『光る君へ』も結局は、『どうする家康』の叩き棒にするようです。

2023年のように、徳川家康の生涯において、側室オーディションやら、お手つきやらクローズアップすることこそ、余計な恋愛描写(ろくに恋すらしていない、正しくは性欲描写か)だと私は思います。

両方の大河の関係者に失礼だと思いますけどね。
そして『どうする家康』の「性欲描写」て何ですか?具体的に書いてください。
さらに言えば、お万の「お手付き」は実話と言われています。

そして感じたのは、以下の記事にある「カスハラ」です。
◆「よかれ」と思って無自覚カスハラ 気をつけたい「中高年男性」(→link)
「よかれ」と思い、いい事してやったと語っている記事なのだろうなと。

「『よかれ』と思い、いい事してやったと語っている記事」
これもまんま武者さんのような気がして仕方ないのですけど。
貴方の昨年のジャニーズ叩き、しかも関係のない所属俳優やタレントへの姿勢は正にそれでは。

何度でも言いますが、「戦! 戦国! エロい女!」の2023年は「シン・大河」どころか、記録的大失敗、「惨・大河」になりました。従来の読みは通じません。

しつこいですね。
「記録的大失敗」の根拠は何ですか。
「シン・大河」なんて公式は使っていませんよ。
こう書かないと気が済まないのでしょう。結局何も観ていませんね。もう少し丁寧に観ていたのなら、まだ建設的な批判ができたのでしょうが、最初から叩き目的だから本当に同じことの繰り返しですね。

視聴率は低いが、鑑賞者は多い――再放送希望も多いのか、異例の一月での1、2回再放送もありました。
◆録画にネット視聴、実は見られていた「光る君へ」…演歌冷遇・受信料宣伝の「紅白」はそれでも過去最低(→link)
私も以前から思っていたことです。
海外では視聴者数または視聴回数で評価します。そういう過渡期の作品なのでしょう。
今年は「視聴率は低迷する」と覚悟の上で作っていると思います。
しかし現場の士気は高いようです。

これは昨年も、そして一昨年も同じではないでしょうか。
そして一昨年までは
「(世帯)視聴率は古い」
なと言っていただけど、今回は
「過渡期」
ちょっとトーンダウンしているようですね。
あと「現場の士気は高いよう」なら、それを裏付けるものをお願いします。
そして昨年も一昨年も、確か2回分か3回分の再放送をやっていなかったでしょうか。
こういうのも嫌いな作品なら、番宣だと叩くのでしょう。

それから余談ですが。
昨年武者さんは『大奥』と『麒麟がくる』のディレクター、大原拓氏の演出を褒めて眼福だと書いていたことがあります。しかしこの大原氏は、武者さんが好きでない『軍師官兵衛』のディレクターでもありました。その後しばらく経って大原氏のことはコラムから消えました。あるいは「官兵衛」もやっていたことに気づいたのでしょうか。
ちなみに大原氏が演出を担当した回には、宇喜多直家が織田に通じた者を毒殺したり、勝手に戦線離脱をした秀吉が、信長に疑われないように乱痴気騒ぎをしているシーンもありましたね。武者さんが眼福と喜ぶようなシーンでは、恐らくなかったかと。


飲み物-トディ
[ 2024/01/25 00:15 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第3回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第3回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


正体が露になれば釈放されるでしょうから、確かに大丈夫だろうとは思いますが、そもそも追われていた散楽の直秀とは何者なのか?

「正体が露になれば」て、もう少し書きようがあるかと思いますが。「素性がわかれば」とか。そして「散楽の」と言うより「散楽一座の」とでもした方がいいかと。

道長は平惟仲と共にあっさりと解放されました。

まるで平惟仲も一緒に捕縛されたようですね。この人は兼家の屋敷の家司で、家政をつかさどる人物のことです。兼家に言われて、道長が兼家の息子であることを告げ、その結果釈放されたと思われます。

家に戻ると、父の藤和兼家が放免を相手にするなと怒っています。
放免とは、検非違使の下にいる捕縛担当者のこと。

武者さん、この間放免のことを検非違使と書いていなかったでしょうか。ちなみに私はいささか曖昧に「役人」と書いていました。

道長が「お腹に虫が……」と父をからかい、騙されたと知ると兼家はこうだ。
「うつけもの!」
似ているのか、似ていないのか、よくわからない父と子です。

「お腹」ではなくて「お顔に虫が」ですね。

説明台詞の分量も多くなりますが、親切設計とも言えるでしょう。丁寧に描いておかないと、付いてこられない視聴者も多いかもしれない。

貴方また「説明セリフ(台詞)」ですか。この言葉好きですね。第一ドラマはすべての人物を同じに描けるわけではないのだから、セリフが説明的になるのは当然と言えます。しかし今年は「親切設計」、好きな大河だと優しいですね。この辺りが武者さんが反発される一因かと思いますが。

様々な要素がギュッと詰まった場面ですので、当記事でも解析してみましょう。
・「撫民仁政」の欠如
『鎌倉殿の13人』と比較したい場面です。あの作品では、北条政子が北条泰時と共に施餓鬼で民に施す場面がありました。
民なんてどうでもいい!という兼家の態度と比較して、随分と優しい。
兼家のような京都の貴族からは、民衆を思いやる気持ちが欠如している様子が浮かんできます。

まず兼家は、なまじ民の暮らしを知れば、思い切った政はできぬと言っています。かなり強権的ではありますが、それもまた事実であり、自らの地盤固めをするには、まず娘たちを入内させて皇室と姻戚関係を結ぶ必要がありました。それを考えたら、民のことは二の次でしょう。

第一『鎌倉殿』の政子や泰時はこの場合比較対象にはなりません。同列に論じるのなら義時でしょう。また比較対象がおかしいですね。

・理念がない兼家
兼家はともかく出世することが大事です。
出世して、実現したい政治ビジョンはない。理想の政治像があった北条泰時と比べると、出世しか眼中にないように思えます。

だからそこで、なぜ泰時と比べるのでしょうね。兼家は摂関政治華やかな頃の人物であり、政をするうえで必要なのは、さっきも書きましたが、何よりも自分の地盤固めであり、強固なネットワークを築き上げることでした。そして泰時の場合は、発足したばかりの武家政権を軌道に乗せることが主なテーマであり、違っていて当然です。

・三男の野心
儒教理念を徹底し、長幼の序を重視した江戸時代とは異なるとわかる、三男同士の会話です。
こうしてみてくると、当時の貴族は何なのか?と思えてきます。

日本は儒教国家ではないし、江戸時代も必ずしも長幼の序を重んじたわけではなく、正室の子が兄をさしおいて嫡男などという例もありました。
そして
「当時の貴族は何なのか?」
ずばり「貴族です」。
要は兼家の場合、長兄伊尹と次兄兼通が亡くなったため、実権を握ったわけですね。そして道長も、長兄道隆と次兄道兼が相次いで亡くなり、彼自身が実権を持つようになります。

例として、徳川秀忠がなぜ将軍になれたのか、考えてみるといいでしょう。長兄松平信康は自刃し、次兄結城秀康は、正室瀬名が認めない側女の子であったため、彼にお鉢が回って来たわけです。

ここからが面倒くさいまひろの本領発揮だ。
朝になると、似顔絵を描いて太郎に渡します。四条万里小路のあたりにいる、身の丈六尺以上の“三郎”を探して欲しいとのこと。
藤原か? 源か? と太郎が尋ねても、それはわからないと返すまひろ。
貴族じゃないのかよ、と太郎がぼやいています。
「早とちりしないで」
無事かどうか知りたいだけ。高辻富小路の絵師のもとにいるかもしれないと似顔絵を渡すまひろです。

まず、武者さんは第1回からまひろを面倒くさいと書いています。これは前にも書きましたが、普通の女の子でないアピールのつもりなのでしょう。しかし私に言わせれば、特に面倒くさい女性でもありません。

まずこの太郎への依頼、自分は自由に外出できないから弟に頼んでいるわけでしょう。で、太郎はまひろの恋人かと思っているわけです。ところが、ここで肝心な部分が抜け落ちています。
太郎は
「はあ…まずいよそれ。釣り合わないでしょ」
つまりまひろも下級とはいえ、貴族の娘であり、恋仲となって結婚するのに、相手の氏を知らないのは何だかなあと言っているわけですね。まひろは弟に、恋人とかそんなのではないと言って聞かせます。

歌は上手いが絵は下手だと面白がる太郎の頬を、まひろがつねる。
面倒くさい。恋心なのか、なんなのか、規定ができない。反応が本当にかわいらしくありません。直秀が念押ししても「お待ちください!」とかなんとか動揺しつつ言いそうなもの。
それを「あの男はああ言ったけど、確かめないと納得できない!」として太郎を使おうとする。しかも、テキパキと相手の特徴を告げていて、恋愛感情じゃないという。
頬を赤らめたり、目を潤ませながら頼みでもすれば、わかりやすくてかわいい女になると思うんですよね。
けれども、このかわいげがない、面倒くさいところが紫式部として重要だと思います。

