fc2ブログ

ベイカー寮221B/Baker House 221B

パペットホームズ、大河ドラマなどの好きなテレビ番組やラグビーについて書いています。アフィリエイトはやっていません。/Welcome to my blog. I write about some Japanese TV programmes including NHK puppetry and Taiga Drama, Sherlock Holmes and rugby. I don't do affiliate marketing.
ベイカー寮221B/Baker House 221B TOP  > 

23-24リーグワンプレイオフ準決勝と入替戦関連

リーグワンプレイオフ準決勝の結果です。ワイルドナイツは逃げ切り勝ち、そしてブレイブルーパスはサンゴリアスに勝って、リーグワンでは初の決勝進出です。無論チームの力もありますが、現役オールブラックスのリッチー・モウンガ選手の存在は大きいです。(赤文字勝利チーム)

プレイオフ準決勝
埼玉ワイルドナイツ 20 ー 17 横浜キヤノンイーグルス
東芝ブレイブルーパス東京 28 ー 20 東京サンゴリアス

入替戦
D1&D2
浦安D-Rocks 21 ー 12 花園近鉄ライナーズ
豊田自動織機シャトルズ愛知 39 ー 57 三重ホンダヒート
グリーンロケッツ東葛 21 ー 40 ブラックラムズ東京

D2&D3
日本製鉄釜石シーウェイブス 37 ー 19 クリタウォーターガッシュ昭島

そして次節の試合予定です。これによって国内シーズンが終わります。この後はテストマッチシーズンで、日本は6月に、イングランドと対戦します。

5月24日
入替戦D1&D2第1戦
花園近鉄ライナーズ ー 浦安D-Rocks

5月25日
プレイオフ3位決定戦
横浜キヤノンイーグルス ー 東京サンゴリアス

入替戦D1&D2第2戦
三重ホンダヒート ー 豊田自動織機シャトルズ愛知

入替戦D1&D2第3戦
ブラックラムズ東京 ー グリーンロケッツ東葛

入替戦D2&D3
クリタウォーターガッシュ昭島 ー 日本製鉄釜石シーウェイブス

5月26日
プレイオフ決勝
埼玉ワイルドナイツ ー 東芝ブレイブルーパス東京

プレイオフ3位決定戦はBS日テレ(12時~14時)、決勝は日テレ系列局(15時~)でそれぞれ中継が行われます。

飲み物-テーブルの上のスタウト
スポンサーサイト



[ 2024/05/23 01:45 ] ラグビー | TB(-) | CM(-)

『光る君へ』第20回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第20回に関する『武将ジャパン』大河コラムその1です。


藤原道隆の死の翌長徳2年(996年)――その子である藤原隆家が放った矢が、花山院をかすめて飛んでゆきました。
平安貴族といえども、何かと血の気が多い中世です。

まず「藤原道隆の死の翌年」とありますが、既に道隆は第17回で亡くなっており、今更感があります。
そしてまた「中世」と書かれていますが、平安時代は「古代」です。

案の定、従者同士が乱闘となり、藤原伊周と隆家の兄弟は慌てて馬で逃げ去るのですが、これがただで済むわけありません。
なんせ事件が起きたのは、藤原斉信の妹の元です。
花山院を助ける斉信。

従者同士が乱闘になったのは、伊周が引けと命じ、2人が方向を変えてからのことです。録画を観る限り、2人は従者に後を任せて逃げ出したように見えます。
そして「ただで済むわけがない」のは事実ですが、なぜただで済まないのか。斉信の妹の許で事件が起きたと言うより、花山院に矢を射たからと言うのが一番大きいでしょう。
また斉信は「助ける」と言うよりは「庇って」いるように見えます。

道長が、命を狙ったわけではないのか?と気にする一方、斉信はこれで伊周と隆家は終わりだとほくそ笑んでいる。
彼は藤原公任ほどの切れ物ではなく、人脈で出世するタイプですね。描き分けがしっかりしていると思えます。

道長は「命を狙ったわけではないのか?」ではなく
「その2人が院のお命を狙ったのか?」
と斉信に尋ね、斉信はだとしたら伊周と隆家は終わりだなと言っています。
そして人脈云々ですが、第18回で斉信は、自分は厚かましいのが売りだから、道長が関白になったら売り込むと言っていますし。

今回の事件では、2名の従者が死亡。
今は亡き藤原道兼は、まひろの母・ちやはを殺し、虫ケラ扱いしておりました。
ちやはは貴族なので問題視されましたが、従者ともなれば命が適正に扱われない時代です。

ちやはの件ですが、これは結局為時が、幼いまひろに道兼のことは忘れるように言い、ちやはは病死したことにされます。問題視されているでしょうか。しかしその道兼が死んだ時には、為時は無念であったろうと言い、まひろは琵琶を奏でて、あの方の罪も無念も、天に昇って消えますようにと念じています。

そしてこの従者の件ですが、逆に院の従者2人が二条第の武者に殺された、つまり伊周と隆家の従者が院の従者を殺めたからこそ騒ぎが大きくなったのですが。

そしてその後、

帝は、何故そのようなことが起きたのか?と実資に聞きます。
いささかややこしい話ですので、事件を整理しましょう。

と前置きがあり、

加害者:藤原伊周・隆家
被害者:花山院およびその従者
原因:勘違い。花山院は藤原為光の娘である四の君(儼子、たけこ)に通っていた。それを伊周は自分の妾である三の君(光子、みつこ)に通っていると誤認し、矢を射た

とあるのですが、本当はこれを一番最初に持ってくるべきではないのでしょうか。
そして矢を射た相手に対して、斉信が「院」と何度も口にしていたため、まずいことをしたと気づいた伊周と隆家は、その場から逃げ出したわけです。あと花山院は被害者ですが、もちろん殺されもしておらず傷も負っていません。

実はこの事件、被害者側の花山院にとっても都合が悪い話でした。
通っていた四の君は、藤原忯子の妹にあたります。
花山院は亡くなった忯子に未練があったのでしょうか。

まず乱闘の最中に花山院は「私はここに来ておらぬぞ」と言っています。確かに出家の身で想い女の許へ通うのは、あまり聞こえがよくありません。また忯子への未練ですが、姉妹であるため多少似た部分はあったかも知れません。
ただ院は同じ頃、出家の身ながら母娘と同時に関係を持ち、2人とも同時に子を成しています。それぞれの子供たちは「母腹宮」(おやばらのみや、清仁親王)、「女腹宮」(むすめばらのみや、昭登親王)と呼ばれており、女性との関係が派手な人物であったという逸話も残っています。

しかし武者さん、嫌いな大河でこういう人物が登場したら、このような女性関係を散々に言うのでしょうね。

時代がくだれば出家の身で女犯してしまう破戒僧はざらにいます。そんなことに正面切って今さら怒るのは、『麒麟がくる』で描かれた織田信長のようなタイプだけです。

その破戒僧とは誰のことでしょうか。
そして「今さら」とありますが、その「今さら」とはどの時代でしょうか。今の時代の倫理観でも、決して褒められたものではないでしょう。

出家したのに、女に通っているというのはあまりに恥ずかしいことでした。
帝は、そんなことで院が射られて従者が二名死んだのか……と呆れ果てています。

帝の「そんなことで」と言うのは、院が儼子の許に通っていたにもかかわらず、光子の許に通っていたと伊周が勘違いしたことを指しています。院が出家の身でありなながら、女の許へ通うのとはまた別です。

そして当時の倫理観を考えるとあり、

実資は当然のことながら読んでいる『論語』「子路第十三篇」には、羊泥棒の話が出てきます。
ある正直者が、父が羊泥棒をしたとき、それを告発したという話を孔子が聞きました。
孔子は「私の知る正直者は違いますね。父は子のために罪を隠す。子は父のために罪を隠す。本当の正直とはその心の中にあるものでしょう」と返しました。

とまず書かれています。その次に、そんなことでは犯罪を取り締まれないという思想家がいて、『キングダム』に出て来る李斯(りし)に代表される法家がそうである、そして「泣いて馬謖を斬る」で知られる、三国時代蜀の諸葛亮も信賞必罰だとあります。

またいつもの漢籍マウントのようですね。そして李斯はどのようにして犯罪を取り締まったのですか、かなり強硬なこともやっている人物のようですが、
あと諸葛亮(孔明)も信賞必罰とありますが、この人は「泣いて」馬謖を斬ったことからして、いくばくかの情がそこに絡んでいたのではないでしょうか。

漢籍を身につけた東アジアの官僚は、それぞれ異なる思想を突き合わせつつ、落とし所を探る。
実資と帝は法重視。
道長は孔子のような情重視。
そんなことを考えながらドラマを見ていくのも面白いのではないでしょうか。

古代中華帝国と摂関政治時代の日本は、社会制度その他がかなり違うと思われます。東アジアの官僚とひとくくりにできるのかどうか疑問です。
そして実資はともかくとして、帝は必ずしも法重視ではないかと思われます。若さもあって厳しい処分を科したとは思いますが。

宣孝が「淡路についていくのか」と聞くと、まひろは「行く」と即答。惟規も行きたいくらいだと言います。気候もよいそうですが、試験勉強を頑張れとたしなめられます。
直秀に都を出て行かないかと誘われていたまひろは、こんな形で願いが叶ったのですね。

まひろが行くのは、ききょう(清少納言)が肥後の父に同行しなかったのを悔やんだこと、さわが肥前に行ったことなどを踏まえてのものでもあるでしょう。あと「知らない国を見てみたい」とも言っていますね。

しかしここでなぜ唐突に直秀が出てくるのですか。あれとこれとはまた別ではないでしょうか。無論、道長と駆け落ちのようなことをしようとした時とも異なります。今回は、国司の父に同行するという正当な理由があるわけですから。

慌てた国盛は、今更ながらに困ったとか言い出していますが……。もしも道長が、実資や公任ほど秀才であれば、あらためてここで漢籍のテストでも行ったかもしれませんが、道長自身もそこまで得意ではなかった。

漢語ができないのに、宋人のいる国に行くことになった国盛は、いい通事(通訳)がいないかなどと言い出していますね。この通事は訳語(おさ)とも呼ばれ、遣唐使や遣新羅使などに置かれていました。

そしてここで漢籍のテストをしても、国盛自身が漢文が苦手であると言う以上、やはり語学力が必要とされる越前守の任務は、難しかったのではないでしょうか。

あれでは宋人と会話ができず、国同士の諍いになるかもしれないと懸念する道長。
目の付け所がなかなか大きいですね。切れ物というよりも、器が大きいと感じさせます。

道長は宋人の扱いを間違えれば、国同士のいさかいになりかねないと言っていますが、目の付け所が大きい(『鋭い』と言いたいのでしょうか)と言うより、政を預かる身として至極当然かと思います。双方の意思疎通ができないと、国際問題に発展しかねません。


飲み物-タンブラーの白ビール
[ 2024/05/23 01:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

小倉城と名島城と福岡城

以前小倉城のかつての城主について、小倉城あれこれ その2で少し触れています。
元々この城は永禄12(1569)年に、毛利氏が築城したと言われており、大友氏家臣であった高橋鑑種や、毛利勝信などがここの城主でした。その後関ヶ原の戦いを経て細川忠興が城主となり、細川氏が肥後熊本藩に転封された後は、譜代大名である小笠原氏の城となります。そのため、城での行事や催事の際には、細川の九曜紋と小笠原の三階菱紋が共に掲げられます。

小倉城周辺
小倉城とその周辺(Wikimedia)

余談ながらこの小倉城、以前も書いたことがあるかと思いますが、意外にも史跡その他の文化財に指定されていません(福岡県に確認済み)。そのせいか天守閣の最上階にカフェがあり、バーやナイトクラブが開かれることもあります。その意味で、ちょっと異色なお城でもあります。

小倉城ナイトキャッスル(小倉城公式サイト)

実はそれとは別に、埼玉県比企郡に「小倉城」という史跡があります。字は同じですが、こちらは「おぐら」城と呼ばれる戦国時代のお城の跡です。2つの城跡と1つの館跡が、比企城館跡郡として史跡指定されています。

閑話休題。江戸時代、豊前国の小倉藩は小倉城、筑前国の福岡藩は福岡城がその中心的存在でした。しかしご存知のように、福岡藩は江戸時代になって築かれた城です。
この時に福岡という地名も誕生しました。

これに関しては『ブラタモリ』博多編で、タモリさんが元々福岡は福岡と言っていなかったこと、黒田の殿様がこちらへ来て城を築いた時に、先祖の地である岡山の福岡の名をつけたと話していましたが、正にそれで、現在の福岡城がある辺りは警固村赤坂でした。尚この警固の地名は、鎌倉時代に元の再襲来に備えて設置された「異国警固番役」に由来すると言われています。

では戦国時代から存在した、小倉城に相当する筑前の城はどこか。恐らく、名島城がそれに近いかと思われます。この名島城は、大友氏諸流の立花鑑載が築いたとされています。元々は福岡市東部にある立花山城の出城でした。豊臣秀吉の九州平定後、立花氏は筑後国の柳川へ移り、小早川隆景がこの城に入ります。しかしその後名島城が作られると、隆景はこちらに移ります。戦国時代主流であった山城は、既に過去のものとなりつつありました。


名島城跡
名島城跡(Wikimedia)

そして小早川家の家督を継いだ、隆景の養子の秀俊(のちの秀秋)もここの城主となります。ここは水軍城、水軍の本拠地とされる城であったようで、これも毛利氏らしくはあります。関ヶ原の戦い後は、秀秋は岡山へ転封となり、筑前入りした黒田長政が新たな城主となります。しかし城下町の整備に問題があったとされ、長政はここを廃城にして、新たに城を築くことになりました。その城が福岡城です。

福岡城築城に当たり、名島城の資材が多く持ち込まれて再利用されました。かつての名島城はその後名島神社となりましたが、地元の声もあって福岡市が隣接地を購入し、2012年に名島城址公園が作られています。また西鉄名島駅の駅舎は、かつての名島城を模した日本風な作りとなっています。

