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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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西郷どん第47回感想続き-時代の変化と大河、そして後に残った人々

まずはこちらの2つの記事についてです。

最終回「西郷どん」暗殺された大久保のとこに「忘れもんをした」と死んだ西郷が戻って来たのかと思った 
(exciteニュース)

NHK放送総局長 終了の「西郷どん」に「素晴らしいドラマを作ってくれた」
(スポニチ)

最初のexciteニュース。このライター氏には、実はあまり共感したことはなかったのですが、『西郷どん』の一部の記事は同意できました。近代物を描くには、それでなくても考証などが難しいのに、記事中にあるようなポリティカル・コレクトネス、所謂ポリコレもあって、主人公の思想を強く出すのが難しくなっているのは確かでしょう。文中にあるような「その(ポリコレの)波に飲まれた悲劇の大河ドラマ」という印象はありませんでしたが、以前の幕末大河に比べると制作面での制約も多かったかと思われます。特にNHKはかなり自主規制しているようにも見えますし、それが女性主人公の幕末大河が制作された一因でもあるでしょう。

そういう中で西郷隆盛を描くとすれば、最初から大いなる思想を持ったリーダー的存在というよりも、自らも下級武士出身であり、庶民の味方としての主人公が、時代の変化に伴ってリーダー的存在に押し上げられて行く、その成長過程という形を取らざるを得なかったのかもしれません。記事中のこの部分に、それが表れているかと思います。
戦国ものならまだしも、幕末ものはまだ記憶が生々しい。戦ったあちらとこちらのどちらの視点で描くか、悩ましい。結果、西郷隆盛は、清濁併せ呑む、聖人のように、といって天の人ではなく、あくまで地に足をつけ、庶民のために行動した人として描かれた。鈴木亮平は、このスーパーヒーローではない西郷隆盛を立派に演じきった
この記事の最後に、来年の大河についても触れられています。来年は明治後期からのドラマであり、より今の時代に近づいているため、スポーツプロパーで、史実ベースのフィクションとして描かないと、さらに描きくいというのもあるでしょう。近代物だと、様々な面で現代につながる描写、それも史実ベースでと期待する声もあるかもしれません。しかし、それは結構難しいと思います。左右どちらからもクレームが来る可能性が高そうです。

そしてその次の、木田総局長によるコメントです。NHK関係者としてのコメントですが、私としては特にこれに対して異存はありません。とりわけ
時代が変われば、大河ドラマで一度取り上げたことある素材でも全然違う
にはかなり同意できます。前出の制作面での制約や、ヴィンテージ物の大河を、今そのままでは作れない点にも関連しています。木田氏のコメントにある視点の新しさ、あるいは視点を変えなければならない部分というのはどうしても出て来るでしょう。以前同じような薩摩大河でも、『翔ぶが如く』とこの『西郷どん』は別物だし、描かれ方も違うから比較は難しいといったことを書いたことがあります。

主人公が共通する以上、似たようなシーンも登場しますし、それがしばしば比較対象になることはあります。ただコンセプトは全然違うわけですから、どちらがいい悪いとはなりにくいでしょう。無論『翔ぶが如く』そのものも面白いのは事実ですが。あと主人公が男性か女性かでも描かれ方は違いますが、これについてはまた改めて。なお視聴率ですが、東京13.8パーセント、大阪15.8パーセント、鹿児島では30パーセント超えで、北部九州では18パーセント(373news.comより)となっていました。この数字で見る限り、やはり西へ行くほど視聴率が上がっています。『軍師官兵衛』も、北部九州で25パーセント近くあったようですから、地元、準地元の数字はやはり高いと見るべきでしょう。

第47回では、単に西南戦争だけではなく、後に残された人々の表情も色々登場しました。西郷家の人々は言うまでもありませんが、最後まで登場した国父様こと島津久光、亡兄斉彬の写真のそばで、碁石を片付け始めたのは、この戦いの正に「終局」を予感したからでしょうか。そしてヒー様こと徳川慶喜、なぜ俺みたいに逃げなかったと言うものの、隆盛は敢えて逃げなかったといえます。その慶喜を一喝した勝海舟は龍馬とよろしくやってくれと言いますが、龍馬もさることながら、彼のパートナーといえば、やはり大久保利通ではあるでしょう。それと全体的に鰻が多く出て来る大河でしたが、当時はやはり獣肉よりも、簡単に手に入る蛋白源ではあったと思われます。だから寺田屋事件の前に、鰻を取って食べたというのは、可能性としてはあったかもしれません。

なお『西郷どん』の総集編の放送ですが、

12月30日(総合テレビ)
〈第一章〉薩摩 午後1:05~2:05
〈第二章〉再生 午後2:05~2:55
〈第三章〉革命 午後3:05~4:25
〈第四章〉天命 午後4:25~5:35

1月2日(BSプレミアム)
午前8時から4本続けて放送

このようになっています。
(公式サイトより)

飲み物-コーヒーとキャンドル
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[ 2018/12/26 00:45 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第47回「敬天愛人」その3

第47回その3です。ついに総攻撃が始まり、隆盛はじめ多くの士族がその中で散ります。糸はその後家族に、隆盛の言葉を伝えます。そしてその翌年、大久保利通は、不平士族によって絶命します。

************************

政府軍の総攻撃が始まり、西郷軍も反撃に出るべく私物を火にくべてしまう。ここで村田新八の腹が鳴ってしまう。隆盛は言う。
「甲突川に鰻でん取りに行きたかどん、もう時がなか。残念じゃ」
一同は笑い、その後隆盛はおはんらが侍の最後を務めるんじゃと言って号令をかけた。
「チェスト~!気張れー!」
しかし政府軍の最新式兵器の前に兵は倒れ、桂久武も弓で政府軍の軍人を仕留めたものの、銃弾を浴びて戦死する。そして桐野利秋は、政府軍に加わっていた川路利良に頭を撃たれて落命し、村田新八も自決した。

その砲声を隆盛の家族たちも、島津久光と海江田孝次も聞いていた。従道は、東京へ帰ることにした。辺見も銃弾を受けて死亡、隆盛は右脚を撃たれるも、鬼神の如き表情で政府軍に立ち向かう。その時、彼の腹部を弾がかすめた。
そして糸は、屋敷内の祠に一礼し、おやっとさあでございもしたと声をかける。その時犬の鳴き声がした。ツンとゴジャが戻って来たのである。糸はことの次第を悟ったようだった。そして家に戻った大久保利通は、戦が終わったと満寿に伝えた。満寿は吉之助さあはと問いかけ、利通は帽子と鞄を取り落として泣き叫ぶ。
「吉之助さぁ~!!」
再び明治37(1904)年、菊次郎は「父は天を敬い、人を愛しました」と話していた。さらに己の身を捨ててでも人を愛したからこそ、これほどまでに人から愛されたのだと思いますと話した。

隆盛の死は方々に知れ渡った。徳川慶喜の邸では、ふきがそのことを伝えていた。皆を放っておけなかった、立派なお侍というふきに、慶喜はこう言った。
「俺みたいに逃げればよかったんだ、牛男」
そして巷では、錦絵により西郷星が評判になり、その星に手を合わせるといいことが起こると信じられていた。牛鍋屋の2階では、勝海舟がこうつぶやいていた。
「とうとう星になっちまったかい西郷どん、龍馬とよろしくやっててくんな」
この西郷星の正体は火星だった。奄美では愛加那が別れの唄を歌っていた。そして東京では、自分の屋敷を建てた従道が、鰻を食べながら涙していた。この屋敷は、兄たちを迎えるために建てたものだったのである。