弟から憎まれ口を叩かれているわけですから、そこはつねりたくもなりますね。
寧ろこの反応、可愛いと思いますよ。直秀が屋根にいた件でも、相手の言うことに従っているというか、下手に大声出すとまずいかもと思っているわけだし。
そして「太郎を使おうとする」、ひとつ前に書いていますが、自分は自由に外に出られないからですね。でも相手を知りたいと思う、諦めきれないとこういう手を使っているわけです。

そして武者さんが言う
「動揺しつつ言いそうなもの」
「頬を赤らめる」
「目を潤ませる」
すべて貴方が嫌いな女性キャラのタイプですね。
そしてまひろは、こういう私が嫌いなタイプじゃないのよ、面倒くさいのよ、おじさんたち嫌いでしょと言いたげに見えて仕方ありません。

月岡芳年『月百姿』「しらしらとしらけたる夜の月かけに雪かきわけて梅の花折る」に命が吹き込まれ、動き出したような、町田啓太さんの姿です。

また月岡芳年。本当にこの人好きですね。昨年も同時代の肖像画があるのに、秀吉の絵は月岡芳年だなどと書いていましたね。
そして町田さんですが、武者さんが嫌いな『西郷どん』の小松帯刀と『青天を衝け』の土方歳三を演じていますが、それに関しては何も言わないのですか?

あとイケメンな俳優さんには、素敵だなんだと言いたげで、日頃自分が嫌っているはずの女性キャラに、どこか近づいていないでしょうか。

そんな話はいいからこれでも見よう、と公任が和紙に書かれた和歌を出してきました。思いを寄せる女性が贈ってきたものだそうです。

「和紙に書かれた和歌」と言うより、一枚の和紙に歌が書かれているように感じられます。でなくて、わんさかと贈られて来た結び文を持ち込んでいるのですね。公任もちょっと自慢気です。

ここで、年頃なのに婿がいないとか、左大臣の姫君の噂が語られ、斉信は俺を待っているのかも?なんて言い出しております。一体どんな女性なのでしょうか。
『源氏物語』の「雨夜の品定め」オマージュと言える場面でした。

この「雨夜の品定め」も、要はかなりの身分の複数名の男性による女性談義であり、嫌いな大河なら叩きそうな気もします。

当時の陰陽師は公務員であり、公務として真面目に勤務しているからこそかもしれません。
逆に、公務員以外で祈祷や呪詛をするような連中は、危険人物です。『鎌倉殿の13人』の文覚がそういう副業をしていましたね。

武者さんまだ文覚が呪術師のようだと思っているのでしょうか。この人はれっきとした僧で、神護寺の再興に努めた人物でもあるのですが。知らないのなら調べてはどうかと。

さて、ここで立派な鶏が映りました。兼家自慢のペットですね。

武者さん、この前は
「当時、こうした鶏は食べてはいけません。鑑賞や卵を産ませるため、あるいは朝の訪れを告げてもらうために飼育している」
と書いていましたが、卵を産ませるとか時をつくるための鳥は「ペット」になるのでしょうか?

毒盛りは東洋史ドラマ定番の展開ですが、こんななし崩し的に終わっていいのか?という気持ちは湧いてきます。
これが日本中世史らしさかもしれません。

まず中世ではなくまだ古代かと。
そして東洋史と一口に言っても、日本と中華帝国とではまた違います。こういう場合、中華帝国の方が熾烈なように思えます。

そして

ちょうどこのころ、中国は北宋の時代にあたります。当時の人気のある人物として、清廉潔白な官僚である包拯(ほうじょう)がおります。
彼は賄賂を受け取らない。悪徳宦官に屈しない。死後、ますます名前が高まり、正義感の強い包拯の名裁判は、フィクションの題材とされます。
清廉潔白で賢いお役人様が、悪党を裁いて欲しいなぁ!
そんな民衆の需要と、作家の供給が、南宋から元、日本ならば鎌倉時代あたりには一致し作品として結実していたわけです。

これ、『光る君へ』のコラムですよね?なぜそこで宋の役人の話になるのですか。

それが日本で実るとなると、大岡忠相の名裁きあたり、江戸時代まで待たねばなりません。
大岡裁きは「包公案(包拯様の名裁き)」の影響を受けております。文化同士で影響を受けてきたのが、東洋のエンタメなのです。

大岡裁きの『縛られ地蔵』が影響を受けているようですね。無論実際の大岡越前守忠相の裁きと、この大岡政談は別物であり、大岡政談はあくまでも写本や講談によるフィクションです。また聖書に端を発するものもあるようで、必ずしも東洋だけで括れるものでもなさそうです。

このドラマは、中国や韓国ドラマを意識していると言います。
それを踏まえて比較してみると、毒を盛ってもゆるゆるしたオチとするところに、日本らしさを感じないわけでもない。
厳密な推理と法の裁きは、このドラマに期待するところではない。そこも個性として楽しむことが正しいのでしょう。
中国や韓国を意識していると、内田CPが明言したのは素晴らしいことです。日本の伝統回帰ともいえます。

まずこの部分ですが、内田CPが明言したという記事又はコラムが何もありません。
恐らくこれのことでしょう。

「光る君へ」内田ゆきチーフ・プロデューサー苦労語る…何が平安の人の心を支配していたか1回あたり2時間考証
https://news.yahoo.co.jp/articles/96050307040fff8973f530f757caf24688d472a6
(出典:スポーツ報知)

でこの記事ですが、
「例えば中国や韓国の時代劇で、人物関係を知らずに見ても、その人の真心や喜び、悲しみが伝われば楽しめる。朝廷を舞台にした権謀術数や愛の泥沼も、細かな感情を描けば必ずや楽しんでいただけるものになる」
で、中国や韓国を意識していると言うより、例としてこの両国のドラマを引き合いに出したものと言えます。
こんなことで伝統回帰だ何だと言われても、ちょっと違和感があるのですが。

鏡を見なければ顔の確認はできませんよね?
日本は伝統的に、唐(から・中国)や高麗(こま・朝鮮半島)と比較することで、自分たちの定義をしてきました。

それを裏付けるものは何かありますか?
そしてこの舞台となっているのは国風文化の時代であり、必ずしもこれらの国と同じ体制を敷いていたわけでもないし、寧ろ大陸や半島の文化をベースにしながらも、自分たちオリジナルの文化を作るほうに傾いていたのでは?

明治以降、それを無視して無理してきたと思えます。それを取り戻す流れがきていて、本作はそこにスッと入り込んだと感じるのです。

明治以降、何やら『青天を衝け』を意識していると取れなくもなさそうな。さらに「無理して来た」とは、何を無理して来たのでしょうか。寧ろ日本はアヘン戦争で領地を割譲した清帝国を、反面教師にした部分もあり、西洋と伍する存在にならなければならないと思いもしたでしょう。

それにしても、まひろはどこまでめんどくさいのか。外出と気分転換のよい機会だろうに、何か疑っているようにすら思えます。

また「めんどくさい」ですか。
一度この言葉抜きで、まひろを表現して貰えないでしょうか。『どうする家康』で「しょーもない」を連発していたのを思い出してしまいます。

そしてまひろは遠い親戚であり、しかも父為時に「私のような身分の低い者が行くべき所ではない」と言っていることからして、嬉しいと言うよりかなり緊張しているのではないかと思われますね。


飲み物-ホットワイン2
[ 2024/01/24 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第2回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

第2回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。尚最近の投稿での、おかしな点や変換ミスをいくつか修正しています。
そして先日書いていなかった分で、気になる点が2つあります。


絵師の家に着くと、急ぎの客である麻彦が待っているとか。彼女は小さな硯で墨を擦ります。
この硯が素朴でいかにも貧しい。
文房四宝と呼ばれる筆・墨・硯・紙のうち、消耗品ではない硯はステータスシンボルの象徴です。この小さな硯と、後で出てくる大きくて立派な硯を比較してみると興味深い。

急ぎの客が麻彦でないことは書きましたが、この小さな硯は携帯用でしょうね。もっと後の時代、江戸時代になると矢立てという携帯用筆記具が登場しますが、それ以前に鎌倉時代頃から、携帯用の小さな硯はありました。それに類するもののようです。そしてまひろは、家ではそこまで立派ではないにせよ、普通の大きさの硯を使っています。
下の画像、向かって左、まひろから見て右にある黒いものがその硯と思われます。

