第40回、松永久秀退場回です。第39回の主人公の病気に描写について以前触れたため、もう1度この大河の、別の回に関するこのコラムを見てみようと思った次第です。
と言いつつ、のっけから余談になりますが、『どうする家康』第22回「設楽原の戦い」関連です。これの1つ前の分の投稿で、このコラムがなりふり構わなくなっている印象があると書いたことがあります。実際エスカレートしている感は否定できませんし、また鳥居強右衛門を演じた岡崎体育さんについて、武者さんはこのように書いています。まず彼は役者でなく、シンガーソングライターである、そのため歌まで入れたと書き、その後
「演じる側にとってはNHKの看板番組で露出があって、美味い話なのかもしれません。作品自体がいかなる内容であろうと、NHKが提灯を持ってくれるなら芸能人にとって損はない。(中略)本業が役者でない人をゲスト扱いで出すことでテコ入れしようとするんですね。大河は腐っても鯛。出たら自慢になる。そういう記念と自己アピールによるキャストが増えるわけです。当然ながら、ドラマの出来は落ちます」
などと書いています。
いくら何でも岡崎体育さん、そして『どうする家康』スタッフに失礼でしょう。それに岡崎さんはNHKの他の番組にも出演しており、朝ドラ『まんぷく』にも俳優として出演しています。武者さんはこの朝ドラはお気に召さないようでしたが。
そして中略部分ですが、
「同様のことは『花燃ゆ』でもありましたが、本業が役者でない人をゲスト扱いで出すことでテコ入れしようとするんですね」
とあります。『花燃ゆ』にミュージシャンが出演していたかなと思ったのですが、どうやら乃木坂46のメンバーが、奥女中として出演したのを指しているようです。しかし彼女たちはミュージシャンよりアイドルではないかと思いますし、登場シーンも尺も、今回の強右衛門とはかなり違っていたのですが。
では本編です。前回もそうでしたが、大河そのものへの姿勢に関して、『どうする家康』との比較を入れていることをお断りしておきます。
なんでも亡き妻の爪を小さな入れ物に収めて、大事に持ち歩いているのだとか。耳のところで振ると爪が可愛らしい音を立てるのです。
妻が生きていた証を、優しい音に求める光秀でした。
光秀が亡き煕子の爪を持ち歩いているシーンです。無論これはこれで、彼の思いが伝わって来ます。
しかし仮に今年の大河で同じようなシーンがあった場合、何と書いたのだろうかと思います。少なくともここまで肯定的には捉えないように思われます。
糟糠の妻は堂より下さず――。
若い頃から連れ添った妻とは、自分の考えをまとめてくれる。若さ、美貌、妊娠できるかどうか。そこだけ見ているとろくなことにならないという戒めです。
この言葉を頭の隅にでも入れておきたい。大事な要素ですね。
この時代「妊娠できるかどうか」は重要な要素であるかと思います。「ろくなことにならない」とも言えないでしょう。当時子供を著名な大名の家に輿入れさせるとか、他家の娘を息子と縁組させ、姻戚関係となるのはかなり意味を持ったでしょうし、それもあって光秀も、娘たちを荒木村重や細川忠興と縁組させたわけですが、
それにこんなことを書くと、木村文乃さんが演じた煕子が若くもなく、美貌でもないように思われてしまうのではないでしょうか。
そしてこれは『どうする家康』でも同じでしょう。瀬名は若いころから連れ添った妻であり、家康を一番理解している人物です。そしてこちらの妻は、危険ではあるものの武田の間者を呼び寄せ、堂々と駆け引きまでやっているにも関わらず、武者さんは、おじさんが好きな昭和平成ギャル呼ばわりまでしていますね。
