第40回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその4です。
映画『首』は「本当に求められる新しさ」も備えています。
その一例が弥助です。
弥助はアニメにもなり、映画も控えているという話もあるほど今注目を集めている人物。その弥助すら出さないあたりが『どうする家康』のどうしようもなさだ。
「本当に求められる新しさ」「弥助」などと持ってくるのであれば、その弥助がどのように描かれているのかをここで説明するべきかと思いますが、なぜか彼は「注目を集めている人物」しか書かれておらず、さらに
「その弥助すら出さないあたりが『どうする家康』のどうしようもなさだ」
何とも乱暴な言葉ですね。出してほしくて仕方なかったのでしょうが、自分の希望通りに行かなかったから不機嫌なのでしょう。
武者さんの言葉を借りれば、「幼稚」だなとは思います。
第一あの信長の描写を考えれば、特に必要な存在でもないし、恐らく出せば出したで、武者さんはまた何か言いそうですが。
ところで『麒麟がくる』には弥助いましたっけ?どうも見た記憶がありません。
三浦按針は出すようですが、どうせ使いこなせるわけはないでしょう。このドラマのチームは、カトリックとプロテスタントの区別すらろくについていない人もいそうです。
伊奈忠次と同じ「どうせ使いこなせるわけはないでしょう」
武者さんの個人的願望と思えば納得ですが、生憎大河は武者さんのためだけにあるのではありません。
そして
「カトリックとプロテスタントの区別すらろくについていない人もいそう」
なぜそういう発想になりますかね?これも武者さんの個人的願望で、そこまで愚かなスタッフであってほしいという、如何にも人を見下した発想だなと思います。ならば武者さんは、この両者の違いをちゃんと言えるのでしょうかね。特にプロテスタント諸派と一口に言っても、千差万別ではありますが。
実はこの時代、ヨーロッパではカトリックとプロテスタント諸派はすさまじく対立していました。そしてここでいうプロテスタント諸派は、アングリカンチャーチやルーテル派も含まれるものの、主に清教徒でした。ピューリタンとかユグノーと呼ばれた彼らは、その後新天地を求めてアメリカや南アフリカのような「約束の地」に渡って行くことになります。家康は彼らとカトリックの対立を、アダムスから聞かされることになるのですね。一方イエズス会の宣教師たちは、アダムスたちを処刑するように迫ったとも言われています。
清教徒に関しては下記のサイトが参考になるかも知れません。
5分でわかる「ピューリタン(清教徒)」そのルーツをわかりやすく解説
あと漂着した時点ではまだ「三浦按針」ではなく、ウィリアム・アダムスです。
本作については面白い話も聞きました。
瀬名の酷い死を中心にしようとした結果、あのわけのわからないペース配分と展開になっているとのこと。
これもどうしようもなくセンスが古い。ヒーロー奮起のためヒロインを酷い殺し方にするパターンは「冷蔵庫の女」というアメコミ由来の言葉があります。
この言葉以前にも、そういうお話の展開は日本にもありました。
近代文学以来、おなじみですね。ヒロインが死に、主人公がその死をうっとりと思い出すパターンです。
それこそ『野菊の墓』から『世界の中心で愛を叫ぶ』、『君の膵臓をたべたい』まで、定番ですよね。
大河ドラマで、そんなことやられても困るのです。まさかそれが「シン・大河」だとでも思ったのか。まさに陳腐。
誰から聞いたのでしょうね。
またセンスが古いというのも、武者さんが勝手にそう思っているだけに見えますね。
そしてまた「冷蔵庫の女」、これも前に使ったネタを引っ張り出して来ています。それとこの大河、ヒロインの死を主人公が思い出すパターンではなく、強いて言えばヒロインの遺志を受け継ぎ、成長する物語だと思うのですが。
放送前、中国語圏からのコメントでこうありました。
「いかにも日本の陳腐なドラマ臭がして期待できない」
哀しいかな、その通りとなってしまいました。
中国語圏では徳川家康の人気は高いのに、期待されていませんでしたね。
ならば、そのコメントを開示して貰えないものでしょうか。
スクショは取っていないのですか。
そしてまた茶々の中国語がおかしいのどうの。
「第38話、茶々が秀吉を中国に渡らせるべく、たわむれに中国語を話すシーンがありました。北川さんが『うぉだみんずしぃちゃちゃ〜(我が名は茶々である)』とたどたどしく話す姿はじつにあざとく、キャラを表現するのにピッタリでした。じつはこのシーンのために、制作陣はNHKラジオ『まいにち中国語』の講師をわざわざ中国語指導に立てた。気合の入りようが伝わってきます」
