『花燃ゆ』が萩のみ、もっといえば文(美和)のみの視点で描かれていることは、以前にも指摘しています。たとえばコレラ騒動についても、萩城下の流行のみで、長崎から流行が始まって、多くの地域で大流行したという点には全く触れられていませんでした。しかも文よりも歴史的には著名な人物が多いのに、彼らの生き様が文の目の届く範囲でしか描かれないため、ある日突然登場したり、あるいはどこかに出かけていたのが戻って来たりということになりがちです。
だから長州征伐が行われているのに大して描かれないし、高杉や桂も、本当はもっと色々なことをしているはずなのに、それがさっぱり出て来ません。すべて文の、それも創作上の視点が基準になっているため、本来の背後関係が実にわかりにくい上に、肝心の史実がダイジェストやナレーションで済まされてしまい、そして奥のおはぎ作りが、やけに時間をかけて放送されるというような事態になっています。
逆の見方をすれば、文が登場しない場面では、そこそこ大河らしくまとまっていることが多いのです。たとえば小田村伊之助が捕らえられたり、高杉が密かに逃げ出すところなどは一応様にはなっています。つまり、脚本家が朝ドラや現代劇中心の人であっても、史実をなぞれば、一応は大河として格好がついているわけで、それを考えれば、やはり史実に沿った描き方も必要になるわけです。そもそも、大河で無名の人物を主人公にして、しかも創作部分を多くして数字を取るのであれば、かなり時代劇に慣れた人でないと難しいでしょう。
まして現代ドラマが中心の脚本家の場合、どうしていいかわからず、つい現代感覚でアレンジしてしまうことは十分に考えられます。だから脚本家選びは重要であると思われます。それと、歴史考証家の意見をきちんと聞いているかどうかも大切です。あまり時代考証のみを重視すると、ドラマとして構成しにくいという点も無論あるでしょう。ただ、どう考えても入ったばかりの奥女中が、藩の上士でしかも世子の小姓に直垂を持って行くとか、藩主夫人に対してことさらに意見するとかいうのはやはり不自然です。
今となっては何ですが、やはり吉田松陰の次に高杉、その後伊藤や井上という流れを大まかに作り、そのうえで文や他の家族、藩主や藩の上層部などを絡ませるようにすれば、文が奥女中として萩城に上がっても、奥ばかり描かず、史実と並行させることが可能でした。歴史に関心がある視聴者も、それなら納得できたでしょう。また文を創作キャラとして多少遊ばせても、さほど違和感はなかったかもしれません。先日『篤姫』の感想の中で、大奥以外のこともきちんと描かれていると書きましたが、主人公の視野の外をきちんと描かないと、主人公そのものが引き立たないのは事実かと思われます。
また残念ながら、文は『篤姫』の、天璋院篤姫に匹敵する存在ではありません。『花燃ゆ』の文は、『篤姫』の小松帯刀の妻の、お近くらいの役どころでちょうどよかったのではないでしょうか。このくらいであれば準主役的存在であり、ほぼ毎回登場することもできます。また、多少創作を織り交ぜても大丈夫です。どうしても文を出したいのであれば、なぜこういうポジションに置かなかったのかと思います。現実の『花燃ゆ』の文が、奥でやけに背伸びしている印象があることを考えると、余計にそう感じられます。ちなみにこのお近も文同様、夫と愛人の間に生まれた子供を養育しています。
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