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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
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『どうする家康』のコメントに突っ込んでみます その3

『どうする家康』への突っ込みその3です-毎日似たような内容ですみません。それから、先日投稿分のタイトルで、「コメントへの突っ込み」の「コメント」の部分が落ちていました。失礼いたしました。

今回は脚本担当の古沢良太氏に関してです。この人は『リーガル・ハイ』や『相棒』シリーズ、そして松本潤さん主演の『花より男子』など数多くの作品を手がけています。ですから、脚本家としてのキャリアはそこそこであるはずなのですが、今回のコメントに関しては、やはりこれはどうかと首をかしげたくなる点もあるので、該当部分をいくつかご紹介しておきます。

1. 今さら大河ドラマでやるのがちょっと恥ずかしいくらいの超ベタな偉人。なのに信長や秀吉に比べてなぜか人気がないような。ずるがしこく立ち回ったあげく棚ぼたで天下が転がり込んできたイメージだから?

「大河ドラマでやるのがちょっと恥ずかしいくらい」なら、もうやらない方がいいのではないかと思います。無論NHKの意向としては、先日も書いたように
「新時代を切り開いた人物だからやりたい」
ということなのでしょうが。
また、「というイメージだから?」と一言断っているとはいえ、
「ずるがしこく立ち回ったあげく棚ぼたで天下が転がり込んできた」
とは如何なものかと思います。この人は秀吉没後、大名たちを自分の側に引き付けるのにかなり苦労しているでしょうし、関ヶ原で勝ちはしたものの、その後がまた大変だったはずです。家康という人物への敬意があまり感じられませんね。

2. カリスマでも天才でもなく、天下取りのロマンあふれる野心家でもない、ひとりの弱く繊細な若者が、ただ大名の子に生まれついた宿命ゆえに、いやが応にも心に鎧よろいをまとわされ、必死に悩み、もがき(中略)命からがら乱世を生き延びてゆく。それこそ誰もが共感しうる現代的なヒーローなのではないか。

まず気になるのは、
「カリスマでも天才でもなく」
「天下取りのロマンあふれる野心家でもない」
などと、のっけから過去の家康像の否定に入っていることです。
無論家康という人物に対しては、人それぞれの考えがあり、古沢氏にも古沢氏なりの発想があるでしょう。しかし家康は、本当にカリスマでも天才でもないのでしょうか。戦国時代のサバイバルから天下取り、さらには徳川体制のおおもとを作り上げるに至っては、ある程度の才能と、運をチャンスに変える力がないとできないのではないかと思いますし、カリスマであるか、天才であるかは別としても(信長は天才肌だと思いますが)、無能で凡庸な人間であるのなら、江戸幕府を築くなどはっきり言って無理でしょう。
また
「天下取りのロマンあふれる野心家でもない」
と言うよりは、家康も最初から天下を取ろうと思っていたかどうか疑問ですし、『真田丸』の時の三谷氏(すみません、また引き合いに出させていただきます)によれば、「『天下取り』とは実は後付け理論で、武将たちは参日を必死に生きていた」などとも言われているのです。
それから「誰もが共感しうる現代的なヒーロー」などとありますが、乱世を生き延びるのは「現代的な」ヒーローなのでしょうかね…無理やり現代にリンクさせている印象をぬぐい切れません。

3. 主演の松本 潤さんは、華やかさと親しみやすさを持ち合わせ、私の描きたい主人公像「ナイーブで頼りないプリンス」にまさにピッタリ。

この箇所を見ていると、あの『花燃ゆ』の
「幕末男子の育て方」ならぬ、
「戦国男子の育て方」というフレーズが頭に浮かんできます。
何かこう、お花畑な大河になりはしないか、それが気になりますね。
私としては、そのナイーブで頼りない家康に、オリキャラの女性があれこれ絡む、そのような展開をつい思い描いてしまいますし、同時に『麒麟がくる』で母親の許へ戻りたがっていた、ピンクの水干を着た竹千代を思い出します。あの竹千代は子供というのを差し引いても、農民である菊丸と農民に扮した光秀に気軽に口を利いたり、あまりそれらしくない雰囲気でした。
この大河、まだどちらも始まっていないのにこう書くのも何ですが、何か『青天を衝け』と相通じる物があるように見えますし、一方で戦国という時代背景が共通するせいもあってか、『麒麟がくる』ともどこか似ているようです。

