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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
ベイカー寮221B/Baker House 221B TOP  >  国盗り物語

『国盗り物語』に見る明智光秀 43

さらに光秀に下された命令は、

「堂塔伽藍を焼き、人という人は生ける者を無からしめよ」

というものでした。これには光秀は大いに驚きます。古来日本では王法は天子に仏法は叡山にと言われていました。しかも精神世界の支配者のみならず、天子や貴族たちとも深い関わりがありるこの場に火を放ち、僧を殺すとはどういうことであろうと光秀は思い、信長を諫止しようとします。光秀のような人物から見れば、信長の所行は野蛮人に等しいものでした。


信長は隊列を外れ、児小姓に日傘をさしかけさせて餅を食べていましたが、その生々しさは、光秀の目には蛮人と映りました。光秀は目の前に膝をついた光秀を見て、眉をしかめます。信長にしてみれば、既に光秀が何を言いたいかは察しがついており、わかりきったことをくどくどと言う光秀の癖は、信長には堪えがたいものでした。案の定光秀は、叡山の歴史について語り始めますが、信長は呆れたようにこう言い放ちます。

「十兵衛、汝は坊主か」

さらに信長は、悪人に加担する気かとも言います。


この悪人とは、叡山の僧たちのことでした。現実の僧たちは槍や刀を携え、魚や鳥を食するうえに女を寄せ付け、学問も本尊を拝むこともせず、破壊三昧の暮らしをしていることは、京でもよく知られていました。しかも女と同居している僧もいると言われ、

「そういう奴らが国家を鎮護し、玉体を冥護し、かつは天子の玉体のご無事を祈祷したところで験のあるはずがないわ」

と信長は断言します。光秀は法師どもはともかく、叡山の三千の仏には罪はないと言うものの、信長はにべもなくこう答えます。

「左様な無頼の坊主どもを眼前に観ていながら仏罰も当てずに七百年このかた過ごしてきたというのは、仏どもの怠慢ではないか」


その仏どもに大鉄槌をくだすと譲らない信長に光秀は、仏の代弁者のように説得を試みます。信長はそんな光秀に、本当に仏を信じているのか、あれは金属(かね)と木で作ったものであると言い、他人の尊ぶものを尊ぶべきであるということであると力説する光秀の言葉に、耳を貸そうともしません。どころか

「木は木、かねはかねじゃ。木や金属でつくったものを仏なりと世をうそぶきだましたやつがまず第一等の悪人よ。つふぎにその仏をかつぎまわって世々の天子以下をだましつづけてきたやつらが第二等の悪人じゃ」

光秀はさらに、古き世より伝わりきたりしものであると言いますが、信長にしてみれば、その「古きばけものども」を叩き壊しすり潰して、新しい世を作ることこそが使命でもありました。信長は続けます。

「そのためには仏も死ね」


ならばと光秀は、それでは評判が悪くなるとして、悪僧たちを追い払うのみで片付けると進言しますが、信長にしてみれば、これ以上光秀との会話を続けるのはひどく煩わしいものでもあり、光秀の頭のてっぺんを掴んで振り回します。

「百年、汝と話していても決着はつくまい」

信長がやりきれなく思うのは、光秀自身は俗世間の人間であるにもかかわらず、学のあることを誇り、もったいぶった態度で、自分を説得したがる点でした、

「阿呆っ」

信長は、光秀を力任せに転がし、光秀は髷の元結まで泥まみれになります。


しかし、信長を長々と説得しようとした光秀よりは、この場合、信長の方が遥かに高邁な志を持っていたのもまた事実でした。信長は多くの言葉を語ることはあまりなく、そのため雄弁とはほど遠い存在でしたが、彼がもし言葉を操ることに長けていたならば、恐らく日本史上最初の無神論を光秀に展開し、光秀の中世的な教養主義を嘲笑することもできたはずでした。また、中世的な魑魅魍魎を退治し、自らが掲げる世を実現するための革命思想をも、光秀に対して説くことも可能であり、実際そうするべきだったでしょう。


いよいよ叡山の焼き打ちですが、その前に信長と光秀の意見に齟齬が生じます。光秀にしてみれば、叡山を焼くことなど思いもよらぬことでしたが、信長はそうでもしない限り、自分が望む世は作れないと考えていました。実際、当時の叡山の風紀は荒れ果てていたのも事実と言えました。光秀はこのような荒療治でなく、穏やかにことを済ませたいと信長に申し出るものの、信長がそれを聞き入れるはずもなく、また信長は言葉で自らの意志を表現するのが不得手でもあり、光秀の頭を掴んで泥の上に転がしてしまいます。


この『国盗り物語』に於いては、これが光秀が信長に敵意を持つ、その一因ともなったともいえます。創作と思われる部分も多々ありますし、また今の考証では不自然に感じられもしますが、信長と光秀という2人の人物の、それぞれの違いを描くのであれば、こういう方法もまたありでしょう。『麒麟がくる』で、本能寺から逆算しないという描き方に私は疑問を持ちましたが、光秀の人生のクライマックスが本能寺である以上、どこかに本能寺の伏線を張らねばならず、その意味では信長との反りの合わなさ、矛盾といったものを、比較的早い内から示しておくのも1つの方法であると思えたからです。

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[ 2021/02/23 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 42

延暦寺に浅井・朝倉を追い出すように交渉して断られた信長ですが、元々日本では伝統的にこの勢力を恐れており、無論光秀も信長の態度を疑問視していました。しかし信長は尚もその場に居座り続け、やがて11月に入って、山頂を雪が覆い始めます。積雪は交通に支障をきたすのですが、信長だけはこの雪を喜び、あたかもこの日を待っていたが如くでした。それもそのはずで、この雪こそが信長自身を解放してくれる唯一の手段だったからです。信長は光秀を呼び、京へ行くよう命じてからこう言います。