名島城から持ち込まれた屋根瓦や門の中には、現在福岡城の三ノ丸広場と母里太兵衛屋敷長屋門(と藤園)の間に立つ名島門があります。ただし福岡城に持ち込まれたのは第二次大戦後です。また屋根瓦の中には、その後福岡城の石垣として使われたものもあります。その一部がこちらで紹介されている「桐紋軒丸瓦」です。豊臣家とのゆかりを感じさせる瓦です。

尚この石垣は、以前祈念櫓が立っていた場所にあり、この石垣の保存修復のために櫓は解体されています。工事は終わっているようで、そろそろまた戻ってくるでしょうか。またこの瓦が撮影された頃は、コロナ禍がひどい時期で夏でもあり、現場の皆さんにはお疲れ様ですと言いたくなります。

尚この向こうには、第二次大戦後国体のために作られた球技場と野球場があり、今なお現役です。

(福岡市の文化財アカウントより)

[ 2024/05/22 02:30 ] その他 | TB(-) | CM(-)

『光る君へ』第20回「望みの先に」あらすじと感想-2

第20回後半部分です。


道長は、まひろの手になると思われるその詩を帝に差し出す。なぜこれをと問う帝に道長は、為時は漢籍に詳しく宋の言葉をも解すること、正直な話国盛に越前を任せるのはいささか心もとないことを告げ、為時が越前守を拝命することになる。為時と共に使者に頭を下げるまひろの口元に笑みがこぼれる。惟規にも使いを出してこのことを知らせると言うまひろに、為時は淡路守でももったいなかったのに、なぜか越前守に国替えされたにはどういうことかと尋ねる。

博学である父上のことが、帝のお耳に入ったのだと答えるまひろ。すると為時は、誰が帝に伝えてくださったのだと再び尋ね、恐らく右大臣道長様であろうと自問自答する。さらに為時は従五位下の叙位、淡路守への任官、そして越前守への国替えもすべて道長様のお計らいであり、それは道長様のお前への思いとしか考えられぬと、かねてより思っていたであろうことを打ち明ける。

そしてもうまひろの生き方にはとやかく言わぬ、道長様とお前のことは、堅物の自分には計り知れぬことなのだろうが、そこに踏み込むこともしないと述べたうえで、為時は、ただ何も知らずに越前に赴くことはできぬと言う。要は、為時は事実を知りたかったのである。まひろは、道長にかつて恋い焦がれたこと、都では身分の壁があるので、2人で遠くに逃げて行こうと語り合ったことを話す。

しかしすべて遠い昔に終わったこととまひろは言い、越前は父上のお力を生かす最高の国だから胸を張って行かれませ、私もお供いたしますと笑顔で父に言う。その一方で道長の住居である土御門殿では、詮子がなおも病床に臥していた。薬湯を飲もうともしない詮子を見て倫子は、あしき気が漂っておる、調べよと女房達に命じる、彼女たちが邸内を探し回っている時、従僕が床下の小さな壺を見つけて差し出す。それには呪詛の文字が書かれた紙片がいくつも入っていた。

倫子は詮子に断って、詮子の部屋の中を探す。すると鼎の中に呪詛が書かれた紙片があるのが見つかり、これは呪詛にございますと倫子は詮子にそれを見せる。驚く詮子。倫子は女房たちを中に入れ、調べさせたところ、部屋の中の様々な小物や調度品から同じような紙片が見つかる。

それを見た詮子は、中宮は私を嫌っておる、伊周は道長を恨んでおる、あやつらが私と道長を呪っておるのだ、恐ろしや恐ろしや、許すまじと口走る。道長は倫子からそれを知らされ、伊周の息のかかった者がおるということかと尋ねる。倫子は、屋敷の中で起きたことは自分が責めを負うべきと言い、この件について自分が収めたい、殿は内裏でもお役目にご専念くださいませと言う。

女院を呪詛するは帝を呪詛するに等しいと言う道長に、だからこそ間違いがあってはならない、自分にお預けをと言ってほほ笑む。それに道長は何かを察したかのようだった。結局道長は倫子にこのことを委ね、帝にも伝えないつもりだった。笑顔で礼を述べる倫子。

そして内裏では帝が、なぜ伊周と隆家が出頭しないのか訝る。それに対して実資は、調べの途中で伊周が祖父高階成忠に道長と詮子を呪詛させ、3月21日に法琳寺に於いて、臣下は禁じられている大元帥法(たいげんのほう)を修し、道長を呪詛したことが明らかになったと答える。これには証言もあった女院と右大臣への呪詛は、朕を呪詛するも同じ、身内とて罪は罪と帝は口にし、道長が止めようとするも、実資に速やかに罰するように命じる。

これにより定子は内裏を出ることを命じられ、実家の二条北宮に移った。貴子は斉信に、息子たちの罪が重くならないよう、帝への口添えを求める。しかし斉信は、ここに至っては自分があずかれることではないと言う。伊周はそんな斉信に、今はどうなっているのかと尋ねる。

斉信は言う。女院様と右大臣様を呪詛したとして、帝は大層お怒りであると。また、そうでなければ中宮様を、こちらへお帰しにはなりますまいとも言い、貴子は唖然とする。伊周は呪詛などしておらぬと叫ぶ。そして斉信はききょう(誓書納言)に、中宮は見限れ、伊周らが逃げたらすぐ知らせよと言い含める。ききょうの耳に、女房たちの清少納言は裏切り者の声がこだまする。

そして道長の許を、謹慎中にもかかわらず伊周が訪れる。謹慎中の身にお目通りをお許しくださり、ありがとうございますと答える伊周。そして花山院を脅すために矢を放ったのは隆家であり、その責めは自分が負うと話す。しかし呪詛はしていない、どうかそのことを帝にお伝えくださいませと苦渋の表情で伊周は訴え、内裏に戻れるよう、格別のお力を賜りたいとひたすら頭を下げる。自分も過酷なことは望んでいないとも道長。

しかし決定権は帝にあるため、伊周はなおも、帝に私をお信じくださりますよう、何とぞと道長に口利きを求めて涙を流す。その帝は一人御所にいたが、定子がお上が恋しくてと密かに訪ねて来る。なぜ内裏に上がれたと尋ねる帝に、右大臣が手引きしてくれたと定子は答え、平伏して、兄と弟の罰を軽くしてくれるように乞い願う。しかし帝は無言のままだった。定子は下がるべく立ち上がり、お健やかにと挨拶をして出て行くが、帝は定子を呼び止めて抱きしめる。

伊周と隆家は、本来なら謀反は死罪であるところ、罪一等を減じられて遠流に処された。伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守として配流され、その代わりに道綱が中納言、斉信が参議となる。しかし道長は安倍晴明にこれでいいのか、彼らが本当に詮子と自分を呪詛したのかと尋ねていた。晴明はそのようなことはもうどうでもいい、大事なのは、いよいよ貴方様の世になることだ、貴方様には誰もかなわないと答える。

年若い帝の激情さえ抑えられない自分がと道長は自嘲気味だった。そのうちおわかりになりましょうと言う晴明。道長はさらに、伊周と隆家の今後を晴明に尋ねる。晴明は、隆家がいずれ道長の強い力になり、伊周は道長次第であると述べる。一方ききょうは、定子からしばらく里下がりするように言われる。中宮様のおそばにいたいと言うききょうだが、嫌がらせが高じて身が危うくなるのを案じての定子の言葉だった。

必ずまた呼び戻すと定子は言うが、自分の身などどうなってもいいとききょうは首を縦に振らない。そこへ伊周がやって来るが、大宰府など死んでも行くものかとかなりの剣幕で、隆家の説得にも耳を貸さない。ききょうはその後まひろの家へ行く。二条第から下がったのかとまひろはききょうに尋ね、ききょうは心配でならないと言う。伊周も隆家も処分を受け入れず、検非違使が二条第を取り囲んでいるらしい。

さらに2人が捕らえられて連行される姿を見ようと、物見高い下々の者たちも大勢加わっているようだった。中宮様が心配だと言うまひろ。ききょうはそんなまひろに、同行してくれと頼む。庶民の女に変装した2人は、枝で身を隠して屋敷の中へ入り込む。そこへ貴子が現れ、2人は気づかれないように身をかがめるが、外では実資が帝のお許しは出た、門を突き破れと検非違使たちに命じていた。

伊周と隆家は定子と共におり、隆家はもう諦めるよう兄を促す。隆家は既に出雲に向かうほぞを固めているようだが、伊周は覚悟ができていなかった。隆家は一人御簾を上げて廊下に出、母貴子と姉定子に別れを告げる。涙にくれる貴子に、隆家は笑顔を見せてお健やかにと告げ、意を決したように出て行く。定子は伊周に帝の命に従うように言うが、伊周はどこへも行かぬを繰り返し、隆家とは反対方向へ走って行った。

検非違使たちが屋敷の中へ入り、別当の実資は貴子に挨拶をして、伊周を連行しようとする。するとそこへ定子が出て来る。まにろもききょうも身を隠したまま、ことの成り行きを見守っていた。中宮様を牛車にお移しして、屋敷の中を改めるように命じる実資。しかし定子は従おうとせず、検非違使の1人から刀を取り上げて構え、実資を寄せ付けなかった。そして彼女は、その刀で自らの黒髪を片方切り落とす。


淡路守改め越前守となった為時ですが、これは道長が手を回したのであろうこと、そしてその道長と娘のまひろは何か関係しているのではないかと気づいていたようです。まひろもここは正直に、かつて道長を愛し、駆け落ちのようなことまでやろうとしたことを打ち明けますが、それは昔のことだと言います。実際はそうでもないとは思いますが、ともあれ、越前に本当に行きたいのは、実はまひろの方なのではと思えますし、その意味ではなかなか計画的と言えなくもありません。

そしてこちらも計画的と言うべきでしょうか。詮子が病気になり、倫子はあしき気があると、女房達に屋敷の中を探させます。すると呪詛を書いた紙片が見つかり、詮子の部屋からも同じ紙片があちらこちらから見つかりました。倫子は道長にこのことを伝え、はすべて自分が取り仕切ると言いますが、道長はそれが何を意味しているかに気づいていたようです。そして中関白家の女院と道長、ひいては帝への呪詛は問題となります。

さらに伊周は大元帥法での呪詛も行っていますが、これは宮中でしかできないものでした。しかしこれは冤罪である、道長から帝によろしく口を利いてくれと、伊周は涙ながらに訴えます。かつての関白道隆の息子としての日の出の勢いは、最早どこにもありませんでした。さらに定子も内裏から追放されます。無論帝は定子を嫌いになったわけではありませんが、最終的に自分に呪詛が向けられたことで、中関白家をいわば成敗することになります。

そしてついに検非違使たちが、中関白家の屋敷を取り囲みます。隆家は最早覚悟を決めたようで自分から出て行き、伊周は行きたくないと、検非違使から逃げようとします。安倍晴明が、隆家は道長の力となるが、伊周は道長次第だと告げたことが、ここで示唆されているようです。検非違使は今の警察に相当しますが、何やら地検特捜部の家宅捜査の様子もちらつきます。

そして定子は検非違使の刀を抜き、自刃するかのように刃を首筋に押し当てた後髪を切り落します。サロンの主宰者であった中宮の定子は、ここに来て、荒ぶる男たちを相手にする逞しい女性となっていました。その定子は帝に、隆家は母貴子に「お健やかに」と告げていますが、伊周はこの言葉を口にするだけの心のゆとりはなさそうです。

しかし呪詛の紙片を入れた壺が床下から見つかる辺り、やはり時代的に近いせいもあり、『鎌倉殿の13人』をほうふつとさせるところがありますね。そしてききょうとまひろの変装ですが、昨年の『どうする家康』で、一向宗徒に変装して寺に忍び込んだ瀬名たちを連想してしまいます。

あと為時の詩について、帝のセリフでわかりやすく説明されているので書いておきます。

学問に励んだ寒い夜は 血の涙が袖を濡らした
除目の翌朝、無念さに天を仰ぐ私の眼には ただ蒼い空が映っているだけ
(苦學寒夜 紅涙霑袖
  除目春朝 蒼天在眼     蒼天は天子の意味もあり)


飲み物-マグに注がれたビール
[ 2024/05/22 01:15 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

北九州と福岡と その21(それぞれの駅3)

今回は駅と言うよりは、北九州モノレールと福岡市地下鉄についてです。既に今までもご紹介していますが改めて。

まず北九州モノレール、正式には北九州高速鉄道と言い、第3セクターとして設立されて1985年に開業となりました。元々は駅北側の新幹線口を起点とする予定でしたが、新幹線の上に軌道を作るのが難しく、結局南側に起点を設けることに決まりました。

ただ景観の問題もあり、小倉駅の周辺のモノレールの地下化を求める意見もあったようですが、これは実現していません。また当初は今の平和通駅が小倉駅であり、小倉駅の中に乗り入れるのは1998年になってからです。

現在は小倉線が運行されています。小倉から企救丘(きくがおか)までを結んでおり、途中に城野や志井といった、JRと同じ名前の駅もあります。ただJRと同じ駅舎というわけではなく、距離的にも離れています。ただし小倉と企救丘の場合は同じ駅舎内、あるいはすぐそばの駅でJRに乗り換えができます。

モノレールの車両は普通の車両ももちろんありますが、ラッピング車両も多いです。乗車券のみならず、「mono SUGOCA(モノスゴカ)」をはじめ、JR九州のSUGOCAや西鉄のnimocaなどのICカードが利用できます。乗った感じは、他のモノレールでもそうですが、ちょうど高架線を走る列車に乗っているイメージです。

