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ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
ベイカー寮221B/Baker House 221B TOP  >  国盗り物語

『国盗り物語』に見る明智光秀 58

やがて光秀は足を搔き、立ち上がります。光秀の足元には血ぶくれた蚊が転がっていました。光秀はわら草履をはき、近習に松明を持たせて杉木立の中を進み、本堂にまず詣った後、奥ノ院を目指します。この奥ノ院は、最も霊験があらたかとされていました。
光秀はここで経を念じ、偈言をとなえた後みくじ匣から串を1本取り出します。その端には「凶」とありました。光秀はさらに1本引くもこれも凶であり、乱心したように匣を振ったところ、1本がこぼれ出、それは吉でした。しかし何度も振り立てて出た吉に、とても験があるようには思えませんでした。

光秀は串をまとめて折り、坂を下り始めます。足取りは重いものの、その重さに耐えてでも、自分の決意を実行しようという気持ちが息づき始めていました。神仏の加護がなくてもやらねばならぬことであり、その行動の結末がどのようであれ、この身が滅ぶだけだと彼は考えていました。
その翌日、京都側の登り口から連歌師の里村紹巴、昌叱(しょうしつ、里村紹巴の養子)らが登って来ます。光秀が連歌の興行の為に呼んだのですが、この頃織田家では、茶道好きの信長の趣味を反映して、茶道が大いに流行し、一方連歌は廃れ始めていました。連歌を嗜むのは光秀と細川藤孝くらいであり、そのため紹巴も彼らを頼りとしていました。

実は紹巴は信長を苦手としていました。かつて小牧に城を作った際、一句祝えと所望され
「あさ戸あけ 麓は柳桜かな」
と詠んだところ、武門の新城を開けるとは何事ぞと、信長の怒りを買ったことがあったためでした。
紹巴は、なぜこの期に及んで連歌の会なのかと不思議に思いますが、光秀は京の名残りに連歌を催したくなったと言い、さらに、ぜひ頼みたいことがあるとも言います。ちなみにこの紹巴は、親王や公卿、大名などとの交流もあり、打診役を頼まれたり、伝達役を任されたりすることもありました。しかし光秀が何を頼もうとしているのか、それは謎のままでした。

連歌の興行が始まります。紹巴は光秀が、発句を考え出すにしては苦悩している有様を目にして、妙だなと思っていました。やがて光秀は、自作を読み上げます。
「時は今 天が下しる五月哉」
これを聞いた紹巴は、光秀の意図を理解します。
時は今とは光秀の決意を表し、また「土岐は今」をかけているようにも取れます。天が下しるというのも、天下を冶(し)る、つまり統治するという意味が含まれているようです。

(さては、ご謀反か)
紹巴の持つ筆の先が、人目にもわかるほどに震えますが、彼と光秀以外の人物はこの句を文字の通りに解釈し、この句を受けた威徳院行祐の句はこのようなものでした。
「水上(みなかみ)まさる夏の庭山」
五月雨の季節、川の源あたりで水量が増え、庭山の緑があざやかであるという意味です。

紹巴は「おみごと」と声を上げ、自分の句を読み上げます。
「花落つる流れの末をせきとめて」
光秀の反逆の意を阻むという意味ですが、無論光秀以外に、この句の本当の意味を解した者はいませんでした。
最後は大善院宥源で、
「風はかすみを吹き送る暮」
と、ごく平凡に受けます。

光秀の愛宕参篭、そして愛宕百韻へと続いて行きます。この串を引く場面、光秀は最早神仏に判断をゆだねることなく、自分で決意したことを自分でやる、その心構えができたものと思われます。恐らく最初に吉が出ていれば、本人ももう少し心に余裕を持てたのでしょう。
そして愛宕百韻、本能寺前の有名な場面です。この「時は今」に、里村紹巴は光秀の決意、ひいては、光秀が自分に相談したいことが何であるのか、それを悟ったものと思われます。だからこそ諫める意味で、その反逆を翻すように促したのでしょうが、光秀の気持ちは変わらなかったようです。

ところで信長は連歌に興味を示さず、茶道、それも茶器の美術的な要素を愛したようです。これは、斎藤道三の茶好きが濃姫を通じて伝わったとも取れます。
一方で、父信秀が多少は嗜んだ連歌を彼は好みませんでした。京の人々に愛され、しかも中世的なにおいの強い連歌よりも、自分自身の視覚で良し悪しを判断できる茶器の方こそが、彼の好みにふさわしかったようです。
自然織田家の家臣たちも茶を好むようになり、連歌を嗜むのが旧幕臣の光秀と藤孝だけであったというのは、多分に象徴的でもあります。


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[ 2021/05/14 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 57

信長が光秀に、毛利の領地である出雲と石見を斬り取りにせよと命じます。しかしその代わりに丹波を召し上げられるため、実質的に無禄で戦うことになり、それはあたかも人間の尻に油火をかけて走らせるが如きものでした。
信長は家臣を道具として使い、なればこそ光秀のような牢人も使われて来たわけですが、そろそろ自分という道具も邪魔になって来たのではないか、かつての追放された織田家臣と同じ運命を辿るのではないか、光秀はそれが気になります。恐らく織田家で生き残るのは、信長の子を養子にした秀吉のみかも知れません。そのようなことを考えつつ光秀は帰城し、お槇には備中へ行くと伝えます。

しかし光秀は、お槇や子供たちが、荒木村重の一族同様の目に遭いはしないか、それが気になっており、同時に彼の決心を鈍らせていました。お槇は心配げにどうなされたのですかと尋ね、光秀は、半ば自分に言い聞かせるように、備中へ行くと再度口にします。しかし本当に備中へ行くのか、それは光秀自身も判断できかねました。
その後光秀は丹波亀山城に移り、愛宕山へ参篭することにします。所領のことで、一人で山に籠りたいというのがその理由ですが、光秀の13人の隊将の中には、あるいはと疑惑を抱く者もいました。既に丹波を召し上げられたことは、彼らの知るところとなっていたのです。