なんでもたまは、駒から薬のことを習っているとか。
たまが駒から薬のことを学びたいと言い出した時は疑っていた光秀。けれども、たまは覚えが早いと駒は言います。十兵衛様の腹痛の薬くらいなら調合できるそうです。
光秀は笑い、ならたまを医者として長生きすると言い出すのでした。
これも『麒麟がくる』ではこう書いているのですが、『どうする家康』では、瀬名が夫のために薬を煎じているところを評価したことがあるのでしょうか。
スマートフォンやスマートウォッチには呼吸アプリがありますね。あれはそういう効能から実装されています。
東洋医学から『鬼滅の刃』の全集中の呼吸、そしてこのような記述となっているのですが、所謂マインドフルネスのことと思われます。ただこれは元々は、上座部仏教の影響の方が大きいのではと思います。あと治療としてのマインドフルネスを実践したのは、確かアメリカが最初ですね。
実澄は光秀が変わりないかと挨拶。光秀は戦に追われ歌を詠むこともできず、お恥ずかしい限りだと言います。
この言葉は、もしかしたら再来年も有効かもしれません。『鎌倉殿の13人』の源氏ともなれば、
「歌なんて詠んでも何の役にも立たねえのによーッ!」
という価値観でした。現に鎌倉武士の書いた文章は誤字脱字が多いのだそうです。教養レベルの違いですね。鎌倉武士と比較すると、戦国武士は洗練されています。
これは「鎌倉殿」を見ればおわかりのように、そもそもそういう価値観がなかったし、字を知らなくてもそれなりに生きて行くことができたからで、必ずしも戦国時代的視点でとらえるべきではないかと思います。それと
「歌なんて詠んでも役に立たない」
は「源氏」より、寧ろ「坂東武者」ではないかと思いますが。
それと何度も書くようですが、鎌倉殿の最終回で吾妻鏡を読む家康を、戦国時代は本を読むようにとほめていた武者さん、いざ始まってみたら散々な叩きようです。しかも『吾妻鏡』を読んでいて、肩を揉んでいるお葉のことを
「読書中に肩揉みだの、お色気サービスだの」
などと書いていますね。肩揉みはともかく、お色気サービスなどあのシーンにありませんでしたが。
光秀がその小屋に入っていくところを、怪しげな男が見ています。この出番だけなのに、圧倒的な存在感。こういうキャストまで本作は素晴らしいものがある。
こういう役はどの大河にもたいてい見受けられるかと思いますが、武者さんがここまで言うのは、やはり好きな大河であるのも関係しているのでしょうか。
なんでも久秀と実澄は長い付き合いだとか。死んだ女房が何かと世話になったそうです。京にくるたび、昔話をする関係のようです。
久秀は洗練された審美眼の男だとわかりますし、愛妻家でもある。
何かと久秀はフィクション由来でどぎつい扱いをされますが、愛妻を挟んだ思い出を大切にする、心も綺麗な人なんだとわかりますね。
これですが、久秀退場回であるのなら、もう少し色々な史料と突き合わせて実像を探ることはやってほしいと思います。この大河コラムでは、関連記事を色々リンクしてそちらにアクセスさせる方法を採っていますが、コラムの中で完結させてほしいですね。その分時間がかかりますが、別に月曜の夜や火曜日のアップでもいいかと思います。今年の大河(好き嫌いはともかくとして)も、もっと史料と照らし合わせれば、いろいろ発見があるはずなのですが。
理由はどうあれ、戦の最中に人を抜け出す者は死罪と決まっている。
細かいことですが、人でなくて「陣」でしょうね。
光秀は叫ぶしかない。
げせぬ! げせぬ! げせぬ!