「そちのもっともらしい面が、役に立つ時がきた」


信長はこの「もっともらしい面」をかなり嫌っており、逆に酔狂な人物を好んでいました。この人物は豪傑で、ある日他の大名家からの使者が、もっともらしく座っているのを見て、いきなりその使者の目前で自分の睾丸を放り出し、ぴしゃりぴしゃりと叩いてみせるという、他の家中であれば切腹は免れないようなことをやってのけます。しかし信長はそれを面白がり、また初めて京の治安維持のために上洛した時は、若い頃のように草鞋や袋をぶら下げて騎乗していました。つまりこれは、悪さをしようものならすぐさま行ってひっとらえるという意味であり、そのような人物が「もっともらしい」人物を好むわけもありませんでした。


光秀は考えます。しかし信長は常にすばやい反応を好むため、ゆっくり考えている時間はありません。まず

「京へ行けとは将軍義昭に拝謁しろということ」

であると悟り、次いで

「朝倉の本国の越前は既に雪であり、補給路も雪が積もっていて朝倉の兵は困っている」

と考え、そして

「だから自分の『もっともらしい』面を差し出して和睦をさせる」

と結論を出します。


光秀は京の室町館へ急行すると述べ、信長は満足します。吹雪を衝いて京へ向かいます。義昭は近江も雪景色であろうと言いますが、内心雪中で信長が難渋しているのを、喜んでいるようにも見えました。しかし光秀は、

「上様ごひいきの朝倉も浅井も、もはや近江の雪の中で自滅いたしまする」

と言い、さらに兵糧の補給が続かないため、和睦を申し出ます。信長にも将軍の威権を示すことになるとも言ったため義昭は乗り気になり、やがて12月13日に和睦が成立します。信長が岐阜へ戻ったのは18日でしたが、この天候を戦略化することにより、危機を脱したと言うべきでしょう。


翌元亀2(1571)年8月、信長は再び軍勢を率いて近江へ向かいます。この間本願寺一揆の討伐に失敗したり、秀吉が責任を持つ対浅井氏の持久戦を、岐阜にいながらにして指揮したり、また、松永久秀に背かれたりもしましたが、信長は特に動じた様子もありませんでした。しかもこの時、武田信玄が西上を始めており、その方面の抑えは徳川家康に任せて、自分は近江で小城を取り、小部隊や一揆などを相手にして、9月の12日には出立しました。これによって、将校も兵も皆、岐阜へ帰るのだと考えたのですが、ことは意外な方向へ進みます。


行軍が開始された途端、信長の本陣からの母衣武者がやって来て、光秀に坂本へ行って、日枝神社に行くように伝えます。光秀は、敵は何者であると尋ねますが、母衣武者は追って沙汰すと仰せられたとのみ言います。その後、行軍中の光秀軍に、再び母衣武者が駆け寄り、

「敵は叡山である」

と伝えます。確かに光秀は坂本を包囲することになっており、諸将のそれぞれの部署をつなぎ合わせれば、叡山包囲網ができるのは事実でした。


浅井・朝倉相手に手をこまねいていた信長ですが、やがて冬が訪れ、雪が降るようになって大喜びです。これで越前を本拠地とする朝倉の軍は、補給路を断たれてしまい、このままでは浅井共々自滅しかねず、信長は光秀を使って将軍義昭に、和睦を仲介してくれるように申し出ます。これで義昭の面子も立ち、信長も危険な状態をひとまず脱することができました。その後信長はあちこちで戦をし、何よりも手ごわい武田信玄は家康に任せ、翌年8月には近江で掃討戦というべき戦をして、その後岐阜に帰るかに見えたのですが、信長の真意は叡山焼き討ちにありました。


岐阜に戻るのではなく、坂本で日枝大社を包囲するように言われた光秀ですが、その後敵は叡山と言われて驚きます。そもそも信長の交渉の時点で、叡山には刃向かうべきでないと光秀は考えていました。実際信長は諸将を琵琶湖周辺に置き、叡山を包囲するつもりでいたのです。しかし

「敵は叡山」

と聞いて光秀は驚くのですが、その彼自身が11年後には、「敵は本能寺」と指揮下の兵に告げるのですね。


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[ 2021/02/21 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 41

結局元亀元(1570)年8月30日、義昭は出陣します。織田軍の要塞である中ノ島城に翻る、足利の二ツ引両の白旗を見て、織田軍の士気は上がり、光秀は感無量でした。尚この時光秀は、既に織田軍の一手の大将となっていました。信長も、光秀を気に入っているとは言えなくとも、その能力、とりわけ鉄砲の扱いのうまさを高く買っていました。実際この摂津の戦場で光秀は奮戦しましたが、後年、光秀の娘婿である細川忠興が語ったところによれば、この人物は
「多少身をかばう傾向がある」
つまり、他の織田家家臣に見られる猪突猛進さが見られませんでした。

そのうち北の方で、再び浅井・朝倉の動きが活発になります。一度は壊滅しかけたものの、再び兵を動かせるまでになり、南下して信長に脅威を与えるようです。しかも情報が曖昧で、信長は光秀に偵察させることにします。実際この時、諜報活動ができるのは光秀か秀吉のどちらかでした。しかもこの偵察は、光秀に一軍を率いさせて強行侵入させるもので、いわば威力偵察と言うべきものでした。翌日光秀は京に入り、先発していた偵察員たちの報告を聞きますが、どうやら人々は信長への信用を失い、さらには義昭も信長を見限っているという噂も流れていました。

