『武将ジャパン』大河コラムその2です。それから先日投稿分で、第32回を第31回に、本文中の「悪逆非道」を「極悪非道」にしていましたので、それぞれ訂正しています。
なんとなく偉そうな正信。なぜ、ここまで大きな態度でいられるのか。
軍師的ポジションならば、まずは天候の話をするのが自然な流れでは?
風が強ければ火を使うとか。
雨が降るならば水害を利用するとか。
そういう見通しが一切なく、未来を知っているからこその結論(中入り)をドヤ顔で出してくる。
この時まず家康が
「お主が秀吉方ならどう攻める?」
と訊いているわけです。すると正信がここを攻めると石を落とす、つまり三河へ攻め入ると答えています。
実際相手は大軍で、三河中入りに手勢を割くことは可能であり、だからこそそれを阻止するため、堀の工程を一部変更して、抜け道を作るに至った、そういう流れではないのでしょうか。
これは野戦ではないし、季節的に雨が多いわけでもなく、必ずしも天候の話に結びつける必要もないかと。
そして「未来を知っているからこその結論」絡みなのか、
「同じ脚本家の映画『レジェンド&バタフライ』の帰蝶もそうでした」
とありますが、毎回毎回同じネタばかり出してくるのもどうかと思います。古沢氏叩きなのでしょうが。
豪華キャストが鬼武蔵こと森長可を演じるということで話題をさらっていました。
誰が見てもカッコイイ。
確かにそうですが、あの恐ろしいイメージの森長可なのに、陣羽織が真っ白で血の一滴すらついておらず、凄みが感じられない。鬼武蔵を出すならば、あえて首を二~三個束ねて持ち運ばせるシーンとか、生首から滴る血を舐めさせるとか、血まみれの握り飯を食うとか。
感染症なんて関係ねーわい――という鬼ならではの個性が欲しかった。
第27回で、安土城で淀の鯉が振舞われた際、信長が光秀を折檻するシーンでも、かなり制約があったことを武者さんはご存知かと思います。
今の時代、
「あえて首を二~三個束ねて持ち運ばせるシーン」
「生首から滴る血を舐めさせる」
いずれもアウトでしょう(血まみれの握り飯はどうだかわかりません)。武者さんの言う凄みは何とも猟奇的ですね。
それと
「感染症なんて関係ねーわい――」
大河収録でも感染症対策にかなり注意が払われていると思いますが、その思いを無にするような発言ですね。
今後、そうした武将の登場機会があれば、月岡芳年『魁題百撰相』でも参考にしていただきたい。あれは芳年が上野戦争を目撃した結果の絵ですので、人間のリアルな狂気が伺えて実によいものです。
NHKの夜8時ではきついかもしれませんが、血しぶきだけは好きな本作ですので今さらではありませんか。
月岡芳年も頻繁に出して来ていますが、なぜ戦国の武将を描くのに、同時代人でもない、幕末から明治にかけての浮世絵作家の作品を参考にする必要があるのか不思議です。
そして
「血しぶきだけは好きな本作ですので」
血しぶきがそこまで出て来ますか?
井伊直政と本多正信をバディにしたいというのはわかった。
ただ、描き方がひどく稚拙に見えます。
『麒麟がくる』の明智光秀と細川藤孝とか。
『鎌倉殿の13人』の畠山重忠と和田義盛とか。
彼らのように複雑で物悲しい人物同士の繋がりが、本作では全く描けていません。
今まで二人の関係性が全く描かれてなかったから、しょーもない回想を入れて間を持たせただけのように見えます。
また『麒麟』に『鎌倉殿』が叩き棒ですか。
光秀と藤孝、重忠と義盛のような結びつきは、そもそもこの2人にはありません。
かつて家康を殺そうとしたことがある、しかし正信は追放で許され、直政も家臣として取り立てられている。そういう自分たちをなぜ殿は許し、信じるのか、戦無き世を作るのはそういうお方だと直政が言う、このシーンで一番強調されるべきはこの部分だと思いますが、なぜかその点については何も書かないのですね。
どころか、
それだけでなく、直政の顔の汚し方も、正信の握り飯の食べ方も、とにかくわざとらしくてリアリティがない。
過去のエピソードがあまりにお粗末なので、二人は役に入り込めているのか?と不安になりながら見てしまいます。
ああいう作業では顔は泥まみれになるでしょうし、正信の握り飯の食べ方も、どこがわざとらしいのでしょうか?