西郷家は元の平穏を取り戻していた。そして菊次郎は熊吉の肩を借りて戻って来た。菊次郎の失われた右脚には義足がつけられていた。
「兄さぁ、もう杖はいらんとな」
寅太郎が声をかける。菊次郎は「見ちょけよ」と言い。義足の感触を確かめるように、ゆっくり歩いて見せた。その後糸は、隆盛が使っていた毛皮の敷物の上に「敬天愛人」の揮毫を広げ、家族に隆盛の言葉を言って聞かせる。自分の死で言いたいことも言えなくなってはならないこと、これからの国作りは家族たちに託されていること、逆賊の子であることを恥じることはないと話す糸。寅太郎は、父上は西郷星となって皆に拝まれているというが、糸は夫はそのようなことを喜ぶ人物ではなく、弱い物に寄り添って奔走し、心の熱い「ふっとか」お人であったと伝える。

翌明治11(1878)年5月14日、利通は内務省から赤坂の皇居へ向かおうとしていた。相変わらず減らず口を叩く岩倉具視は、新富座で団十郎が西郷を演じて大当たりらしい、見に行かないかと誘う。大久保はいずれと言い残し、馬車を走らながら、いつか懐中にしまっていたCangoxinaの紙を見つける。しかしその直後、不平士族らに馬車を止められてしまう。彼らは斬奸状を見せ、利通を引きずり出してめった突きにした。利通は抵抗するすべもなく、全身に傷を負っていたが、
「おいはまだ死ねんど、やらねばばらんこっがある…」
こう言って、例の紙に手を伸ばしたが、既に立ち上がるだけの力はなくその場に倒れた。その時、吉之助の声が聞こえたような気がした。
「大久保正助を忘れて来た」
それは、かつて共に肥後へ向かった時の吉之助の声だった。

再び城山総攻撃の日。腹部に銃弾を受けた隆盛は、渾身の力を振り絞って起き上がろうとしたが、最早立つことはかなわなかった。地面に倒れたまま青空を仰いだ隆盛は、消え入るような声でこう叫んだ。
「もう…ここいらでよか…」
それが隆盛のいまわの言葉となった。

************************

まず「晋どん、ここいらでよか」がなかったのに驚いた人も多いかと思います。私も当初はそう考えていましたが、皆が武器を取って立ち上がった時に、その可能性は薄いなと感じました。そして隆盛が腹部を撃たれた時、これは今までとは違う方法で行くなと思いました。あのシーンを楽しみにしていた方には残念だったでしょうし、ああいう形での出撃があるのかとも思われますが、あれはあれでまた一つの描き方ではあるでしょうし、むしろ意図的にそれを描かなかったといえるでしょう。

そしてツンとゴジャが戻って来ることで、糸は何かを感じ取ったようです。それが彼女が家族に、隆盛のいわば遺言を伝える動機になったともいえます。そして大久保利通、満寿にどのようにして隆盛の死を伝えるかと思っていましたが、ああいう方法で来ましたか。無論自分が提案した降伏を受け入れなかったことから、多少の覚悟はしていたでしょうが、ある意味自分が隆盛を殺したようなものですから、かなりの責苦に苛まれていたかとは思われます。しかも自分は鹿児島に行かず、勧業博覧会に力を入れると言った、その同じ場所で隆盛の死を悲しむことになったわけです。

それから市川團十郎、この時は九代目の時代ですね。以前團菊爺・菊吉爺というのをご紹介したことがあります。要するに「昔はよかった、それに引き換え今のは」ということなのですが、この團菊の團がこの人物です。新富座に多く出ていたのは、正に岩倉が言った通りです。この人は歌舞伎の改革にも力を注ぎ、歌舞伎俳優の社会的地位を上げたことでも有名です。前の市川團十郎、今の海老蔵さんの亡くなられたお父様の三代前に当たります。

西郷星の後、ヒー様こと徳川慶喜(この時点では雰囲気こそ違えど、ヒー様に戻っている感があります)と勝海舟が登場します。しばらく登場していなかっただけに、やや唐突感がなくもなかったのですが、そこは関連人物故入れないわけには行かないでしょう。面白いのは、この2人が牛つながり(無論隆盛も「牛男」ですが)だということです。ヒー様は絵、勝海舟は牛鍋屋です。ちなみに松田翔太さんは1985年生まれ、遠藤憲一さんは1961年生まれでそれぞれ丑年ですが、これは何か関係があるのでしょうか。あと隆盛が鰻を取りに行きたいが時間がないと言うところ、従道が鰻を食べているところ、いずれも降伏を促す手紙が関係していそうです。

大久保利通を演じた瑛太さんの、公式サイト内「週刊西郷どん」のコメントにもありましたが、この人は本当に幸せだったのでしょうか。隆盛がある意味周囲から担がれたとはいえ、仲間と共に散って行ったのに比べると、思い残すこともあったでしょう。しかもかなり孤独な人物として描かれており、実際そうだったのかもしれません。だからこそ最後の方で、吉之助と呼ばれていた頃の隆盛が、出迎えに来るという設定になったと思われます。この大河では、死に方も共通したところがありますし、それで敢えて隆盛に自決させなかったとも取れます。ところでこのような事件の再発を防ぐため、その後要人には近衛兵が付くようになったそうです。今でいうSPです。

[ 2018/12/21 01:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第47回「敬天愛人」その2

では第47回その2です。城山は包囲され、大久保利通は西郷の助命と引き換えに降伏を迫ります。しかし隆盛は降伏せず、利通は落ち着かない気持ちでスピーチを始めますが…。

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政府軍が包囲を始めて9日が経ち、軍の陣営では総攻撃を望む声が強くなっていた。しかし山県は言った。
「今ここにおる者(もん)で、西郷さんの厚意にあずからんかった者がおるか」
「西郷さんが賊になり下がったと、心から思うておる者がおるか」
事はそう易しくないと、山県は厳しい表情を浮かべる。川路利良は、隆盛以下隊長たちの自裁を条件に降伏を呼びかけようとする。砲撃で死なせるのではなく、名誉の死をという山県の考えだった。その時、東京から大久保利通の電信が来た。それは、大久保利通からのものだった。従道はそれに目をやり、城山に連絡させる。

利通が伝えたのは、明日午前4時に総攻撃を仕掛けること、しかし午後5時までに降伏すれば、西郷は助けるということだった。その手紙を見た隆盛は、利通の手紙に甘いと漏らし、自分に情けをかければ、自分の首を絞めることになる。こげな情は受けられんと言う。西郷先生だけでも助かって、また新たに動きを起こしてくれという桐野達に隆盛は、自分が死ななければならない、そうすれば不平士族たちも別の行き先を見つけると言う。

利通は内国勧業博覧会に出席していて、海外の来賓に各県の出品を説明していた。しかしある県だけ出品がなかった。それは鹿児島だった。戦の件を切り出された利通は、
「大丈夫、もうすぐ戦は終わります。いや、日本から戦そのものがなくなります」
こう断言した。そして時計に目をやったところ、約束の5時まで30分ほどだった。しばらくして鹿児島からは、隆盛が降伏しなかった旨の電信が届く。その直後利通は演説を行わねばならず、最初の方こそうまく取り繕ったが、「侍が作った日本を…」と言いかけて言葉に詰まり、ついに気になっていた鹿児島県の札を外してしまう。鹿児島でも山県、従道が懐中時計を見ていて、5時になったのを見定めた。

城山で隆盛は、自分は死ぬ用意ができていることを伝え、またこれ以上の戦を防ぐためにも自分は死ぬべきだと話す。村田も、隆盛だけが生き残ることはないと信じていた。その夜最後の酒宴で、若いもんにはもう少し別の死に場所を見つけたかったと言うが、桐野はじめ一同は、桜島を観ながら死ねるのだから、これほど最適の死に場所はないと叫ぶ。また村田新八のフロックコートがあまりにも臭いと言う西郷だが、これは大事な物であると新八は言う。その裏には女性の写真が縫い込まれていた。その夜隆盛は例の脇差を前に、ようやく殿の言われた時代が来もすなと一人話しかける。そして翌朝、政府軍の攻撃が始まった。