実は義昭は、摂津から既に京へ戻っていました。義昭の出陣が功を奏したと見て、信長が引き下がらせたのでした。光秀は、この噂の出どころは義昭自身かも知れぬと思いつつ、近江へ馬を走らせます。そこで敗軍の兵たちに出会いますが、彼らは皆織田軍が近江守備のために置いた兵で、織田の占領地を崩し、宇佐山城を落としていました。その守備隊長だった信長の実弟、信治そして森可は戦死したと聞き、光秀はあらぬ噂を避けるべく彼らを自軍に加えて、織田の拠点の多くが占領、または攻撃されているのを知ります。

光秀は急ぎ近江を出て、信長にこのことを知らせます。信長は
「デアルカ」
と言い、兵を集めて近江への戦闘行動を開始します。しかし浅井・朝倉側は、今度は比叡山に本営を構えます。さらに小規模な攻撃を繰り返すのみで、大規模な戦闘は望めそうにありませんでした。信長は叡山を包囲して、拠点を宇佐山城に移します。しかしこのままでは織田軍は叡山に釘付けであるため、その間に武田や三好党が軍事行動に出る可能性は十分にありました。

しかも信長の同盟者といえば、三河の徳川家康のみでした。家康の篤実さは織田家中でも広く知られており、この期に及んで裏切ることもなく、恐らく織田家とは、一蓮托生の運命を辿るのだろうと光秀も思っていました。その光秀は、3日に1度信長の本陣に行き、下知を貰うのですが、信長は泰然自若とはしておらず、寧ろ気ぜわしく動き回っていました。敵に対して陣地攻撃を仕掛けるもうまく行かず、しかし考えられる限りの芸を試み、挑戦状を送りつけたりもしたものの、敵方の嘲笑を買ったのみに終わります。

ところで信長が試みた芸の一つに、叡山延暦寺への直接交渉がありました。これにより、浅井・朝倉と手を切るように申し入れ、追い出しに協力すれば、多少の寺領を寄進するが、協力しなければ三千の堂塔僧房を悉く焼くとまで詰め寄ります。しかし寺にしてみれば、浅井・朝倉は檀家であり、その申し入れは受け入れがたいとはねつけます。尚延暦寺は山法師(僧兵)で有名で、しばしば地上の権力と対立しており、俗化も指摘されていました。戦国時代に入って多少はその勢いも衰えますが、しかしそれでもなお多くの僧を抱え、堂々たるものでした。

将軍の親征も功を奏し、摂津での戦いが収まったと思ったら、今度は北の方で浅井・朝倉軍が動き出します。信長にしてみれば全方位から攻撃を仕掛けられているようなもので、実際義昭がけしかけて、周辺の大名たちを動かした以上、当然ともいえるものでした。光秀は信長の命で偵察を行いますが、近江で朝倉や浅井が織田の拠点を占領かつ攻撃し、織田の守備隊の兵たちが敗走してくるのを目にします。これを聞いた信長は近江へと進軍しますが、今度は敵軍が本営を叡山に移します。

信長は陣地攻撃をはじめ、最早空しいと思える作戦を次々に試しますが、その中に延暦寺との直接交渉がありました。要は浅井と朝倉の追放への協力で、無論信長の方は、協力すれば寺に寄進を行うが、断れば山を焼くと脅しをかけていました、しかし寺の方は、浅井と朝倉は檀家であるからと断ります。尚この延暦寺は、昔から山法師が権力と対立したことでも有名で、山もかなり俗化していたとされています。戦国期に入ってからやや衰えはしても、その勢力は絶大だったのです。

飲み物-ポーターとクルミ
[ 2021/02/13 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『麒麟がくる』が終わって-3

すみません、先日の投稿分に「この項続く」を入れ忘れておりました。一応今回が最後となります。

この大河の時代背景や登場人物は、『国盗り物語』のそれと共通するものがあり、いくつかのシーンを比較したこともありますが、やはり違うなと思いました。無論作られた時代も違えば、スタッフもキャストも違うのですから当然ですし、向こうは斎藤道三と織田信長が主役であるのに対して、こちらは明智光秀が主役です。
ですから必ずしも同じ設定である必要はないのですが、どう見ても主人公が、誰かの使い走りといった印象が少なからずありました。光秀が主役であるのなら、彼自身をもっと押し出してほしかったです。あとやはり演出が奇を衒い過ぎで、観ていて不自然さを感じることが多々ありました。

また個人的な感想として、信長や秀吉のイメージも今一つな感がありました。特に信長は過去の信長像と違い過ぎでした。染谷さんは演技はうまいと思いますが、第一印象があまりにも他の大河の信長と異なるのは、デメリットと言えるでしょう。斬新さを出すのであれば、過去のイメージを踏まえつつ、それまでとは違った印象で持って来てもよかったのではないでしょうか-たとえば、『真田丸』の家康のように。

それと、長谷川さんはやはり武将の雰囲気ではなかったと思います。『八重の桜』の川崎尚之助、『まんぷく』の立花萬平で見せた長谷川さんならではの、ストイックで学者肌的なイメージを活かせる役の方がよかったでしょう。
何よりも多くの人がそう感じていると思いますが、オリキャラが出過ぎで、肝心の実在人物が彼らのせいで割を食ったようにも見えます。池端氏は庶民の目線ということでオリキャラを入れたようですが、それなら光秀が主役でなく、彼らを主人公にしたドラマを土曜時代ドラマで作るという方法もあったでしょう。
あと沢尻エリカさんの降板で、白羽の矢が立った川口春奈さん、一生懸命やっていたとは思います。しかし彼女も、それから駒役の門脇麦さんも、やはり今時の若い女性という印象は拭えませんでした。