光る君へ硯
『光る君へ』第2回

そして麻彦が思い出の花は夕顔と言うシーン。

二人で見た思い出の花は何か?と問うと、麻彦が夕顔だと答える。
『源氏物語』のオマージュが入っていますね。前回はまひろの小鳥が逃げたことが、雀の子が逃げたと紫の上が走ってきた場面をなぞっていたのだとか。今回は「夕顔」です。

この「夕顔」ですが、ただ単に思い出の花が夕顔と言うだけではなさそうです。自分の前に現れる女性、夕顔の歌の素晴らしさに源氏はほれ込み、通うことになるわけなので、ここで麻彦が、歌を贈るのは自分よりも素晴らしい女性であると言うところに、そのイメージを忍ばせているのではないでしょうか。あと前の回ので紙が高価と書いているわけですが、ならば麻彦が恐らく紙を買えず、板を持ってくるのにも触れてほしいですね。

そして先日の続きです。

二人の姿に目をやれば、烏帽子が透けて見え、髻がわかりますね。本作の男性は、地毛で髻を結っている方もいるとか。

この大河に限らず、
『鎌倉殿の13人』の北条義時役の小栗旬さん
『どうする家康』の豊臣秀吉役のムロツヨシさん
どちらも地毛で髷を結っています。ムロさんの場合、ある程度出世してからはきちんと髷を結っているので、その前の段階、木下藤吉郎や羽柴秀吉の時代に、天然のくせ毛を生かした髪型をしていますね。
あと『龍馬伝』の福山雅治さん、『平清盛』の松山ケンイチさんもそうですし、また女性ですが北川景子さんも、『西郷どん』の篤姫役で地毛を結っていた由。

ここで東洋医学のトリビアでも。
一月のうちに書けてよかった話として「お屠蘇」があります。
日本古来の飲み物とされていますが、『三国志』でもおなじみの名医・華佗が作り上げたとされていて、不老長寿の酒というより要はハーブドリンクです。

「一月のうちに書けてよかった」とありますが、大河が始まってからの1月の月曜日は4回ありますから、そのうちのどれかで書けるような話題かと思いますが、それはともかく。このお屠蘇のルーツについては知っていました、というか、薬局で屠蘇散を配ったりしていないでしょうか。それとこれは「飲み物」やハーブドリンクと言うより、邪気を払うための物ですね。あと
「ハーブを飲むことをありがたがるほど、当時は医学が未発達でした」
はちょっとないかと。縁起物ですから。

「高麗」(こま)とは一体なんなのか?
日本では、王朝が交代しても、そのまま呼び続けることがしばしばあります。しかも範囲が広い。
「高麗」は現在の朝鮮半島を指す概念として、長らく使われてゆきます。
中国は「唐」(から)です。
「高麗」や「唐」は判定が曖昧なので、例えば他国の人や物が、朝鮮半島や中国経由で届けても、そうなってしまったりする。

「王朝が交代しても」とありますが、この時代の朝鮮半島の王朝は高麗です。この場合なぜ「コマ」になるかと言うことなのでしょうが、高句麗のことを「こま」と呼んでいたからという説があります。その高麗は後に朝鮮と改名します。豊臣秀吉が明に攻め入ろうとしたのは「唐(から)入り」ですが、その時は高麗ではなく朝鮮と呼んでおり、日本軍は朝鮮半島で戦いつつ北上して行きました。

しかも、当時から輸入しなければどうにもならないものがありました。
例えば「檳榔毛(びろうげ)」の車。牛車の一種です。この「檳榔毛」とはヤシの葉です。
当然ながら京都近郊にあるはずなく、貿易で取り寄せねばなりません。
何かで代用したらいいんじゃないの?と言いたくなりますが、当時の貴族は慣習を守りたい性質ですので、結構な問題になったとか。

この枇榔(ヤシというか、ヤシの仲間の葉です)ですが、日本国内でも九州や南西諸島、沖縄などは自生地です。古くはあぢまさと呼ばれ、非常に神聖な植物とされました。

枇榔毛がどのくらい取れたのかは定かではありませんが、ある程度の量を収穫できたのであれば、外国から取り寄せる必要はなかったでしょう。というか、枇榔毛をどの国からどのくらい買い付けていたのか、その裏付けとなるものがないでしょうか。

見張りをつけると言われると、まひろは怒ったように反論します。
「縛られても、必ず縄を切ってでも出て行きます! 父上のいうことなぞ私は聞かない!」
面倒臭い。可愛げがない。そんなまひろの魅力全開ですね。
有名な文学者だし、ドラマでは母の死という悲劇も絡んでいます。
けれども根底にある動機は、執筆欲です。
受験勉強をしていようが、趣味も同時進行したい。そんな現代にいる少女にも通じそうな願いがいいですね。
試験の前だろうが好きな本を読んでしまっていた、そんな気持ちを思い出します。

武者さん、第1回からまひろは面倒臭いと書いています。面倒臭いと書くことで、普通の女の子とは違うという意味合いを持たせたいのでしょうが、私はそこまで面倒臭いとは感じません。ただ子供の頃母を目の前で殺されたトラウマ、自分と家族を守るためとは言え嘘をつく父、成長してからは、その父との確執が続くなど、心の中に何かを抱えた少女(と言うか女性)ではあると思います。家にいるともやもやしたものを抱えるけど、あの絵師の家で1人で歌を作っていたら、その気持ちが、心理学でいう昇華という形を取るからではいでしょうか。
実際やりきれない思いや怒りを、小説などの作品として発信するのは、この昇華とみなされています。

こころ診療所吉祥寺駅前様のサイトより。

乙丸が監視につけられるも、まひろは工夫をして突破。出かけて行きます。
しかし為時は絵師にも話をつけていて、その直後に道長がやってきて追い返される。

これ、乙丸が居眠りをしたから、家を抜け出ることができたのでは。日当たりのいい縁先に座っていたら、それはつい眠気もさすでしょう。

そして「MVP」は兼家だそうです。昨年はこのMVPなるものはありませんでしたが、ただ、武者さんの一方的な見方で評価されるのなら、なかった方がよかったかもしれません。

兼家の悪辣さは、家父長制そのものでもある。そこに組み込まれていけば、誰しも染まっていくもの。その様が楽しみです。

この当時は通い婚中心で、まだ家父長制は根付いていません。権力者そのものであるとは言えるかも知れませんが。

為時もまひろも愛読しているに違いない『貞観政要』。この本の要点は、諫言こそが大事だという点にあります。

「愛読しているに違いない」とは何でしょうか。
ちなみに、子孫が大江広元である大江匡房は、これを書き写して一条天皇に進講しています。元が帝王学の書ですからね。無論徳川家康も、藤原惺窩にこれを講義させています。

「魏徴という諫言のプロが、唐太宗に延々と『それはどうでしょう?』とダメ出ししているのです。
ドラマに対しても、諫言が飛び交うファンダムが好ましいと思います」
などとありますが、またファンダムがどうのこうのですか。

そして

全体的に品質が高い本作でも、屏風に弁髪の人が描かれているようなミスはあります。
それ以外にも、三男ではなく、異母兄がいる道長が「三郎」でよいのか?とか。
道兼の殺人はあまりにやりすぎではないか?とか。
そういう批判を共有しあい、話し合う場があるのは非常に健全でしょう。

別に武者さんが好きでない大河でも、こういう意見のやり取りはあったのです。
それがお気に召さなかっただけの話でしょう。
ただ気に入らないからと言って、ファンたちが楽しく意見交換している場所へ、踏み込んでくるような姿勢を取るのは感心しません。
それを言うのなら、『どうする家康』のこの記事のやり取りも似たようなものだと思います。

「どうする家康」官兵衛息子・黒田長政“一の谷形兜”ネット話題!薄型テレビ?ソーラーパネル?「首が…」

インターネット上には「いつ見ても鉄板みたい」「薄型テレビ兜だ!目立つなぁ」「ソーラーパネル兜の存在感よ」「空気抵抗が凄そうな黒田長政の兜w」「首がめり込みそう」「個性派兜博覧会」「誰が誰だか、すぐ分かる兜」などの声が上がった。

こういうやり取りもこれはこれでいいと思いますし、この兜、ひいては黒田長政に関心を持ってくれるといいなと言ったことを私は書いています。しかし、武者さんは叩いていましたね。
「死と隣り合わせである戦国武将の覚悟が表現されているわけですが、それをなぜ『薄型テレビ』などと笑われなければならないのか。あまりにも程度の低いコメントで記事まで作られてしまう幼稚さに情けなくなってきます」
どちらの大河も、ファンが興味関心を持って意見しているのは同じかと思いますが、嫌いな大河の嫌いなファンにはクレームですか。

