では11月11日に放送された『決戦!関ケ原Ⅱ 大名たちの野望』(2023年2月4日放送分の再放送)について。俳優の高橋英樹さんがゲスト出演していましたが、今年の正月時代劇で家康を演じていましたね。番組そのものは『どうする家康』関ケ原回の予習番組としても、また歴史関連SPとしても楽しめました。
まず最初に、関ケ原前に日本中を飛び交った500通の書状、その分析と動きの可視化が行われ、その後毛利輝元の動きが紹介されます。この人は海路大坂に向かっていますが、会津征伐準備を進めていた家康が、即座に大坂に向かえないようにする目的もありました。西の毛利、東の徳川という構図のもと、毛利のもとに大名たちが集結し、これが後の西軍となって行きます。
再びデータ関係。東軍諸将の書状に比べると西軍諸将のはその半分ちょっと、しかも石田三成のは13通しかないわけですが、やはり敗者の側の文書が残る確率は低いようです。下手に持っていると、何を疑われるかもわからないわけですし。
そして毛利。ここで石見銀山と船についての解説。船はやはり毛利水軍もありますからね。そして「北の関ケ原」、イエズス会の宣教師によってバチカンにもたらされた文書も、このことに言及しています。この時家康の会津攻めにより、上杉方は情報面で孤立した状態に置かれていました。しかしそこへ朗報が届きます。
三成挙兵の知らせでした。この情報伝達を可能にしたのは真田昌幸で、飛脚を守るために軍勢をつけたわけです。しかもその三成の書状には、上杉の江戸攻めについて書かれています。要は
東北連合軍VS徳川
の構図が出来上がるわけで、ここでシブサワ・コウ氏が登場し、その様子をシミュレートしたゲームの登場です。
東北連合軍はいい形で攻めるものの、最終的に家康の勝利となります。仮にこの江戸攻め、そして上方から来た石田軍が挟み打ちにしていれば、かなり日本史は変わっただろうと思わされます。そしてその一方で、会津に向かっていた家康は、小山で三成挙兵の知らせを受けます。
ここで小山評定が行われるわけですが、家康にしてみれば、豊臣恩顧の大名の支持を取り付けられるか不安ではあります。そこで、淀殿や奉行衆からの、三成討つべしと書かれた書状を見せ、大義名分は我らにありと主張するわけですね。ここで福島正則が三成を討ち果たせと言い、ここに東軍が出来上がるに至ります。しかしながら時を置かずして、今度は五奉行により、家康が謀反人に仕立てられたことを知らせる書状(内府ちかひの条々)が届きます。
この小山評定後会津征伐は中断され、福島正則らは既にこの時西へと向かっていました。しかし家康への弾劾状は、当然各大名にも送付されていることになり、何らかの形で家康が謀反人認定されたことを、東軍の武将たちも知ることになります。福島正則も、もちろんその1人でした。しかしながら、小山評定で自分が三成を討つと言い出した手前、かなり悩んでもいたようです。
そして江戸城では、家康が寸暇を惜しんで書状をしたためます。特に「内府ちかひの条々」を受け取った直後は書状の数が増えており、ここでデータによる可視化です。特にこの時期の家康の書状には、心情に訴えかける言葉、忠節、懇意、感悦などが使われ、また彼自身が公儀でなくなった(三成にその座を奪われた)ことから、土地や恩賞などの言葉が消えているのが特徴的です。ところで「内府ちかひの条々」、福岡市博物館所蔵とありましたが、筑紫広門宛のものでしょうか。
内府ちかひの条々
(福岡市博物館)
家康は特に、福島正則を警戒していました。そして福島正則もまた、家康がなかなか西へやって来ないことに苛立ちを隠せず、また三成は彼ら東軍への処罰を開始し、このままでは正則は改易も免れない事態となります。その時家康の使者、村越直吉がやって来て、皆が出陣できないゆえ出陣できぬと言い、一同を怒らせてしまうのですが、この場を取りなしたのが黒田長政でした。