それと本能寺後を描かなかったことで、光秀がこの「大事業」を成し遂げたことへの満足感、それに伴うやり場のなさといったものが感じられず、如何にも勿体なく感じられました。あの時の光秀自身、そして大名たちの心情はきちんと描かれてしかるべきでした。

そもそも『炎立つ』以外の源平大河では、義経はすべて平泉で討死しているし、幕末大河でも西郷隆盛は西南戦争で散っています。『炎立つ』では義経は行方をくらませていますが、それでも彼がジンギスカンになったのを仄めかす描写はなく、また幕末大河で西郷がロシアに渡ったなどという設定にももちろんなっていません。
なのにここで「光秀=天海」説とも取れるような展開にしたのは、どうかと思います。敢えて山崎の合戦を描かなかったというよりは、ちょっと最期が投げやりになったような印象を受けます。

そしてもう1つ、衣装や風景の色彩が鮮やかすぎて、時に毒々しく感じられたのは、やはりマイナス要因だったと思います。黒澤和子さんのデザインは、『西郷どん』や『青天を衝け』などではかなりまともなのですが、戦国時代を担当させるとああなってしまうようですね。恐らくクレームもかなり来たのではないでしょうか。

それからこれはちょっと目にしたツイートなのですが、恐らく大河を観ている人なのでしょう。NHKは解体してもドラマ部門は残してほしいといった意味のツイがありました。しかしNHKは公共放送であり、公共放送としてまず残すべきは報道、気象そして災害情報です。その意味でこの意見は、失礼ながら本末転倒です。
恐らくこの人は、報道は偏っているから潰してほしい、でもドラマはいいと言いたかったのかも知れません。確かに私も、NHKは偏っているとは思うし、NHKのみならず多くのマスコミ、さらには海外のマスコミも何かしら偏っていると思います。しかしそれでも、公共放送として残しておくべきは報道関係なのです。どうしても大河のような時代劇が観たいのであれば、それとは別にチャンネルを作り、スポンサー付きで制作するべきでしょう。
(この項終わり)

飲み物-ウイスキーストレート
[ 2021/02/11 00:00 ] 大河ドラマ 麒麟がくる | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 40

まず。『麒麟がくる』は7日が最終回ですが、この「『国盗り物語』に見る明智光秀」はまだ続きますので、司馬氏が描く光秀に興味のある方は、もう少しお付き合いください。

将軍義昭が信長と浅井・朝倉を和睦させたいと言い出したことに、光秀は当惑します。最早この両者は敵同士で、浅井と朝倉を存続させるということは、信長を滅ぼすことを意味していました。さらに光秀は、将軍に伝えるべき重大な命令を、信長から受け取っていたのです。それは、いずれ別の合戦が起こるであろうことから、その際には将軍の親征を仰ぎたいというものでした。当然義昭は驚きます。仮にその敵が浅井や朝倉の場合、自分が考えている和睦案は反故にされかねないのです。

「そちは正気で申しているのか」
義昭は尋ねます。光秀は正気であると言い、苦い薬を飲むつもりで信長の要請を受けてくれるように頼みます。また光秀は、信長が、義昭と浅井・朝倉の密通のこと、三好党をひそかに呼んだことなどもすべて知っていると述べ、
「さればこそ彼等を討つ織田軍の上に、上様を戴いてゆこうというわけでござりまする」
義昭はこれを呑まざるを得ず、ならば今度浅井や朝倉を討つ時は、足利家の白旗を陣頭に進めようと口にします。これ以上ないほどの変わり身の早さですが、この人物に取っては我が身が一番大事でした。

さらに光秀は、無心にその時までお待ちあそばすようにと告げて去って行きますが、正直なところ
「この人の下では、正気には働けぬな」
と感じていました。
一方信長はその多忙な生涯の中でも、特に忙しい時期を迎えていました。今度は摂津の石山本願寺が、自分に対して反旗を翻します。
「坊主まで―――か」
急報を聞いた信長は京へ急ぎ、光秀と村井貞勝、朝井日乗といった京の政を取り仕切る3人を呼びます。

信長は3人に尋ねます。
「室町の小蕪(こかぶら)殿にかわったことはないか」
この小蕪殿というのは、将軍義昭の容姿から信長がつけた渾名でした。信長は3人に、義昭の悪口をもっと言えと言います。浅井・朝倉の動向が怪しいかと思えば、今度は三好党が上陸し、さらに本願寺が行動を起こし、さらには東国の武田信玄までもが、奇妙な動きを見せ始めます。あまりにも偶然過ぎるこの動き方を、信長は不審に思っていました。

日常と村井から義昭の行状について聞かされた信長は、光秀に、明朝摂津へ出陣するから、共々に出陣なさるようにと義昭に伝えるよう命じられます。光秀は、義昭の側女、お慶の父で将軍の側近である上野清信に会い、すぐさまの出陣を依頼します。しかし上野は、儀容を整えねばならぬとなかなか応じません。ついに光秀は将軍館内で脇差を抜き、清信を威嚇します。
「十兵衛光秀、ら、乱心しおったか、ここをどこと心得るぞ。殿中であるぞ」
慌てふためく清信に、光秀は脇差をへし折ってみせます。これは実は竹べらに銀箔を推したものであり、当然ながら光秀は罰されず、寧ろ光秀がそのような態度を見せることに驚き、義昭は急いで出陣支度をさせます。

将軍義昭が光秀を茶室に読んだのは、信長と浅井・朝倉を和睦させるための密談でした。当然浅井や朝倉をけしかけたのも、この義昭でした。しかし光秀の対応は、全く義昭の予想を裏切るもの、信長は次なる合戦に将軍の御親征を仰いでいるというのです。信長を追放したがっている義昭は迷いますが、結局は我が身可愛さのこともあり、それに応じます。光秀は、この人物の変節の早さにうんざりしていました。しかもその時、摂津の石山本願寺が信長に対して行動を起こします。