とはいうものの、彼らは主である光秀の気性をも知っており、まさか謀反などあるはずがないと思ってもいました。無論光秀と信長の関係、諍いなども知ってはいたものの、現在の光秀があるのは信長あってこそのものであり、堪えている主を評価する一方で、堪えるべきであるとも考えてもいたのです。
しかし今の光秀は、魔術師信長の「道具」でありながら愛宕参詣をするという、「道具」らしからぬことをしようとしていました。道具である以上、参篭するに当たって祈願するべきものなど、持つべきではなかったのです。

これが秀吉なら、家臣たちももっと気軽に、何をご祈願されるのかと問うこともできたのですが、光秀は家来が付け入る雰囲気を持ち合わせませんでした。無論、秀吉であればまた別の方法を採ったでしょうが。
ともあれ、光秀はわずかな供回りを連れただけで愛宕山へ向かいます。水田の中には百姓がいました。光秀はこの丹波に入って以来、百兆のための政治を行い、彼らの暮らしを改善することに努めて来たのですが、無論百姓たちに、この騎馬の武士が誰であるかわかるはずはありません。
やがて光秀は愛宕山に登りますが、流石に年齢のせいもあり、険しい山中の道を行くのはかなり厳しいものがありました。

途中で休んで弁当を喫した光秀は、急に、自分の若い頃は昼食を摂らなかったと言い出します。ただし美濃にいた頃は三食を摂っており、越前滞在時などは二食で、織田家に仕えるようになってからまた三食に戻っています。こうして三食を摂るようになって、つまり織田家に仕えるようになって、何年が経過したかを光秀は追想したのです。
その後愛宕権現の一院である威徳院に入り、僧たちは大いに驚きますが、光秀は一人でいることを望んでいると伝え、まず入浴をします。しかし入浴中、最早光秀がやっていることは、考えるという能動的なものではなく、既に思考を止めてしまっているに等しいものでした。

体を洗っていた近習の少年には、無論光秀の気持ちはわかりません。やがてこの少年が、体を洗い終わったと声を掛けるまで、光秀は呆然とした状態のままでした。ただ、この近習の少年をも地獄に陥れねばならぬかと、そういう感情に支配されてはいたようです。
その後帷子に着替えた光秀は、本堂、奥ノ院に行かねばならないと思いつつも、気が重くなり、縁に座ったまま辺りを眺めていました。京の信長の守りは手薄で、しかも織田の司令官たちはすべて遠方におり、やるのなら今だという気持ちに囚われ、迷った挙句、この決断を神仏にまかせようとした、それがこの参篭の目的でした。

光秀は、信長の「道具」である自分が追放されるのではないか、あるいは荒木村重のように、妻子が殺されてしまうのではないかと恐れつつ、まず信長の命令通り備中へ向かうことにします。
坂本城に戻った後亀山城に入り、その後愛宕山に参篭することを決めた光秀ですが、この参篭の目的は、恐らく今まで考えてもいなかった大それたことの是非を、神仏に委ねることにありました。
つまり、京滞在中の信長を討つということです。これは思わぬ好機ではありましたが、年月をかけて周到に準備したことではないために、光秀は度を失っていました。

物語は、本能寺直前の光秀の描写へ入って行きます。この『国盗り物語』では、光秀が主人公でないにもかかわらず、信長よりも光秀の描写が細かく綴られている部分があり、それによって光秀の、信長の道具にしか過ぎないという苦悩ぶりが浮き彫りになっています。
『麒麟がくる』では、脚本の池端氏が、本能寺から逆算しないという描き方をするとコメントしていましたが、つまるところ光秀の生涯のクライマックスは本能寺である以上、逆算しないという描写はかなり難しくもあり、また本能寺から山崎の戦いがなかったことで、どこかやはり焦点がぼやけた感はあります。


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[ 2021/05/09 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 56

信長の折檻に耐えた光秀は、さらに甲信各地で転戦を重ね、この天正10(1582)年の閏3月11日に武田勝頼は自刃します。しかし中には逃げ出した者もあり、その内の何名が武田氏の菩提寺でもある恵林寺に逃げ込みます。
この寺の長老で、勝頼の父信玄とは旧知の仲である快川紹喜は彼らの引き渡しを拒み、ついに信長は寺も僧も焼くことにして、僧たちを楼門の階上に追い上げ、下から火をつけて彼らを炙り殺してしまいます。尚、快川の

安禅かならずしも山水を須(もち)いず
心頭を滅却すれば火自ら涼し

という偈はこの時のものです。

この時の異臭は半里先の光秀の陣にまで流れて来ました。この快川は美濃土岐氏で光秀とは同族であり、密かに香を焚いて経を誦そうとするものの、信長に知られることを恐れ、同時にそういう自分の小心さを自嘲します。そのような気の小ささで、信長を殺せるかと自問したわけで、実際まだこの主君を殺すというのが、光秀には実感として伴いませんでした。
安土に戻った時は既に夏で、信長は甲信地方を手中に収め、次は四国、関東、そして中国地方を平定するつもりでした。関東には滝川一益、四国には織田信孝、そして中国は羽柴秀吉がそれぞれ指揮官となっており。光秀は久々に戦から離れると同時に、徳川家康のもてなしをするように命じられます。

家康は信長との同盟に従い、東の最前線で織田家に背く者たちを討伐して来ましたが、その家康でさえ今回の論功行賞では、今までの領国である三河と遠江に駿河が加わったのみでした。無論信長の心中も複雑でした。
家康の領国を増やすと織田家をしのぎかねず、また今後も天下平定のために、光秀や秀吉をはじめとする諸将のために、大きな領地を与えねばならず、そのためには功のあった家臣をも罪に陥れていく必要もありました。光秀はいずれ、自分も同じ運命を辿るかもしれないと考えており、秀吉に至っては、このことを既に察して立ち回っていたのです。

秀吉は子がいないことから、信長の第四子の於次丸を養子に貰い、元服させて秀勝と名乗らせます。こうすれば、いずれ自分がどれだけの領地を与えられようとも、いずれ信長の子である秀勝が継ぐことになり、また秀吉本人は日本ではなく、朝鮮をほしいとまで言い出します。厳密に言えば、まず中国地方を平定して上様に差し上げ、その後九州を平定して1年間だけ九州を支配し、兵糧を蓄えてから九州を差し上げて朝鮮に渡るというものでした。信長はこれに大いに気を良くします。
一方で家康ですが、駿河一国の加増でありながら信長に使者を差し向け、いそぎ御礼に参上すると述べさせます。これも家康のいわば自己保身でした。このようないきさつもあり、信長は光秀に手抜かりのない接待を期待していました。

