光秀は妙鴦という尼が退出して来るのを待ち、お万阿様ではと声を掛けます。やはりその尼は、かつて自分も牢人時代に庵を訪れたことのあるあの妙鴦、山崎屋庄九郎の妻であったお万阿でした。若い頃の美しさが、そのまま老いの清らかさになっていると光秀は感嘆し、自分が借りていた家へと案内します。そして信長の許へ参賀に来た理由を問うと、お万阿は不意に表情を曇らせます。
やがてお万阿は、天気がいいから都に出たのだと言いますが、真意は別のところにありそうです。しかし理由を言おうとしても、その一つ一つが嘘のように思われるので、天気がいいからと言った方が、寧ろ本当のような気がすると語ります。この女性は、自分の夫は山崎屋庄九郎であり、斉藤道三などは知らぬとかつて光秀に話したことがありますが、彼女なりに複雑な気持ちを抱えているようです。やがて酒と菓子と鮨が出され、お万阿は光秀から酒を注いでもらって酔いが回って来ます。
お万阿は、夫が「なんねんか待てやい、きっと将軍(くぼう)になって帰ってくる」と言って美濃へ発ったことを覚えていました。それが本気か嘘かはわからずとも、嘘は嘘で命がけでつくような人物であり、それゆえ騙されているとわかっていても、楽しかったと話します。無論その夢は果たせず、娘婿である信長がその夢を果たし、だからこそお万阿は、信長の許まで祝意を述べにやって来たのだと光秀は察します。お万阿は「夫」でなくその娘婿が夢を果たしたことを、複雑な感傷の気持ちを込めて喜び、また上洛の様子のきらびやかさを見定めたかったのでした。
光秀は、その娘婿である信長が、道三から最も目をかけられたと言いますが、お万阿は、光秀は目をかけられなかったのかと問います。かぶりを振る光秀をお万阿は見つめて、何にしても修羅道であると口にします。修羅道は仏典にある六種類の迷界の一つで、阿修羅が支配しており、善神である梵天や帝釈と未来永劫闘争をし続けている世界で、そういう世界が道三や信長、光秀のいる世界であると言うのがお万阿の言い分でした。
しかし光秀は、この修羅道こそが世の乱を救う菩薩行だと言い、そしてお万阿は、信長もそのように考えているのかと尋ねます。光秀はそうだと信じると答えると、お万阿は、自分がいずれ亭主殿の住む彼岸に行ったら、信長や光秀は、自分の道を菩薩行だと信じているらしいと話すだろうと笑います。光秀は、道三殿なればどう申されるでしょうと訊き、お万阿はこのように答えます。
「わかりませぬ。あの人は修羅道のみに生きついに菩薩行の功名に至らずじまいで世を終えたのですから」
お万阿はその後少し話してから引き上げますが、光秀には彼女の実年齢がいくつなのか見当もつきません。ただ、もう二度と会うことはないだろうと思いました。
光秀とお万阿が再会します。前に会った時は越前に発つ前のことで、光秀は道三のことを話して聞かせます。お万阿は「男とは難儀なものじゃな」と指摘します。またその時、あなたも天下がほしいのであろうとお万阿は言いますが、この2度目の出会いでは、天下を実質手にしたのは光秀ではなく、道三の娘婿の信長でした。夫が果たせなかった夢を果たしたこの人物を、お万阿は祝福に訪れ、この再会に至ったわけです。
無論お万阿も彼女なりに悩みを抱えてはいました。油問屋を畳んで尼となり、悠々自適の生活を送っているとは言え、夫は美濃では別の人物として生きていました。嘘をつくにしても本気でつくため、騙されていても楽しかったとお万阿は答えますが、彼女は夫の美濃での生活に感づいており、だからこそ余計に、庄九郎の嘘の世界に身を任せていたいという気持ちもあったかと思われます。無論この大河及び原作では、庄九郎が一代で道三となり、美濃を制したことになっているため、一人二役の使い分けと、それぞれの「妻」たちの立場が描かれているわけです。この辺り『花神』の主人公の村医者村田蔵六と、軍学者大村益次郎の違いに通じるものがあるようです。
それはともかく、光秀もまた複雑な心中ではありました。自分が思っていた濃姫の夫がこのように華々しく活躍するのは、光秀としても悪いことではなく、また義昭を擁立したいからこそ信長を頼ったわけですが、どこか割り切れないものもあったでしょう。また道三から目をかけられていたにも関わらず、一番目をかけられていたのは信長だとお万阿に答えます。光秀は、かつては道三の一番弟子を以て任じていたものの、道三の思いは今一人の人物にも向けられていたと認めざるを得なくなったわけです。この点、夫は山崎屋庄九郎であると思ってはいたものの、斉藤道三という全く別の人物を認めざるを得なかったお万阿と、どこか共通するものがあります。