先日投稿分のそのまた続きです。北条義時は劉邦タイプとしたうえで、西洋の英雄としてナポレオンを持ち出し、このように書いています。
押しが強くてなんでも俺がやってしまう。そういうカリスマ型。西洋列強と向き合う中、東洋はそういうナポレオンみたいな英雄がいない自国にがっかりしました。
俺たちの讃えていた英雄ってよかったの?
そこで槍玉にあがった典型例が、劉邦ではなく劉備や『水滸伝』の宋江あたりなんですね。
彼らは自らぐいぐい推すというよりは潤滑剤タイプ。苦手分野はその分野が得意な人に任せて、相手の力を引き出す。
実力者を繋ぎ止めるだけで本人は動かない。
いいからお前も動かんかい!
ナポレオンあたりに憧れたかつての東洋人はそうイライラしたわけですけれども、でも、こういう潤滑剤タイプって、実は有用じゃありませんか?
まず「西洋列強と向き合う中、東洋はそういうナポレオンみたいな英雄がいない自国にがっかりしました」の実例も挙げられておらず、「いいからお前も動かんかい!ナポレオンあたりに憧れたかつての東洋人はそうイライラした」の根拠も不明。川口雪篷はナポレオンに心酔していましたが、『西郷どん』の中で苛立ちを表すようなセリフは聞いたことはありません。
今週はワイワイガチャガチャしているようで、千鶴丸が水死させられているわけです。もしもそこを重く描いていたら、月曜日が辛くなるわけでして。それに残酷をコメディタッチで描くのって、実は一番ひどいことではないかと思います。
三谷さんが意識しなかったわけではないというか、1990年代に一世を風靡し、今は大御所扱いといえばタランティーノがおります。
彼の作風の特徴は、残酷な描写をコメディタッチにしたこと。
間違ってチンピラを自動車内で射殺したら掃除が大変だぜ、参ったなあ! そういうノリが斬新でした。
(中略)
そこを踏まえると、そんなもんタランティーノ流なんてむしろ定番だということになってもおかしくはない。確かに大河でとなると、斬新かもしれないけれど。
そしてこのタッチが、坂東武者に適用されることに対して、私は圧倒的な信頼感があるんですね。
残虐なシーンを重く描かないのがいいと言いたいのでしょうが、何よりかにより武者さん、あれこれ書きすぎだなとは思います。タランティーノが残酷さをコメディタッチで描くのと、今回のとどのような関係があるのでしょうか。そもそも千鶴丸を殺すシーンはなく、善児が途方に暮れたような顔で、水の中に突っ立っていただけですし、なぜこれがコメディタッチなのかまず疑問。ましてそのコメディタッチなるものが、「坂東武者に適用されるか」どうかは、いざ観てみないと何とも言えないわけでして。
だいだい(ママ)このドラマと同時代のイングランドで、トマス・ベケットという聖職者がヘンリー2世の王命により暗殺されました。しかもカンタベリー大聖堂で。
理由も手段も野蛮な事件です。
しかも、当時の技術ゆえ仕方ないのでしょうが、暗殺場面を描いた絵が牧歌的でシュールなのです。
(Wikipediaの引用)
勝手な思い込みではあるかもしれないけれど、12世紀の残虐性ってこういう明るさがあるのではないでしょうか。
もっと時代が降れば反省なり命の重みを感じるかもしれないけど、当時は「まあ死んじゃったし!」くらいのノリだったのかもしれないと。
このドラマの明るく生き生きとした殺しあいは、そんな思いに応えてくれるものです。
トマス・ベケットですが、簡単に言えばこの人は元々俗人で、その後聖職者(カンタベリー大司教)となり、教会の自由を巡って国王ヘンリー2世と対立し、最終的にはヘンリー2世から暗殺されるという人物です。ヘンリー2世の意を汲んだ騎士たちが、自分たちでベケットを殺害したという説もあります。しかしこの暗殺は後にベケットの殉死とみなされ、死後早々と列聖されて、ヨーロッパ各地で大きな反響を呼び、カンタベリーは一大巡礼地となります。さらにその血が奇跡を行うとされ、血を薄めて持って帰る巡礼者もいたといわれ、国王も自らの罪を認めることになりました。
この巡礼たちを題材にしたのが『カンタベリー物語』です。実際ベケットの殺戮は、剣で頭を突かれ、頭蓋骨が飛び散るという残忍なものですが、しかしここでひとつ。
同時代とはいえ、明らかに文化的背景が異なるイングランドの事件であるにも関わらず、殺戮とその残虐性という共通項のみで物事を論じる、しかも国王との対立の果ての残忍な殺され方を、明るく生き生きと定義づけるというのは、相当無理があるのではないでしょうか。なぜこのような発想になるのでしょう。
実際この大河の殺戮シーンだって「明るく生き生き」なのかどうかは不明ですし、見方を変えれば、人命はかなり軽かった時代とも取れます。まだ貞永(御成敗)式目もない時代ですし。
さらにその後
坂東武者と比較すれば、戦国武士は文明を知っている。それは人類進歩の証なのだ。
そう熱く主張したくなるドラマです。
ここでまた「文明」。それはそうと、結局何を言いたいのでしょうか。要は今年の大河と、『麒麟がくる』を何とか関連付けたがっているようにしか見えないのですが。
そしてお約束のように
日本史版のサーセイ・ラニスター(『ゲーム・オブ・スローンズ』)が誕生したことを祝いたいと思います。
そもそも『ゲーム・オブ・スローンズ』を観ていない(興味もない)ので、何のことやらわからないのですが、最終的にはここに持って来たいようです。毎度のように思うのですが、ならば『ゲーム・オブ・スローンズ』の話だけしてくれれば、それはそれでまだ納得できるのですが。