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この降伏に関しては、実際は山県有朋の手紙によるものといわれていますが、今回は大久保利通が電信で伝え、それを書状にした物を渡しています。ただし話を切り出したのは、やはり山県となっています。山県も一旦は不祥事で役職から外されたものの、その後徴兵令の制定などで、隆盛はこの人物を呼び戻しています。そして、村上新悟さんのあの独特の声が、この軍議のシーンで生かされました。

しかし自分に情をかけてはいかんと、その要求を受け入れなかったことが、逆に利通に十字架を背負わせる原因となってしまいます。折あしく、内国勧業博覧会で演説を始める直前のことで、案の定途中で言葉につまり、しかも自分の視界に入って来る「鹿児島縣」の表示が目障りで仕方なかったようです。この書状の左の方に、「兄と甲突川で鰻を取り」といった文句が見えます。これは従道関連でしょうか。ところで再来年つながりになりますが、このシーン、『国盗り物語』の小説の方で、本能寺攻撃を前にした明智光秀が放心状態で、直前の連歌の会で粽を出された際、笹をむかずに口に入れていたという描写を思わせます。

ところで利通の手袋、ドレスグローブと呼ばれる物ですが、どうやらセーム革のようです。その一方でかなり汚れまくった村田新八のフロックコート、実は内側に、フランス人女性と思しき人物の写真が縫い付けられていました。何だか服の色にふさわしからぬ赤い糸で、しかも縫い目が粗いところを見ると、自分で縫い付けたのでしょう。それから先日書いていた『ラ・マルセイエーズ』を演奏するシーン、あの辺見十郎太が歌い出すシーンの作詞は、公式ツイッターによれば田上晃吉さんだそうです。

[ 2018/12/19 23:45 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第47回「敬天愛人」その1

今回は最終回で拡大版なので、前半と後半とに分けます。市長室の菊次郎が再び登場します。父が揮毫した「敬天愛人」の額を掛けさせた後、西南戦争敗走の顛末について話し始めます。

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明治37年京都。西郷菊次郎は「敬天愛人」の額を市長室の壁に掛けさせ、話を切り出した。新しい時代が大きな波となって押し寄せた時、その波に乗り切れない者が出て来ると言い、さらに、父西郷隆盛は御一新から取り残された侍たちを抱きしめ、飲み込み、連れ去りましたと続けた。
明治10(1877)年8月17日、西郷隆盛一行は延岡を発って、糸や菊次郎、熊吉を残して終焉の地鹿児島に向かった。菊次郎の言葉がかぶる。
「1日西郷に接すれば1日の愛が生じ、3日接すれば3日の愛が生じる。親愛の情は日々募り、最早去ることができない。ただただ生死をともにしたい」
隆盛に従ったある人物の言葉だった。その後陸軍卿山県有朋が、糸や菊次郎がいる病院を訪ね、どこへ行ったのかと尋ねるが、彼らは何も答えなかった。そこへ、やっと許可を得て駆けつけた陸軍卿代理の西郷従道が駆け付けた。

従道は菊次郎の脚が片方ないのに気づき、義姉の糸に頭を下げるが、糸は、政府の偉いお方がそのようなことをするものではないと諫める。すると山県へ連絡が入り、西郷一行は可愛岳(えのだけ)を経て小林、さらに南へ向かったという情報が入る。その南は鹿児島だった。西郷一行は城山へ登って桜島を眺める。隆盛は子供の頃、この場所でCangoxinaと書いた石を見つけて懐かしむ。鹿児島を政府軍から取り戻そうと、政府軍を相手に西郷軍は戦闘を開始した。最初は功を奏したが、やがて政府軍の兵器の前に手も足も出なくなり、城山の山中に退却するしか方法はなくなった。

大久保利通は、内国勧業博覧会の準備に勤しんでいた。その頃鹿児島の家が焼けたという連絡が入り、お前たちを呼んでいてよかったと言う。満寿は、鹿児島のお仲間の許へ行かなくていいのかと夫に尋ねるが、利通は妻を諭した。
「口が過ぎる」
その頃糸と菊次郎、熊吉も西郷家へ戻っていた。しかし宗介は隆盛と一緒であることを知った琴は、いますぐこの戦をやめろ、兄さぁを殺す気かと従道に詰め寄る。その琴を、菊次郎たちが無事に帰れたのは信吾のおかげじゃと川口雪篷がたしなめる。そして寅太郎は叔父に命乞いをするが、西郷家の恥じゃと糸は厳しく叱る。そして去って行く従道は、出て来た糸に、兄は城山にいると言うが、糸は既に覚悟を決めており、あなたも覚悟のうえで政府軍に留まることを選んだのだから、役目を果たせと伝えてこう言った。
「きっと旦那さぁもそう仰せらるに違いなか」

城山では村田新八が手風琴で『我らの山へ』を弾いていた。しかし調べが悲しいため、隆盛はもっと賑やかなやつを聞きたいと言い、村田は帽子に投げ銭をと言って、『ラ・マルセイエーズ』を弾き始めた。一同はそれに合わせて踊り、隆盛までもが踊りの輪に加わる。村田の帽子には、軍票(西郷札)が次々と投げ込まれた。その頃利通は引き出しのペーパーナイフを取り出そうとして、ある袋を見つけた。それはかつて隆盛から貰った、Cangoxinaの紙が折りたたまれて入っていう袋だった。子供時代の思い出が利通の脳裏に蘇り、隆盛のこの言葉が響いた。
「世界に負けん日本国をつくってくいやい」

その頃鹿児島の政府軍陣営では、城山総攻撃について議論されていた。

************************

西郷軍は延岡から山越えをして、ようやく鹿児島までたどり着きます。小林市まで来ると霧島連山が見えてくるので、隆盛たちは故郷に戻った気分になったでしょう。ところでこの回では、糸の存在感もかなり大きいです。

まず延岡の病院で、従道は菊次郎が右脚を切断したことを知り、西郷家の人々に頭を下げます。それを止めるのが糸です。さらに西郷家へ戻り、父の命乞いをする我が子寅太郎を糸が止めます。糸は隆盛の立場も、従道の立場も理解していました。一方で琴は宗介が隆盛に同行したことを知り、弟の従道に戦をやめろと感情をむき出しにして、雪篷に止められます。雪篷は琴に、従道の立場も理解しろと言いたかったのでしょう。

利通の妻満寿が登場します。満寿は鹿児島に行って加勢しなくていいのかと夫に尋ねます、この点前回の従道とちょっと似ています。しかし利通は口が過ぎると満寿を叱ります。利通は如何に内国勧業博覧会を成功させるが、そちらの方に腐心していました。しかし机の引き出しから見つけたあの袋と紙に、いくらか心が揺れるものはあったでしょう。結局あの2つは最後まで登場しましたね。

そして村田新八の『ラ・マルセイエーズ』、ちょっと興味深いです。無論当時は日本では知られていなかったでしょうし、皆勝手に歌詞をつけて踊るわけですが、元々この局は革命歌です。それが反乱軍とされた自分たちにふさわしいと思ったのかも知れないし、また、この曲のちょっと残酷な歌詞(汚れた血で俺たちの畑の畝ををうるおせ)というのも、あるいはこのような場であることを意識してのことでしょうか。六四天安門の時にも歌われたらしい。しかし新八さん、すっかりヨーロッパの大道芸人風ではあります。