接待の構想はすべて信長によるもので、それを一々光秀に指示するというやり方で、安土城下で新しい道を普請し、家康の安土までの道中は、付近の大名を伺候させて接待させるという念の入れようでした。このために一夜だけの御殿を作ったり、能狂言までも披露するに至ります。
しかも丹波猿楽の梅若太夫にの能が、見劣りがしたので家康の眼前で殴りつけたりもしたため、光秀は驚きます。恩賞の少なさを接待で補おうとしているのは光秀にも理解できましたが、しかし光秀は、既に信長をずるい人間であると、悪意を込めてしか見られなくなっていました。またこの時、秀吉から援軍の要請が届きます。

秀吉は本当のところ、毛利方である備中高松城を水攻めにしており、すべての点で有利に立っていたため、自力でも何とかなる状況でした。しかし信長の性格を知り抜いている秀吉としては、自力で勝つのではなく、あくまでも信長の指揮を仰ぐという形を取ります、一指揮官である自分が、毛利を討ち滅ぼしたともなれば、後で織田家での人間関係が悪くなり、信長からも要注意人物視されることは必至でした。
信長はまず光秀に出陣を命じます。光秀も家康の饗応で忙しかったのですが、この時戦場にいないのは彼のみでした。しかしここでまた驚くべきことが起こります。信長は出雲と石見を斬り取るように命じ、しかも今の領地である近江と丹波を召し上げると言うのです。

甲信地方を我が物とした信長は、自分の同盟軍として戦った家康に駿河一国のみを与え、その代わりに、安土城で大々的なもてなしをします。この饗応役に選ばれたのが光秀でした。信長はこのことに対し、異常ともいえるほどに神経をとがらせ、下手な能役者を家康の面前で殴ったため、光秀は驚きます。
また光秀も、加増が少ない分の埋め合わせを接待で補おうとしている信長を、ずるい人であると考えるようになります。こういう、信長に対するネガティブな見方もまた、本能寺の引き金を引く一因になったと思われます。

しかもその最中に、秀吉から指揮の要請が来ます。秀吉はこの時高松城の水攻めを行っており、彼が本気になれば十分勝てるにもかかわらず、信長に出馬を頼んだのでした。この秀吉は、もし自力で自分が毛利氏を倒そうものなら、後々の人間関係、さらに信長の思惑にどう影響するかまでを考えており、敵に止めを刺すべきは信長であると判断したのです。
そして信長は、まず光秀に中国出陣を命じます。出雲と石見を斬り取るのが彼の役目でしたが、あろうことか、今の領地の丹波と近江を召し上げられ、無禄状態のままの出陣を命じられます。


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[ 2021/05/02 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 55

翌天正10(1582)年、光秀は数えで55歳になり、流石に心気の衰えを感じるようになります。元々丈夫な方でもなかった上に、その6年前の本願寺攻めの最中に病気になり、この年の暮れには妻のお槇も病を得ます。その後も戦に明け暮れる中で、養生の悪さと野戦生活が祟ったのか、熟睡できなくなって行きます。
ある時夢の中で、前将軍足利義昭が忍びで亀山城にやって来て、客殿へお迎え申せと命じた後再び眠りに落ち、目覚めてから弥平次にこう言います。
「将軍(くぼう)様がお出ましになった夢を見た」
しかしこれは夢ではなく、義昭自身ではないものの、義昭の使いが光秀を訪れていたのでした。

ここで義昭のその後について。将軍の座を追われた当時は、反織田同盟結成に躍起になっていたものの、武田信玄と上杉謙信が相次いで世を去り、本願寺は信長と和睦し、紀州雑賀の地侍集団も勢いを失くし、頼るべきは毛利氏だけという有様でした。
しかし毛利氏は、創業者と言うべき元就の遺言によって覇気を禁じているため、天下を取るという気概がなく、現在中国地方に送り込まれている秀吉との戦いでも、後手に回っている感がありました。義昭はその毛利氏から御殿を与えられ、居候ながら当主輝元に命令をくだしていましたが、これは毛利氏としても、将軍の命により逆賊信長を討つという大義名分が与えられるからで、家中の精神的支柱ともなっていました。

これにより義昭は、輝元のことを副将軍と位置付けていたのですが、光秀はそういう近況を聞くにつけ、寧ろ気の毒な人物であると思うようになっていました。夢破れた今、元の僧に戻ることも可能だったのですが、執拗に信長を追い詰めようとする陰謀好きの体質は直らないようです。
その意味で面白い人物とも言えるのですが、光秀に取っては今の主の信長の最も厄介な敵であり、また自分が追放した旧主でもあり、単に面白いでは済まされませんでした。その後も義昭はしきりに夢に現れており、この密使の来訪も、夢であると勘違いしたのも無理からぬことでした。

光秀は実際疲れていました。信長から酷使され続けており、その先には佐久間信盛のような追放か、あるいは荒木村重のような殺戮かが待っていないとも限らず、思案もつい暗くなりがちでした。その密使の名は弁観といい、義昭の近侍であるようです。
会うかどうか光秀は迷いますが、恐らくは謀反の勧めであり、織田家の旧幕臣系の家臣の総帥的存在である我が身のことを考えれば、義昭が期待を寄せたのも無理からぬことでした。さらに義昭は細川藤孝を嫌っており、光秀を頼るのも道理と言えました。しかし光秀は荒木村重のことを思い出し、引き取らせるように弥平次に命じます。もし御教書を渡そうとしたら、目の前で灰にせよとまで言う念の入れようでした。

その後光秀は甲州征伐に参加します。長篠の戦後も武田軍の強さを信長は見くびっておらず、当主勝頼が人心を失い、武田軍の内部崩壊を見た上での作戦でした。この辺りの信長の戦略の見事さは、光秀も舌を巻くほどでした。この時の信長の陣は信州諏訪の法華寺で、そこにかつては武田の属領の者だった地侍たちが続々と集まり、織田家の威光ここに極まれるといった有様でした。
光秀はそれを目のあたりにし、信長の非凡な力を認めつつも、自分も少なからず努力しているという自意識があり、また心気が衰えた成果回顧的になっていて、ついこうつぶやきます。
「われらも多年、山野に起き伏し、智恵をしぼり、勇を振るった骨折りの甲斐、いまこそあったというものよ」