そして
「本作は公式サイトやSNSの情報発信も行き届いています」
昨年公式のサイトやSNSを見ているようには思えなかった武者さんに、こう言われてもなあと正直思います。
そして「大河に関わる女は皆幸せになれない」とかで、女性脚本家を偏見で語るような意見が散見されるなどとあります。どの大河にも賛否両論はあるかと思いますが、ここでフェミニズム論。こういうの、よそでやってくれませんか。ここ大河について書くコラムのはずですよね。ならば平安時代の習慣や官位官職などを、詳しく説明してほしいのですけど。

◆NHK大河「光る君へ」はイケメンてんこ盛り!吉高由里子じゃ盛り上がらないとNHK仕込み(→link)
論旨をまとめると、「女はイケメンが好きだから投入しとけ!」というものです。

女はバカだからイケメンでしか気が引けないという偏見丸出しで、この記事は早速、吉高さんを貶めていて、より悪質ですとありますが、これ、貴方が昨年散々リンクを貼っていた日刊ゲンダイの記事ですよ。そしてイケメンな俳優さんたちも出ているのは事実だと思います。
それに貴方昨年は、出演者を散々貶めていなかったでしょうか。

そしてこういう記事も貼られています。

そしてこんな分析が出ました。
◆NHK『光る君へ』初回で躓き、マーケティング失敗か 大河最低の視聴率を記録、狙っていた若い女性層が離反(→link)
当然の帰結でしょう。
大河という時点で、はなから若い女性は避けています。
マーケティングの話でもない。ましてや本作だけのせいでもない。
大河という枠そのもの、ひいては日本史周辺までもが、若い女性を蹴散らすようなことをここ10年ほど続けています。

嫌いな大河が大河初回の最低視聴率を記録しようものなら、鬼の首を取ったように喜ぶのでしょうが、好きな大河だと、それは流石にやりませんか。その代わり、「若い女性を蹴散らすような」と武者さんが考えている過去の大河のせいだと決めつけ、そのキャストやスタッフに責任を擦り付けるようです。そういう大河を作っていた人たちに失礼だと思いませんか?
それこそたけたけさんのnote記事にもありましたが、
「『わたしのかんがえたさいきょうの』しか認めな」い武者さんだから、世間一般の感覚を求める方が無理なのでしょうか。そして若い女性を蹴散らすような大河なるもの、要はすべて武者さんが嫌いな大河なのですね。

好き嫌い、合う合わないは当然あると思いますが、武者さんの場合は、自分の理想に沿わなかったからという理由で、気に入らない大河を平気で「蹴散らして」歩いているようなものです。しかしここでは省いてはいますが、これには『平清盛』と『軍師官兵衛』がありませんね。あと、10年ルールはどうなったのでしょう。

でこう書かれています。

要するにここ10年の大河ドラマは、若い女性に対して散々セクハラを働く、おじさん上司のような枠になっていたのです。
「あれ〜? 若い女子ちゃん来ないのカナ? おじさんが歴史を教えてあげるのにな!」
「ですよね〜、ホント、最近の若い子って空気読めないっていうかぁ」
それがどれだけの損失か、考えたほうがよいでしょう。
今年は、そのことを踏まえていると思えます。
大河は今、変革の真っ只中
本作は、十分に意識しているのでしょう。

大河自体は今年だけでなく、ここ何年かずっと変革を目指しているかと思われます。『青天を衝け』以降、それが顕著なようにも感じられますし、それまで大河を観ていた層が、多少離れている感もあるかも知れません。そしてここでは省略していますが、この『青天を衝け』への攻撃がまたひどいです。あと第1回では我慢していたのでしょうが、華流ドラマなども登場して、日本のコンテンツ産業下げがまた始まっています。

そして武者さん上記のようなことを書いていますが、自分が嫌いな大河、自分が嫌いな女性キャラに対しては、このおじさん上司、あるいはそれ以上のことを書いています。
これは『どうする家康』関連コラムの、女性キャラに対する言葉です。ドラマの作り手の責任のように書かれていますが、実際は武者さんがこう受け止めているとしか思えません。実際観た限りでは、およそこのようには見えませんでしたから。

このドラマの作り手にとって、女はどんな存在なのか?
・エロいことをさせてくれる
・自慢できるトロフィー
・小馬鹿にするBBA枠、実母だろうがうぜえw
・自分のモテモテファンタジーを満たしてくれる喜び組
・出てきたと思ったら死ぬ話題稼ぎ女、いわゆる「冷蔵庫の女」
・なんでも肯定してくれる便利な存在、いわゆる「マニックピクシードリームガール」
差別云々の話はこの際置いといて、どういうセンスをしているのか?と問いたくなります。

こういうのを報酬付きコラムで書く方が、どういうセンスなのかとついつい思ってしまうのですが…。この『光る君へ』が、武者さんの嫌いな大河だったら、ちやはは「冷蔵庫の女」呼ばわりされていたのでしょうね。

そして『どうする家康』は中国韓国で人気がないと言いつつ、その証拠となるデータなり記事なりが全く出て来ないのですが…。
尚『どうする家康』とこのコラムについてはまた書く予定です。
(2024年1月18日一部加筆修正)

飲み物-ワインのデキャンタとグラス
[ 2024/01/18 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

第48回の『どうする家康』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週もたけたけさんのnote記事からです。実は原文を下書きに入れて保存したつもりだったのに、なぜか公開になってしまったようで、その時点でアクセスされた方は驚かれたと思います。その方たちそしてたけたけさん、失礼いたしました。

また今回も、武者さんのコラムからの引用部分はダークブルーの文字色となっています。それから第48回の最後に登場する現代の東京の街並みのタワー、ぱっと見中央に丸みがあるように見えたので、スカイツリーとしていましたが、よく見ると東京タワーであること、またこのたけたけさんの記事をはじめ、最終回関連記事でも、この東京タワーと指摘されていること、徳川家とゆかりのある増上寺に近いことなどから、東京タワーに改めています。

大河コラムについて思ふ事~『どうする家康』第48回~

こんな視聴率ワースト2位の大駄作に応援されたって、足を引っ張られるだけでしょう。
燃え盛った船が自軍に近づいてくるようなもの。
全力で追い返しましょう!
特に来年は「穢れ」を気にする平安時代の人々ですから、追い返すための祈祷でもするのではないでしょうか。

これに関しては、自分の書いた作品やレビュー記事に対して他人から
『呪いになるので近づかないで!』『全力で追い返しましょう!』『穢れるから祈祷しましょう!』
と言われたらどう思うのでしょうか、仲間内で楽しんでいるところに他人から土足で踏み込まれ、『穢れているから追い出しましょう!』と心無い言葉で扇動されるのが、どれほど辛い事か全く考えた事が無いのでしょうねとありますね。
さらに「だから賛同してくれる人がいなくなるのではないですか」とも書かれています。

実際、いくら嫌いでも穢れ呼ばわりするのはどうかと思いますし、何やら一線を踏み越えかねないようにも感じられます。そして、今年は特にそれが多いです。

そして真田昌幸のセリフ。

・恥を知らないパクリセンス?
本作の特徴に“恥ずかしげもなくネタパクリ”というのがあります。
「愉快な乱世を泳ぎ続けよ」
これは要するに、乱世を渡っていく様を船・真田丸にたとえた“パクリ”ですね。
三谷さんの足元にも及ばないのは明白すぎるのに、よくもこういうことをしますよね。
そうやって狡猾に大河ファンに目配せするのがたまらなく嫌だ。

こちらに関してはまずこうあります。
「貴方の知っている船は大海原を出港・水面を航行するのではなく水中をバタバタと泳ぎ回るのですね」
(私も同じことを考えました、船が『泳ぐ』わけはありません)
また、船に例えられた『真田丸』は『船出』『出港』と表現されており、『どうする家康』での「乱世を泳ぐは愉快なものよ」はこれまでに33回、42回、46回の3回で登場していると指摘されています。そのうち第33回と第42回が昌幸の言葉となっています。そして、謀略を巡らせ、表裏比興と呼ばれた昌幸が上田を守って来たこと、その子信繁が、自らも乱世で泳ぎながら生きて行くしかことができない自分と重ねたともあります。

秀頼の甲冑の質感もおかしい。
こんなペナペナした甲冑はみとうなかった。

これに関しては、『仏胴具足』と指摘されています。仏像の胸のように、継ぎ目が見られない作りであることからこの長あり、かの金陀美具足も仏胴とあります。また仏胴には2種類があり、腹面に1枚、背面に1枚の鉄板だけを用いる『一枚張打出胴』、2つ目は表面に漆などを塗り表面を滑らかにした胴で『塗上仏胴』と、皮や織物で包んで平らにしてある『包仏胴』があると説明されています。

それで思い出したのですが、武者さんは『真田丸』を観ていたはずです。あの中では本多正信が仁王胴と言って、金剛力士像の体を模した具足をつけています(これは『葵 徳川三代』も同じ)。そして今回武者さんは正信を散々叩いていますし、『真田丸』を引き合いに出したがるものの、仁王胴を着けていないことには触れていないのですね。