長政は早くから徳川についており、敵を前にしながら動かないので不安視していると言い、その後岐阜城攻めが行われます。この岐阜城攻めは1日で片がつき、家康も9月1日には出陣して西へと向かいます。
ここで福島正則についての解説。尚この時、正則と長政が兜を交換したことで、2人がそれぞれ交換した兜をかぶっている様子は、なかなかほほえましいものがありました。そして長政は、諸侯を如何に徳川方につけるのかが彼の役目でした。そのため必ずしも徳川一辺倒でない正則を、家康は何とかして戦に向かわせる必要があったわけで、この清須城で長政はその役目を果たしたことになります。
しかしながらこのままだと、正則たちだけで三成と戦うことになり、徳川の出番がなくなるのを恐れた家康は、慌てて出陣したとも言われています。今度は家康は、東軍を何とか抑えておく必要にかられたことになります。こうして家康が西を目指している間、奥州で異変が起きます。三成からの情報が上杉方にもたらされなくなったのですが、これは昌幸の嫡男、信幸が徳川につき、第二次上田合戦が行われたのと関係していました。
上杉方は最上をまず攻めることにします。しかしそこで番狂わせが起きます。味方であった伊達政宗が裏切ったのです。政宗は東海道経由で家康からの書状を受け取っており、しかも利にさとい政宗に恩賞をちらつかせたのでした。結局これにより、東北連合軍も江戸攻めの計画は破綻します。そして岐阜城を奪われた三成ですがまだ諦めておらず、家康との決戦に備えて、陣城である玉城を改修させます。
その玉城に三成は、豊臣秀頼または毛利輝元を迎え入れる予定でした。豊臣恩顧の大名が多い東軍に対し、三成は秀頼を迎え入れることで、勝利を決定づけたかったのです。また松尾山城も東軍を迎え討つには大きな意味がありました。ここには小早川秀秋が着陣します。この秀秋は豊臣一門でありながら、自分が玉城に入れないことに対し、三成に不満を持っていたようです。
ここで秀秋について。はじめから寝返る気満々のようですが、自分はこのままでは大名にとどまるだけで大した出世も見込めず、ならば東軍について勝ち馬に乗った方がいいと思ったのでしょう。そして関ケ原の本戦となるわけですが、この時欧州でも北陸でも、上田城でも大津城でも、四国や九州でも東西の勢力による争いが起こっていました。また丹後では細川幽斎が籠城し、嫡男忠興は岐阜城攻め、その家臣松井康之は九州で黒田と連帯していました。
関ケ原の戦い。かつては大坂へ向かおうとする東軍を阻止するため、この地での戦いになったとされていました。しかしその後、松尾山城の小早川を西軍に引き戻す狙いがあるという説に変わっています。この時毛利の別動隊である吉川広家は南宮山にいて、東軍を阻止する役目でした。それが、秀頼が出陣するまでの時間稼ぎになるはずだったのですが、彼も長政から密書を受け取り、不戦の密約を交わしていました。
つまり毛利の勢力は徳川の抑止力とはならず、東西入り乱れての決戦が始まります。そして大坂城の輝元は、この戦が長引くであろうと予測し、その間に西国を抑える目論見でした。そして秀秋は毛利勢の寝返りを知り、大谷吉継隊目指して進撃を開始するわけです。その後三成は処刑されるに至りますが、家康は奥州にもこのことを知らせ、収束を促します。そして上杉は敗北し、領地を米沢30万石、かつての4分の1に減らされます。
毛利輝元は大坂城を去り、また毛利家も領地を大幅に減封されて、長門と周防の2国のみになります。そしてこれは、打倒家康を狙った三成と、西国制覇に集中した輝元の意識のずれが招いた敗戦だったとも言えます。最後の高橋さんの意見ではありませんが、関ケ原が1日で終わらなかったらまた乱世に戻ったと言えなくもなく、その意味でも家康は早めにこの戦を終わらせたいと思ってはいたでしょう。
ところでこの番組、所謂再現ドラマで家康を演じていたのが宍戸開さん、三成を演じていたのが石黒英雄さんでした。石黒さんは、『軍師官兵衛』で福島正則を演じていましたね。