「制作陣の本気っぷり」とおっしゃいますが、この場面、字幕が間違っていたように見受けます。
「名字」とすべきところが「名子」になっていたのです。
ここのところ、ちょっと調べてみただけですが、名字も名子も同じような意味で使われてもいるようです。
中国語としても違和感がありました。「私の名前は茶々である」ならば「我的名“字”是茶茶(字幕では“字”が“子”)」よりも、「我叫茶茶」の方が自然でしょう。
これで講師を指導につけたと言われても、どういうことなのかと困惑するばかり。
スタッフロールには名前が出ている時代考証の意見も、制作陣はどこまでそれを反映させているのか、疑問が湧いてきます。
これももう2度目かと思います。
この場合の茶々はもちろんネイティブではなく、中国語(明国語)を日常的に使う人でもありません。漢籍の知識はある西笑和尚からこれこれこういうものだと教えられ、得意になって使っているわけで、どうしても日本人が考えた、直訳的な明国語に当然なるでしょう。それがおかしいとは思いません。
あと時代考証の意見関連、時代考証はアドバイスはできるが、制作はスタッフに委ねられるということを以前平山氏が投稿していました。ただし「森乱」の場合は、ドラマ中でも森乱でしたね。
そして「『どうする家康』スタンプ」が出るのが気に入らない、しかも呆れたことに第二弾だのなんだのとありますが、それだけニーズがあるからではないでしょうか。
そしてまた「この大河ドラマは本当におかしい」(もう少しワンパターンでない表現をつかえないものでしょうか)とかで。
◆関ヶ原の合戦:大河ドラマ制作を支えるテクノロジー、エキストラもデジタル化(→link)
この記事だけを読むと、なんだか美麗な映像が期待できそうですよね。しかし現実は……。
大河ドラマでエキストラをデジタル化することの試みとしては、10年前の『八重の桜』の時点であります。モーションキャプチャで兵士を表現していました。
エキストラのデジタル化というかCG化は、既に『毛利元就』でやっていたかと思います。
大河のVFXといえば『鎌倉殿13人』の壇ノ浦の戦いが第50回伊藤熹朔賞を受賞しました。おめでとうございます。
何もかも、去年と今年は大違いだ。
三谷さんのこちらの記事は必読です。
◆ゆうきまさみ×三谷幸喜 特別対談「大河ドラマの書(描)き方。」・ゆうきまさみ×三谷幸喜 特別対談「大河ドラマの書(描)き方。」(→link)
そしてまた鎌倉殿を叩き棒。
しかもこれのみを持って「何もかも大違い」と言うのは、ちょっと乱暴かと。何もかもと言うのなら、すべてをリストアップしてほしいものです。
そして文春砲に便乗した『どうする家康』叩き。
こういうのを喜ぶ武者さんが、いくら自分は大河が好きだの時代劇が好きだと言ってみても(実際過去にそう書かれていました)、こういう週刊誌ネタで持って嫌いな作品をばしばし叩いていては、信用がおけません。
本当に大河が好きなら、嫌いであろうがこういうのは最小限にとどめておいて、ドラマそのものに重点を置くでしょう。前にも書いていますが、これでは芸能もしくはゴシップネタのコラムでしかありません。
何だかさもしく思えて来ます。しかもジャニーズのファンまで叩きまくりですね。
しかも
善く戦う者は人を致して人に致されず。『孫子』「虚実篇」
これがまた意味らしきものが書かれていません。ただこの前でしたか、意味が書かれるには書かれていましたが、あまり正しいとは言えなかったので、どちらがいいかということにもなりますね。
ともあれこの意味、戦いを制する者は相手を動かすことはあるものの、相手に動かされることはないという意味です。そしてまた『パリピ孔明』を持ち出して、これは孔明の明言にしてはいけない、正しくは孔明が引用した『孫子』の一部であるとか何とか。こういう漢籍マウントをするのであれば、ドラマをちゃんと観てはどうですか。
そしてなぜこんな言葉を持ち出したのかと言うと、これがまた長いのでピックアップしておきますが、
ファンの擁護は、ファンダムの外にいるものからすれば意味がないどころか、むしろカルトじみて見えてきます。
ファンは論拠として、推しの美談やら印象を語ります。
現在、目の前に出てきている問題を見ていく上で、そんな過去の逸話に全く意味はありません。どんな悪党だろうと善行のひとつやふたつは為しているもの。
それに、あの記事にカーッと頭に血が登って、コメントをつけている時点で、その人は「致されて」おります。流されている。兵法としては失敗です。
文春砲は「致して」いる側ですから、既に兵法では勝利しております。
それにあの構えからして、文春側はまだまだ余力があるのでは?