そこへ、この言葉を耳にした信長がやって来ます。信長は光秀のこういう賢(さかし)ら面を好まず、また虫の居どころも悪く、かつての佐久間、林、そして荒木といった家臣たちを放逐したことについて、どこかもやっとしたものを抱えていました。信長にしてみれば、光秀がそういう自分を皮肉っていると受け取れたのです。
「もう一度言え。—————おのれが」
と、光秀の首筋をつかみ、
「おのれがいつ、どこにて骨を折り、武辺を働いたか。いえるなら、言え。骨を折ったのは誰あろう、このおれのことぞ」
信長は光秀を押し倒し、高欄の欄干に頭を打ちつけ、離してはまた打ちつけを繰り返します。光秀は衆人の中でこういう仕打ちを受けることに耐えられず、信長に殺意を抱きます。

運命の天正10年がやって来ます。光秀も50代半ばとなり、また病気をしたこともあって心気とも衰え、夜も熟睡できなくなっていました。そんなある日、夢の中に前将軍足利義昭が現れます。しかしそれは夢ではなく、実際に義昭の密使が光秀の亀山城を訪れていました。
義昭の用件は、恐らく謀反の勧めであろうと光秀は察しがつき、その者が文書を取り出そうなら、焼いてしまうように命じます。同じような目に遭った荒木村重の二の舞は避けたいところでした。それと同時に、この義昭の陰謀好きにも光秀はうんざりしていました。

その後光秀は甲州征伐に向かいます。信長は長篠の戦いの後、敢えてそのままにして武田家の内部崩壊を待ち、しかる後に武田氏を攻め立てて滅亡に追いやります。光秀もこの時は、信長の戦略の見事さを思い知らされ、信長陣の法華寺には、かつての武田の臣であった地侍たちがやって来ます。それを見ながら光秀は、自分の骨折りもあってこそと口にし、これが信長を怒らせます。
ただでさえ機嫌が悪く、かつての功臣を追いやったことへの後ろめたさを覚えていた信長は、光秀を折檻し、光秀はこの時信長に殺意を抱きます。段々と本能寺の変が具体化されて行きますが、この法華寺、『真田丸』にも登場し、昌幸がしらを切り通したこと、そして、オネエぽい光秀が折檻されながらも、どこか嬉しそうにしていたシーンを思い出します。


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[ 2021/04/25 00:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 54

安土城下に「無辺」と称する山伏が住み着き、借りた寺で怪しげな修法を行っていると聞いた信長は、その者を呼べと家臣に命じ、やがて無辺本人と、借りている寺の院主栄螺坊がやって来ます。両名は身分がないため庭先で信長を待ち受け、信長は無辺に、生国はどこだと尋ねます。無辺は生国などないと答えますが、さればお前は化け物かと言い、化け物なら炙っても平気なはずだと、火刑の支度をさせます。
そこで無辺は慌てて、生国は出羽の羽黒であると答えますが、要はまやかしであったわけで、信長はこの手の人物をひどく嫌い、そのまやかしを引っ剥がすことに正義感を覚えていました。叡山焼き討ちもその延長線上にあると言えます。

やがて信長は無辺の髪を剃り、ところどころを剃り残して梅毒の患者のようにして追放します。またこの無辺の修法の中で、相手が女の場合、臍くらべなるふざけた行をしていたことがわかり、信長は再び無辺をしょっ引かせます。しかも信長の場合、同じことを家臣にもやりかねないことに、光秀は恐れを抱いていました。
その前年の天正8(1580)年、信長はかつて生母の土田御前と組んで、弟の信行に家督を継がせようとした林通勝を追い出してしまっています。信長はこの人物の悪事を許し、部将として採り立て、官位も貰ってやったはずなのに、その古傷を暴き立てたのです。

この天正8年は本願寺が降伏しており、その前年には光秀の丹波攻略も終わり、さらにその前の年には、信長に取って目の上のたんこぶであるが如き存在の上杉謙信が世を去っていました。これでやっと畿内に平和が戻り、それ故の通勝追放であったと考えられます。信
長に取っての家臣は道具であり、やがて使い道がなくなると捨てられる運命にありました。実際柴田勝家も信行を立てており、この人物は今なお使われ続けているものの、やがて捨てられることになると、光秀は密かに思っていたのです。

さらにこの年は、信長の譜代の家臣の一人である、佐久間信盛も高野山追放の憂き目に遭っていました。信盛も様々な戦に参戦し、功績を挙げてはいましたが、この人物は多少怠惰でしかもぼやき癖がありました。要は仕事嫌いで愚痴が多い傾向があり、信長はそこで折檻書をしたため、光秀、秀吉、池田信興らを引き合いに出した後、工夫が必要ならば教えてやるのにそれを問うこともしないと書いています。
これは譜代故の見方の甘さと言っていいでしょう。しかも領地を増やしてやったのに、自分の取り分が減るからと家臣への加増もしない、けちであると言い、しかも信盛の子正勝をも同様に批判して、高野山へ追いやったものの、その後さらに信盛父子は追い立てられて熊野へ逃げ込みます。

ところで前出の無辺ですが、結局信長に首を刎ねられてしまいます。この執拗さはいささか異常とも言うべきものでした。またこの年の3月、信長は思い立って小姓たちを連れ、琵琶湖の竹生島まで遠出をします。帰りは秀吉の長浜城に泊まるのだろうと思った安土城の女中たちは、これ幸いと二の丸で遊んだり、城下に出向いたりしていました。
ところが信長は竹生島を出て長浜に上陸するなり、馬を飛ばし、まだ日没前に安土城へ戻ったのですが、当然ながら女中たちは不在です。これに怒った信長は、捕縛した女中たちを断罪に処しますが、桑実寺に参っていた者たちのために、寺の長老が詫びにやって来ます。しかし信長はこの長老の首を刎ね、寺にいた女中たちも悉く首を刎ねてしまいます。