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[ 2021/01/26 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

コロナと二大偉人の暗殺

まず、『麒麟がくる』で細川藤孝を演じている眞島秀和さんが、2週間ほど前に、コロナウイルスに感染していたことがわかりました。今は症状は治まっているものの、今後の収録をどうするか影響が出そうです。撮影現場もこれではかなりピリピリすることになりそうですが、放送局、特にNHKほどの規模になると、やはり人が多い分、感染する可能性もかなり高くなるのは事実でしょう。ちなみに公式サイトではこのことは触れられていません。

それと「偉人」と一応書いていますが、先日フジテレビ系列で放送された、本能寺の変と龍馬暗殺に関して。番組中で龍馬暗殺が薩摩が関与していたとされていたことについて、薩摩関係の研究者が異を唱えているようです。私はこれは観ていないので、どのように説明がなされたのか今一つわからないのですが、そういう可能性もあると言ったのならともかくも、薩摩であると断定したのであれば、ちょっと度を過ごしていたともいえます。

この本能寺の変と龍馬暗殺は、日本史の中でも犯人を特定できない事件とされています。そのため誰が真犯人であるのかが把握しづらく、必然的に様々な人物が犯人として浮上するため、発言は慎重になされてしかるべきでしょう。この局では以前も、足利義昭と織田信長の関係についての番組が放送されていましたが、信長が如何にも義昭の「忠臣」といった描き方をされていたのが、いくらか疑問でもありました。以前室町将軍関係で書いた覚えがありますが、要は、互いが互いを利用していたのではないでしょうか。

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[ 2020/08/22 00:15 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『草燃える』の時代背景と人物設定 続き

先日源平物について書いていますが、実は大事な作品を一つ書き落としていました。それは昭和41(1966)年に放送された『源義経』です。主演は七代目尾上菊五郎さん、静御前が藤純子さんで、このお2人はこれが縁で後に結婚しています-と言うか、寺島しのぶさんと五代目尾上菊之助さんのご両親ですね。そして弁慶を演じたのが、その前年の『太閤記』で主役を務めた緒形拳さんでした。実はこの作品の一部のエピを収録したDVDがあるらしいのですが、未だに観ておりません。無論主人公であるため、義経はある程度好人物として、従来の判官贔屓的な視点で描かれているのだろうと思います。

実は『草燃える』では、義経はそこまでいい人物ではないと言うか、どちらかと言えば短慮で兄頼朝の命令に従わない人物として描かれていると言うべきでしょう。元々この人物は戦はうまく、八艘飛びなどというスタンドプレイもやってのけていますが、政治的な思慮に欠けるところがあり、それが自ら墓穴を掘る結果になったともいえます。要は平家を追討した彼を、今度は後白河法皇が取り込んで官位を与え、鎌倉と対立させるように仕向けたわけです。頼朝の家臣である梶原景時がこれを懸念し、頼朝も捕虜だけ受け取って義経一行は鎌倉に入れなかったことから、義経が謀反の意はないとして頼朝に送ったのが腰越状です。

そもそもの平家追討が、東国武家政権の樹立に関係していることを思えば、もう少し朝廷との間に距離を置くべきだったし、また兄の家臣である梶原景時を無下にするべきでもなかったのですが、それをやらなかったことが、兄弟の間に亀裂が入った一因となっています。『草燃える』では実兄(常盤御前の子)の阿野全成、子供の頃今若と呼ばれていた人物ですが、この人物が思慮深いのに比べると、如何にも単純で多少粗野な人物として描かれてもいます。結構この平家追討から鎌倉幕府樹立に至るまでは、様々な人物の思惑が絡んでいて、描きようによっては非常に面白いので、この部分をどのように描くかで、大河の面白さが決まるともいえますし、『草燃える』は義経を単にいい人物に描かなかったという点では、それまでの源平物とは趣を異にしたかも知れません。

