『武将ジャパン』大河コラム、第41回後半部分に関する記述への疑問点です。
鎌倉殿の13人感想あらすじレビュー第41回「義盛、お前に罪はない」 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
https://bushoojapan.com/taiga/kamakura13/2022/10/31/171793
1.大河によって明かされる、本当は怖かった鎌倉。なんだか気分が悪くなるから絶対に行きたくないという意見も耳に入りますわな。
だったら行かなければいいだけの話ですが…。ただ武者さんはこの『鎌倉殿の13人』のコラムを報酬を貰って書いているわけで、そういう人が口にすべきことなのかとは思いますが。
2.しかし、義盛が鎌倉殿になった場合、ウリンはどうなるのか。
鎌倉殿の上、大鎌倉殿だと言い出します。
義盛は、何も考えていないようで、重要かもしれません。
義時は鎌倉殿という権威を傀儡化することで権力を握ろうとする。大鎌倉殿なんて発想にはならない。
そもそもこの義盛の「大鎌倉殿」なる発想自体非現実的だし、政治的にはどこか大雑把で、それゆえどこか愛すべき存在でもある義盛らしいとは言えます。それでなくても朝廷→鎌倉殿→執権という多重構造ですから、政治家の素質があれば、どこかでそれをスリム化しようとするでしょう。北条という権力側の人物と、有力ではあるが一介の御家人との違いとも言えます。
3.と、ここで弟の朝時が、矢に当たって負傷したフリをして、軍列から離れます。何処へ向かうのか。
義盛は、西相模の援軍が寝返ったと義直から聞き愕然とするしかありません。
鎌倉殿の命令だと言われても、北条の策に決まっていると義盛。
力攻めしてウリンを奪い返すのみだと言い切る。
泰時は段葛(だんかずら・鶴岡八幡宮の参道)を越えたい。といっても無闇矢鱈と突撃しては、和田軍の矢で狙い撃ちにされてしまう。
と、ここで泰時は民家を壊し、塀や板を集めるように言い出します。
隣にいた平盛綱はギョッとしています。民に迷惑をかけるとは泰時らしくない。しかし……。
「仕方ないだろう。これは戦だ」
そう割り切ります。かくして作戦決行!
この中での朝時と泰時の行動に関しておかしな点が見られるため、敢えて長めに引用しています。
まず
「ここで弟の朝時が、矢に当たって負傷したフリをして、軍列から離れます」
とあり、その後この引用部分では触れられていません。しかし実際は朝時は、恐らく矢を如何にして除けるかを考えていたと思われ、何か板切れのようなものを頭上にかざして戻って来ます。板切れには既に矢が刺さっています。 泰時はこれを見て、民家の板戸を外して自分たちを守る方法を思いついたと考えられます。しかし朝時が板切れを探して頭上にかかげる部分が抜け落ちているため、泰時自身のオリジナルのような印象を与えています。
4.「もったいのうございます! そのお言葉を着方だけで満足です! みんなここまでじゃ。聞いたか。これほどまでに鎌倉殿心が通じああった御家人が他にいたか? 我こそは、鎌倉随一の忠臣じゃ! みんな胸を張れ!」
「聞けただけで」なのですが「着方だけで」になっていますね。私も時々変換ミスや入力ミスをやりますが、一応報酬を得て書いているわけですよね武者さんは。コラムをアップする前に、文章校正ツールのような物は使わないのでしょうか。
5.義時が目配せすると、それに応じた義村が矢を一斉に放たせるのです。
利で結びついた二人は、忠の象徴ともなった義盛を容赦なく殺す。
利で結びついたとありますが、この場合「利」が必ずしも悪いことであるかどうかは何とも言えません。彼らの行動は結果的に、鎌倉幕府という公的存在を利する方向に働いたとも言えそうです。そして義村がどうこうと言うのなら、一味神水までやりながら和田を裏切ったことにも言及するべきかと。
6.「お分かりか! これが鎌倉殿に取り入ろうとするものの末路にござる!」