それから鈴木亮平さんのブログの情報ですが、糸が菊次郎の看病に行く話、地元の証言があるようです。無論桂久武と一緒であったとか、その後隆盛と差しで話したかどうかはわかりませんが、延岡までは行ったらしいです。詳しくは鈴木さんのブログ『Neutral』の「敗走(西郷どんこぼれ話46 vol.2)」に記載されていますので、そちらをご覧ください。

[ 2018/12/18 01:30 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第46回感想続き

まず先週になりますが、『西郷どん』から『いだてん~東京オリムピック噺~』へのバトンタッチセレモニーです。

「西郷どん」鈴木亮平から「いだてん」中村勘九郎&阿部サダヲにバトンタッチ
(映画ナタリー)

今度の主人公の一人は陸上選手だから、正にバトンタッチといえそうですが、バトンでなくてたすきでしたか。しかし足袋というと、どうしてもあの『陸王』を思い出してしまうのですが。

そして田原坂の戦いです。この中で薩摩出身者同士による戦いといったナレがあり、また「薩摩士族だけでなく」とも言ってはいるのですが、字幕を出さないとちょっとわかりにくいので、ここで補足させて頂きます。抜刀隊に西郷軍の兵が斬られたシーンの2人は、庄内出身の伴兼之と、その兄鱸成信と思われます。伴が斬られたため榊原正治が駆け付けようとします。結局榊原も斬られるのですが(実際はその後の人吉城の戦いで負傷後に死亡)、この伴を斬った抜刀隊の人物が、鱸成信と設定されていますので、
「薩摩士族だけではなく、庄内出身の伴と榊原も戦死し、しかも伴の兄鱸成信は抜刀隊に加わっていた」
でよかったかもしれません。

再び牢獄関連です。かつての仲間じゃないかと言う大山ですが、大久保利通は至って冷静というより冷酷な印象を与えます。そしてこの2人の間には、かつての仲間同士とも思えないほどの溝が広がっていました。何よりも今や賊軍、朝敵となった西郷軍を公金で補助した大山は、隆盛同様に罪人だったわけです。権力を握ると冷たくなるというよりは、冷たくならざるをえないのかも知れません。政治も外交も駆け引きが求められ、しかも清濁併せ飲む必要があるのです。実は今日ツイッターで知った記事に、こういうのがあったので、興味のある方は検索してみてください。
「首相とか大統領とか、権力の座に就いたものにしか(私注・権力の)味は分からない。蜜の味と期待する人がいるかもしれないが、残念ながらそんな味はしない。苦い味で、苦さはレベルを上げていく」
利通もまた、連日苦い薬を放り込まれているような思いだったのかもしれません。

そして糸です。軍人を毅然と追い返しますが、実際は政府軍が鹿児島に入って来てため、避難していたといわれています。ただし避難した時期がいつかははっきりしません。また糸が隆盛の許へ会いに来るわけですが、あるいはその時他の家族をどこかへやり、自分は負傷した菊次郎や熊吉と共に帰る予定だったのかとも考えられます(ただかなり危険を伴いそうです)。次回この答えが出るでしょうか。

そして勅使柳原前光(さきみつ)が鹿児島に入ります。この人物が妾に産ませた娘が、柳原燁子、後の白蓮です。この人に関しては、数日前に『花子とアン』絡みで触れました。また妹の愛子は明治天皇の側室で、大正天皇の生母です。つまり前光は、大正天皇の伯父ということになります。

その勅使を迎えた国父様、島津久光ですが、西郷を止めるようにとの命令に、大胆にも(この人は前からそうですが)「シサツ」の2つの意味はどちらであったのかと問い、さらに改心すべきは政府の方だとまで言います。明治後も髷を切らず、和服を通すのと同様、自分の意志を貫くことにはこの人物は長けていました。この人物の扱いには政府も腐心したようです。しかし海江田武次も、未だに和服と髷ですね。

飲み物-ホットカフェオレ
[ 2018/12/12 00:30 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第46回「西南戦争」

動き出した隆盛に対し、先手を打って逆賊討伐の詔を得る大久保利通。それを憂える木戸孝允と、この状況に悩む従道。そして糸は家に来た政府軍将校を敵であると追い返し、一度鹿児島に戻った桂久武と共に西郷陣へと向かうことになります。

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隆盛が直訴のため、私学校の関係者や学生と共に東京へ向かったことは政府にも届いた。これに関して木戸孝允は、西郷は担がれたのではないかと大久保利通に言い、従道は、立ったのは事実だが理由はわからないと述べる。しかし利通は冷ややかに、三条実美と岩倉具視に、西郷討伐の詔を天子様より得たいと依頼する。一方隆盛の一行は熊本の南の川尻に到着した。その時熊本城と城下から、火の手が上がっているのを皆は目にする。自分たちを通さないつもりであることを悟り、鎮台を襲撃しようとするが、村田新八は目的は直訴であり、こちらから手を出すなと止める。しかしその2日後、一行は夜襲を掛けられた。

夜襲を仕掛けたのは鎮台の兵だった。西郷が逆賊であることは既に知れ渡っており、戦わずして熊本を北上することは困難になった。隆盛はそこでほぞを固める。桐野利秋は一同に、何としてでも東京へ行くと檄を飛ばした。しかし政府軍の援軍は8000となり、しかも田原坂と吉次峠、二手に分かれて交戦すると見た桐野は、自分たちにまかせてくれと篠原国幹とその場を離れる。隆盛は言った。
「おいの体はおはんらに預けたで」
初陣の菊次郎は叔父小兵衛、従兄の市来宗介と共に戦場で敵を撃ち倒した。その間にも不平士族が続々と集結し、私学校の学生1万3000人であったところへ、さらに3000人が加わった。

このことは東京へ届けられた。西郷方の斬り込み戦術に政府軍は苦戦しており、川路は警視庁警視隊を編成する。田原坂では雨の中激戦となり、これが十数日に及んだ。しかも投入された警視抜刀隊はかつての薩摩士族が多く、かつての同志が相対する戦いとなった。新政府軍の最新式兵器の威力はすさまじく、結局西郷軍の兵は退却せざるを得ず、篠原国幹も銃弾を浴びて戦死した。その西郷軍の劣勢を、川路が悲し気に見つめていた。従道は自分が九州へ行き、兄を止めようとする。しかしそれでは、兄弟同士で命を奪い合うことになると、妻の清が止める。もし失敗したら、兄と共に戦いたいと言う従道に、清は賊軍になるのはやめてくれと頭を下げて頼む。

そして熊本では、小兵衛が自分の小隊を連れて退却していた。そこで菊次郎が、敵の死体のそばにある銃弾を拾おうとするが、小兵衛は先を急がせる。その時銃剣を持った敵方が現れ、菊次郎は脚を撃たれる。小兵衛は菊次郎を宗介にまかせ、自分は剣を抜いて敵の前に躍り出た。
「西郷隆盛が末弟、西郷小兵衛じゃ」
敵方の銃剣が火を噴き、小兵衛はその場にくずおれた。隆盛は野戦病院を訪れる。そこには右脚を負傷した菊次郎がいて、また小兵衛の遺体も安置されていた。小兵衛の遺体を目にする隆盛に、菊次郎は涙を流す。

その頃鹿児島では勅使柳原前光が島津久光を訪れ、西郷軍を止めるように久光に依頼する。しかし久光は、先に視察団を送り込んだのは政府であったこと、しかもそれは「視察」と「刺殺」のどちらかと問い、返事に窮する柳原に、答えられぬのが答えであるかと言う。また改心すべきは政府であると言い、賊の西郷を庇うのかと問われてこう答える。
「道理の通らんこつだけは、断じて承服するこつはできもはん」
西郷軍は北上を断念して人吉へと逃れた。最早歩くのが難しい菊次郎は、共にいた熊吉に殺してくれと頼み、父隆盛が近づいてきたのを見て、最期は父上の手でと懇願する。しかしその代わりに隆盛は菊次郎を背負って歩き始めた。