先日は原作の一つ『北条政子』の、人物の描かれ方についても書いています。主人公の政子が一本気で激しく情にもろい性格であり、人質に来ていた義仲の子義高が窮地に陥った時、女装させて逃がすのですが、結局は捉えられて殺されてしまいます。無論政子はそういうキャラ設定なわけですが、やはりこの時代、人質を逃がせば危険人物とみなされて討たれても仕方ないわけです。また身籠っていた静の子が男児であった時も、後に禍根を残さぬようにと始末されてしまいます。こちらは、婚約者でもあった義高を殺された頼朝の長女、大姫がひどく嘆きかつ怒るわけで、こういう部分がそれぞれの気持ちはわかるものの、今一つ共感できないと言えばできない一因でもありました。

前出判官贔屓に関しても、個人的に義経にも落ち度があると思っていたせいか、そこまでこの人物に肩入れすることは未だかつてありませんでした。あくまでも兄頼朝の指揮下にある以上、命令に従わないのであれば成敗されるのは事実であり、その辺りを読み間違えていたといえます。かつて世話になった奥州藤原氏の懐に飛び込んでも、結局ああなってしまったわけですし、無論この時、頼朝と藤原氏の間にも確執が存在したのは確かです。この辺りを三谷さんは『鎌倉殿の13人』でどのように描くのでしょうか。

尚源平大河の場合、平安時代→鎌倉時代と移行しますが、細分化すると
平家全盛
頼朝挙兵、平家追討
壇ノ浦合戦
頼朝と義経の確執、奥州合戦
鎌倉幕府と源氏将軍
北条氏の執権と旧勢力粛清、承久の乱
となるかと思います。戦国時代から江戸時代において、織豊政権と江戸幕府が別であるように、源氏の将軍と北条氏の執権もまた違う時代と考えるべきかも知れません。北条氏が政権を握るようになってからも、承久の乱の前に御家人粛清がいくつかあり、大河化するに当たっては、こういうのも無論避けては通れないでしょう。

飲み物-アイスコーヒー
[ 2020/08/12 00:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

明智光秀の越前での暮らしと医師説について

既に『麒麟がくる』雑考17戦国大河考 3で、『麒麟がくる』の光秀の「寺子屋」に関して、牢人が子供を教える形式のは江戸時代の物で、この当時子供を教えるのは禅宗の寺院ではないかということを書いています。(越前の称念寺は時宗の寺院)
しかしそれ以前に、光秀がこの地で子供を教えて生計を立てていたのか、その点もよくわかりません。ということで、その辺りの事情に詳しい方に伺ってみたのですが、子供たちを教えたのは地元の伝承で、それを裏付ける史料はないとのことでした。

その方によれば、称念寺の門前に住んでいたのは無論事実で、時宗の寺院関連の史料である『遊行三十一祖京畿御修行記』に、光秀が「濃州土岐一家牢人(浪人)」であり、越前の朝倉義景を頼って、長崎称念寺門前に10か年居住したとある由。これにより、光秀は美濃の土岐家の出身であり、何か理由があって牢人となった後、称念寺門前に10年ほど居住したことは確かでしょう。
ただ、称念寺門前に住んでいた当時、光秀が何をしていたのかについては、同時代に書かれた史料がありません。そのため門前に10年程度暮らしたということしかわかっていないのです。『国盗り物語』に見る明智光秀 4で触れていますが、この『国盗り物語』では兵法や学問を教えるという設定になっています。

それとは別の説として、最近よく言われているのが、光秀が元々は医者であったというものです。『針薬方』という医術書がありますが、この中で光秀は、同時代の武士に医学知識を口伝で伝授しています。さらに京都に駐在していた折には、光秀と京の医者との交流もあるようで、これらのことから、越前時代の光秀は、医療で生計を立てていたという推測がされるようになっています。この医師説に関しては、恐らく大河関連というせいもあるのでしょう、昨年出版された早島大祐氏の著書『明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか』(NHK出版新書、2019年)に記載されています。

以上が伺った話の大筋です。実際若い頃の経歴が今一つ不明な人なので、色々説はあるかと思います。「『麒麟』が三谷大河だったら」という6月末の投稿の一部で、光秀が医師と言う設定にして、三谷氏が脚本を書いたらどうなったろうかとも書いてはいます。
もし史実として信憑性に欠けると言う意見があるのなら、大河でなくBS時代劇辺りで、この医者としての光秀を描いても面白かったかもしれません。大河もドラマなのでフィクションはあるのですが、歴史上の人物を描く以上、ある程度の史実を入れざるを得ず、どういう史実をどのように入れるかが難しいと思われますので。