また毎年11月には、車両基地でモノレールまつりが行われています。

202303モノレール表示板2
北九州モノレール小倉駅駅名標と路線図

小倉駅を出る北九州モノレール
小倉駅を発車するモノレール

そして福岡市地下鉄。福岡市交通局の運営で現在の路線は
空港線(福岡空港-姪浜)
箱崎線(貝塚-中洲川端)
七隈線(橋本-博多)
の3路線です。

1981年に空港線(当時の1号線)の室見-天神間で営業が始まり、その後箱崎線(当時の2号線)が開業、さらに延伸が繰り返され、貝塚線は1986年、空港線は1993年に全通しています。また空港線とJR筑肥線の相互直通運転は1983年に始まっており、その当時はもちろんJRではなく国鉄筑肥線でした。博多駅には空港線が1983年に、七隈線が2023年に乗り入れています。

ICカードは国内のJRや大手私鉄のカードに加え、福岡市地下鉄のICカード「はやかけん」、JR九州の「SUGOCA」そして西鉄の「nimoca」も利用できます。またクレジットカードの非接触型決裁も行われています。

乗り換えに関しては、空港線と七隈線が停車する博多駅で新幹線やJR各線との乗り換え、空港線の天神または七隈線の天神南下車で西鉄福岡(天神)駅へ移動後に天神大牟田線との乗り換え、七隈線薬院駅で天神大牟田線との乗り換え、箱崎線貝塚駅で西鉄貝塚線との乗り換えが可能です。また中洲川端駅で箱崎線または空港線に乗り換えられます。

姪浜駅からは筑肥線と相互直通運転であるため、空港線では筑肥線の駅である筑前前原や西唐津行きの車両を見かけることもあります。一方で南区には地下鉄が走っておらず、南区に通う構想、あるいは七隈線の福岡空港までの延伸や、JR福北ゆたか線の長者原(ちょうじゃばる)駅への延伸も検討されています。

尚ひとつ前のこのテーマの投稿で「西鉄(和白線)」と書いていましたが、「西鉄(貝塚線)」の誤りです。訂正しています。

地下鉄博多駅駅名表示
地下鉄博多駅駅名標

福岡市地下鉄筑前前原行
筑前前原行きの空港線車両

[ 2024/05/21 02:00 ] その他 | TB(-) | CM(-)

『光る君へ』第20回「望みの先に」あらすじと感想-1

第20回前半部分です。しかしもう20回分が終わったのですね、そろそろ折り返しです。


長徳2(996)年。藤原斉信の住居である、一条殿から出て来た花山院に矢が放たれ、周囲は騒然となる。その前に藤原伊周が、斉信の妹である光子を訪ねたものの、門前に立派な牛車が止まっていたことから、伊周は光子に愛想を尽かされたと思い込んでいた。

弟の隆家の、その相手を懲らしめようとの誘いに乗り、伊周は隆家と再び一条殿を訪れたのである。しかし結果的に隆家が花山院に矢を放ったことからことが大きくなり、伊周と隆家は逃げ帰る。息子たちから話を聞いた貴子は、今こそ中宮定子を頼るよう促すが、自分を関白にすることもできなかった中宮様は当てにならぬと、伊周は声を荒げる。

あの時は女院様がいたからだと貴子は言い、自分がしたことに恐れおののく伊周に、帝も中宮の身内を裁いたりなさるまいと安心させる。しかし斉信は土御門殿を訪れ、花山院に矢が射られた件を道長に知らせる。また院にけがはなかったが、従者が2人、伊周の従者との乱闘で殺されていた。

また二条第の武者2人が捕らえられ、彼らを置いて走り去った者が2人いる、1人は伊周、1人は隆家やもと斉信は話す。その2人が院のお命を狙ったのかと尋ねる道長に、だとしたらこの2人は終わりだと斉信は嬉しそうだった。その斉信を道長が窘める。

検非違使別当の藤原実資は帝の御前で、死人も出ており、まことならば疑わしき者は直ちに捕縛、取り調べるのが常道だが、中宮様のお身内故御裁可をいただきたい旨を伝える。帝も官人の綱紀粛正、高貴な者たちの乱暴を禁ずる旨を言明したばかりなのに、院に矢を放って死者まで出すとは許し難いと述べ、そのような事態となった理由を実資に尋ねる。実資は伊周が光子の許に通っていたこと、そして院が光子に懸想したと勘違いしたと思われると述べる。

勘違いとはと問う帝に実資は、院が光子ではなく儼子の許に通っていたことであると伝え、そのようなことで院のお命を危うくし、さらに2人の命が失われたのかと帝は嘆く。そして道長に伊周と隆家を謹慎させるように命じた後、これより除目故後ほど沙汰すると告げる。また実資には、詳しい調べがつけば逐一注進するようにと言い、さらに定子には、身内の者に一切会わぬようにと言い遺してその場を去る。そして斉信は中関白家を訪れる。

伊周と隆家の兄弟、そして貴子が正装で出迎える。この騒動で帝を悩ませ奉ったことは、不届きの極みと斉信は口にし、謹慎を申し付ける。中関白家の人々は動揺する。その頃内裏では帝の御前で、実資が除目の申文を次々と読み上げていた。その中には淡路守を希望する為時の申文もあった。そして為時は希望通り淡路守となり、惟規やまひろ、そしていとと乙丸の祝福を受ける。国司の任期である4年間を、無事に勤め上げたいと為時。まひろも同行することになっていた。

淡路は下国だけど魚はおいしいし、冬は暖かそうだし、俺も行きたいくらいだよと羨ましがる惟規に、お前は都で式部省試に受かるのが先だと為時は窘め、そして10年こらえた末に願いがなかったのは、は神仏のご加護に相違ないと厨子の小さな仏像に手を合わせる。一方女院詮子は源国盛の訪問を受ける。この度の引き立てで越前守となることができたと、数多の贈り物を持参しての訪問だった。

この国盛こそ、除目の際に道長が詮子の要請を断ったため、詮子が直々に帝に頼んだ人物だった。道長はお前の申文を帝が感心しておられたと声を掛けるが、実は文章博士の代筆だった。国盛は漢文が苦手だったのである。道長は、今交易を望む宋人が越前に多く来て、厄介なことになっていると伝え、漢語が得意な者をということで、帝はそなたを選ばれたはずだが、そのような不心得では務まらぬと言う。

しかし国盛はのほほんとした表情で、困りましたな、誰かいい通事はいませんかと口にする始末だった。これには詮子も呆れ顔で、あんなにうつけとは思わなかった、あの人の母親は聡明なのにと不満そうで、道長もあれでは越前守は務まらぬ、扱いを間違えれば国同士のいさかいになりかねないと明言する。そうねえと詮子は口にしてしまい、道長の方を見て怒ってる、あ怒ってる、許してと言い、さらに伊周たちの処分について尋ねる。

道長は、除目の後で処分を決めると帝は仰せだが、大した罪にはならないと思うと言う。なぜと問う詮子に、中宮様のお身内に厳しいことはできないかとと道長は答える。詮子はそれでいいと思うのかと尋ねるが、道長は、ただ厳しくすればいいとは思わない、お情けを持ってことに当たられる帝こそ、自分は尊いと答える。伊周や中宮はお前の敵なのにと訝る詮子に、敵であろうともですと道長は言い、去って行く。

そして為時の屋敷では、宣孝と酒を飲んでいた為時が横になってしまった。ほっとしたのであろうなと宣孝は言い、まひろが父への態度を軟化させたことを褒める。学問一筋の一途な男だ。官職を取り上げた兼家様のことも恨まず淡々と生きて来た、淡路国が肌に合うとよいがなと言う宣孝に、父は真面目だからきっと立派に務めるとまひろは答え、宣孝の酌をする。しかし宣孝は真面目なだけでもないと、意外なことを話し始める。

昔大学に通っていた時、為時が一月ほど行方知れずになったことを話す。どこに行ったのかわからず、ある日ぼろぼろになって戻って来たと宣孝。何でも宋の国に行こうと船に潜り込んだが、船頭に身ぐるみはがされて海に捨てられた、運よく別の船に拾われて戻って来たらしい。まひろには初耳であったが、そういう型破りなところはお前が引き継いでおる、船で宋にでも渡りそうな危うさがあると言う宣孝に、宋には行きたいと言うまひろ。

いや危ない危ないと宣孝は言い、2人とも笑う。そしてまひろは越前守について尋ね、宣孝は国盛だと答えるものの、まだ若く心もとないと言う。そんな宣孝にまひろは、身分が低い故望むべくもないが、父が越前守であれば、宋の言葉もわかってお役に立つのにと嘆く。宣孝も、帝が為時の学識の高さをご存知であればよかったのだがと言い、まひろは何とか父のことをお伝え申しげたいと口にする。

除目の後に任地が変更されることも、たまにはあると宣孝は言って帰って行く。その夜、書物を読んでいたまひろはあることを決意し、墨をする。そして道長の許へ、行成によって申文が運ばれて来る。申文が多いと言う道長に、お許しいただければ自分が読んで、重要な物だけ渡すと行成は言うが、道長はすべてを自分で読むことにする。そして申文に次々に目を通し、最後の一通を開いた道長は驚く。それには漢詩が記されていた。

苦学の寒夜 紅涙 袖を霑(うるお)し
除目の春朝 蒼天 眼に在り

しかもそれには藤原朝臣為時とあった。何かを感じ取った道長は屋敷へ戻ると、かつてまひろが寄越した陶淵明の詩を箱から出して比べてみる。その2通の「為」の筆跡はそっくりだった。つまり為時の申文の漢詩は、まひろが書いていたのである。そんな道長に、御簾越しに倫子が声を掛ける。詮子が昼頃から気分が悪いと臥せていたのである。道長はまひろの文を戻し、詮子に会いに行くが、詮子は、道長には伝えるなと言うたではないかと倫子を叱る。

女院様が心配でと謝る倫子。詮子はもうようなったと半身を起こし、つまらぬのう、やっと我が世の春が来たと思ったら体が利かぬと言う。まだお若くお美しいと言う道長に、心配かけてすまなんだと詮子は謝り、倫子はよくできた妻だがいささか口が軽いと言ったため、道長と倫子は共に詫びる。


やはり院に矢を射たことが問題となります。伊周はかなりの不安にかられており、行かねばよかったとと後悔しますが、弟の隆家は、今さら言うなと自分が兄のような口を利いています。と言うか、そもそも隆家が矢を放ったのが、騒ぎのもとではあるのですが。この2人の性格の違い、今後の展開にも影響しそうです。一方貴子は、中宮の身内だから罪はそう重くないと考えていたようですが、実際はそう甘くはなさそうです。

帝もこの事態を重く見ており、定子には身内に会うなとまで言います。その一方で除目が行われ、為時の淡路守任官が決まります。祝賀モードの為時の屋敷。しかしまひろが望んでいた越前守には、源国盛が就任していました。ところがこの人物、漢文が苦手で申文も文章博士に作って貰っており、宋人が多く来ている越前の国司が務まるか、心もとないものがありそうです。詮子が道長に突っぱねられ、帝に直訴してまで任官させたがった人物ですが、これには詮子も呆れ顔でした。

その詮子は伊周たちの処分はどうなったと道長に尋ねます。ただ厳しく罰すればいいというものではないと道長。そして、お情けを持ってことに当たられる帝が尊いと言いますが、詮子にしてみれば、伊周や隆家が流罪にでも処せられるのを、一刻も早く見たかったのでしょうか。しかし道長は、敵であろうとも寛大に処置するべきと考えているようです。この辺りこの人の政に対する考えが窺えます。

宣孝が為時の任官祝いにやって来ます。途中で為時が寝てしまったこともあり、宣孝は為時が、真面目一辺倒だけではないことを話し始めます。かつて大学の学生だった頃為時は行方知れずになります。その後ボロボロになって戻ってくるのですが、実は宋への密航を企てていたのでした。為時のこういう性分はまひろにも受け継がれているようです。そしてそのまひろも、父のためにあることを企てます。

除目のための山積みの申文が、道長の許へ運ばれて来ます。それらにひとつひとつ目を通し、最後の一通を目にした道長ですが、それは為時のものでした。しかし道長はどこか引っかかるものがあるようで、屋敷に戻って、かつてまひろから貰った文とその申し文を照合したところ。両方とも同じ筆跡でした。またその申文には漢詩が書かれていました。そして詮子が気分が悪くなり、臥せていたのを倫子が道長に知らせるのですが、伝えるなと言ったではないかと、詮子は倫子を叱ります。倫子は口が軽いと見られたようです。

あと宣孝が、為時の淡路守任官で、淡々と生きて来たから、淡路国が肌に合うとよいがと話していますが、これは「淡」の字つながりでしょうね。


飲み物-パブのビール
[ 2024/05/21 01:00 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

『風花帖』-68

小倉藩で起きたこの一連の出来事は、白黒騒動と呼ばれている。城に残った一派が白(城)組、黒崎宿に行った一派が黒く身で、小笠原出雲の閉門、出国した重臣たちが戻って来たことで、この騒動は決着したかに見えた。

しかし翌文化12(1815)年、この騒動は幕府の知るところとなり、藩主の忠固には
「思慮なき取り計らい」
として、百日の逼塞が命じられた。また四郎左衛門を始め4人の家老たちも解職、蟄居となり、その他の出国者にもそれぞれに相応の処分となった。

そして白黒騒動は、これだけでは終わらなかったのである。
3年後の文政元(1818)年、出雲の嫡男である小笠原帯刀が藩内で勢力を握った。この帯刀は、二木勘右衛門の家督を継いだ二木左次馬と対立し、この両派の争いが再燃することになった。

その翌年の文政2(1819)年、この左次馬と帯刀は共に家老となり、ここでかつての白(城)組が復権して、藩内の主流派となる。この結果、白黒騒動について、改めて詮議が行われたのである。

霧ヶ岳の烽火台への放火、あるいは渋田見主膳の暗殺に関わったとされる者たちは、次々に獄門や打ち首や減知、または蟄居や隠居などの処罰の対象となった。そして二木左次馬も、牢内で死罪となる。中でも、この藩内の対立を扇動したと見られた上原与市は、火炙りの極刑に処せられた。