信長は、様々な相手が次から次へと自分に刃向かっていることを、怪しいと思っていました。恐らくは、義昭の差し金であることにも気づいていました。そこで信長は岐阜を発って京へ入り、京の政を預かる3人の内、朝日日乗と村井貞勝から義昭の行状を聞き出し、光秀に、即座に出陣するよう義昭に要請させます。将軍館では、上野清信がくどくどとまくしたてて要請を受け入れようとぜず、光秀は脇差を抜いて上野に迫ります。もちろんこれは竹べらであるため咎めはなく、温厚な光秀がこのような行動を取ることに恐れをなした義昭は、出陣を決めます。

飲み物-スノーアンドテル
[ 2021/02/07 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 39

この戦いは、光秀に取って初めての大規模な会戦であり、弥平次には生涯の功名の日ぞと言い聞かせて、織田軍の部隊に加わります。前方の部隊を指揮していた光秀は、文官としてではなく、軍の指揮官としての自分を評価される機会を望んでいました。6月28日の早朝、その機会となるべき戦いが始まります。敵味方が、琵琶湖に注ぐ姉川を挟んで向かい合い、銃撃戦が開始されました。その強さで知られる浅井の兵の前に、徳川の軍が押され始めます。これを見た光秀は、弥平次に命じて兵を旗のもとに集めます。

明智と浅井の兵は激突し、混戦となります。信長本陣を狙う浅井の兵たちを相手に、光秀は少人数で彼らの後方を遮断し、敵の背後から攻めていきます。信長はこの光秀の戦いぶりを見ながら、光秀は戦を知っていると感心します。しかし浅井に比べると織田軍は如何にも弱く、部隊を任された将の中では、柴田勝家だけが何とか持ちこたえていました。それでも信長は落ち着いており、勝利を確信していました。敵方が持てる数をすべて投入しているのにひきかえ、信長軍は予備隊の多寡がものを言うと考えていたのです。

それでも浅井軍は攻め入り、織田軍は後退させられる一方です。信長は最早敗戦かと思いますが、このような状態にあっては、総大将が敗けたと思った瞬間に敗北が決定するということを、彼は知っており、そのためにも、敗けるのではないかという考えは禁物でした。そしてこの時、家康が奇跡を呼び寄せます。この家康は朝倉の兵を相手にしており、かなり攻め込まれていましたが、その中で家臣の榊原康政を呼んでこの策を授け、康政は姉川を渡って断崖を登り、塀をまとめて敵の右を突きます。

朝倉の兵に動揺が走ります。さらに家康が抵抗したことで、朝倉軍は潰走し始めます。この様子を見ていた信長は、横山城備えの兵に、浅井軍の左を突かせます。さらに家康の加勢をしていた稲葉良通も浅井軍の右翼を突き、これで浅井軍は崩れて敗走し始めます。信長本軍の一部がさらにこの浅井の兵を追い、また織田方の兵も勢いを取り戻して、追撃に参加しました。有利であったはずの浅井軍は追われる立場となり、ついに小谷城に逃げ込みます。

このまま包囲することも考えられましたが、それをすると逆にこちらが包囲されかねず、しかも一度京へ上る必要がありました。京は京で三好党が上陸し、信長が抑えたはずの地を荒らしまわっていたのです。それよりも姉川で勝利したという評判のみを持って、急いで京へと戻る方が、信長に取っては京での地盤を失わずに済みます。無論発つ前にまず横山城を開城させ、秀吉を残留させたのみならず、浅井の第三の城というべき澤山常には砦を築いて丹羽長秀を置きました。また方々に守備隊を残し、7月4日に上洛して、義昭に拝謁します。

義昭は信長の運の強さを憎んでいました。そして信長が岐阜に発った4日後、光秀は義昭の茶室に招かれます。もちろん密談をするためでした。幕臣であり、禄は織田家から貰っているという複雑な立場の光秀は、この勝利は上様の御叱咤あればこそと述べますが、義昭は本当にそう思うかと言い、真顔になります。義昭がこの表情をする時は、必ず陰謀を企てていました。そして義昭は、驚くべきことを口にします。朝倉と浅井は、将軍家存立のために忠義を尽くしてきており、そのため信長と和睦させたいと言い出したのです。

姉川の戦いで、織田軍は当初劣勢に立たされます。実際浅井の兵は強さで知られており、織田の諸部隊はどんどん崩されて行きます。信長もその様子を本陣から見ていましたが、大将が敗けたと思ってはおしまいであると、極力そのことを考えないようにしていました。そして、徳川家康が奇跡を呼び込みます。この人物は家臣の榊原康政に、当面の敵である朝倉の軍に対し、人数的に苦しい状況ながら、敵の右を突くように命じます。これに朝倉の兵がひるみ、信長が予備隊を出したため、浅井軍は敗走し始めます。

まずは浅井に勝利したものの、敵は小谷城に逃げ込みました。しかもこの城を包囲するには危険が多く、信長軍は浅井領のあちこちに守備隊を残し、三好党が荒らしまわっているという京へ戻ります。将軍義昭は信長の勝ちを褒めますが、内心この男の運の強さが気に入らないようです。そのため光秀を呼び寄せ、浅井と朝倉が将軍家のために尽くしてくれたことから、信長と和睦させてはどうかと言い出します。

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[ 2021/02/04 23:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 38