あるいは、『JIN-仁-』戦国編として、南方仁が若き日の光秀に出会うというところまで発想を飛ばしてみたのですが、流石にカスパル流外科術のない時代、それはやはり厳しいでしょうか。

飲み物-アイスコーヒーブラック
[ 2020/07/08 20:18 ] その他 | TB(-) | CM(0)

戦国期の将軍たちについて大まかな解説

先日『毛利元就』関連で、足利義稙(よしたね)について書いています。この人物は最初は義材(よしき)、次に義尹(よしただ)そして義稙と3度名を変えていますが、ここでは義稙で通します。8代将軍足利義政の後継者とされていた義視の子で、明応の政変によって将軍の座を追われ、諸国を転々とした後に将軍に復帰します。しかしここで管領の細川高国と対立し、堺に追われ、最終的には阿波で亡くなりますが、嫡子がおらず、その後の将軍継承がいくらか変則的になってしまいます。無論その前にも、足利義教のような例もあるにはありますが。

義稙失脚後は、堀越公方である足利政知の子の義澄が将軍となります。この人物は元々は僧でした。この時の管領は細川政元でしたが、この人物と義澄との反りが合わず、しかもこの政元は家臣から暗殺され、細川一門が次期当主を巡って混乱に陥ります。この隙に義稙が再び将軍の座に就き、義澄は近江に逃げます。義澄は結局この近江で病死しますが、息子が2人おり、この息子たちを有力な大名に預けていました。そのうち1人が義維(よしつな)、もう1人が足利義晴(義輝・義昭の父)です。

義維は阿波の細川氏、義晴は播磨の赤松氏の庇護下でそれぞれ成長します。その後永正10(1513)年に義晴の将軍就任が決まり、一説によれば義維共々義稙の養子ともなっています。その後義稙が失脚したことから、将軍として上洛します。しかし義稙の管領であった細川高国が家臣を殺め、細川家が内紛し、高国と対立していた弟晴元は、阿波出身の三好元長(長慶の父)の援助を受けて、義晴の兄弟である義維を擁して戦います。

これで晴元や元長が力を得、義晴は近江に逃れることになります。ただ晴元と元長が今度は対立し、元長はこれで討死します。そして晴元が擁していた義維も京に滞在できず、その一方で義晴は、復帰に向けて準備を進め、晴元と和解し、本来は将軍家の敵である六角氏とも手を組みます。さらに近衛家の娘を娶り、男子を3人儲けて順風満帆かと思われました。しかしながら、彼をバックアップしていた晴元は三好長慶と対立し、京からまたも近江に逃げた義晴は、嫡男義輝に将軍職を譲った後病死します。

この義輝は父の敵と言うべき三好長慶と対立しますが、挙兵と和睦を繰り返した挙句、永禄元(1588)年に最終的な和睦をします。しかし政権を握った三好氏は、義輝が親政を行うことに危機感を覚え、さらに一門から死者が次々と出て、長慶自身も世を去ります。既に長慶の嫡男はおらず、甥の義継が後を継いでおり、この吉次と久秀、そして所謂三好三人衆が後見を行うことになって、親政をしようとしていた義輝を暗殺します。

ここで登場するのが足利義栄(よしひで)です。この人は義維の子とされており、義輝の従兄弟に当たります。父同様阿波で育ち、三好氏主導による義輝暗殺が成功し、一躍将軍候補となりますが、三好三人衆と久秀の対立により、京ではなく摂津で将軍宣下を受けます。尚幕府の本拠地でない土地で将軍宣下を受けたのは、日本史の中でもこの義栄、そして徳川慶喜(将軍就任時は上方にいて、大政奉還後に江戸へ戻った)のみです。

ところでこの義栄に対抗するべく、織田方が一乗院の門跡であった足利義昭を候補として担ぎ出します。義昭も奈良から脱出できて、兄と同じ運命を辿らずに済んだこと、さらに信長には義昭を利用するメリットが大きかったことから、義昭は将軍、信長は実権者となって互いを利用し合います。しかし義昭は信長と対立するようになり、ついに京から追放されるに至ります。

以上、駆け足で明応の政変後の足利将軍を見て来ました。また義維は本来は義晴より年上とされていますが、母親が違ったせいか、義晴の方が優先されています。
(太字将軍経験者)

