FC2ブログ

ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
ベイカー寮221B/Baker House 221B TOP  >  国盗り物語

『黄金の日日』の叡山焼き討ち

6月20日放送の『黄金の日日』には、叡山焼き討ちが出て来ます。『国盗り物語』同様、信長は僧たちのことをむじな呼ばわりし、山の者は皆殺しにせよと秀吉、そして光秀に命じます。この時の光秀を演じているのは内藤武敏さんですが、どこか『功名が辻』の、坂東三津五郎さんの光秀を思わせます。

一方堺の今井家に奉公している助左ですが、秀吉の妻、ねね(おね、寧)が横山城へ向かうため、同行するように言われます。この時杉谷善住坊は、信長を千種越で狙った犯人として追われており、叡山に身を隠すことを決めていて、近江に行くなら叡山に入って、自分の朋輩である法林坊と会って来てくれと頼まれます。信長も叡山には手を出せないと善住坊は言うのですが、さて。

尚この時、今井家の娘(養女)美緒を助左がきつね呼ばわりしますが、これも『国盗り物語』で、お万阿が有馬温泉で、庄九郎からきつね呼ばわりされたのを思い出します。そして助左は叡山へ向かうのですが、焼き討ちに遭い、この時初めて我が身を守るために、織田方の雑兵を殺めてしまいます。またこの時秀吉は、山から下りて来る者たちを逃がしてやります。この辺は『軍師官兵衛』でも同じことが描かれていました。

一方ねねは、その秀吉に会いに陣中へ行きますが、こういうことは当時できたのでしょうか。しかもこのねねは、当然と言うべきなのでしょうか、尾張弁丸出しで会話をしています。

それから助左の友人の五右衛門ですが、キリシタンである笛(モニカ)と2人切りの時に、きわどいことをしてしまいます。この当時の大河は、こんなことも結構描いていたのですね。


飲み物-グラスビール
スポンサーサイト



[ 2021/06/24 01:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

幕末大河に求められる人物とは-2

幕末大河では、それまで埋もれた存在、あまり描かれなかった存在であったであろう人物が掘り起こされ、脚光を浴びるようになって行くというのは、今までにも書いたことがあります。『篤姫』の小松帯刀、『龍馬伝』の岩崎弥太郎、『花燃ゆ』の小田村伊之助、『西郷どん』の愛加那と小松帯刀(『篤姫』とは違った意味で)、そして今回の平岡円四郎など。

大河に存在意義があるとしたら、こういう人物を紹介して行くことではないかと思います。戦国や他の時代も含めた最近の大河には、新説の発表会的なものもあります。元々TVの重要コンテンツであった時代劇が、時の移り変わりと共に姿を消しているため、大河が生き残るには、こういう形を取らざるを得なくなっているとも考えられます。

最近のではなく昭和50年代の幕末大河にも、それまではあまり登場しなかったであろう人物が描かれています。河井継之助です。この人物は『花神』に登場していて、総集編のDVDで観ることができます。演じているのは高橋英樹さんです。元々この人を扱った『峠』が原作の一つで、『国盗り物語』同様、乱世を舞台にした群像劇となっています。この『峠』とは三国峠のことですね。ちなみにこの作品、映画化されて7月から公開される予定です。こちらは役所広司さんが河井継之助を演じています。

飲み物-アイスコーヒー
[ 2021/06/15 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

「『国盗り物語』に見る明智光秀」終了に当たって

6月13日が目前です。この日は坂本まで落ち延びる途中、光秀が小栗栖で竹槍にかかって果てた、あるいは自害した日とされています(無論その当時ですから旧暦ですが)。

『国盗り物語』では、本能寺の変後の光秀は、人心を収攬しようとして金銀をばらまくも、自分は天下人の器量でないこと、恐らく人々の期待を背負っているのは秀吉であることを悟り、そのせいかどうか、秀吉との戦準備はどこか中途半端でした。あるいは、負けるべくして負けたとも言えます。本能寺という大花火を打ち上げた割には、その最期は実にあっけないものでした。

本能寺の変は本当は誰が起こしたのか、それには様々な説があります。無論この『国盗り物語』以外にも、光秀が信長のことを恨み、この行動を起こしたという設定の小説もあります。

しかし『国盗り物語』の場合、前編が斎藤道三、後編が織田信長がそれぞれ主人公という二部構成で、さらにそれに光秀が絡む仕組みになっています。これから、道三の後継者としての信長と光秀、その両名の関係や、考え方の違いなどがかなり鮮やかに描かれており、それぞれの考えの食い違い、そして決定打とも言える丹波の召し上げなどから、本能寺への導火線に火がついたと思われる描き方になっています。

無論信長に仕えるまでの光秀は、諸説があります。医者をしていたという説も今は有力ですが、この時はまず叔父道三の、京での妻であったお万阿のもとを訪ね、その後諸国を歩いた後越前にたどり着き、ここで下級武士相手の道場を開くことになります。

とはういうものの暮らしは苦しく、しかも妻のお槇と従兄弟の弥平次光春が、世話になっていた僧が亡くなったことから、越前にやって来ます。3人でどうにか糊口をしのぐ日々が続き、光秀は希望を失いかけますが、とあるきっかけから朝倉家への方向がかない、さらに将軍擁立に動くことになります。

この将軍擁立も、ふとしたことで知り合いになった細川藤孝と辛苦を分かち合う日日が続きます。ただし見方を変えれば、光秀が様々な形で夢を見ることができた日々でもありました。不安定である代わりに、選択肢も多かったのです。