要はこれを言いたいがために「善く戦う者は…」を持ち出したのでしょうが、持ち出される漢籍の方も、武者さんのこういう週刊誌便乗、自説補強に使われて何やら気の毒です。まあ漢籍も大河も、武者さんの自説主張のための道具と考えた方がいいのでしょうが。
ヒトラーが子どもと微笑み合う写真を持ち出して、「ヒトラーもナチスも、よいことをしたんだ!」と言い出しても、何ら意味がないようなものです。
そして、松本さんをヒトラー呼ばわりですか。自説補強のためにはなりふりかまいませんね。まあヒトラーはアウトバーンを推進してはいますが、主に政治的利用のためと言われています。
いちいち反応している場合ではないでしょう。精神の守りを固めた方がよろしいかと思います。
(中略)
何をか謂いて明君、暗君となすや。『貞観政要』
これも意味が書かれていませんね。
明君と暗君の違いは、何を基準にするのかという意味ですね。
何を基準に名作大河と、駄作大河と判断するのですか?
そしてこういう「致されて」いる層が厄介なところは、集団心理で勝手に大河ドラマを私物化することですね。
私もよく言われます。大河の記事を書いているくせに、貶すとは何事か?と。
逆に、そういう人には問いたい。
何をか謂いて名作となすや。
自分の推しが出ているからとか、自分の相互フォロワーが褒めているとか、そんなものは何の論拠にもなりません。ただの推しへの愛。ただのお仲間意識。それだけです。
寧ろ「何をか謂いて駄作となすや」と武者さんに訊きたいです。この人が駄作呼ばわりしている大河を好きな人も当然いるわけですから。
そして
「集団心理で勝手に大河ドラマを私物化する」
「自分の推しが出ているからとか、自分の相互フォロワーが褒めているとか、そんなものは何の論拠にもなりません。ただの推しへの愛。ただのお仲間意識。それだけです」
何だか非常にブーメラン臭さがあるのですが。
NHKは公共放送であり、大河ドラマは貴重な時代劇です。
一年間という長いスパンを使えます。
歴史もあります。
そういう枠にクオリティを求めて何が悪いのか?
ではその「クオリティ」なるものは何ですか?
具体的に説明してください。貴方の言うクオリティとは単なる好き嫌いではないのですか。しかも報酬を貰って、好き嫌い基準で記事を書いて、好きな作品を嫌いな作品の叩き棒にしていますよね?