義政(8代)義尚(9代)
義視-義稙(10代)
政知-義澄(11代)義晴(12代)義輝(13代)
     |                            |
     |                            -義昭(15代)
     |
     ----- 義維----- 義栄(14代)

結局のところ、義稙による2度目の将軍就任で京を追われた義澄は、2人の息子義維と義晴を有力な大名に預けますが、義稙の失脚後、将軍の座についたのは義晴の方でした。その後義晴から義輝と将軍職が譲られますが、その義輝が三好一味に暗殺され、代わって担がれたのが、義晴の兄弟で、将軍を夢見続けた義維の子義栄でした。三好勢に担がれたこの義栄は、しかし将軍宣下を受けながら京に入れず、しかもその後将軍の座に就いたのは、三好が暗殺した義輝の弟義昭だったのです。どうも義晴-義輝-義昭の流れに比べると、義維-義栄はいささか割を食ったところがあります。

飲み物-ウイスキーストレート
[ 2020/07/04 01:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)

「三谷大河だったら」続きと『歴史秘話ヒストリア』

まず先日の「禅宗の寺院と武将の学問」で、称念寺を称名寺と書いていたのを訂正しています。それから他の記述も一部直しています。それから、もし三谷幸喜氏が『麒麟がくる』の脚本を担当していればの件ですが、それについてはこの1つ前の投稿で触れています。またこの投稿で、山本耕史さんがもし光秀を演じた場合のキャストについて書いています。

「土方歳三」が演じる「明智光秀」のキャストを考えてみると

尚この投稿でのキャストはこうなっています。(敬称略)
明智光秀-山本耕史
斎藤道三-内野聖陽
帰蝶-波瑠
斎藤義龍-細田善彦
明智光安-生瀬勝久
織田信長-岡田准一
羽柴秀吉-濱田岳
足利義輝-藤木直人
三淵藤英-栗原英雄
細川藤孝-西島秀俊
煕子-黒木華

個人的に本木雅弘さんが道三を演じる際、ちょっと力が入っているかなと思ったことに加え、私としてはやはり、染谷将太さんと信長のイメージが今一つ噛み合わないと思うせいもあるでしょう。本木さんは明智光安の方が向いていたようにも思われます。

そして染谷さんですが、先日放送の信長の新説を扱った、『歴史秘話ヒストリア』の「ノブナガ万華鏡」の中で、信長は自分のイメージではない、だから違う信長をやると思ったといったことを述べています。確かに染谷さん、何かやらかしかねない雰囲気はあります。子役時代に出演した『相棒』の「目撃者」の演技で既にそれを感じますが、それと信長が天下を取るために成し遂げたこととは、やはりいくらか違うような気がしています。
大体においてこの番組は大河の番宣的なところがありますが、私が一番見たかったのは、やはり『国盗り物語』で信長を演じた高橋英樹さんでした。次の日曜の大河枠特番が、『国盗り物語』と言うのもあるのでしょう。20日の『ブラタモリ』の一乗谷編再放送も、それを意識してのことかと思われます。実際高橋さんの、あの「是非に及ばず」の間の置き方は印象的でした。

この高橋さんを始め、様々な大河で多くの俳優さんが信長を演じて来ているため、私としてはそういった俳優さんたちから、信長の1つのイメージを作り上げており、それが今の大河の信長に馴染めない一因でもあります-これは私の周囲にも似た意見があります。何より現存の信長の肖像画が本物であるのなら、やはりこの人物はああいう細面細身のイメージだったと思われます。
そういう意味から信長の外見は従来通りで、内面を多少変えるのであれば特に異存はありませんでした。ただ内面のみならず、外見もそれまでとかなり変えているため、それが観る側に違和感を生じさせたのではないかと思います。実際「麒麟がくる雑考11」で、私はこう書いています。

信長を今までと違うイメージに描こうとしていていて、言っては何だがとっちゃん坊やのようになっている。やはり今までの大河で培われた信長のイメージは大きく、その辺りも活かしながらそれまでとは違う方向に持って行くべきだった。また平手政秀が意外に出て来ないのが残念