そういやダリ髭の井伊直政は最終回欠席でしたね。
別に見たいワケではないですが、なぜいなかったのか?という点は気になる。
徳川四天王が不在な方が不自然でしょう。

これですが、まず
「家康さまが今際の際に見た『信康さまと五徳さんの祝言での鯉の思い出話』は永禄10年(1567年)」
とあり、この時の新郎新婦は共に9歳であったこと、井伊直政はこの当時6歳であり、井伊氏に復姓して仕官したのが天正3(1575)年(井伊家伝記)と書かれています。当然彼が大人の家臣としてその場にいるわけもなく、どころかまだ家康との面識もないでしょう。

四天王がと言う前に、まずそれぞれの年齢、仕官しているか否かをなぜ調べないのでしょうね。ちなみにこの3年後家康は曳馬城、後の浜松城に入っています。ドラマではこの時虎松(後の万千代→直政)に出会ったと言うか、暗殺されかけたことなっています。

あれだけ戦いを煽っておいて、結局、自分はメイクを濃くして、ダイナミック拡大自殺宣言をしただけじゃないですか。

この豊臣秀頼についてたけたけさんは
「演じる佐久間さんにはもともと涙袋があり、照明の加減で下瞼に影が差しているように見えるだけだと思います」
「また舞台化粧というものがあり、普段とは違うメイクを時代劇などでは施される事もあります」
と書いています。
(私は、シャドー的に少し色を入れているかと書いています)
そしてこの後の流れとして、千姫を連れ戻すべく初(常高院)が大坂城内に入りますが、千姫は秀頼と茶々とその場に残ろうとし、秀頼に城を出ようと促すも、秀頼は「余は最後まで豊臣秀頼でありたい」と言い、千姫は初にも説得を頼むことになるわけですが、最終的に秀頼は豊臣家当主としての責めを負い、自害したわけです。
それをダイナミック拡大自殺宣言とはと、たけたけさんも呆れたような書き方となっていますね。

あと、牢人たちも次々自害していますが、これは秀頼に殉じるという意味もあったと思われます。実際この当時は、主君の死に伴う殉死はかなり見られました。

家康が千姫を助け起こすセリフも演出も、祖父と孫娘というより、イケメンと美少女なんですよね。
しかも、千姫が助命を頼む理由が「秀頼まじイケメン! 推してる人多いし、ファンがいるから貶さないで!」というような趣旨のようで、彼女の必死さが無駄になっている。
もっと他に言葉はなかったのか……。

こちらではまず
「また『孫のような年齢の女性に話しかけるなんて気持ち悪い!』『ファンクラブ、喜び組要員!』でしょうか」とあります。(武者さんが描きそうなことではありますし)
そして千姫が徳川本陣に連れて来られ、助命嘆願をするわけですが、彼女の言う「多くの者に慕われて夢を与えられる、前途ある若者」が、不穏な牢人を集めて世の中を荒らすような乱を起こしており、徳川幕府としては秀頼と茶々以下の豊臣家を認めるわけには行かないと主張したと思われるとあります。

しかし
「秀頼まじイケメン! 推してる人多いし、ファンがいるから貶さないで!」
は武者さんの勝手な想像でしょう。私も投稿に書いていますが、寺院の建立なども人々に慕われた一因であったかと思われます。団子屋の店先で家康は嫌いだ的な会話をしている、多分大坂人と思われる男性も、秀頼や豊臣家に好感を抱いていたものと思われますし。

まずは、長すぎるから端的にまとめてください。
これだけ炎が燃え盛っている中で延々と喋れないでしょ?
煙で喉をやられる可能性もありそうですし、酸欠にもなりそうだ。

『長すぎるから端的にまとめてください』に対し、
「貴方のレビューも長すぎるうえに蛇足なので端的にまとめてください」と書かれています。その通りだと思います。そして、大坂夏の陣で敗れた後、炎上する大坂城で豊臣一門が滅びゆく様は中盤の見せ場であり、最初からもう勝ち目がないと、自害するためにそこに留まっているのだから、煙を吸って喉が潰れようと酸欠になろうと構っていないのではないかとありますし、また振り返りや独白はドラマでの演出であり、現実とは違うものだとした方がいいと思うと忠告されていますね。

まあこれに関しては、私も茶々は死にゆく身で、煙や酸欠は気にしていないのではといったことを書いています。そしてもちろん第43回の終盤で、石田三成が家康に対して、ああいう長々とした話をしたのかどうかも不明です。それはフィクションと割り切ることでしょうね。

『青天を衝け』でも、オープニングでしばしば家康が、自分の世代以降の政策を自分のもののように語っていました。
劇中では徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。
どこまで徳川幕府が嫌いなのか。

あの「こんばんは。徳川家康です。」から始まる徳川家康公の登場は、日本史の授業の導入のように、ほぼ毎回幕末期の日本や世界の情勢を踏まえ、神君として俯瞰的な立場で簡単な解説をするものとまず書かれています。そして
第1回では「よく明治維新で徳川は倒され近代日本が生まれたなんて言われますが、実はそう単純なものじゃない」
「古くなった時代を閉じ、いまにつながる日本を開いたこの人物こそ、わが徳川の家臣であったと、ご存知だったかな」
と言っていることにも触れられており、
『徳川慶喜も、徳川家茂やその他別人の功績を掠め取っていました。』
に関しては、どこでどのようにして、慶喜公が家茂公やその他別人の功績を掠め取ったか、歴史の流れからどのような人物であったか、歴史ライターとして公平な視点で説明をお願いしますと言われていますね。

またこの『青天を衝け』関連では、
「天狗党の乱で当時一橋家当主だった慶喜公が、水戸藩士の処分に介入できず、幕閣の田沼公に一任した経緯があるのに、さも天狗党の処分を下したかのように吹聴した事について訂正は無いのですか」
とも書かれています。

実際これはおかしいし、またこれは少し前の『どうする家康』コラムで、桜田門外の変が水戸浪士中心なのに、なぜ薩摩武士の自顕流のような猿叫がしたのかと、武者さんが書いていたこともあります。しかし今年の3月に、他の記事で薩摩武士(有村治左衛門)が桜田門外の変に関わっていたと書いており、当該コラムはその後で書かれているわけですから、治左衛門の存在を武者さんは知っていたはず、なのですが。

小栗旬さんの南光坊天海が出てきました。
無駄使いとはまさにこのこと。

『もう麒麟には近寄らないでください』と見出しにあるのですが、たけたけさん曰く
「もうすでにクランクアップもし、最終回を迎えた作品なのにこの先どうやって麒麟に近づけるというのでしょうか」
「貴方が事あるごとに『どうする家康』を見ない、語らないを貫けば済む話ではないでしょうか」
正にそうだと思います。

そして、『我らは有象無象の声に惑わされることなく、正しく君の偉業を伝えて行かなければなりませぬ』とのナレーション、紫法衣を纏う南光坊天海僧正が主導で、東照社縁起編纂事業の部屋となること、天海は家康の偉業をたたえる公式史料をと考えており、それに沿わないものは却下しているシーンが説明されています。

そこで真田信之の正室、稲が鳥居元忠との別れの盃の話を持ち出し、天海がうなずくところ、秀忠が異を唱えるも、天海はかの源頼朝公だって、周りがしかとたたえて語り継いで来たため、武家の憧れとなっていると口にし、どんな人間にも間違いはあると尚も言う秀忠に、人でなく大権現と強調するところまでが一連の流れとして紹介されています。また稲はこの時まだ存命で江戸にいたともされている点にも触れられています。

そして元和2(1616)年、危篤となった家康は神号や葬儀関連の遺言を天海らに託し、最終的に権現(東照大権現)となり、この編纂事業も神号を権現としたうえで、神格化するための作業であったのでしょう、これが無駄遣いでしょうかとまとめられています。

ちなみに金地院崇伝が推す明神でなく、権現に決まったのは、豊臣秀吉が明神となったものの、豊臣家が短い間に滅びたからという説があるようです。

『どうする家康』の場合、松本潤さんが強引に頼み込んだようなサプライズばかりで、しかも露骨に『鎌倉殿の13人』を意識している。
佐藤浩市さん。
大竹しのぶさん。
小栗旬さん。
こんな調子だから「主演がキャスティングを左右する」という文春砲の信憑性が増してゆくのです。

例によって、武者さんが『同じサプライズにせよ『大奥』の方がはるかに上出来です。』と書いている点について、
「ここでもまた『大奥』との比較でしょうか。貴方は嫌いな作品をいちいち晒して下げないと『大奥』を評価できませんか。双方の作品にかかわった方々に重ね重ね失礼です」
とまず反論されています。
(両方を観ている人にも失礼かも知れません)