無論足利義昭には苦労させられどおしでしたが、幕府再興となる夢も残されていました。中世的なものの好きな彼らしい理想でした。実際信長の力を借りて彼を将軍にし、光秀自身の地位も身分も安定したものの、今度はそれゆえに幕府と信長の板挟みになり、自分で擁立した将軍を自分で追放するに至ります。

信長の家臣となってからは、評価される代わりに、信長の考えとの対立に悩まされるようになります。かつての義昭に対する姿勢がそうであったように、今度も自分で主君を追い落とす、もっと言えば葬り去ることまでしてしまうことになります。

創作も多いのですが、この位の創作であれば、物語を面白く進めるためには必要であるでしょう。『麒麟がくる』を途中であまり楽しめなくなり、その代わりにと思って、牢人時代からをここでご紹介して来ましたが、私としても、『国盗り物語』を再読するいいきっかけとなりました。今後も何かの機会でこの原作、そして大河を引き合いに出す可能性はあるかと思います。

飲み物-緑とグラスビール
[ 2021/06/12 23:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『青天を衝け』第17回に関して

今回は家康公登場、元治元(文久4=元治元)年の尊王攘夷運動、そしてイギリス留学をした長州の井上聞多、伊藤俊輔(博文)についての解説です。ところで、このバックの人たちいいですね。

*********************

元治元年6月、百姓たちを連れて京へ戻る篤太夫たち。その場に伝蔵が惇忠の手紙を持ってやって来て、自分も連れて行ってほしいと頼む。実際篤太夫たちも、血洗島から何人か連れて行くつもりでいた。その頃惇忠は、血洗島の人々が押し掛けたせいもあってやっと放免となり、平九郎も手鎖を外された。その頃江戸では、平岡家に京から急使が来て、やすは夫平四郎が暗殺されたと聞かされる。にわかなことにやすは取り乱し、容易には信じられなかった。そのやすを川路聖謨が窘める。

慶喜は今なお円四郎の死を諦めきれずにいた。そこへ永井尚志がやってくる。大坂に長州兵1600人余りが入り、会津を倒して孝明天皇をかどわかそうとしていた。しかし戦になれば薩摩を利するだけであり、平四郎も同様のことを言っていたと慶喜は回想する。その薩摩は、西郷吉之助が慶喜と直談判し、長州を潰すべき、何なら薩摩が先に行きましょうかと慶喜を挑発する。そして血洗島では、伝蔵が篤太夫と成一郎のことを、市郎右衛門たちに伝えていた。しかし家族との対面はかなわず、帰りに中山道を通るというので、伝蔵は用件を作ってそこで会うことにする。

江戸城内の一橋家に入った篤太夫と成一郎は、猪飼勝三郎がそこにいるのを見つける。猪飼は元気がなさそうで、しかもその傍らには、高価そうな品物が積まれていた。慶喜や徳信院、美賀君から贈られた、平岡家への見舞いの品であると聞き、2人はそこで初めて、円四郎が亡くなったことを知る。しかし膨大な品物に囲まれたやすは、呆然としていた。そして京では、長州兵が京へ入っているという知らせを受け、慶喜は急ぎ参内して勅命を取り付ける。御所の九門を固めさせた慶喜だが、長州勢は尚もその固めを突破しようとしていた。

慶喜は、御所に筒先を剥けるとは何が尊王だと叫び、兵たちに檄を飛ばす。孝明天皇や女房達、さらに祐宮(後の明治天皇)は紫宸殿へ、また薩摩軍も、大砲を使って長州兵を遠ざけた。この後、京の市街地には火災が発生した。西郷はその後慶喜と会い、貴方に比べたら我々は何もしていないと謙遜するが、同じ薩摩の川村純義共々、西郷は一橋の恐ろしさを知っており、もうちょっと仲ようしちょった方がええのうと言う。さらにその後、イギリスをはじめとする列強4か国の艦隊が長州を討ち、一連の事件は幕を閉じた。

家茂は祝辞を述べられるが、自らの将軍としての力不足を嘆く。和宮もまた、降嫁した自分が力不足と嘆くが、家茂はそんな彼女をいたわる。その家茂は、小栗忠順から聞かされた、フランス公使のロッシュを密かに頼っていた。また篤太夫たちも禁門の変を知り、長州までが逆賊とはと驚き、円四郎が言っていた通り、攘夷は終わりだと成一郎は言う。その時猪飼が、長州の上屋敷が壊されていること、慶喜が京で先陣を切ったことを嬉しそうに伝える。一方水戸では、逆賊の汚名を着せられた天狗党を率いる藤田小四郎が、自分たちが尊王攘夷の最後の砦となったことで、武田耕雲斎に出馬を要請していた。

やすは屋敷を引き払い、三味線でも教えて暮らそうと考えていた。荷物をあらかた片付けた時、掛け軸に目が留まり、円四郎の言葉を思い出して外したところ、裏には手紙があった。これを見つけたということは、さぞ俺がいなくて、寂しい思いをしているのだろうなという文句から始まるその手紙には
「使えたいお人に仕え
お前という女に巡り合った
我が殿はこの先新しい日本を作ってくださる
そうなったらお前と2人で歩きたい
さぞおかしいれだろう」
という意味のことが書かれていた。涙を流すやすは、すぐ近くに円四郎がいるように思えてならなかった。