この場合特に
「やはり今までの大河で培われた信長のイメージは大きく、その辺りも活かしながらそれまでとは違う方向に持って行くべきだった」
を言いたかったのですが、なぜそれができなかったのでしょうか。またここでとっちゃん坊やなどと書いていますが、実際どこか色物的にも見えてしまいます。無論染谷さんに対して悪気はないのですが、この信長の設定はどうにも疑問ありです。
無論今までも、例えば『風林火山』でGacktさんが上杉謙信を演じるなど、かなり思い切ったキャスティングもあったのは事実ですが、この場合勘助と由布姫の話がメインであったとは言え、正統的かつ当時の非情さをも描いた戦国大河であったせいか、そこまでの違和感はありませんでした。

それとこのヒストリアの明智光秀ですが、なぜか制作サイドとしては、本能寺の変の首謀者のイメージが強いと考えているようです。ただそれは事実であり、なぜそれに至ったのかがもっと描かれてしかるべきと言うのは今までも書いて来ました。そもそも総集編であるにしても、『国盗り物語』を観たことがある人なら、光秀がそうなるには、理由があったと言うのはわかるでしょう。
無論『国盗り物語』の場合は信長の性格が一因ですが、最近は信長もまた、そこまで熾烈な人物ではなかったという説も出ているわけです。ならば一層なぜその結果に至ったか、それをドラマの中でも、もっと視聴者に納得させる必要があるかと思います。実際彼のやった一番大きなことは、本能寺の変ではあるのですから。それと医学を学んでいた説が登場しますが、これは数年前から言われているようですね。

この番組は確かに信長の今までとは違った一面、光秀の新説の紹介にはなってはいますが、やはりこれだけではどうにも物足りなさが残ります。それから信長ではありませんが、室町将軍に関しては書籍を購入しているので今度調べる予定です。

あとこの大河では斎藤義龍が意外と描かれていませんが、この人物と美濃の内政を考えると、道三がなしえなかったことが見えて来ると思われます。大河絡みで今までの説を覆すのなら、この人物にも注目するべきでしょう。
(2020年6月19日及び26日加筆修正)

飲み物-ミルクティ2
[ 2020/06/19 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

禅宗の寺院と武将の学問

以前にも書いたことがありますが、『麒麟がくる』で光秀が、子供たちに四書五経を教えているシーンがあります。ただしこの当時、四書五経は僧侶によって、禅寺で教えられていました。ちなみに光秀が子供たちを教えている称念寺は時宗の寺院であり、禅寺ではありません。これから考えるに、光秀は寧ろ、剣術や鉄砲の教師という設定にした方がよかったのではと思います-恐らくは、そちらの方も得意であったでしょう。そしてこの場合はやはり『天地人』で、子供たちが禅寺の雲洞庵で学んでいる方が、当時としてはごく自然な風景と考えざるを得ないのです。というか、上杉景勝が雲洞庵で学んだのは史実とされています。

天地人寺2
『天地人』喜平次と小姓たちが学問を学ぶ
(『天地人』DVDシリーズより)

彼らのみならず、多くの武将はやはり禅寺で学んでいました。かの豊臣秀吉というか木下藤吉郎も、尾張中村の禅寺、光明寺で字を習ったと言われています。その他上杉謙信は林泉寺の天室光育から学問を学び、伊達政宗は資福寺の虎哉宗乙を師としています。この虎哉宗乙は『独眼竜政宗』で、梵天丸に、なぜ不動明王が恐ろしい顔をしているかを教えた人物です。また『おんな城主 直虎』では、おとわたちが臨済宗の龍潭寺に勉強に通っていますし、学問とはまた異なりますが、武田信玄は美濃の禅僧であった快川紹喜を甲州の恵林寺に呼んでいます。

なぜ禅寺で四書五経が教えられるのか、それは禅宗と同時に儒学(朱子学)も伝わったからとされています。また五山文学に見られるように、この当時は漢文学も盛んで様々な漢詩が作られるようになりました。特に足利義満が日明貿易を推奨したこともあり、その貿易に必要な外交文書を作るのも、当時の五山の役目だったのです。ただ室町幕府の終焉と同時に、この傾向も終わりを迎えることになります。それから以前江戸時代の寺子屋について書いた時、当時の寺子屋でも教えられていた四書五経を落としていたので、それについて加筆しています。

飲み物-アイスミルクティ
[ 2020/06/16 00:45 ] その他 | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』雑考18続き+信長の側室生駒吉乃とは