光秀がこの知らせを受けたのは、丹後に出かけている時でした。丹後を貰って宮津城の城主となっていた、細川藤孝から招待されて、連歌師の里村紹巴と共に出かけており、折しも連歌を楽しんだいる最中にこれを知った光秀は、急に歌を詠むのをやめて暗い表情になります。
何せ女中が出かけただけでこの処分に及んだ信長です。自分が居城を離れ、他人の領地で連歌を楽しんでいることが知れれば、どのような罪に問われるか知れたものではありません。光秀はその夜のうちに丹波を発ち、3日目に亀山に帰城します。

信長の恐ろしい部分、まやかしと知るや根絶やしにしてしまう性格が段々露わになって行きます。しかもこの天正8年ともなると、周囲の敵はほぼいなくなり、それと同時に、今まで使われて来ながらも、過去の悪事を暴かれて追放された者もいました。
譜代でさえも容赦なく追い出してしまい、光秀は、使えなくなった家来は道具と同じで処分されると、危機感を抱くようになります。これは家臣だけでなく、城下に住み着いた怪しげな山伏や、自分の留守中に二の丸や城下に遊びに行った女中たちにも、同様の処分を下していました。

丹後に旅行中にこのことを知った光秀は、心中穏やかではありません。連歌を楽しんでいたにも関わらず、そそくさと亀山に帰ってしまいます。
何やら、常に信長に怯えているが如き有様です。無論信長が追放した林通勝、佐久間信盛に比べれば、まだまだ光秀は使える人物なのですが、近い将来どうなるかわからず、元々信長との反りが合わないものの、鉄砲術と軍楽に優れていたからこそ使って貰えているという現実があり、この両者がどこかで噛み合わなくなることを恐れた光秀の、本能寺への布石が打たれて行きます。

飲み物-グラスに入ったビール

[ 2021/04/17 23:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

秀吉を演じた俳優たち

『黄金の日日』で羽柴(豊臣)秀吉を演じている緒形拳さんですが、この人は大河で実にいろいろな役を演じています。

太閤記-豊臣秀吉
源義経-弁慶
新・平家物語-阿部麻鳥
黄金の日日-豊臣秀吉
峠の群像-大石内蔵助
太平記-足利貞氏
毛利元就-尼子経久
風林火山-宇佐美定満

多少クセのある役に加え、大石内蔵助のような役もうまく演じる俳優さんでした。あと1度大河に出ていただきたかったです。

この緒形さん同様、大河で複数回秀吉を演じた人がいます。言わずとしれた竹中直人さんです。この人はどちらかと言えば、アクの強い、もっと言えば暑苦しい雰囲気が持ち味で、秀吉の演技にもそれがよく表れています。『秀吉』は、どちらかと言えばまだ穏やかな雰囲気でしたが、『軍師官兵衛』になると、権力に憑りつかれた存在としての秀吉になって行きます。尤も『軍師官兵衛』のガイドブックによると、竹中さんはそういう秀吉を演じるのを楽しみにしていたとのことで、あの作品では石田三成の存在もあり、官兵衛を疎んじ始める秀吉の様子がよく描かれていました。

他にも秀吉を演じた俳優さんは多いのですが(と言うより、戦国大河の大部分に不可欠な人物ですので)、私としては

『国盗り物語」の火野正平さん
『おんな太閤記』の西田敏行さん
『利家とまつ』の香川照之さん

こういう人たちの秀吉も好きです。香川さん、もう一度秀吉を演じて貰えないものでしょうか。それこそ、『どうする家康』辺りで。どうも『龍馬伝』の岩崎弥太郎の怪演が印象的ですが、この秀吉もなかなかいいです。あとこれは今までも書いていますが、濱田岳さんに一度秀吉役をやってほしいですね。

飲み物-タンブラーの白ビール
[ 2021/04/13 01:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 53

この頃、織田家の家臣の中に荒木摂津守村重という人物がいます。素性は色々言われていますが、この織田家家臣にまで上り詰めたのはかなりの出世と言うべきでした。その村重が謀反を企てているという知らせが届き、信長はあれこれ考えるものの、理由がよくわからず、京にいる宮内卿法印松井友閑と共に、村重の居城伊丹城へ向かいます。
元々村重は池田氏に仕えており、家老になって茨木、尼崎の城をそれぞれ奪うという功績を立てます。また池田氏は足利将軍家と縁があり、そのため村重も幕臣となったその後、信長からその才を認められ、摂津一国を任されていました。

さらに伊丹氏をも追って、その居城伊丹城をもわが物としますが、光秀はこれを高く評価します。さらに村重の家臣団には、高山右近、中川清秀などの人材がいました。仮に謀反が事実であった場合、光秀が攻めている丹波も、秀吉が攻め込んでいる中国地方も、また佐久間信盛が指揮を執っている大阪本願寺も摂津と隣り合っており、これらの作戦に何らかの支障が出るのは明らかでした。
しかもこの場合の謀反とは、つまり毛利氏に寝返ることを意味しており、摂津が毛利軍の最前線となるのみならず、本願寺との連携で毛利軍はさらに巨大になります。

伊丹城は有岡山と呼ばれる丘陵の上にありました。光秀が対面した時の村重はやつれており、かなり苦悩しているように見えました。とはいえ謀反を決意したのであれば、そこまで悩む必要もなく、実際どうするか決めかねているといったところでした。
光秀は長女を村重の嫡男村次に嫁がせており、娘を敵として攻めるのを避けるためにも、村重の説得に当たります。村重は自分に関する風説が色々出ており、そのために鬱屈しているようです。しかし光秀は信長は何とも思わぬこと、以前秀吉が同じような目に遭ったが、直にその風説もやんだことを話して聞かせます。

やがて村重は風説は身に覚えがございませぬ、逆心のお疑い心外に存じますと、信長に伝えてくれと頼みます。信長はそれを聞いて
「祝着」
と笑顔になりますが、実は信長に取ってはすべてが計算済みでした。
村重はいつかは「退治」しようと考えていたものの、今はまだつなぎとめておく必要があり、下手に怒れば村重が態度を硬化させることも見抜いていました。名代として光秀を派遣したのも、必ずや謀反を止めるであろうことも織り込み済みだったのです。