篤太夫たちは京へ足を速めるが、途中川路に出会う。また深谷宿では尾高惇忠に会い、その後長七郎に金子を渡したと話す。惇忠や平九郎が、大変な目に遭ったことは彼らも知っていた。またその先の家で、2人は妻子と久々の対面を果たす。市郎右衛門とゑいは大勢だと人目につくと、お千代とうただけをその場に遣っていた。お千代は篤太夫を信じていると言い、篤太夫も一緒に暮らせるまで待っていてくれ、もっと子供もほしいと言う。その時伝蔵たちが大声で、連れて行ってくれと頼みに来る。

翌日岡部領を抜けようとした一行は、岡部藩代官の利根に止められ、渋沢両人を引き渡すように命じられるが、猪飼は一橋家に不可欠な人物ときっぱり断る。篤太夫は不覚にも涙し、円四郎にこの気持ちを伝えたかったと言う。それだけ彼の喪失感は大きかった。慶喜は京へ戻った2人をねぎらい、円四郎は父斉昭が遣わした者、なぜ円四郎が水戸の者に殺されたかと尋ねる。篤太夫はわかりかねると答えるが、慶喜は、円四郎は自分の身代わりになったのだと答え、尊王攘夷も呪いの言葉になったと洩らす。しかも天狗党は諸生党らとの戦いに敗れ、その数を減らして行った。耕雲斎は京へ向かい、天子に自分たちの真心を見せると言うが、慶喜は幕府の為にも、天狗党の討伐に乗り出す。

*********************

篤太夫と成一郎は、40人にものぼる百姓たちを連れて京へ向かいます。その途中伝蔵から惇忠の手紙を受け取りますが、当の伝蔵も京へ行く気満々でした。この時は篤太夫も成一郎も円四郎の死を知らず、さぞかし喜んでくれるだろうと考えていただけに、彼の死を知った時の落胆は大きなものでした。

一方でやすも、京からの使いからこれを知らされ、思わずうそだろと、芸者時代そのままの口調で答えます。このやすがこういうさばけた女性であったからこそ、円四郎も救われることもあったのでしょう。しかし彼女も夫の死を受け入れなければならなくなり、屋敷を引き払うため掛け軸を外したところ、円四郎からの文を見つけます。新しい日本を、2人で歩いてみたいと書かれており、やすは涙します。

そして京では一大事件が起ころうとしていました。長州藩士を中心とする急進派が、京へ向かい、クーデターを起こそうとしていたのです。桂川を渡る、つまり京に入るということですが、『国盗り物語』で明智光秀が本能寺に向かうべく京に入った時もこの描写でした。しかし長州軍は光秀と違い、その目的すら果たすことができず散って行きます。文久年間に志士たちの間で、ある意味カルト的な熱気を帯びて使われていた尊王攘夷(所謂破約攘夷の攘夷)は、最早過去のものとなろうとしていました。

ところで禁門の変の描写なのですが、描き方がダイジェスト風で関連性がわかりづらいのが気になりました。それから慶喜が勅命を賜るのは、実は小松帯刀が要請したものと言われています。小松に関しては前から書いてはいますが、やはりこの人物抜きで幕末の薩摩を描くのは難しいかと思います。

最初に西郷が出て来たシーンなども、本来はこの人が出て来てしかるべきものでしたし、「もうちょっと仲ようしちょった方がええ」も、元々は彼が言ってもよかったかと思われます-藩家老だから、ここまで直截な言い方はしなかったでしょうが。実際この言葉にあるように、また前回の分にも書いたように、この頃から薩摩は幕府と距離を置き始めるようになっています。

あとやはり長州をあまり描いてないせいか、長州関係のシーンがどこか断片的ですね。長州軍もモブですし。禁門の変を描くなとは言いませんが、主人公のかつての仲間が関与した、天狗党の方にもう少し重きを置いてもよかったのではないでしょうか。またドラマの作りが、ちょっとごちゃごちゃして来た印象もあります。しかし天狗党も、この時点で京に向かう(西上)のは、さて如何なものかと。

それから猪飼が、2人の渋沢は一橋家の家臣である、故に岡部藩には差し出しかねると言うのは、普通に考えれば当然ではあるのですが、その家臣になるまでの過程、2人が今なお目付に狙われていて、家族ともまともに会えないことを思えば、ここはよく乗り切ったと言うべきでしょう。しかし伝蔵、声が大きい…。


飲み物-ウイスキーストレート
[ 2021/06/11 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 65

京は緑が美しい季節でしたが、光秀は落胆します。順慶を味方に引き入れることもできず、ただ青葉を見物しただけの結果となってしまったため、急いで秀吉軍を迎え撃つ準備をする必要がありました。坂を下りながら光秀は、自らの運命が時代から転がり落ちてしまったことを痛感します。
計算は綿密に立てたつもりでした。しかし計算は現実ではなく、根本的な誤りであったことに気づきます。光秀は、新時代を押し開く天下人には向かない人物でした。かつての斎藤道三はそれにふさわしく、また信長もその器量を持ち合わせていました。

信長は薄情かつ残忍な面がありましたが、それも旧弊な制度の破壊、新時代の創造に当たっては大きな原動力となったのです。しかし光秀は、時代が望む人物ではなく、寧ろ人々は秀吉に望みを託すようになっていました。光秀は陣を下鳥羽方面に置き、しかも純然たる野戦陣形を取らず、勝竜寺城や淀城を要塞化します。
兵の数で劣る光秀軍は、城の防御力にも頼らざるを得なかったものの、これでは攻撃か防御かの境界線があいまいでした。このやり方に対し、斎藤利三は近江坂本城に退くように要求します。実際兵力の4分の1は、近江の坂本、安土、長浜、佐和山の四城に置いたままにしていたのです。負けた時に近江に逃げることを考えてのことでしたが、利三は、いつもの光秀らしからぬ不徹底ぶりに不満を感じていました。