雑考続きになります。まずは今月末から収録再開のようです。

大河ドラマ「麒麟がくる」 今月30日から収録再開へ
(NHK ONLINE)

それはともかくとして、私は次の日曜からの過去の戦国大河を楽しみたいと思います。

それから先日投稿分、ちょっと意味が通りにくいと思われる個所を直しています。
この大河の特徴の1つとして、セリフが多いこと、セリフで説明しているような感があることを、今まで何度も書いて来ました。桶狭間の戦い後、信長が待機していた光秀に、美濃を取ることを打ち明けます。しかし現時点では、光秀が本当は何者であるかもまだわからないわけで、ここでそれを明言しないのではないでしょうか。まあこの場合、光秀が待っていたという時点で創作としか思えないのですが、せめて
「今後は、帰蝶の喜ぶことでもしたいものよ。あれには世話になりっぱなしじゃ」
位言ってはどうかと思います。しかし美濃攻略と言っても、もう義龍をナレ死させているから、龍興の代になって、竹中半兵衛の協力を得たうえで、城を我が物にするところが描かれるのでしょう。

またその帰蝶、側室とその子の存在を知らされて戸惑っているようですが、この時代やはりそれはないでしょう。寧ろその逆に、
「それはめでたきこと、なぜもっと早くお話下されませなんだ」
と祝いの言葉を述べ、光秀たちが清須城に到着した際にその子はと訊かれて、
「我らが嫡男じゃ」
とでも言えば、彼女の「母親」としての覚悟のほどが窺われる展開になるのですが…。それはそうと信長の羽織が、言っては何ですがカーテン生地のように見えてしまいます。それと1つ前の回、熱田で於大の方と水野信元に会った時、絨毯が敷いてあったと思いますが、あれも本当は安土桃山時代になってからのようですね。

ところでこの吉乃、正確には生駒吉乃ですが、この人物は生駒家宗の娘で兄に家長という人物がいます。かの生駒親正とは、遠戚になるようです。かなり若い頃から信長の寵愛を受けていたようで、奇妙丸、後の信忠をはじめ子を3人産んでいることから、彼女もほぼ正室に近い扱いだったのではないかとも考えられています。というか、濃姫自身は結婚後、ほぼ記録が残っておらず、そのためその後の生涯についてはいくつも説があり、また光秀の若い頃同様創作しやすいと言えます。よく大河に出て来る、本能寺で自ら薙刀を振るい、明智兵の槍にかかって死ぬ濃姫というのは、こういった説の1つに基づいた人物像です。

一方で吉乃ですが、こういうコラムがあるのでご紹介しておきます。リンクは貼りませんので、興味のある方はコピペしてのアクセスをお願いします。

武功夜話 7.「信長」と「吉乃の方」とのラブストーリー そして短い生涯
https://www.city.konan.lg.jp/kurashi/kankou/1004828/1004071/1004084.html
(江南市公式ホームページ)

君の名は希望 =久菴とは、濃姫とは=
http://www.ikoma-yashiki.com/?p=322
(一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫)

尚この「久菴」とは吉乃のことです。

飲み物-チューリップグラスのビール
[ 2020/06/11 00:45 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

北条義時が支配した時代

1つ前の投稿で、三谷幸喜氏について書いていますので、ここで再来年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代背景についても少し書いておきます。まず壇ノ浦合戦によって平家は滅び、鎌倉幕府が本格始動することになりますが、その壇ノ浦の前の戦いで、既に鎌倉殿(その当時は源頼朝)と縁続きになっていた北条氏も参戦しており、義時はこの時に甲斐源氏を味方に引き入れて、頼朝からの褒賞を受けています。

実際に義時が表舞台に立ったのは頼朝の没後で、若く暴走しがちな頼家をコントロールするための、十三人の合議制に名を連ねます。その一方で御家人を粛清したり、頼家を追放して、最終的には暗殺したりといったこともやってのけます。鎌倉時代の初期と言うのは、かなり血なまぐさい時期でもありました。さらにその後、義時は父時政、その継室の牧の方との対立を深めて行くことになります。

元々時政は嫡男宗時戦死後は、義時でなく牧の方との子、政範を後継者としようとしたとも言われています。また頼家の弟、実朝が将軍の地位を受け継いだにもかかわらず、頼朝の猶子であった平賀朝雅を将軍につけようとし、朝雅と対立する畠山氏を義時に滅ぼさせます。これによって実権を握ろうとした時政と牧の方は、しかし周囲の反発を買うことになり、頼朝の正室政子と義時から追放されます。