その頃木戸孝允は病に臥せており、間もなく息を引き取る。死に際に木戸はこう叫んだ。
「西郷君、いい加減にせんか!」
また大山綱良は県令ながら、隆盛に加担した罪で東京で投獄された。大山は利通との面会を希望し、直訴の件を伝える。しかし利通はにべもなく、西郷は友人の前に大罪人、彼が立てば他の不平士族も立つ、これを日本最後の戦にするために討伐する旨を明かす。大山はならばこれで終わりじゃ、新七と2人であの世で待っとる、おはんだけ極楽に行かせんぞと悪態をつく。そして西郷家に軍人たちがやって来て、従道の命により、家族を軍の元に保護すると言うが、糸は、敵の世話などにはなりもはんと毅然と言い放つ。また雪篷も言った。
「戦に夫を送り出した妻たちの心意気じゃ、お前らにも分かっどが」

すると今度は駕籠を背負った百姓風の男が2人やって来た。それは桂久武と供であった。武器や食料を集めに戻り、小兵衛の戦死と菊次郎の負傷を伝えに西郷家に来たのである。糸は、自分も連れて行ってくれと頼む。そして8月、菊次郎は戦線を離れて延岡の野戦病院にいたが、負傷した右脚は切断されていた。生かしてやってくれと言う隆盛の配慮だった。その後西郷軍は苦戦し、兵の数は3500人にまで減っていた。延岡に近い俵野の陣で、そこでも地元の民の差し入れがあり、皆は久々に元気を取り戻す。しかし隆盛はツンとゴジャを話した。そこへ熊吉が菊次郎を連れてやって来て、隆盛は皆に軍の解散を宣言した。

自分たちの行くところがすべて戦場となり、しかも今日の握り飯の礼もできないと言い聞かたうえで、生きたい者は降伏し、死にたいものは死ねと言った隆盛は、自分に区切りをつけるべく軍服を火にくべる。そこへ桂と糸が現れる。糸は菊次郎が生きていたことを喜ぶ。政府軍がそこまで迫っていたため、隆盛たちはすぐに出発する必要があった。菊次郎は自分もと頼むが、病院にいれば安全であること、そして若い者は投降しろと諫める。その夜糸は隆盛と差しで座り、こういった。
「西郷隆盛じゃなかったらどんなによかったか」
「吉之助さあがただのお人じゃったらどんなによかったか」
隆盛は静かに糸の肩を抱いた。

************************

最後のシーン、無論これはフィクションなのでしょうが、前回の囲炉裏のシーンの伏線回収のようにも取れます。実際夫が政府のためにも働かず、また私学校も作らず、農作業だけに打ち込めたら平和に暮らせたのに、というのは糸の思いでもあるでしょう。しかもこれだけ大きな犠牲を払うこともありませんでした。ただ時代的に不平士族があちこちで立ち上がっており、その意味で人望があって、なおかつ中央政府にも顔が利くであろう隆盛を、周囲が放っておくはずはありませんでした。仮にこの時立たなくても、何らかの形で似た運命を辿ったのではないかとも思われます。

ちなみに北上途中の吉次峠の戦いと田原坂の戦い、これはかなりの激戦でした。本編後の紀行で銃弾がいくつも紹介されていましが、当時の兵士が所持していたお金も発見されたらしい。先日、鈴木亮平さんのブログ記事に、時代考証の方が「汽船も使えたはず」と言っていたとあったことをご紹介しましたが、なぜそれをやらなかったのか。むしろ隆盛は、こうなることを予見して陸路を選んだと取れなくもありません。さらに汽船で東京に乗りつけ、クーデターを起こしたら起こしたで、政府そのものが消滅してしまう可能性もありました。隆盛としても、本当はそれをやりたくなかったのではないでしょうか。

そして西郷軍の北上→撤退と並ぶこの回のシーンとして、大山綱良と大久保利通の会話が挙げられます。戦闘シーンが動ならこちらは静です。直訴の書類作成の現場に立ち会った大山は、書類を読んだかと尋ねますが、利通は既に読んだ、西郷が立てば不平士族も立つ、それはいかんと怖ろしく冷ややかに述べます。西郷討伐の詔を賜りたいと言う時同様、人格がすべて変わってしまったかのような口調で、しかもおいが政府じゃと言います。何やら「朕は国家なり」を思わせるセリフですが、その後の彼の暗殺を予感させるセリフです。ならば新七と2人で待っとる、処刑を覚悟した大山は言います、そういえばあの寺田屋事件に立ち会ったのはこの人でしたね。

実際隆盛は自分たちが行くところ、すべて戦場になることを悟っていました。軍を解散すると言ったのもそのためです。しかも民のためを思いつつも、現地の農家から振舞われた握り飯(あれは黒米でしょうか)の礼すらできない自分たちは、もうこれ以上彼らを苦しめることは出来なかったのでしょう。そしてツンとゴジャも解放します。この後宮崎、高千穂を通ってから隆盛たちは鹿児島に入り、城山に立てこもることになります。しかし俵野の人々は、目の前の人物が当の西郷とはわからなかったわけですが、この当時は写真も出回っていないわけですから、さもありなんと思われます。

それから菊次郎。この同行は彼に取って、大きな試練であったことは間違いないようです。戦場に出て人を撃つ経験のみならず、叔父である小兵衛が目の前で戦死し、さらに自分も右脚を負傷して、膝から下を切断してしまいます。しかも大将である父隆盛は、賊軍となっています。まだ若いせいもあり、このまま父に同行して華々しく死にたいと思ってはいたのでしょうが、ここに残るように諭され、さらに他の若い者も残るようにと桐野から一喝されます。『軍師官兵衛』風にいえば「命の使い道」でしょうか。しかし熊吉も桂久武も、そこそこの年齢なのにかなり頑張っています。

そして菊次郎と共に、後々まで生き残る従道は、陸軍卿山県有朋が戦地へ行ったことに伴い、代理として東京に留まっていました。鹿児島まで行って兄を止めるべきかで悩み、最早自分も兄と運命を共にしたいとまで考えますが、それだけはやめてくれと清に止められます。実際この人が生き残ったおかげで、後に焼けた西郷家も再建されています。また後に総理大臣就任を勧められたものの、兄が逆賊の汚名を着せられたため断ったといわれています。

[ 2018/12/11 00:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第45回感想続き

まず、東京に発つ前の隆盛に、糸が「踏みとどまれないのか」と質問するシーンが登場します。さらに彼女は「新しか国を見せてくれるのですか」と、再び問いかけます。この時点で、既に糸は夫が何をしようとしているのか、わかっていたようにも取れます。だからこそ、それとなく相手の返事を聞き出す、いわばかまをかけるような話し方をしたのでしょうが、しかし隆盛の方も、「実はおいのやりたいことはそうではないんじゃ」と言ったりはしません。「(踏みとどまることは)できん」「菊次郎は生きて帰す」と言うのみです。もうこれだけで、何を覚悟しているのかが大体読めますが、それ以外の、隆盛の無言のシーンがまた、何よりも彼の心理を物語っているように見えます。

一方で大久保利通も辛い立場に置かれていました。佐賀をはじめ九州各地、そして萩においては不平士族の乱として片付けられたことが、もし鹿児島で何かが起こった場合、そうたやすく行くわけもありません。相手のリーダーは旧友であり、討幕維新で協力した間柄です。せめて立たんでくれというのがやはり彼の本心でしょう。私学校に中原を送り込んだのも、暴走を止める狙いがあったといえますが、しかしその中原を拷問にかけたこと、そして政府の武器倉庫の所在を聞いて襲撃したことから、最早引き返すことは困難になっていました。この時隆盛が開墾地を見て回ることをせず、私学校の動きに目を光らせていれば、こういう事態は防げたのでしょう。しかし隆盛本人が、密偵など意に介するに足らずと言っていたのに、こういう事態を引き起こしたことは、ある意味隆盛への背信と取れなくもありません。