6月12日、この日は雨でした。その夜秀吉軍の接近を知った光秀は、これを迎え撃とうとしますが、利三にしてみれば、この少人数で何ができるのかと腹立たしい思いでした。光秀の戦術はどこか中途半端なのに、この秀吉軍迎撃だけは進んでやろうとし、陣形を決めた後隊長たちに
「あすの夜明け、山崎の付近に参集せよ」
と命じます。
しかし雨は止まず、しかも光秀の軍は、その雨が止むのを待つことなく出発します。桂川を渡った時点で、鉄砲の火薬は殆ど湿ってしまい、翌日の迎撃には、10分の1も鉄砲陣が使えないという事態となっていました。

天正10(1582)年6月13日。午後4時過ぎに戦いが始まり、明智軍は2時間あまり、秀吉軍の北方への進軍を食い止めます。しかし日没前には散り散りになり、光秀は戦場を脱します。一旦は勝竜寺城に逃れたものの、深夜に近江坂本へ向かうことにし、わずかな供回りを連れて夜道を落ちて行き、桃山高地の東浦にある小栗栖の里にさしかかります。
この辺りは竹藪が多く、藪の中の道を通っていた光秀は、既に馬の手綱を持てないほどに疲弊しきっていました。その光秀は小声でこう言います。
「小野の里は、まだか」

その時風が鳴って、竹の露が降りかかります。その時光秀は、左腹部に激痛を覚え、馬のたてがみを掴むものの気が遠くなって落馬します。
「殿っ」
と、付き従っていた溝尾庄兵衛が駆け寄りますが、光秀の体は地に転げ落ち、竹槍が腹部を貫いていました。この辺りの土民の仕業でした。

細川藤孝(幽斎)はこの戦闘には参加しておらず、後に上洛して本能寺の焼け跡に仮屋を設け、京の公家や豪商などを招いて、信長追善のための百韻連歌の会を催します。
かつて、光秀を粟田口に出迎えた公卿たちの大半、そしてもちろん、連歌師の里村紹巴もその中にいました。この時の連歌は次のようなものでした。
墨染の夕や名残り袖の露 (幽斎)
魂まつる野の月のあき風(道澄)
分け帰る道の松虫音に啼きて(紹巴)

光秀は筒井順慶を諦め、秀吉を迎え撃つ作戦に出ますが、その戦術たるや如何にも中途半端でした。斎藤利三は、兵をまた残している近江坂本へ戻るように諫言します。その兵を残しているのも、負けた時に逃げ込めることを考えてのものでした。
この時点ですでに、光秀は勝利を自ら手放していたとも言えます。秀吉には負ける、負けたらとにかく近江へ戻ろうと言う、かなり弱気かつ負け犬的な発想とも取れますし、その根底には、最早自分が、時代から必要とされていないという自覚があったと言うことができます。

しかも鉄砲に詳しいはずのこの人物が、雨の中を強行したせいで鉄砲が使えなくなるという、いわば凡ミスのようなことをやり、結局秀吉軍を前に耐えることができたのは、3時間にも満たなかったのです。
その後敗走した光秀は、一旦勝竜寺城に入るものの、その夜闇を突いて坂本へと向かいますが、途中の小栗栖で土民の竹槍にかかり、あっけない最期を遂げます。享年55でした。
尚この原作では、秀吉の行動にあまり言及されておらず、この時点での秀吉については、同じ司馬氏の、『新史太閤記』に詳しく書かれています。


飲み物-デキャンタのウイスキー

[ 2021/06/10 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語に見る明智光秀』番外編-義昭のかつての寵童と側室

『国盗り物語』に描かれた明智光秀像について、1年近く不定期に投稿してまいりました。いよいよ大詰めですが、その前に。光秀がかつて信長と共に仕えた、足利義昭に関して、未投稿の分を振り返りたいと思います。

この人物は、奈良一条院の門跡を務めていた頃は、僧侶であったため男色家でした。特に善王という稚児を溺愛し、一条院を脱出して将軍となった後も、その行方を気にしていました。この善王は百姓の子でしたが大変な美貌で、女でもこれほどの者はいるまいと義昭は思っていました。

その後近臣が、在所に逃げ戻っていた善王を探し出しますが、この人は無位無官であるため、2人は夜に寝所で対面します。しかし善王は一人前の男となっており、月代を剃って、がっしりとした壮漢に成長していました。そして声も太々しく、かつての面影は最早どこにもありませんでした。

善王は義昭脱出後、常海という僧に言い寄られます。この常海は、覚慶と呼ばれていた義昭の侍僧でした。結局善王はたまりかねて寺を逃げ出して、故郷である山城国へ戻り、今は山仕事と田仕事をしていると言います。元服して、今は堀孫八郎と名乗っているこの人物を義昭は憐み、昔通りに肩を抱いてやろうとしますが、あたかも岩を抱いているような感触でした。