やがて母を人質に差しだすように命じられた村重が、伊丹を出て茨木まで来た時、その決意が揺らぎます。家臣の中川清秀が、一旦疑いを持たれた以上、信長は許さないと言い出し、やがて他の重臣である池田久右衛門、藤井加賀守、高山右近らもこれに賛同して、結局村重は籠城の支度に取り掛かります。
尚この時村重は、自分を説得してくれた光秀への好意として、嫡男の嫁である光秀の娘を離縁して坂本城まで返しています。光秀はなおも、村重の謀反が不可解に感じられましたが、この村重は存外気が小さいということは理解していました。

そのため風説に神経をすり減らし、譜代の家臣や子飼いの秀吉のように信長に甘えられなかった(これは光秀も同じ)のが、このような行動に村重を走らせたとも取れます。しかし信長は尚村重を慰留するように秀吉に命じ、秀吉は黒田官兵衛を送るものの、逆に官兵衛は城内の牢に監禁されます。
ついに信長は立ち上がりますが。みだりに武力を使うことは、かえって敵を利することになりかねず、家臣を懐柔することにし、特にキリシタンの右近には宣教師を遣って説得させます。これにより家臣に見捨てられた村重は単身城を出て、最終的に毛利氏に身を寄せ、親族は悉く処刑されます。

荒木村重と言えば、『軍師官兵衛』の村重を思い出す方も多いでしょう。この中では村重は一介の牢人の時に官兵衛主従と出会い、後に信長に仕えることになります。この時は、妻でキリシタンのだしが、夫の謀反に心を痛め、官兵衛に寄り添う姿が描かれていました。
軍略家でもありましたが、この時の謀反がもとで信長からいわば見捨てられ、単身城を抜け出すことになります。元々信長は、この時点では村重を必要としており、そのため徒に彼を敵に回すような真似はしませんでした。

村重が寝返ろうとしたのは、中国の毛利氏でした。摂津のような地域は、毛利に付くだけでその最前線が東に移動し、信長にはかなりの脅威となったわけです。本願寺攻めの真っ最中の信長には、これはかなり痛いことでした。そしてその後、これは信長の本性と言うべきでしょうか、村重の一族は皆殺しにされますが、籠城の前に実家の明智氏に戻された光秀の娘、静は無事でした。
光秀はこの娘を、重臣で、しかも親族でもある弥平次光春に嫁がせます。時と場合によっては、静も処刑されていたかも知れず、光秀は信長の狂気を改めて感じます。弥平次も、光秀のその気持ちは十分承知していました。


飲み物-スノーアンドテル
[ 2021/04/10 00:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 52

信長は光秀と藤孝に姻戚関係になれと命じた後、岐阜へ戻ります。この人物は容赦のない一面がある一方で、自分の家臣は自分を裏切らないと信じているところがあるようでした。そうでなければ、この幕臣系の2人をこういう形で結ばせることはまずありません。
その後光秀は、丹波の豪族たちの懐柔工作にいそしんでいましたが、その頃思わぬ情報が飛び込みます。信長が三河の長篠で、武田勝頼の大軍を破ったというのです。所謂長篠の合戦ですが、これを聞いた光秀は異常な衝撃を覚えます。今まで自分の方が信長より優れていると内心思い、それが信長から如何に屈辱を受けようとも、光秀が耐え抜いてきた大きな理由でもありました。


しかしこの勝利は、光秀のその自信を覆すものだったのです。この時の軍勢は

武田軍 1万2000

織田・徳川連合軍 3万8千

でした。数の上では武田軍が劣勢でしたが、武田の騎馬武者のポテンシャルは強く、1騎で他国の4騎ないしは5騎に匹敵すると言われており、3倍以上の軍勢であっても、武田相手には互角の戦いというのが当時の常識でした。しかし信長は、無論この武田軍を粉砕するための構想があったのです。


まず信長は、足軽すべてに材木を1本と縄を1把持たせ、現地に到着後それで柵を作らせたのです。また、織田家の射撃上手の兵3000人を選び、柵内に入れて、1000人ずつ三段に展開させて、騎馬武者相手に一斉射撃をやらせました。この鉄砲に関しては、光秀自身も研究、用法いずれにおいても第一人者であり、それゆえ信長に目を付けられたとも言えます。

しかしその光秀でさえも、三段入れ替わりにより一斉射撃により、相手に絶え間なく銃弾を浴びせかけるというのは、思いもよらぬ方法でした。もし秀吉がこれを聞けば、信長を畏敬しかつこの人物に学ぶという方法を採るでしょうが、光秀の場合はそれができず、自らの自身が砕け散ったように感じられました。


丹波の工作は進み、この国の半数ほどが織田方になびくのを待って光秀は兵を挙げます。藤孝と共に東丹波の亀山(注・亀山は現在の亀岡)城を包囲し、この城と落とした後攻略に乗り出します。この時藤孝は歌を詠んでいます。


亀の尾の翠も山の茂るかな


さらにこの後丹波の人々は、織田家の威光のみならず光秀の徳望、そして藤孝の家柄に大いに心を動かされ、そして光秀は信長がよくやるように、人材探しを始めます。その中には四王天(四方田)又兵衛もいました。この人物は弥平次光春、斎藤利三と共に明智の槍神と称されるようになります。


尚この利三は稲葉一鉄にかつて仕えており、しかも利三は一徹の娘婿でした。一鉄は今は織田家中の人物でしたが、利三はこの人を嫌っており、そのためやはり同じ美濃人である光秀に仕えていたのです。ちなみに織田家では頑固者のことを「一鉄」と呼び、これがその後一徹となったとも言われており、この人物の性格が窺い知れます。

一鉄は利三を戻してほしいと信長に何度も頼み、信長は一鉄を敬遠しつつも一方でその頑固さをおかしがり、光秀に利三を戻すように言います。しかし光秀はその場しのぎのことを言うのみで一向に戻そうとせず、一鉄は一鉄でくどいほどに利三を戻してほしいと言い、信長はこの件で光秀のこといを苦々しく思うようになります。