それとこれは大河全般にいえますが、同じ時代、同じ人物を扱っていたとしても、そのドラマのコンセプトによって描かれ方は違って来ます。主人公にさほど史料がない場合は、歴史上の事件が描かれにくい傾向があり、同時代を舞台にした他作品同様に、もう少し詳しく描いてしかるべきかとも思われます。一方で必ずしもそうとはいえない場合もあります。『真田丸』の関ヶ原の描写は、私としてはそれなりに納得の行くものではありました。真田方にしてみれば、上田合戦の方が比重が大きかったのは事実ではあるわけです。また『西郷どん』関連のSNSで、『翔ぶが如く』のように、江藤新平が処刑前に大久保を罵ってほしかったというコメントもありました。それは理解できますが、この大河の主人公は西郷隆盛であり、大久保利通は準主役です。その点で、この2名が主人公だった『翔ぶが如く』とは、描き方は異なって来るでしょう。

飲み物-ラテアート
[ 2018/12/05 12:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第45回「西郷立つ」

私学校は多くの入校者で膨れ上がり、庄内からも生徒がやって来ます。その私学校に政府の密偵が送り込まれたということで、校内は騒然となります。しかもその密偵である中原尚雄が持っていた暗号が、隆盛の運命に影響を及ぼします。

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私学校には入学希望者が殺到していた。政府を辞めて故郷へ戻った薩摩出身者のみならず、かつての庄内藩からも伴兼之、榊原政治の2名が入学した。2人はかつて戊辰戦争で、西郷吉之助が庄内藩に寛大な処置をしたのを聞かされていたのだった。さらに中原尚雄も、政府を去って鹿児島へと舞い戻っていた。その頃隆盛は息子の菊次郎と、開墾地を探していた。その合間に温泉に立ち寄って疲れを癒していた。この時期が、隆盛の最後の幸せな日々ともいえた。その後隆盛は菊次郎の妹、菊草を鹿児島で育てるべく奄美大島から引き取った。

一方新聞は政府に批判的になり、隆盛を大きく賞賛する内容になって行った。大久保利通は、策を練る必要を痛感していた。そこへ川路利良が、既に密偵を鹿児島へ入れたと報告する。その密偵こそ中原尚雄だったのである。翌明治9(1876)年3月、廃刀令が施行された。私学校の関係者や生徒はこれに反発するが、大山綱良から私学校が目をつけられていると聞き、桐野利秋が率先して「私学校のために」刀を渡した。生徒たちも同様に刀を外したが、その後士族への禄が止められ、九州や長州で次々と士族の反乱が起こった。しかし鹿児島はまだ平穏で、隆盛は菊草の歌う島唄に耳を傾けていた。そこへ村田新八がやって来る。

私学校では篠原国幹、辺見十郎太をはじめ、自分たちも立ち上がろうという決起集会が開かれていた。しかし桐野利秋はそれに難色を示す。そこへ隆盛が野良着のまま現れ、一同を制した。
「おはんらは、まだそげなこつをしちょっとな」
さらにこの私学校で心を一つにするはずではなかったとかと叱るが、篠原は、政府がこの学校に密偵を忍び込ませていると話す。熊本の士族も密偵によって潰されたのだった。このため伴と榊原が真っ先に疑われるが、村田と中原が止めに入る。そして隆盛は、密偵に探られて悪いようなことはしていないと笑い飛ばす。そして一同解散となるが、中原はこうつぶやく。
「イノシシを追い立てよって」

桐野は政府を信じられずにいた。その頃政府は、反乱の気配ありという電信を受け取っており、川路が利通にそれを知らせる。利通は、熊本鎮台に出兵できる手筈を整えるよう山県有朋に命じるが、共にいた西郷従道は、あの兄が立つとは信じられなかった。士族を兄が止めてみせると言う従道だが、利通は、裏を返せば全国の士族が西郷に従うことにもなると言った。さらに忍び込ませた密偵が、隆盛を止められなかった場合は、隆盛は死ぬことになると言う。川路はその後従道を呼び止めて言う。
「心配なか。西郷先生は立たん。大久保卿もそう信じちょっ」
「おいも薩摩の仲間を好きこのんで潰そうち思っちょらん」
そして利通もこう考えていた。
「吉之助さあ…立つな…立たんでくいやい」

中原は一枚の紙きれを見ていた、それにはこう書かれていた。
「ボウズヲシサツセヨ」
そこへ別府晋介が酒を持って現れる。互いに大徳利から酒を飲んだ後、中原は私学校の過激な者たちを抑えるよう、協力してくれと頼む。近く政府の船が、鹿児島の武器を引き取りに来ることになっていた。別府は密偵が中原だと気づくが、おいは薩摩を守るために来たとじゃと中原は言う。しかしそこへ篠原、辺見十郎太そして桐野らがやって来た。これは罠だったのである。そして中原は取り押さえられる。同じ頃、隆盛は菊次郎と再び湯に入っていた。そこへ小兵衛が、私学校の連中が、中原から聞き出した政府軍の武器庫を襲ったと知らせに来る。

私学校の関係者が武器倉庫を襲ったことは、すぐに東京にも知らされた。それを知った利通は、山県と川路にこう言った。
「おのおの、来たるべき事態に備えよ」
そして私学校へ向かった隆盛の目に、吊るされて拷問を受けた中原の姿が飛び込んで来た。村田は止めようとしたが無理だったと言う。隆盛はその場で桐野、篠原、辺見を張り倒して言った。
「おはんらのやったこつは国家に対する反逆じゃ!」
すると桐野は、懐から小さくたたんだ紙を出して隆盛に渡した。その「ボウズヲシサツセヨ」は、先生を刺殺することだと桐野。また篠原も、中原が私学校を瓦解させ、隆盛を殺そうとしたと伝える。隆盛は床に下ろされた中原に尋ねたが、中原は明確な返答はしなかった。

桐野はこう言った。鹿児島から日本を変えようと言う西郷先生を信じて、何もかも耐えて来たのに、その先生を殺せという大久保はあんまりじゃと。政府に失望している桐野の言葉を聞き、隆盛は目に涙を浮かべた。そして隆盛は立ち上がり、皆で全国の士族のため、そして新しき世を見ることなく散って行った先人のために、政府に直訴することを決めたのである。そしてまた、皆で薩摩へ帰ることを明言した。隆盛は帰宅後、例の斉彬の脇差を前に置き、「敬天愛人」を揮毫した。その夜菊次郎は、自分も同行したいと父に頼む。
「おいは今、自分が立ち会っていることすべてを見届けたかとです」
糸はこれに反対する。隆盛は戦になるかも知れんぞと言うが、菊次郎は同行を決意した。

その後雪がちらつき始め、隆盛は囲炉裏端に座った。糸は、踏みとどまることはできないのかと尋ね、私たちや菊次郎さぁに、新しか国を見せるために行かれるのですかと訊く。隆盛は返答に窮した。そして出発の日が迫り、くれぐれも話すだけだぞと大山綱良に念を押された隆盛は、明治10(1877)年2月17日、50年ぶりの大雪の中鹿児島を発った。他県からも同行者が来ることになり、さらに海江田武次と桂久武が来て、海江田は久光の言葉を伝えた。目通りしたかったら、必ず帰って来いということだった。隆盛は城のほうに一礼し、菊草が島唄を歌う中門を出て行った。その頃東京では、熊本からの電信が届いていた。隆盛が兵を挙げたというのである。利通は自ら鹿児島へ行こうとするが、岩倉具視から止められる。