これがもとで義昭は男色から遠ざかるようになります。孫八郎には、自分は既に還俗しているから、最早関係は持たぬと言い、その代わりに自分に仕えるように命じます。さらに、お前に姉妹はいるかと尋ねますが、生憎どちらもいないという返事でした。姉か妹がいたのなら、あるいは美しかろうと思ったのです。

その後義昭は、様々な女性を閨に入れるようになりますが、どの女性にも満足しませんでした。ひとつは義昭が、高望みをしすぎるせいもありました。30近くまで僧であった彼は、女性を理想化する癖があったのです。さらに直臣である細川藤孝は、武将としての自分に誇りがあり、女の世話で義昭に取り入ろうという気は毛頭なく、光秀またしかりでした。元々光秀は、この手のことに疎くもありました。

義昭が次々と相手の女性を変えることで、後房には養うべき女性の数が増え、そのための経費がかさむようになります。これには、京都守護職の光秀も頭を痛めていました。しかも義昭は、もう少し将軍家にかかる費用を増やせないかと光秀にねだります。この点義昭は貴族で、物は下にねだれば得られると思っていました。

光秀はよほど直言しようかと思いましたが、譜代の臣でないためそこまでは言えず、藤孝に頼むことにします。その時光秀は、公方様は常に自分は不自由しているという気持ちがあり、このままでは、結局織田を捨てて他に乗り換えようという気持ちを大きくするので、単に女の問題だけではないと言い、藤孝は何度も義昭に諫言しますが、逆に義昭に嫌われてしまうことになります。

その後義昭は、側近の上野中務少輔清信の娘を得て、やっと漁色が収まります。これにより、清信は義昭の寵臣となります。義昭は例の孫八郎を、この清信の養子に迎えますが、孫八郎は元が百姓であるため、まず幕臣の一色家の養子、さらに自分の猶子とし、しかる後に上野家の嫡子とし、政信と名乗らせます。さらに宮中に頼んで
従五位下 大和守
の官位も貰ってやります。

これには京の人々も呆れ、このような落首が、将軍館のそばの松の木に掲げられるようになります。駒野とは孫七郎の故郷で、そこで彼は瓜を作っていました。

山城の
駒野のあたりの瓜つくり
上野になりて
ぶらつきにけり

こののち、清信の立場は重くなりますが、実は義昭の陰謀隙を支援したのは、他ならぬこの清信でした。反織田同盟が活発になって行ったのは、この人の関与もあってのことでした。

陰謀と言えば、かつて光秀は義昭に対し、三好党退治のために、自ら上様に御出馬いただきたいという信長の言葉を言上していますが、その三好党の裏にいたのは実は義昭でした。信長はそれを知っていてこのような行動に出ており、やむなく義昭は出馬することになります。

また、武田信玄と手を結ぶのにもこの清信が関わっていました。


飲み物-ウィルトシャービール

[ 2021/06/07 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 64

光秀は人心を湧かせようと懸命でした。既に、天下を決するべき戦が眼前に迫っていると言うのに、彼は金銀をそれへの資金に充てず、味方や世間の人気を得るために惜しみなく使いました。
そして安土に滞在中の6月7日、朝廷から吉田兼見が勅使となって賀意を述べますが、この人物は元は神職で公卿ではありませんでした。彼が選ばれたのは、光秀と懇意であるというのが大きな理由で、また細川家ともつながりがあり、今度のことを公卿たちに理解させるため、色々と骨を折ってもいました。しかし兼見によれば、洛中の人気は芳しくありませんでした。

それを聞いた光秀は
「私は、ここで孤(ひとり)でいる」
と、口にします。ここというのは安土城のことですが、光秀はどこかこの城の居住者として、安定感を欠いていました。京のことをよろしく頼むと兼見に頼み、金銀を与え、その後ここを弥平次に任せて自分は坂本城へ帰還します。
9日、光秀は京へ入りますが、本来は白河口から入るところを鬼門であるということで避け、粟田口へ向かいます。兼見の根回しもあって、多くの公卿や門跡が出迎え、光秀は彼等に丁重に礼をします。この点が信長と大いに異なる点でした。さらに光秀は、世論を醸成する知識人でもある彼らを、いわば買収するべく、さらに多くの金銀配りに踏み切ります。

自分の評判のために、惜しげもなく金を使う光秀ですが、一部の老臣は、織田軍団との決戦との後にすればよい、今は戦の資金が大事と忠告します。しかし光秀は取り合いませんでした。この頃細川藤孝が髪を下ろしたことを知った光秀は、藤孝(幽斎)に、恨みと哀愁を込めた手紙を送っていますが、要は味方してくれというものでした。
光秀は自分が不利になりつつあることを知っていました。また大和の筒井順啓にも味方を要請していました。筒井家の所領を光秀が復活させたこともあり、順慶は当然味方になるものと思い込んでいました。

事実順慶は味方してくれますが、その態度たるや実に微妙なものでした。一部の兵のみを近江平定戦に参加させるも、順慶自身は大和郡山城から出ようとせず、それどころか、秀吉を始め旧織田系の連合軍が、山陽道を京へ向かっていると知り、光秀を支援していた部隊を引き上げさせてしまったのです。
既に人気はないに等しく、最早光秀は、この世に於ける成功を諦めかけていました。なおも金子をばらまいてはいましたが、それは自分亡き後、朝廷や五山の僧たちが、自分の気持ちを代弁してくれるであろうという、その一縷の望みのためであったのです。