また『鎌倉殿の13人』に出演していたからと言って『どうする家康』に出てはいけないなどと言う制約はないこと、、現場の要望と俳優さんの意思によるものが大きいと思われること、勝手にキャスト予想やあらぬ妄想をして『勘弁してくれ』と言い、『「主演がキャスティングを左右する」という文春砲の信憑性が増した』と、武者さん自身がそう思い込みたいだけではないでしょうかとも書かれていますね。

そして真田昌幸役の佐藤浩市さんは、公式ガイドブックや相関図に『家康さまに何度も苦杯をなめさせる乱世の怪物、真田家当主』として写真付きで載せられているため、サプライズではないと思いますとありますし(私も同感です)、佐藤浩市さんは自身出演が決まった時、
『主役を務める松本潤君とは、昔から家族ぐるみで付き合いがあったので、応援したいという気持ちもありました。ですので、微力ながらお手伝いをさせてくださいという思いで、出演を決めました。』と語っている点にも触れられています。
これに関しては『ステラネット』に記載されています。

佐藤浩市「今作の真田昌幸は、いい意味で大河ファンの期待を裏切りたい」
大河ドラマ「どうする家康」で真田昌幸を演じる佐藤浩市。戦国乱世、表と裏を使い分け、生き残りを図る反骨不屈の男・昌幸。

そして大竹しのぶさんですが、自分のラジオ番組(R1「大竹しのぶのスピーカーズコーナー」)に松本さんが出演してくれたこと、主役を演じるに当たって、相当な覚悟でチャレンジしていることがわかって応援したい、自分にできることはあるかなと考えていたこと、そして
「こうしてお声がけいただいて、潤君が一生懸命取り組んでいる作品に出られることを、友人としてとてもうれしく思いました」
と大竹さん自身がコメントしている点にも触れられています。
また大竹さんは、ドラマのDVDを貰って第1回を観たこと、その時松本さんが相当な覚悟を持っていることがわかったとも語っていることなどが、紹介されています。

出典はヤフーニュースですが、今は記事がありませんので、サライの元記事のリンクを置いておきます。

大竹しのぶさんサプライズ登場で、山田太一さん脚本の伝説の大河ドラマ『獅子の時代』の名場面がよみがえる【どうする家康 満喫リポート】秘話発信編

尚小栗さんはこちらになります。
(『どうする家康』公式サイト)

武者さん盛んに『鎌倉殿』を意識していますが、ならば木村昴さんや川島潤哉さんの名前も出してくれと私は書いたことがあります。あと北香那さんも両方に出ていますね。


飲み物-トディ2
[ 2023/12/24 02:30 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)

『どうする家康』第48回に関しての武将ジャパンの記事について-6

第48回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその6です。今回は6ページあって大半は持説展開でした。この最終ページも延々とそれが続くので、所々省きますが、実際1ページ目の2倍は文字量があると思われます。


『麒麟がくる』とは正反対だと思います。
あの作品を書いた池端俊策さんは、光秀は自分自身だと思いながら書くこともあったとか。堅物で、頑固で、融通がきかない。頼られると損なことでも引き受けてしまう。
そういう光秀には生々しさがありました。
(中略)
思想として根底にあった朱子学も、理解度がとても高い。
一本筋が通っている。筆を握り、スッと線を引く。そんな端正で爽快感のある美しさがありました。

『麒麟がくる』とは正反対だ、あれは素晴らしかった云々。
別に武者さんがこれを好きなのは自由ですが、これを好きでなかった人もいるし、人物描写になじめなかった人ももちろんいるでしょう。人それぞれであると思います。私も馴染めない部分もありましたが、室町文化の描写などは面白いと思いました。

けれども、だからこそか。『麒麟がくる』をどうしても認めたくない、しつこいアンチが一定数います。
「駒に耐えきれなくて切ったんやがおもしろかったんか?」
とかなんとか、いまだにネットで書き込んでは仲間集めをしているかのよう。
そんな脇役が目立つ程度で切る方がどうかしていますし、駒は別段、そこまでストーリーを引っ掻きまわすわけでもありません。

脇役が嫌だから観ない人がいても、それは好き好きであると思います。自分が好きな作品が受け入れられないのがそんなに嫌ですか?ならば、その反対の例(たとえば今年)もあるわけで、他人が好きと言っていても、貴方は、しかもライターとしての仕事の中で、嫌悪感をあらわにしているわけですが。

しかし武者さんがこれを推したいのは、光秀の潔癖さとか朱子学よりも、結局駒の描写なのだろうと思います。

要するにミソジニーだろうと思います。男性が活躍する分野にいる女性を敵視し、やたらと叩く。典型的な心理ですね。
そんなミソジニーの影に「学級委員長タイプのいい子ちゃんw」を嫌う幼稚な心理も伺えます。

駒の見方もまた様々です。ただ武者さんの書き方は、駒に対して否定的な人を断罪し、ミソジニーと断定したがるだけのように見えます。なぜ駒がそのように見られるのか、その原因を一度でも考えたことがあるでしょうか。
先日の投稿で触れていますが、武者さんは『どうする家康』の団子屋の老婆についてこう書いています。

茶店の老婆も鬱陶しいだけ。
その老婆に対して、雑な関西弁で絡み、家康の悪口を喋る連中も見てられない。
このドラマは陰口を叩く場面が本当に多かった。

私はこれに関して、オリキャラゆえのひとつの形であると書いています。つまりオリキャラというのは賛否両論あるものの、どのようにも動かせるものでもあります。少なくとも大河という「ドラマ」について書いているライターであれば、そしてここまで駒への批判に否定的であるのなら、その点を理解するべきではないでしょうか。

私はあの婆さんは、家康の三方ヶ原関連の伝説の語り部でもあり、面白かったと思いますが。柴田理恵さん、好演でした。

そしてこちらの文章ですが、要は上の『麒麟がくる』評と比較してみると、冒頭で賛否両論が混じると書きながら、「賛」の部分だけを否定するかのような書き方はどんなものでしょうか。

どんな傑作だろうと、大河ドラマともなれば賛否両論が混じります。
しかし、ファンがアンチを嘲笑うような、幼稚でいじめっ子じみた口調でやたらと「wwww」を連発しながらおちょくってくる今年は際立って異常です。
・私は松潤が好きな純粋な人間です!
・徳川家康なんて何も知らなかったのに(日本史の授業中は寝ていましたか?)理解できるようになりました!
・それなのに、感想と言いつつ貶す人はひどぉい……くすん、きっと友達がいないからそーするのね♪(世間は広い。ジャニオタ以外に交友関係を広げられる人間も存在することを認識してください)
こういう界隈に忖度することがよいことでしょうか?
ここからの「いいね」欲しさに、無理矢理文章をこねくり回す歴史好きとは何でしょうか?

逆に言えば、なぜこの人たちが『どうする家康』を肯定的に受け止めるのか、それをきちんと考えたことがあるでしょうか。何度も書きますが、自分の好きな作品への否定と、嫌いな作品への肯定はやはり受け入れられないようですね。

これも以前、大河は歴史に興味を持つきっかけと書いたことがありますが、
「徳川家康なんて何も知らなかったのに理解できるようになりました!」
はその一例ですし、少なくともこの意見を私は否定しません。
そして「自分の感情を否定」などと書かれていますが、仕事である以上そこは割り切るべきでしょう。

私は自分の感情を散々否定されてきました。
しかし、そんなことは今更どうでもいい。むしろ、相手はなぜそうするのか、まじまじと観察してしまいます。
悪い癖かもしれません。
人間は往々にして、強い言葉で語るときは何かを隠したいもの。口汚い言葉でこちらを罵る方は、もしかして、ストレスでも隠していませんか。

「人間は往々にして、強い言葉で語るときは何かを隠したいもの。口汚い言葉でこちらを罵る方は、もしかして、ストレスでも隠していませんか」
正直言って、これもブーメランに見えてしまいます。
なぜかと言えば武者さん、自分で大河叩きをする時は、かなり「口ぎたない言葉」(私は伝法な言葉だと書いていますが)を使っています。しかしそれが自分に向けられると
「もしかして、ストレスでも隠していませんか」
となるのですね。

かなり後の方ですが、こういう記述があります。
「ドラマを話の枕として、気取った顔でうんちくを語る大人がいたら、軽蔑が顔に出る。
そのうえで大人が語ったミスを訂正し、根性の悪いクソガキだと嫌われたことでしょう。
『ねえ先生、どうして大人って、あんな嘘くせーバカドラマを褒めんの? 馬なんてどう見たって偽物じゃね?』」
「根性の悪いクソガキ」
「嘘くせーバカドラマ」
どう見ても「きれいな言葉」には見えませんね。