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「ボウズヲシサツセヨ」登場です。実際これは「刺殺」か「視察」かでかなり意味が違います。あるいは聞いた側が勘違いしたともいえますが、中原尚雄が密偵として送り込まれたのは事実です。それでなくても刀を取り上げられ、禄を止められで鬱屈していた薩摩士族にしてみれば、中原が私学校を崩壊させると聞いて、黙っていられなくなったのは事実でしょう。ただし政府の武器倉庫に踏み込んだことで、政府にさらに睨まれる原因を、自ら作り出してしまったともいえます。ちなみに中原はこの後大正時代まで生きますが、この時の拷問で、両手の爪をはがされたといわれています。また彼の言う「イノシシ云々」は、「事を荒立ておって」といった意味でしょうか。

これで隆盛は苦しい立場に置かれます。本人は今後一百姓として余生を送る考えだったのですが、このために東京へ向かう破目になります。しかも糸から新しい国はまだかといわれ、返答に窮したのも何かわけありげです。ただでさえ私学校が睨まれているうえに、他県から同行者が加わる、しかも陸路を行くとあっては、これは反乱と思われても仕方ない部分もあるにはありました。というより、恐らく途中で戦になるのは覚悟の上だったでしょう。だからこそ、菊次郎に「戦になるかもしれん」と忠告したわけです。他にも薩摩に戻ってくるという辺り、次回の伏線的なものを感じさせます。

島津久光も、目通りしたかったら薩摩に戻るようにと言います-というか、これは海江田の伝言ですが。さらに桂久武、この人だけ戦国時代のような格好をしていますが、そこは流石に名家の出身というべきでしょうか。ところでこの大陳情団とも言うべき東京行き、鈴木亮平さんのブログによると、時代考証の方が本当に政府と戦うのなら、船で東京に乗り付けることも可能だったと述べています。隆盛はまだ陸軍の要職にあったわけで、そこで政府軍に命令を下せば、それも本人の選択肢にあったのではないかということです。

さらに従道も辛い立場に置かれます。あの兄が蜂起することなどありえないと思ってはいたものの、公の立場でそれを主張するのは難しいものでした。川路利良が、そんなことはないと従道をなだめますが、一番隆盛に立ってほしくなかったのは、やはりというか大久保利通でした。彼の通達で士族が追い詰められているわけですから、矛盾しているようにも見えますが、隆盛だけはやはり特別な存在であったのは事実でしょう。

その利通の
「おのおの、来たるべき事態に備えよ」
何やら桂久武の武装と同様、戦国時代のようです。また新聞が隆盛について書き立てますが、この頃から新聞が政府批判を強めるようになります。さらに、隆盛が決起した(と電信で伝えられた)際に、自分が止めに行こうとして岩倉に引き留められますが、実際は伊藤博文が引き留めたようです。しかし同じ不平士族相手でも、江藤新平の時とはやはりというか、随分対応が違いますね。

[ 2018/12/04 01:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第44回感想続き

第44回で、岩倉具視が暴徒に襲撃されます。これは喰違(くいちがい)の変と呼ばれています。なぜこのような名前になったかというと、赤坂喰違坂で襲撃が起こったからです。御所が火災で焼失して後は、赤坂離宮、今の赤坂御用地が仮御所となっていました。ここから退出しようとした岩倉の馬車が、元土佐藩の不平士族に襲われたのですが、岩倉は四ツ谷濠に落ちたため致命傷は免れました。頭に葉っぱが乗っかっていたのはそのための演出でしょう。実際3日後には犯人が逮捕され、その年の7月に事件に関わった9人が死罪となりました。この逮捕には川路利良が大きく貢献しています。ドラマでは警察の立て直しに着手した直後でしたが、実際は既に警察制度を改革し、大警視(今の警視総監)に就任していました。岩倉は精神的ダメージが大きかったため、しばらく公務を休むことになりますが、よりによってその最中に佐賀の乱が起こります。その後不平士族の反乱は、ドミノ現象のようにあちこちに広がって行きます。

それから未だに隆盛から半次郎と呼ばれる桐野利秋、彼の奇行についてです。この前に彼は、大久保邸に不平士族が上がり込んで、酒盛りをしているのを目撃しています。そこで隆盛の悪口を耳にするわけですが、その後彼が何をしたかということと、この奇行とは関係がありそうです。恐らくは彼らを斬るか、斬らないまでにしても傷つけるくらいのことをしたのではと、密かに疑っています。いずれにしてもこの人物は、刀と共に生きて来たところはありますが、ただし生涯で人を斬った記録があるのは、たった一件のみとされています。またこの人物は刀のみならず、隆盛と共に生きて来たところもあります。

それと佐賀の乱が新聞に書き立てられた件、川口雪篷がこんなことを書いてと眉をひそめます。その当時としては、あるいはそうだったのでしょうが、こういうのは如何にもマスコミが飛びつきそうな話です。そしてこの頃から自由民権運動が盛んになり、それと歩調を合わせるようにして、新聞も政府批判を強めて行くようになり、このため新聞紙条例(後の新聞紙法)が施行されるようになりました。

飲み物-バーのラテフロート
[ 2018/11/28 01:15 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)

西郷どん第44回「士族たちの動乱」

参議の職を辞して鹿児島へ戻った隆盛ですが、彼の後を追って陸軍や御親兵、さらに警保寮(警察)にいた士族たちが戻ってしまいます。政府を立て直してくれと頼む彼らを隆盛は一喝しますが、同じように下野した江藤新平が佐賀の乱を起こします。

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隆盛は鹿児島へ戻り、悠々自適の日々を過ごしていた。狩りや漢詩を楽しみ、その様子を見た糸は、旦那様は鹿児島に帰って、身も心も軽くなったと口にする。雪篷は、あの漢詩を読めるのかと驚く。その詩には
「都で名利を求めたために、三年もの間清々しい松風の音を聞くことができなかった」
という、彼の心境が綴られていた。しかし陸軍や近衛兵の薩摩出身者が、皆帰郷して来てしまう。従道から皆を連れ戻せといわれた小兵衛も、彼らを追いかけて結局実家へと戻って来てしまった。隆盛は今からでも東京に戻れと叱る。しかし彼らはその反対に、先生こそ東京に戻ってくれと言うのである。要は大久保利通の下では働けない、政府を正してくれと言うのだが、隆盛は、2度とここへ来るなと彼らをつき離す。

一方で鹿児島県庁では、このことで県令の大山綱良が頭を抱えていた。その大山の話を聞いていた海江田武次は
「一蔵の慌てちょっ顔が目に浮かぶようじゃのう」
と愉快がる。しかし警保寮にいた300人も帰郷することになり、合わせて600人の薩摩士族が職を失うことになった。鹿児島ではろくに食い扶持もなく、日々不満を募らせるようになれば、どのようなことになるかは明白だった。西郷家には、彼ら東京を去った士族たちが日々訪れるようになり、隆盛は留守がちになって行った。それに業を煮やした士族たちは「逃げんでくいやい」と言うが、そこへ出て来た糸は彼らを相手に、今度はあなた方が立つ番だときっぱり言う。一同は決まり悪そうに西郷家を去って行った。

東京では洋行帰りの村田新八と川路利良とが、従道に案内されて内務省を訪れていた。従道は2人に薩摩に帰ることはないだろうと念を押し、さらにこうも言った。
「せっかく欧米で学んだことを無駄にせんでくいやんせ」
そして3人は内務卿の大久保利通に面会し、村田と川路は警保寮の立て直しを命じられる。村田は利通に隆盛が政府を去った理由を訪ねるが、利通は、自分の役目は終わったと言って去った、それだけじゃと答える。2人とも隆盛に引き立てられただけに、どこかすっきりしないものを感じていた。しかし川路は言った。
「こん川路利良、私情は捨て、あくまで警察に献身いたしとう存じもす」
その時、岩倉具視が襲われたという知らせが飛び込んで来た。岩倉を襲撃したのは土佐の士族だった。伊藤博文は江藤が反乱を起こす可能性があると話し、木戸孝允は他にも反乱の火の手、特に薩摩にもそれが上がることを示唆するが、利通はそれを否定する。