さらにその少し後、安土城建築の際に光秀が丹波の侍を抱えたことで、信長は彼らについて尋ね、こう言います。

「それほど面白い連中がそろった以上、内蔵助(利三)はもうよかろう。あいつを一鉄に返せ」

しかし光秀がここで言い訳を始めたため、信長は激怒し、光秀の髻を取って突き飛ばします。光秀が起き上がろうとしたところを、信長は抜き打ちにしようとし、光秀は他の者に介添えされて何とか逃げ出します。このような目に遭いながらも、光秀は利三を手放そうとはしませんでした。

「生死は、汝とともにある。殺されてもそこもとを放さぬ」

と光秀は利三に言い、利三もこの言葉通りの生涯を終えることになります。尚この利三の末娘は、徳川家光の乳母春日局となります。


光秀は丹波攻めにかかっていました。丹波の武士たちを手なずけていたその頃(天正3年=1575年5月の末)、思わぬ知らせが舞い込みます。信長が三河の長篠で、武田勝頼の軍を破ったというのです。この当時、武田の兵の強さは有名であり、3倍以上の軍を率いている織田・徳川連合軍にもひけを取らないはずでした。

しかし信長は、この時意表を突いた作戦に出ます。まず戦場に柵を作り、その柵から三段構えで鉄砲を射撃し、相手の騎馬武者に銃弾を雨あられと浴びせかけたのです。これは鉄砲術の第一人者であった光秀の自身を、大きく突き崩すものでした。(尚長篠の戦いの鉄砲には諸説ありますが、ここでは『国盗り物語』原作に準じています)


その後丹波は織田の手に落ち、光秀はこのような場合の信長同様に人材を探し始めます。この時抱えた丹波の武士、四王天又兵衛は後に弥平次光春、斎藤利三と共に明智の槍神と呼ばれるようになります。ところでこの斎藤利三は本来稲葉一哲の家来でありながら、一鉄を嫌って光秀に仕えます。

一鉄は「一徹」の語源になったと言われるほどの頑固者で、利三を返してほしいとくどくどと信長に頼み、信長も丹波の武士を抱えたのだから返してやれと言うものの、光秀は言い訳を繰り返し、ついにこの人物を斬ろうとさえします。また利三も、結局舅でもある一鉄の許には戻ろうとせず、光秀と運命を共にすることになります。

この利三の娘の一人が後の春日局です。


飲み物-チューリップグラスのビール


[ 2021/04/07 00:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 51

光秀は丹波を与えられはしたものの、当然今の領主である波多野氏を追い出し、自分で切り取る必要がありました。恐らく5、6年は掛かると信長に伝えはしたものの、当然丹波攻めだけに集中できるわけでもなく、他の戦線を転々としながらの丹波攻めとなりそうです。無論このことは、外部には口止めされていました。
一方で信長は、秀吉には中国一円を切り取れと命じていました。この当時、十国から成る中国一円は毛利氏の支配下にありましたが、秀吉はそれを5,6年で切り取ってみせると豪語します。


信長は、秀吉は大気者よ、そちのような陰気者ではないと言いますが、光秀はこれが癇に障ります。

「上様、それがしには筑前守の大気の真似はできませぬ。真似をすればとほうもない踏み外しをしないともかぎりませぬ」

光秀は泣くように言いますが、信長にしてみれば、光秀にはっぱをかけることで、競争意識を盛り上げたいだけでした。

光秀はその後坂本城に戻り、妻のお槇に日向守の任官、丹波を切り取るように命じられたことなどを話すと、お槇は涙をこぼします。何のこれしきと言う光秀は、妻に対しては大気であるようです。


その後お槇と閨にいるうちに、光秀の自身への評価は次第に大きくなって行きます。自分は常に天下のことを考えており、織田家でもそれを考えているのは自分しかいないと語り、お槇は逆らわずに光秀の話に付き合います。恐らく外で様々なストレスを抱えており、家でこのような大言壮語を吐くことで、心の平静を保とうとしているようです。

光秀はさらに、秀吉が5、6年で中国十国を平らげると信長に言ったこと、信長がそれをほめたこと、ならば自分も秀吉と同じ方法で…とまで言いかけた時、お槇は流石にそれを制し、生まれついた性分で芸をして行くしかないと言い、光秀もうなずきます。


実際この丹波は攻めづらい土地でした。地形が複雑で小豪族が多く、しらみつぶしにしていては長期戦になると思い、間者を送り込んで彼ら小豪族の性格や能力、利害関係などを調べさせます。その間に光秀は、武田勝頼の軍や三好勢、本願寺との戦いにも加わり、また京の市政を担当するなど、体がいくつあっても足りないような忙しさでした。

尤も織田家にあっては、総大将の信長自身が神出鬼没であり、これには何事にも自分でてをくだすという性格が大きく関わっていました。また体力、知力共に一番優れていたのも、当の信長自身でした。一方で優れた者を酷使し、特に秀吉、次いで光秀を様々な場で用いていました。


信長が河内で陣を張っていた時、光秀の丹波攻略の計画が定まり、信長にこのことを説明します。信長はそれに満足し、そして言います。

「兵部大輔(細川藤孝)を連れてゆけ」

無論光秀もそれは考えていました。

細川氏はかつて丹波の守護大名でしたが、その後波多野氏の台頭によりこの地との縁が切れます。厳密にはこの細川氏と、藤孝の細川氏とは異なるものの、同じ家号であり、かつてのお館様である細川氏が来ることで、政治工作がしやすくなると踏んだのです。


しかし信長がそのことを知っていたという点に、光秀は驚きます。

(油断のならぬお人だ)

元々足利家と縁の深い藤孝を連れて行くことで、旧幕臣同志徒党を組むように思わせるふしがあり、光秀はそれが気になっていたのです。尤も既にこの時、藤孝は織田家の家臣となっており、信長はこの2人に姻戚になるよう命じます。すなわち、藤孝の子忠興と、光秀の娘玉の婚姻を意味していました。


光秀は丹波攻めを言い渡されるものの、彼が丹波一国に費やす年月と、秀吉が中国一円を切り取るのに費やす年月がほぼ同じであることに気分を害します。その後坂本城に戻り、お槇に今までのことを打ち明けるうちに、次第に自己評価を高めて行き、織田家中で天下国家を考えているのは自分のみであるとまで言い出します。

