『武将ジャパン』大河コラム、第25回前半に該当する部分への疑問点です。それからまたしてもお詫びになりますが、あらすじと感想で、北条頼時を泰時としていました。いずれ泰時と改名はしますが、現時点では頼時なので書き直しています。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第25回「天が望んだ男」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
まず全成の占いのシーンについて。ここだけ長いので、他の部分とは別にしています。また、前後を多少入れ替えています。
この占いに関して武者さんは
全成のアドバイスは全体的に説得力が感じられません。
(中略)
ここでも大江広元あたりなら、なんとか言い抜けを考えそうですが、そうはなりません。お得意の祈祷をしないあたりが全成の気の小ささかもしれない。それでダメだったらどうしようもありません。
個性が埋没しがちな全成。
頼朝が重視していた陰陽道。
その要素を踏まえて、こんな興味深い描写にするのだから技巧が光りますねー。
しょうもないお笑いの場面のようで、当時の価値観や宗教観がわかる、かなり難しい場面。
(中略)
ただ、全成の忠言もデタラメでした。妻の実衣(阿波局)にツッコまれて白状。赤い服はまずいと全成は妻に言いますが……。
私はこの部分は多分にコント的だと思っていたし、全成にしても、頼朝から矢継ぎ早に何がよくないのかどうかと訊かれ、適当なことを述べたに過ぎないでしょう。これは大姫の時も似たようなものだと思います。
ですから「説得力がない」にしても、「個性が埋没しがち」でも特におかしくはないし、「当時の価値観や宗教観」が全くないわけではないにせよ、このシーンは
「まだ死にたくない、そのために厄除けをしたい頼朝」と
「鎌倉殿である兄の手前、何かを言わなければならない全成」
の、掛け合いのようなものではないでしょうか。何よりも、最後の部分で全成の忠言がデタラメなどとあるのですから、寧ろこれから遡って行った方が、このシーンは読み解けそうです。
で、
当時の宗教観なども交えながら、少し考察してみましょう。
などとあるのですが、その中でこれは如何かと思う部分をピックアップしておきます。
・そもそも「夢占い」ってどうなん?
夢占いは迷信である――。
実は中国でも魏晋時代、日本なら邪馬台国の頃から、すでに夢占いは廃れていました。それを頼朝に告げないのはよろしくありませんね。
そんな大昔に夢占いは廃れていたでしょうか。平安時代には夢占いは盛んに行われていました。中国大陸に於いては、この魏晋時代を境に、公的なものであった夢占いが世俗化されたと伝えられています。大阪大学の湯浅邦弘教授によるものですが、一応URLを置いておきます。但し1995年の研究であり、その間また何らかの新節が登場した可能性はあります。
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/6009/mrp_029-001.pdf
(12ページ)
・昔を振り返る人に先を託す
これはよいとは思います。
これ、「昔を振り返る」と「人に先を託す」は別々だと思います。だから義盛の館で、昔のことを振り返ってはいけないとなったわけでしょう。
1.それにしても、頼家も、頼時も、元服して烏帽子を被り、前髪をなくすと見た目がグッと締まりましすね。日本を代表する時代劇美男は、やはりこうでなくては。
2.堯舜のように政治は徳が高い人がやるべきであり、吟味を重ねた方がいいと言うのは三善康信でした。
堯舜とは古代中国の聖なる君主です。一人ではなく、堯と舜の二人。後に北条泰時が「堯舜のようだ」と評されることとなります。
3.例えばイギリス王室では王位継承順位が数百人単位で決められています。あの王室が盤石とされるのは、それだけ後継者が多いからなんですね。
4.イライラを募らせるりくに対し、鎌倉では義時の異母弟である北条時連(北条時房)が、これまたノホホンと伊豆から届いた鬼灯(ほおずき)を抱えています。
頼朝の部屋が暗いからそこに飾って――姉の政子からそう指示される時連ですが、おっとっと、「赤が不吉」だという情報は共有なされていないのでしょうか。
5.愛嬌たっぷりの御家人おじさんたち。
ポイントは、訴訟で土地の分配や権利を決めている点でしょう。
中世は暴力的な時代であり、何かあると殺し合いで決着というようなこともありました。【曽我事件】の発端である曽我兄弟の父の死も、その一例ですね。
1、まず烏帽子を被って前髪を垂らす人はあまりいないと思います-サブカル的な作品は別です。それと
「日本を代表する時代劇美男」
とありますが、何だか昔風な言い方ですね。それと坂口さんも金子さんも「時代劇俳優」という印象はあまりありません。この場合、大河ドラマに出るからにはこうでなければと言うのならわかります。
2。武者さん、必ずこれに言及すると思いました。ただこの場合は、三善康信が堯舜を引き合いに出したことで、頼家、ひいては一幡をディスるような意味に取られ、比企能員を怒らせてしまったことから、この引用は失敗例と言うべきかもしれません。
3、以前見た何かの記事にあったのですが、何千人もいるためデメリットになることもあるようです。最低限のバックアップ要員は必要ですが。
