参議の職を辞して鹿児島へ戻った隆盛ですが、彼の後を追って陸軍や御親兵、さらに警保寮(警察)にいた士族たちが戻ってしまいます。政府を立て直してくれと頼む彼らを隆盛は一喝しますが、同じように下野した江藤新平が佐賀の乱を起こします。
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隆盛は鹿児島へ戻り、悠々自適の日々を過ごしていた。狩りや漢詩を楽しみ、その様子を見た糸は、旦那様は鹿児島に帰って、身も心も軽くなったと口にする。雪篷は、あの漢詩を読めるのかと驚く。その詩には
「都で名利を求めたために、三年もの間清々しい松風の音を聞くことができなかった」
という、彼の心境が綴られていた。しかし陸軍や近衛兵の薩摩出身者が、皆帰郷して来てしまう。従道から皆を連れ戻せといわれた小兵衛も、彼らを追いかけて結局実家へと戻って来てしまった。隆盛は今からでも東京に戻れと叱る。しかし彼らはその反対に、先生こそ東京に戻ってくれと言うのである。要は大久保利通の下では働けない、政府を正してくれと言うのだが、隆盛は、2度とここへ来るなと彼らをつき離す。
一方で鹿児島県庁では、このことで県令の大山綱良が頭を抱えていた。その大山の話を聞いていた海江田武次は
「一蔵の慌てちょっ顔が目に浮かぶようじゃのう」
と愉快がる。しかし警保寮にいた300人も帰郷することになり、合わせて600人の薩摩士族が職を失うことになった。鹿児島ではろくに食い扶持もなく、日々不満を募らせるようになれば、どのようなことになるかは明白だった。西郷家には、彼ら東京を去った士族たちが日々訪れるようになり、隆盛は留守がちになって行った。それに業を煮やした士族たちは「逃げんでくいやい」と言うが、そこへ出て来た糸は彼らを相手に、今度はあなた方が立つ番だときっぱり言う。一同は決まり悪そうに西郷家を去って行った。
東京では洋行帰りの村田新八と川路利良とが、従道に案内されて内務省を訪れていた。従道は2人に薩摩に帰ることはないだろうと念を押し、さらにこうも言った。
「せっかく欧米で学んだことを無駄にせんでくいやんせ」
そして3人は内務卿の大久保利通に面会し、村田と川路は警保寮の立て直しを命じられる。村田は利通に隆盛が政府を去った理由を訪ねるが、利通は、自分の役目は終わったと言って去った、それだけじゃと答える。2人とも隆盛に引き立てられただけに、どこかすっきりしないものを感じていた。しかし川路は言った。
「こん川路利良、私情は捨て、あくまで警察に献身いたしとう存じもす」
その時、岩倉具視が襲われたという知らせが飛び込んで来た。岩倉を襲撃したのは土佐の士族だった。伊藤博文は江藤が反乱を起こす可能性があると話し、木戸孝允は他にも反乱の火の手、特に薩摩にもそれが上がることを示唆するが、利通はそれを否定する。
その頃隆盛は、熊吉と湯治に来ていた。糸が桐野たちを追い返したことを熊吉は話し、隆盛は、600人まとめて東京へ戻ればいいが、そういうわけにも行くまいと言う。熊吉は、若さあはこうしている間もそのことを考えていると指摘する。その隆盛は自分は百姓として終わりたいと言い、また、一蔵が作る日本を早く見たいとも言った。しかしその一方で士族たちは暴徒化し、大久保家に石を投げこむなどの狼藉を働くようになった。その石を包んだ紙には「奸賊」「国家ノ大敵」などと書かれていた。利通の妻満寿はそれを隆盛と糸に見せ、隆盛は自分の気配り不足を詫びる。満寿は実は上京するように文を貰っていたのだが、大久保家の墓を守ること、そして妾がいることなどから、東京行きを渋っていたのだった。しかしその後、満寿は子供たちを連れて東京へ向かった。
明治7(1874)年2月15日、江藤新平は6000人の軍を率い政府軍のいる佐賀城を攻撃した。これは鹿児島にも届き、鬱屈した士族たちが佐賀へ走る心配も出て来た。そしてある夜、西郷家の門を叩く者がいた。それは江藤だった。劣勢に回って落ち武者同然の江藤と同志たちは、隆盛に兵を挙げさせ、政府を取り戻すよう勧めるが、隆盛が考えているのは、鹿児島から如何に政府を支えるかということであり、江藤の言うことは私情であると諭す。
「西郷隆盛には失望した」
江藤はその後捕縛され、佐賀で利通により斬首、さらし首の刑となった。裁判らしい裁判もなく、即日執行されたことで、木戸は利通を批判する。しかし利通はこう言うのみだった。
「2度とこのようなことを起こさぬため、江藤さんの最後のお役目でございます」
利通が帰宅すると、満寿と子供たちのために建てた新居からおゆうが出て来た。満寿はおゆうに礼を述べ、今後のことを取り決めたのである。そして子供たちは、利通の靴を脱がそうと懸命になっていた。そんな利通を満寿は久しぶりに眺めていた。鹿児島では雪篷が隆盛に、新聞の佐賀の乱の記事を見せた。政府の見せしめである処刑が、薩摩士族に取っては火に油を注ぐ結果となり、皆空き家となった大久保家を狙撃するようになっていた。隆盛はそんな彼らを鎮めるべく、士族の学校を作るため、県令室を訪ねて大山に金を出してくれるように頼むが、そこで村田と会う。村田は洋行して外国の繁栄を見て来たが、どこか暗さがあるのに気づき、それが利通の理想と知って、利通と袂を分かって戻って来たのだった。