それにNHKに問いたい。
そういう人物に迎合することはリスクでしかありません。
事件が先日ありましたね。ミソジニーにまみれてニヤニヤしている大河ドラマを、看板番組を流しているテレビ局です。こういう恥晒しは起こるべくして起きたのでしょう。
◆取材メモ流出 NHKが協力者に謝罪 「匿名情報公表で放送中止」(→link)
◆NHKがColaboに謝罪 取材メモが批判する人物に流出していた(→link)

「そういう人物に迎合することはリスクでしかない」
何をもってそう言い切れるのでしょうか。日本は法治国家であり、個人の感情だけでリスクか否かを決めるものではないでしょう。
「ミソジニーにまみれてニヤニヤしている大河ドラマ」も、武者さん個人がそう考えているだけだと思います。『青天を衝け』もそうでしたが、否定する時は必ずミソジニー(それが事実であるかどうかはともかく)という表現を使いますね。
そして、これと大河と直接関係はないかと思いますし、のNHKは『麒麟がくる』も『大奥』も制作しているのですが。

『麒麟がくる』みたいな作品を、偽善だと切り捨てたいのであれば、それこそ『首』のような描き方がある。
あの映画ほどの残虐描写を大河ドラマで描くことは厳しいとはいえ、やりようはあるでしょう。
しかし『どうする家康』はせせこましい。
最終回まで、結局悪の尻拭いは秀忠に押し付けたようなもの。
家康はネチネチグチグチと、自分だって辛いんだもんと繰り返すばかり。自主的にできる悪事はせいぜい蒸し風呂で女に手を出すあたりが関の山。
人の痛みに鈍感なのに、自分が辛いことがあるとしつこく愚痴る。嫌なことがあるとすぐ逃避しようとする。

貴方に取って、自分が認める戦国時代が舞台の映像作品は、『麒麟がくる』と『首』しかないのですか?
そして、「悪の尻拭い」て一体何ですか。
秀頼に死を申し付けるというのは、秀忠自身が自分の責任に於いてそうしたのであり、家康から尻拭いを要請されたわけではありませんが。

「自主的にできる悪事はせいぜい蒸し風呂で女に手を出すあたりが関の山」
家康はその気はなかったのに、お万が積極的であったとここで再度書いておきます。そしてこの2人の間の息子は、最初羽柴家、そして結城家の養子となり、越前松平家の祖となっています。

「人の痛みに鈍感なのに、自分が辛いことがあるとしつこく愚痴る」
寧ろその逆でしょう。自分が今までやって来たことは人殺しだと、瀬名と信康に話していましたよね。そして悪いけど、これもブーメランに見えます。

あとまた『パリピ孔明』。

『パリピ孔明』のオーナー小林がそう語っていました。
このドラマは、やたらと絶賛も多い。
SNSのハッシュタグで検索すうと、大仰な絶賛ばかりだとか。
しかし、それは結局のところ玉璽だ。

「すうと」は「すると」でしょうが、そしてあまりこの話を蒸し返すのも何ですが、この番組の平均世帯視聴率は4パーセント台でした。無論これを面白いと観ていた人もいるわけで、視聴率が作品の質を表すものかどうかは何とも言えません。
ただ、『どうする家康』では世帯視聴率ワースト2位だと何かにつけて言いたがる武者さんが、これについては何も言わないのですね。

そして風間俊介さんが、今年をもってジャニーズ事務所を退所し、フリーで活躍する旨が書かれています。他に生田斗真さん、岡田准一さんについても書かれています。それはいいでしょう。
しかし

沈む船から降りた生田斗真さん、岡田准一さん、そして風間俊介さん。
大河でまた見たい俳優がケジメをつけたことは、私にとって朗報です。
これからもどうかご活躍ください。大河にもまた戻ってきてください。

貴方、『どうする家康』で岡田さんが演じた信長のことを何と書いていましたか?

それに比べて本作はどうでしょう……。
あまりに「テレビ業界が考えるベタな信長」ではありませんか?
不良漫画に出てきそうな信長と申しましょうか。
真っ赤っ赤。
いかにも昭和から平成前期にあったヤンキー信長像で、セリフも中二病というスラングそのまんまでした。

本作は、信長が五徳の頬を掴む場面を「めっちゃかっこいい! これぞイマドキ!」と思っているようで、今週も回想シーンを入れて来ました。
全大河ドラマを振り返っても、これほどまで暴力的な場面を宣伝素材にするケースは、そうそうないでしょう。
ニュースにも使われていることから、自信たっぷりに宣伝素材を用意したんですね。

マザーセナのおかげで信長は天下を狙えたのだから、その恩を我々に返さなければならない。
信長という大名が恵みを受けて大きくなれたのは、マザーセナが祝福したから。
マザーセナの祝福を受けた者は 必ず恵みを返さなければならない。恵みを施さなければならない!
信長は“慈愛の国”をどうするつもりなのか? マザーセナを追い詰めたじゃないか! 信長の政治はどうなると思う?
滅びるしかないだろう。光秀に教育を受けにこいと伝えろ。わかったか?

以上のようなことを書いていますが。
そして、これに関して何か釈明されたわけでもないようです。

夫(そ)れ兵の形は水に象(かたど)る。『孫子』
兵士は水のように変化する。
このドラマは教養が嫌いです。

あの
「それ兵の形は水に象(かたど)る」ですが、これはやはりその後の
「水の形は高きを避けて低きにおもむく。兵の形は実を避けて虚を撃つ」まで紹介できませんか?水が高所から低い場所に向かって流れるように、兵は状況に応じて、相手の隙を突くことが大事だと言っているわけですから。
そして「このドラマは教養が嫌いです」などともありますが、武者さんのこの漢籍紹介ももうちょっと充実させてほしいものです。

そして

「このドラマを見れば徳川家康の生涯を学べるんだ! だってえらい先生もそう言ってたもんw」
こう主張できるよう、兵士の心が流れる仕組みが作られてゆきます。

上記の漢籍、兵士の「心」ではなく、隊列とか陣形を変えるという意味ではないのでしょうか?

◆ NHK大河に歴史学者が大満足のワケ…最新研究でわかった家康の生涯と江戸期に作られた家康像の決定的ちがい(→link)
この記事なんてまさしく典型的で、聞き手は歴史好きという演出まで為されています。
◆『どうする家康』ついに最終回…最新の研究成果はどこまで生かされたか 時代考証に聞く<上>(→link)
◆『どうする家康』ついに最終回…最新の研究成果はどこまで生かされたか 時代考証に聞く<下>(→link)

まず最初の記事(プレジデント・ウーマン)ですが、著者の黒田基樹氏は『真田丸』の考証をしていた方だと思います。武者さん、『真田丸』の考証は褒めていなかったでしょうか。
そしてあとの2つの記事、読売新聞の記事ですが、こちらは柴裕之氏の考証とドラマのかかわりについての記事で、読んでいて面白いと思いました。

それにしても、一体どういうことなのかと混乱してきます。
例えば、関ヶ原での小早川秀秋への「問鉄砲」は後世の創作なので却下とあります。
それなのに、それを前倒ししてスライドさせた、姉川でも信長から家康への問鉄砲はよいと。
何が駄目で、何がよいのか?

姉川の戦いの問鉄砲は創作ですね。
家康をその気にさせるためのものでした。しかし小早川秀秋の「問鉄砲」は、長らく史実だと信じられてきていたものが、そうでなくなったから外したと思われます。これも『功名が辻』辺りまでは使われていました。
逆に関ケ原での描写ができなくなったため、姉川の戦いにああやって創作として入れたとも取れます。

そしてまた光秀の描き方がなってないだの、清須城が紫禁城のようだの。
光秀については、またも『麒麟がくる』が出てきます。

一体どれだけ、あの優等生が嫌いなのか。宣教師は光秀を貶しているのだから、こちらの方がむしろ近いという。
それはどうでしょう。このドラマの光秀は、下劣で、愚かで、小狡く、死者への敬意すらない。
(中略)
優等生ぶっていて実は狡猾な光秀像であれば、『首』なら理解できます。
あの西島秀俊さんの光秀は折目正しい人格者でありながら、残虐行為を働く。そんな二面性のある人物でした。
それに宣教師の言うことは、異教徒への悪意や偏見があるから、全て受け止められるかどうか、史料批判も必要に思えます。

そしてまた『麒麟』に『首』。
ここは『どうする家康』について書くコラムのはずですが、他作品を持ち出す回数が多すぎです。
要は『麒麟がくる』の光秀は自分の理想、『どうする家康』は駄作だから光秀も小物、こう言いたいのでしょうか。そしてまた『首』だと褒めるのですね。わかりやすいと言えばそうですが、作品による違いを見ていないなと思います。

そもそも最新の説をつまみ食いしたところで、城が異国情緒たっぷりではどうしようもありません。
映像作品でそこを間違えてどうするのでしょう。このトンデモ城については「威圧感の表現だ!」だのなんだの擁護もありましたが、結局間違いであることが上記の記事にも記されまいた。