これらの政争が繰り広げられる中、菅源太郎は騒動の際に、城下での騒ぎを防ごうとした功が評価され、江戸藩邸容認として江戸詰になった。

しかし吉乃は夫について江戸へ行かず、国許で千代太を育てる日々を過ごした。そして月命日には、新六の墓参りを欠かさなかった。

祥月命日である11月18日の墓参りの折には、なぜか風花が舞った。吉乃と共に墓参りに来ていた千代太は、空を見上げてつぶやいた。
「印南の小父様が来ておられますね」

冬の、雲の切れ間からのぞく青空から風花が舞い落ちていた。その風花は、藩内の政争に巻き込まれながらも、汚れることのなかった新六を思わせた。

――新六殿
吉乃は胸の内で新六の名を呼びつつその場にたたずみ、いつまでも風花を見つめていた。


『風花帖』のご紹介もこれで最後になります。一連の藩内対立騒動、白黒騒動は一旦決着したかに見えたものの、その後小笠原出雲の嫡男である帯刀により、蒸し返されます。

その前に、まず忠固の処分がありました。この人物は逼塞に処せられます。この逼塞とは一種の謹慎処分で、門を閉ざして昼間の人の出入りを許さないものでしたが、但し夜間の出入りは許されたようです。また閉門という説もあります
(小倉城公式サイト内歴史コンテンツ『小倉城ものがたり』では閉門蟄居)。百日間というのは軽すぎるように見えますが、幕政に参加したいという、幕府への忠誠心を見込まれてのことと言われています。

そして烽火台へ火を放ったり、さらには渋田見主膳の暗殺に関わったりした藩士には、かなり重い処分が言い渡されています。父出雲の無念を晴らす帯刀の復讐と取れなくもありません。二木勘右衛門の嫡男は死罪、上原与市は火炙りとなっています。この与市の処刑は日明(ひあがり)浜で行われています。現在もこの地名が、小倉西港に隣接する、戸畑区との境に近い沿岸の一地域に残っています。干潟があるため「干上がり」と呼ばれていたようですが、語感がよくないためこの字に改められた由。

さらに菅源太郎ですが、小倉城下の騒ぎを鎮めようとしたことで江戸藩邸用人となっています。尤も彼は城内に幽閉の身となり、実際に動き回ったのは新六でした。その新六も小倉城下に戻る途中で腹を切り、吉乃は新六への思いからか、夫について江戸に行くことはなく、小倉に残っています。祥月命日に舞う風花に、落ちてしまうまでの美しさという美学を貫いた新六を思ったことでしょう。

この風花、山の雪が風に乗って平地まで下りてくるものですが、これが福岡藩だと山から多少距離があるせいか、目にする機会があまりありません。ただ小倉藩の場合、市街地に近い所に足立山があり、冬には冠雪することがあります。吉乃が見たのは、この足立山からの風花だったのでしょうか。尚足立山とは、この作品に登場する霧ヶ岳の別名です。

さらに新六が言っていた「燕の巣」。ちょうど今頃は、燕が巣作りをしてヒナを育てる時期ですが、彼に取っての燕の巣とは、故郷の小倉で自分を受け入れてくれ、安心できる存在のことだったのでしょう。吉乃の真意を聞いた新六は、自分の燕の巣があったことを確信し、心置きなく生涯を全うできたのかも知れません。


飲み物-テーブル上のアイスカフェラテ
[ 2024/05/20 02:30 ] その他 | TB(-) | CM(-)

第19回『光る君へ』武将ジャパンコラムに関するnote記事

では今週も、たけたけさんのnote記事からいくつかご紹介します。いつも通り、ダークブルーの箇所が、武者さんのコラムからの引用部分です。

大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第19回~


人間の性格には向き不向きがあります。
例えば藤原公任や藤原実資ならば、余計な意見は聞かず、過去の事例やら漢籍でも紐解いて決められるかもしれない。

まずここの箇所ですが、やはり「『過去の事例やら漢籍』とは何でしょうか」とあります。さらに藤原公任が知識人であること、父の頼忠が娘の遵子を入内させるも帝の外戚とはなれず、関白を辞した時、関白とは名目のみであったこと、さらに兼家、次いで道隆が関白に就任し、時世を見誤った公任は道兼に接近するが、道長が自分よりも上の地位に昇進したとあります。

また藤原実資も藤原北家小野宮流の家領を継ぎ、故実家や資産家であると同時に良識人でもあったが、本来分派である九条流(道長の家系)に主導権を握られてしまったことが指摘され、氏長者である兼家の家系がトップである以上、いくら過去の事例や漢籍に詳しくても、政権を掌握するのは難しいといったことも書かれています。

何よりも武者さんの場合、過去の事例だ漢籍だと言いながら、それが何であるのか一向に明らかにされないこと、そしてこの後でも出て来ますが、「○○に書かれている」と言いつつ、それがどの箇所でどのように書かれているのか、それも全くと言っていいほど明らかにされていません。

中国文学ですと、『三国志演義』の劉備、『水滸伝』の宋江、『西遊記』の玄奘がこの手のタイプとされます。

これに関しては、道長が陣定に出席することで意見交換を密にしたいと思い、関白になりたがらなかったことで、これらの中国文学の話をするのは必要なのか、何かにつけ中国マウントを取りたいだけなのではないかとあります。

さて、その陣定では、公卿たちが流されてゆく様が見えます。
ずらりと並んだ公卿のうち、政策として「よい!」と確信を持って賛同しているのは、実資と公任ぐらいのように思えます。

ここでは、「帝の仰せのままに」「分かりませぬ」という意見が多数を占めていること、道綱の「帝の仰せのままに」の後に実資が同意を伝えていることがまず指摘され、伊周のみが、二国を許せば他も黙ってはいない、甘やかせばつけ上がるのが民、施しは要らぬと意を唱えているとあります。

実資と公任のみが賛同したわけではなく、他の公卿たちが流されたわけでもありません。また、武者さんは無視していますが、道綱ももちろん賛同しています。

そんな道長と伊周の争いは内裏で話題になっていました。

次の陣定の日、例の争いを聞いた実資が目を丸くし、それを教えた道綱が、内大臣様があまりに不憫で笑いをかみ殺す、実資は興味津々になっているとものの、それ以来伊周と隆家は参内しなくなったという説明がまずあります。

次いで、『小右記』長徳元(995)年七月二十四日条と、七月二十七日条には、道長と伊周・隆家の、修復不可能な溝の深まりの記録があること、そして口論だけでなく、道長と隆家の従者同士の乱闘にまでなり、隆家が内裏への出入り禁止になったということも紹介されています。

道長はきちんと記録しそうにない。
行成は残す。
実際に二人の日記から見える個性を反映しています。

ここではまず、『御堂関白記』と『権記』の違いはともかく、具体的に当時の日記の書式などは紹介しないのでしょうかと疑問が呈されています。また平安貴族は日記をしたためることが多く、男性は日々の思いなどと共に、宮中での儀式や政務の記録を残すのが目的で、主に子孫が儀式などの参考にするために書いたともあり、陰陽師が作ったカレンダーのような「具注暦」に書かれたともあります。道長も使っていたあれですね。
一方女性の場合は、晩年に来し方を振り返る、いわば回顧録形式なのだそうですと書かれています。

また国宝である『御堂関白記』は、この作品の作中から3年後の長徳4(998)年からの記述の、自筆本・古写本・新写本が残っているとあります。

描き方や演出によって騙されそうになりますが、道長陣営もなかなか情報網を張り巡らせた、見方によっては“卑怯な手”を使っていることは考えておきたいものです。

ここでたけたけさんは、道長が情報収集や人間関係を重視していることに触れ、人物の特性を見抜いて適材適所に配置することは卑怯でしょうかとこちらも疑問を呈し、亡き父である兼家の権謀術数や手腕、兄道隆の身内贔屓の弊害などを、目で見て学んだからではないかと結論づけています。
また行成を演じる渡辺大和さんのコメントが紹介されています。行成がこういう人物であったからこそ(これは飲み会の時でも行成自身、道長のために活動することに前向きでした)、道長も使おうと思ったのですね。

おそらく自分の欲、自分自身が力を手に入れたい欲求がそれほどない人物。その代わり、自分が好きな人、信頼している人に認められたいという意欲がある。自分が政治を動かしたいというよりも、一条天皇(塩野瑛久)や道長に仕える者として、どうやったら円滑に物事が進められるかを、すごく考えていると思います。人に喜んでもらえるように頑張る、みたいな。

何も考えずに出仕していたけれど、それでも頭には小さなハゲができていた、と穆子は懐かしそうに語り、母と娘で笑い合っています。

ここでは母子が懐かしむ描写ですが、ここで男女逆のケース、つまり男性が女性の身体的な負の面を話していたとしたら、恐らく武者さんは
「『ドス黒い気持ちにはならないわけではない』と言っていたのではないでしょうか」
という指摘がなされています。

そして嫌いな作品、殊に『どうする家康』では、女性であっても身体的に負の面があるのをしつこくあげつらって、「レーシックお愛」などと極度の近視の人を馬鹿にしていたともあります。
あれは実際ひどかったですね。要は近眼であり、家康と井伊直政を間違えるほどの於愛が、何かで見えるような素振り(実施はそうでなかったにせよ)をしたため、近眼なのにレーシックをしたのかなどと、揶揄するような表現をしたのですね。

身分に関係なく優秀な人間を選ぶことのできる科挙は、のちにヴォルテールが絶賛した制度です。
試験による官僚登用は今にまで残っている。

ここでもまず
「啓蒙思想家ヴォルテールがどの様に絶賛したのか具体的に書いて下さい」
とあります。本当に出典を書きませんね。

で、たけたけさんによれば、当が滅んだ後宋代に科挙の整備がなされたものの、試験を受けられるだけの受験勉強ができる層に限られていたこと、そして試験偏重主義になり、明代では簡便になって貧困層からも官僚となる者が現れる反面、形式重視で真の秀才を得られなくなったことが挙げられています(これはひとつ前の分でも書かれています)。

一方で18世紀のフランスの知識人の間で中国への関心が高まったこと、思想や社会制度に対する評価が様々になされたことが指摘されています。

加えて、これは私も投稿でちょっと書いていますが、蔭位の制があった日本では、高位の者である父祖の位階に応じて叙位されるシステムとなっており、世襲によって自動的に官位が与えられ、科挙に相当する課試は下級貴族から中級貴族に進むための手段であって、律令制の崩壊と共に廃れたことにも触れられています。

あとこの試験による官僚登用とは、今の公務員試験のことを言っているのでしょうか。

ここは、もっと古典的な“菱の実”の類でもよかったような気もします。
金属はまだまだ貴重ですので。

まひろが鋲を踏むシーンですが、たけたけさんはこれに関して、畳の上に上敷きのゴザを止めるための「上敷き鋲」、もしくは装飾用に使用される「太鼓鋲」かと思うと書いています。
また黒沢隆朝氏著の『図解世界楽器大辞典』によれば、鋲止めの太鼓は楽器としてではなく、
「信号具として、飛鳥時代の聖徳太子の時代から鐘とともに用いられていた」
のだそうですとあり、天智天皇が漏刻(時を計るための機械)を作った際に、『時の太鼓』として打たせる様になったこと、さらに大音響で遠くまでその音が届くため、『陣太鼓』として打ち鳴らしたとあります。

そして、作中でも出てきた打毬では、試合開始や毬門に玉が入った合図として太鼓や鐘が打ち鳴らされていたこと、その時に使われていたのは釣太鼓で、これにも皮を留める鋲が使われていたことが指摘されています。

時を知らせる太鼓は『懐風藻』の、大津皇子の辞世とされる漢詩に「鼓声」という表現が出て来ます。この人物は、天武天皇崩御後謀反の疑いありとされ、自害したと言われています。また陣太鼓は昨年の『どうする家康』にも出て来ていますし、『麒麟がくる』ではかかり太鼓が出て来ます。
相撲の触れ太鼓なども、これと似たような意味合いがあると思われます。

あと武者さんの言う「菱」に関して。
たけたけさんは、撒菱(まきびし)は忍具のひとつであり、ヒシという水草の種を乾燥させたもので、どの様に置いても鋭利な先端が上になること、逃げる途中にばら撒いてケガを負わせたり、また追手が踏まないように注意することで、追う速度を落とす為に用いたことが挙げられており、ただ護身用だとしても、後宮の女房や貴族がこういうのを持っているとは思えない、だから鋲を撒くのではないかと書いています。

これは『枕草子』にも書き留められたことであり、かつ道隆と伊周の言動を踏まえると重々しく見えてきます。

帝と定子が使命を果たすために、座をはずしたことについて。

『女を子供を産む道具扱いしている!エロ目線で見ている!』と入内した后が皇子を産む事が勤めである事を度外視したジェンダー論を展開しないのは良い事ですが、自分で文献を提示したならきちんと出典を明記してください。
帝と定子さまが塗籠に入られ、「帝と中宮は重いご使命を背負っている」事についての『枕草子』の出典を具体的に書かないと論議ができません。

とまずあり、出典は『枕草子』100段「淑景舎、春宮にまゐりたまふほど」が出典であると明記されています。
またこの塗籠というのは「ぬりごめ」で、寝殿造の主屋の一部に設けられた、壁で囲まれた部屋のことで、帝が使用するものは夜御殿(よるのおとど)と呼ばれており、プライベートなことに使われる以外に、納戸として貴重品を仕舞う役割もあったという説明がされています。

父を失い、身分が高い割に気軽に抱ける姫になった、お買い得の女性。
(中略)
ところが伊周の場合、手頃で無難な女を抱いてスッキリしているようにしか思えません。

この「お買い得の女性」なる人物、伊周が通う三の君光子(藤原為光三女、斉信の妹)で、父は既になく斉信も出世を道長に保留された状態ながら、伊周が通うことで、道長と伊周の両方によしみを通じて置けるという意味合いがあるという指摘があります。