元亀元(1570)年6月19日、3万の兵を率いて信長は岐阜を発ちます。その日は寝物語の里で宿営を張り、やがて浅井領に入りますが、敵は、朝倉の援軍が到着するまでは何ら行動を起こさないという方針のもと、微動だにしませんでした。そのため織田方は兵を使って敵領視察を行い、浅井の第二の城というべき横山城の山麓を偵察した後に抑えの部隊を残して、主城の小谷城へ向かいます。信長は、ものはためしと麓を焼いてみるように命じますが、それでも誰一人として出て来る気配はありませんでした。

信長は小谷城の斜め向かいにある、虎御前山に布陣していました。この山は、かつて光秀が浅井領の偵察を行った際、布陣に最適の場であると言った場所で、ただし小谷城は急攻するべきではないと念を押してもいました。信長は軍議を開き、どのようにすべきかを議論します。その中で織田家譜代であり、したがってこの信長のような人物にも、比較的物が言いやすい立場である佐久間信盛が、朝倉軍が来る前に一度撤退し、敵の様子を見るように進言します。信長もこの意見には同意であり、ただちに軍議を終わらせて国境近くの弥高村まで退きます。

この様子を見ていた浅井の若い将校たちは色めき立ち、出陣すべしと騒ぎます。背を向けて退却して行く相手には、討ち得の追撃戦になる確率は高かったのです。しかし浅井の老臣たちは自重説を曲げようとせず、しかも当主の長政を信用してもいませんでした。すべて経験主義で決定に時間がかかり、しかもひらめきのある発想もなく、業を煮やした若手たちは、ついに自分たちで織田家のしんがりである梁田、中条、そして柴田の部隊を追い、一次は混乱するものの、何とか強靭な浅井の兵をかわして織田軍に合流することができました。

撤退の翌日の23日、信長の軍は横山城を取り囲みますが敵は動かず、どうもこの横山城は的の囮で、信長軍をここに張り付かせ、浅井店朝倉の連合軍で、その背後を大きく包囲するのではないかと考えられます。光秀は秀吉にそのことを話し、秀吉は如何にもその通りだとうなずきます。光秀は秀吉の、こういう利口ぶった態度があまり気に入りませんでしたが、秀吉に取ってはそれは至極当然のことであり、信長もそれを理解しているはずだと思っていました。そして27日夜半、織田軍の背後にかなりの数の松明が現れます。

信長自身それを目にし、斥候たちもそれを報告しに来ます。人数は1万から5万までさまざまでしたが、いずれにしても作戦を変更する必要があります。信長は彼らが、翌日姉川を渡って襲ってくると考え、逆にこちらから攻撃を仕掛けるべく母衣武者を集めて、将校たちの陣替えを触れさせますが、これはかなり難しい仕事でした。信長は横山城抑えの兵を5000人残し、他の軍勢を6隊に分けて、それぞれの将に3000から5000の兵を与え、残りは信長の直営隊とします。尚光秀はそれぞれの将ではなく、それよりも下級の指揮官でした。

ところでこの日、徳川家康が5000の兵を連れてやって来ます。既に部隊を再編成し終わった後であり、予備軍となることを命じますが、家康はそれをよしとしません。信長は、予備軍を命じれば家康が却って奮い立つことを見抜いており、ならばと朝倉に当たるように命じます。家康は、稲葉良通とその部隊1000人を所望します。その人数の少なさに信長も驚きますが、自分は小国の者であるがゆえ、大人数は使いこなせないと家康は言い、常に信長に対しへりくだった態度を見せました。また三河兵が強いこともプラス要因でした。

いよいよ姉川の戦いです。この時浅井勢は、援軍の朝倉の兵が来るまで動こうとせず、それが幸いして、織田の軍は浅井領内の視察を行います。まず浅井氏の第二の城である横山城近くに抑えの兵を残し、その後主城である小谷城の近くの虎御前山に陣を張った信長ですが、光秀がここを偵察した際の、小谷城は急攻すると損害が大きいと言ったのを思い出していました。そして譜代の臣である佐久間信盛の、一度退却すべしという意見に信長も同意し、国境近くまで退きますが、これに浅井の若い将校たちは我慢できません。

また浅井家は当主の長政よりも老臣が力を持っており、軍議は老臣が仕切っていましたが、すべて経験則によるもので決断に時間がかかり、しかも意表を突くような発想もありませんでした。このため一部の将校は織田のしんがり軍に追い付き、一戦交えることになります。そして朝倉の援軍が駆け付け、横山城を包囲していた織田軍は、この援軍に包囲される可能性も出て来ました。これにより信長はそれまでとは一転し、こちらから攻撃を仕掛けることに決め、軍を再編成してそれぞれの将を決めますが、その中に光秀の名はありませんでした。

飲み物-ホットワイン2
[ 2021/02/02 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

大河ドラマ雑考-43(『青天を衝け』ガイドブックを見て思ったこととは)

まず、先日の『どうする家康』関係投稿で、徳川家康の嫡男の信康を、信勝としていました。失礼いたしました。訂正しています。

まだ放送にはもう少し間がありますが、「今年の」大河ドラマ『青天を衝け』のガイドブックが書店の店頭に並んでいます。構成としては、まあ従来通りではあります。それとこの大河、やはり過去の幕末大河の出演者が結構多いですね。
ところで『麒麟がくる』もそうでしたが、NHK出版のガイドブックには「大河プレイバック」なるページがあります。『麒麟がくる』のNHK出版の分は、『国盗り物語』が紹介されていました(ちなみにNHK出版の分は前編しか購入していないので、後の2つは生憎見ておりません)。
この大河プレイバック、要するに、その年の大河と同じ時代背景の作品を紹介しているわけで、この前編の分は『獅子の時代』が紹介されています。この他にも大河ドラマ年表などもあり、つまるところプレイバック共々、大河はこれだけ歴史があるのですよと言いたいのかも知れません。