一方秀吉は山陽道を猛進し、さらに軍使を放っては、織田家の諸将の従軍を求めます。彼らは先を争って誓書を出し、秀吉を支持することによって、家運を開こうとしていました。秀吉に取っては大きな好機であり、またその軍勢も元々は毛利攻めのものであったため、兵の数が格段に多く、誰の目にも秀吉が優勢なのは明らかでした。
人は優勢な方に参加したがるものであり、11日には摂津尼崎城に入ります。この時精をつけるべく、大蒜を生焼きにして食していますが、その人数は3万2千あまりで、敵方の明智軍は1万数千でした。

当然ながら光秀は焦ります。せめて順慶を味方につけるべく、家臣の藤田伝五を大和郡山城に派遣し、援軍を促す策に出ます。さらに10日、光秀は大和郡山まで20キロの地点にある洞ヶ峠に陣を敷きます。つまり
「言うことをきかねば、郡山を攻める」
という意味の恫喝でした。
この峠は眼下に京都と大坂間の平野を望むことができましたが、その平野も数日後は羽柴軍が攻めてくることになりそうでした。そして終日待ったものの、ついに順慶は姿を見せなかったのです。

主君を討ったという自分の汚名をすすぐ目的もあったのでしょう、光秀は安土城の金銀で、いわば人心を買う作戦に出ます。これだけでも相当の金額を使っており、本来であれば、目の前に迫っている旧織田勢との戦に充てるべきものでした。
しかし光秀は、吉田兼見からの京の情勢を聞いて、最早天下人になることを諦めており、朝廷とか五山の僧といった人々に、自分亡き後の名誉回復を託して、金銀を惜しみなく与えたとも取れます。
一方秀吉の軍ですが、毛利攻めのための大軍を率いてそのまま山陽道を東に進み、方々で味方を得ます。正に機を見るに敏といった感じで、明智軍の倍以上の軍を率いた秀吉は、11日には尼崎に到着していました。

光秀は細川藤孝に裏切られた今、せめて筒井順慶を味方に引き入れようとします。しかし結局順慶は味方してくれることはなく、安土城で兼見に洩らした
「孤(ひとり)でいる」
は、その後の彼の孤立無援をも象徴する言葉となったようです。
それにしても本気で天下を狙うのであれば、秀吉が味方につけるであろう西国の武将を、先手を回して買収しておくべきだったのですが、それすらしなかったことから思うに、やはり本能寺に於いて、彼もまた燃え尽きてしまっていたのでしょう。また順慶を待つために一日使ったということは、それだけ秀吉に有利な状況を自ら作り出した感もあります。


飲み物-ロックグラスカクテル

[ 2021/06/06 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 63

細川藤孝の嫡子、忠興が慌ただしく戻って来たのは、愛宕山下坊の僧正から手紙を貰ったためでした。驚くべきことに、それには信長が本能寺で光秀に討たれたと記されています。自分に取って舅に当たる、しかも尊敬するべき人物として仰いでいる光秀が、主君殺しとは想像もつかないことでした。忠興はまだ若く、人間の行動を倫理的に見る傾向があり、その意味でもこの知らせは嘘であると思いたいのも無理からぬことでした。
一方父藤孝は、この世には信じられないことは山ほどある、自分もそういう経験をして来た、まず兵を城に戻せと命じます。息子とは違い、さらにこちらは、大人ならではの政治的判断で物事を考えていました。

藤孝は、光秀の行動はあくまでも衝動的なものであり、自分にも相談がなかったことから考えると、他の武将への相談も恐らくなかったであろうと考えます。つまり織田家中を敵に回したということでした。光秀は滅びるであろうと思った藤孝は、決心を固め、戻って来た忠興の前で光秀には与せぬと言い、信長への追善の意味で髻を切って、幽斎と名乗ることにします。
また自分のこの行動が、世間に与える影響、さらにはそれが光秀に取って不利になるであろうことも見抜いていました。そして忠興には、与するのもよし、勝手にせよと言いますが、激しやすい性格の忠興は即座に父同様髻を切り、三斎と名乗ることになります。

忠興改め三斎が与しないことは、光秀に取っては痛手であったものの、幽斎となった藤孝に取っては、火の粉をかぶらずに済みました。その後、足利幕府瓦解後に明智家の客分となっていた、沼田光友という人物が、光秀の手紙を持って訪れます。この人物も、細川家とつながりがありました。手紙には、藤孝に味方してほしい旨が綴られています。
(なんと人の好い、うかつな男であることよ)
幽斎は思います。光秀は軍人としての才能は優れていても、天下を取るにしては、政治家としての才能を欠いており、それゆえに哀れさをも感じ、幽斎は涙ぐみます。

幽斎は既に髪を下ろしているため、加担はできぬと言い、光友もそれを悟って宮津を去って行きます。恐らくこの知らせが光秀の耳にも届いたのでしょう。その光秀から飛脚便が届きます。その手紙の内容たるや、何やら哀願するが如き内容で、味方してくれたら摂津を用意しているが、但馬と若狭を望まれるのならそうするとまで書かれています。幽斎は光秀の人気のなさを改めて思います。
恐らく本能寺の変後、一番困惑しているのはこの光秀だったでしょう。しかも本能寺で信長を討ったのは、忠興を取り立てて大身にしたかったためで、それ以外に他意はないとまで書かれています。ちなみにこの手紙は、その後細川家に代々所蔵されることになります。