4、その「赤が不吉」というのは、後で頼朝がいかんと取り外したことで初めてわかる=情報は共有されていないわけですね。そもそも頼朝は他には誰もこのことを話しておらず、だから不思議がられるのだと思いますが。
あとほおずきは死者を導く提灯の意味がありますから、頼朝はその意味でも、縁起でもないと思ったかも知れません。『鬼灯の冷徹』というアニメがありましたが、あの鬼灯は鬼神ですね。そしてこの植物はナス科で、範頼のナスともどこか通じるものがあります。
5、中世と言ってもこの後、室町時代辺りまでが含まれます。この場合は「鎌倉時代初期」でしょう。
6.といっても、時代はまだまだ中世であり、トークスキルや印象によって決まってしまう傾向があったのです。
道理を聞いて吟味して、判定が下されるのは、北条泰時の統治まで待たねばなりません。
7.話が先走りましたが、武力ではなく統治能力が頼朝によって持ち込まれ、それが御家人を安堵させていたことにご注目ください。
8.その噂(注・範頼の件は比企が絡んでいたということ)を流したのは、なんと時政でした。それもあってか、比企を頼家の正室にしたがっていないとか。
9.時政は大したものですね。【曽我事件】でかけられた疑惑を晴らすのであれば、別の方向へ頼朝の目線を向けたらよい。一石二鳥のよい策を思いついたものです。
本人が考えたのか、それともりくが吹き込んだのか。手強い人物となったものです。
10.「まだお怒りですか……お怒りのようだ。なんです? そのまるで永遠(とわ)のお別れのようなお顔は」
比企尼はじっと無言で座っています。
頼朝は怯え、仕事があるとその場を立ち去る。
と、比企尼は眠っていただけでした。最近はどこにいてもすぐ眠ってしまうとか。
「あ、佐殿は」
そう言いますが、行ってしまったあとです。お話したかったのに、そう悔やむ比企尼です。
頼朝は相当自信を失っています。
傍若無人ならば、年老いた尼になんて怯えない。冷静になれたら、居眠りに気づけたかもしれない。
結局のところ、彼は自分自身の恐怖を相手の中に見てしまい、怯えているのでしょう。
6、つまりこの場合は、御成敗式目の制定ですね。『吾妻鏡』では特に、泰時は好人物として書かれていますが、この書物が北条得宗家目線であることも、考えておく必要があります。それとこの場合、私もやっていますが、「頼時(後の泰時))」とした方がいいかも知れません。
7、だからこそ、大江広元が鎌倉に下向し、その礎を築いたと言えるのですが。
8、比企と言うよりは、比企一族の出身のせつですね。
9、りくが考えたのなら、あそこまで比企の台頭を不安視しないかと思いますが。
10、この部分ですが、比企尼は眠っておりましたと言いつつ目を開けています。本人は眠っていたつもりでも、実際はどのような会話が交わされたか覚えていなかった、あるいはわからなかったか、実際はすべてを見通したうえで、眠っていたとわざと答えた可能性もあります。
ここは「赤子に命を吸い取られる」ことに恐怖を覚えていた頼朝が、尼の様子もおかしいということで、さらに落ち着きを失ったと見るべきかとも知れません。
そして
「傍若無人なら」
とありますが、頼朝が傍若無人に振舞うような描写はここではないのですが。
11.おいおい。弓術はダメ。『貞観政要』読解でも北条家の頼時に水をあけられている。そこだけ強者であることを証明してどうなるのか。
12.頼時がキラキラとした目で「御家人ランキングを作っていた」と重忠に語りかけます。
(中略)
そして全てを兼ね備えているのは畠山重忠。
そう告げられても重忠は素っ気なく話をかわします。謙虚ですね。
13.景時は身命を賭して守ると返事をしますが、なかなかに切実なものがあります。
彼は上総広常の粛清をはじめ、御家人の恨みをかうようなことを散々してきました。
こういう懐刀は、庇護する主君がいなくなれば脆い。すかさず頼家に取り入らねば、次なる政争に敗れて破滅が待っています。
14.なんでも北側に六国見山の側に和田義盛の館があるそうで、家人から側女になった巴が住んでいるとか。
15.あの粗暴だった義盛も身なりを気にするようになりました。
11、この間もそうでしたが、こういうのの出典をきちんと出してほしいです。
12、ランキングですか、少々飛躍した感はありますね。それに一番は誰なのかと言いつつも、どういう点に於いて誰が優れているかとこの場合言っていて、そのすべてを兼ね備えているのが重忠と言うわけでしょう。それと重忠が話をかわしたのは、あまりそういうことを、北条の息子にぺらぺら喋ってほしくないという気持ちもあったからでは。
13、ここのシーンですが、景時はそこまでこの主君の運命に気づいていたでしょうか。この場合信頼のおける臣下として、当たり前のことを言っただけかと思います。無論景時が計画して頼朝を亡きものにしようとしたのであれば、また話は別ですが。
14、ここですが、巴が「家人」であるというセリフはなく、頼朝も「そばめ」とのみ言っていますが。
15、身なりを気にするというか、烏帽子はつけていますが、この当時直垂も着けない下着姿で鎌倉殿に会うとは、非礼と言っていいでしょう。だからこそ義盛が恐れ入っているわけですが。あるいは何かむつごとの後だったのでしょうか。
続きは次回にて。