お槇はこの夫が、外で色々苦労しており、自分にこう言うことで、何とかバランスを取っていることを理解していました。但し、秀吉と同じやり方でとまで言い出すに及び、光秀の自制を促すに至ります。


どうも光秀自身、些細なことを気にしすぎるように見えます。秀吉は秀吉、俺は俺と割り切って考えればいいのですが、なまじ放浪時代があり、天下国家のあるべき姿を考えていた以上、秀吉に「負ける」ことが面白くないようです。光秀のこのプライドが、後々の本能寺につながるとも考えられます。

さてその光秀、様々な戦に駆り出される一方で、丹波攻めの考えがまとまり、信長からは、かつて丹波の領主であった細川氏と同じ家号の、細川藤孝を連れて行くように命じ、さらに両家が姻戚同志になるように勧めます。


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[ 2021/04/04 01:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)

『国盗り物語』に見る明智光秀 50

朝倉浅井の当主の頭蓋骨を器とし、それで家臣に酒を振舞うなど、常軌を逸したことをする信長でしたが(実際、この両名には苦しめられてはいましたが)、一方で民に対しては細やかな心遣いを見せることもありました。信長が生涯に於いて何度も超えたであろう美濃と近江の国境、そこに山中という山村があり、そこに物乞いが1人いつも座っています。
しかしこの手の物乞いは一つ所に留まらず、常に放浪するものでした。信長はそれが気になり、村の老人に話を聞いたところ、この人物の先祖はその昔、源義朝の愛妾だった常盤御前を殺し、それが災いして足に障害を持つ身となっていたのです。

実際は常盤御前は暗殺されてはいないと言われていますが、信長も老人もそこまでの知識は持ち合わせていませんでした。信長の奇妙なところは、日頃あれだけ霊魂の存在を信じず、異常なまでに合理主義を掲げているにもかかわらず、因果応報という言葉にはひどく反応する点でした。悪いことには必ず報いが来るというのが、ひどく小気味よく響いたのでしょう。

そして信長は、この「山中の猿」と呼ばれ、村の者からも人間扱いされていない男には憐れみを覚えます。自分を苦しめた相手に対する憎悪の念が、自分が庇護すべき庶民に対しては、深い同情の念となっているようです。


その次にこの場所を通った信長は、岐阜で調達した木綿20反を自分で持ち、村の者たちにこう叫びます。

「この木綿のうち、10反はあの猿にやれ、あとの10反で猿のために小屋を作ってやれ」

その後信長は木綿をすべて地に投げ出し、そのまま過ぎ去ります。行く先は京で、この時の上洛は、京で公卿になるのが目的であり、この任官受爵は、信長の人生の中でも実に劇的なものでした。また武家が公卿となるのは、平家以来のことでした。


光秀は思います。室町幕府を潰した以上、ここで信長が幕府を開くことを、大名たちは許さないであろうと。

しかも信長はかつては藤原氏、今は平氏を名乗っており、源氏でない以上征夷大将軍になるのは不可能でした。それもあり、天皇家の公卿になるわけですが、これは実にうまい方法でもありました。

かつて皇室は日本国の統治者であり、それを今天下に知らしめつつ、日本統一という事業を進めている信長のやり方は、光秀の目からも、実にうまいやり方ではあったのです。そして3月12日、信長は従三位の参議となります。


また信長の子供たちも正五位上に叙され、織田家譜代の家老にもそれぞれ官職が与えられます。しかし織田家の将の中には、自分の官職名が読めず、公卿たちの失笑を買っている者もいました。

また秀吉は筑前守、光秀は日向守となります。この当時、多くの武将の○○守というのは自称であることが多かったのですが、この場合は正式に朝廷から賜ったものでした。秀吉はこれに伴い、それまで使用していた木下の姓を、羽柴に改めます。丹羽長秀と柴田勝家、それぞれの姓を1つずつ貰っての改姓でした。


光秀の場合は、信長が朝廷に奏上して姓を変えさせます。その姓とは「惟任」(これとう)というものでした。元々は九州のさる豪族の姓で、信長は将来的に九州征伐を考えていただけに、この姓を敢えて名乗らせたとも言えます。無論この姓を、普段から実際に名乗れというものでもなく、光秀はその後も明智を名乗っていました。

そして信長は宿舎の相国寺で光秀を呼び、改姓を気に入ったかと尋ねます。光秀は礼を述べますが、信長にはくどくどしく感じられるのか、光秀が述べ終わらないうちに次の文句を発します。

「その改姓を祝して、そちに丹波一国を呉れてやろう」


信長は憎悪の念も強い分一方で、民に激しく共感する部分もあったようです。山中の猿に木綿をやる場面は、その信長の両面性をよく表しています。

その信長は、将軍義昭を追放した後、自分は参議になって朝廷の臣となります。かつて統治者であった天皇の神聖さを知らしめ、自分の統一事業を進めて行くその考えに、光秀は感心します。

無論信長は源氏でないため征夷大将軍にはなれず、また義昭を追い出した後で将軍になることもできなかったわけですが、寧ろそれを逆手に取ったとも言えそうです。


やがて信長は参議となり、子供たちも位を賜り、家臣もそれ相応の官職を与えられます。しかし信長の家臣の中には無学な者もいて、自分の官名を読めないということもありました。筑前守となった秀吉は羽柴と姓を改め、日向守に叙せられた光秀は惟任という姓となります。

これは日常的に使う姓ではありませんでしたが、信長が奏上して賜った姓であり、九州の豪族に由来することから、信長は後に計画している九州遠征でも、光秀を使おうと考えていたようです。そしてこれに伴い、光秀には丹波が与えられます。


飲み物-バーのカクテル

[ 2021/03/28 00:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『青天を衝け』の感想も書いています。またBSで再放送中の『黄金の日日』の再放送も観ています。そしてパペットホームズの続編ですが、これは是非とも来年の大河が始まる前に、三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、『相棒』をはじめとする刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2021年には北半球最強であるブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとの試合も組まれています。このチームにいい試合をし、今後さらに上を目指してほしいものです。国内のラグビーも、2022年からはいよいよ新リーグがスタートです。

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