そういうのをクオリティと呼ぶべきなのでしょうか。
偏ったファンの理屈に陥ってしまうと、『貞観政要』に対する感想ですら、こんな意見が出てきそうです。
「この魏徴って感じ悪いw 唐に仕えてお給料もらってるなら、唐太祖を褒めまくらなくちゃダメじゃんwww ダメ出しばっかして感じわるwww」
『貞観政要』を読んでこんな感想を書いたら零点確実でしょう。
「偏ったファン」呼ばわりすること自体、自分が偏っていることを証明するようなものなので、あまりこんなこと言わないほうがいいと思いますよ。
そしてこの先しばらく、単なる自己満足というか意味不明、何だか酔っぱらって人に絡んでいるような感が半端ないので端折ります。
あらためて本作に漂う古臭い陳腐なセンスを考えてみたい。
そのセンスは、学生運動世代を嫌っている。バカにしている。
で、国が強くなって弱者を搾取してこそ、巡り巡って自分も甘い汁を吸えると勘違いし、長いものに巻かれに行くようになった。
それでもいいんです。バブル期に人生観を刷り込まれた世代は、それが処世術だった。
だから政治的な駆け引きなんて理解できない。政治なんてどーでもいいし、投票日は寝てるだけ。そういう価値観を植え付けられている。
武者さんて、学生運動世代に共感しているのでしょうか。
あれこそ昭和のおじさんあるいはおじいさんの世代であり、武者さんが思い切りバカにしそうな時代の話ですね。
そして政治に関心を持つのと、政治的駆け引きを理解するしないとというのは、ぶっちゃけ別物ではないでしょうか。
そして真面目な奴を小馬鹿にして笑ってきたとあり、
でも、歳をとってきて気づく。
自分は何も成し遂げていないのではないか?
そこで、生まれつき、たまたま、努力せずに得られた属性である国籍や性別に過剰な自身を抱き、依存するようになる。
と来て、
社会運動をしているような連中は、ズルをしていて、金儲けしているんだ!
自分がそうだから相手もきっとそうだ、デカい権力に寄生して、うまい汁を吸いたいんだ!
勝手にそう思うようになってしまう。
そこまではともかく、その後に
大河ドラマなら『麒麟がくる』の理想主義者である光秀がうっすらと嫌いだし、駒は生意気な女なので正々堂々嫌って小馬鹿にしている。
理想主義者が出てくるという一点で、『麒麟がくる』を小馬鹿にしようとし、隙あらば大手掲示板やブログ、SNSに書き込む。
そんな冷笑逆張りセンスがバリバリに滲んでいるのが、今年の大河ですね。
すみません。社会運動と『麒麟がくる』と何の関係があるのですか?
光秀は理想を抱いてはいましたが、たとえば革命に身を投じるような理想主義者ではありません。なのに武者さんの書き方というのは、そういう存在を前提にしているが如きです。
駒もせめて秘書的な立場なのに「侍医」であったり、あちこちに出張るから疑問を持つ人はいたと思います。これなら今年の阿茶局のほうがまだわかります。そして阿茶局の場合は、たとえば家康と三成が会っているところに、姿を現すようなことはありません。
そんな冷笑逆張りセンスがバリバリに滲んでいるのが、今年の大河ですね。
と言うより、武者さんが『どうする家康』や『青天を衝け』に思い切り逆張りしていないでしょうか。以前ご紹介した逆張りについて書かれたnote記事にありましたが、
「その作品に「ある」点を見つけるより「無い」点を叩く方が何千倍も楽で誰にでもできるわけで(書いてないことを指摘するだけなので)そんなことに意味はない……が人はついついやってしまうと赤裸々に書かれている」
というのは、武者さんに当てはまりそうな気がします。実際今年は「描かれてない」点をやけに叩いていますから。
二虎競食、駆虎呑狼
予想通り、文春砲は第二弾がきました。これが最後でもないように思えます。
二つの敵対勢力を戦わせて、同時に弱体化させるというのですね。
で文春の記事によれば、嵐とsnowmanを仲たがいさせようとしているとか何とか。
しかし武者さんて、文春とタイアップでもしているのですか。自説補強に使える記事が来て本当にうれしそうですね。
やれ「マザーセナ」だ何だと未だに書いていますが、武者さん自身が文春記事を信奉したくてたまらないのかも知れません。
競い合うとなればなかなか危険な策であり、文春には兵法を巧みに駆使する方がいるようです。さあ、文春だけに頼らず、NHKに声でも送りましょう。
◆NHK みなさまの声(→link)
「文春には兵法を巧みに駆使する方がいるようです」
いやマスコミはそういうものですから。
そしてこの
「さあ、文春だけに頼らず、NHKに声でも送りましょう」
武者さんて文春にもメッセージ送っていたのでしょうかね。