そして肥前で結婚したさわ(夫が『源氏物語』の大夫監になぞらえられていました)、あるいは光子のような、武者さんに取って自分の理想に合わない男性と結ばれる女性は、汚い言葉で侮辱されることが多いこと、「身分が高い割に気軽に抱ける姫になった、お買い得の女性」「手頃で無難な女を抱いてスッキリしている」は、伊周の『子を産め』以上に、女性への配慮が無く、かなりの侮辱であると記されています。

武者さんて嫌いな作品は言うに及ばずですが、好きな作品であっても、嫌いなキャラに関してはこきおろすようなことをやっていないでしょうか。

道長の意向があるのは既定路線としまして、そこにまひろが帝に意見を具申した結果だという、かなりの力技がありました。
大河ドラマで主役周辺を持ち上げることは往々にしてある定番技法といえます。
それにしても相当無理がある展開といえます。何度も言いますが、作中ではまだ『従五位下』に叙任されたという段階です。

この箇所ですが、まひろの帝に対する行動は、本来なら不敬になりそうなほど強引な
「散位した中流貴族の娘の帝への献策」
とあり、帝が
「低い身分のものでもその試験に受かれば官職を得ることができ、政に加われる」
ことに関心を寄せたからこそ、道長や、為時・まひろ父子の運命が前に進む、そういう展開なのではないかとあります。

そして昨年の『どうする家康』では、家康の正室である瀬名が、世を平和にしたいという理想を抱くも、武田家中の者を引き入れたことで、死を選ぶしか選択がなかったことについて、「ただの理想だけで実が無ければ失敗に終わる」という作中描写を無視し、さもカルトであるかの様に、しつこいくらいに「マザーセナ」と罵倒し続けたことについて触れられています。そしてたけたけさん曰く、

何見氏(=武者さん)は嫌いなタイプの女性ならいくらでも残酷に踏み躙る人物だと言う事が分かります。

尚この上記のシーン、まひろが高貴な人々の政に関して、思い切ったことを述べたため、定子が口が過ぎると戒めるシーンがありました。帝は受け入れましたが、本来はこのようなことを進言するなど考えられないものではあったのでしょう。

こうしたドラマのテーマを踏まえると、この藤原伊周と藤原隆家の兄弟は実像というよりも虚像の側面が強く、あえて悪どく描かれていることは踏まえた方が良さそうです。
『枕草子』とは正反対、どぎついまでに貶められた気の毒な造形です。
そうはいっても、実は演出や見る側の偏見もあります。
道長側だって、現時点でかなり陰湿で卑劣なことをしている。

枕草子を書いた清少納言は中関白家サイドであり、「定子さまのために」敢えて表の政を見せなかったり、登華殿の栄華を美しく書きたいという面もあったでしょうとまず前置きされており、しかる後に、主人公は道長の娘である彰子に仕え、『紫式部日記』に於いて、清少納言を辛口で批判した紫式部=まひろであると書かれています。

無論
「これから人物の関係性や人物像が変化する事もあるでしょう」
ともあり、また花山院を弓矢で射た事件については『小右記』や『栄花物語』の描写よりも、だいぶマイルドに描写されていることなども指摘されていて、『枕草子』だけでなく、『小右記』『御堂関白記』『権記』などの貴族の日記、『紫式部日記』、『大鏡』、『栄花物語』などの文献も合わせて見た方が良いのではないかともあります。

そもそも紫式部と藤原道長がメインであるこの大河で、なぜ『枕草子』視点のみで物事を見ようとしているのか疑問です。『源氏物語』『紫式部日記』を基準にしているのであればまだわからなくもありませんが。

そして武者さん、道長が汚いことをしているとここでも書いていますが、情報収集や人間関係の構築、根回しなども政には必要であると思われます。中関白家に寧ろそれがなかったのでは。

柄本佑さんは誠意があるのか、いい加減なのか。
融通が利かないのか、結局ゆるいのか。
どちらにも取れるため、より不可解に見えてきます。

これだと道長でなく柄本さんが、いい加減なのか融通が利かないのかわからないと言いたいように取れると、たけたけさんは書いています。
私もそれに似たようなことを書いていますが、道長と書くつもりが何かで柄本さんになったのでしょうか。

そして束帯関連でこのような記述があります。

因みに、束帯は官位によって袍(上着)の色が違います。
風俗考証・佐多芳彦氏によると、『光る君へ』では、四位以上が「黒」、五位が「赤」、六位と七位が「緑」という平安時代中期の装束を採用しているそうです。

『真田丸』で信幸と信繁の兄弟が、赤の束帯を着用していたのを思い出します。
ちなみに平安時代以降、重要な儀式に天皇陛下が着用される束帯装束として、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)があります。

長徳の変を告げる中関白家兄弟が花山院を矢で射た事件。
藤原実資卿の『小右記』長徳二(996)年正月十六日条には『右府(道長卿)の書状に云ったことには、『花山法皇は、内大臣・中納言隆家と、故一条太政大臣(藤原為光卿)の家で遭遇した。闘乱が行われた。隆家の従者は御童子二人を殺害し、首を取って持ち去った』ということだ。』と作中描写よりも凄まじい事件の様子が伺えます。

『小右記』よりもかなりアレンジされていますね。
あと宋人たちが越前国に送られたいきさつについて、氣比の松原付近にあったともいわれる「松原客館」に送られたようで、元々ここは渤海の使節団と迎えるための迎賓・宿泊施設であり、延長6(928)年に渤海は滅亡したものの、宋の商人や官人を迎えるためにこの施設は機能したとあります。また能登にも同じような施設があったとのことですが、生憎はっきりした所在地がわかっていません。

飲み物-カクテルオレンジ
[ 2024/05/20 01:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

『光る君へ』第19回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-3

第19回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその3です。


望みは大胆なほうが目に留まる。もう10年目であるとはいえ、千仞(せんじん)の谷に飛び込むつもりでやってみてはどうか、と強気なまひろです。
(中略)
まひろは臆病なのか大胆不敵なのか、振り幅が極端な性格ですね。

この千仞(千尋)の谷云々、今で言えば清水の舞台から飛び降りると言ったものでしょうが、まひろの性格が振り幅が極端と言うよりは、先日も書きましたが、自分の理想に合うものを追い求めるたちなのではないでしょうか。それが場合によっては大胆な方向に向かい、また別の場合は自分の中に封じ込めるのではないかと思われます。

(為時は)宮中で娘がおかしくなったといささか呆れ気味です。
確かにこれで何か火がついたとすれば、清少納言としてはしてやられてしまったのかもしれません。

清少納言は中宮定子にまひろを紹介したわけであり、彼女と何かを競っているようには見えなかったのですが、何が「してやられた」となるのでしょうか。

『枕草子』で描かれるキラキラと輝く伊周が、これでもかと言わんばかりに光らなういようにヤスリをかけられているように思えます。特に女性関係では顕著です。

この大河は主人公であるまひろ=紫式部、そして道長の目線が中心となっているはずです。中関白家の先代当主である道隆は民を顧みず、また伊周は道長と対立する関係にある以上、どうしてもこういう描かれ方になるでしょう。清少納言が主人公であればまた別ですが。

ところが伊周の場合、手頃で無難な女を抱いてスッキリしているようにしか思えません。
さらには公任の白い顔と、実資の輝く黒い瞳も思い出してしまいます。
公任は女を抱く以外にも、教養を高めることが楽しくて仕方ありません。
実資だって、ゴシップを集めつつ、先例はどうかとサッと当たる知性がある。

ひとつ前に書いていますが、この作品での伊周はそういうキャラ設定なのでしょう。
そして「思い出してしまいます」というのは、誰が思い出すのですか?武者さんですか?ならばそれをわからせるように書いてください。これではメモ程度にしか見えません。

そして何よりも、道長に近い立場である、あるいは道長を客観的に見ることができる公任や実資の描き方と、道長を敵とみなして対立し、妹の定子に皇子を産めと迫る伊周の描き方は違っていて当然です。ただこの回の場合、公任が女を抱くシーンは出て来ませんし、実資が「ゴシップを集める」のは道長と伊周の件でしょうか、ならば道綱経由ですね。

あと行成にも俊賢にも武者さんはここでは肯定的ですが、それに比べて伊周はこんなに魅力がないとあります。そのような設定になっているから当然なわけで、寧ろなぜそのような設定にされているのかを考察するのが、武者さんの本来の仕事ではないのでしょうか。

そして行成に関して
「おっとりしているようで能書家であることを生かせる切れ者です」
とありますが、能書家であるが故の、女性たちとの交流を利用して情報を集めるというのは、行成が自分から言い出したわけではなく、公任のいわば推薦です。この場合本当の切れ者は公任でしょう。
また俊賢も
「計算高いといえばそうです。その賢さが魅力であると言える」
とあるのですが、その俊賢を除目で参議にしたのは道長であり、道長の人を見る目もまた評価されてしかるべきでしょう。

帝は、優秀な者を起用すべきだという意見を面白がり、道長にどうかしたかと問いかけます。
恐れ多いことを申すものだと返すしかない道長。
帝はなおも、あの者が男であれば登用してみたいと言い出しました。
これはなかなか重要で、まひろの考えを参照にすれば道長の安泰ははかれるということですね。

この最後の行
「まひろの考えを参照にすれば道長の安泰ははかれるということですね」
これ「参照」より「参考」の方がよさそうな気がするのですが。
そしてなぜ「道長の安泰がはかれる」のか、ちょっと説明不足な気がします。つまり帝は、まひろが言うように試験で優秀な者を起用する方法を採り入れれば、今後の道長の地位は安定するということでしょうか。

伊周にしてみれば「関白になれないから女に軽んじられるんだ!」と嘆いています。
果たしてそれだけが問題なのか。関白の件で精神状態が悪いことは確かなようです。

「関白になれないから」の前に、隆家から揶揄するようなことを言われたのも、伊周には気に障ったのでしょう。
あと「精神状態が悪い」より、気がふさいでいるとか、面白くないとかいった表現がありそうな気がします。

誰か確かめるだけでもいいからと、兄をせかして、光子の元へと向かいます。
そして出てきた男に矢を放つ隆家。
いやいや、思い切りが良すぎでしょうよ。
怯えていたのは花山院でした。
院を気遣う声を聞き、異変を察知する兄弟。
【長徳の変】の始まりでした。

ここのところも端折り過ぎではないでしょうか。
このシーン、観たままを逐一書いてみます。

まず2人で一条殿に押しかけたところ、まだ牛車が止まっています。にもかかわらず隆家は弓に矢をつがえるわけですが、伊周はよせと言い、邸内から出て来た人物を目にします。しかし調子に乗った隆家は、矢をその人物に放ってしまいます。
のけぞったのは僧形の人物でした。隆家は脅かしただけだとどや顔ですが、慌てて出て来た斉信が「院」と何度も口にするのを聞き、2人はただならない事態になったことを察します。

武者さんの文章だと、「思い切りがよすぎる」とあり、これでは隆家が花山院とわかっていながら矢を放ったようにも取れますし、伊周が一度は制止しているのに、それも書かれていません。そして出て来た斉信が、「院」と何度も叫んでいるのも書かれていませんね。

そして為時の越前国司就任は、帝が為時の対句を詠み、為時が感動したという話があると伝わるものの、史実とは思い難い(ならば、それを裏付けるものを見せてください)とあって、

ただ、歴史劇における強引な展開は、作者の描きたいメッセージが何かを考えることも重要でしょう。
このドラマは身分制度の理不尽が強調されているように思えます。
実力主義で人が登用されないことはなぜか?
そう問いかけているのでしょう。

「歴史劇における強引な展開は、作者の描きたいメッセージが何かを考えることも重要でしょう」
昨年武者さんは、徳川家康が弱くて戦嫌いな人間であり、家臣に説得されるという描き方を散々駄作呼ばわりしていました。のみならず、瀬名の戦ではなく互いに助け合うという発想も、カルト呼ばわりしていました。
結局こういう考えが、戦のない徳川幕府を作ることへとつながって行くのですが、そういったメッセージははなから無視しましたね。

結局、まひろの語る科挙のある国という夢は長いこと叶いません。
今でこそ試験で官僚を選抜するとはいえ、そもそもがスタートラインに差があるということを、朝ドラの『虎に翼』がつきつけてきました。
日本は政治家はじめ、世襲権力者が多い国とされます。
実力が認められる世界は、いつ実現するのか――そんな今も変わらぬ問いを突きつけたい、そんな挑戦を感じさせる作品です。

朝ドラとか政治の話なら、別コラムでやって貰えませんか。朝ドラはnoteがあるはずですよね。
ただ私は、日本は実力が全く認められていないとは思いませんが。

そして何よりも、先日のたけたけさんのnote記事にありましたが
『大河ドラマを現代思想を絡めて見るとおかしくなるので、時代背景を踏まえて論評しろ』
と、ここで言っておきたいです。

そして逆MVPとかで、伊周と隆家の兄弟が挙げられていますが、

こうしたドラマのテーマを踏まえると、この藤原伊周と藤原隆家の兄弟は実像というよりも虚像の側面が強く、あえて悪どく描かれていることは踏まえた方が良さそうです。
『枕草子』とは正反対、どぎついまでに貶められた気の毒な造形です。

「藤原伊周と藤原隆家の兄弟は実像というよりも虚像の側面が強く」
これはドラマです。必ずしも史実に沿っているわけではありません。
史実に沿うのであれば、武者さんが好きな公任や実資の描かれ方も、いくらか違っているはずですし。

そうはいっても、実は演出や見る側の偏見もあります。
道長側だって、現時点でかなり陰湿で卑劣なことをしている。
道長がまだ彰子を入内させていないから目立たないこともあるでしょう。
よってこの先どうなるかは全く読めない――見る側も騙されているのかもしれません。