村田は西郷家でバンドネオンを演奏して歌い、オペラのことも話して聞かせる。そこへ桐野と別府晋介が現れた。やはり隆盛に政府を変えてほしいという彼らに、隆盛は、学校の手伝いをしてくれと頼む。政府のことは一蔵どんに任せたと言うが、桐野はあの江藤を処刑した大久保利通かと気色ばむ。そんな桐野に隆盛は言う。
「半次郎、前を向いて進め」
「おはんらが若い者の先に立たんでどげんすっとじゃ」
村田が桐野を説得し、桐野はそのまま立ち去る。そしてその年の7月、兵法や学問を教えるための、私学校と呼ばれる学校が出来た。そこへ市来宗介と成長した菊次郎が帰国する。
しかし士族の中でも桐野は姿を現そうとしなかった。働く場も給金もあるのに、贅沢な奴じゃと大山は隆盛にこぼす。その頃桐野は、大久保家で酒を酌み交わしている士族たちが、隆盛を悪く言うのをこらえきれなかった。やがてその後、帽子に着物をからげた妙な男が私学校にやって来て、学生たちを相手に剣を交え、さらに鉄砲を一刀両断して、砲弾や銃弾の要らない刀こそ最高の武器と一席ぶつ。それは桐野だった。その頃東京では、西国の不平士族のことを川路が利通に報告していた。鹿児島で私学校が出来たことも知らせる。利通は密偵の数を増やすように命じ、一人になった後、天を仰いでいった、
「流石、吉之助さあじゃ…」
しかし後にこのことが、西南戦争の引き金となる。
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士族の反乱が登場します。初の大規模な乱となったこの佐賀の乱が、後の不平士族の乱の引き金になったのは否定できません。他にも熊本、福岡、山口で不穏な動きがあると川路が言いますが、後に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱となります。木戸孝允は薩摩に言及する前に、萩の乱を心配しておくべきだったかと思うのですが…。これで玉木文之進(吉田松陰の叔父)が切腹することになります。後の総理大臣、田中義一もこれに参加した1人でした。しかし利通が密偵を増やす必要があると述べたことで、既に相当数のスパイが放たれていたと見るべきでしょう。
そして私学校ですが、要は郷中教育を学校というシステムにはめ込んだような感じです。大山さんも10円禿が出来ていたとは、県令も何かと苦労が多いようです。フランス語指導とありましたが、あのフランス語の授業と村田新八の歌の指導のようです。村田が演奏しているのはバンドネオンでしょう。オペラの話関連で、ル・ペルティエが出て来ますが、この当時有名なオペラ劇場でした。但しこの頃焼失してしまい、その後メインの劇場はガルニエ宮、さらにオペラ・バスティーユに移ることになります。しかし変な野盗紛いの男が飛び込んで来たと思ったら、桐野利秋だったのですね。彼の刀至上主義も、廃刀令により終わりを告げることになります。
さらにおゆうが言っていた「1と6がつく日」、あれは政府の休日ですね。これは江戸時代からの習慣で、1日、6日、11日、16日、21日そして26日は休みの日であり、稽古ごとを行う日でもありました。但し31日は除きます。この制度もその後日曜休日が定められ、姿を消すことになります。利通は土曜日の夜は、高輪の家で家族と共に過ごしたといわれていますが、恐らく日曜が休日となった後のことなのでしょう。また子供たちが靴を脱がせようとして、ひっくり返るエピソードもここで登場です。
隆盛が桐野に言って聞かせる言葉、あれは正に、その桐野に糸が言って聞かせた言葉とダブります。多くの士族が、隆盛を追って鹿児島に戻って来るのとは対照的に、川路利良は「私情を捨てて」東京に残ることになります。この回ではもう1度「私情」という言葉が出て来ます。敗残兵同様になった江藤新平に、隆盛がかける言葉ですが、恐らく隆盛はこの「私情」によって、道を踏み誤りかねないことを知っていたのでしょう。鹿児島に戻って来た士族を一喝したのもそのためと思われますが、しかし彼を慕う士族はあまりにも多すぎました。
ところで利通の机のそばから、何か湯気が出ていると思ったら、火鉢にかけた鉄瓶でした。この当時そう暖房もない以上、火鉢はやはり必需品だったのです。ところで隆盛が熊吉と行った温泉、これは「鰻温泉」というらしい。この大河に鰻がよく登場するのと関係あるのでしょうか。そして熊吉にしてみれば、隆盛はいくつになっても「若さあ」、永遠の若さあといえるのかもしれません。しかし本人も、隠居生活を楽しみたかったでしょうに…糸もそれを感じ取って、漢詩の意味はわからぬまでも、夫の心情を察していたはずなのですが。