その後も力のある御家人たちの反発を受け、またある御家人を滅ぼすなどして、次第に義時一人が権力を握るようになって行きます。そして将軍実朝が暗殺されます。実はこの人物の暗殺には、諸説あってどれが定かなのかはわかりませんが、実朝には子がなく、鎌倉では皇族将軍の可能性も模索されていました。最終的に藤原頼経が将軍として赴くも、頼経が一定の年齢に達するまでは政子(尼将軍)と義時の二人体制となります。

しかしこの将軍後継問題により、鎌倉幕府は朝廷と対立することになります。これが承久の乱の発端です。そして幕府軍は勝利し、この乱に関与した皇族は流罪となり、荘園も没収され、六波羅探題が置かれるようになりました。この時代を権力者として生きた義時は、やはりかなりダークな一面、謀略に長けた一面をも持ち合わせていたと察せられます。

鎌倉時代というのは、源氏の将軍が三代で途絶えたため、藤原氏、後には皇室から将軍を迎えることになり、得宗が後世の幕府の将軍に匹敵する存在となって行きます。その得宗を最初に冠せられたのが、この義時であったと言われています。

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[ 2020/05/11 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『鎌倉殿の13人』鎌倉時代と北条義時

先日気持ちが傾きかけていると書いた『鎌倉殿の13人』の舞台、鎌倉時代と北条義時について少々。

鎌倉時代の成り立ちはいつなのか、それは諸説あります。かつては源頼朝が征夷大将軍となった建久3(1192)年とされていましたが、今は寿永2(1183)年、もしくは文治元(1185)年説も有力となっています。寿永2年は東国の支配権が公認された年であり、文治元年は守護と地頭の設置が、勅許により認められた年です。しかしこの鎌倉幕府は、全国を統べる政府ではなく、これはあくまでも幕府の知行地と、御家人を統治する組織でした。実際に全国に影響を及ぼすようになったのは、元寇以後のこととされています。

また将軍職を継承していた源氏の直系が三代で途絶え、その後は宮将軍や摂家将軍のもとで、北条家代々による執権が権力者となって行きます。摂家将軍は後に承久の乱を引き起こすもととなり、その後は皇室から宮将軍を迎えるようになり、皇室と鎌倉幕府を結びつける役割を果たしました。一方時代が進むにつれて、得宗家(執権を含む北条氏嫡流)は、元寇では御家人に恩賞を与えられず、御内人(みうちにん)と呼ばれる被官を優遇するようになって御家人の反発を招き、鎌倉幕府滅亡の一因となっています。

『鎌倉殿の13人』の主人公である北条義時は、鎌倉時代の黎明期から前期の人物です。源頼朝の将軍就任以前、まだ流人で会った頃に姉の政子がその妻となり、さらに兄宗時が石橋山の戦いで戦死したことにより、父時政と北条氏を背負って立つ立場となります。この戦いで頼朝が敗走した後は、状況を改善すべく時政に同行して甲斐へ向かい、甲斐源氏の説得に当たってもいます。また前出得宗とは、元々はこの義時の法名であったともいわれています。

その後平家との戦いに参戦し、奥州藤原氏を追討し、頼朝亡き後は十三人の合議制に参加しています。『鎌倉殿の13人』である所以です。元々この人物は、頼朝没後からが本領発揮と言っていいのですが、畠山重忠を殺したことや、時政と継室牧の方が、実朝を将軍の座から引きずり降ろそうとしたことなどから、時政と対立するようになり、最終的には追放しています。さらに幕府に刃向かう御家人を粛清し、執権体制の基礎固めをして行くことになります。

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[ 2020/03/21 23:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
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『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『青天を衝け』の感想も書いています。またBSで再放送中の『黄金の日日』の再放送も観ています。そしてパペットホームズの続編ですが、これは是非とも来年の大河が始まる前に、三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、『相棒』をはじめとする刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2021年には北半球最強であるブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとの試合も組まれています。このチームにいい試合をし、今後さらに上を目指してほしいものです。国内のラグビーも、2022年からはいよいよ新リーグがスタートです。

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