しかし見方を変えれば、大河は一部の作品を除けば、かなりの作品が同じような時代に集中しており、同じ時代の同じような人物を何度もなぞって来た経緯があります。戦乱や歴史上の大きな出来事がドラマの中心になるためです。これは一巡目か二巡目まではいいのですが、それ以上になるといくら手法を変えてみても、どことなく似た印象になりがちです。また前の同時代の作品との比較もされるようになります-無論、前の作品の方がいいとは必ずしも言えないでしょうが。それを意識してのことなのか、近現代物を入れたり、放送フォーマットを変えたりという試みもなされましたが、あまりうまく行きませんでした。
そもそも過去を振り返るということ自体、方向性としてあまり前向きとはいえません。逆にこのような企画を始めたということは、やはり大河も、あと何作かで終わらせるのかと思われても不思議ではないでしょう。その場合、今まで描いてない人物や時代を中心にやることも考えられます。

しかしその「歴史のある」大河、その制作を支えてきたのは、言うまでもなく視聴者の受信料です。これも先日の『どうする家康』絡みの投稿で触れましたが、制作統括や脚本がこうしたい、ああしたいと言っていても、とどのつまり、何十億もの受信料があるからこそそれが実現可能なのです。にもかかわらず、NHKの制作サイドは、視聴者の受信料のおかげで大河が作れていますなどと、しおらしいことを言ってくれたためしがありません。
元々公共放送の目的は、一般人を利するための報道であり放送であって、ドラマ制作ではないというのは前にも書きました。今NHKのスリム化、受信料の値下げが叫ばれていますが、公共放送としてやって行くのであれば、1世帯500円程度でいいのではないでしょうか。2020年の日本の世帯数は約5700万ですが、仮に受信料を500円としても285億円は確保できるのです。ニュース、気象と災害のみであればそれで十分でしょうし、それより安くする(職員を減らす)こともできるでしょう。
ドラマはスポンサーを付けて作ればいいだけの話です。もちろんNHKの職員が、スポンサーに頭を下げてお金を出してもらうことになりますし、数字が悪ければ打ち切りの可能性もあります。

数字と言えば、これも以前書いたことではありますが、『独眼竜政宗』と『武田信玄』は双璧です。一方で『独眼竜政宗』、『武田信玄』の舞台は出羽と甲斐という「東国」であり、それも数字に大きく影響しています。一般に公表される視聴率は関東の数字だからです。寧ろこの場合、関西はどの位だったのかを知りたいとも思います。無論『麒麟がくる』も、東海地方であればもう少し高くはあるでしょう。そもそも地元、あるいはそれに近い地域では高く出るからです。
このようなことから、せめて大河は東西の数字を公表するべきではないかと思われます。しかしそうなると、今年の大河は関東ですから、それなりに高い数字が出てしかるべきとはなるわけですが。

飲み物-ワインと暖炉
[ 2021/01/31 00:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る織田信長 7

ここで信長について少々。岐阜へ戻った信長は、その夜久々に濃姫と寝所を共にします。濃姫は千種越の一件について訊こうとしますが、信長は、お前はつまらぬ事をいう女子になりはてたとだけ言います。まだ35なのに「はてた」はないだろうと思う濃姫ですが、要は、信長は人生には色々なことがあると言いたかったようです。近江絡みで信長は、寝物語の里の話をします。美濃と近江の国境をはさんで、近江側にある小さな村落のことです。濃姫は、何とも艶やかな名前だと言いますが、元々の名前の由来は、そう色っぽいものではありませんでした。

その村の民家には長屋が多く、壁一枚で隣家と仕切られているため、寝ながら隣人と話ができたというのがどうやら本当の意味であるようです。またこの時代より少し後に、千家の当主が近江と美濃、それぞれの竹で茶杓を作り、それを一本の竹筒に納めたところ、同じ筒の中で仲良く寝ているために「寝物語の里」という名が付いたという話もありました。しかし茶道具にそのその名はあまりにも艶やかすぎ、寧ろ美濃と近江のそれぞれの竹で作った、寝物語の里にちなんだというのが実情のようです。

またこの村落からは、街道沿いの山の高さが左右同じに見えるため、旅人がどちらが高いかを見比べながら歩いて行くという意味で、長競(たけくらべ)という名もありました。しかし、信長に取ってはこのような悠暢なことを考えている暇はなく、浅井氏が築いた2つの城砦をどう攻め落とすかに心を砕いていました。尾張ほど豊かでない北近江の浅井の兵は、それ故に強く、一対一では勝負にならないことも信長は熟知しており、結局調略を使うことにします。その役目を命じられたのは秀吉でした。

一方戦場では光秀を使うことにしました。信長に取ってこの2人は「道具」であり、如何に彼らを使いこなすかという点のみを考えていました。人物を見る目、そしてその人物を如何に使うかに関しては、信長は抜きんでており、岐阜城でも、菅屋九右衛門という人物を庶務の担当として使っていました。この菅屋は庶務には長けていたものの、合戦には向いていないことを信長は知っており、だからこそ秘書としての職務を与えていたわけです。ある日その菅屋に、御賄頭の市原五右衛門という人物が、料理人の坪内石斎のことを切り出されます。

この石斎はかつては三好氏に仕えており、信長が三好氏を駆逐した際に捕虜となって、そのまま牢暮らしをしていたのですが、実は京料理、特に将軍家の料理の達人でした。このまま牢に入れておくのは如何にも勿体ないということで、菅屋は信長にこのことを伝えます。信長は如何に将軍家の料理に秀でていようが、特に驚きもありがたがりもせず、旨ければ使ってやると言い、早速石斎は食事を整えます。その膳の吸物を口にした信長は、一瞬妙な顔をしたものの、その後すべての食事をきれいに平らげ、菅屋にこう言います。
「あんなものが食えるか。よくぞ石斎めは食わせおったものよ。料理人にて料理悪しきは世にある理由なし-殺せ」