忠などない義時がそう宣言すると、義村たちが和田勢に襲いかかってゆきます。
忠臣の死に涙するしかない実朝。
義時の忠は己自身にあるかと思われます。鎌倉殿に取り入ろうとするというのは建前で、自分に盾突こうとするものの末路と本当は言いたかったのかも知れません。それに義盛も意識していたかどうかはともかく、実朝を自分の館に呼んだりしているのは、ある種越権行為だったかも知れません。
7.戦死者の妻が泣いていて、屍がいくつも並ぶ。こうした生々しい遺体映像は近年の大河では珍しいと思います。
武者さんの好きな『麒麟がくる』でも、戦ではないものの、飢えた人々が食事を求めて都大路をさまようシーンがあり、あれも生々しいと言えるのではないでしょうか。
8.義時はさらに
「人を束ねていくのにもっとも大事なものは、力にございます」
と結論づけます。
あの歩き巫女がその様子をジッと目にしている。
ここですが、歩き巫女が見ているのは戦死した人々の遺体で、しかも時間的に日没前です。そして義時が実朝と話しているのは夜の時間帯です。第一歩き巫女が、この2人が話している様子を間近で目にできるわけなどありません。つまり、歩き巫女のシーンに、義時と実朝の会話をかぶせているわけですが、 それが分かっておられないようです。
9.義時の前に、泰時、盛綱、そして朝時がいます。
義時は言いたいことがあれば申せと話しながら、勝手に戻っている朝時に「許した覚えはない」と冷たく言い放ちます。
と、ここで泰時が、和田合戦で板を盾とするアイデアを出したのは次郎であり、役に立つ男だと言葉を添えます。
「今の話、まことか」
「まことにございます」
義時の問いかけに応じ、即答する平盛綱。
「これよりまた私に仕えよ」
「ありがとうございます!」
この一件で、とりあえず朝時は許されました。しかし、朝時は知っている。その策は泰時のものだと。
「兄上……」
「役に立つ男になってくれ」
ここも疑問に感じる点が複数あるので長めです。
まず
「勝手に戻っている朝時に「許した覚えはない」と冷たく言い放ちます」
勝手に戻っているのもさることながら、泰時に話せと言ったのに朝時が話そうとしたのも、義時がこう言った一因ではあるでしょう。そして前にも書いているように、板を盾にするヒントを出したのは朝時であり、泰時がこのように言ったのも、単に弟に花を持たせるためだけではなく、それなりの理由があったからではないでしょうか。
10.望みがかなったとはとんでもない。実朝は頼家どころか頼朝を超える強さがあるとのこと。
義時は
「鎌倉殿は頼家様どころか、頼朝様をも超えようとされています」
と言っています。実朝が朝廷と直に結びつこうとしているためこう言っているわけですが、「超える強さがある」とは言っていませんね。
11.「ちぎれるほどに尻尾を振っている」と笑みを含んだ声で言うのは藤原兼子。
京都にしてみれば、鎌倉は野犬の群れに過ぎないのでしょう。
しいて犬に例えれば、少なくとも実朝は野犬ではなく、よくしつけられた血統正しき忠犬と呼ぶべきでしょうか。
それとMVPはやはり義盛と巴ですが。私ならこれに義村を加えます。
12.思えば源頼朝は、これからは「忠義」を大事にすると言いました。
源頼家は梶原景時に怒っています。
景時は結城朝光の引いた「忠臣は二君に仕えず」を責め立てておきながら、後鳥羽院に仕えようとした。
その梶原景時ならば、漢籍を読みこなし、「忠臣」がどういうものかくらい説明できたでしょう。概念は頭に入っている。
けれども「忠臣」という言葉に血を通わせ、鎌倉殿とこうも通じあい、響き合えたのは義盛が最初の気がします。
和田義盛もまた、武士道の一歩を刻んだ人物です。
梶原景時は頼家を見限って失敗し、義盛は実朝に取り入り過ぎて墓穴を掘った、そのようにも取れます。無論実朝と通じ合ったのも事実でしょうが、通じ合い過ぎて痛くもない腹を探られたと言うか、有力御家人に警戒の念を強める義時に、格好の口実を与えましたね。それとこの当時の「武士道」と、江戸時代の儒学の影響を受けた武士道は同じでしょうか。