その頃隆盛は、熊吉と湯治に来ていた。糸が桐野たちを追い返したことを熊吉は話し、隆盛は、600人まとめて東京へ戻ればいいが、そういうわけにも行くまいと言う。熊吉は、若さあはこうしている間もそのことを考えていると指摘する。その隆盛は自分は百姓として終わりたいと言い、また、一蔵が作る日本を早く見たいとも言った。しかしその一方で士族たちは暴徒化し、大久保家に石を投げこむなどの狼藉を働くようになった。その石を包んだ紙には「奸賊」「国家ノ大敵」などと書かれていた。利通の妻満寿はそれを隆盛と糸に見せ、隆盛は自分の気配り不足を詫びる。満寿は実は上京するように文を貰っていたのだが、大久保家の墓を守ること、そして妾がいることなどから、東京行きを渋っていたのだった。しかしその後、満寿は子供たちを連れて東京へ向かった。

明治7(1874)年2月15日、江藤新平は6000人の軍を率い政府軍のいる佐賀城を攻撃した。これは鹿児島にも届き、鬱屈した士族たちが佐賀へ走る心配も出て来た。そしてある夜、西郷家の門を叩く者がいた。それは江藤だった。劣勢に回って落ち武者同然の江藤と同志たちは、隆盛に兵を挙げさせ、政府を取り戻すよう勧めるが、隆盛が考えているのは、鹿児島から如何に政府を支えるかということであり、江藤の言うことは私情であると諭す。
「西郷隆盛には失望した」
江藤はその後捕縛され、佐賀で利通により斬首、さらし首の刑となった。裁判らしい裁判もなく、即日執行されたことで、木戸は利通を批判する。しかし利通はこう言うのみだった。
「2度とこのようなことを起こさぬため、江藤さんの最後のお役目でございます」

利通が帰宅すると、満寿と子供たちのために建てた新居からおゆうが出て来た。満寿はおゆうに礼を述べ、今後のことを取り決めたのである。そして子供たちは、利通の靴を脱がそうと懸命になっていた。そんな利通を満寿は久しぶりに眺めていた。鹿児島では雪篷が隆盛に、新聞の佐賀の乱の記事を見せた。政府の見せしめである処刑が、薩摩士族に取っては火に油を注ぐ結果となり、皆空き家となった大久保家を狙撃するようになっていた。隆盛はそんな彼らを鎮めるべく、士族の学校を作るため、県令室を訪ねて大山に金を出してくれるように頼むが、そこで村田と会う。村田は洋行して外国の繁栄を見て来たが、どこか暗さがあるのに気づき、それが利通の理想と知って、利通と袂を分かって戻って来たのだった。

村田は西郷家でバンドネオンを演奏して歌い、オペラのことも話して聞かせる。そこへ桐野と別府晋介が現れた。やはり隆盛に政府を変えてほしいという彼らに、隆盛は、学校の手伝いをしてくれと頼む。政府のことは一蔵どんに任せたと言うが、桐野はあの江藤を処刑した大久保利通かと気色ばむ。そんな桐野に隆盛は言う。
「半次郎、前を向いて進め」
「おはんらが若い者の先に立たんでどげんすっとじゃ」
村田が桐野を説得し、桐野はそのまま立ち去る。そしてその年の7月、兵法や学問を教えるための、私学校と呼ばれる学校が出来た。そこへ市来宗介と成長した菊次郎が帰国する。

しかし士族の中でも桐野は姿を現そうとしなかった。働く場も給金もあるのに、贅沢な奴じゃと大山は隆盛にこぼす。その頃桐野は、大久保家で酒を酌み交わしている士族たちが、隆盛を悪く言うのをこらえきれなかった。やがてその後、帽子に着物をからげた妙な男が私学校にやって来て、学生たちを相手に剣を交え、さらに鉄砲を一刀両断して、砲弾や銃弾の要らない刀こそ最高の武器と一席ぶつ。それは桐野だった。その頃東京では、西国の不平士族のことを川路が利通に報告していた。鹿児島で私学校が出来たことも知らせる。利通は密偵の数を増やすように命じ、一人になった後、天を仰いでいった、
「流石、吉之助さあじゃ…」
しかし後にこのことが、西南戦争の引き金となる。

************************

士族の反乱が登場します。初の大規模な乱となったこの佐賀の乱が、後の不平士族の乱の引き金になったのは否定できません。他にも熊本、福岡、山口で不穏な動きがあると川路が言いますが、後に神風連の乱、秋月の乱、萩の乱となります。木戸孝允は薩摩に言及する前に、萩の乱を心配しておくべきだったかと思うのですが…。これで玉木文之進(吉田松陰の叔父)が切腹することになります。後の総理大臣、田中義一もこれに参加した1人でした。しかし利通が密偵を増やす必要があると述べたことで、既に相当数のスパイが放たれていたと見るべきでしょう。

そして私学校ですが、要は郷中教育を学校というシステムにはめ込んだような感じです。大山さんも10円禿が出来ていたとは、県令も何かと苦労が多いようです。フランス語指導とありましたが、あのフランス語の授業と村田新八の歌の指導のようです。村田が演奏しているのはバンドネオンでしょう。オペラの話関連で、ル・ペルティエが出て来ますが、この当時有名なオペラ劇場でした。但しこの頃焼失してしまい、その後メインの劇場はガルニエ宮、さらにオペラ・バスティーユに移ることになります。しかし変な野盗紛いの男が飛び込んで来たと思ったら、桐野利秋だったのですね。彼の刀至上主義も、廃刀令により終わりを告げることになります。

さらにおゆうが言っていた「1と6がつく日」、あれは政府の休日ですね。これは江戸時代からの習慣で、1日、6日、11日、16日、21日そして26日は休みの日であり、稽古ごとを行う日でもありました。但し31日は除きます。この制度もその後日曜休日が定められ、姿を消すことになります。利通は土曜日の夜は、高輪の家で家族と共に過ごしたといわれていますが、恐らく日曜が休日となった後のことなのでしょう。また子供たちが靴を脱がせようとして、ひっくり返るエピソードもここで登場です。

隆盛が桐野に言って聞かせる言葉、あれは正に、その桐野に糸が言って聞かせた言葉とダブります。多くの士族が、隆盛を追って鹿児島に戻って来るのとは対照的に、川路利良は「私情を捨てて」東京に残ることになります。この回ではもう1度「私情」という言葉が出て来ます。敗残兵同様になった江藤新平に、隆盛がかける言葉ですが、恐らく隆盛はこの「私情」によって、道を踏み誤りかねないことを知っていたのでしょう。鹿児島に戻って来た士族を一喝したのもそのためと思われますが、しかし彼を慕う士族はあまりにも多すぎました。

ところで利通の机のそばから、何か湯気が出ていると思ったら、火鉢にかけた鉄瓶でした。この当時そう暖房もない以上、火鉢はやはり必需品だったのです。ところで隆盛が熊吉と行った温泉、これは「鰻温泉」というらしい。この大河に鰻がよく登場するのと関係あるのでしょうか。そして熊吉にしてみれば、隆盛はいくつになっても「若さあ」、永遠の若さあといえるのかもしれません。しかし本人も、隠居生活を楽しみたかったでしょうに…糸もそれを感じ取って、漢詩の意味はわからぬまでも、夫の心情を察していたはずなのですが。

[ 2018/11/27 08:00 ] 大河ドラマ 西郷どん | TB(-) | CM(0)
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aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

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