そして
「二人は役に入り込めているのか?と不安になりながら見てしまいます」
武者さんが心配することではないと思いますが…。
それに前述のように、井伊直政はあまりに細い。
腕の細さは困惑するばかりで、それでも彼を登用したいなら、見た目とは違って戦場ではとにかく非情だという一面にスポットを当てるべきではありませんか?
その「戦場では非情」というのは、これから出て来る可能性がありますね。
それと人を見た目で判断するなといった記述が多い割に、こういう時は見た目をことさらに強調するのですね。
ハッキリ言ってしまえば、力仕事は別の武将に任せるべきだったでしょう。
『鎌倉殿の13人』の八田知家は、土木工事担当キャラクターでした。あの丸太のような腕と分厚い胸板なら、圧倒的な説得力があった。
今年は適材適所が全くなっておらず、だからこそ物語も薄っぺらく感じてしまいます。
八田さんの場合は正に土木専門でしたが、この場合は家臣たちが、人夫たちに交じって土木作業に駆り出されているわけで、意味するものが違うかと思います。
そしてまた「適材適所」。武者さんの場合は、自分が描いてほしいシーンに、自分が好きな俳優さんを出してくれという意味のようですね。
なにかすごい図面があるらしい。
いや、だから、どうすごいのか?それを説明するのがドラマではありませんか?
このドラマは戦場での説得力が圧倒的に欠けていて、ため息をつくしかありません。
「すごい図面」?
工事現場で忠勝が言っていた「見事な図面」のことでしょうか?
元々図面を描いた康政にしてみれば、戦場で忠勝にかなわないから「おつむを鍛えた」わけで、それがこの図面を生み出したと思われますし、また家康が、秀吉に気づかれずに中入り勢を叩けばよいと言って、部分的に手直しを施しており、そう言った意味での「見事な図面」なのでしょう。
にもかかわらず
「昭和平成の中高生が「おめーって、マジすげーよ」「ベンチ入りするなんてヤバい」と言い合っている程度の描写しかできない」
「なぜ、そんな限定的世代の青春コメディしか描けないのに、大河をやろうと思ったのか」
なのだそうです、武者さんとしては。
今年の場合、出演者もそうですが、制作スタッフ叩きがとにかく半端ないですね。にもかかわらず、ドラマ本編をきちんと観ているようには見えないのですが。
「出て欲しくないリスト」にいた羽柴秀次が、ついに出てきていまいました。
今後おそらく、彼の立ち位置を満足に説明せず、妻妾惨殺だけはねっとりと描くのでしょう。
そうなれば駒姫の描写は避けられず、頭の痛いところです。
武者さんが「出て欲しくないリスト」に入れていようがいまいが、スタッフが必要と判断すれば登場します。
そして「妻妾惨殺だけはねっとりと描くのでしょう」、これまたスタッフにも、そして豊臣秀次という歴史上の人物にも失礼かと思うのですが。
まっとうな徳川家康のドラマならば、最上義光との関係は重要ですが、今年はそうでない。
このドラマが本当に最新の学説を取り入れるのであれば、87年の大河ドラマ『独眼竜政宗』の頃からはるかにアップデートされた東北戦国史が描かれればよいですが、せいぜい伊達政宗が登場して終わりではないでしょうか。
「まっとうな徳川家康のドラマ」とありますが、今まで最上義光が役名入りで登場したのは『独眼竜政宗』のみです。1983年の『徳川家康』、2000年の『葵 徳川三代』いずれも出て来ていません。
そして
「このドラマが本当に最新の学説を取り入れるのであれば、87年の大河ドラマ『独眼竜政宗』の頃からはるかにアップデートされた東北戦国史が描かれればよい」
とありますが、これは徳川氏のドラマであり、東北戦国史とはまた違います。
それと政宗の頃からはるかにアップデートした東北戦国史て、たとえばどのような史料や新説があるか、それを明確にして貰えないでしょうか。
そもそも、この時点では「羽柴秀次」ではなく、まだ信吉のはず。
本作は名前の変遷をやらず、一番通じる名前だけで通すようです。