武者さんてこのドラマ好きなのですか、それとも好きでないのですか。
図らずも、一条天皇が道長に対してぶつけた質問のようなことを考えてしまいました。道長が陰湿で卑劣などとありますが、伊周に代表される中関白家を越えるためには、多少まともでない手を使う必要もあると思い、源俊賢を使ってああさせたわけでしょう。その俊賢を、武者さんは少し前に賢いと書いていましたが。

それから
「よってこの先どうなるかは全く読めない――見る側も騙されているのかもしれません」
この先どうなるかは読めないと書きつつ、今後はこうなるのではないかなどと以前書いていましたが、どちらなのでしょうか。そして騙されているという書き方もどうかと思います。このドラマでは主人公が誰それだからこのような描かれ方をしている、このような演出になっているとわきまえて観ている人もいるでしょうし、ドラマの楽しみ方とはそういうものでしょう。


飲み物-ワインと樽2
[ 2024/05/19 01:30 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

北九州と福岡と その20(それぞれのバラ)

現在「それぞれの駅」について投稿していますが、今日はちょうど季節ということもあり、それぞれの都市のバラについてです。

まず北九州は響灘緑地グリーンパークです。花や緑に関する施設はもちろん、キャンプ場やBBQ広場、ポニーやカンガルーと触れ合える広場、実物大の恐竜が声を上げて鳴くディノパーク、さらには様々な遊具があります。「世界最長のブランコ」もあるとのこと。

そしてバラ園ですが、花や緑に関する施設の1つで、オールドローズをはじめ大きく6種類に分かれており、そのそれぞれに様々な品種があります。また皇室や世界の王室ゆかりのバラも栽培されていますし、バラ育成に大きく貢献した鈴木省三氏のコレクションも見ることができます。

このグリーンパークは若松区にあり、車、バス、電車のいずれかのアクセス方法が選べます。尚バスはバラ園のバラフェア開催中(2024年は5月11日から6月9日までの土曜と日曜)は臨時バスも出ています。電車はJR鹿児島線から折尾で若松線に乗り換え、二島駅下車でバスまたはタクシー利用です。

書いていて思うのですが、福岡市の「うみなか」こと海の中道海浜公園にちょっと似ているように思えます。ただしうみなかはバラ園もありますが、このグリーンパークほど大規模ではなく、寧ろマリンワールドなどの施設の方が有名と言えるかも知れません。
(北九州市広報室アカウントより)

そして福岡、こちらは福岡市植物園です。正式には福岡市動植物園で、南公園と呼ばれることもあります。植物園エリアは動物園の東にあり、樹木や水生植物に特化した見本園、ハーブ園、野草園、郷土樹木園(西日本の郷土種を用いた展示・見本園)など、植物園ならではの趣向が凝らされています。

バラ園は植物園エリアの南東部に位置しています。グリーンパークほど大規模ではありませんが、バラ園には原種バラをはじめ8種類のバラが揃っています。この原種バラとは、北半球に自生しているバラのことで、ナニワイバラなどがこの原種バラになります。

もちろんそれ以外にも、衣通姫や天津乙女、ダブル・デライトやグラハム・トーマス、アイスバーグなどといったバラがあります。また皇室・王室関連のバラも植えられています。

植物園へのアクセスは車も利用できますが、公式サイトには「土日祝日は激しく混雑します。公共交通機関をご利用ください」とあるので、車でなくバスまたは地下鉄利用がいいでしょう。地下鉄の場合七隈線の薬院大通が最寄り駅で、ここから徒歩で約15分です。ただし動植物園は丘陵地帯なので、行きは上り坂となる点にご注意ください。

そして春のみならず、秋もまたバラが見頃を迎えます(これはグリーンパークも同じ)。実は秋のバラのシーズンに、植物園まで行ったことがあるのですが、この時もなかなか見事な眺めでした。この時期は入口のキンモクセイも芳香を放っています。

(福岡市アカウントより)
[ 2024/05/18 01:00 ] その他 | TB(-) | CM(-)

『光る君へ』第19回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-2

第19回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその2です。


俊賢は帝の意向として、右大臣に歯止めをかけるに内大臣を重視し、陣定にいて欲しいと思っていると伝えます。
さらに俊賢は、蔵人頭として仕えたからには目に狂いはないと言い切る。職権濫用にも思えますが。

「俊賢は帝の意向として、右大臣に歯止めをかけるに内大臣を重視し、陣定にいて欲しいと思っていると伝えます」
ここのシーンの俊賢のセリフです。

帝も、内大臣様のことを案じておられました。
右大臣様に対抗する力がなければ、内裏も陣定も偏りなく働かぬと、帝はお考えなのではありますまいか?

つまり、右大臣道長だけだと偏りが出てしまう、そのためにも内大臣である伊周にも、対抗勢力としていてほしいと帝はお考えだ、俊賢はそう言いたいのではないでしょうか。「歯止めをかける」という表現は出て来ません。

あと「帝がそう仰せになったのか」と伊周に尋ねられた俊賢は、こう答えています。

そのようにお見受けいたしました。
つい先頃まで蔵人頭として、帝のおそば近くにお仕えしておりましたので。私の目に狂いはござりませぬ。

つまり蔵人頭として、帝の近くに侍っていたから、何をお考えであるかはわかる、私の目に狂いはないと、ちょっと凄みを利かせるような言い方をしています。ただこれが職権濫用であるとは思いません。俊賢は、あくまでも自分の経験をもとに語っていると思われます。

しかし彼は何重にも罠をかけてきている。失脚した源氏であるということをうまく活かし、道長に従うわけではないと装う。そのうえで帝の意向まで伝えてくる。

だから道長が、今の自分に必要な人材だと思ったわけでしょう。この筋書きを道長が書いた、あるいは、道長と俊賢の合作であったとしてもおかしくはなさそうです。

実際に帝が言ったかどうかは不明なれど、蔵人頭だと言われてみれば信ぴょう性は増すでしょう。それでも確たる根拠などなく、じっくり問い詰めればボロが出そうなものです。

じっくり問い詰めると言っても、伊周が問い詰めそうなことは、既に俊賢が話してしまっていると思うのですが。うまく先を読んでいますね。

なんでも若狭に70人もの宋人がきたことが話題になっています。
これが当時の外交のやる気のなさといえるところです。そんなに驚くならば、あらかじめ警護でも管理でもしておけばいいのに、後手後手で対応しきれていない。

この時は「宋人」とあるだけで、どのような人物なのかは明らかにされていません。
そしてこの当時既に遣唐使は終わり、宋とは私貿易が行われていましたが、国交はありませんでした。そして若狭に現れたものの収容施設がなく、大国であった越前の施設に移されています。

確かに70人も来たことは由々しき事態でありますが、この時点で軍隊を率いていたとか、地元住民を脅したということはわからず、警護や管理の不行き届きと見るべきなのかどうか。ならばどのような方法がいいと武者さんは考えているのでしょうか。

非武装の70人程度を対応できなくて、国としてどうなのか。遣唐使のころと比べるとあまりにお粗末です。
藤原為時は家で紙に向かっていました。
いとが、申し文(自己推薦状)の季節になったのか?と問うと、為時に嫌味かと返され、慌てて否定しています。

どのような人物かがこの時点で明らかになっておらず、「非武装」であるかどうかはわかりません。
恐らく武者さんが言いたいのは、遣唐使の頃(と言っても長いのですが、ここでは天智天皇の治世3年)、恐らく日唐関係修復のためにやって来た郭務悰のことでしょうか。ならばそう書いてほしいものです。
ちなみにこの人物、何度か日本を訪れていますが、この5年後の669年には2000の大軍を連れてやって来ます。この時は日本に駐留し、やがて天智天皇崩御の後に贈物を与えて帰国させています。

それと藤原為時。
この時いとは「また」申文の季節になりましたんですねと言っています。それが為時には、毎年毎年申文を書いているのに任官されない、そういう自分への嫌味と取れたのでしょう。

清少納言がまひろのもとへ遊びに来ました。
ききょうの予想に反して右大臣こと藤原道長は大したものだとか。

最初は清少納言、次はききょうとなっていますが、どちらかに統一するか、あるいは最初に「清少納言(ききょう)」として、その後はききょうで通すかでいいと思います。

疫病のために租税を免除したと聞かされ、まひろも喜んでいます。
ここの反応が興味深い。租税免除にこうも反応しているのは、実資、公任、そしてまひろです。

ききょうが租税免除のことを教えるシーンでは、まひろは「そうですか」とだけ言っています。
あと陣定で、道綱も租税免除について納得したような表情をしていましたね。

さらに話題は若狭の宋人70人のことへ。小さな若狭では対応できないとなると、道長は受け入れ先を越前にすると素早く決断しました。

まずここですが、なぜ若狭でなく越前だったのかと言うと、先ほども書きましたが、越前は律令制で言う「大国」であったことも関係しているでしょう。

するとまひろは、身分に関係ない官僚登用制度である【科挙】のことをいきいきとして話し始めました。
呆気に取られた清少納言は、そんな話は殿方に任せておけばいいと言いきる。

宋人70人のことを聞いて、宋人とはどのような人たちかとまひろはききょうに尋ねますが、ききょうもよくわかってはいません。しかる後にその宋関連で、宣孝から聞いた科挙の話をするわけですが、この時まひろは科挙の制度を帝と右大臣様に作っていただきたいとまで言ったため、ききょうがすごいことをお考えなのねと驚いているのですね。

まひろの賢さはずば抜けているかもしれません。
身分に関係なく優秀な人間を選ぶことのできる科挙は、のちにヴォルテールが絶賛した制度です。試験による官僚登用は今にまで残っている。

この場合のまひろは言ってはなんですが、賢いと言うより、自分の理想に合うものを追い求めるような人物に見えます。
あと、ヴォルテールが科挙を絶賛したことが何に記載されているのか、出典をお願いします。

廊下を歩いていると、足元に痛みが走ります。見れば鋲のようなものがあって、踏んでしまったのです。
ここは、もっと古典的な“菱の実”の類でもよかったような気もします。金属はまだまだ貴重ですので。

この当時は既に地方では武士が出て来ており、彼らの甲冑には鋲が使われています。また建築物や、太鼓の皮と胴を止める
のにも、鋲が使われていますね。

どこへ行くのだろうか……とまひろが不思議がっていると、清少納言が真剣な顔つきで「帝と中宮は重いご使命を背負っている」と答える。
これは『枕草子』にも書き留められたことであり、かつ道隆と伊周の言動を踏まえると重々しく見えてきます。
(中略)
中宮様は決して愛されていなかったわけではないと永遠に残すため筆を執り、このことを記したようにも思えてきます。
清少納言の忠義は篤い。
『鎌倉殿の13人』でわかるように、これから先、武士にも忠義はなかなか根付きませんでした。
しかし彼女には揺るぎないそれがある。実に清々しい女性ではないですか。

所領が絡む鎌倉時代の坂東武者の忠義と、ききょうのそれとは明らかに違いますね。
それと清少納言は「永遠に残すため」に枕草子を書いたのでしょうか。

実は日本でも、科挙を導入しなかったわけでもありません。
しかし根付いていない理由は単純、実力重視となると自分たちにとってうまみがないと名門たちが気づいたのです。
その結果、実力重視で出世した者は菅原道真を最後とし、あとは形骸化してゆきました。

元々日本には蔭位の制というものがあり、父祖が高位の場合、それに応じて一定以上の位が与えられていました。尚この蔭位の制は、元々中華帝国にあった門蔭の制から継承されたと言われています。かの国でも父祖に功績があれば無試験でも官職に就けたようです。

そしてその後、大学寮だけが残ったものの、名門貴族は熱心に学ばなくても出世はどうにでもなると書かれています。
大学寮の没落の原因は律令制の形骸化や、遣唐使廃止による中華圏の文化への関心の喪失、さらには本来この試験の対象となるべき中流以下の貴族の零落などがあります。

しかもその大学寮だって、名門貴族は熱心に学ばなくとも、出世はどうにでもなります。
定子がまひろをたしなめたのは、こうした事情を踏まえたからかもしれません。
彼女のとって見れば複雑な感情を抱く話でしょう。

この時まひろは
「(下々が望みを高く持って学べば)高貴な方々も、政をあだおろそかにはなされなくなりましょう」
と言っています。
その後、帝がちょっと苦笑するような表情を見せています。その様子を見た定子が、言葉が過ぎるとまひろに注意しているわけですから、その言葉は、そういう高貴な方々である帝に対して不敬であるという意味があったのでは?