石斎はそれを聞き、もう一度だけ料理を作らせてくれと頼みます。そしてその翌朝の食事で、信長は再び吸物を口にし、またも妙な表情を浮かべますが、その後膳の上の物を平らげてから、石斎を許すように言います。石斎の最初の料理は京風の薄味でしたが、2度目は調味料をたっぷり使って濃い目の味付けでした。石斎のいう「田舎風」ですが、信長自身都の薄味を嫌悪しており、それ故石斎の最初の薄味に腹を立てたも道理だったのです。しかし味を変えたことにより、この人物は使えると見たわけで、信長とは万事そのような人物であると言うことができるでしょう。

飲み物-キャンドルとワイングラス
[ 2021/01/27 23:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 37

諜報活動が終わった光秀は、立入閑斎という者の屋敷に宿を取ります。この閑斎は、かつて義昭を将軍につけるべく、奔走していた頃の光秀をよく知っており、今や織田家臣となった光秀を祝福します。しかし光秀はこれは出世などではないと、いささか可愛げのないことを言います。その光秀は彼方に見える三上山を、世の乱れとは関わりなく遠景として楽しんでいる閑斎を逆にほめますが、この辺りが光秀の少々気障なところでもありました。やがて閑斎は、光秀を茶室に案内します。

2人は信長の茶好きについて話します。光秀は、信長が茶を愛好するのは濃姫の直伝であり、道三から受け継いだその最大のものは、美濃一国と茶であるとまで思っていました。また戦のやり方も道三同様、大波が寄せるがごとく寄せ、大波が退くがごとく退くという方法を好みました。閑斎は、家中でも茶が盛んではないのかと光秀に尋ねますが、織田家では茶道具を持つのは信長のみに限られていました。これは、天下取りのために家臣を常に臨戦状態に置くためでした。

光秀は、信長には今後運があるかどうか思案します。何よりも越前からの撤退の後でもあり、この人物に運があるかどうかが気に掛かっていました。やがて京へ戻った光秀は、まず自分が見聞きしたことをありのままに報告し、その後自分の考えを交えて信長に伝えますが、信長はそっぽを向いており、聞いているのかいないのかもわからない有様です。無論心の内では、光秀のこの才能を高く評価しているのですが、光秀はいくらか空しさを感じていました。やがて光秀がすべてを話し終わった時も、終わったかと一言言ったのみで奥へ引き下がってしまいます。

奥へ入ったというのも特別な理由があるわけでなく、ただ空腹になったというだけでした。そして湯漬けの支度をさせ、3杯食し終わったところで再び表に出て、光秀に2つ3つ質問をした後、下がれと言いますが、それがあたかも蠅を覆うような手つきであり、光秀は少なからず不快な気分を味わいます。織田家の譜代であれば慣れているこの態度も、まだ新参と言っていい光秀に取っては、何とも後味の悪いものでした。

その後秀吉が呼ばれ、翌日岐阜へ発つので道を先導するように命じられます。岐阜への道も浅井方に遮断されている可能性があり、色々調べた結果、千種越という、獣道のような道があることがわかります。この時信長の先導をしたのは蒲生家でした。旧暦5月で既に日差しが強い中を、信長は半裸の上に帷子の薄葉折をまとっただけで進むのですが、その信長を狙撃した男がいます。かつて南近江を支配していた六角承禎が放った根来衆、杉谷善住坊でした。しかし弾は信長の羽織の袖を貫通したのみでした。

この善住坊はその後捕らえられますが、京都守護職である光秀はこの一行には当然加わっておらず、後でそのことを知ります。ここで光秀は、改めて信長の運の強さを思い知ります。善住坊と信長の間の距離は、12、3間(約22~24メートル)ほどしか離れておらず、しかも鉄砲の名手から狙われていながら射止められなかったのは、寧ろ奇跡のようなものでした。光秀はこれで、信長が浅井と朝倉に勝ち、その後も信長の運は上昇するであろうと確信します。

山伏姿で北近江周辺の諜報活動を終えた光秀は、立入閑斎の屋敷に立ち寄って信長の茶好きの話をし、その後その信長に報告を行います。しかし信長は話を聞いている時も、あらぬ方向を向いていた利、話が終わるや奥に引っ込んで湯漬けを食べたり、さらに光秀が自分の質問に答えた後、蠅を追うような手つきになったりで、それが光秀の癇に障ります。この信長は人を見る目はあるものの、自分の行動がどう見られ、他人を如何に傷つけているか、その辺りにはかなり無頓着な人物でもありました。

そして信長は秀吉を呼び、浅井の兵に抑えられていな道を辿って岐阜へ戻ることになります。家臣たちがようやく見つけたのは、千種越という峻路でした。その道を行く信長の袖をかすめたものがあります。六角承禎が放った根来衆、杉谷善住坊でした。この善住坊は後で捉えられます。京都守護職として在京していた光秀は、後になってこの話を聞き、越前からの撤退で運が尽きたのではないかと思って信長は、今後浅井と朝倉を倒して、さらに運が上昇するであろうと考えます。

飲み物-カウンターとカクテル
[ 2021/01/23 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、BSで再放送中の『太平記』の再放送も観ています。そしてパペットホームズの続編ですが、これは是非とも再来年の大河が始まる前に、三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、『相棒』をはじめとする刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出しました。これを機に、今後さらに上を目指してほしいものです。そのためにも、国内のラグビーの変化に期待したいと思います。

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