吉乃の顔が明るくなった。夫には止められていたが、新六殿をお頼みしてよかったと言う吉乃だが、夫に止められていたという言葉に新六は悲しい思いをした。その新六はこう尋ねた。
「吉乃様、それがしが昔、生涯かけて吉乃様をお守りいたすと申したのを覚えておられますか」
突然このように言われ、吉乃は戸惑いつつもうなずく。源太郎と結婚する前、素戔嗚神社で伊勢勘十郎に乱暴されそうになった時、新六は「ご安心ください。わたしが吉乃様をお守りいたしますから」と言った後声を低めて、
「このことは生涯かけて変わりませんぞ」と付け加えたのである。
後になって、この頃親戚の間では、自分と新六との縁談が進んでいたのを吉乃は知った。新六が吉乃を助けた時のあの言葉は、やがて妻となる女性に向けられたものだったのである。しかし新六はその後江戸に追いやられた。
吉乃が恐れをその後も抱き続けることがないように、御前試合で勘十郎を叩き伏せ、ケガをさせたのが原因だった。そしてその後吉乃も源太郎と結婚し、2人の歩む道は別々の物となったが、新六は今なお吉乃への思いを失わずにいるように見えた。
それに気づいた吉乃は、源太郎を助けるように新六に依頼したのは酷いことなのではないかと思った。しかし今夜、源太郎を救えるのは新六しかいなかった。
「新六殿、わたくしは申し訳なきことをお頼みしているのかも知れません」
吉乃はうなだれた。新六はあわてて、こう言葉を継いだ。
「何を言われまするか。それがしは吉乃殿のお役に立てるのが嬉しいのでござる。よくぞそれがしを頼ってくださいました」
吉乃は言った。新六殿にご迷惑をおかけしては申し訳ない、夫が無事戻れば、自分にできることならどんなことでもさせていただくと。思いつめた表情で言う吉乃を新六は悲し気な目で見つめ、吉乃様からは既に十分なることをしていただいておりますと言った。吉乃は問い返した。
「わたくしが新六殿のために何かして差し上げたことがございましたか」
新六はその年の春、桜の花びらが舞う中で、千代太と剣術の稽古をしたことを話す。
吉乃は意外だった。しかし新六はこう言った。申し訳なきことながら、あのおり、吉乃様を妻に迎えて成した男子に剣を教えているような気持ちになり、まことに温かく満ち足りた思いがしたのだと。それを聞いて吉乃は、新六から助けられてからのことを思い出していた。
もし自分がおびえなければ、新六は御前試合で勘十郎を打ちのめすようなこともなかっただろう。新六の人生を曲げてしまったのは、自分なのではないだろうか。しかも今また吉乃は、源太郎を助けてくれと無理な頼みをしていた。
そのことがまた、新六の運命を大きく変えてしまうかも知れない。後悔の念が吉乃の胸にあふれた。自分は何と言うことをしてしまったのだろうと嘆く吉乃だが、新六は笑顔で、それがしが引き受けたからには、ご安心なさって屋敷で菅様のお帰りをお待ちくださいと言う。
吉乃を見送った新六は袴の股立ちを取り、頭巾で顔を隠して草鞋をはいた。家僕には外出したことを誰にも洩らすなと言い含めてから、新六は裏口を出た、日が落ちて薄闇となったいた。新六は、主膳が下城の際に、大手門の近くの松並木で囲まれた馬場を横切るため、主膳が襲われるならその馬場だろうと見当をつけた。
新六は吉乃に、かつて彼女を勘十郎から助けた際に口にしたセリフを、再度耳にします。それは、やがて自分の妻となる女性に向けられるものでした。実際縁談が進んでいたわけですが、新六はその後、二度と吉乃を恐れさせないように、御前試合で勘十郎を打ちのめし、ケガを負わせます。これがもとで新六は江戸へやられ、吉乃は源太郎と結婚することになり、2人の人生はそれぞれ違ったものとなって行きます。
しかし新六は、吉乃のためになることであればそれでいいと割り切っているようです。そして吉乃の無理な頼み、刺客となろうとしている源太郎を、生きて吉乃のもとに戻すという役割を引き受けます。吉乃は新六に、源太郎が無事戻ればできることをしたいと言いますが、新六は既に十分なことをしていただいていると答えます。かつて桜の散る中で、千代太に稽古をつけていた時、新六は自分が吉乃を娶り、2人の間に生まれた息子に稽古をつけているような、そういう「疑似家族体験」的なものを感じ取っており、それだけで十分であったようです。
そして新六は一匹の殺人鬼、つまり源太郎に代わって主膳を暗殺する刺客へと変貌します。かつて、霧ヶ岳の烽火台に火を放った時のように、今回も「実行犯」としての役目を源太郎、ひいては吉乃のために引き受けることになります。