「最新の説をつまみ食い」
また「森乱」でしょうか。つまみ食いではありませんけどね。
あと清須城、以前にご紹介しましたし、これはたけたけさんと平原学氏、それぞれのnote記事でも紹介されています。信長が城主だった当時はこのような形ですね(Jyo-saiサイトより)。

清須城守護館キャプチャ

で、当該記事中で柴裕之氏は
「言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、時代考証の仕事は基本的に台本を作り上げるまでで、映像にするところは関与していないんです。『家康は壮大さに驚いた』という台本の文字から、紫禁城のような映像を思い浮かべることはできません。だからこそ、制作陣と意見をぶつけ合って、文字と映像にずれが生じないようにする努力が欠かせません。清須城の件で、それが足りなかったのは反省点です」
とコメントしていますが、私は、あれはあれで面白かったかとは思います。実際入って行くシーンを見ると、それほどに距離はありませんでしたし。

あるインスタント食品の広告が、あまりにくだらなくてむしろ買う気が失せたことがあります。こんな調子でした。
あの和食の達人が褒めた!
あのイタリアンのシェフも絶賛!
伝説の中華の鉄人までもが降参!
何がどう美味しいのかさっぱりわからない。
しかし、広告としてはこれが通じてしまう。肩書きの偉い人が何か言うと、信じたくなる方向へと心理は誘導されます。
軍事心理学の古典である『孫子』は、まさにそうした現象を「兵形水象」と表しました。

「偉い人が言うことになびく」ことがそれでしょうか。
上の方でもこれについて書いていますが、柔軟な思考がないと、戦に勝てないというのが元々の意味ではありませんか?そして武者さんも自分が好きな対象であると、それになびくように思われます。

インターネットの普及は、こうした心理を加速させます。
みんなが好きなものはともかく褒めよう、取り入ろう。否定する奴はめんどくせー。嘲笑ってやる。
そんな、ことなかれの冷笑主義をこじらせた結果、先回りして忖度する。
批判者をクズだと貶める瞬間はとても楽しい。ハッピーなことしかありません。

では、『麒麟がくる』や『鎌倉殿の13人』にも同じことが言えると考えていいのでしょうか。
つまりこの2つを否定する奴は面倒臭い、嘲笑ってやると、この2作品を支持する人たちのすべてが思っていたのでしょうか。

今年、私は、深刻な「武士成分不足」に陥りました。
何を言っているのかわかりませんよね。自分自身、正直驚いています。
何が起きたか。浮世絵のジャンルである武者絵を定期的に見なければ精神的に安定しなくなりました。
あの構図。色。真剣なまなざし。命をかけた戦いぶり。
そういうものがどれだけ好きなのか、武者絵を見て再確認する作業が必須となっていったのです。
大河を見れば、武士は目に入る。それが今年は欠けていたのでしょう。

浮世絵を見るのも武者さんの勝手ですが、今年の大河に「武士」はちゃんといましたし、命をかけて戦ってもいました。ただ武者さんが思い描く
「戦のシーンで馬を走らせる」
「弱い部分を見せない」
といった、いわば定番としての武士とは違っていたわけで、逆に、その違いを見て取る必要があったかと思われます。

そして江戸時代から明治にかけての武者絵というのは、当然ながら戦国期のものではないわけですが、武者さんはつまり後世の想像が入っていてもいいから、自分が納得する武者像を見たいということのようです。何か、目の前の現実とか一次史料より、自分の理想を優先させたいという見方がそこに感じ取れます。

2023年末と言うのは、象徴的な出来事があります。
長いこと権力の座についたものは腐敗する。
悪だとわかっていようが、利益で釣られて加担するものはいる。
半世紀以上の年月を経た大河は、残念ながらそうした薄汚れたコンテンツになりました。
『どうする家康』を曖昧な、キラキラワードで褒めるということは、悪に加担することではないでしょうか?

なぜキラキラワードで褒めるのが悪に加担するのでしょうか。
そもそもこのキラキラワードとは、具体的にどのような言葉であり表現なのでしょうか。
そして
「長いこと権力の座についたものは腐敗する」
という表現ですが、
「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」
では?

『どうする家康』は何かの未来を確実に潰したと思います。それが何かは、もう少し様子を見てから言えることなのかもしれません。
先ほど、人間とは偉い肩書きの先生が言うことを信じると書きました。
残念ながら日本では泥舟とわかっていても『どうする家康』を褒める忖度の空気が漂っています。
それはなぜか?
結局はお金ではありませんか。どうしたって戦国時代は金になる定番コンテンツですからね。そこに群がれば甘い汁は吸える。
戦国時代をモチーフにしたキラーコンテンツを作れば、金が回るシステムはあるとみてよいのでしょう。

どの大河でも、イベントなりグッズ販売などでお金が回るとは思いますし、それがその地域の活性化につながっているとは思います。昨年の『鎌倉殿の13人』だってご当地グッズはありました。なぜか武者さんは、それ(特に義時の名がついたアイテム)を貶めるようなことを言ってはいましたが。

そして
「人間とは偉い肩書きの先生が言うことを信じると書きました」
偉い肩書というか、
「立派な肩書を持つ第一人者」
とでも言いたいのでしょうか。別に立派な肩書と言うより、その人がどのような研究をしているかにはよりますし、また大河の場合、考証を担当している人がなぜそうしたのかを知る上では、その人の記事やコメント、SNS投稿は注目するべきではあるでしょう。

私は驚いたことがあります。こんな言葉がネットにあった。
「大河ドラマの記事を書いて金を儲けているくせに、批判するとは何事だ!」
一体なんなのでしょう。批評家の存在意義すら理解できないのか。

武者さんが自分が好きな大河にも批判をきちんとしており、嫌いな大河でも見るべき部分を指摘しているのであれば、それは納得できます。ただ今まで、そのような例が今までどのくらいあったでしょうか。

日本史ではない、歴史研究者のオンライン講義でのことです。
大河ドラマの話題が出ました。その先生は明らかに苦々しい、苛立った口調で話していました。
そして中国で教鞭をとる日本史研究者と、そのフォロワーでのやり取りにこんな内容がありました。
「講義で大河ドラマを教材に使おうかと思っています」
「えー、でも、『どうする家康』を使ったらむしろ学生の知識が落ちますよ」
「むろん、まともな大河ドラマだけを使います!」
忖度がない意見ならば、こうなるわけですね。
海外の日本史ファンは相当冷たい目でこの駄作を眺めています。

ではそのオンライン講義のテーマと、研究者の名前を挙げてください。
それから、海外の日本史ファンの意見も、スクショか何か取れないのでしょうか。それがないと、ただ武者さんがそう言いたいから言っているだけに過ぎません。

それはそうでしょう。当たり前です。国内でコタツ提灯記事をビカビカ光らせたところで、何の意味もない。
私はそんな意味のないことに加担したくありません。今だけではなく、一手先、二手先を見てゆけば、こんなものを褒めれば後悔すると予測できます。

それは貴方の好きな大河でも同じようなものですよ。いくら武者さんが好きでほめそやす大河の関連記事でも、それを提灯だと言っている人もまたいたでしょう。

私はそんなことには加担できない。そんな恥ずかしいことだけは御免です。
こんな大河は忘れましょう……

忘れましょうと言いつつ、

色々とまとめることはあるので、後日、あらためて記事を出させていただきます。

貴方どっちなんですか。忘れるならとっとと忘れてください、このコラムだけでも6ページも使って、結局いつもの繰り言と、ゴシップを並べているに他ならないのではないでしょうか。
そしてこれよりもう少し前で

群れるというのは、そんなに楽しいことなのでしょうか?
どうにもわからない。私はこれまでも、これからも、“ぼっちクソレビュアー”で結構です。

武者さんが「ぼっちクソレビュアー」だろうが、別に私は共感や同情はしません。一方で群れるということを否定していながら、何かにつけて自分の主張を押し通し、同調者を求めるような姿勢が見えるかとは思います。

この大河から学べるものは多かったと思います。しかしこのコラムでは、嫌いな大河への対応としてありがちな、のっけからの叩きまくり、すべてを否定する姿勢が、『青天を衝け』に続いて、また繰り返されましたね。

あと平原学氏のnote記事が久々に更新されています。

【どうする家康】ラストの東京タワーの意味。最終回でも輝いた松潤の演技のスゴみとは。最終回「神の君へ」雑感

第45回の氏真の「本当のおぬしに戻れる日もきっと来る」、現代人への問題提起としての現代の日本の姿、そして「ドラマを楽しんでいた者も『反省会勢』も、両者が反省すべきこととは。『乱世の亡霊』に憑りつかれるな」等々書かれています。



飲み物-ポーターとクルミ
[ 2023/12/24 00:30 ] 大河ドラマ どうする家康 | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

TopNTagCloud