幽斎は寧ろこの場合、光秀と断絶することによって、世間に自分の立場を示し、次の時代に生き延びるための布石にする必要があると考えます。そして断交の手紙を送り、「三斎」の妻お玉を離縁して丹波国三戸野に住まわせることにします。
その後ほどなくして、備中にいた秀吉が山陽道を東に向かっていることを知り、幽斎は秀吉に誓書を送って彼の下に入ることに決めます。幽斎は、恐らく次に天下を取るのは秀吉であると見ていました。秀吉は亡君の恨みを晴らすという大義名分を掲げており、その秀吉を担ごうとする織田家の武将の支持も得られていたのです。

この時北陸にいた柴田勝家は、早急には京には戻れないと幽斎は考えていました。滝川一益も関東にいて、そうすぐには戻れないこと、丹羽長秀は織田家の老臣であるというだけで、実際京に近く、才略も人望もあるのは秀吉のみだったのです。そうなると光秀は、最早彼らの餌食になるだけでした。
その光秀は、新しい時代を開くだけの明るさに欠けており、そのため洛中の人々も光秀ではなく、その次に出て来る人物に期待しているふしがありました。光秀はこういう、自分に不利なことに敏感であり、短期間で安土、長浜、佐和山の城を接収した後、安土城の茶道具や金銀珠玉を、悉く家来たちに分け与える作戦に出ます。

今年も6月2日がやって来ました。無論本能寺の変は旧暦であり、実際は7月半ばと思われますが、ともかくこの日に本能寺で光秀が信長を討ったことが、細川忠興、そしてその父の細川藤孝の知るところとなります。幽斎は光秀の性格を知っており、今加担しても不利になるだけだと思って、追善のために髷を切り、最終的に光秀と断交することになります。
これは子の忠興も同じでした。光秀の娘婿でありながら、この倫理的にものを考える癖があり、しかも激情家である忠興は、大逆を働いた舅に与するつもりはなく、即座に髷を切り、またその妻のお玉は三戸野に幽閉されます。光秀は頼みの綱の藤孝の援助を得られず、また織田家中の武将からも狙われる身となりました。

この辺り、細川藤孝(幽斎)は政治家肌であったと言えます。足利幕府を去り、信長に仕えることになった時も、彼はまず身を引き、その後義昭の挙兵について知らせた方が、わが身に取って安全であると考えていました。幽斎の名はこの時考えていたものです。しかもその時も、光秀は彼の本意をなかなか察することができませんでした。
この時も状況は似たようなものでした。しかも光秀は、愛宕権現に詣でた後、本能寺攻めを朝廷のためだと言ってみたり、信長に追放された義昭のためだと言ってみたり、かなりその動機付けがぶれていたのですが、今回も藤孝の援助を仰ごうとしてのことなのか、忠興を取り立てたいから信長を殺したなどと、かなり牽強付会と思われるところが目につきます。


飲み物-ブラッディサム

[ 2021/06/02 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 62

森蘭丸から光秀の謀反を聞かされた信長は、癖でちょっと首をかしげますが、すぐに
「是非に及ばず」
と言い、弓を取って高欄に出ます。そして矢をつがえて放ちますが、すぐに弦が切れ、槍を取って応戦します。
この応戦は最後まで働き続けようとする気持ちのゆえか、あるいはその人生の最終局面を、最も勇敢な形で飾ろうとする美意識の表れなのか、恐らくはその両方が入り混じったものと取れます。とにかく信長はよく戦いました。

そして長谷川宋仁を呼び、
「汝(うぬ)は武士ではないゆえ、死ぬな」
と言い、女どもを連れて落ち延びろと命じます。その後殿舎に火をかけさせ、濡れ縁に再び出たところ、庭は明智の兵で満ち溢れていました。信長の側近たち、あるいは別の宿舎から駆け付けた者たちも、次々と戦いの中で命を落として行きます。その時、
「右大臣家、御免候え」
と駆け寄って来た者があります。明智家の槍の名手、安田作兵衛国次でした。信長はこの者に一喝し、首を取るため近寄って来たこの人物は、不覚にも信長を拝跪します。

信長は振り向きもせず奥へ向かい、何度を立てきって障子を閉じ、燭台を引き寄せます。彼にとって他人に討たれることなどは許しがたいものであり、自分を殺すのは自分の他にはありませんでした。腹を搔き切り、介錯を誰がしたのかは不明ですが、首が落ち、ほどなくその体は灰となります。
その少し前、夫人の濃姫も絶命します。辻が花の小袖に襷をかけ、薙刀で応戦している内に、明智方の山本三右衛門の槍に掛かって果てています。彼女には実子がいなかったため、道三の血は彼女の代で途絶えました。

そして信長の嫡子信忠です。妙覚寺に宿を取っていた信忠は、包囲軍を崩しながら隣接する二条新御所に移り、この御所に住まわれる誠仁親王に危害が及ばぬよう、移座されるまで戦いをやめるように光秀に通告します。親王は、この時御所にいた里村紹巴が駆け回って手に入れた板輿で出られ、その後戦闘が開始されます。
なお信忠の家臣には、猪子兵助がいました。この人物は、例の正徳寺の会見の際、道三の家来として従っており、道三亡き後は織田家に仕え、そしてこの時は二条新御所から逃げ落ちて、秀吉に仕えて生涯を全うしています。