それにしても、結果的にいえば才能による抜擢を採用しないことが後々響いてきます。
不満を持った大江広元のような才知あふれる貴族が、行き詰まりを覚えて坂東へ向かってしまうのですから。

大江広元は兄の中原親能が、頼朝と親しかったからであるからと言われています。

遊ぶような、試すような、軽やかな音楽が場面を彩ります。今年の劇伴は本当に美しい。

嫌いな作品なら
「ピアノがピロピロ」
「ストリングスがうるさい」
「耳に悪い」
好きな作品なら
「軽やかな音楽」
「本当に美しい」
武者さんてこのどちらかですね。

伊周は、ご心配をかけたと謝りつつ、まひろに目を留めると、清少納言が、我が友で今下がるところだと言います。はからずも帝のそばに御する誉だと述べるまひろ。

「帝のそばに御する誉」
ではなく、
「帝のおそばに侍することがかないまして、一代の誉れにございました」
ですね。

飲み物-ワインのデキャンタとグラス
[ 2024/05/17 23:45 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

『光る君へ』第19回に関する『武将ジャパン』大河コラムについて-1

第19回に関する『武将ジャパン』大河コラムについてその1です。


藤原道長が甥の藤原伊周を超え、ついに内覧できる右大臣となりました。
公卿の頂点に立った道長に、帝は、関白になりたいのかと尋ねます。

内覧はこの場合役職の意味であり、内覧兼右大臣と考えるべきではないでしょうか。
あと帝は「なりたいのか」ではなく、このように尋ねていますね。
「そなたはこの先関白になりたいのか、なりたくないのか」

そして、道長の政治スタイルは、当人にとっての特技をふまえたものでもあったのだろう、性格による向き不向きがあると書かれており、

例えば藤原公任や藤原実資ならば、余計な意見は聞かず、過去の事例やら漢籍でも紐解いて決められるかもしれない。
道隆はそういう特技はないのに、独裁を進めてしまいました。

その「過去の事例」「漢籍」とは具体的にどのような事例、どのような漢籍で、またどのように決めるのでしょうか。それが何も書かれていませんね。
そして「余計な意見は聞かず」というのは、要は陣定を無視するということでしょうか。それもないと思います。また、道隆にそういう特技はないという根拠は何でしょうか。

一方、道長はコミュニケーションが得意であり、自分の思う通りに空気を作りやすい。
ただ流されているだけかもしれないのに、道長と同じ場にいたものは「まぁ、俺も賛成したっけな……」と自分の意思があったかのように思ってしまう。

この回の陣定の場合は、公卿たちの中関白家への反発もあるのではないかと思います。

中国文学ですと、『三国志演義』の劉備、『水滸伝』の宋江、『西遊記』の玄奘がこの手のタイプとされます。
突出して能力があるわけではない人間が上に立つと、下にいる者たちは動きやすくなる。一種の理想的なタイプとされます。

また漢籍ですか。
ならば『三国志演義』の劉備、『水滸伝』の宋江、そして『西遊記』の玄奘がそれぞれどのように「決して能力があるわけではなかった」人物なのか、そして下にいる者がどのように動いたのか、具体例をまず挙げるようにしてください。
でないと、武者さんの自己満足でしかありません。

白居易の人気は平易かつ甘い作風にあったとされます。そんなスイートな魅力でなく、政を見出しているまひろの視点が渋い。

これも白居易(楽天)の「平易かつ甘い作風」はどのような作品に顕著なのか、それをまず書いてください。
そしてまひろ=紫式部は、『新楽府』を写しているから政に触れているわけですが、実際の紫式部は『源氏物語』に『長恨歌』を採り入れたりもしています。

それにしても、道長にもあてはまることですが、この作品は紫式部の性格のおける欠点をどうするのか気になってしまいます。
『源氏物語』にせよ『紫式部日記』にせよ、本作のさわや清少納言がそれらを読んだら、怒りそうな描写があると思えます。
さわの選択肢は極めて現実的でまっとうです。しかし、『源氏物語』には大夫監(たゆうのげん)という、肥後のオラつき脂ぎった男が出てくるんですよね。

「性格のおける」は「性格における」でしょうか。
そしてその欠点というのは、具体的にどのようなものですか。また『源氏物語』や『紫式部日記』のどの部分がさわや清少納言を怒らせるのか、その部分の指摘はないのですか。
(『紫式部日記』の、清少納言についての箇所は有名ですが)

あと大夫監は肥後の豪族ですが大宰大監ですね。玉鬘を妻にしたいと諦めなかった人物ですが、玉鬘自身はこの人を嫌っていました。

さて、その陣定では、公卿たちが流されてゆく様が見えます。
ずらりと並んだ公卿のうち、政策として「よい!」と確信を持って賛同しているのは、実資と公任ぐらいのように思えます。

「政策として『よい!』と確信を持って賛同しているのは、実資と公任ぐらい」
武者さんのひとりよがりのように見えるのですが。
まず「帝の仰せのままに」と答えている公卿は6人います。藤原誠信、藤原公任、藤原道綱、藤原実資、藤原顕光、藤原公季で、このうちのいずれも「流されて」いるようには見えません。
そして実資は道綱が笑みを浮かべながら、「帝の仰せのままに」と言うのに続いて「同じく」と答えています。

短い場面で、これだけで聡明さが際立つこの二人はやはりものが違う。
実資の目に光がキラッと輝く。公任は白い顔そのものがふっと浮き上がるように見える。知性の光があります。

好きなキャラだからそう見えるのでしょうし、また道長に近い存在だから、そのように描かれているのではないでしょうか。
そして伊周がこの税の免除に反対するシーンですが、

伊周は論陣を貼ります。
二カ国を認めてしまえば、それだけにはおさまらない。他の国も減税を申し出るであろう。税収を減らすことは朝廷のためにならぬとして、民に施しは不要だと断言しています。

「税収を減らすことは朝廷のためにならぬとして、民に施しは不要だと断言しています」
とありますが、
「そのようなことで朝廷の財を減らしていいのか、甘やかせばつけ上がるのが民、施しは要らぬと存ずる」
ですね。なぜ朝廷の財が減るのか、その理由が書かれていません。しかし伊周、「甘やかせばつけ上がる」などと言う辺り、父道隆の民軽視をそのまま受け継いでいるかのようです。

あと「論陣を貼る」ではなく「張る」ですね。

この展開は、現在にまで通じる税の話になって興味深いですね。
コロナ禍などの苦難に際してどこまで支援するか、減税するか。そんな議論も思い出します。

コロナ禍の支援金はともかく、現在までに通じる税の話というのは、ちょっと大雑把ではないでしょうか。
ついでながらコロナ禍と言えば、また新しい変異株が現れているようです。

道長がこのあと、疫病に苦しむ民を救うのは上に立つものの使命だと返します。
実資も、公任も、これには納得。道長は皆の意見を伝えると言い、他の意見がなければこれまでとすると締めます。

道綱も納得したような顔をしていますね。好きなキャラではないかも知れませんが、ちゃんと観ましょう。

道長は、実資と公任ほど、自分の理論に自信がないのかもしれません。
自分の意見を披露して、この二人が納得していればよしとする。そう反応を見たいからこそ、関白になりたくないのかもしれません。

ここがよくわからないのですが。
まず自分の意見を披露するのではなく、帝がこう言われたけど、皆の意見を聞きたいというのが陣定でしょう。
そして道長がこの陣定で一番確認したかったのは、自分に同意する人たちの反応ではなく、伊周の反応だったのではないかと思われます。
そしてこの場合の実資や公任の理論とはどのようなものですか。

このやりとりを見ていると、先程の伊周の指摘も、あながち間違ってはいません。道長は、詮子の言う通りにはならないようで、積極的には止めてはいない。敵からすれば全くもって許せない行動となってもおかしくはない。
柄本佑さんは誠意があるのか、いい加減なのか。融通が利かないのか、結局ゆるいのか。どちらにも取れるため、より不可解に見えてきます。

まず。
この伊周の指摘というのは、女院を使って帝をたぶらかしたという指摘です。つまり、伊周でなく道長を公卿のトップにさせたことを指しています。
そしてこのやりとりというのは、陣定後の一件の後、詮子が除目にこの人物を入れてくれと頼んで、道長が断るのを指しています。つまりこちらの方はあの一件の後の話であり、伊周の「女院を使って帝をたぶらかした」とは異なるもののはずですが。
あと急に「柄本佑さんは」と話が切り替わっていますが、これは柄本さん自身ではなく、柄本さんが演じる道長のことを指していると思われます。その辺りが、ちょっと紛らわしいですね。

若い頃、打毱を楽しんでいたころとは違う公任。
いい男になりました。少し枯れて、人生を知性を伸ばして生きていこうと願う姿は実に見事で素晴らしい。

元々公任は道兼と接近しており、これより少し後に道長に接近するようになったとも言われています。そして詩歌や読書や管弦を楽しみたいというのは、『拾遺集』の撰者であったこととも関係しているでしょうか。

なかなか汚いですね。
確かに睦言で秘密は漏れると『麒麟がくる』の斎藤道三も語っておりました。それを能筆を餌にして引き摺り出すわけですか。
「私で力になれるならやります!」

道長が行政官のトップとなったため、それなりの人材を揃えて情報を仕入れる必要があり、そのための策と言えるでしょう。尤も、これを提案したのは公任ですが。

一方、参議になりたい斉信に対して道長は、今回は源俊賢を優先すると謝ります。俊賢も斉信も同じ蔵人頭なのになぜかというと、源の血筋だからとのこと。
自分の思うままに人事を進めていく道長は、それほど清廉潔白でもないように思えてくる……。
と、行成はさっそく秘密の情報を掴んできました。

「自分の思うままに」とありますが、別に道隆のように極端な身内びいきではないと思われます。
そして
「源の血筋だからとのこと」
道長は源の血筋だから俊賢を選んだのではありません。その次のセリフに
「されど、目指すもののためには、その誇りを捨て去ることができる」
とあり、これが彼を参議とした理由であると思われます。

描き方や演出によって騙されそうになりますが、道長陣営もなかなか情報網を張り巡らせた、見方によっては“卑怯な手”を使っていることは考えておきたいものです。

これが「卑怯」であるのかどうか。
一筋縄では行かないからこそ、こういう手を使う必要もあるわけです。
そして「騙されそうになる」とは、「何に」騙されそうになるのでしょうか。


飲み物-注がれるワイン
[ 2024/05/16 01:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

23-24リーグワンプレイオフと入替戦1

リーグワンのプレイオフと入替戦について。

5月18日
プレイオフ(準決勝)
埼玉ワイルドナイツ ー 横浜キヤノンイーグルス

ディビジョン1&2入替戦
浦安D-Rocks ー 花園近鉄ライナーズ
豊田自動織機シャトルズ愛知 ー 三重ホンダヒート
グリーンロケッツ東葛 ー ブラックラムズ東京

5月19日
東芝ブレイブルーパス東京 ー 東京サンゴリアス
日テレ関東地上波

ディビジョン2&3入替戦
日本製鉄釜石シーウェイブス ー クリタウォーターガッシュ昭島

18日のワイルドナイツとイーグルスの試合は、BS日テレで中継(14時~16時)されます。19日のブレイブルーパスとサンゴリアスの試合は「関東地方のみ」日テレ地上波で中継となります。


飲み物-冷えた生ビール
[ 2024/05/15 22:00 ] ラグビー | TB(-) | CM(0)

『光る君へ』第19回「放たれた矢」あらすじと感想-2

第19回後半部分です。


宋人70名の知らせに、陣定の場に緊張した空気が走る。一方その頃、為時は申文をしたためていた。また申文の季節になったのですねといと。嫌味かと言われ、とんでもないと答えるいとだが、為時はだめもとで既に10年も申文を書き、結局任官されず、これを最後にしようと考えていた。思わず涙するいとに為時は、泣くことはない、あれもこれも人の世じゃと言う。その為時の家を、またききょう(清少納言)が訪れていた。

洗濯物を干すまひろにききょうは、新しい右大臣(道長)に望みは持てないと思っていたが案外頑張っていて、疫病に苦しみ民のために税を免除したりしていると話す。またききょうは若狭に宋人70人が来たことに触れ、若狭は小国ゆえ色々不都合で、道長が受け入れる館のある越前に送るよう帝に奏上し、それが実現したのである。素早いご決断に皆感心したと嬉しそうに話すききょうに、まひろは宋人とはどんな人たちか尋ねる。

ききょうもよくは知らない様子だった。まひろは宣孝から聞いた科挙の話をして、身分の壁を超えることのできるこうい制度を、帝と右大臣様に作っていただきたいと言う。ききょうは驚いたように、まひろ様てすごいことをお考えなのね、そんなのは殿方に任せておけばよろしいではないかと言い、また自分は中宮様のおそばにいられれば幸せとも言う。それを聞いたまひろは、ききょうがそこまで魅せられる中宮様に、自分もお目にかかってみたいと話す。

中宮様の後宮においでになりたいのとききょうは尋ね、参れるものなら参ってみたいとまひろは答える。簡単ではないが、まひろは面白いことを考えるので、中宮様がお喜びになるかも知れないとききょうは乗り気になる。是非お願いしますと頭を下げるまひろ。そしてまひろは十二単に身を包み、ききょうに導かれて中宮定子の御前へ向かうが、廊下に落ちていた鋲状の物を踏んでしまう。

ききょうは何か踏まれましたとまひろに尋ね、こうした嫌がらせは内裏では毎日のことだから気にせずに、自分も3日に1度くらいは何かを踏むから、足の裏は傷だらけだと言う。そしてききょうは声を上げて、でも平気です、中宮様が楽しそうにお笑いになるのを見ると、嫌なことはみ~んな吹き飛んでしまいますゆえと、まひろにではなく、室内にいる女房達に聞かせるかのように話す。

定子のそばの女房がお見えになりましたと言い、御簾を下げようとするが、下げずともよいと定子は命じる。ききょうとまひろは定子の御前に座り、まひろが挨拶をすると、定子は話は聞いておる、少納言が心酔する友だそうだなと声を掛ける。まひろは自分こそ少納言様に沢山のことを教わっておりますと答え、またききょうは、まひろは和歌や漢文だけでなく、政にもお考えがあるようですと言い、定子は感心したようにほうと答える。そこへ帝が現れる。

お渡りになるとは伺っていなかったと言う定子に、会いたくなってしまったと帝。そして帝は定子の手を取り、部屋を出て行く。どうするべきか迷うまひろに、すぐお戻りだから少しお待ちになってとききょうは言い、まひろはどちらへいらしたのですかと尋ねてしまい、ききょうはそんなまひろに、お上と中宮様は思いご使命を担っておられますのでと答える。半ば納得したかのようなまひろ。そして帝と定子が再び現れる。

定子に少納言の友と紹介されたまひろは、正六位上前式部丞蔵人、藤原為時の娘にございますと挨拶をする。また女子ながら政に考えがあるそうにございますと定子に言われ、帝は、朕の政に申したきことがあれば申してみよと、まひろに声を掛ける。まひろは自分如きがお上のお考えに対し、何を申し上げることがありましょうと言うが、帝の、ここは表ではない、思うたままを申してみよとに言葉に、まひろは自分には夢があると答える。