13.しかし、義盛が成長していたこともあり、きれいな散り方に思えました。
作中でもあまり賢くない部類に入っていたはずが、あの策士の義村を上回るようなところまでみせる。
難しい言葉もテキパキと語り引き締めながら、大事な人には優しく熱く語りかける。
どうにも幼稚で子供っぽかったはずが、最終話で急激に成長したように思えます。大きくなり過ぎたからこそ、義時は卑劣な手を使うしかなかったとも思える。
武者さんやけに「義盛が成長した」と書いていますが、ライバルたちがいなくなって抜きんでた存在になり、しかも実朝と懇意になっていたわけですから、それ以前とは違って見えるということだろうと思います。根本的な部分は同じで、逆にそれがまずかったとも言えるでしょう。それと策士の義村を上回ると言いながら、結局はその義村の策に討ち取られましたね。
14.そんな中、主役である義時は完全に黒くなった。
しかもそれをやりすぎて実朝が上皇を頼るという想定外の選択をした。
策士が策に溺れている。あれだけ汚い手を使ったくせに目標を達成できない。そう自虐的に笑ってしまう。
こうも主役にいいところがないというのは、すごいことだと思えます。
主役とは最後に笑う(あるいは最後に散る)ものだと思うし、寧ろ後の得宗体制を築くために、今なお道半ばの状態であり、私としては「いいところがない」とは思えないのです。まだまだ苦労しているな、今後朝廷との一戦も控えているなとは思いますが。逆に実朝が朝廷の方を向くのも、ある意味義時の策略ではないかと思います。あらすじと感想でも書きましたが、実朝が本当にこう思っているのなら、滅ぶべくして滅んだ感もあります。
あと例によって、総評関係で色々書かれていますが省きます。ただひとつ、また『青天を衝け』がどうのこうの。本当に鬱陶しいなと思います。もう放送が終わった大河に、ここまであれこれ言うでしょうか。尤も朝ドラ関連、特に、なにわバードマンへの攻撃もかなりすさまじくなっているようです。
15.土方の「忠」は徳川慶喜や松平容保ではなく、近藤勇に捧げられていたとされます。
近藤の死後、どうすれば己の命で報いることができるのかと口にしていた。そんな近藤への「忠」が碧血になったと思えます。
そういう意味では、山本耕史さんが三谷大河で演じているのに、土方歳三と三浦義村がまるで正反対にも思えてきます。
もしも近藤への「忠」がなければ、そんな土方は単なるコスプレイヤーであり、中身がない、魂がない存在だと思います。
何の話か?って、『青天を衝け』のことです。
あの土方はセリフで近藤への思いを語ることすらない。
実際に面識があったかどうかも曖昧な渋沢栄一への目配せばかり。あの土方が流した血は、碧玉にはならないでしょう。
そういう魂が入っていない人物像を大河で見たくはありません。
まず碧血とは強い忠誠心の例えのことです。そして
「セリフで近藤への思いを語ることすらない」
セリフで思いを語らないから忠誠心がないと言い切れるのでしょうか。それにあの大河の主人公は渋沢栄一であって、近藤勇ではないのです。なぜ描き方が違う大河を同列に論じたがるのでしょうね。 寧ろこの場合は、栄一がこの人物に出会ったこと、話を交わしたことこそが重視されるべきでしょう。それとも土方を演じた町田啓太さんが、『西郷どん』の小松帯刀だったのがお気に召さないのでしょうか。
それとツイッターでも指摘されていましたが、最後にサザンオールスターズの曲のを捩った歌詞があります。しかしどうも受け入れかねます。それにここのところで
「サザンオールスターズの『SEA SIDE WADA BLUES』という曲をご存知でしょうか?」
とありますが、本来のタイトルは『SEA SIDE WOMAN BLUES』です。『舞いあがれ!』の五島の谷先生こと前川清さんもカバーしています。
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