では、これをもう1度貼らせてくださいね。
「明智光秀の首を取ろうと思ったら豊臣秀吉に先を越されちゃった」
繰り返しますがこの当時は羽柴秀吉であって、豊臣秀吉ではありません。
「名前の変遷をやらず、一番通じる名前だけで通す」のは武者さんも同じです。
それと秀次は、既に天正9(1581)年には秀次を名乗っていたという説もありますね。
今週もド近眼設定を忘れたレーシックお愛。
(中略)
こうして「レーシック」と近眼設定に触れると、「そんな細かいことはどうでもいい」という意見もあるかもしれません。
違います。
この近眼設定を忘れることそのものに、このドラマの本質がみっちり詰まっているのです。
まず、あの岡崎城のシーンのどの部分が、「近眼設定でない」と言い切れるのでしょうか。
それに関する記述が、まるで抜け落ちていますね。
そしてそのドラマの本質なるものですが、
「(於愛が)同じ近眼の人々に情けを施し、それが慈愛ある姿として記録されているからでした。
もしも彼女の魅力が「優しさ」にあると真摯に思っていれば、そこを間違えるはずがありません」
とあり、そしてその後は、例によって例の如くと言うべきでしょうか、
「過去作品でいえば『麒麟がくる』の駒を嫌いそうな感受性ですね。
駒は、光秀の父に救われた結果、医学を身につけ、多くの人を救う医者になりました。
たったひとつの少女の命を救うことで、助かる人がたくさんいる。人間の命をひとつひとつ大事にするという彼女の心は、作品の根幹にあるテーマの象徴だったと思います」
なのだそうです。さらにこうも書かれています。
「そこを読み取れず、小馬鹿にしてヘラヘラ笑っているのだとしたら、どういう感受性なのでしょう」
何のことはない、結局駒に絡めて於愛を叩きたいだけではないのかと思ってしまいます。
一方で於愛。彼女と家臣の妻たちが、三河中入り勢がやって来ると聞かされた時、この岡崎は我らの手で守り通す、徳川の勝利を信じようぞと呼びかけています。
於愛が近眼でないと思われる描写もないし、まして人命をおろそかにする描写も出て来ません。
何よりもこの大河では、於愛が近眼の人々に情けを施すシーンはまだ登場していません。
あともうひとつ。
「クライマックスになるなる詐欺」とやらで、家康が何度も
信長を倒す。
秀吉を倒す。
これが最後の大戦。
と嘘をついているとあり、
秀吉は床几に腰掛け顔芸タイム。
家康は詐欺タイム。
徳川家臣は青春タイム。
レーシックとその周囲は女子マネタイム。
そんなことより、もっと合戦シーンに注力すべきではありませんか?
とまで書かれていますが(ついに於愛が『レーシック』だけになりましたか)、まず家康は、当該の相手を倒したいと思いつつ、状況によってそれを阻まれてしまっています。ただその敗戦あるいは果たせぬ思いを繰り返すことにより、成長して行くわけです。無論その成果が出るまで、もう少し時間がかかるでしょうが。
そして秀吉、家康、家臣、於愛のシーンのいずれもが、合戦を描くパーツとして機能しているわけですが、それを読み取れていませんね。ならば武者さんが言う合戦シーンて、どういうことなのかと思っていたら、
合戦というのは、何も戦うばかりではなく、先に申しましたように、本多正信がもっと様々な想定を提案して家康に投げかけてもいいし、地図を使った戦術のシミュレーションだってあるでしょう。
だから正信は、三河の方が狙われると警告していますよね。そして康政は図面を描き替えて抜け道を作らせ、それに従って本軍が出て行き、中入りに向かった池田・森両軍を討ち取っているわけです。これも合戦シーンではないのですか。
「本多正信がもっと様々な想定を提案して家康に投げかけてもいいし」
「地図を使った戦術のシミュレーション」
ではその様々な想定とはどのような想定で、地図を使ったシミュレーションとは、どういう戦術のシミュレーションなのでしょうか?
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