やがて信忠は二条新御所に火を放ち、自害します。首を打ったのは鎌田新介という者でした。信忠も、死体は縁の下に入れよと命じており、本能寺共々二条新御所も焼け落ちます。
その頃、別の人物が居城を発ち、出陣しようとしていました。細川藤孝です。信長によって、天子や公卿といった伝統が回復され、十二万石余りの大名となり、今は丹後宮津にいました。しかしこの城主は、名義上は息子の忠興となっていました。かつての足利家の臣らしく、二君には仕えぬという教養人らしさを見せたのですが、藤孝はそういう、処世術に長けた面を持ち合わせていました。

そして天正10(1582)年6月3日。予定通りに出陣するつもりでいた藤孝は、城を出るまでのしばしの時間を、大津から来た十四屋という町人との会話に当てていました。藤孝は名門出身でありながら、経済的に苦しい時代を過ごしたせいか、かなりの倹約家であり、衣服も具足も黒のみを用いました。黒は高雅であると思っているせいもありますが、汚れが目立たないのもその理由の一つでした。
また絵ぶすまなども用いておらず、如何にすれば金がたまるか、それを教えてくれたら銀百枚を与えると藤孝は言い、十四屋は、それがお金がたまらない一因ですと返します。この辺りが藤孝のいわば愛嬌でしたが、その時先に城を出た忠興が、慌ただしく戻って来ます。

本能寺の変、信長の「是非に及ばず」が出て来ます。この原作では、すべてを能動的にあきらめ去ったという解釈になっていますが、昨年の『麒麟がくる』関係では、あの光秀から攻められたのであればどうしようもない、そういった解釈も登場していました。ともかく、信長は明智軍を相手に戦い、また商人である長谷川宗仁や女性たちを逃がします。
ただ濃姫はこの場に残り、明智軍相手に奮戦した後に命を落とします。そして信長も、最早これまでと奥に入って腹を切ります。数えで49歳の生涯でした。その後嫡子信忠も、二条新御所から誠仁親王を逃がし、その後応戦した後に自害します。

この時親王のそばには里村紹巴がいました。紹巴は、あの連歌の際の発句が現実のものになったことを、どのように思ったでしょうか。
またこの親王は、本来であれば正親町天皇の跡を継いで即位するべき人物でしたが、この4年後に薨去し、遺児である和仁親王(後の後陽成天皇)が即位しています。
そして丹後宮津では、細川藤孝が出陣の準備をしていました。備中へ向かうつもりで、出陣までの間、大津の商人十四屋との会話を楽しんでいたのですが、前隊の指揮のために先に城を出た子の忠興が、城に戻って来てしまいます。その理由は何なのでしょうか。


飲み物-ショートカクテル
[ 2021/05/29 23:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀番外編-本能寺の変と信長の「甘さ」

「『国盗り物語』に見る明智光秀」もそろそろクライマックスですが、まず織田信長の光秀観について。

この作品での信長は、原作と大河の総集編から判断する限り、正に光秀をはじめ家臣を「道具」のようにこき使い、功績を立てた者にはそれに応じた見返りを与えています。ただ功績を立てられなかった者、あるいは自分の待遇に不満を洩らしたり、自分に刃向かおうとした者には、かなり容赦ない姿勢で臨んでいます。この意味で合理主義という表現は当たっています。しかしながら、自分のそのやり方にも限度があるということを、見定めていたかどうかについては不明です。

本能寺の変の時点では、信長の天下統一計画はまだ途上段階にありました。このままこのやり方で皆がついて来るかどうか、そういった懸念を、いくらかでも抱いたとも考えてもおかしくはないのですが、原作にはそういう、信長が今後の自己への評価を気にして思い悩むような記述は見当たりません。


しかし大河では、この先は気が狂うかもしれないとか、この信長にもわからぬなどと言っていますので、少なくとも脚本では、この状態をそのまま維持できるかどうかは不明だという、漠然たる不安をのぞかせるように描いたとも考えられます。無論本能寺の時点では、信長はまだ天下人として揺るがぬ存在であり、光秀に取ってその点はマイナスでしたが、この時を逃せば、彼に取って二度とこのような好機は巡ってこなかったでしょう。


実際少ない手勢で京に滞在しており、その意味では家臣たちを信用していたと取れますが、そこにまた彼の「甘さ」があったとも考えられます。この辺り、やはり二条館を城郭のようにしていながら、暗殺された足利義輝を思わせます。


信長が暗殺された、その原因はいくつもの説があり、どれが正しいとは言い切れません。坂本龍馬と並んで乱世の風雲児であり、しかも海外の勢力ともつながりがあったことを考えると、竜馬暗殺にするのと同様に、様々な説が登場してもおかしくはないからです。


私としては、光秀が信長に対して、考え方の違いからくる私怨、あるいは諫めたいという気持ちを抱いており、それがこのような形で具体化したかとは思っています。この原作の場合、光秀は荒木村重一族の悲惨な最期を熟知しており、無論弔い合戦が起こる事も察知してはいたものの、それでも自分の前に立ちはだかる、信長という恐怖を討たずにはいられなかったとは言えそうです。しかしこの巨大な「敵」を討ったその代償も、かなり大きなものではありました。


飲み物―アイスコーヒー5

[ 2021/05/25 00:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『青天を衝け』の感想も書いています。またBSで再放送中の『黄金の日日』の再放送も観ています。そしてパペットホームズの続編ですが、これは是非とも来年の大河が始まる前に、三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、『相棒』をはじめとする刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2021年には北半球最強であるブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとの試合も組まれています。このチームにいい試合をし、今後さらに上を目指してほしいものです。国内のラグビーも、2022年からはいよいよ新リーグがスタートです。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

TopNTagCloud