久秀は酒を飲めと言い、茶釜を太夫に預けておくと言います。
久秀が負ければ光秀のもの。久秀が勝てば、その手に戻る。いいな、わかったな。そう念押しする。
「平蜘蛛など欲しくない! 戦などしたくない!」
そう叫ぶ光秀には……道三のもとで戦っていた若侍時代のような、若い嘆きがある。
(中略)麒麟がくる世を信じていたのに、そんなことはなく親しい誰かの屍が積み上がってゆくばかり。
光秀の精神が壊れてゆきます。
この「解せぬ」を3回叫ぶところ、戦などしたくない、平蜘蛛など欲しくないと言うところ、これは確かになかなか世が平らかにならない、そのための厭戦気分ももちろん関係していたかも知れません。しかしそれと同時に、昔からの知己であった久秀を敵に回さざるをを得なくなる、そういったいわば私情もあったのではないでしょうか。
「げに何ごとも一炊の夢……」
短刀の鞘を投げ、死装束に着替えることもなく、叫びながら腹を切る久秀。
いくらなんでも、あの状況で死に装束に着替える暇は恐らくなかったかと思います。
NHKのVFXもこなれてきました。
安土城の場面は、そのひとつの極みだと思えます。遠景、そして大広間。壮麗な広さと豪奢さがあって眼福そのもの。かつては、あまりにお粗末で立派な建物に見えない、せいぜい旅館に見えてしまうセットやVFXの使い方にさんざん文句を書きましたが、そういう過ちは克服したようです。
私もこの回はリアタイで観ておらず、従って公式サイトやSNSでの詳しい説明も多分見ておらず、詳しいことはわかりませんが、あれは京都の寺院か、何かの建造物でロケをやっているのではないかと思うのですが。
ただ……「話は以上じゃ!」と打ち切って、光秀に有無を言わせない、そういう信長の性格が残念でなりません。
なぜにこれほど不器用なのか。
この時は信長の不器用さ、あるいは誤解されやすい性格について書かれています。
しかしそれを言うのなら、今年の信長も似たようなところはあるわけですが、今年の場合、そういう点があまりきちんと書かれていないようですね。
以前も記しましたように、2010年代最大のヒットドラマとされる『ゲーム・オブ・スローンズ』もこのパターンの結末でした。
『鬼滅の刃』も心理描写が細かい。そして自分のことばかり重視して、最愛の仲間たちを思いやれない者は、鬼だけではなく鬼滅隊士だろうがろくな目に合わないというルールがあります。
個人的にはゲースロと『鬼滅の刃』を持って来られるよりは、やはり史料と登場人物、特にこの回で退場した松永久秀の人物像の変化などを、このスペースを使って書いてほしかったです。
ちなみに常山紀談などでは彼が梟雄とされているようですが、この書物は江戸時代にできたものであり、戦国時代と江戸時代とでは見方が、相当変わっていることについて触れてもいいでしょう。
前回のことで訂正します。家康が「薬酒」を飲んでいるとしましたが、状況や色からして「薬湯」の方が妥当で可能性が高いです。失礼しました。
そうなのです。苦い薬湯を敢えて飲むところが、家康と光秀にはある。
最終回間近になって、その後への導線が見えてきます。
瀬名は恐らく薬酒は作っていないと思いますね。光秀も坂本城に戻り、たまが煎じた苦い薬湯を飲んでいます。
しかし再度書きますが、この時はこう書いているにもかかわらず、今年は瀬名が夫のために薬湯を煎じて飲ませていても、そのことをどのくらい肯定的に捉えていたでしょうか。
あ、そうそう、これは願望ですが。松永久秀が生まれ変わって、徳川幕府を仕切る大和ゆかりの男・柳生宗矩に生まれ変わったという設定が私の中には成立しつつあります。
『柳生一族の陰謀』のみならず、『魔界転生』も吉田さんの宗矩でやってくれないかなぁ。柳生十兵衛は溝端淳平さん続投でお願いします。
その溝端さん、この前も書きましたが『どうする家康』に今川氏真役で出ていますね。氏真公は後編も登場予定ですね。ちなみに溝端さんは6月14日がお誕生日だったとのことで、おめでとうございます。
久秀は、信長ですら世の中を変える気構えがない、昔からの血筋だのなんだのにこだわると悔しがる。
もう人間としての生存本能を超えて、世の中を変えてやるという執念に飲み込まれてしまっていた。
これはすごい描き方だと思った。
「すごい描き方」といった表現が多いような気がするのですが…以前からそうですが、プロとして文章を書いているのなら、もう少し書き方を工夫して貰えないでしょうか。