先日触れた『グラフNHK』の佐怒賀氏のコラムについて、ちょっと突っ込んでみます。
(引用部分太字、『グラフNHK』昭和48年1月1日号より)
土曜の午後から始まった解放感が、ずっと続いて、それもようやく終わりに近づこうとしている。さあ!あすからまた仕事だ!と日常性への予備運動を開始するのが、日曜日の夜の一般家庭の姿だろう。いうならば解放感と緊張感の谷間に於けるもっとも充足した生活時間といえる。
「日常性への予備運動」というのは、いささかわかりづらい表現です。再び始まる日常に向けて、心の準備をするとでも言うべきでしょうか。土曜日の午後からというのが、土日が休みでなかったこの当時らしいです。しかしかなりポジティブな書き方ですね。この当時は「サザエさん症候群」やブルーマンデー的概念はなかったのでしょう-尚少し前には、そのものずばりの大河ドラマ症候群なる言葉も存在したようです。
NHKという公共放送が、その良識のシンボルとして、自信を持って全国の日曜日夜の家庭に送りとどける、いわば倫理復活の「国民ドラマ」なのである。
「国民ドラマ」とはちょっと大げさな気がしますが、この時代のことですからわからなくもありません。しかし大河は「倫理復活」なのでしょうか。江戸時代ならともかく、戦国大河などの場合、その当時の倫理と昭和のそれとはかなり違っていたかと思います。それともその当時は、乱取りだの撫で斬りだのはドラマに登場しなかったのでしょうか。
(前略)<花の生涯>から<新・平家物語>にいたる十年間の展開の過程は、そのまま日本のテレビドラマの技術史、発達史になっている。
技術史、発達史とありますが、技術開発などは受信料ですべて賄われていると思われます。なぜかそれに言及されていません。このコラム全体に感じることですが、視聴者が受信料を払って観ていることにもう少し触れてもよさそうなものです。
テレビドラマなんて、チャチなものさ、という印象の普遍的な中にあって、周到に準備され、綿密に選び抜かれた脚本と人材とにより、一回一回、精魂込めて作られていった作品は、テレビそのものの評価の流れを大きく変える。
チャチという表現はあれですが、それに近いテレビドラマは恐らく今も存在します。また大河そのものも、それに似たような作品が多く、大河化そのものに疑問符が付く作品もありました。それに大河が「テレビそのものの評価の流れを大きく変える」というのも、何やら上から目線に感じますが、この当時はこうだったのでしょうか。そもそもこの文章自体、NHK関連メディアというせいもあって、ちょっと盛り過ぎてやしないでしょうか。
それはこのシリーズの開始直前、つまり昭和三十七年後半から急速に伸びるテレビセット台数にも、ピタリと照準が合って、大量の視聴者動員をかけることになる。
大河によって、TV視聴者が増えたのは事実かも知れません。しかしこのように書くと、大河と家電メーカーはタイアップしていたのかと、邪推したくもなります。また「急速に伸びる」などと書くのなら、それを裏付けるデータがほしいところです。
また、これで絶対に見逃せないのは、各作品のすべてが、正月開始、年末完了の暦年構成をとっていることである。それはちょうど、正月の「道」の儀式で始まり、再び暮の「道」の儀式に終わるという、日本人的倫理観に根差した生活サイクルと符合する。
「各作品のすべてが正月開始」は正しくありません。第一作『花の生涯』は、昭和38(1963)年の4月スタートです。またこのコラムが書かれたかなり後ですが、『炎立つ』は7月はじまりの翌年4月終わり、『花の乱』は4月に始まっています。『麒麟がくる』はコロナ禍の影響で、終わりが2月までずれ込む結果となり、『青天を衝け』は2月14日スタートです。そして1年物にするのであれば、それにふさわしい主人公を選ぶことが前提ですが、今時は1年どころか2クールで終わりそうな主人公もいるのですが…放送期間、見直してほしいものです。
ところで「再来年」の大河は、いつ頃発表になるのでしょう。
スポンサーサイト