先日『毛利元就』関連で、足利義稙(よしたね)について書いています。この人物は最初は義材(よしき)、次に義尹(よしただ)そして義稙と3度名を変えていますが、ここでは義稙で通します。8代将軍足利義政の後継者とされていた義視の子で、明応の政変によって将軍の座を追われ、諸国を転々とした後に将軍に復帰します。しかしここで管領の細川高国と対立し、堺に追われ、最終的には阿波で亡くなりますが、嫡子がおらず、その後の将軍継承がいくらか変則的になってしまいます。無論その前にも、足利義教のような例もあるにはありますが。
義稙失脚後は、堀越公方である足利政知の子の義澄が将軍となります。この人物は元々は僧でした。この時の管領は細川政元でしたが、この人物と義澄との反りが合わず、しかもこの政元は家臣から暗殺され、細川一門が次期当主を巡って混乱に陥ります。この隙に義稙が再び将軍の座に就き、義澄は近江に逃げます。義澄は結局この近江で病死しますが、息子が2人おり、この息子たちを有力な大名に預けていました。そのうち1人が義維(よしつな)、もう1人が足利義晴(義輝・義昭の父)です。
義維は阿波の細川氏、義晴は播磨の赤松氏の庇護下でそれぞれ成長します。その後永正10(1513)年に義晴の将軍就任が決まり、一説によれば義維共々義稙の養子ともなっています。その後義稙が失脚したことから、将軍として上洛します。しかし義稙の管領であった細川高国が家臣を殺め、細川家が内紛し、高国と対立していた弟晴元は、阿波出身の三好元長(長慶の父)の援助を受けて、義晴の兄弟である義維を擁して戦います。
これで晴元や元長が力を得、義晴は近江に逃れることになります。ただ晴元と元長が今度は対立し、元長はこれで討死します。そして晴元が擁していた義維も京に滞在できず、その一方で義晴は、復帰に向けて準備を進め、晴元と和解し、本来は将軍家の敵である六角氏とも手を組みます。さらに近衛家の娘を娶り、男子を3人儲けて順風満帆かと思われました。しかしながら、彼をバックアップしていた晴元は三好長慶と対立し、京からまたも近江に逃げた義晴は、嫡男義輝に将軍職を譲った後病死します。
この義輝は父の敵と言うべき三好長慶と対立しますが、挙兵と和睦を繰り返した挙句、永禄元(1588)年に最終的な和睦をします。しかし政権を握った三好氏は、義輝が親政を行うことに危機感を覚え、さらに一門から死者が次々と出て、長慶自身も世を去ります。既に長慶の嫡男はおらず、甥の義継が後を継いでおり、この吉次と久秀、そして所謂三好三人衆が後見を行うことになって、親政をしようとしていた義輝を暗殺します。
ここで登場するのが足利義栄(よしひで)です。この人は義維の子とされており、義輝の従兄弟に当たります。父同様阿波で育ち、三好氏主導による義輝暗殺が成功し、一躍将軍候補となりますが、三好三人衆と久秀の対立により、京ではなく摂津で将軍宣下を受けます。尚幕府の本拠地でない土地で将軍宣下を受けたのは、日本史の中でもこの義栄、そして徳川慶喜(将軍就任時は上方にいて、大政奉還後に江戸へ戻った)のみです。
ところでこの義栄に対抗するべく、織田方が一乗院の門跡であった足利義昭を候補として担ぎ出します。義昭も奈良から脱出できて、兄と同じ運命を辿らずに済んだこと、さらに信長には義昭を利用するメリットが大きかったことから、義昭は将軍、信長は実権者となって互いを利用し合います。しかし義昭は信長と対立するようになり、ついに京から追放されるに至ります。
以上、駆け足で明応の政変後の足利将軍を見て来ました。また義維は本来は義晴より年上とされていますが、母親が違ったせいか、義晴の方が優先されています。
(太字将軍経験者)
義政(8代)-義尚(9代)
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義視-義稙(10代)
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政知-義澄(11代)-義晴(12代)-義輝(13代)
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| -義昭(15代)
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----- 義維----- 義栄(14代)
結局のところ、義稙による2度目の将軍就任で京を追われた義澄は、2人の息子義維と義晴を有力な大名に預けますが、義稙の失脚後、将軍の座についたのは義晴の方でした。その後義晴から義輝と将軍職が譲られますが、その義輝が三好一味に暗殺され、代わって担がれたのが、義晴の兄弟で、将軍を夢見続けた義維の子義栄でした。三好勢に担がれたこの義栄は、しかし将軍宣下を受けながら京に入れず、しかもその後将軍の座に就いたのは、三好が暗殺した義輝の弟義昭だったのです。どうも義晴-義輝-義昭の流れに比べると、義維-義栄はいささか割を食ったところがあります。