そしてまひろは科挙について話し、全ての人が身分の壁を越せる機会がある国はすばらしいと思う、我が国にもそのような仕組みが整えばといつも夢見ておりましたと進言する。その方は『新楽府』を詠んだのかと帝は尋ね、まひろは
「高者 未だ必ずしも賢ならず
  下者 未だ必ずしも愚ならず」
と答える。身分の高低だけでは賢者か愚者かははかれぬと帝は言い、まひろも、下々が望みを持って高く学べば、世の中は活気づき、国もまた活気づきましょう、高貴な方々も、政をあだおろそかにはなされなくなりましょうと、目を輝かせて語る。

この言葉に帝は苦笑し、定子は言葉が過ぎると注意する。お許しをと詫びるまひろに、そなたの夢、覚えておこうと帝は前向きな姿勢を示し、畏れ多いとまひろは頭を下げる。するとそこへ伊周と隆家が現れたため、まひろとききょうは後ろへと下がる。伊周は仲良くやっておられるかを拝見しに来た、中宮様には皇子をお産みいただかねばなりませぬゆえとあけすけに言い、帝は、その方らも参内するようになって安堵したと話す。

伊周と隆家はその件を詫び、さらに伊周はまひろの方を見て、見慣れぬ顔にございますなと言う。ききょうは私の友で、今下がるところでございましたと答え、またまひろも、図らずも帝のおそばに侍することがかない、一代の誉れでございましたと答える。2人が去った後、隆家はあのような者をお近づけにならない方がよいと諫言するが。帝は面白い女子であったと口にするが、お召しになるなら女御になれるくらいの女子をと伊周は言う。

さらに伊周は言う、そうでなければ中宮様に皇子をお授けくださいませと。帝は伊周はそれしか申さぬのだなと苦笑し、今日は疲れたからと下がらせる。帝のみならず、定子も彼らにはうんざりしていた。そして部屋にいた為時はまひろから、除目は越前守をお望みになったらよろしいと伝える。宋人が多く来ており、父上なら宋の言葉もお話になれるし、他の誰よりもお国のために役立てると言うまひろに、途方もないことを申すな、大国の国司は五位以上でなければなれぬと為時。

その為時は正六位だった。しかし望みは大胆であるほど、お上の目にも留まるとまひろは言う。乱心しおったと思われるだけじゃと為時。しかし長年望みがかなえられていないのだから、ここは千尋の谷に飛び込むつもりで、大胆不敵な望みをとまひろは促し、のるかそるが身分の壁を乗り越えるのですと父にはっぱをかける。しかし為時はその気になれず、国司を望むなら淡路守くらいであろう、それでも正六位の自分には出過ぎた願いとかこち、宮中に参ったらなにかおかしくなったと娘に言う。

その夜伊周は、一条殿で斉信の妹の光子と逢瀬を交わしていた。中宮様の気持ちをどう思うか尋ねられ、光子は、入内したことのない者に、中宮様のお気持ちはわからないと返し、そなたとおる時以外はつまらぬことばかりと、伊周は不満を洩らす。

内裏では帝が道長に、政のことを考える女子のことを話していた。中宮様も女院様も左様であると言う道長に、そのような高貴な者ではない、前式部丞蔵人の娘、名はちひろ…まひろと申した、朕に向かって下々の中にいる優秀な者を登用すべきと申したと帝は言い、道長は驚く。如何したとの帝の問いに、お上に対し畏れ多いことを申すものだと思いましてと答える道長。さらに帝は、あの者が男であれば登用したいと思ったとも言う。

道長は帝の御前を退出して、除目の準備に取り掛かる。申文を開いては違うを連発しつつ、やっと為時の申文を見つけた道長は、淡路守と記されているのを目にする。その後為時は従五位下となり、礼を述べる。さらにそれは右大臣道長の推挙であることを聞かされる。国司にしてくださるということかといと。10年もの間放っておかれたのに、どうしたことかと為時は不思議がる。

まひろは尚も、国司なら越前だと父上は誰よりもお役に立てると言い、為時に諭される。国司になれると決まったわけでもない、ありがたく従五位下をいただくだけだと言う為時だが、翌日内裏に上がるに当たっての束帯がなかった。位が上がるなどということを考えていなかったと口にする為時に、まひろは宣孝に借りようと提案し、屋敷へ行くことにする。いとは為時にささやく、やはり右大臣様と姫様は何かありますねと。

為時も、此度のことはそうとしか思えぬと本音を言う。そして借り着の赤い束帯を身に着けた為時は、道長に対しお礼の言葉もない、悲田院で助けていただいた娘も息災にしている、何もかも右大臣様のおかげ、身命を賭してお仕え申し奉ると述べる。そしてまいろは縁先で琵琶を弾く。しかしその時弦が切れてしまう。

満月に群雲がかかっていた。一条殿では斉信が、帝からの賜り物を光子に渡す。光子はそれを受け取り、儼子(たけこ)は今お忍びがあってと兄に伝える。一方で光子を騎馬で訪ねて来た伊周は、一条殿の前に牛車が止まっているのを目にして、そのまま屋敷に戻り、面白くなさそうに、隆家の酒を瓶子から直接飲んだため、隆家から降られたのかと尋ねられる。あいつに裏切られるとは思わなかったと伊周は言う。

男から押しかけて来たのかも知れないと隆家は言うが、見事なしつらえの牛車であったと伊周は涙を流す。隆家は懲らしめようと兄に持ち掛けるが、伊周は、関白になれなかったために女まで俺を軽んじると弱気になり、隆家はとにかく誰だか確かめるだけでもいいと、今度は2人で一条殿へ押しかける。牛車はそのままそこに止まっていた。調子に乗った感のある隆家は弓に矢をつがえ、兄の制止も聞かず出て来た相手めがけて射る。

屋敷から出て来た僧形の人物は腰を抜かすが、隆家は脅しただけで当ててはいないと平気なものだった。しかし斉信が、院とその人物を読んだことから、伊周と隆家は、その人物が花山院であることを知る。これが長徳の変の発端となる。


若狭に宋人がやって来ます。彼らはその後越前の館へと向かいますが、このことを決めたのは道長でした。まひろの家を訪ねて来たききょうはそのことを話し、一方でまひろは科挙と政の話をします。ききょうは驚き、自分は中宮定子のそばにいられれば幸せと言いますが、まひろもききょうがそこまで慕う定子に会いたくなり、やがてその思いは実現します。しかしまひろはその時、廊下にわざと置かれた鋲を踏むことで内裏の現実を知り、一方で自分の話を帝が聞いてくれたことに感銘を受けます。

このまひろの科挙への関心、どこか江戸時代後期から幕末にかけての、西欧の議会や民主主義を知った人物、特に蘭学者がそういった体制に関心を寄せるのと、何かしら似たものを感じさせます。まひろも宣孝の話、さらには『新楽府』を通じた宋の社会が、実際は必ずしもそうでなかったとしても、彼女には非常に理想的に見えたのでしょう。そのため、宋人を受け入れた越前の国司を望むべきだと父為時に言います。その為時は10年間任官されておらず、今回で任官活動をやめるつもりでした。

しかし帝から政に関心を持つ女子について聞かされたこと、それがまひろであるらしいこと、さらに為時の申文を見たことなどから、道長は彼の官位を上げることにします。出世など思ってもいなかった為時は、宣孝から赤の束帯を借りて参内します。この辺りにこの人物の、あまり出世を望まない体質が垣間見えており、またいとが道長とまひろの関係を疑う一因とも取れる描写となっています。しかしここの部分、まひろの父である為時に便宜を図っている道長といった感があり、その点でまひろが望む科挙の実力主義とは異なるものがあります。

一方で伊周、妹の定子に皇子を産むようにせっつきます。これには帝も嫌な顔をします。彼が関白になるには、妹が皇子を産んで帝の外戚になるのが第一条件でした。そして斉信の妹光子と関係を持ちます。しかしこの光子には儼子という妹がおり、その妹へ忍んで来る人物がいました。そうとは知らず、伊周が一条殿に出向いたところ、立派な牛車が止まっており、てっきり自分は振られたと思った伊周はやけになります。そんな伊周に、どこか調子のよさそうな弟の隆家が、相手の素性を確かめようと持ち掛け、今度は2人で出かけます。

それも2人で出かけ、相手が誰であるのかを知るだけでよかったのに、隆家は弓に矢をつがえ、出て来た相手めがけて放ちます。その人物は花山院でした。かつての女御忯子の妹で、光子ではなく儼子が院の相手だったのです。しかし隆家の矢は院を大いに驚かせます。脅しただけだと隆家はすましたものですが、このままでは済まないようです。先日『鎌倉殿の13人』で八重が放った矢は、源平合戦の幕開けを告げるものとなりましたが、この場合の矢は、中関白家の没落を意味するものとなります。

しかし竜星涼さん、どうもキャラ設定が『ちむどんどん』のニーニーを思わせますね。あと紀行で、『御堂関白記』が紹介されれています。倫子が覗き込んだあの日記です。


飲み物-2種類のカクテル
[ 2024/05/15 03:00 ] 大河ドラマ | TB(-) | CM(-)

北九州と福岡と その19(それぞれの駅2)

「それぞれの駅」その2です。尚通し番号をつけていなかったので、前回分のタイトルを修正しています。

その前回分の終わりの方で、このように書いています。
「鉄道が開通してから今まで、色々と紆余曲折を経て今の姿があるわけですね」
ではここで、かつてのそれぞれの駅はどのような姿であったのか、それを見てみたいと思います。まず小倉駅ですが、こちらは今の駅舎のひとつ前、昭和から平成にかけての画像しか見つからなかったので、それを貼っておきます。色合いや雰囲気が如何にも昭和といった感じで、場所は今と同じです。

そして博多駅、これは今から見るとかなりレトロな、明治時代の駅舎です。ちょっと門司港駅を思わせもします。もちろんその当時は、こういう建築方法がひとつの流れではあったのでしょう。しかし列車の本数、乗降客数が多くなると同時に、この駅舎では対応しきれなくなり、より多くの人数をさばけるだけの、機能性のある駅舎が求められ、またもう少し南に移転することになります。

三代目小倉駅
昭和から平成にかけての小倉駅(Wikimedia)

明治の博多駅
明治時代の博多駅(Wikimedia)

そして駅前には、その土地ならではの像が立っていることが多いものです。駅前でなく、駅の内部というケースもあります。こちらの小倉祇園太鼓の像は屋内にあるもので、複合商業施設のセントシティに向かう途中にあり、ラグビーワールドカップやラグビーの試合がミクニワールドスタジアム北九州で行われる時は、各国代表ジャージーをまとっていたりもします。

一方博多駅前、こちらは黒田節(黒田武士)の像です。以前書いたことがありますが、かつてはもう少し高い位置にありました。今はカノピーの下で、イベントなどがあると目立たなくなってしまうのが残念です。しかしこの像は、「博多」エリアに於ける「福岡」であるとも言えます。実はこの像、いずれも母里太兵衛をモデルにしていると言われますが、福岡市中央区の光雲神社にもあります。市内に2つ像が、しかもうち1つは博多駅にあるため、福岡では黒田家家臣の中で、一番目に留まる存在であると言えるでしょう。

小倉駅祇園太鼓像
小倉駅祇園太鼓像

博多駅前黒田武士像
博多駅黒田節(武士)像

さてどちらもターミナル駅ということで、JRはもちろん、他の会社の路線への接続があります。

小倉駅は北九州モノレールで、小倉から企救丘(きくがおか)までを結んでいます。こちらは第3セクターです。元々は1つ先の平和通駅が小倉駅でしたが、その後モノレールがJR小倉駅までつながったため、かつての小倉駅は平和通駅となりました。

入口はコンコース内にあり、ブルーの文字で「モノレール」と表記されていて、殆どの交通系ICカードが利用できます。他の私鉄路線も市内を走っていますが、小倉駅発着ではありません。これに関しては、私鉄関連の投稿でご紹介したいと思います。

そして博多駅は福岡市地下鉄の2路線で、福岡市交通局が運行しています。よく「福岡市営地下鉄」と書かれたりしますが、正確には「福岡市」で営の字は入りません。1983年に空港線(当時の1号線)が博多まで延伸となり、2023年には七隈線が博多まで延伸されます。この七隈線延伸により、西区から1本で博多駅まで行けるようになったため、かなり混雑するようになり、福岡市交通局による増便が行われています。

尚地下鉄3路線のうち、箱崎線のみが博多駅には停車していません。こちらは貝塚で西鉄の電車(貝塚線)と接続していますが、箱崎線利用で博多駅まで行きたい場合、中洲川端駅下車で空港線に乗り換えるのが一番お勧めです。また博多駅には私鉄(西鉄)との接続はなく、空港線の天神駅、七隈線の天神南駅で下車して乗り換えるか、あるいは七隈線の薬院駅で乗り換えるかになります。

モノレール小倉駅
北九州モノレール小倉駅

博多駅前地下鉄入り口
博多駅前の地下鉄入口(Wikimedia)

[ 2024/05/14 04:00 ] その他 | TB(-) | CM(0)
プロフィール

aK

Author:aK
まず、一部の記事関連でレイアウトが崩れるようですので修復していますが、何かおかしな点があれば指摘していただけると幸いです。それから当ブログでは、相互リンクは受け付けておりませんので悪しからずご了承ください。

『西郷どん』復習の投稿をアップしている一方で、『鎌倉殿の13人』の感想も書いています。そしてパペットホームズの続編ですが、これも『鎌倉殿の13人』終了後に三谷氏にお願いしたいところです。

他にも国内外の文化や歴史、刑事ドラマについても、時々思い出したように書いています。ラグビー関連も週1またはそれ以上でアップしています。2019年、日本でのワールドカップで代表は見事ベスト8に進出し、2022年秋には強豪フランス代表、そしてイングランド代表との試合も予定されています。そして2023年は次のワールドカップ、今後さらに上を目指してほしいものです。

TopNTagCloud