以前「
『天地人』の作者と脚本家のコメントについて 2」で、小松江里子さんの脚本について、このように書いたことがあります。
女性を動かして行くというのが、ほぼ朝ドラテイストになってしまっています。だから兼続が、京の上杉屋敷で子供のおむつを替えたり、夫婦の会話シーンが長々と続いたりしていて、しかも『花燃ゆ』同様、女性パートを入れることによって、肝心の史実に基づいたシーンの流れが止まったりしているわけですが、そういうのを大河の視聴者は本当に見たがっているのでしょうか。
実際「女性を動かす」という名目で、その実
- 必要と思われない場所に女性たちがやたら出てくる
- 兼続が妻お船や子供たちといるシーンがやけに多い
という印象を免れないのです。1エピのうち、半分近くがそういうシーンで占められていることもあります。しかしこれはあくまでも男性が主人公で、しかも戦国大河です。
女性たちが登場するのは、その場を和らげる目的もあるわけですから、それと対照的な緊張感のあるシーン、謀略をめぐらすシーンがあってこそ、女性を動かせるわけです。しかし、男性が出て来て緊張感が漂うというシーンがかなり限られています。
たとえばこの、京の上杉屋敷のシーンですが、
兼続は主君に会うのに、子供を膝の上に乗せるのでしょうか。同じエピで子守やおむつ替えをしてもいましたが、無理にこういうのを入れる必要はないと思います。さらにこれは前に書いていますが、その当時、このような形で会食をすることがあったのだろうかと思う描写もあります。
お船のそばの火鉢に鍋があり、そこから汁物を注いでいるわけですが、当時の越後でこのような習慣はあったのでしょうか。他にも、夫婦が差しで話をしているところも結構出て来ます。
別にこういうのはあってもいいのですが、とにかく登場回数が多すぎます。戦国にありがちな軍議や戦闘、さらに兼続が政務を行っているところ等々の尺が、全部持って行かれている感じです。
そしてかまくらのシーン。
今でも北日本では年中行事でかまくらを作り、水神を祀る習慣がありますが、その当時祭事でなく、こういう子供の遊びでかまくらを作るということはあったのでしょうか。それと、もう少しかまくらにリアリティを持たせてほしかったです。
さらに秀吉の甥の秀俊(後の小早川秀秋)が毛利家に養子に行く件で、景勝の正室の菊姫が口を挟むところですが
こんなところに奥さんが出てくるべきなのかと思うのですが…こういうのが『花燃ゆ』とどこか共通するのですね。『花燃ゆ』では何でもかんでも美和がしたことになっていましたが、
『天地人』でも、兼続が五大老五奉行を考え出して、さらに秀吉の前で、今後のことをお考えくださいとまで言っていました。『真田丸』では秀長がそう言っていて、だからこそ説得力があったのですが、なぜ兼続?しかも三成が嘘泣きまでして、後でうまく行ったとドヤ顔になる辺り、脚本がいささか乱暴に過ぎるきらいがあります。
無論『真田丸』でも女性や子供が登場するシーンは多々あります。たとえば最初の方、小山田茂誠を匿っている松、きり、梅が、信幸の前で素知らぬ顔をし、信幸が訝るシーンです。
こういうのも賛否両論ありますが、合間合間に入れるのであればそれも納得です。これより後、信繫が大坂に行って後は、こういう女性たちの集いもありました。
私見ではありますが、『
天地人』より『真田丸』の方が、女性たちに武家の女性としての役割をきちんと背負わせている気がします。この稲や、上の画像左の阿茶局などは、その典型でしょう。「女性を動かす」とは、本来そういうものではないでしょうか。こちらは稲が、昌幸と信繁の関ヶ原後九度山への配流が決まり、助命嘆願をと訴える薫と松に、もはや父上とは縁を切るべきと告げるシーンです。
『天地人』の場合、この沼田城の稲のように、武勇で知られた女性がいないのも、本来の意味で女性を動かすうえで、やや不利になったとはいえるかもしれません。
それから子供たちも、やたらに出すのではなく、戦闘シーンの合間にこういう形で登場させるのは、何やら和むものがあります。稲とこうが大坂から脱出し、百助と仙千代を連れて昌幸に会うところです。
なおこの『天地人』と『真田丸』比較、一応大坂の陣編も予定しています。